2022-01-16

【佐藤智子『ぜんぶ残して湖へ』評】 『ぜんぶ残して湖へ』の魅力の源 脳内コピペや切ないパッションなど 渡戸舫

【佐藤智子『ぜんぶ残して湖へ』評】

『ぜんぶ残して湖へ』の魅力の源
脳内コピペや切ないパッションなど

渡戸舫


この希有な句集の魅力の源を幾つかの切り口から考えてみます。

1 主体のいる俳句が多い:句の発想
 
この句集には、多くの句で主体が登場します。
 
雨戸して桃は台所で食べる
冬を愛すビオフェルミンのざらざらも
 
このことは、動詞を見ればわかります。多い順に(数字は登場回数)、食べる(9)、いる・行く・買う(6)、ある(5)、する・焼く(4)、思う・着る・見る(3)となりますが、殆どが能動的な主体を前提とする動詞です。

ちなみに鴇田智哉氏の句集『凧と円柱』(全231句)では、ある(16)、する(13)、来る(12)、ゐる・なる・見る(9)、のびる※(7)、ひらく※(6)、行く・枯れる※・出る(5)、消える※・とける※(4)で、例えば次の句。
 
うはむきにのびゆくままに茎立に 鴇田智哉
 
特に※をつけた動詞は人間が主語になりにくい動詞ですが、「湖へ」ではこれらは1つもありません。
 
「凧と円柱」では概ね外界の事物(変化する)のイメージから句ができているのに対し(鴇田氏の最近の句集では少し違うようですが)、「湖へ」では主体の行為(しないことも含む)を出発点としています。両者には句を生み出すときの発想の違いがあるのです。


2 他人ごとの主体と自分ごとの主体:現場性
 
主体を前提とする句の中にも違いがあります。
 
霜の墓抱き起されしとき見たり 石田波郷
 
「見たり」と言っていますので主体がいます(主体が抱き起こされたと私は解釈しています)。しかし、「し」は過去、「見たり」は完了で、これは報告の文体です。まず事実がある前提で、それを後から振り返って言葉にする、そういう後追いの発想で句を作っています。そこに主体を持ち込むと、読者は、「他人の経験を聞かされた」(他人ごと)という気持ちなります。

お茶を持って二階や春と春の雨
 
ところが、「湖へ」のこの句を読むと、自分がお茶を二階に持って行く気持ちになります(自分ごと)。なぜそうなるかと言うと、「お茶持って二階に行こう」と頭の中で浮んだ、その言葉をそのまま句にコピペしているからなのです。
 

3 言葉になった瞬間の言葉をコピペ:発想と文体
 
ここには句を作るときの発想の問題があります。「湖へ」は生活の中でなにか感じて、それが脳内で言葉になった瞬間の言葉を句にコピペしているのです。
 
まだパジャマ紫陽花が野菜みたいで
 
昼頃にふと鏡に映った自分を見て、「あ、まだパジャマ!」と脳内で言葉になった、その生まれたばかりの言葉をそのままコピペして俳句に埋め込んでいるのです。人間には、外界から受けた感覚・イメージを脳内で言葉にする癖があります。その生まれたばかりの言葉をコピペする、そういう発想で句ができているのです。後半も紫陽花の葉を見ていて、ふと「なんか、野菜みたい」と言葉になった、それをそのままコピペしているのです(この句の場合、2つの脳内コピペの取合わせという凄いことになっています)。他にも、
 
雪柳七時かそこらなのに怖い
梨の花この傘夜にさすと変
 
等々脳内コピペの句は枚挙に暇がありません。
 
この句集を繰れば日常では使っているけれど俳句ではあまり見ない、一種くだけた言葉づかいが続々と押し寄せてきます。「やたら」「しけった」「ましな」「古いめ」「お皿」「来なそうな」「くらい」「尻ぺた」「もうだめ」等々。これらはこの脳内コピペという作句法の結果、必然的に出てきた言葉だと思います。
 
私が俳句を始めた頃、文語体で作句する理由として、俳句の言葉は日常の言葉ではない特別な言葉だからと説明されたことがあります。自然から感受したものを定型にのせ、文語という特別な言葉を使って仕上げるという作句法ですね(それはそれで格好いい)。
 
この句集はそういう加工をせず、小さな子どもの発話のように、脳内で生まれた瞬間の言葉をコピペして俳句に持ち込んでいます。それらは、振り返りの言葉ではない、事実と言葉の間にほとんど時間差がない言葉なので、読み手は主体と一体化し、自らも句の現場にいるように世界を生き生きと感受できることになるのです。(ちなみに『凧と円柱』では、事実と言葉の区別自体がありません。これまた、格好いい)。
 

4 開かれる世界:言葉の重ね方
 
「湖へ」は、主体がいるとはいえ、読者が日頃から感じていることをうまく言ってくれるような共感型の句集ではありません。脳内コピペを使いつつ言葉の組み合わせによって読者に新しい世界を開く、そこにユニークな感性が発揮されていることこそが素晴らしいのです。切り口として2つの手法を取り上げます。

4-1 前半と後半の取り合わせ
 
「湖へ」には多くの取り合わせの句が含まれています。取り合わせの句のよさは、句に断絶があることによって、各部分のイメージが響き合い、読者に新しい世界が開かれることにあります。散文的な事実の再現報告ではない、俳句ならではの面白みと言えますが、「湖へ」にはこの点で面白い句がたくさんあります。
 
梅雨を祝う椅子の回転を使って
 
梅雨に椅子の回転とは!浮遊感のある梅雨とは!梅雨を祝うのもおかしいし。この句のおかげで私の梅雨に対するイメージが更新されたように思えます。
 
エルマーとりゅういつまでも眠い四月
 
幼い頃に親しんだ本の名前が春の眠気と取り合わされて、話の内容も当時の自分自身も渾然として夢の中でのように思い出されます。字面からして眠いです。特に「りゅう」のあたりが眠いです。
 
こういう妙?な取り合わせを楽しげに持ち込むところにこの句集の希有な魅力があります。 
 
4-2 語の接続
 
語の配置や接続が普通でないことにより、読み手の世界を広げていくような句も特徴的です。
 
4-2-1 文法的に言葉がスムーズに接続しない例
 
千両を見ると嬉しい鳥だった
 
「だった」なので、「見る」の主語は?「嬉しい」のは誰?となります。「見る」で主体が持ち込まれていることもあって、読者は千両と鳥を一重ねにしてみたり、鳥の気持ちになってみたり、最後の過去形で取り残されたような、不思議な経験をすることになります。
 
昨日は雪雪の日にさした傘
 
「雪の日」には「昨日」のことだけでなく、これまでに経験した多くの雪の日が含められているようです。「雪雪」が、くり返す雪のイメージだけでなく、くり返された過去の雪の日々をも呼び起こすようです。昨日→過去の日々→目の前のモノと言葉が推移し、重なり合って、読者をはるかな思いに誘います。
 
4-2-2 語の挿入や三段切れの例
 
ドット着て端午飽きてるフリスビー
 
ドット着てフリスビーに倦む端午かな だと報告っぽくなりますが、途中に「端午」を挿入することにより前半の弾むリズムと文の切れを作り、「飽きてる」という前半のイメージを裏切る言葉を続け、長音で終わることで、イメージの散乱・屈折を生んでいます。脳内コピペの挿入や三段切れが面白い例もあります。

薫風やどこへも行かないねラーメン
塗り薬飲むヨーグルト寒い梅雨


5 希求するパッション:根底にあるもの
 
句集を通して読むと、私は、何か切ないパッションを感じてしまいます。なぜかを考えてみました。
 
脳内コピペには、常に1人の寂しさがあります。
 
更に、この句集には、否定形「~ではない」や否定的な意味合いを持つ言葉が使われたり、何かが足りなかったり、本来あるべき姿になっていなかったり、そういうマイナスイメージを含む句が多く見られます。私の数え方では、176句中64句(36.3%)もあります。
 
エレベーター来ない花野はきっと雨
ポプラ散る自転車に乗らなくなって
噴水はからっぽ海に行く電車
雪まろげ牛乳が手に入ったら
パーマもっと強くかけたいのに鳳梨
 
こういった否定や欠落の奥底には、決してカジュアルではない希求するパッションがあります。そのパッションが呼び起こす気分と、外界の事物が、主体のなかで出会って読者を惹きつけるのだと思います。パッションが直接に出たのが次の句。
 
ペリエ真水に戻りて偲ぶだれをだれが
 
本来は炭酸水であるペリエの気が抜けてしまっています。そのことが、元に戻らない喪失感として受け取られるのは、「偲ぶ」と続くからです。さらに、「だれをだれが」と続いて、誰かに対する感情を超えた「偲ぶ」ことそのものの根源に迫ってくる、凄い句です。

俳句は俳句でしかできないことを目指すべきだ等のあるべき論をこの句集は無効にするだけの魅力と迫力のある句集だと思います。多いに楽しみましょう。

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