【空へゆく階段】№68
俳句の韻律
田中裕明
「俳句」2003年4月号
俳句は韻文である。俳句は、古代歌謡-和歌-俳諧の発句-俳句という過程で五音・七音・五音からなる十七音律の詩に定まってきたのである。
正岡子規は、明治二十八年執筆の『俳諧大要』の中で初心者に対して次のように書いている。
俳句をものせんと思ひ立ちしその瞬間に半句にても一句にても、ものし置くべし、初心の者はとかくに思ひつきたる趣向を十七字に綴り得ぬと思ひ棄つるぞ多き、はなはだ損なり。十七字にならねば十五字、十六字、十八字、十九字乃至二十二、三字一向に差支へなし。またみやびたるしやれたる言葉を知らずとて趣向を棄つるも誤れり。雅語、俗語、漢語、仏語、何にても構はず無理に一首の韻文となし置くべし。
子規は五・七・五をあまり厳格に考えていなかった。俳句の音調には無数の小異があると言っている。それにしても、「二十二、三字」というのは多すぎはしないか。
俳句は単に短い十七音の詩ではなく、『万葉集』以来の日本の詩の歴史の中で、五音・七音・五音という韻律が定まったのである。その結果、芭蕉の発句と現代俳句の名句は、同じ詩として一くくりにすることが可能である。これは一見不思議なことだ。
行く春を近江の人とをしみける 芭蕉
右の句は元禄四年(一六九一)刊行の『猿蓑』に収められたもの。まだ俳句という言葉はなく、「俳諧の発句」と呼ばれていた。俳句という呼称は、明治になって正岡子規が命名するまで一般には用いられていない。
遠山に日の当りたる枯野かな 高浜虚子
虚子の五・七・五は柔軟な印象を与える。それでいて強靱。この句も朗々とした響きが聞こえてくるようだ。一句に立体感をもたせているのも律語である。上五、中七の速度と下五の安定が奥行きを生んでいる。したたかな定型感覚をもつにいたる作者の二十六歳の作品である。眼中のもの皆俳句と言いのける、たしかな韻律がある。
俳句が韻文であるのは、古代歌謡や和歌以来の五七調、七五調を残しているということのほかに、俳句には切字があるからとも言えよう。切字は、や、かな、けりに代表される。切字によって休止することが、すなわち韻律を生む。俳句のリズムと切字は深いかかわりがある。
もののふの菩提寺とほき二月かな 大峯あきら
ある侍の菩提寺が遠くにあるという。それも何キロメートルという物理的なものさしで測られる遠さではなく、精神的な距離である。「かな」という切字は、切字の中でも感動の重さを支えるのに最もふさわしい。ここでは二月という季語が、単なる時節、月の呼称ではなく、「遠さの思想」を受けて詩の言葉となった。「かな」という切字には、五音・七音・五音というリズムをくっきりさせる働きがある。そのため、それぞれの音が澄んで聞こえる。
石田波郷は、複雑な対象を極度に単純化して、ひと息に表現することが俳句の魅力だと言った。感情や風景を、複雑なものは複雑なままに詠もうとするのが、俳句における散文精神である。これでは、当然、韻律は乱れ、俳句の魅力は失われる。波郷はこれに対して韻文精神ということを唱えた。
雁の束の間に蕎麦刈られけり 石田波郷
波郷の用いる切字は重厚である。韻文精神の徹底を説いた作者は実作の挌としても、「や・かな・けり」の切字を用いよと言った。
俳句の挌は、いかに韻文となりえているかによる。
雁の句の表現する内容は、前に通った時には実っていた蕎麦が、今は刈られているというだけなのだが、それも複雑な対象を極度に単純化した結果なのである。「雁の」がまるで和歌の枕詞のような働きをしている。限定された十七字のなかでいかに複雑なことを詠むかではなく、このようにひと息に詠いたい。
五音・七音・五音で季語が入っていれば俳句になるわけではない。すぐれた俳人は詩のリズムに敏感だった。
日本の詩の流れのなかで韻律を大切にすることが、俳句の可能性を最大にする方法である。
0 comments:
コメントを投稿