2022-03-13

伊藤幹哲【西川火尖『サーチライト』評】サーチライトの照らし出すもの・映し出すもの

   【西川火尖『サーチライト』評】

サーチライトの照らし出すもの・映し出すもの

伊藤幹哲


第1 はじめに

約1時間半をかけて『サーチライト』を読んだ。読後感は、ゴダールかフェデリコ・フェリーニの映画を見終ったあとのようであった。次に思ったのは、この作者は何を考えてこのような俳句を作るのだろうということであった。少なくとも、私には到底作ることが叶わない俳句が数多く並んでいる。その真意に少しでも近づいてみたい。浅学の身ではあるが、私なりに考えたこと・気がついたことを列記していこうと思う。

以下大きなテーマとして第2~第4ではサーチライトの照らすものが何かということについて、第5、第6では俳句における重層性が与えるものについて考察している。


第2 形式から理解できる映写の光

 
まず気になったことは、形式である。西川火尖さん(以下「火尖さん」という。)は、第11回の北斗賞受賞者である。ご存じのように、北斗賞受賞の副賞は句集出版である。私も第12回受賞者として、現在句集を編んでいる真っ最中な訳で、否が応でもその形式の面白さが目にとまる。

直感的に映画のようだと思ったのは、幾つかの仕掛けのせいが大きいだろう。全体に暗めの表紙から、薄紙での「句集 サーチライト 西川火尖」のタイトルロール、冒頭一句が「映写機の位置確かむる枯野かな」であり、これはどの章にもかからない独立の一句として句集全体を象徴する意味がある。「波」の章の冒頭句は、「開演のブザー枯野に欲しけり」である。最終頁はエンドロールとなっている。

各章は四章で「四隅」「波」「粒」「光」である。編年体の句集が多い中で構成に著者の何らかの明確な意図がある。実際、火尖さんはエッセイの中で「構成や隠し要素にこだわ」(2022年3月号「俳句界」)ったと述べている。「四隅」は10頁、光は3頁と比較的短い章であり、「波」と「粒」はそれぞれ67頁と比較的長い章である。いわば起承転結となっている。推察するに、おそらく四隅から照らし出した映写機の映し出す先をスローモーションのように波と捉え、より近づいて粒(粒子というべきか)と捉え、やがて光となるということなのだろう。

この光は過去から来てやがて未来へと繋がる、自らの行く末を指し示すサーチライトではないか。闇から伸びゆく一縷の光。その映写的で人工的な光は、何を頼ることなく自らの力で闇を切り裂いていく。この点については、「あとがき」において師である「石寒太先生が未来へと進もうとする光を・・・読み取ってくれた」ということは十分に理解できるところである。


第3 過去を照らす

他方で火尖さんは、「若林哲哉くんが過去へのざらついた眼差しを・・・読み取ってくれた」とも書いている。なるほど、火尖さんの句からは現代的な境涯を読み取ることが可能だ。

秋尾敏は「境涯の俳句史」において「境涯俳句は、社会が変化し、貧富の差が拡大する時代に繰り返し現れる。芭蕉、一茶、鬼城、波郷の時代は、いずれも経済的構造が変化し、新たな格差が作られる時代であった。

そして今、今日の格差社会の中で、また境涯俳句が注目されている。従来と違うのは、社会の多様性が振興しているということである。障害や性差をはじめとして、あらゆる既成の認識が脱構築されていくなかで、従来、境涯と思われなかったものが境涯と認識されていくことも多い。文学とは状況認識であり、俳句もまた世界観を基盤に置く。これからの俳人が何を境涯と考えていくかに注目したい。」(「俳句界」 2022年3月号)と述べている。

火尖さんの俳句の一部は、まさにこのような意味での境涯俳句たる側面を有している。『サーチライト』の中で忌日を季語とする俳句は二つ。そのうちの一つが「啄木忌」なのは象徴的である。
   
啄木忌ペットボトルの中曇る

また下記の句などが火尖さんの生活の一端を示している。

冬帽子金を払つて生きてゆく
日記買ふよく働いて肥満して
花を買ふわが賞与でも買へる花を
夜勤者に引継ぐ冬の虹のこと
非正規は非正規父となる冬も
未来明るし未来明るし葱洗ふ
初蝶や働かぬ日と働く日々
チューリップ求職中と書きにけり
百日紅やはり稼がねばと思ふ
自らを罵る夜の洗ひ髪
黒い電気黒い夜業のオルゴール
秋蜂やふつと無職に醒めてをり


第4 サーチライトが照らすのは火尖さんの現在

以上2名の先達の解釈を踏まえて、さらに私なりに理解するところを述べる。サーチライトの光が照らしているのは、しかしそれでもなお常に火尖さんのその瞬間の現在なのであろうと思う。ここが本質であって、指摘を落としてはならないはずだ。
人生の一端を照射し続けてこそ、句が生まれる。ただ句は句ができたその瞬間に過去となり、未来を志向する。萩原朔太郎が言うように「詩が本質する精神は、この感情の意味によって訴えられたる、現在(ザイン)しないものへの憧憬」(『詩の原理』)なのである。
同じことを火尖さんは「あとがき」において「サーチライト」の印象について「遠くから来て遠くへ行く光へ。近づけば強く、しかし離れると弱まっていく光になっていった。」と述べる。

私なりに括弧を用いて言葉を補えば「遠く(過去)から来て(現在を経由して)また遠く(未来)へ行く光」であり、「(現在に)近づけば強く、(現在から)離れると弱まっていく光」ということであろう。そこにあるのは作者の現在を照らす詩の数々なのである。
 
ボードレールが「われわれの独創性のほとんどは、われわれの感覚に『時』が刻み込む烙印から生まれるものだからである。」(「現代生活の画家」)と述べていることも銘記しておかねばなるまい。


第5 『サーチライト』という多層性

 
『サーチライト』はフィクションなのか、ドキュメンタリーなのか。

第2において『サーチライト』の映画性を指摘した。ただ映写機の映すものは虚像だ。この意味で読者はまず、『サーチライト』の持つ確かな重量感にもかかわらず、どこかで火尖さんに「この作品はフィクションです」と裏切られる危険を伴いながら、作品と向き合わなければならない。この点に一つ目の重層性がある。

 
次に個々の作品の持つ重層性がある。

冒頭に置かれた「映写機の位置確かむる枯野かな」からして、上五中七と下五の季語の取り合わせでできている。この句は写生という切口で見れば、あまりに離れすぎていて、実際の景を想起することが難しい。いや、想定はできるが、「枯野」で映写はしないであろうというところで想像を打ち切ることになる。

しかし、これは方法論の違いであり、火尖さんは写生に拘っていないのである。ことばを借りれば、「写実主義が表象できたのは、経験論的な、虚しい表層の世界だけだったのではないか。ここにおいてデカルト的な観察者としての立ち位置を手放し、これまでとは違った方法で、ものそれ自体と向きあ」(柳元佑太『写生という奇怪なキメラ』「俳句界」2022年3月号)っていると見るべきである。それは誓子のモンタージュ式とはまた別の意味での映像性を背景に有している。一つのシーンともう一つのシーンは火尖さんという映写機を媒介として確かに繋がっているのである。

この意味で、火尖さんの個々の俳句には従来の取り合わせの範疇を超えた重層性が多く見られる。既に序文において「独白のような意識の世界と特徴的な季語の取り合わせの妙が、ひとつの魅力になっている」と指摘されている通りである。

このような作品全体の重層性と個々の作品の重層性は入り交じって、『サーチライト』の多層的な構造を生み出している。サーチライトが映し出すものは複雑性を有している。


第6 多層性の何が人に感動をもたらすか

1 キーワードは共感と驚異
第5では火尖さんの俳句が多層的な構造であることを述べた。ではそのことがどのように人に感動をもたらすか。キーワードは共感と驚異ではないか。

2 俳句における共感
さて子規は写生について「印象明瞭とはその句を誦するものをして、眼前に実物実景を賭るが如く感ぜしむるを謂ふ」(正岡子規「明治二十九年の俳句界」)と述べる。子規の写生論から始まる俳句の多くは共感を大事にしている。共感とはシンパシー、すなわち、作者と読者とは十七音を媒介にしてその感覚を共有するのである。もちろん、俳句は十七字の極度に省略された文芸であるから、散文のように多くを共有することはできない。その共有には個々の過去の体験を前提に共有することになる。だが、その共感という方向に限って言えば、同じである。このようにして共感という矢印の一番先には、極論すれば、「この俳句は私のために書かれた俳句だ」という感覚さえ存在するわけである。包み込まれる。これは感動に他ならない。

ただし、この共感の方向で俳句を作る場合、同じようなことを既に考えていた人がいれば、類句の問題に逢着してしまう。私は今句集を編んでいる。自分で推敲を重ねて素晴らしい俳句ができたと思っていたときでも、類句があると気がつけば潔く捨てねばならない。俳句の歴史も長い。俳句人口を考えれば、探せばどこかで誰かが何か同じようなことを言っているかもしれないというのは最短詩型としての俳句の宿命でもある。

これは一面で言えば、写生という方式の一つの限界だとも言えるかもしれない。それでも、私を含めた多くの俳人は生涯に一句残ればよいという気概をもっているはずだ。私は秋櫻子先生が「文芸上の真」というところの主観写生、抒情性、そして韻文性などを俳句の本質だと考えている。感動を人に伝えることが最優先と思うのだ。そうすることで、数多の先達とも幾多のこれからの俳人とも対話ができる。だが、話がやや逸れた。火尖さんの『サーチライト』の稿を頼まれたのであった。

そういう意味では、火尖さんにも共感型の俳句も少なからずある。例えば、

外套を君は扉のごと叩く
星合の象飾られしまま眠る
椅子引いて妻座らせる聖夜劇
大根を放つたらかしに煮てゐたり
如月の笑ふとき子はタンバリン
春コート葉書が入るポケットの
春霖やバスの座席の深みどり
花時の水をくぐらす茹卵
眠りても化粧の匂ひ夏の雨
舞台袖まで月光の領土なり
胸の雪払ひ祈りを真似てをり
息白しあにいもうとの耳打ちは
プレアデス星団胸で鳴るラジオ
薄氷に触れつつ朝の月沈む
鶯や余熱の匂ふ材木屋
妹の日傘の影が手に触れぬ

などである。これらの句は象徴的に季語が生きて解釈の方向性を意味づけている。どちらに向かって理解すればいいのか、その着地点が見える。

3 俳句における驚異
2では共感型の俳句をつい多く掲げてしまったが、火尖さんの俳句の特徴は、2で挙げたような句が例外であるということだ。どれも独創的だ。類句が限りなく存在しにくい。その独創性を生んでいるのは、句材の選択ももちろんあるが、より本質的には第5記載の多層性によるところが大きいと見ている。虚実皮膜。

独創性の先にあるのは、驚異、すなわち異なることへの驚きである。未だ嘗て見たことがないために素晴らしいという図式が成り立つわけである。

少なくとも、俳句革新の歴史を紐解けばこのような驚異の感覚に賭けた人々が切り開いてきた道であったに違いない。「例えばそれまでは鳴く声を詠むのが伝統だった蛙を芭蕉が「古池や」と詠んで新生面を開いたように、・・・季語にその時代の新しい切口を見出すことは、俳諧以来の俳句の大事な役割」(「俳句界」2022年3月号 小川軽舟「私の追求したい季語」)なのである。だから火尖さんは新興俳句を先導した「草城」の忌日を詠み込むのであろう。

草城忌洋酒都市めく吊戸棚

この点について、物事には必ず表と裏がある。この方式で俳句を作ると「分らない、独善」などの評を下されることも多い。しかし、時代の淘汰によってのみ正確な評は下されることを指摘すれば十分と思う。

さて驚異のベクトルは、さらに二つに分類できようか。三橋敏雄は何処かで「違和感は俳句になる」と述べている。例えば

混信の無線が冬と言うてゐる
短日の紙の折り目を裂く定規
注がれしごと入学の列来る
吾を妬む文美しや冬の川
一匹の黒蟻怒りながら逃げ
どうしても影の整ふ雛かな
羽を負ひ蝶と呼ばれてゐたりけり
息と息ずれる溽暑の口吸へば
逢ふときの短き電話花カンナ
秋の日の周り窺ひつつ拍手
蚊を打つて妻は躊躇ひなく白し
子の問に何度も虹と答へけり
十二月鳥籠を買ひ替へる月
ろろろろと春満月へ向かふバス

などの句を見てみよう。意味を明確に否定していないが、火尖さんは何かが不自然だと思っている。それは確かに発見なのだが、多くは違和感・拒絶感に近い。例えば、雛の句には不揃いなものへの希求を読むことができる。

そして重層性の中でしか読み解けない句の数々がある。

本当に薄翅蜉蝣なのですか
鶏頭花すぐに答が出て迷ふ
雪の書庫灯る唇から渇き 
鮟鱇鍋包み隠さず笑へといふ
秋蝶や流れ解散美しく
桃食ふや何に背きしかは知らず

 一部を引いたが、どこかにカフカの『城』のような、自分がどこにも所属していないような感覚が窺える。多層性がゆえに解釈の余地が非常に大きく、確かに共感の可能性は減る。だがこの方式によると、矛盾するようだが、刺さったときは深く刺さる可能性が高まるのではないか。やはり「自分のことだ」という感覚は共感型とこの点だけで言えば同じだろうが、喩えればその刺さり方は鋭利な刃物のそれだ。そのとき、読み手もまた生涯の一句を得るのだろうと思う(注1)。
 

第7 結語

以上、考えたところを縷々書いてきた。だが、すべての句について詩としての純度の高さがあることは今更言うには及ばない。火尖さんの現在を照らし続けた詩の数々であるが、必ず『サーチライト』を手に取った読者にも何かをもたらすのではないかと思う。もしかすると生涯の一句と巡り会うかもしれない。
最後に、貴重な著書をご恵贈いただいた火尖さん、本稿執筆の機会を頂いた松本てふこさん、多くの関係者に対して記して感謝いたします。

(注1) 自己弁護的な言い方だが、念のため誤解が生じないように補足的に注記しておく。  
本稿では、感動の与え方を二元的に共感と驚異に分けた。だが、もとよりその境目は曖昧だ。川本皓嗣が言うように「俳句は短詩型として読者の参加を前提とする。読者任せにする部分が大きければ大きいほど、読者の側では意味の読み取りが困難になる。何か面白い解釈にたどり着いたとしても、読み取りを支える何かが句から与えられていなければ、読者はきわめて手応えのない、中途半端な状態に置かれることになる。俳句は常に、解釈の自由と不安という両極の危ういバランスの上に立っている。」のである(『俳諧の詩学』Ⅳ-2「詩語の力 俳句とイマジスムの詩」)
 


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