2022-07-24

 【俳句を読む・自作を読む】

「ナンセンスの練習」7句・自句自解  


上田信治

 

「俳句」7月号(2022.6.25)掲載「ナンセンスの練習」7句、ツイッターで「自信作」と書いたのですが、フツフツとどこが自信作か説明したくなってしまったので、こちらに書きます。


シウマイに豆載せて咲く蓮の池

一句目がいちばん説明しにくい……。

語順(というか呼吸)的に「シウマイに豆載せて」が「咲く」の形容になっていて、その成立しない形容で、蓮の池を、非リアルでキッチュな、中華っぽい絵のような次元に立ち上げようという狙い。

 「シウマイ」に「」を載せたときに生まれる中心性が「花」のようだ、と感じたことが出発点だったと思う。蓮の花の香りが、中国茶を思わせるということも少し。


おしぼりが冷たい雨の日のジャスミン


冷たい」が、前後のどちらの語句にも係りうる、という型。個人的にこれを「ぱかぱか」と呼んでいます(そんな玩具があった)。

おしぼりが冷たい/雨の日のジャスミン
おしぼりが/冷たい雨の日のジャスミン

冷たいおしぼりの出るオールドスタイルの飲食店と、その後背にある住宅地の生垣に咲いている(だろう)ジャスミンの花。

暑くて湿気の多い時候の空気感、室内と室外。冷温の対比、風俗的な懐かしさ、いい香り、といった複数のモチーフが、構文的にからまり合うような形で提示され、最終的に「ジャスミン」の四音に着地。それら感覚のよろこびが、手渡されるべきメッセージとなります。

冷たいジャスミン」の「め→め→み」という音のつながりも。


川がある五月は自転車の小父さん

前句と同じく、句またがりから四音の着地ですが「じてん・しゃの」と単語の途中でまたがるので、ガタガタするのが、小父さん自転車っぽい。

主題を提示する「は」は構えが大きくなって気持ちがいい代わりに、句が概念的かつ言明的になりやすいのですが、この句は「川がある」と初句で打ちだしたあとの「五月は」なので「え、また主題?」となって中心性が弱く、結果「川がある五月」という煮え切らないものの中を「小父さん」が移動していく、ブツブツ感、つぶやき感が見どころになっているように思います。


孑孒やひるぞらの枝伐られつつ


水中の生きものと空(が映る水面)の対比は「天日のうつりて暗し蝌蚪の水 虚子」から。高所から落ちてくる枝と、水に縦に浮くぼうふらの形態的相似がライトモチーフ。

はじめ「孑孒やひるぞら枝の伐られつつ」と、四音の単語を挿入する万太郎の「はるのよ」の型を使っていたのだけれど、いまの句形のほうが「ひるぞらの枝」が、いったん定着してから落ちてくるリアルさがあっていいかと。


白牡丹とうふを冷蔵庫に入れる

季語+日常的光景という平成俳句の代表型ですが、ムダに白いもの三つで繋いでいることで、季語による価値化が妨害されているのが新しいと思う……。

同じ白でも[白牡丹=不定形/とうふ冷蔵庫=四角い][白牡丹=室外/冷蔵庫=室内] という対比があり、つまり、とうふは室外から室内に移動し(最終的に冷蔵庫は閉じられるので)白→白→白→暗、と展開する。「とーふ」と「れーぞーこ」と、二つの伸ばす音がバランスしていることも○。

こういうのが、偶然できるときが、いちばん楽しい。


夏落葉インターフォンの前に人

「夏落葉」は「見れば降るくらやみ坂の夏落葉 藺草慶子」以来、夏の白昼の異界的な感触をあらわす季語だと思っている(「立葵」が「貧乏」とひもづいているようなもの)。

(どこかで夏落葉が降る幻想があり)インターフォンの前にいる人は、こちらに背中を見せている。夏の強い光のなか、その輪郭がマグリットの絵の登場人物のように見えたら、本望。


人生の意味はつなつの虫と石

おつき合いいただき、ありがとうございます。

同時代の俳句は、お互いがやっていることが、かつてなく見えにくくなっていて、それぞれの俳句の「読み筋」や「位置づけ」を問うことの重要性が増しています。

そこで、ふと、自分も自分の俳句の「読み筋」を、みなさんに聞いて欲しくなったという次第。こんなこと、誰も質問してくれないですからね。

人生の意味」というようなことは、俳句で言い切れるわけもないので、言い出した瞬間にどう相対化するかと計算をはじめている。「イミ」の二音から「虫」と「石」が出来て、頭文字が「ム」「イ」だったので、あ、これかなと。 


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