〔岡田一実『光聴』特集〕
変化への意思
佐々木紺
生きているだけで人間は変化する。
一日一日だと変化に気づかないかもしれない。しかしたとえば30日後、3か月後、半年後1年2年…とフォローしていると、臓器も含む肉体も考え方も感じ方も、それぞれ前後でまったく同一であることは少ない。停滞し、一部は進化し、そして幾分はもしかすると標準から逸脱しながら変化しつづけている。
同一でない人間が変わり続ける環境に曝されながら書くものも、当然ながら同じではいられない。多くの俳人の句も前期・後期では異なり、時期ごとに変化する。わかってはいるのだが、それでも岡田一実の句の変化の速さには圧倒されてしまう。
3年前に出版された第三句集の「記憶における沼とその他の在処(以下、記憶沼と略)」と今回上梓された第四句集「光聴」は明らかに印象が異なる。物語のように編まれた「記憶沼」には虚の句が多く、過去や自分の内面に沈潜してゆくような構成だったのに対して、光聴はより「実」、具体に寄り、かつ表現の軽妙さを増している。変化は第三・第四句集の間で突然起こったものではない。編年体で書かれたこの句集の、第一章(2018年の句)と第三章(2020年の句)の間で、作者が徐々に新しい書き方を獲得してゆくことに多くの方は気づかれただろう。この変化については本書の後書きでも触れられており、「光聴」読書会(2021年5月3日、オンライン)の中でも繰り返し指摘されていた。本句集は、変化を隠すことなく見せてくれた一冊であるように思う。
まず前半から好きな句をいくつか引用する。
疎に椿咲かせて昏き木なりけり(P7,第一章)
句集の最初の句。疎に椿、という上5だけでも語順と助詞に目が奪われる。読者の眼にまず入るものはまばらに咲いた椿であり、次に背後にある椿の木全体を意識することになる。昏い木を背景にして色のある椿が浮かび上がってくるように感じられる。
菊吸や茎に微塵のひかり入れ(P27、第一章)
菊吸という虫を見たことがあるだろうか。ちなみに自分はなく、Googleで画像検索してしまった。この虫が菊やその他の草を齧りとり、穴をあけてゆくことはどちらかというと(少なくとも自分にとっては)軽い不快感を伴う光景であるにも関わらず、微塵のひかりを入れるという表現はどうにも美しく、不思議な読後感だ。
化粧ひして夏みじかさよ男の童(P16、第1章)
少年が化粧をしている(「男の童」なのでおそらく祭りのような場であることが想像される)、その中性的、刹那的な美しさが夏の短さに重ねられている。その夏の光の、もしくはその少年の、ほとんど暴力的なまでの輝き。化粧しているのは男の童なのにその二語は分断され、間に「夏みじかさよ」を挿入されている。語順の変更により、「短さ」が夏と男の童の双方にかかり、また化粧をしたことで少年と夏の輝きが増したかのように感じられる。
まづこゑに次に鶲に意識向く(P55、第二章)
第一章から三章への変化は、たとえばこの句に顕著だが、自分の意識や認識を細かく刻み、それを時系列で一つ一つ書き下したようなやり方である。この句では最初に声を聴覚で認識し、これは何の声だろうという一瞬が意識のなかにあり、次にそれが鳥のものであることがわかり、さらに鶲の声であると認識したときに、初めて鶲をその目に探しはじめる(もしくは視覚的に認識する)という、この認識の移り変わりの一瞬をこのように描いている。
可笑しいと思ふそれから初笑(P66,第三章)
も同様で、可笑しいと思う認識が自己のうちに兆し、そのあと実際に肉体的な笑いとして表出される、その瞬間までを刻んでいる。
この認識を刻んで表す方法は自分以外の事物への観察にも生かされており、たとえば
寒鴉まづ足に飛び羽に飛ぶ(P70,第三章)
ゑのころの風過ぎ行けば揺れもどり(P138,第三章))
のような句がそれであると思う。
新しい書き方に移行するだけでなく、後半においても
膳の酒の酔の尾ほのと梨を食む(P135,第三章)
のような言葉のフェティシズムを感じる句も残されている。句の前半が交互に漢字・ひらがなで表され、視覚的に楽しい。前半「の」の連続にいかにも酔いがうすく尾をひくようなほのかに鈍な感覚があり、それが下5の「梨を食む」のしゃりっとした爽やかさにかき消されていく。また、
薬眠の切れて白磁のごと寝待(P145,第三章)
一切のせせらぎが夜や冷まじく(P161,第三章)
のようなふっと澄んだ感覚の句もしっかりと芯にある。
初学者でなくキャリアが長く作品も評価されている人が、わずか数年の間にこれだけ書き方を変えられるのを見ると、勇気づけられる。自分も、そして誰もが、受動的に変わるのではなく自分の好きな方向に能動的に変わって行って良いのだと改めて思う。(同じ3年で自分は何を積み上げられたのだろうと愕然とするところもあるが。)
時を経てみるみるアップデートしていくこの人の句を、句集で追いかけられるのはなんて贅沢なことだろう。もしまだこの句集を未読の方がいらっしゃれば、ぜひ。
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本文内容は、佐々木紺の note より一部引用・改変しています。
また、「光聴」読書会(2021年5月3日、オンライン)の内容、特に主にクロストーク(生駒大祐、小川楓子、山岸由佳、岸本尚毅)の内容を一部参考にしています。アーカイブの書き起こしは2021年6月19日時点で無し。
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