【週俳8~11月の俳句を読む】
平和って平和?
二村典子
●皿の裏 日向美菜
作者名に目がいった。おいしそうな「日向」の「美」しい「菜」。野菜って善。おいしい野菜の話をしていると大体平和。
紙に拭ふ鍋の油や黍嵐 日向美菜
「紙で拭ふ」というなら何でもない日常の動作である。けれど「紙に」と書かれると、紙についた油をまじまじと見つめているような感じがする。拭った油がどこかにつかないように、速攻で紙を捨てたくなるものなのに。キッチンペーパーで拭うころには、油はいろいろなものを含んで汚れ、酸化して飴色をしている。そんな油の様子を楽しんでいるのだろうか。それともまだ何かに使えないか考えているのか。季語が「黍嵐」だから単純に楽しい光景ではなさそうだ。ざわざわと音を立てる強風。外は風が吹いている中、お家仕事にいそしんでいるだけかもしれないが、どうも使用済み油の行方にざわざわするのである。
煮凝や外みえてゐる換気扇 同
旧い家の換気扇はひもを引っ張るとガタンと音をたてて扇風機のような羽根が回るものだった。羽根の隙間から壁の向こうの戸外が直に見える。調理中つけっぱなしにすると暖かい空気も逃げていってしまう。とにかく昔の台所は寒かった。魚の煮汁も一晩もたてば煮凝となる。名古屋には「うめご」と呼ばれるサメの皮の煮凝がある。見た目はグロテスクだが、味はたんぱくで、なかなかのごちそうだ。私はこれが身震いするほど嫌いだった。お正月の食卓に出すために切り分けていると端っこのちょっと形が歪んでいる部分を「口に放り込んじゃいなさい」と姑に言われた。「あんまり好きじゃないんです」と告げたのだが、一年経つとまた「口に放り込んじゃいなさい」何の罰ゲームだよ。
せめて煮凝が好物だったら、この句にこれほど寒さを感じなかったのかもしれない。
露草や定規に正す手紙の字 同
「露草」と取り合わされて、正される手紙の文字がかわいそうにみえてくる。正されるのだからもちろん達筆ではなかろうが、勢いのある癖字ではなく、弱弱しい筆跡の小さな文字のようである。そのふにゃふにゃした線が許せない、とばかりに定規を持ち出して修正しよとする人物。手紙の字の主と正す人物は別人かもしれないし、本人かもしれない。本人だとすると、もう一つ別の風景が立ち上がってくる。定規を使って字を書くのは、つまり筆跡を隠そうとしている可能性がある。そうまでして事件性をつけ加えたい、のかな。
犬の嗅ぐ皿の裏がは冬隣 同
裏とか表とか犬にとってはどうでもいいことに違いないし、そもそもそんな認識があるのかどうか。餌のなくなってしまった皿をひっくり返るまでなめ回していたのだろうか。そこには犬は愚かだからかわいいという視線を感じる。「うちの子はほんとうに賢い」と犬自慢されるよりはよほど好感度は高いのであるが、なんというか、そういう好悪の感情がそのまま俳句のよろしさに関係するのがちょっとひっかかる。一目で読めてしまう俳句は好悪の「悪」の感情を持たれてしまうと、それ以上読んでもらえない。門前払いはしたくないしされたくない。
それにしても助詞「に」の使用頻度の高い作品群である。一〇句中七句。鼻につくほどではないが、何かこだわりがあるように見える。ただ鼻につかないのは使い方というよりも「に」の音の持つ柔らかさにあるのかもしれない。
●タイガーモノローグ 野口る理 四〇句
四〇句、ほとんど事件は起きていない。
流氷も頸椎も切るピアノ線 野口る理
「ピアノ線」と呼ばれるが、ピアノだけではなく広く工業用に使われる強度の強い金属製ワイヤーのことであり、橋のケーブルにもなっているらしい。そんなものをピンと張ったら流氷も切ってしまえるだろうなとは思うのだが、「ピアノ」の語感のせいでグランドピアノのある洋間がちらつく。機能と名前のギャップ。絞首刑にも使われたことがあるようだ。「頸椎」を切れば、それは事件である。ただこの句を読むと、切ったとは限らない。ピアノ線で切れるものを淡々と数えているようである。それはそれでぞっとする。ワイヤーは切るものでなく、支えるもののはずである。
花冷のソファーにひそむ巨大発条 同
ソファーは「発条」が大切らしい。耐久性や座り心地の要となる。中にはバネ使われず、ウレタンなどのクッション素材だけで作られているものもあるらしい。ソファーの中身は外から見えない。「ひそむ」という措辞は少々不穏であるし、「巨大」という言葉もただ「大きい」というより脅威を秘めている。とはいえ、せいぜいソファーのバネ。壊れて飛び出したとしても大した事件ではない。「花冷」という季語はそんなわかりやすい事件を想像させる言葉ではない。
水撒けば砂縮こまる残暑かな 同
水がかかっても砂は小さくならない。ただ白っぽい砂の色が黒く変わって「縮こまる」ように見えるのかもしれない。濡れると粒が際立って、隣の砂粒との連帯感が消え、そう見えるのかもしれない。あるいは盛大に水を撒かれて、恐れをなしたように感じられたのかもしれない。実際には縮こまらない砂を縮こまると表現して、砂のかわいらしさがましている。そして残暑はまたあっという間に砂を乾かしてしまうのだろう。
秋の夜の猫座なら尾の躍動感 同
「猫座」は聞いたことがなかったので調べたところ、一九世紀のフランスの天文学者ラランドが考えた星座のようだ。現在星座といえば、一九九二年に国際天文学連合が認定した八八の星座をさすらしく、猫座はその中に入れてもらえなかった。その不憫さもあいまってそそられる星座名である。星図に描かれた猫座を見たが、猫の尾に躍動感は感じられない。星座はほぼ動かないので、躍動感は作者の想像力のたまものであろう。猫の尾は感情表現が豊かである。
冬晴やパーカーのひもあいまいに 同
パーカーは便利。首元の日除けにもなるし、少しぐらいの雨は防げる。顔も隠せる。フードをかぶるときにきゅっと締めるひもであるが、ひもってどうして結ぶときはそうでもないのに、ほどくのは面倒なのだろう。ついぞんざいに扱う。すると次に締めようとしたときに通し穴に入ってしまっていたり、左右の長さが極端に違ったり。そもそもひもをつかう機会はそんなにない。要らないと思って引き抜くと、いざという時に後悔する。あいまいってそんな感じなのかな。違う気もするな。それこそがあいまいか。
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