2022-12-11

彌榮浩樹 《鏡》としての<AI一茶くん>

 《鏡》としての<AI一茶くん>


彌榮浩樹 



はじめに

「AI俳句」について知り・考えることは、反照的に、僕たちの俳句(づくり)とは何なのかを見せてくれる、いわば《鏡》でもある。より具体的に言えば、僕たちの俳句(づくり)に含まれる「謎」を根源からあぶり出して見せてくれる、そこが、僕にとっての「AI俳句」のいちばん面白いところだ。

僕自身は、AIに関してはまったくの素人なのだが、先日『醍醐会』(京都で行っている俳句の探究会)において「<AI俳句>とわれわれの俳句」というテーマで発表を行う機会があり、関連する様々な文献を読みながら考えたことがあるので、ここで披瀝させていただく。(なにぶん素人の生半可な理解に基づく考察なので、AIの専門家や詳しい方には噴飯ものの戯言の羅列になっているかもしれませんが、俳句好きな皆さんへの何らかのヒント・刺激にはなるかもしれない、と願っています)。

なお、今回のこの文章は、『人工知能が俳句を詠む:AI一茶くんの挑戦』(川村秀憲、他著 オーム社)を読み、<AI一茶くん>について考えたことを中心にしている。同書は、<AI一茶くん>の「成長」のプロセスを詳しく知ることができる、『AI研究者と俳人』と同様たいへんに刺激的・啓発的な書籍であった。以下、引用は(最後の波多野爽波のものを除いて)すべてこの書籍からのものである。

テーマは、次の3つ。
1. 「俳句をつくる」とはどうすることなのか?
2. 「俳句を評価する」とはどうすることなのか?
3. 「多読多憶」とは何なのか?


 
1. 「俳句をつくる」とはどうすることなのか?

1a.<AI一茶くん>の場合 

コンピュータ上のアルゴリズム(一連の手順)によって「俳句(=有季定型のかたちをした言葉の並び)」を生成する、すなわち「AI俳句」と呼ばれるものにも、様々な様態がありえる(実際にある)はずだ。

そんな「AI俳句」の中でも、<AI一茶くん>というアルゴリズムは、何とも生真面目で実直なアルゴリズムだ。僕は、『人工知能が俳句を詠む』を読みながら、「いたいけ」「けなげ」なんて言葉を思い浮かべ、果ては「痛々しい」という印象さえ持ってしまった。

何しろ<AI一茶くん>は、十七音の最初の一文字から順々に言葉を並べていくという、とんでもなく律儀な・迂遠な・非効率的なやり方で、「俳句」をつくろうとするのだから!

 【<AI一茶くん>俳句生成の仕組み①】~最初期~
Ⅰ 「教師データ」を入力 小林一茶の俳句をひらがなに直したおよそ2万句
Ⅱ ① 最初の1文字目が何の文字であるかを「学習」→1文字目に続く2文字目を・・・→2文字目に続く3文字目を・・・ (日本語「らしい」文字並びの「学習」)
      ② 新しい句を出力 1文字目を確率的に(サイコロを振るように)選んで入力→続く2文字目を選んで出力→それを入力にして3文字目を選んで出力・・・ → 17音になったら終了。

コンピュータ上で行われているのは、0と1(off/on)の組み合わせであり、例えば、(あくまで簡略化したイメージだが)「あ→100000」「い→100001」「う→100010」のようなデータを、サイコロを振るように選び・組み合わせ、そのデータに対応する文字の並びを出力していく(例えば、「10000110001010000」になったら「いうあ」と出力。
「100000100010100001」になったら「あうい」と出力という具合に)。
これが、<AI一茶くん>の「俳句」づくりの流儀である。

もっと効率的な、例えば「魅力的なフレーズを、あらかじめ大量にストックしておき、それらを組み合わせて十七音の俳句をつくる」といったアルゴリズムもありうるだろうが、<AI一茶くん>はそうしたやり方ではなく、あくまでも愚直に、はじめの一音(一文字)からすべて“自力”で順に文字を並べて「俳句」をつくる、というアルゴリズムなのだ。

ここで重要なのが、Ⅰの「教師データ」からの「学習」である。
「学習」なしに、全くランダムにサイコロを振るようにして並べた十七文字
まゆたれそずばもぎみしぷけげぼぎつ/ぽやどむてせがつめよいぞくふぷよで/さへがほかをちへあめねしよらめくり/わよずひぐせくくおぜっきろけきぷぐ
に比べて、
最初期の<AI一茶くん>が生成したものは、
かおじまいつきとにげるねばなななな/こあついのいねのしたしてすむかおし/いいせらをあずんなさいるかばせいな/はつゆきよいうじんていのかどずかな/ねみどしのしわかさかりのおばんかな/
と、まだ「俳句」とは言い難いかもしれないが、すでにかなり日本語っぽい並びになっている。「ねみどしのしわかさかりのおばんかな」なんて、句会で出合ったらチェックしたくなる魅力の萌芽さえ僕は感じる。
(この「学習」のしくみについては、後述する)。

しかし、こうした一つ一つ言葉を並べる<AI一茶くん>のやり方で生み出した十七文字の言葉の連なりが、有季定型の・意味が通る、さらには俳句的情趣を備えた俳句作品である確率は極めて小さい、ということも明らかだ。

そこで、<AI一茶くん>は、次のステップに進む。

【<AI一茶くん>俳句生成の仕組み②】~改良1~
Ⅰ 正岡子規、高浜虚子のトータル5万句(漢字混じり)をデータ化
Ⅱ ① 「教師データ」となる俳句を先頭から1文字ずつ受け取り、文字の並びを学習する。
  ② 新しい句を出力 最初の1文字目を決め、次に続く1文字を選ぶということを繰り返して17音に達したところで打ち切る。

十七音分の文字列のアタマの一文字目から順に言葉を並べていく、という律儀なやり方は変わらないが、「教師データ」がひらがなだけではなく漢字混じりになったために、格段に「俳句」らしい並びができるようになった!次を見よ!

ひとり身や山は蛍となりにけり/門口の地蔵菩薩や春の雨/陽炎やけふ一日の御明寺/初雪や下駄屋の前にきのふけふ

もう、これは「俳句」だと断言してよい文字列ではないか!前掲のひらがなの並びに比べての格段の進歩には、驚嘆させられる。(<AI一茶くん>の内部を覗けば10010110011…のような0と1(off/on)の組み合わせであるデータの並びしかない、という事情は全く変わっていないのに、出力された文字列はこんなにも「俳句」っぽい!)

ただし、この「俳句」らしい文字列も、<AI一茶くん>の生成した膨大な文字列群から、人間が「俳句」らしいと評価して選び取ったものであって、相変わらず、<彼>は次のような奇天烈な文字の並びも生成している。

足もとに鶏のお堀り蝶の昼/くるぶしは白魚鍋の湯気芋を掘る/やぶ入や水も高さに千枚田/痰も稍稍篝火燃ゆる切子かな

しかし、まさにこうした<人間ならば初めからたやすく表出できる「自然な言葉の並び」を人工的に生成するのがなかなか難しく、だからこそ、(たまさか)上手くいったときの見事さが強く感じられる>ことこそが、<AI一茶くん>の本領なのだと僕は思う。初めの一文字からサイコロを振るように順に言葉を並べていく、細くて長い綱を渡るような危ういやり方を遵守しながら、いかに人間のつくるものと見分けのつかない「俳句」を(より高い確率で)生成するアルゴリズムに近づけていけるか?という試行錯誤。

<AI一茶くん>が、すてきな俳句作品の生成を目的としたロボットなどではなく、「俳句」をつくるという課題に答えようと自らを進歩させてゆく人工知能である、という出自・来歴の意味深さを噛みしめたい、と僕は強く思う。

そして、<AI一茶くん>は、さらなる「自然な言葉の並び」へと、歩を進める。

【<AI一茶くん>俳句生成の仕組み③】~改良2~
Ⅰ 数が限られた俳句だけでは単語の関係性を十分に教えるだけのデータを揃えることができないため、小説などの文学作品といった、情景描写が重視され俳句と共通点があると思われるデータを学習させる。日本語の文学作品としては、青空文庫で公開されている作品のデータを利用した。
Ⅱ 次に、音数の制約や季語といった俳句に固有の特徴を学ばせるため、人間の詠んだ俳句のデータを追加で学習させ微調整を行う。俳人が発展させてきた俳句の特徴を取り入れるため、インターネット上で公開されている40万句の現代俳句を言語モデルの学習データに追加した。

結果として、<AI一茶くん>は、次のような句を生成するようになった。

【<AI一茶くん>のつくった句の、大塚凱氏による10句選】
01 水仙やしばらくわれの切れそうな 02 強霜に日のさす如し磯の人
03 逢引のこえのくらがりさくらんぼ 04 雲ふかくゆきて帰らず毛虫焼く
05 白鷺の風ばかり見て畳かな    06 なかなかの母の声澄む蕗の薹
07 麦踏みのひとの乙女のおほつぶり 08 裏方の僧が動きて麦の秋
09 貧農はどこより解かれ雪降れり  10 鏡台に汗ばむ程と思うなり

どうだろうか?
「まゆたれそずばもぎみしぷけげぼぎつ」から「鏡台に汗ばむ程と思うなり」への、<AI一茶くん>の「俳句」のつくり方の向上の飛躍には、まるで一本の映画を観るようなドラマを僕は感じる。

一文字一文字一単語一単語を、サイコロを振るように選び、アタマから順に並べながら、結果としてできた十七音の中に「俳句」と呼べるものが(たまさか)存在する、この非効率的なやり方を流儀としながら、それなりの「俳句」を作れるようになった<AI一茶くん>の、この晴れ姿よ!

ここに至ると、僕の「いたいけ」「けなげ」「痛々しい」という感想も、少しは共感していただけるのではないかと思う。


1b.ここから反照的に見えてくる、僕たちの俳句づくりの場合。

振り返ると、僕たちは、こんなにぎこちなく、こんなに必死には、俳句をつくってはいないのではないか。もっと楽々と、もっと横着に、僕たちは俳句をつくってしまってはいないか?そう、<AI一茶くん>の「俳句」の生み出し方は、僕たちの俳句の作り方とは、根源的にまったく異なっている。今まで(当たり前過ぎて)気にもしていなかったのだが、僕たちは、一文字目から順に一つ一つ文字・単語を選び、連ね、十七音になったところで打ち止める、という俳句のつくり方などしてはいないのだ。

では、僕たちは、どうやって俳句をつくっているのか?

僕自身の場合、まず初めに、言葉・フレーズ(ごくまれには一句まるごと)が、ふと降りてくる、湧いてくる、あるいは何かのきっかけ(吟行や日常生活内での)によって掴み取る、という感じだ。

降りてきた・湧いてきた・掴み取ったフレーズに季語が含まれない時には、そのフレーズに面白く響き合う季語を配することが俳句作品の完成形をつくりだすまでの最重要のステップになるし、すでに季語入りのフレーズが降りて・湧いて・掴めていれば、そのイメージをより鮮明な肉感を持ったものにすべく、言葉を加えたり捻ったり削ったりしながら十七音の措辞全体をさらに彫琢していく作業が、次の重要なステップになる。

つまり、あくまでも<ゲシュタルト(全体としてのまとまり)の言語構造体の一部あるいは原形を掴む>ことが俳句づくりのスタートにあり、それを増幅させたり捻り捻じったり彫琢したりして「これでできた!」と思えるところで(とりあえず)終わる、のだろう。写生句であっても机上句であっても、<AI一茶くん>と対照しての、僕たちの俳句づくりにおいての核心は、これだ。

では、その、初めの言葉・フレーズは、どうやって降りてくる・湧いてくる・掴み取るのか?あるいは、その、彫琢・添削の作業の最終到着地点、「これでできた!」というゴールはどのように訪れるのか?

…わからない。

もう二十年以上、日々繰り返しているはずの行為なのに、僕は、自分がどうやって俳句をつくっているのか自分でよくわかっていないということが、<AI一茶くん>を《鏡》とすることでくっきりと見えてくる。

もちろん、どうやったら降りて来やすいか、それなりのルーティンや作句リズムというものはあるにはあるのだが、そのルーティンや作句リズムの内実を分析的に語ることは僕には(今はまだ)できない。俳句づくりのスタートとゴールとは、(僕にとっては)「秘儀」なのだ。

まったくの無から結果的に十七音の「俳句」を生成する<AI一茶くん>。<彼>に先んじて存在するのは、「教師データ」だ。つまり、<AI一茶くん>がつくりだすのは、言葉の海から汲み取った十七音の「俳句」だ。

まったくの無から結果的に十七音の俳句をつくる、僕たち。僕たちに先んじて存在するのは世界であり日々の生の営みだ。僕たちがつくる俳句とは、世界のなかでの生きる営みから汲み取った十七音の俳句作品だ。

ここには、根源的な隔絶があるはずなのだが、現時点では、僕にはその内実をうまく語ることはできない。<AI一茶くん>が《鏡》として見せてくれるのは、まずこの困難さだった。


2. 「俳句を評価する」とはどうすることなのか?

2a.<AI一茶くん>の場合

一文字一文字、律儀にサイコロを振るように選び、アタマから順に並べていく<AI一茶くん>の「俳句」づくり。その結果として生み出される言葉の並びは、確率的な蓋然として、その多くがヘンテコリンなものだ。<AI一茶くん>とは、それを前提にした上で、いかに「自然な言葉の並び」の「俳句」に近づけていくか、それを実現しようという(いたいけな・けなげな・痛々しい)アルゴリズムであった。

そんな<AI一茶くん>の「俳句」を人間の俳句作品と競い合わせる場合には、<彼>の生み出した膨大な「俳句」群から、俳句に携わる人間の目で「よい句」を選んでいるようだ。だが、<AI一茶くん>自身、ただ単に「俳句」を無制限にドンドコドンドコ生成し続けるだけではなく、自分の「俳句」を「評価」して、「よい句」ではない句を除くこともできる。

ただし、その際の「評価」とは、人間の目で見た「よい句」の評価とは大きく異なる。<彼>自身の自作の「評価」とは、「教師データ」を基とした、いかに「自然な言葉の並び」になっているか、の判定だ。

これは、「学習」の仕方と原理は一緒である。ここで言う「自然な言葉の並び」とは、要するに「言葉Aと言葉Bとが近くに置かれる頻度・確率の高さ」である。コンピュータの計算が0と1(off/on)の組み合わせで動いている以上、<AI一茶くん>自身が「ああ、この句は自然だなあ」とか「これ、えもいわれぬ味わいがあるなあ」などという質的・意味的・感覚的な判定を下すことは、ありえない。

【「AI一茶くん」の俳句評価の仕組み】
まず、生成された俳句と教師データとして用いた俳句を一つずつ突き合わせ、教師データの俳句とあまりに似ているものを一茶くんの生成結果から除外します。教師データとの間で編集距離を計算し、一定以下の距離の俳句は除外することにしています。編集距離とは、二つの文章を比べたときに文字の追加・削除・変更などを最低何回行うことで片方からもう片方の文章につくり替えることができるかの回数と定義されます。

次に有季定型句の条件に合わないもの、つまり、季語を含まない俳句や五音・七音・五音の並びになっていない俳句などを取り除きます。(現時点の一茶くんの実力では有季定型句のみを対象としています)・・・もし生成された俳句の形態素の中に辞書の中にない未知の形態素があると判定されたときは、文章生成モデルが誤って本来の俳句にない言葉を生成してしまったと考え、その俳句を除外します。形態素解析の結果から、生成された俳句に含まれる形態素の音数が合計十七音になっていなかったり、五音七音五音の間にまたがる形態素が含まれていたりする場合も、同様にその俳句は取り除かれます。

一茶くんには俳句の中で用いられる季語や切れ字の辞書も事前に登録されており、この辞書と俳句の中の形態素を比較して、生成された俳句の中に含まれている季語や切れ字の数を数えます。季語が含まれていない俳句や二つ以上含まれている俳句、切れ字が二回以上現われる俳句などは、有季定型句の一般的な型から外れ、条件を満たさないのでこれも除外します。

さらに私たちは、一茶くんで生成された俳句が意味の通るものになっているかどうかを推定することにも挑戦しています。

例えば、「雪=100100」と「達磨=110011」とが近接することは多い(教師データに多々出現する)が、「雪=100100」と「坊主=111000」とは近接しにくい(1001000と111000とが近接した教師データはほとんど/全くない)、だから「雪達磨」は○(自然な言葉の並び)だが、「雪坊主」は×(不自然な言葉の並び)だ、という判定だ。

【例:「北」の入った句の<AI一茶くん>自身による評価】
【評価値上位句】  北の窓開け放ちたる大暑かな/殉教の島より北へ鰯雲/春潮の北に傾く渚かな/一山の北を塞げる霞かな/
【評価値下位句】 茶北から船でスキーや翅も切れ/柿の種さちよよ死の御手北鉢/北終に色鳥みたるさだめにて/巣の暗の北檜物たる白出しに

繰り返すが、この「評価」とは、「自然な言葉の並び」としての評価である。確かに、【評価値上位句】は「自然」で、【評価値下位句】は「不自然」な並びであると僕も感じる。それは、そうした文字の並びが日本語の文字列として現れやすい(「教師データ」として数多く存在する)か、現れにくい(「教師データ」として(ほとんど)存在しない)か、という判定だ。

だから、例えば「狼が青空を飛び回る」という文字列を、<AI一茶くん>は「不自然」と判定するだろうが、それは、<AI一茶くん>が、「狼」という生物の性質を理解して「いやいや、翼も持っていない狼が空を飛ぶなんてありえないよ、バカバカしい。×!」と判定しているから、ではないのだ。「狼」という文字と「空を飛ぶ」という文字列とが近接して出現するという「教師データ」が(ほぼ全く)無いから、×と判定するのだ。

<AI一茶くん>によるこの「評価」は、<彼>の出自・流儀を考えると、きわめて真っ当なものだ。<彼>はまさにそのような「評価」を行う方向に向けて設計されたアルゴリズムなのだから。

あえて、1文字目からストイックに言葉を並べていくことを流儀とするアルゴリズムだからこそ「茶北から船でスキーや翅も切れ」のような文字列を出力してしまう危険性を孕んでいる<彼>には、そうした未熟・逸脱を矯正するために「教師データ」から「自然な言葉の並び」を「学習」して進歩するという宿命がある。そんな<彼>だからこそ、一方ではあまりにも「教師データ」に近いもの(類句)を除く、逆に、もう一方では既にあるデータからあまりにも遠いもの(意味不明)を除く、というこの両極の「評価」が必要になるのだ。


2b.ここから反照的に見えてくる、僕たちの俳句づくりの場合。

では、僕たちの俳句づくりにおける評価とは、どのようなものか?
<AI一茶くん>と対照させるとはっきりするのは、僕たちは「自然な言葉の並び」を評価基準にしてはいない、ということだ。もちろん、僕たちにとっても意味不明な句とは一般的に言って高く評価できない句であるだろう。しかし、例えば、前掲の「北」の入った8句で言えば、「北終に色鳥みたるさだめにて」(「北終」は「きたばて」と読みたい)は、僕には、他の【評価値上位句】4句よりも面白みを感じる。句会でこの句に出合ったら、選に採るかもしれない。

僕たち人間にとって「自然な言葉の並び」を発することなど何の造作もないことなので、そのことは積極的な評価の対象になりようがない。<AI一茶くん>には第一目標である「自然な言葉の並び」が、僕たちには所与でしかなく、むしろ、僕たちの俳句とは、「自然な言葉の並び」から逸脱しつつも意味不明には陥らない、そのギリギリの有季定型への収まり方の<震え具合>こそが、作品の魅力の根源にあるはずだ、と僕は思う。

一つ重要なのは、例えば、先に挙げた、【大塚凱氏による「AI一茶くん」10句選】とは、人間の俳句作家である大塚凱氏の目による評価・選であって、<AI一茶くん>自身が、自身の生み出す膨大な「俳句」群の中からこれらを「よい10句」として積極的に選び出すことは、できないということだ。

大塚凱氏によって選ばれた10句は、「自然な言葉の並び」を目指す<AI一茶くん>の生成した「俳句」の中でも、不思議な味わいの漂う「やや不自然な言葉の並び」である10句だという印象を受ける。僕も「なかなかいいな」と感じる10句だが、僕のそうした反応は、<AI一茶くん>というアルゴリズムの「本意」ではなく、むしろ<彼>自身からすれば、これらはやや不出来なアウトプットなのかもしない。つまり、<彼>にとっては不本意な「俳句」を、大塚凱氏あるいは僕は、味のある俳句作品として好んでいるということなのかもしれない。

(なお、「<AI一茶くん>が進歩していくにつれて、むしろつまらない「俳句」を生成するようになった気がする」、と揶揄なさる方もいらっしゃるようだが、<彼>の出自・来歴を考えると、それは酷な批判であろう。<彼>は、面白い「俳句」をつくるために設計されたマシンではないのだから。徹頭徹尾生真面目な<AI一茶くん>の、その生真面目さを茶化すのは、筋違いだ、と僕は思う)。



最後に、<AI一茶くん>を《鏡》として、強く立ち現れてきた「謎」がもう一つ。

3. 「多読多憶」とは何なのか?

<AI一茶くん>の「俳句」のつくり方は、圧倒的な「多作多捨」だ、とも言えるだろう。将棋のAIをはじめ、この<圧倒的な量(スピード)>こそが、様々な分野においてAIが人間を凌駕する特質の核心だろうが、「俳句」においても圧倒的な「多作」によって「よい句」が生み出される可能性が高まる、このことは疑いようがない。

ただし、<AI一茶くん>が「よい句」を生み出す確率(「そうでもない句」に対する「よい句」の比率)は、『人工知能が俳句を詠む』を読む限り、まだまだであるようだ(大塚凱氏の選んだ10句に対し、捨てられた句は何十句?何百句?何千句?ひょっとして何万句?)。

さらには、<AI一茶くん>自身には「よい句」の評価ができない(いくら精度が上がっても、<彼>自身にできるのは「自然な言葉の並び」の判定のみであり、「自然な言葉の並び」≠「よい句」である以上、<AI一茶くん>自身ではなく人間の目で「よい句」を選ぶしかない)のだから、実質、<彼>は「多作」一辺倒であり、「多捨」はできないのだ、とも言えるだろう。反照的に見れば、僕(たち)の句作においては、俳句作品をつくるプロセスとは、「生成する」だけではないことが改めてわかる。俳句作品をつくるとは、実は、その大部分が「選ぶ」「捨てる」ことなのだ、と。

ともかく、僕たちの「多作多捨」と<彼>のつくり方とを重ねて考えることはごく自然なのだろうが、もう一つ、僕が想起するのが、「多読多憶」だ。

<AI一茶くん>の「まゆたれそずばもぎみしぷけげぼぎつ」から「鏡台に汗ばむ程と思うなり」への進歩が、「教師データ」の質・量の充実によるものだった、という事実は、僕たちが先人たちの名句に数多く触れ、それらをどんどん覚えて、すなわち「多読多憶」によって、俳句づくりが上達してゆく(と考えている)プロセスにたいへん似ているような気もする。

しかし、果して、僕たちの「多読多憶」とは、いったい何なのか?「多読多憶」は僕たちの俳句づくりにどのように役立っているのだろうか?本当に役立っているのだろうか?ひょっとして弊害の方が大きいということはないだろうか?

<AI一茶くん>の場合の「教師データ」の「多読多憶」が、より「自然な言葉の並び」をもたらすための規矩としてはっきり役立っているようには、僕たちが行っている「多読多憶」の僕たちの俳句づくりへの役立ち方は、「謎」だ、と僕には(あれこれ考えた上で)感じられるのだ。

それは、僕たちの俳句のつくり方が、(冒頭の一文字から順につくるのではなく)フレーズの組み合わせや捻り・彫琢であることとも根源的に関わっているだろう。

確かに、初心のうちは、「ああ、切れ字ってこういう言葉につけるのか」とか「なるほど、こういう名詞にこういう修飾語をつけるとカッコよくなるのか」というような、措辞の機微を学ぶ・盗むことを行い、それなりに味わいのある俳句作品がつくれるようになる(気がする)こともあったはずだが、それは、ひょっとしたら類句・類想への大いなる陥穽だったのではないのか?

「多読多憶」の元祖(?)提唱者、波多野爽波は、例えば次のように語っている。

勿論、臨場感をしかと手に入れるには、「多読多憶」による蓄積のさまざまやら、季題について常々から「常識」を超えた理解、充分なる噛み砕きなど、「業を磨く」ためのもろもろの要素の裏付けあってのことだ。(「枚方から」「臨場感」より)

・・・結局のところ、「写生の力」をしっかりと身につけ、その土台の上に立って「想像力」を自由に羽撃かせて、その人ならではの自由闊達な句、個性の滲み出た句を作って貰うためのこと・・・こと即ち「多作多捨」「多読多憶」、そしてこれをなし遂げるための「気力」に尽きるかと思う。(「枚方から」「憶える気があるか」より)

結果としての「臨場感」や「自由闊達な句、個性の滲み出た句」のための、<土台>としての「多読多憶」。

もちろんそれはそうなのだろうが、では、その<土台>の内実とは何なのか?「多読多憶」が実際に僕たちの俳句づくりにどのように役に立っているのか?
ここでは、まだ答えは出せない。

<AI一茶くん>について学び・考えながら、それを《鏡》として浮かびあがってきた、これもまた今後探究すべき大きな「謎」である。

(了)

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