【西川火尖『サーチライト』評】
枯野から
近恵
西川火尖君が第11回北斗賞(文學の森主催)を受賞し、初句集「サーチライト」を昨年12月に上梓した。読み始めるとこれがさらさらっと読み進められない。一句一句がちゃんと火尖君の主張を持っていて、「僕、ここです!」といちいち訴えかけてくる。仕事の後の疲れ目で読むにはなかなかハードなのである。でもそれが火尖君が今現在行きついた俳句の姿であり、様々な事を軽やかにスルー出来ない彼の、言葉に対して真摯な姿勢が為せる業なのだろうと思う。
火尖君を最初に見たのは私が俳句を始めて結社「炎環」に入会した数か月後、迎えた2008年の新年句会でステージに火尖君が新同人として登壇した時だった。若い。そして言う事もなんだか青い!こちとら既に斜に構え酒と垢にまみれた40歳も過ぎてから急に何かに目覚めたように俳句を始めたクチだというのに、彼はまだ大学生だという。そう。火尖君は年齢は私より20歳若く、炎環の中では私よりも1年先輩なのだ。
火尖君は愚直で不器用である。「週刊俳句」2008年12月21日号で私は「クリスマスは俳句でキメる!」という記事を書いている。その中でクリスマスイブに約束を取り付けた彼女へ贈る一句とそのシチュエーションを提示した。記事の最後に「相手が俳人でなければ、わかりやすいベタな台詞を五七五で言うのがベストかも…。テクニックを駆使した俳句は理解するのが困難。キメる以前の問題に。もし実践してみた方がいらっしゃいましたら、是非その結果も伺いたいところです。」と一文をつけた。まさか実践する人が本当にいるとは思わなかったのだが、実践してしまった奇特な人の一人が火尖君だった。勇気ある行動、いやいや、よく考えたらわかるはず。クリスマスイブのデートは自分の趣味ではなく互いに相手を喜ばせる事を考えるのがベスト。そもそも俳句でキメられるとか本気で試してみようとしている時点で女心からすれば的外れなのだ。そして彼は実践した。相手は俳句の趣味はない当時付き合っていた彼女。肝心な反応は「何言ってんの?」的な感じでスルーされたらしい。その彼女は現在奥様となっているハズ、だ。私のふざけた提案が二人の若者の将来をぶち壊す羽目にならなかった事に心から胸をなでおろしている。
さて、結社内で物凄い速さで炎環同人となった火尖君は、その後卒業し就職し上京し結婚し子供ができマイホームを手に入れ、と、ざっくり書いてしまえばいわゆる「普通の暮らし」を歩んでいくのだが、実際には喜びだけではなく、その「普通の暮らし」を歩むことですら様々な問題や葛藤を抱えながらであるようだ。そしてその様々な問題や葛藤は作品にも表れてくる。
火尖君は正直で嘘は言わない。しかしそれゆえ上手くいかないこともあるように感じる。それでも火尖君は俳句と出会えて明らかによかった人だと思う。日々生きる中で思っていたようには上手くいかない事、虐げられたと感じる事、誰かと気持ちがすれ違ってしまう事、体の不調、不条理な事、例えばテレビの中の政治家の言葉等、諸々すべてを適当にやり過ごせず、しかも大方無力でもあり、それに立ち向かう一つの形として俳句があるのだ。あるいは俳句があったからなんとか立ち向かおうと出来るのかもしれない。それ故、火尖君の俳句は面倒くさいぐらいにいちいち訴えかけてくるのだ。そして私はそういう姿勢の作品が実は結構好きで密かに憧れでもある。
そんな西川火尖君の第一句集「サーチライト」を読もうと思う。
句集は結社主宰の石寒太の序文、「四隅」「波」「粒」「光」の4章、あとがきから成り、一章目の前の冒頭に一句置かれている。まずはその冒頭の一句。
映写機の位置確かむる枯野かな
この句が冒頭にあるということは、作者はこれから始まる作品をお披露目するに当たり、よりよく見てもらえるように用意周到に準備したその最後の確認を見せているように思える。読者は映写機の位置を確かめている作中主体の動きを通して、これから始まる西川火尖の俳句世界に期待をもってページをめくるのである。花野ではなく枯野というところが火尖君らしい季語の斡旋である。この枯野は、彼の世界の根にあるものなのだ。
第一章「四隅」
伝言を偽る遊び鳳仙花
伝言ゲームではなく伝言を偽るのである。それは遊びというよりもどこか悪意が潜んでいるように感じる。捻じ曲げられた言葉しか届かない焦りや怒り。鳳仙花の明るい色がどこか不気味で、わさわさと伸びた茎の花のない下の方の昏さを想像してしまう。
穭田を粒子の粗い友が来る
広々とした稲刈り後の田んぼに細く稲の葉が出ている。遠目には薄ぼんやりと緑。そこを友達が向かってくる。しかしその友達は粒子が粗い。友達だと思っていたが実はそうでもなかったのかもしれない。穭田という刈り取られた後の実る事のない稲が、友だと思っている相手との実りのない関係を想像させる。
枯園の四隅投光器が定む
章の最後の一句である。枯野の四隅に投光器が置かれ、そこが枯園の四隅だという事が確定される。そこから放たれる光でこれから始まる物語は照らされてゆく。この句が最後にある事で、第一章は火尖君が俳句を詠む、その思いの原点を示す章だったのではないかと想像する。
第二章「波」
第二章「波」は日常の仕事や家族、子供の事を中心に構成されているように思える。作中の主体は現実の自分ということだろう。そして生まれてきた子供への思いは「虹」として表れているように見える。自虐的でやや語りすぎの俳句もあるが、迷った挙句にそう書かずにおれないという事か。明るく楽しそうな句もあるが、どこかに翳りがある。
開演のブザー枯野に欲しけり
第二章一ページ目、冒頭の一句。第一章で準備は整った。しかしまだ足りない。開演を知らせるブザーだ。単独で読めば枯園で何か芝居でも始まるのかという感じだろうが、句集の一句目、そして一章目の最後の句の流れから、この句には別の意味が隠されていることは間違いないだろう。十分準備をしてきたが開演の段になってまだ足りない。不安、ジレンマ、そして希望も。
冬帽子金を払つて生きてゆく
花を買ふ我が賞与でも買へる花を
[冬帽子]身も蓋もない。しかし事実。冬帽子が寒さを助長させる。金を払えなければ生きてゆく値打ちもないのかと自虐的な思いも透けて見える。[花を買ふ]おそらく冬の賞与と思われるので、花屋で売っている花の事だろう。妻への贈り物だろうか。大層な花束ではなく、ちょっとした小さなブーケを想像した。それだとて何か特別な事なのだろうと想像する。そしてこの句にも僅かな賞与しかもらえないけどという自虐と、忸怩たる思いが見える。
非正規は非正規父となる冬も
葉生姜や稼ぐといふか補ふ日々
冬近し無料情報誌の黄色
[非正規は]父となる冬だろうが非正規雇用である事に変りはなく、それはすなわち常に安定した収入が得られる訳ではない暮らしという事だ。読んでいるこっちが心配になってくる。[葉生姜や]お金に余裕のないギリギリの暮らし向きなのだろうか。子供の為に貯蓄も保険も必要だろうし、とにかくこの世はお金を払えなければ生きてゆけないのだ。[冬近し]無料情報誌といえば大概アルバイトや就職情報誌だろう。新しい仕事を探しているのだろうか。それにしても冬近しとか。心も懐も冷えてゆくばかり。眼を引く黄色すら自分を追い立てているようである。
歩き疲れては吹きたる石鹸玉
子の問に何度も虹と答へけり
[歩き疲れて]子供と散歩しているのだろうか。子供が歩き疲れて立ち止まる度に石鹸玉を吹き気を紛らわせ再び歩かせる。同時に自身の事とも読み取れる。石鹸玉の虹色に明日も頑張ろうとか思うのだ。[子の問に]どんな問なのかは分からない。けれど答えは虹一択なのだ。自身の暮らし向きはキラキラもしていないし華やかな事もない。けれども子供の未来はまだ何も決まっていない。夢の懸け橋的なイメージの虹である。
原爆の絵本の虹を見下ろしぬ
未来明るし未来明るし葱洗ふ
[原爆の絵本]ここにも虹がある。子供にもわかる絵本。原爆という恐ろしい過去の事実。しかしそこにも虹がある。虹は平和と希望の象徴なのだ。しかしそれを見下ろしている。本当に平和なのか、本当に希望はあるのか。見上げるのではなく見下ろす虹だからこそ作者の疑念が現れるのだ。[未来明るし]この「未来明るし」の繰り返しは、そうであったらいいなという祈りと、そう信じたいという自分への言い聞かせのように感じる。この際洗っているのはなんでもいいのだが、ささやかな日々の暮らしを表すのには葱くらいがちょうどいい。
付けて名を呼ぶことの無き金魚かな
名を付けたら呼んであげなくてはならない。金魚でも犬でも猫でも人でも。名を呼ぶことでただの金魚が特別な金魚になるのだから。しかし名を付けただけで呼ぶことはないのだ。なんという不毛。そしてなんと寂しいことか。その他大勢のなかの一人で、個別認識をされていない人の様のようにも感じてくる。
第三章「粒」
この章は、作られた作中主体として詠まれている俳句や、現実から離れた作品がまとまっているようだ。作風は第二章より明るい。こうだったらいいなと思っているのかもしれない。しかし最後には現実に戻ってきて最後の章につなげていくという構成に見える。
液漏れの電池蘖えさうなほど
長いこと放っておいて液漏れした電池。あの感じ、確かに蘖えそうである。銀杏の木の根元とかたしかにあんな感じがする。季語として弱いかもしれないけれど、確かに共通点があると思え、これから蘖を見たら電池の液漏れを思い出してしまいそうだ。
風船を結ぶのに佳き指ですか
自らの指を風船を結ぶのに佳い指かと問うている。いつもあまり上手に結べないのかもしれないけれどコツさえつかめばきっと、そんなふうにも読める。
夏負けの歯のぎつしりと手鏡に
歯が夏負けている訳ではないだろうが、なんだか手鏡に移った歯は夏負けているようにも感じる。そして手鏡にぎっしりとというと、ちょっと不気味な感じもする。
拡声器に手足褒められ泳ぎけり
本当に褒められているのかどうかよくわからない。しかし拡声器を通した声は手足を褒めているのだろう。それでも最後まで泳ぎ切ってしまう感じ。力強いようで、実はもういろいろ諦めて泳いでいるかのようにも感じてしまう。
次々と月光役の子供来る
月光役の子供というのが不思議だ。いったいどんな劇をやっているのだろう。月光は夜でありあの世であり闇であり静である世界だ。それを演じるのが子供で次々来るという違和感。
カレー食ふ列の無防備冬近し
立ち食いカレーの店でカウンターに向かってカレーを食べている人達の背中だろうか。確かに物を食う時人は無防備である。緊張し構えていたら味もなにもわからない。このカレー屋はそこそこ人気なんだろう。しかしそのひと時の、幸せで無防備な列にも冬が迫っている。そしてこの句が第三章の最後なのだ。どこまでも幸せでは終わらせないという作者の意図を感じてしまう。
第四章「光」
繰り返し繰り返し冬の川渡る
この章は二句で終わる。そのうちの一句。これまでの章はすべて過去だった。最後の章は未来である。火尖君は未来を明るく順風満帆とは思っていないようだ。何しろ繰り返し渡るのは冬の川だからだ。しかしそれでも前進をする。そんな決意とも取れる。
できれば多くの人にこの句集を手にとってもらいたいと思い、あまり沢山の句は引かなかった。それにあまり明るい句を引いていないのは、おそらく今現在の私の気分が明るい気分でないからなのかもしれない。とりあえず私の手元の句集には琉金の鰭のように付箋がみっちりと付いている。
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