2022-01-16

【佐藤智子『ぜんぶ残して湖へ』評】 誰に向かって話しているのか 大塚凱

【佐藤智子『ぜんぶ残して湖へ』評】

誰に向かって話しているのか

大塚凱


あなたが湖に向かって、傍らの石を擲つとする。放物線を追う。ちゃぽん、と鳴る。石が水面を動かしたのだと、わかる。あなたの手によって。そのとき、あなたは確かに湖に向かっていたかもしれないが、こころのおもむきとしては、湖を「狙った」ということにはならないだろう。石を擲つことに明確な意図すらなく、その、ちゃぽん、という音をあらかじめ欲していたというわけでもないであろう。しかし、あなたは、擲ったのだ。「何」に向かって、擲ったのだろう?
 
一言で尽くしてしまうなら、佐藤智子の俳句は、このような「石」のようなものであると思われてならない。比喩を続けよう。例えば、佐藤智子の俳句にとって大きな影響を与えた存在といって差し支えないであろう佐藤文香の第三句集『菊は雪』(二〇二一年、左右社)は、自らの言語感覚を理解しうる他者をいざなうような流し目で、書き手自らの真上に擲たれた「石」だった。「自らに似た他者」に向かって編まれた一冊であったと、受け止めている。ここのところ「自らの信じる俳句史」と対峙しようとしている句集もあったし、書き手が異なれば「季題」や「グローバリズム」と相向かおうとすることもできるだろう。しかしながら、佐藤智子の俳句を読むと、それがなかなか見えてこない。語弊を恐れずに言えば、「誰に向かって話しているのか?」という思いを、しばしば抱く。

花水木やたらさパン買って生きる
いい葱はコンソメで煮るまだ泣くよ
穴熊は鼬の仲間眠りましょう
 
「やたらさ」「まだ泣くよ」「眠りましょう」というモダリティの柔和なニュアンスは、誰に向かってひらかれているのか、いささか心もとなく、ほのかな不気味さすら湛えている。独り言のようなそれは、一句一句における主体が、自らを毛繕いしているさまに思える。その点で〈花水木やたらさパン買って生きる〉という句の担保として差し出されているのは、あたりまえのことではあるが、「やたらさ」と発してしまう主体としての強度に他ならない。「パン買って生きる」という現代の日常を写した句として読んでも、その生活を真理のように言い止めた句として解釈してもしっくりこないというか、これは「やたらさ」という呆れたような気づきの、こころの移ろいを、デコードするものとして楽しみたい。それは、擲った石の「ちゃぽん」によって、ハッと我にかえる、〈わたし〉が存在し生き永らえていることを再認識することかもしれない。感動詞のような働きをする語「やたらさ」のまとまりによって句に切れをもたらし、構造を立体化させるという書きぶりは、踏み残された一隅であるようにも思われる。
 
その「葱」を「いい葱」だとしてコンソメで煮ることを選んだ〈わたし〉と、泣くことによってカタルシスを享受する〈わたし〉の輪郭はだぶついている。煮る〈わたし〉と、「まだ泣くよ」と表する〈わたし〉すらも、中七と下五の間に韻律上の休符があるという形式からの作用によって、微妙にズレを来していると読むこともできるかもしれない。そこにはまた、言外に「いい葱はコンソメで煮る」というごく主観的で独占的な判断を表明する〈わたし〉を承認するメタな〈わたし〉も存在しているだろう。さまざまな〈わたし〉を引き連れることで、いや、むしろここには〈わたし〉にとっての他者が不在だからこそ、〈わたし〉の輪郭は曖昧になり、〈わたし〉が分裂していくような想像に至る。「穴熊」が「鼬の仲間」であるように、〈わたし〉も複数の〈わたし〉とともに、眠りにつく。

まだパジャマ紫陽花が野菜みたいで
棗棗夏休みみたいに過ごす
スニーカー適当に萩だと思う
口角を戻す初雪なのだった

「誰に向かって話しているのか?」という一次的な違和感は、おそらく次のように解釈したほうが良さそうだ。むしろ「話しかけているような構図になっているせいで、何かに向かっていることになってしまっている」と。
 
「紫陽花が野菜みたい」「夏休みみたいに過ごす」「適当に萩だと思う」「口角を戻す初雪なのだった」というのは、これまでの俳句がメインストリームとして提示してきた技法としての描写でもドグマでもなく、もはや宙に投げ出された報告である。「そう感じたのだ」という〈わたし〉の語り口だけが、溶け残っているかのような風情だ。おしなべて、〈わたし〉によるナンセンスな報告は、そう書き残されることによって、再帰的に承認される他はない。それでも例えば、紫陽花が萼片独特の重厚な質感であることとその気怠さを読者が所与の情報として共有できているからこそ、かろうじて「まだパジャマ」で「紫陽花が野菜みたい」という〈わたし〉の報告に、協調する余地が生じている。この塩梅が、佐藤智子にとっての技巧、手さばきの最も特徴的な部分のように感じられる。〈夜の梅水辺のように腰かける〉〈スヌーズやちりとりに降る春の雪〉といった句は、佐藤智子の作品の中では比喩/描写として解釈しやすい類のものだが、季語というシステム自体にはふつうに従順でありながらも、それらのフレーズがより不条理に傾くかたちで、そのすぐ外側に掲句のような仕掛けを試みている。恣意的な引用にはなるが口語俳句という点で一見近しい〈かもめ かもめ 手首の脈がちぎれそう〉や〈不眠症 およぐ金魚に鏡ばかり〉(『二つのレモン』読売新聞社、一九九〇年)といった松本恭子の書きぶりと比べると、そのメカニズムの違いは明らかに思える。松本恭子の演出する自己は、他者に向かって擲たれている。
 
惜しむらくは、本稿にはあまり引かなかった現代語ベースの韻律そのものを面白がる句の物量に押されてしまい、前述のように佐藤智子が拵えた〈わたし〉の交錯という旨みに届いている句が、本句集では主題としてやや埋もれているような印象があった。これはバランスと、総句数の問題ではあろう。

ペリエ真水に戻りて偲ぶだれをだれが
 
さて、私が佐藤智子を書き手として強く意識したのは、句集中にもある掲句を見かけたことにはじまる。炭酸水の気が抜けて真水に戻ってしまうことの不可逆性と、その時間経過のありさまが、人を偲ぶという営みにオーバーラップする。一読して〈僕の忌の畳を立ちて皆帰る 三橋敏雄〉(『まぼろしの鱶』俳句評論社、一九六六年)を思い出さずにはいられなかった記憶がある。私は必ずしも佐藤智子を三橋敏雄、池田澄子、そして佐藤文香という系譜の中で順接的に捉えたいとは思わないが、しかし、奇遇なことではある。「だれをだれが」というトラップ感のある三連符二連発のような下六に引き込まれた私がその時想定していたのは、三橋敏雄の作品に近いニヒリスティックな因果の世界観であった。しかし、この句集中の一句としては、〈わたし〉を〈わたし〉が偲んでいる、という読みを加えたい。自愛や自慰、それは祈りに漸近した孤独なのかもしれない。

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