【空へゆく階段】№43
俳句探訪:詩と散文の違い
田中裕明
田中裕明
「青」1984年10号
詩と散文の違いについていままでとは別の場所からながめて考えてみたい。たとえば散文の伝達性に対して詩は伝達性がないとか伝達しようとする意志を拒否する部分があるとか言ってきたけれどももっと単純にその長さから考えようと思うのである。とっかかりは散文は長く詩は短かいというようなことでもいい。確かにそうである。話のもってゆきようからすれば当然ここでしかしと言って字数の多さが長さではないと言わねばならない。
読むほうから言えばたとえば短歌など一度に何首くらい読めるものか。万葉集はとても一気に読みとおすことなどできたものではない。新古今でも春の歌だけで二巻一七四首を数えるのだから一度に読むのはむずかしい。
見渡せば山もと霞むみなせ川夕べは秋と何思ひけん 太上天皇
霞立つすゑの松山ほのぼのと浪にはなるるよこ雲の空 藤原家隆朝臣
春の夜の夢の浮橋とだえして嶺にわかるるよこ雲のそら 藤原定家朝臣
こんなふうに三首がならんでいればそれだけでほかにはもう読めなくなる。読むことはつまり言葉を精神にひびかせることであって精神は疲れを知らなくても言葉と精神の媒介は肉体であって肉体は精神の無限の運動に耐えることはできない。それは言葉に力があるからであって肉体がいくら疲れても読むのをやめなければ言葉は意味を失う。
それならば詩をたくさん読むことはできないから詩の言葉は散文の言葉よりも力があるということになるのだろうか。読みつづけることができないのは肉体のほうであって精神は疲れを知らないと書いた。だいたい力のある言葉が読み手をつかれさせると考えるほうがおかしいのであってこれは強い酒と同じで読むほうを力づけるものでなければならない。それならば詩の言葉に酔うというのもわかる。同じことは散文でも言えるはずであって詩の言葉と散文の言葉がその力強さにおいてそれほど違うとは考えにくい。
それは音がない世界だった。その山と山の間の小道が一つ一つ辿って行けて通る人もなくて静り返り、川も音もなく流れてゐる感じでその代りに月明りに白く光った。どこかに人家もなければならない。併しその山の懐に一村落があってそこで囲炉裏の火を見詰めてゐるのでも、或はそれまでゐた広間で酒の紅に夕日の温みを思い出してゐるのでもそれを区別することはない気持で内山は今そこの山頂にゐた。確かに一つの山を他所に移してその跡に梢が鳴る森を風の中に奥のももしそれが出来れば杯を置いてこれに銚子の酒を注ぐのと変るものでなくて内山はそれが出来るのを感じてそれをする代りに杯を取り上げた。或はそうした積りでゐてその気持から自分が山になり、三山が月明りに向き合ってゐることを察した。それが山ならば杯を取り上げたりしない。併し山の落ち着きで杯を手を出すならばそこに蹲るものは山であってもし見る眼を持ったものがいればその眼にそれは山としか映らない筈である。
書き写していればきりのない文章というのがあって書き写すとは読んでその後で書くにではなく読みながら書くことだから力のある言葉に酔うのも楽曲にあわせて舞うようなものかもしれない。それでこそ言葉が生きている。
もう一度散文の長さについてもどれば散文の長さは次に来る言葉があらかじめ決められていないとは言えないからその長さに耐えることができるのではないだろうか。詩ではこうはゆけなくて次に何という言葉があらわれるのかわからない言葉のあつまりをそんなに長く読んでいられるものではないし書くほうも息がつづかない。
詩の最初の一行は天上から与えられると言ったのが誰だったか確かにそんな感じもすると思えてそう書きつけたこともあったけれども散文ではそういうことはないということにしておきたい。あるいは散文でも次に来る言葉が皆目検討がつかないような種類のものがあることはわかっていてもここでは散文の長さについて説明するためにそうしておく。そしてこれはたいしてまちがっていないという何か信ずるに足る感触があって言葉が頭の中でとびはねているようなものが詩だと考えるならば考えるほうがどうかしている。
書き手の立場から散文と詩の長さのちがいについて考えてみることもできる。読むほうから言えば言葉は詩である言葉であり散文である言葉であるわけだけれどもペンを持っていれば次に書く言葉が詩であったり散文である言葉であったりはしない。詩を書こうと思わないとか散文を書こうとはしないと言うのではなしにもちろん散文を書こうとして散文を書く。だから書いたものが散文になるわけでもなくてたとえば書き手がそのときに散文は詩のくずれたものだとか考えていたとしたらそれは散文でもない。
或ることがらを説明する目的で書かれたものが散文であるならば読んで理解されれば散文の用はなくなるのだろうか。詩がことがらを説明するものでないことは誰もが知っていても散文がその内容を伝達しおえたときに散文でなくなるとは思えない。反対に詩はいつまでたっても理解されるものではなくそれは長さにもよるのだとしておけばあと話をすすめるのに都合はよくても長さによらないことは誰でもわかる。
ゆがみて蓋のあはぬ半櫃 凡兆
草庵に暫く居ては打やぶり 芭蕉
いのち嬉しき撰集のさだ 去来
詩の例として俳諧をあげるのは具合のわるいものでいま詩の長さについて書いているときに詩型のなかで最も短かいものをもってくるのは都合がよさそうにみえても実のところそうではない。これをさきに書いた新古今の三首とくらべてみれば最初に気付くことは詩の長さといったようなものではなくて日本語がどれだけ変化したかということであってとくに現代の日本語のような不完全な言葉で書いたり話したりしていればそれが第一であってほかのことがらはどうでもよくなる。
しかしながら俳諧を散文とくらべるときにその長さが気になって知らない間柄でない者同志で歌仙を巻くにしてもその三十六句がどれだけ長く感じられるかは巻いたものでないとわからない。しかも詩の言葉は短かいから力があるのではないことははじめに書いた。
詩は確かにいつまでたっても理解されるということはないけれどもそれは言葉の冗長度によるとは思えない。言葉にはそれを書きつらねるときに冗長度をともなう性質があってそれではじめて意味が伝わるのであって冗語をともなわない言葉は雑音によって誤って伝達される可能性が多い。話しことばは冗語が多く書きことばは冗語が少ないのは良く知られていることであるけれども書きことばを詩と散文という分類方法で分ければ散文のほうが冗長度が高くこれに対して詩は冗語が少ない。
冗長度は言葉を符合と考えたときにひとつのシンボルが平均として有する情報量を平均符合長で割ったものを符合の効率(η)として(1-η)で定義されるものでこれは詩の言葉に冗語が少ないと言うときに詩の言葉はたいへん効率が高いことを示しているけれどもそれならば詩が理解されないのは雑音のためになって話がおかしくなる。詩は短かくなることによって冗語を削っていったのではなく意味を減じていったと考えればよい。これで意味が伝わるわけがない。
つまり詩は冗語で構成されていると言ってもよく詩が有用でないのはこれはあたりまえの話であるから最後に俳句は冗語だけでできていると言ってみればどうだろうか。
日照雨して藻刈の睫毛濡らしけり 爽波
俳句が短かいというのは散文を考えたときに比較にならないほどのものだけれどもだからこそ俳句では言葉の効率などと考えずに冗語だけで世界を現前する。あるいは意味内容を伝えようとよそおうことはできても実際に意味を伝えることができないのならば雑音をおそれる必要もなくなる。
俳句でどれくらいのことが言えるかという問題はなくなってもできた俳句はあいかわらずである。これはいつまでたってもなくならない。
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