2018-10-14

【句集を読む】文彩は快楽ぞ、ゆめ溺るな 岡田一実『記憶における沼とその他の在処』 堀下翔

【句集を読む】
文彩は快楽ぞ、ゆめ溺るな
岡田一実記憶における沼とその他の在処

堀下翔


岡田一実『記憶における沼とその他の在処』(青磁社、二〇一八)が刊行された。同書は岡田の第三句集。帯文を金原瑞人が、跋文を青木亮人がそれぞれ書いている。版元の青磁社といえば歌書のイメージが強いが、近年は長谷川櫂や「古志」関係者の句集を多く手掛けるほか、宇佐美魚目の実質的な全句集『魚目句集』(二〇一三)や、読売文学賞を受けた山口昭男『木簡』(二〇一七)など、渋い句集を出している出版社でもあり、一九七六年生まれというから若手に属する岡田がここに加わったという事実を加うれば、今後、この版元から句集を出す俳人は増えていくのだろうと想像される。



同書を貫くのは表現へのフェティシズムである。

火に花の影さざめきつ散りつ燃ゆ 一実

レトリックの鮮やかさたるや。レトリックというとふつう「修辞」が直訳になるだろうが、岡田の場合はしいて「文彩」といってみたくもなるというものだ(俳句は文章なのかと切れの専門家からは怒られそうだが、ま、それは言葉のアヤということで……)。掲出句、五七五の定型にぴたりと言葉を収めようとしながら、しかしその中に別なる韻律をかすかに聞き、みじっかな名詞を周到に散らすさまは、まさに俳句をあやどるという趣きである。

韻律だけではない。表現の凝りようといったらどうだ。「火に」の解釈が難しいが、〈火によって〉という意味と理解した。至近距離の火に照らされた花(桜と理解しないで詩語としての「花」と取った方が自然)が影をなし、その影によって花の焼失を知るという句である。「つ」は並列の助動詞で、掲出句では「さざめく」と「散る」とをとっているが、「散る」と「燃ゆ」とのセットではないという点には留意したい。ほむらにさらされた一花が火となり焼け失せる寸前、わずかひととき花の形のまま火に犯されるその微妙な瞬間が表現されているのである。その始終を、「影」をメディアにして見届けるという曲折にもフェチみがある。

集中にはこのように技巧を凝らした句が多く収められている。快楽的なまでに凝ろうとした句の洪水である。わかる人には一読電光のごとく通ずることで、通じなければ通じないことだけれど、身の丈よりも高いところにある言い回しが、修練によってか、はたまた僥倖によってか、わがものとなる瞬間には、快楽が伴うのである。ただし、正直に言えばこの句集の句のすべてが高い水準の文彩を誇っているわけではない。日本語の用法としては疑問が残る、こなれない表現は、多からぬ割合ではあるが散見される。たとえば次に挙げる句などはどうだろうか。

淑気満つ球と接する一点に 一実

「満つ」とは、充足し、ゆきわたり、あふれんばかりになることである。高く上がった何かのスポーツのボールだけが空にある気持ちのよい絵面はたしかに「淑気」につきづきしくはあるが、「一点に満つ」ということはあるだろうか。「に」というのは、いみじくも句中にある通り一点を指示する格助詞である。「満つ」とはそぐわないのではないだろうか。「一点より満つ」(満ちてゆく)というのなら理解できるが。

海を浮く破墨の島や梅実る 同

「破墨」は水彩画の技巧のことだから、島は描画されたものか、ないしは水墨で描かれたように見える島、ということだろう。問題は「海を浮く」である。格助詞「を」にはある距離の空間を指示する用法があり――辞書的な呼び方は定まっていないようだが私は「経路の〈を〉」と呼んでいる――、この句の「を」も、「島」が浮いている「海」の広さをこの用法のニュアンスによって表現したものと思しい。しかし経路の「を」は、たとえば漱石の『草枕』の高名な冒頭部〈山路を登りながら、かう考へた〉や司馬遼太郎の代表的紀行文『街道をゆく』シリーズの表題などに見えるように、移動の動詞をとる場合がほとんどである。『日本国語大辞典』も、「を」の当該用法について「移動動作が成り立つ空間的な状況や周りの状況を表わす」と定義づけ、さらに枝部に「移動動作が行なわれる範囲を表わす」「通過する場所を表わす」「出発する場所を表わす」「動作が行なわれる周りの状況を表わす」の四つを挙げている。「浮く」という動詞には上昇運動の意味もあるがこの場合は「浮きあがってとどまっている」という状態を指すから、移動にまつわる空間・状況には当たるまい。四つ目の「動作が行なわれる周りの状況を表わす」に分類できそうにも見えるが、日国が挙げている用例は、

*万葉集〔8C後〕八・八四六「霞立つ長き春日乎(ヲ)かざせれどいやなつかしき梅の花かも〈小野淡理〉」
*俳諧・曠野〔1689〕二・仲春「あかつきをむつかしさうに鳴蛙〈越人〉」
*静物〔1960〕〈庄野潤三〉一二「向うから雨の中を傘なしで、トルコ帽をかぶって歩いて来るお祖父さんに会った」
というもの。「春日」「雨の中」という立体的な空間に満ちているものと「あかつき」という概念的に万物に訪れるもののみが例示されており、「海」の水面のように平面的なものに関する用例はないのだ。日国ほどの辞書が「を」という基本語において遺漏を犯すとは思いがたいので(いや、辞書を疑うという態度は当然大切にしなければならないのであるが……)「海を浮く」はちと厳しいんではないだろうか。だいいち、「海を浮く」などという言い方は日常聞かぬものだ。なぜ「海に浮く」ではないのか。昨今、現代俳句協会が「『を』をめぐる」という勉強会(当年三月二五日実施)を開くほど経路の格助詞「を」が愛好されるようになっているが(もっともこの勉強会は「を」の流行に直面して用法を深く理解するという意味合いを持っていたようではある)、なんでもかんでも「を」をつけられるわけではないと私は危惧している。

些末なことにこだわっているように見えるかもしれない。しかし、岡田一実は才に乏しい作者ではない。面白い句を書く作者なればこそ、つまらない言葉遣いをすることを私は惜しむ。集中、次に挙げるように、優れた表現水準を達成している句は少なくない。

枝を移る鳥も一樹の柳かな 一実

夢に見る雨も卯の花腐しかな 同

瓜ふたつ違ふかたちの並びけり 同

熟田津の今は月待つ陸の栄 同(引用者註:「陸」に「くが」、「栄」に「はえ」とルビ)

田作りの艶に冷えゐて食はせ合ふ 同

菫野のはや打捨ての自撮り棒 同

跋文で青木が〈枝を移る鳥も一樹の柳かな〉を引き合いに出して岡田の句の特徴の一つを「複数の事物が重なるというより溶けあう風情」と説明しているが、この句の場合具体的に言えば、柳から発った鳥の姿に柳の様相を幻視しているということになる。この感覚を言語化しているのが係助詞「も」であり、〈夢に見る雨も卯の花腐しかな〉も同様の叙法である。

瓜ふたつ違ふかたちの並びけり〉は機知の句で、こういう句も岡田にはある。言うまでもないことだが、「瓜ふたつ」という慣用句とはうらはらに実際に並べてみると違う形をしているよね、という句である。引用というのも立派な修辞だから取り上げてみた次第。ただそれだけといってしまえばそれまでだが、「瓜ふたつ」の慣用句が通用する以上、たいがいの世間人にとっては瓜などどれも似たり寄ったりなのであって、瓜の大きさや凹凸、色味などにかすかな差異を発見して喜んでいるのは生産者か俳人くらいのものである。してみるとこれは、私は違いが分かる人間なのだぞ、と表明(自虐?)している句にも見える。

〈瓜ふたつ〉が典拠の意味合いをずらしてみせた句であるのに対して〈熟田津の今は月待つ陸の栄〉は典拠の世界を借用した句。「熟田津」といえば『万葉集』が収める額田王の〈熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな〉の歌で、掲出句は「熟田津」という地名と「月待つ」という状況とを借用している。熱田津は松山道後にあったとされる船着場で、額田王の歌は当時、百済の要請を受けた斉明帝の命で兵士らが四国経由で新羅討伐に向かうのに際して、そのさきゆきの安全を祈って詠まれたものである。この折、斉明帝も四国に行幸したらしい。松山市在住の岡田らしい題材である。岡田の句の世界は額田王の歌と同一であるといってよいだろう。潮の流れがよくなるのを待っている間、つねは何の変哲もない船着場が、大勢の兵士らによってにぎわっている。兵士が絡むので「栄」には「はなやぎ」だけではなく「栄誉」の口吻も一抹ある。高名な引き歌を損なわずして「陸の栄」という典雅な一語を嵌め込んだのがこの句のオリジナリティである。

田作りの艶に冷えゐて食はせ合ふ〉の「艶に」は形容動詞「艶(えん)なり」の連用形だろうか。物に対して用いると「つややか」という意味になるので、濃厚な汁を吸って照る田作りの質感がよく出ていると思うが、連用形なので厳密にいえば「田作り」にかかっているのではなく、「冷えゐて」を修飾していることになる。年のうちにこしらえて冷蔵庫に入れてあったのだろうか、その冷え方が「艶」なのである。ただし「艶なり」といえば人事に対して、対象があでやかであるという意味で用いる言葉でもある。田作りを一緒に食べるというようなことを「食はせ合ふ」と、まるでかたみに「あ~ん♡」しているように表現しているのは、むろん、これも「艶なり」ということなのである。

菫野のはや打捨ての自撮り棒〉は池田澄子の〈カメラ構えて彼は菫を踏んでいる〉(『ゆく船』ふらんす堂、二〇〇〇)の変奏。池田の句は自選句にも挙がっている(〈シリーズ自句自解ベスト100〉『池田澄子』ふらんす堂、二〇一〇)ので代表句の一つといっていいだろう。この句の世界に岡田は昨今普及した「自撮り棒」を持ち込んだ。「自撮り棒」とは、棒の先にスマートフォンを固定し、手元のスウィッチを押すとカメラ機能のシャッターを押せる仕組みの器具で、自分の手で撮影するよりも画角が広くなるため、往来の他人に頼まずとも景物と自分の顔とを一枚の写真に収めることができる。若者文化には疎いので「自撮り棒」の人気が下火になりつつあるのかは知らないが、岡田の句は「はや」ということなので、その人気はあっという間だったね、というような感じだろうか。池田の句の「カメラ」に対するまなざしとの兼ね合いからいうと、岡田にとって「自撮り棒」とは忌々しいものであったらしい。ついでに言えば、この句の菫もまた踏み荒らされているに違いない。「自撮り」とセットで疎ましがられるのが「インスタ映え」(写真投稿SNS「インスタグラム」において見栄えがする写真、および撮影行為、ないしは撮影動機)で、「インスタ映え」のために花壇荒らしや不法侵入が相次いだために報道されることもしばしばである。とすれば「菫野」にも多分にもれず「自撮り棒」をかかげたインスタグラマーが押し寄せてきたのである。

なんだか軽佻浮薄に若者言葉を多用してしまった。余談だが、俳人たちの間ではこういう目新しい素材を俳句に詠むと白眼視されることも多いわけで、実際たいていそういう句は軽薄に堕しているケースが多いように思うが、掲出句の場合、「はや打捨て」という古典的な言い方によってそれは避けられているように思う。

以上、雑駁ながら数句味読してみた。文彩は快楽だと述べたが、その文彩が成功したとき、快楽は読者にまで及ぶ。その精度を高めることが岡田の進む道なのではないかと私は期待する。

稿を終える前に私好みの句をもう少し挙げておこう。

碁石ごと運ぶ碁盤や梅月夜 一実

碁を打っていた二人がいたのか、一人で定石をなぞっていたのか、おぼろなる春の夜のこと、馥郁たる梅の香がただよいもして、梅の月見と洒落込もうではないかとところを移しているのである。「碁石ごと」とは石が動かぬように、の意。実感のある句ではあるが、この風流人に〈春風や碁盤の上の置手紙〉の井月を仮託してみたくもなる。

龍天に昇るに顎の一途かな 同

天に向かって一途なのは龍そのものだが、その懸命さに顔は前へ前へと突き出し、とりわけ飛び出た顎がその尖端にある。空想の季語を写生的なまなざしで視ようとした句だが、何か故事を踏まえていそうでもある。『韓非子』「説難」の「逆鱗」の故事を利かせて読むのはどうだろう。よく知られる「逆鱗」だが、故事の原典によると、これは龍の顎の下にあるものなのだ(原文では「喉下」だが「顎」と理解する説も散見されるため私もこれに従っている)。逆鱗をその下に隠す「顎」は、気高い龍にとって特に尊厳を秘めた部位なのだ。

キネマ見ればカラアに動く子規忌かな 同

妙にぎこちない文体ではあるが名詞の古めかしさと呼応しているのでこれはわざとだろう。「キネマ」「カラア」という大時代な言い回しを見れば、子規も総天然色映画に間に合ったのかとつい誤解してしまうが、映画に色がついたのは一九三〇年代に入ってからのこと、一九〇二年(明治三五)に没した子規は見ていない。そもそも日本で活動写真が一般化したのは明治三十年代初頭のことであって、病臥の子規はそれとて見ていたかどうか。だから掲出句は子規が間に合わなかった色のある映画を見て、子規死没の世の遠さを痛感している句。あるいは、生き返った子規が「キネマにカラアがついておるぞ」などと驚いているのかもしれない。「カラアに映る」ではなくて「カラアに動く」なので、写真が動いていること自体をも喜び、驚いているようでもあるから。

映画と俳句といえば新興俳句運動における戦火想望俳句がニュース映画(モノクロ)によって育まれたという話もある。かように映画というものはある時期の文化芸術を代表する形式だった。子規が映画を見たらなんと言うだろうかと、批評魔だった子規が偲ばれもする。

( 了 )


7 comments:

三島ゆかり さんのコメント...

「海を浮く破墨の島や梅実る」の「を」ですが、何故「海に浮く」ではなくあえて日常聞かぬ「海を浮く」という措辞を作者が選択したのかを読むのが鑑賞というものではないでしょうか。たった一音の助詞の違いですが、舌頭千転周到な選択により、単なる空間把握ではなく、描かれたときからそうあり続けた眼前の水墨画の歴史さえも、この「を」は静かに奥深く表現しているように感じました。時間の経過は「梅実る」という季語の選択にも響き合っています。

 私には、句会ならいざ知らず、練り上げられた句集中の作品に対し「つまらない言葉遣い」として一蹴することなど到底できません。

きか さんのコメント...

「海を浮く破墨の島や梅実る」という句の解釈が問題になっていますが、私の解釈も翔さんとは少し違います。以下、この句の良し悪しでなく、解釈上のポイントです。
1)「浮く」を「浮きあがってとどまっている」と解釈しているのが先ず問題。デジタル大辞泉にも「物が底や地面などから離れて水面や空中などに存在する」以外に「しっかり固定しない状態になる。落ち着かず、ぐらつく」「心がうわついている」という意味が載っているように、「浮く」に「とどまっている」ニュアンスは基本的にない。浮遊、浮動という言葉があるくらい。たゆたっていたり、ただよっていたりするニュアンス。海だから、なおさら。島そのものが大海原の波の上に移動し、ぐらつき、たゆたっている(ように見える)イメージを受ける。とど(止/留)まるのと反対。
2)そして、その「動いている」説を支持しているのが「を」であり、その動きを効果的にしているのが「破墨」の喩。つまり、「を」であるからこそ、動きを一層感じなくてはならない。
3)逆に、島を一か所に固定されたものとする科学的観点でこの句を解釈しようとすると、「浮く」になぜか「とどまっている」という元来無いニュアンスを覚え、「を」でなく「に」であるべきだと感じてしまうのだろう。これは解釈として疑問。
4)また、「浮く」であって「浮かぶ」でないところもポイント。どちらも揺蕩うイメージがある上、辞書にあるように「浮く」は「浮力などが働いて底や地面から離れて上へ移動することに表現の重点があ」って、「移動」要素が強い語彙であることにも注目。

三島ゆかり さんのコメント...

きかさん、ありがとうございます。きかさんの読みと私の読みは「破墨」を喩として捉えるか本当に水墨画を見ているものとして捉えるのかで大きな違いはありますが、いずれにしても作品に書かれた通り読もうとしていることには変わりありません。

 現実社会での堀下翔さんと岡田一実さんの交流関係がどのようなものかは私は知りません。もしかすると思ったことをズバズバ言い合える関係なのかも知れませんが、堀下さんの記事だけ読むと「俺に理解できない句は作った奴が悪い」と言っているようにしか見えません。「ゆめ溺るな」という上から目線の態度で句に接していて楽しいのでしょうか。
 「淑気満つ球と接する一点に」について「高く上がった何かのスポーツのボールだけが空にある気持ちのよい絵面」という想定で「に」について指摘されていますが、「に」がふさわしい想定をご自分で想像をめぐらしたりしないのでしょうか。例えば初日の出がまさに水平線から顔を出さんとする荘厳な瞬間、そのとき観るものの意識において淑気がどこにあるか…。そういう「に」がふさわしい光景を句から読み取ろうとしないのでしょうか。

などと感じました、僭越ながら。

horishita さんのコメント...

三島さま、きかさま。

コメントありがとうございます。

まず争点にある〈海を浮く破墨の島や梅実る〉(一実)の解釈について確認です。三島説では「破墨の島」を水墨画中の「島」と理解し、きか説では隠喩と理解し、大元の私の文章においては、どちらか確定できないため確定はせず、という立場でした。三島説は〈単なる空間把握ではなく、描かれたときからそうあり続けた眼前の水墨画の歴史さえも、この「を」は静かに奥深く表現しているように感じました。時間の経過は「梅実る」という季語の選択にも響き合っています〉とのことで、「空間」と「歴史」(時間)との両方を表明するのが「を」である、ということかと思います。「梅実る」の位置は、水墨画の近くで、という光景ということでよろしいでしょうか。一方きか説の場合、現実の島と解釈することによって「海」の動きに対して「を」がありうるのだ、との主旨だと理解しました。

三島説の場合、「空間把握」として「海を浮く」が成立する根拠が不明瞭です。きかさんのように語に即した解説をお願いいたしたいところです。また「歴史」(時間)の表現としての役割も「を」は果たしているのだ、という点についてですが、たしかに格助詞「を」には時間の経過を表す用法があります。しかしそれは、

*万葉集〔8C後〕一〇・二一三九「ぬばたまの夜渡る雁はおほほしく幾夜乎(ヲ)経てかおのが名を告る〈作者未詳〉」
*源氏物語〔1001〜14頃〕須磨「はかばかしうものをものたまひあはすべき人しなければ、知らぬ国の心地して、いと埋れいたく、いかで年月を過ぐさましと思しやらる」

における「夜」「月日」のように、時間に関わる体言を受ける場合のことではないでしょうか。あるいは、日国で「移動動作が成り立つ空間的な状況や周りの状況を表わす」と定義づけられる用法において、その移動に掛った時間を、読者側が感じ取るということは可能かもしれません。やはり、「空間把握」の「を」の用法として「海が浮く」がありうるのだという根拠を知りたいです。そのうえで再検討したいと思います。

きか説においては「浮く」が持つ不定的なニュアンスが一つの論点になっていました。〈「浮く」になぜか「とどまっている」という元来無いニュアンスを覚え〉とのことですが、私のこの解釈には、「浮く」に時制や相が差し挟まれていないという点が大きく関わっています。日本語の用言に時制や相が付属していない場合、それが恒常的なものであるという意味になることがあります。この性質が見える古語を現代語に訳す際、「~シテイル」と表現することが多々あるわけです。なお「浮く」にはおっしゃる通り不定的のニュアンスがありますが、このニュアンスを含まない、「物事が奥底の方から表面に出てくる。また、ある基準より上の状態にいく」(日国「浮く」[二])の用法があります。この語義をとってきかさんご指摘の通り科学的に理解したのが私の訳出です。律儀に訳すと「島が海面に出てきている」になりますが、私の文章自体の文脈上、「出てきている」を「とどまっている」と意訳したという次第です。それほど畏まった文章ではないので大丈夫だろうという判断ですが、いささか筆が滑ったのは事実かもしれません。この点についてはお詫びし、辞書的な訳出である「島が海面に出てきている」に訂正したいと思います。なお、この語義で解釈する場合、「島」が現実であろうと水墨画であろうと問題ないというのは確認させていただきます。

もう一点きか説について、前後が逆転してしまいましたが、〈2その「動いている」説を支持しているのが「を」であり、その動きを効果的にしているのが「破墨」の喩。つまり、「を」であるからこそ、動きを一層感じなくてはならない〉という、「を」がありうるという根拠の部分について触れます。この解釈では「浮く」が〈ぐらつき、たゆたっている(ように見える)イメージ〉と位置付けられていますが、いみじくも〈(ようにみえる)〉という表現をお取りになっている通り、島はたゆたいませんから、比喩であることを明示する表現が句中になければ解釈が困難に陥ると思います。むろん、隠喩という可能性はあるわけですが、私の文章が話題にしているのは「こなれない表現」についてですから、伝達性の低い比喩は「こなれない」の部類に入るでしょう。ただしこれは個々の言語感覚や詩歌の解釈の技量の差異にすぎませんから、私はそう判断する、と申し上げるのみです。きかさんの解釈はありうべきものとして当然尊重します。

また三島さんの二つ目のご投稿にある〈淑気満つ球と接する一点に〉の解釈についてです。〈例えば初日の出がまさに水平線から顔を出さんとする荘厳な瞬間、そのとき観るものの意識において淑気がどこにあるか…〉とのことで、初日の出という光景を想定しなかったのはお恥ずかしい限りですが、この解釈において「満つ」がいかなる光景として解釈されているのかいまひとつわかりません。「意識」の中で、すなわち感覚的に「淑気満つ」という感慨を得たということでしょうか? この解釈が〈「に」がふさわしい想定〉であるところの理由、すなわち「一点に満つ」という言い方が成立する理由も判然としません。

長々と書いてしまいましたが、三島さんがおっしゃりたかったのは、むしろ〈練り上げられた句集中の作品に対し「つまらない言葉遣い」として一蹴することなど到底できません〉〈「俺に理解できない句は作った奴が悪い」と言っているようにしか見えません。「ゆめ溺るな」という上から目線の態度で句に接していて楽しいのでしょうか〉という、私の文章の態度の問題ではないかと思います。これは誤解です。「俺に理解できない句は作った奴が悪い」とは深読みが過ぎるのではないでしょうか。また、『記憶沼』を〈練り上げられた句集〉とは言い切れないという私の認識は、ご理解いただけなかったでしょうか。

宗田理の『ぼくらの七日間戦争』には、教師が「鉄は熱いうちに打て」を「鉄は熱いうちに叩け」と言って読者の失笑を誘うシーンがあったかと思います。日本語には、長い歴史の中で培われてきた語と語の慣用的なつながりがあります。自立語同士の結びつきや、ある自立語に対してどの付属語がありうるのか、といったつながりです。件の二例はこの点において「こなれない」と私が判断したものです。判断の妥当性については、諸々の辞書や索引類を手掛かりに万全を期したつもりです(このコメントがそうであるように、反論に応じないというものでもありません)。むろん、こなれていなければ誤りというつもりは全くありません。私は文中に一度も「誤り」であると断言はしていないはずです。ただ、こなれているかどうかです。加藤郁乎のごとく、日本語の用法を破壊することで詩化を図ろうとするタイプならこのような形の句集評は書きませんが、句集を通読する限り、岡田さんはそのタイプの作家ではなくむしろ、既存の文彩技術を現代俳句に活かそうとする、温故知新の志向があるように見受けたので、その価値観に寄り添って草しました。

〈「ゆめ溺るな」という上から目線の態度で句に接していて楽しいのでしょうか〉とのことですが、楽しかろうはずはありません。しかしこの句集評において、文彩技術の高さを指摘するにあたって、それが成功している句だけを取り上げたとしたら、私にとって納得のできない句がある以上、同じ認識を持った読者からは私の眼が疑われます。納得のできない句を取り上げないとすれば、句集評自体の発表を控えることになります。それには惜しい句集だったということです。

ただし、仰る通り表題は「上から目線」と取られてしかたのないものだったかもしれません。「溺れ」ていない句を鑑賞する都合上、それに対置されうる「溺れ」ている句の存在を示唆するというのが本文の構成ですが、表題を額面通りに取れば「溺れ」ている句をあげつらうような意図に見えます。熟慮が及ばずお恥ずかしいです。「つまらない」についても同様です。これは「面白い句」との対句として出てきた言葉ですが、つまり比喩的な言い回しですが、額面通りの意味がおろそかになっていました。

以上雑駁ながら申し上げます。もし回答に漏れたご指摘がございましたらすみません。

三島ゆかり さんのコメント...

 お返事ありがとうございます。逐語的に反応してもすれ違いになりそうなので、自分のことばで返信します。「こなれない」というならこの句集は巻頭の一句目からそうとう変です。
 
  火蛾は火に裸婦は素描に影となる 一実

 対句であり同じ結語に着地しながらも「火蛾は火に/影となる」と「裸婦は素描に/影となる」とで「影となる」のありようが全然違う、という…。それが、じゃあ、下手くそだからそうなのかというと、もちろんそうではなく、作者の旺盛な俳句的冒険によって既成の表現から一歩も二歩も踏み出して「こなれない」のですから、私だったらこれはもう断然、作者に付き合います。俳句の表現というのは練り上げたら、こなれるものなのでしょうか。本句集の場合、作者が積極的にこなれないように練り上げているような気がします。
 動詞によって、直前の助詞として「を」を取り得なかったり、「に」を取り得なかったりすることは、ふつうの日本語として承知しています。が、ことは俳句です。いくつかの句で作者は意図的に「を」と「に」をあえて取り替えるようなやり方で、言い尽くせないなにかを表現しようとしています。「海を浮く破墨の島や梅実る」もそんな一句です。芭蕉が倒装法で「鐘消えて花の香は撞く夕べかな」や「海暮れて鴨の声ほのかに白し」をものしたときに通ずる気合いをそこに感じます。芭蕉が「花の香は消えて鐘撞く夕べかな」ではなくあえて「鐘消えて花の香は撞く夕べかな」と詠んだように、「海に浮く破墨の島や梅実る」ではただの叙述に過ぎないと、あえて「海を浮く破墨の島や梅実る」としたのではないか。それは、俳句的な逸脱ですから、もはや日国に載っているとか載っていないとか、そういうステージではありません。作者にとってと同様、読者にとってもこれまでの経験を総動員しないと説明しようのない何かです。それをあえて説明したのが、4:22のコメントです。単に空間的な位置関係から逸脱した浮遊感。そこに私は時間的な浮遊感を感じ取りました。

 ある水準に達している句集について、もし自分の読解が及ばなければ、私なら「納得できない」とその句を批判するのではなく、まず人知れず不明を恥じます。「同じ認識を持った読者からは私の眼が疑われます」という自信と沽券が入り交じった複雑な危機感は持ち合わせていません。今まさに繰り返し読んでいる大好きな句集の中の句が、「日本語の用法としては疑問が残る、こなれない表現は、多からぬ割合ではあるが散見される」と、ばさばさ斬られて行くのが偲びなくコメントさせて頂いたのが、発端です。失礼致しました。

きか さんのコメント...

翔さん、ご返事感謝。

まず、私が重要だと思うのは、「浮く」という語彙である時点で「を」を使うのに文法上の支障を感じない事です。移動を示唆する言葉ですから。科学的にどうだの、喩だの、絵だの、そういう事とは関係ないと思います。(「を」が最適かどうかという問題とは別です)

第二に、「比喩であることを明示する表現が句中になければ解釈が困難に陥る」と書かれている点ですが、「に」でも「を」でも、島が科学的に「浮く」ことはないので(翔さん曰く「島はたゆたいませんから」)、島が「浮く」とあれば喩か絵かなのは(とりあえず、科学的に浮いているなどと主張していないことは)明快だと思います。すなわち、島が「浮く」とあればそのままの科学的な意味でないのは、大半の読者に伝わると思います。(句は酷くなりますが)「海を浮く」でなく「空を飛ぶ」でも、比喩である事を明示する表現は要らないと思います。なお、喩か絵かどちらかという問題は残りますが、私はどちらでも良いと思います(喩の方が壮大で好きですが)。

ですから、これらの点では「こなれない表現」だとは思いません。その上で、「を」がよいのか、「に」がよいのか、それとも別の表現がよいのか、という問題になります。私が同じ内容を句にするなら別の表現をとるでしょうが、それは翔さんが挙げられた理由で「こなれない表現」だと思ったからではありません。

私自身は三島さんが怒っていた理由とは無関係に、翔さんのこの句の解釈で気になったので(「を」と使ったこと自体はそんなに「こなれていない表現」ではないと弁護したかったので)コメントした次第です。もちろん、貴見は尊重しております。また、貴文章は全体的には面白く読めましたし、勉強にもなりました。

三島さんが怒っていた理由については、(私も)翔さんにしてはやや不用意な書き方だと思いましたが、その点については、お二人の間で話が進んだようですので、私が付け加えることはないです。

お二人とはまたリアルでお目にかかりたく。
よき一週間をお過ごしください。

horishita さんのコメント...

三島さん、きかさん

再度のお返事ありがとうございます。

三島さん>私と三島さんとの間には『記憶沼』が〈ある水準に達している句集〉かどうかという認識が大きく異なると思しく、〈ある水準に達している句集〉であるという前提に立った三島さんの反論には応えにくいという思いがあります。〈下手くそだからそうなのかというと、もちろんそうではなく、作者の旺盛な俳句的冒険によって既成の表現から一歩も二歩も踏み出して「こなれない」〉とのことですが、既成の表現から踏み出して言語を異化することの効果は私とて承知していますし、芭蕉の例には肯じます。しかし、『記憶沼』のすべての句がそれに成功しているとは思いがたいということです。異化の手さばきが無遠慮な句集という印象を私はぬぐうことができません。ただし「人知れず不明を恥じ」る謙虚さに欠けているというご批判は、今後も含めた文章の執筆態度の問題として、甘んじて受けようと思います。仰ってくださりありがとうございます。

きかさん>〈「浮く」という語彙である時点で「を」を使うのに文法上の支障を感じない〉とのこと、私の認識としては正確には「海を浮く島」という表現がありうるのかという点ですが、とまれ、これを許容する言語感覚があるのかと知り、いささか勇み足であったと恥じるばかりです。なぜこれがありうるのかということは、今後も日本語に触れながら考えていこうと思います。

かさねがさね、コメントありがとうございました。