【空へゆく階段】№48
野ざらしから命二つへ 芭蕉のはじめの旅
田中裕明
「晨」第65号・1995年1月
野ざらしを心に風のしむ身かな
秋十年却つて江戸を指す故郷
「野ざらし紀行」の冒頭の二句である。
芭蕉ののこした紀行文は、この「野ざらし紀行」にはじまって、「笈の小文」「更級紀行」「おくのほそ道」など十年間に五篇である。文章の量としては決して多くはないが、その十年間のうち通算四年と九ヶ月を旅の空の下に暮らした、この詩人にとって紀行文というスタイルがきわめて意識的な表現形態だった。
芭蕉といえば旅、旅といえば芭蕉ということになるが、「野ざらし」の旅について言えば、まだ旅することによって自らの俳諧を確立するという意識が強すぎる。漂白ということの根元的な意味が、芭蕉自身にもまだ理解されていない。
頭書の句にしても、芭蕉の覚悟は充分に伝わってくるのだが、それが時としてはやや息苦しい。のちに、俳文について、なだらかに懐かしく表現せよと述べた詩人にしては、性急に過ぎる。
もちろん、江戸の門人たちへの別れの挨拶としての発句だから、心ばえを読めばいいので、表面的な語気をそのままに受け取る必要はないのだろうが。
道のべの木槿は馬に食はれけり
「馬上吟」という前書のある刊本と、「眼前」という前書のある刊本がある。いずれにしても、瞬間のうちにできた句であろう。その点では子規以後の写生俳句に通じるところがないでもないが、やはりわざわざ眼前であることを強調することは近代にない。写生俳句は、対象をあるがままに写すことと理解されているが違う。
馬に食べられて失われてしまったことによって、かえってありありと眼前に木槿の花が浮かんでくる。
「野ざらし」の句の中でも「山路きてのすみれ、道ばたのむくげ」が秀逸だと山口素堂が述べているが、たしかに「山路来て何やらゆかし菫草」とこの木槿の句は、新鮮でゆたかなイメージを持っていよう。
紀行文としては時間の経過のままに、句文が配列されている。それでも、こういう澄んだ結晶のような作品がちりばめられていることによって、全体の品位が高くなる。のちに「おくのほそ道」で完成する芭蕉紀行文の文学性が、こんなところからもうかがわれる。
秋風や藪も畠も不破の関
荒廃した関の跡に秋風が吹いている景は、旅の詩人の精神風景そのものである。
俳人の紀行文を考えてみるとき、近代、現代を通じて芭蕉ほどの旅の位を保った俳句つくりはなかった。そもそも、紀行文が俳人にとって重要な表現形態ではなくなっている。
その理由のひとつには芭蕉が求めて厳しい孤独のうちに旅をしたということ。ひとり旅でなくとも詩人の旅は孤絶している。
もうひとつの理由は、俳諧から俳句に変貌するさいに、一句の独立を強調しすぎたこと。そのためにかえって姿勢が涸れてしまった。
「伊勢」に代表されるような歌物語の系譜のうえに芭蕉の「笈の小文」や「おくのほそ道」を布置してみることも、あるいは可能だろう。歌物語の場合、和歌の重層的な意味を読みとることのできる共同体が、平安の宮廷には形成されていた。芭蕉の紀行文の読者は、正風の洗礼を受けた者がほとんどで、詩的教養がつちかわれていた。どちらもそれぞれ、作品と共同体との幸福な関係が結ばれていた。
ところが、近代、現代においては、俳人の紀行文を受け入れてくれる共同体は存在しない。その結果、すぐれた、また新しい俳句と散文との融合には大きな困難がある。
「野ざらし」の旅から、そのようなことも感じている。
旅人を見る
馬をさへ眺むる雪の朝かな
海辺に日暮して
海暮れて鴨の声ほのかに白し
「野ざらし」の旅の熱田での作である。
秋八月に江戸深川を出て、その冬となった。いま芭蕉の詩精神はあくまで生きいきとして、新鮮である。詩の趣きを自然に受けとめている。旅の時空が芭蕉の詩を澄ませた。
はじめ、旅することによって自らの俳諧を確立する意識が強くあったものが、現在は彼自身の詩によって旅の来し方があらためて照らし出された。
「鴨の声ほのかに白し」などたいへんに大胆なとらえ方なのだが、きわめてなだらかな表現、なつかしい心情とうつる。
命二つの中に生きたる桜かな
「水口にて二十年を経て故人に逢ふ」という前書がある。
許六が「夜の明けたるが如し」と評したとおり、再会も、桜の花も、闇を経たかがやきに包まれているようだ。自然を観照するだけの詩ではない。いまここに生きてあるということと、春がめぐって来て桜が咲くということが、つながっている。
「野ざらし」の旅を経て、芭蕉は芭蕉となった。
江戸市中を捨て、深川の草庵に隠栖しただけでは、俳諧は深くならなかった。芭蕉のはじめの漂白は、やがて「つひに無能無芸にして、ただこの一筋につながる」という覚悟に結びついてゆく。
「笈の小文」の旅は二年ののちのことである。
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