正月について
佐藤智子
年が明けた。今この文章を書いているのは2022年の年頭である。新作数句ということで新年の句に挑戦したが、新年の句は難しい。
新年の季語を使うと何を書いても新春のテレビ番組の書き割りのようになりやすいし、かといって 風流でないものをと気張って書くといかにも逆張りという感じで、かえって「まんま」というふうになりがちだ。(そうして週刊俳句の「新年詠」も毎年悩んだ末に出せずに終わってしまう。ごめんなさい。)
思うに正月自体が厄介なのだと思う。
そもそもこんなに目印のないような「無」の時期に年頭が設けられているのがきな臭いし、鍵括弧つきの「伝統」や「家族」というものに結び付けられすぎていて、たまたま自分が安寧に過ごせたとしても何かに加担しているような後ろめたさが残ったりもする。
しかしながら、そんな正月にも一つ好きなものがある。それは、正月行事に登場する様々な飾り物だ。
植物を基調にした様々な門飾りや、吊り紙や八丁紙と呼ばれるような半紙に切り込みを入れた素朴な飾り物など、家ごとに異なる装飾品や供物を見るのが好きだ。
これらは定型的なようでいてよく見るとバリエーションがあるのが面白いし、そして何より、設置したものが一定期間後に必ず撤去されるところが快い。
門松ならば松をどこからか「迎え」て来て、4日だか7日だか10日だか、とにかくしばらくしたら「送る」。鏡餅もそう。うやうやしく飾った後は、「いただいて」その場からなくす。
これは何も正月だけではなく全ての行事の装具に共通していることだけれど、正月のそれは動作が丁寧でわかりやすい。
以前年末から年始にかけてフランスを旅行した時に、町中のクリスマスツリーが大工さんのような人たちの手によって門松よろしく「引かれていく」のを見た時には感動したな。
つまり、「設置から撤去までが儀礼」。
そのことを思うと少し心が軽くなり僅かに踊るような気がするのだ。ここから何か人生訓のようなものにつなげるとエッセイらしくなるけれど、それはやめにしてこのあたりで私も撤収しよう。良い1年になりますように。
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