2022-02-06

【空へゆく階段】№58 壮大な幻術 永田耕衣句集『生死』 田中裕明

【空へゆく階段】№58

壮大な幻術 永田耕衣句集『生死』

田中裕明
「晨」第46号・1991年11月「読書室」

テーマ別の句集として、ふらんす堂から出ているシリーズの中の一冊である。このシリーズの本の大きさは文庫本と同じで、しかも八〇ページ足らずの瀟洒なフランス装である。手にとってみてたいへん親しみやすい。シリーズとしての特徴はテーマ別の精選句集となっていることで、たとえば猫の句だけを集めた加藤楸邨の『猫』や、火をテーマにした作品を収めた阿波野青畝の『遍照』などそれぞれに作者の個性的な側面からのアンソロジーになっている。

ただ永田耕衣があるテーマで自選句集を編み直したと言って安心してはいけない。過去の句業の中から単純にそのテーマにかなうものを拾い集めただけの本になるはずがない。永田耕衣は「現代俳句の世界」(朝日新聞社刊)というアンソロジーのあとがきに次のように書いている。
 昔から我が句業を自選するというのは、自信と身びいきと、この二つの浮木に片足ずつ乗せて、世俗大河の流れに便乗するようなものだ。バランスを失うと、股が裂けるか溺死するかだ。穏やかではないが、少なくとも先人古人にヒケを取らぬ句々を、世に残したい野望の催しだけは当然許されてよいだろう。ここに自己の矛盾とその葛藤の快感がある。
ふてぶてしいまでの自信と覚悟が示されていよう。この『生死』にしても、通常わたしたちが考えているような死生観をテーマにした句集ではない。『生死』というタイトルを見てわたしは死のほうに重心のあるテーマだと考えたが、必ずしもそうではない。まさしく作者にふさわしいテーマである。単純な死や単純な生を厳しく拒否した姿勢の現れたアンソロジーだ。もちろん次のような肉親の死を悼む作品はある。それにしても単純な死ではまったくない。

 昭和九年二月七日 父終焉 七十四歳
死近しとげらげら梅に笑ひけり

 昭和二五年一月十七日 老母の死 九十一歳
母の死や枝の先まで梅の花

 献 亡妻ユキヱ 昭和六一年九月三日 八十四歳
まれまれに怒り給いき汝白梅

両親をなくされたときの句、夫人をなくされたときの句が、時期はずいぶん離れているのに同じ精神で詠まれているのは驚くべきことだ。

また友人・後輩を悼む作品もある。

 書漢 井上有一の死
狼有一また出て来(こ)うぞ桐落花
 舞漢 土方巽を惜しむ
土方を放さぬ芍薬花(か)の恐れ

ここにあげたいくつかの作品は弔句としては独特の味わいがあって、これも作者がおりに触れて言う「茶化す」ということの片鱗が現れている。これらの作品も句集を形作るうえで大いに与ってはいるし、なかでも亡妻に献ぜられた七句は句集のもっとも清澄なピークを形成している。しかしこの句集のすぐれてユニックな点は、次のような、ものの本質にせまった作品が『生死』のタイトルのもとに収められていることである。

月の出や印南野に苗餘るらし

恋猫の恋する猫で押し通す

うつうつと最高を行く揚羽蝶

近海に鯛睦み居る涅槃像

西方も粉雪の眉毛充満す

繰り返し氷の張るは恐ろしき

三宝をはみ出す根深山河かな

これらの俳句のテーマは生でも死でもないと見ることは可能だが、わたしには生死そのもののように思える。生か死かではなく生も死もが同時に存在しているところが耕衣俳句の特徴である。恋猫や涅槃像のような俳句初学のころから親しんできた作品に再びこの本で出会えるのも楽しい。

俳句にはドラマが必要だとつねづね考えているのだが、それにしてもこれらの作品にあるのは何と壮大なドラマだろう。西方も粉雪の眉毛というときに立現れてくるイメージは幾重にも折重なっている。氷が張るという現象をミクロからマクロまで一瞬のうちに鳥瞰して、その本質を看破する。三宝をはみだした根深はたちまち山河の彼方に飛去るごとくである。俳句という小さい詩型でこんな大がかりな舞台を作り出すのは一種の幻術に違いないが、俳諧をはじめて、継承した先達もみなたくみに幻術を使ったのである。

俳句を作るうえで基本的な手続きがあって俳句を作っているわけではない。それはみんな心得ているはずなのに、実際にはそういう手続きなしにものや俳句に近づくことができなくなっているのではないだろうか。永田耕衣はちがう。この句集で見ても「葱」「猪」「白桃」などの言葉が真近に読者に接近してくる。たとえば葱ならば

夢の世に葱を作りて寂しさよ

葱汁や知己ことごとく夕べなる

人折れて暮れて居るなり葱畑

 ルオー老漢の「逃亡者」に献ず
葱掘るやあら逃亡のあで姿

などのおおむね楽しい作品がある。あるいは人間の悲しみがあらわになった作品が。葱という言葉に作者独自の意味合いがあって、それは葱という言葉を新しく生むに等しい。

永田耕衣全句集『非佛』の後記には
志はつねに混沌としている。我ながら我に逢いがたき混沌さに浮沈している。返ってそんな混沌を、存在の根源に還りたくて求め憧れているといっていい。案外陽気に求め憧れている。
という一文がある。俳句の秘密をすこし解明かしてくれたような文章である。たしかに案外陽気に求め憧れているところがある。永田耕衣の文章の独自は多くの人が指摘しているが、それは非常に速度の大きい運動を表しているからだろう。そこに魅力がある。俳句も同じで、この小さな句集が生死というおもいテーマとみごとに平衡している。


解題:対中いずみ

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