2022-01-16

【句会と智子俳句】 約束したから クズウジュンイチ

【句会と智子俳句】
約束したから
 
クズウジュンイチ


智子さんが句集を上梓された。
 
智子さんとは上田信治さんの仮名句会でご一緒しているし、ネット句会のスパルタ句会でも長い付き合いになる。ゆえに句集の採録句にも相当な確率で目にしたことがあるものが含まれている。
 
スパルタ句会の記録はすべて残っているのであたってみた。4章のうち、「食パン」に8句、「微発泡」に9句、「搬入・搬出」に7句、「橋」に2句が採用されている(クズウ調べ)。句集全体で176句ということなので、相当な割合を占めていることは間違いない。主なものを。

玄関に米置いたまま春の闇

句会初参加にして絶賛を浴びた句で、はっきり記憶している。一人暮らしの疲労感がずっしり伝わってくる。

イヤリングなくした森へはなむぐり

そのときの評。「俳句的な技巧は感じません。が、最後のはなむぐりの斡旋がすばらしい。何やら頭を突っ込んで探し物をしている感じが余韻として残ります。センス良し。」

医薬品買って二月の辻に居る

マツキヨ帰りの交差点、ぼんやりと信号を待っている姿。情景の解像度が高い。

これらの句は2017年に書かれており、佐藤文香さんによる句集付録には2014年から俳句を始めたとの記述があるので句歴3年目の作品ということになる。おそらく結社などによる指導的なものとは無縁に過ごしてきたはずなので、自己流いいかえれば己のセンス頼りの作品である。
 
平易な口語体で書かれた作品にはいわゆる衒いが感じられない。これが一番の個性ではないかと思う。誰しも俳句を始めてしばらくすると何らかの自負が発生して評価を求めたりしがちであって、これを意識的にコントロールしている人が多いのではないかと思うのだが、智子さんにはそのコントロールが全く感じられないのである。全くの無意識、極論をいえば「何のために書いているのかわからない」俳人なのである。
 
自然体の作風を標榜する人でも動機や作為というものは滲むのが当然で、むしろそこを技術として読み手は認識するくらいである。ただしこれが曲者であって、功名心がチラチラのぞいてしまうと一転して生臭い。これが智子さんの句にはない。そもそも人格が自然体で、それがそのまま表出しているという感じである。
 
前述のとおりセンスの赴くままに自己流を貫いているのは、指導してやろうというおせっかい焼きが周囲に居なかったことが大きい。周りにいた先達が早い段階でそのセンスに着目し、変に触らなかったために自然に伸びたのである。枝をパチンと伐ったらそれは盆栽であって手の臭いがする。その意味で佐藤文香さんや上田信治さんらの放置プレイの貢献度が高いといえる。
 
第4章の「橋」には初見の句が多く並ぶ。「食パン」「微発泡」「搬入・搬出」の句とは初見であるということを差し引いても、なんとなく雰囲気が違う。一言でいえばガーリーな感じ。句集全体を見ても、等身大の姿が素直に出る作風なのでもちろんガーリーなのだが、第4章では特に強く出ているのではないか。

冬の君さびれたほうの改札に
革ジャンパーとても悲しくてもうだめ
いい葱はコンソメで煮るまだ泣くよ
 
わたしが知っている句より数段ウェットである。そして俳句にはなりにくい直接表現である。逆選を貴ぶというスパルタ句会の性質上、出しにくい句と判断されてしまったために目にする機会がなかったのかもしれない。自然体の生き方で衒いの無い作風なのだから、冬にこのような物寂しい気持ちを描くというのは考えてみれば当然のことである。
 
ただし智子さんには心情を仮託する際のアイテム選択が並外れているという特色があり、それゆえ独自の作風と評価されているという点を鑑みるに、やはり違和感は禁じ得ない。
 
「何のために書いている」かわからない稀有な俳句作家・佐藤智子が書く理由に実は思い当たる節がある。それは「頼まれたから、約束したから」である。句会に参加すると言ってしまったのできちんと出句しなくては、との思いがすべてなのではないか?
 
現に句会には初参加以降皆勤、提出の遅れもなく、遅刻してきたりということもない。この強い責任感が句を書かせている。そのとき、いわゆる俳句教育を受けずに伸びてきたがゆえにパターンで作った句でお茶を濁すことができず、身を削るようにして言葉を紡いだのではないか。それゆえ、あたかも技巧的に見える句ができることもあり、また、ごく素直な等身大のガーリーな句ができることもある。言葉をもてあそばず、飾り立てない自分から析出するものだけを真面目に拾い集めているのであろう。功名心とは正反対の責任感で書いている作家だからこそ、心を打つものがある。

お祈りをしたですホットウイスキー
 
Twitterでサーチしてみると、この句の人気が高かった。片言の会話体が懸命さを描き、たとえば日本という他国で戦うように生きる移民を思い浮かべるかもしれない。しかし断言すれば、これは智子さんである。追い詰められて言葉が出なくなっているのに句作を止めず、責任感で絞り出すがあまり不完全な片言になってしまった智子さんである。それが読み手の心の深いところで感知されるのでなぜか心が揺さぶられるのであろう。

最後に一番好きな句。

夏の星スライダー全球打たれ

球威の衰えてきた投手はスライダーを頼り、晩年にはそのスライダーさえ打たれるようになる。そんなベテラン投手の悲哀と読んでも勿論いい。しかしこれも智子さんである。喩としてなぞらえているのではなく、あくまでも無意識に掬い上げた句材が深い部分で感応してしまう現象なのであろう。もう投げる球がなくなったがそれでもスライダーを投げるしかなく、そして全部打たれてしまう。任されたからには責任をもって投げ切る「それでも投げるんだよ」の姿勢が悲しいほど智子さんであって、ユーモラスな書きぶりであるにもかかわらず、グサグサ突き刺さってくるのだ。

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