木村リュウジさん追悼
豊かな影絵さ青
私は木村リュウジさんとお会いしたことはなく、TwitterのDMでやり取りをしたのも二度だけ、一度目は彼から句誌を譲ってくださるというお話をいただき、二度目は私から彼の連作について感想を差し上げました。親しいとは表現しない間柄ですが同じ句会に参加していて、句友と呼んでよい関係ではあったと思います。この文章を書く理由は、友人知人ではなく、句と評、書かれたものだけを通して関わりを持った人間の立場から、彼の句について語られておくべきなのではないかと考えたからです。
彼に最初で最後まとまった感想を差し上げた、第三回海原金子兜太賞応募作品「誤字と空耳」から二句引き、その折に書いた感想を原文のまま併記します。軽い感想のつもりで書いた文章なので書き直す余地のある内容ですが、正直なところ手を入れることができませんでした。そのような文章だと予めご了承ください。
《桃を剥く指や影絵のあふれだす》
桃を指で剥くと、きれいに剥けるところと上手く剥けなくて果肉まで抉ってしまうところができると思います。綺麗に剥けたところはつるりと、そうではないところは皮がべろべろ貼りつき、果肉が凸凹して、果汁とともに匂いや色や光の質感が溢れだし、指も汚れるように思います。句では溢れだすものは影絵ですが、桃を剥くことにも溢れるイメージがあるように感じました。影絵は、光源との距離で輪郭がはっきりしたりぼやけたり、時には色がついていることもありますし、影絵が映されるスクリーンの質感によっても印象が変わってくるもののように思います。その質感はつかみがたいのですが、それでいて「影絵の質感」と言われてイメージする質感が確かにあって、指で剥かれた桃にも「指で剥かれた桃」と言われてイメージする質感があるように思い、そこが私の中では繋がりました。感触のとても豊かなイメージとして。
いま読み返してみると加えて(注)、肉感的な桃と薄っぺらな影絵という対比もあると気づきました。桃は果物の中でも人の肉体、皮膚感に近い感触のあるものだと思うのですが、それと対比すると影絵は実体がなく、それでいて見えてしまうもの、心や魂に近い何かという気もします。
(注:感想のメモしてあったものを後日改めてまとめた、という前書きのある文章なので、この表現になっています)
《辛夷咲く昨日の空を絶版に》
寒空に刺さるように咲き乱れる花の白さ、その明るい寂しさ、胸を刺すようなさみしさが思われます。木という高さのあるところに咲く花なので、辛夷咲く光景から空へのイメージの移動が滑らかで、空に辛夷の花、辛夷の木だけが凜と佇むように想像されるのですが、それは絶版という言葉が効いているのかなと思います。昨日という時間は、近くてすぐに戻れそうな感覚がありますが、実際はもう戻れない過去になっている時間で、まだ過去になったばかりの近さを親しみのように感じます。ついさっきまで親しんでいた時間、という意味の親しみです。親しいものは馴染みがあるもの、日常、ありふれて繰り返される、特別ではないものがほとんどですが、それがもう絶たれている、二度と同じものが現われない、と示されていてはっとするような切なさに繋がります。ただ、絶版という言葉の持ってき方がかっこよくて、もう再現されないものだけれど、昨日という時間には確かにある種の形があった、というイメージを持ちます。例えば、長らく同じように続けてきた生活を、ある時から変えることになった、引っ越しや卒業やさまざまに場面は想定できますが、そんな変化を絶版という言葉から想像しました。辛夷の花の凜とした姿は、昨日とは違う今日にきちんと向き合っていこうとする人の姿に繋がるようでもあります。
二句とも繊細な感覚を捉えた美しい句だと思います。ただ、私は桃の句を好みます。辛夷の句の、絶たれることで生まれる切なさは読み手の感情に強く働きかけるものではあるのですが、辛口なことを言えば、句の出来としては素晴らしいけれど完成しているからこそ続きがない、次の何かを書くならこの句の書き方では足りないのではないか、というようなことを読んだ当初、同じ実作者の立場からぼんやり感じていたように思い返します。
逆に桃の句は、掴みがたいものを掴みとろうとして足掻いた手の先で書いた句、捉えがたい何かをすくい上げた句、すくい上げたものを読み手に見せようとしてくる句だと思いました。それがなんであるかはもしかしたら書いた本人にも確かには分からないかもしれない、けれど、読み手に受け渡される何かがある。何かを見せようと差しだされた手を、読み手に覗き込ませるような句。この句を最初に読んだ時、木村リュウジという俳人はこんなものも書くのか、と感嘆したことを覚えています。同時に、この句の作者が次に書く句を読みたいと強く思いました。
亡くなったと聞いて、もう彼の書いたものが読めなくなったという喪失感は酷いものでした。人ではなく句を惜しむような感覚を持ってしまったことも辛かった。私と似たような感情を抱いて苦い思いをされた句友の方は他にもいらっしゃることと思います。また、人としての関わりが薄かったとは言え、彼がとても人に愛される人となりをしていらっしゃったことは知っています。親しい方はその存在の喪失だけではなく、面影が否応なく去ってゆく苦しみをお持ちになるのだろうとも思います。
ただ、書かれたものがすべて、それを至上とすることが何よりも俳人としての故人を尊重するものだと信じます。書かれたものだけを書かれた通りに読むとき読み手は何度でも、書き手が差しだした手のひらを覗き込むことができるはずです。そして、そのような関係の中でこれ以上の賛辞はないのだとも思います。
私は、彼の手によって次に書かれる句を未だに待ってしまっています。
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