2022-03-13

楠本奇蹄【西川火尖『サーチライト』評】切実な眼差し

 【西川火尖『サーチライト』評】

切実な眼差し

楠本奇蹄


「何を映すか」は重要である。「俳句が何を映すか」と同じくらい「自らの眼にどの俳句を映すか」も。

昨年末に刊行された西川火尖の第一句集『サーチライト』は、読むたびに鑑賞を深めたい句が変わっていく。否応にも、俳句が映し出す対象と、その句を選び取った読み手としての心の動きを意識してしまう。

句集『サーチライト』は、その構成にいくつかの意図があるようで、それを推量していくのもこの句集のひとつの楽しみ方だろう。

作者の描きだす多様な句の世界は、そうした句集の構成をいったん忘れても、なお胸に迫るものがある。多様な俳句表現を知悉しているであろう作者が、人目を引く表現のみに頼らず、実直かつ精妙に作り上げた句が投げかけている眼差しの対象は、生活やライフイベント、社会、人と人の関係性など実に幅広い。

それゆえ冒頭の句〈映写機の位置確かむる枯野かな〉は、火尖の俳句の広いレンジをどう切り取るのか、という読み手側のテーマ設定について一考させる仕掛けのように思われる。

またおそらくは、序章である〈四隅〉において句集中に扱われるテーマがメニューのように提示されている(表題句〈枯園の四隅投光器が定む〉がそれを示唆している)と考えると、いったんは句の読みに補助線を引いているかのようである。

しかし、そうした営為があってなお、火尖句は容易に割り切れない多彩さを放っている。それは、現代的な諸相を丁寧に写し取るだけでなく、それを俳句でなければ表現できない(と思われる)かたちで再構成しているプロセスの多様さと、虚実の入り組んだ創作の文脈によるものと思われる。

そこで本稿では、この句集の「四隅」からテーマを独断によって引き出し、その一部をさらに独断的に切り取ることで、本句集のほんの一側面に光を当ててみたいと思う。


1.諦念と原罪

特に句集中の半ばには、労働とそれにまつわる不条理あるいは怒りを扱った句が配置されている。これらの句は比較的了解性の高い句と考えられ、格差とそれを是認する社会に対する徒労感が滲んでいる。

さらには、

いかのぼり広場の誰も彼も正気
手から手へどの手がゐもり捨てにいく

といった句からは、もはや労働という色彩は拭われ、人や社会の本性への批判的な視点が垣間見える。

こうした句には、その先に諦念の影がちらついているようであるが、一方で不思議と陰鬱さとは無縁である。口語や現代的な単語を織り交ぜていることもあるのだろうが、現実に対して明るい色調を加えずにはいられない作者の本能のようなものを感じる。

何もいらないのに雪が降りにけり

明るいけれど、さみしく切実。こうした情動が、何かを希求するものとして、句集の底を流れている。

未来明るし未来明るし葱洗ふ

このリフレインも過剰なまでに切実であり、未来の明るさを渇望することで現在の暗澹たる様相を想像させる。

ただし、暗く切実なだけではない生の一場面も、確実に描出されている。

去年今年まばたきミラノ風ドリア

かのサイゼリヤの代名詞は、安価でありながら肯定的な文脈で語られ続けている稀有な一品と言える。一瞬に過ぎ去っていく時間の中に、安くて美味い一皿が燦然と存在している。句集にはこうした明るい点描が確かにあって、一滴の救いを思わせる。

ここまでは労働や社会といった「外部」への批判的視点から出発した鑑賞であったが、作者のその眼差しは自身や近しい立場にも向けられている。

喜びの他は分からぬ蚕かな
蚊を打つて妻は躊躇ひなく白し

外部に対するものと同質な眼差しが己の内側に向いたとき、掲句がいずれも日常と殺生にまつわるものであるせいかもしれないが、そこにはやや原罪めいた感興が浮かび上がるように感じる。

日々の中で流していかねばならないこの感覚は、句集中でおざなりにされることなく、徐々に沈潜していき、

蛍や水底と文字打ちたれば

の鋭敏なきらめきに結実しているように思える。


2.誕生と鬱屈

この項ばかりは、句集の並びのとおりに句を辿っていきたい。

吾が子の誕生の下りである。

目覚むれば夏の途中と告げてやる

告げてやる、というアプローチで生まれたての吾が子に対峙する父。この父性と思しきものの疼きは、やはり切実さを滲ませている。

この句に続く父と子の素朴な情景と感慨には、胸を打つものがある。

草いきれ何を喜ぶ子になるか
子の問に何度も虹と答へけり

視線を外すことのないまっすぐな吾子俳句。実景が眼前に再現されるようであり、そこに込められた願いは、前項で挙げた労働のやるせなさを踏まえれば、やはり切実である。

むしろ子どもの誕生によって、その切実さは増していくようだ。

向日葵に人間のこと全部話す

この向日葵は、向日葵であり子どもであるかもしれない。厳しく不条理な現実もまた、生あるうちに子どもに伝えねばならない(どこまで理解できるかは別として)という姿勢が感じられる。

直球の吾子俳句は、この句集の文脈上の切実さゆえに紋切型を免れ、父の自問と不安、さらには懸命な生を描き出すに至っている。

一方で、

蜂蜜を減らし家族の五月闇

のような、鬱屈した肖像も仄めかされており、家族の多面性や複雑なダイナミクスが示唆されているのも見逃せない。

そうした家族の中に吾子俳句が位置づけられることで、立体的な父子像となり、また父の逡巡に実感が籠っているように思われる。


3.他者と渇望

これまでの文脈とは異なるが『サーチライト』には、閉じられた空間における関係性、有り体に言えば性愛にまつわる句も散りばめられている。

この作者はそうしたモチーフであっても抒情に溺れすぎず、俳句的な筆致を忘れていないのだけれど、これらの句が集中にささやかなひずみをもたらしているのも感じられる。

抱擁の醒めても続く蚊遣かな

には、蚊遣の煙がたゆたう空間の奥ゆきが広がっていて、言い知れぬ虚しさが漂う。抱擁の相手の如何ともし難い他者性を感じた時の、痛みが思われてくる。

もちろん、

不時着の二人と思ふ冬菫

のように、甘い後味の句もあるにはあるが、それよりも哀しいまでの満たされなさが目につく。

この満たされない感覚は、句集後半に続けてあらわれてくる。

拭はれてなほ花冷えの及ぶ夜は
息と息ずれる溽暑の口吸へば

ここから感じられるのは、砂場に水が浸み込んでいくような、求めがいくら満たされても次々と湧き上がってきりのない渇望だろうか。

おそらくそこには、単に他者との絶対的な隔たりの認識、という程度では飽き足らない、もっとどす黒い深淵――もしかすると自我の存亡に関わるような――が覗いている。当然、性愛の生々しさとはまったく別の次元である。

この項での掲句に密室的な状況が示唆されていることで、よりその渇望感にピントが合わせられているかのようだ。

部屋狭き故に裸を撮り合ひぬ

に至っては、その屈折した渇望の発露が、かなしく痛々しいまでに想像される。

これまで見てきた切実さが、関係性においてはこうした痛みを伴った渇望にまで煮詰められてしまうと考えると、この渇望は切実さを純化した結晶のような気がしてならない。

そう思うと、渇望は句集の(作者の、という言い方は避けたい)大いなる原動力とも捉えられるのだ。

以上、気儘な鑑賞を書き連ねてきた。

より美しく、上手く、あるいは斬新にその俳句世界を描くこともできたであろう作者が、概ね定型的な俳句形式に依ったことは、ある種挑戦的な行動に思える。

切実な眼差しの俳句たちによって照らし出され、そしてその俳句を読んだ私の眼に映し出されているのは、凍えるような現実と、その中からしか見出すことのできない、だけれども決して寒々しいだけではない祈りなのだと感じられてならない。

はじまりの違ふ花ざかりの交差

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