【空へゆく階段】№47
晨集散策
田中裕明
田中裕明
「晨」第29号・1989年1月
毛虫の日くれなゐつよく見せる時 宇佐美魚目
とおく「花の世を見たる悔」に呼びかけているのか。自己と他者の関係をふと強く意識するときに生まれたような作品。一度取り去った仮面をもう一度つけてみよう。仮面は、真実の顔でないもの、真実の顔を蔽いかくすものと考えられてきた。人々は仮面の持つ深層のリアリティを見落としていた。素顔もまた他者である。
もう一つ付け加えれば、ことばの力を引き出すことに成功した作品でもある。
村山はもとより低し魂祭 大峯あきら
俳句を作る上で時間ということを忘れることができないのは悪い習癖かもしれないがm読むときもそうで時間が十分に描かれている俳句の前では長く立ち止まることになる。それも人間が生活してきた時間。
ここでうたわれている村は都市と鋭く対立する農村ではない。世界-内-存在である人間が生活しているトポスとしての村である。そこではある時間につながっている幸福が感じられる。
盂蘭盆や脛より洗ふ己ゐて 鈴木太郎
俳句の俳句らしさが気になるときもある。そういうときには謙虚に作品に対することが肝要。その俳句がどのようにして俳句らしさからのがれようとしているのかというところを読み取りたい。もちろん作者が苦心しているのは別のところだ。
この作品、盂蘭盆という季語が大変に味わい深い。そこに作者の細心をみた。
斎王のほたる一木に添ひのぼり 田中弘子
晨集ではいつもおとなりにおられる。だからというわけではくて注目している作家の一人である。
斎王とここでうたわれているのがどのようないつきのみやかは分からないけれども、この螢はそのいつきのみやの分身であるような気がしてそれは結局この作品の力ということに気が付く。言葉の働きについて分かるこのようなことが俳句に親しむにつれて明らかになってゆくのならば楽しい。
半月の光のせたる蘇鉄の葉 中山世一
たくさんの連想を呼ぶのはあるいはよい作品の条件かもしれない。言葉を正確に用いてその響きがどれだけのことをするかをあらかじめ知っておくことが大切である。始めからそんなことは分からないから本歌取りに似たこともあって俳句が優雅になる。
今眼の前にあるということがたとえようもなく貴重であることの洗練。
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