2022-01-16

『ぜんぶ残して湖へ』一句鑑賞

『ぜんぶ残して湖へ』一句鑑賞


給水塔寒さを脳に通さずに

数多ある塔のなかでも、どこか懐かしい生活の匂いがしてくるのが給水塔。給水塔の中を通るのは透明な水である。一基の塔と一人の私。ぼんやりと見えない水を思う気持ちは、研ぎ澄まされた感覚を生む。その感覚は時に鴇田智哉の「いうれいは給水塔をみて育つ」(『エレメンツ』所収)の「いうれい」の存在につながり、時に寒さを体で感じる掲句につながる。鴇田さんの「いうれい」の隣で、智子さんは白い息を吐きながら、二人はきっといつまでも給水塔を眺めている気さえしてくる。少し助詞の話もすると、普通「寒さ「は」脳「を」通さずに(感じるものである)」と、「寒さ」を「は」という助詞を用いて、一般化した形で表現するのではないだろうか。しかしここでは「寒さ「を」脳「に」通さずに(作中主体は感じている)」となって、私の感覚であることを引き受けたまま、より省略を利かせた形になっていると思った。繊細な感覚と、さりげない工夫が、すとんと来る言葉になってまっすぐに届いてきた。
中矢温



癇癪を起こしお芋を食べて寝る

正直、癇癪を起している智子さんは想像ができない。いつもふわふわしていて、穏やかな彼女に癇癪という言葉はあまり似合わない気がする。でもお芋なのが良い。しかもそれで気が済んでしまうのも良い。もちろん作中主体が本人である必要はないし、他者なのかもしれないけれど、それでも妙な説得力を生んでいるのはこの独特の文体あってのことだと思う。この文体あってか、本句集の句はどれも智子さんが実際に口に出して呟いていそうな、声が「脳内再生」される句ばかりだという印象だった。でも、よく考えると、実際の句会でも彼女が自身の句を読みあげることはなかなか無いことなのであって、脳内再生される彼女の声は永遠に幻だということにも気づく。こういう働きも含めて、すべての句そのものが「彼女」であり、魅力だ。私はチョロい読者なので、この文体の魅力に翻弄されるばかりである。みんなもお芋を食べよう。
青木ともじ



冬を愛すビオフェルミンのざらざらも

失恋をしたら髪を切る時代は終わった。智子さんの短い髪は智子さんの俳句そのものみたいに見える。佐藤文香はこの句集の栞で佐藤智子が過去の句会に出した句「有楽町メロンソフトを食べている」に対して「ここで男と待ち合わせる必要など感じない」「そのお一人様でことたりる感」と評している。そして〈有楽町〉の句と「いいショール茶葉と下着を買いに出る」(p95)「冬を愛すビオフェルミンのざらざらも」(p107)などの句が一貫しているのにまた驚く。髪を短く切る、茶葉と下着を買いに出かける、ビオフェルミンをちゃんと飲む、どの行為も一人で日常をつつがなく生きていくメンテナンス作業である。〈冬を愛す〉という上五は、冬の街も冬の空も冬の私も全部愛するという含蓄だろう。自分を可愛がって自分の暮らしを生きていく佐藤智子の句はすこし先を行くおねえさん像として、常に私の憧憬の対象なのだった。
瀬名杏香



いい葱はコンソメで煮るまだ泣くよ

私は葱が大好きです。が、自分では「いい葱」を求めることはありません。また私の場合、林檎などと違い、玉葱も長葱もいただきもので「上等なもの」を入手するご縁もなく、いつも普通のもので「旨い」と悦に入っています。

ここでは「いい葱」。そして優れた素材の味を生かすにはシンプルな方がいいので、創味シャンタンでなく味覇でもなくコンソメ。葱切って泣けて、コトコト煮込んでいるお鍋のなかをじーっと見て、まだまだ泣けそう。実は「たまたま調理してて」じゃなくて「真剣に泣きたくなる予感を持って」ちゃんといい葱を用意したのかも知れません。
 
『ぜんぶ残して湖へ』。今今な言葉たちが紡いで光る小箱。体温が伝わる楽しくやわらかく切なく心掴まれる句ばかりで、選ぶのが本当に難しかったです。「ぜんぶ好き」というのは一番伝わらなく怪しくつまらないとわかっていますし、黒ビールもアメリカンチェリーも新蕎麦も好きですが、今回は葱で。
杉崎幸樹



獣には食へぬのでせう餅を焼く
 
やっと現代語でない俳句っぽい句を見つけた。
 
しかしこれはまた面白いというか恐ろしい。
 
餅を焼くときに、獣には食へぬのでせう、などと考える人はまずいない。
 
この人は、口の脇から血を流して薄笑いしながら餅を食べるのではないか。この句の掲載頁番号(111)もなにやらそれっぽい。
 
こういう発想をする人は、当たれば芸術家として大成するが、一歩まちがえると重大事件を起こしかねない気がする。
 
そう感じさせる俳人の門出を祝すとともに、見守らずにはおれない。
中村我人



水色の鉄塔のある花曇

この世の中には、「鉄塔マニア」と称する人々も存在するらしいけれど、多くの人は、ふだん、鉄塔とか電線、電柱といった地味な構造物に、たいして関心を持たずに暮らしていると思う。無機質なインフラである鉄塔が、〈水色〉というだけで、なぜかほっこりする。そのレトロな風情は、密かに、誰かに、愛されているかもしれない。作者もまた、そのひとりなのかもしれない。佐藤さんは身近な「つまらないもの」を彼女独特の表現で、愛でる。

晴天であれば、鉄塔と空と桜は、鮮やかなコントラストを見せていただろう。遠目に見る〈水色の鉄塔〉は、どこか頼りなく、より玩具めいて、〈花曇〉のぼんやりした景に溶け込み、さびしくも調和している。
 
集中にあって控えめな佇まいの一句だが、〈水〉〈鉄〉〈花〉の語の組合せで成り立つ景の妙とともに、〈のある〉の接続を味わいたい。私は、この棒立ち感を愛する、読者のひとりである。
古川朋子



鮭をほぐす 夜でも空が高いと思う
 
自分も最近サケをよくほぐす。ただ焼くだけでなく、そば粉と合わせてクレープのようにするのも美味しい。前後の句「かまどうま軋んで回る天球と」「虫の秋忘れたり落としたりする」と空の高さと合わせて、秋鮭なのかなと思う。
 
一字空きはサケのピンクの色がひろがっていく際の短時間の無心を表すと推測した。キッチンのそばの窓を開いて実際に空を見ていなくても、頭の中で空のことを想像してもいいと思う。さほど頭を働かせていない状態に色と空間の広がりが心地よく感じられる。
 
この句を読んで、「鮭食う旅へ空の肛門となる夕陽(金子兜太)」という句を思い出した。食は究極のエクスタシーと料理研究家の森崎友紀が言っているが、旅のような特別の場でなくても日常と地続きだからこそ、食の喜びがかえって増幅し、詩的飛躍につながることもある。鮭よ、川を越えて夜空を走ってくれ。
黒岩徳将



あなミントゼリーに毒を盛られたし

本句集『ぜんぶ残して湖へ』は、日常詠が魅力的な句集だと感じた。だが、それとある意味で相反するような雅文体、平安期とも紛う言葉遣いも使用されていて、不思議な雰囲気を醸し出していた。日常を正確に切り取った上で、眼差しがトリビアルなところに向いていて面白い。掲句もそんな味わいのある一句で、何より「毒を盛られたし」の緊張で幕引きしていくところに惹かれた。ミントゼリーはやや珍しいスッキリ系のスイーツなわけだが、その爽快さを突き抜けて毒を求めてしまうという、日常に潜む小さな“狂気”。「あな」の感嘆でシンプルに纏められているところにも巧さを感じた。
加藤右馬



おじいさんとわたしで食べるちいさな蕪
 
『おおきなかぶ』のおはなしを思い出すほど、おじいさんと二人きりのこぢんまりとした食事のシーンが浮かぶ。
 
おはなしの中でなら、おじいさんの他に、おばあさん(まごは「わたし」だろうか)、犬、猫、鼠が登場し、力を合わせて蕪を引き抜く。その後、たくさんの登場人物が大きな蕪を食べる様子が語られるとすれば、賑やかな大団円そのものだろう。
 
おはなしとは対照の、おじいさんとわたしの二人だけが分け合うちいさな蕪の小ささを思う。正直、おじいさんとの食事が和やかかどうかはわからない。おじいさんが蒔いた蕪だったのか。収穫は一緒にしたのか。ちいさな蕪を前にして、おじいさんとわたしが力を合わせなくてもいいのは確かだ。お話とのかかわりがなければないほど、ちいさな蕪になっていく。それでも美味しかったならいいなと思う。
南極



エルマーとりゅういつまでも眠い四月

「いつまでも眠い四月」という物憂い感覚を抱いている主体はきっともう大人になってしまっている。

『エルマーとりゅう』は『エルマーのぼうけん』の続編で、エルマーという名の男の子とその友達の龍が冒険する話。一般的な絵本よりもコンパクトな形態をしていて、子供にとってみると少し大人っぽい本だと思う。
 
この句の主体も、子供の頃はエルマーシリーズに夢中になったのだろう。一方、大人になってしまった今、始まりの季節であるはずの4月に主体は一歩踏み出すことができず、自室で燻っているようだ。いつまでも子供時代が続けば良かったのに、という願望もうっすら匂ってくる句。
南幸佑


食パンの耳ハムの耳春の旅

耳繋がりで食パンの耳からハムの耳へと変貌し、音繋がりでハムの耳から春の旅へと変化するといったしりとり的な面白さにまず惹かれました。物語的には朝の食卓風景の中を旅していくようでもあり、食パンの耳からハムの耳へ、焦点の移動後にふと春の旅へ出ようと思い立った瞬間を捉えているようでもあり、いずれにしろ小さな視点を元に、旅という大掛かりな行為への飛躍が面白さの肝になっています。

更にこの句は見れば見るほど文字の形の奇妙さを感じさせてくれます。「の」が3つに「耳」が2つ、それにカタカナの「パン」「ハム」、その他の漢字が絶妙な配置で立っています。2つの「耳」が縦に並ぶことで、意味的に接着剤の役割を持つ「の」よりも視覚的に「耳」が三つの階層を繋いでいる梯子のように見えるという変な現象が起きています。

以上のように、この句は音、物語、さらに絵としても楽しむことができる世にも奇妙な俳句ではないでしょうか。
稲垣和俊



明日降る初雪台所でしゃがむ
 
「明日は雪になるでしょう」、TVから気象予報士の声。明日は雪が降る。初雪だ。立ち上がって台所へ。不意にしゃがむ。しゃがんで、いる。

言葉にならない、雪になる前の水の分子のような空白がいつの間にか積もっている。だから。
 
膝を折り、腕を組み、額をのせる。突然制御不能になった私という存在。悲しいとかさびしいとは違う手出しのできない感情は、夜の空が黒いのと同じ。
 
台所はシェルターだ。私の命の源。水と火と、冷蔵庫だってある。だからどんな私で居たって大丈夫な場所。
 
光の箱のモーター音にだんだんチャージされてゆく。無意識が意識と折り合いをつけるのをじっと待って居さえすれば、そのうち立ち上がる。
 
明日降る初雪。それは約束の履行。きっと綺麗。
依光陽子



昨日は雪雪の日にさした傘

目の前にあるものは、傘だけだ。そして傘を見て、今ここにない雪や、その日のことを思い出している人がいる。雪の日がどんな様子だったかや、傘をさしてどう感じたかなどは書かれていない。だが、「雪」という言葉を繰り返しながら、「昨日」が「雪の日」に言い換えられることで、雪や、雪の降った一日、傘をさしたときの感じが、その人になにか強い印象を残したのだということが伝わる。その人の心の中にしかない「雪の日」を、その人が感じたまぶしさとともに見ているようだ。

掲句の印象には、永井祐の〈雪の日に猫にさわった 雪の日の猫にさわった そっと近づいて〉とも重なるものがある。永井の歌も、繰り返しと言い換えによって、「さわった」ことによる心の動きや、そのときの感じを言外に伝えている。永井の歌では「さわった」私的な体験・感動に重心がかかるが、佐藤の句は私的な体験・感動を通して、読者の心の中にあるいくつもの「雪の日」をも見せてくれるような気がする。こんな書き方が俳句でできるんだ、と胸が熱くなった。
原麻理子



旅行きらい小旅行好き落花生

 確かに、やれグアムだやれヨーロッパだとちゃんとした旅行では、旅に体を乗っ取られたように動かねばならない。一方でそこいらの観光地を日帰りでゆく小旅行は、私が旅をできていてうれしい。句はあどけない物言いでこの二つの違いを述べる。
 
そのとき、落花生は旅のお供感もあり、楽しい季語に見えてくる。落花生との旅の行き先は、グアムではありえない。落花生のちょっと間の抜けた、くびれたシルエットのかわいらしさが、私を近場に引き留めているのだ。「きらい/好き」と言い切ってしまう私のおさなさも、落花生の愛嬌に当てられてしまったものだろう。
佐原キオ

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