■川田果樹 ペリカン 10句 ≫読む 第868号 2023年12月10日
2024-02-04
二村典子【週俳12月の俳句を読む】 としか言っていない
Posted by wh at 0:04 0 comments
2022-12-11
二村典子【週俳8~11月の俳句を読む】平和って平和?
Posted by wh at 0:04 0 comments
2021-04-18
【週俳3月の俳句を読む】やきそばに目がくらむ 二村典子
Posted by wh at 0:07 0 comments
2020-05-03
【週俳3月の俳句を読む】一周まわって 二村典子
【週俳3月の俳句を読む】
一周まわって
二村典子
夕星の弘法市に苗木見に 藤田哲史
「夕星」「弘法市」「苗木」、同趣の風流で穏やかことばが並ぶ。今までこういった句にあまり惹かれなかったように思う。
「弘法市」といえば京都の東寺が有名であるが、自分の地元である愛知県知立市にもある。「弘法さん」と呼ばれる遍照院の縁日には善男善女がたくさん詰めかけるため、駅からの道が歩行者天国になる。その道が中学の通学路と重なっていたため、うっかりはちあわせると、露店と善男善女で狭くなった道を通りぬけるのが大変だった。あらかじめわかっていれば遠回りしたものだ。露店で売られているものにも全く興味がそそられなかった。弘法市は身近ではあるが避けるべきもの、とずっと思っていたため、まともに訪れたのはごく最近になってからである。
弘法市は午前中からお昼にかけてが最盛期で、ほんとうによい苗木がほしいと思えば夕方では遅い。この作品の人物も人の多い弘法市のさなかは避けて家の中に引っ込んでいたのかもしれない。夕方になって人通りも途絶えたであろうことを見計らって外に出る気になったのだ。「弘法市に苗木見に」、と目的がはっきりと書かれている割には「弘法市」にも「苗木」にもさほど関心があるようには思えない。つまりは風流なことばが並びながら、風流とはどこか距離を置いている。そんな態度が私には好ましかった。そのうえで、弘法市は来月も来年もあり、人々でまた賑わうに違いない、と疑いもしなかった日々が遠くになりつつあることにうっすら気づいているようだ。
卒業期サンドイッチのきゅうりの味 藤田哲史
卒業期。卒業のためのあれこれをこなしつつ、新生活への準備も必要な忙しい時期。「卒業」という行事と無縁になろうとも、この時期への感傷めいた気分は多くの人が共感できるものである。お昼どきであろうか。サンドイッチなら作業の手を休めて手軽にさっとすますことができる。
ここのところきゅうりがしみじみおいしく感じる。よくおやつ代わりにかじったりする。きゅうりといえば、本場イギリスのアフタヌーンティーのきゅうりサンドはあこがれの食べ物である(本に出てくるそれのおいしそうなこと)。さらに、昔飼っていた猫の子がもらわれていった先で、きゅうりの食べ過ぎで死んでしまった。このようにきゅうりに関して結構思うところがあっても、この句が「きゅうりの味」をなにか特別なものと言っているようには読めない。下句の字余りのぐだぐだとした感じにもそれは現れている。サンドイッチに入っているきゅうりは、その歯ごたえは多少主張するところがあっても、とびきりおいしいものではない。そんな存在感がこの句のあじわいそのもののようだ。もしかしたらあわてて食べたきゅうりが歯にひっかかっていて、しばらくたって気づいて噛みしめたのかも、とも考えた。けれどそんな読みは、この句にとって「事件」であり過ぎる、おもしろがり過ぎている。
「きゅうりの味」とはっきりと書きながら、きゅうりの味の変哲のなさを示している、と感じられた。そのあたりが今回惹かれた二句の共通点かもしれない。もちろん共通点をさがす必要などこれっぽっちもないのだが。作品は多かれ少なかれ時代の気分を反映するといわれる。その影響はむしろ読み手にまわったときに強く働くのかもしれない。
Posted by wh at 0:03 0 comments
2016-09-25
【週俳8月の俳句を読む】二村典子 秋の長雨のせい
【週俳8月の俳句を読む】
秋の長雨のせい
二村典子
さかのぼるひばりひきちぎれるかひかり 福田若之
前書のついた作品は、前書込みで引用すべきであるが、この美しい句に対してむしろ邪魔な気がして、あえて前書なしで記してみた。まっすぐに、高速で上昇するひばりの視界に広がる、目にもとまらぬ世界。
「ひきちぎれるか」の措辞にどうしようもなくあふれる若さと苦さがまぶしい。
玉虫の背中に色や本閉づる 宮本佳世乃
玉虫の玉虫たる所以は、まさに背中の色にある。それを「玉虫の背中に色や」と、ぬけぬけと驚いてみせた。しかし、「本閉づる」とは。もしかしたら、そんなとぼけた句なのではなく、ほんとうに玉虫を見たことがないのかもしれない。わたしたち(たち?)は、当然季語をよく知っているものとして読んだり書いたりしている。けれど、実物はもちろん写真も見たことがなく、玉虫について書かれた本だけを読んだとしたら。どのような文章で綴られているのか、その文章から想像された玉虫がどんな色かなどと思いを巡らすのも楽しい。
百聞は一見に如かず、の逆であるが、少数派と思われる百聞派に加担してみたい。
めりめりとしたるパラソル状の祖父 鴇田智哉
パラソル状のものって、意外と少ない。結構独特のかたちだ。だから「パラソル状の祖父」には、立ち往生せざるを得なかった。雨の多い九月を過ごし、傘を見上げていて、万華鏡の中の風景は、パラソル状と言えるのではないかと思いついた。
両親や祖母と違って印象が希薄な祖父。そんな亡き祖父の姿が万華鏡の中に浮かぶように思い出された。現実の姿ならば目をつぶればいいが、記憶の映像を消すのはむつかしい。めりめりと、それこそちからずくで、脳裏から引きはがさなければならない。立ち往生したわりには、すんなり腑に落ちた。
かなかなのこゑの数だけある画像 鴇田智哉
かなかなの声はどうやって数えるのだろう。そもそも声なんて数えることができるのだろうか。とはいえ、かなかなだけに「かな」でひとつ、「かなかな」でふたつ、と無理をすれば数えることができるような気もする。
「かなかなのこゑの数ほどある画像」と書かれていれば、わかりやすかった。とかく多くの画像に取り囲まれた日常がすぐに思い出される。けれど「だけ」とある。何かが欠けているのであろうか。どこか偏っているのであろうか。「だけ」の一語が悩ましい。
かなかなのこゑの数だけの画像を一面に敷きつめたら、一枚の絵のように見えはしないか。だとしたら、高く高く、できるだけ高く離れて、その絵を見てみたい。
あるいはねびめく 田島健一
あいさすと色鳥うすびへるしんき
おすかりの颱風くびれひただよう
かかりさるともだちいんび秋まつり
蝦蔓にたつみはるけくゆびみつる
いることのまびわりかなし鬼やんま
菊月のねびゆくけしきうぞくまり
うしろあびひうらにおいてくる瓢
この二週間ほど田島健一の句に夢中だった。
既存のことば(変なことばだ)を微妙にずらしてつくられたように見えることばが散りばめられた一編。
当初、どうしても元のことばを探してやろうという意識が働き、なんとももどかしかった。「うぞくまり」は「うずくまり」だろう、「あいさす」は「あいさつ」であろうか、等々。
けれど、この作業は全然おもしろくなかった。自分自身で見つけた答めいたことばには「選択責任」のようなものが発生してしまい、作品の楽しみ方を狭めているような気がした。
そうまでして意味をとらなくても、季語と意味のわかることばの連なりだけで、秋の、古典的なほど秋の気分は伝わってくる。俳句に季感がそれほど大事だとは思わないが、秋という季節の趣は大好きなのだ、わたしたちは。
プリントアウトした紙を何日も眺めていて、五・七・五の切れ目に「/」を入れてみた。
あいさすと/色鳥うすび/へるしんき
おすかりの/颱風くびれ/ひただよう
かかりさる/ともだちいんび/秋まつり
蝦蔓に/たつみはるけく/ゆびみつる
いることの/まびわりかなし/鬼やんま
菊月の/ねびゆくけしき/うぞくまり
うしろあび/ひうらにおいて/くる瓢
すると、意味のわからないことばに対するこだわりが、すうっとなくなっていった。(わざわざ「/」をいれなくても最初からこう読めたはずだけれど)
声に出してよむ。意味はわからないのに、さらさらと歌うようによめる。「散文的」な俳句は否定的に語られることが多いが、「韻文」が何であるかを説明するのは難しい。けれど、声に出して気持ちがよければ、これはもう、よい韻文ではないか。ただし、このような楽しみ方をするためには、一句では物足りない。田島の神経が隅々まで行きわたっている連作ならではのよろしさである。私自身、何句かまとめて発表する場合、全くばらばらな句をランダムに並べはしない。作句の際、連作という意識が思わぬ一句を生む楽しさがあることも十分知っている。けれど「一句の独立性」が云々されるため、あからさまな連作に見えないようしていた。世知辛い。作品より先に評価の基準などないことを、ことばではわかっていたはずなのに。
(ここまで書いてトオイダイスケ氏「美という音、音という美」を読みました。すばらしい。先に読んでいたら、とても書けなかったと、告白させてください)
安易に「似ている」と言わないことにしている。「区別がつかない」のは区別される側ではなく、区別しない側に多く要因があるからだ。区別するほどの関心も、必要もないため、同じように見えてしまう。俳句作品も、一句一句を括ることなく読みたいと思ってきた。たとえ同じ作者の句であっても。
けれど、それなのに、とはいえ、進藤剛至の「清水」と鷲巣正徳の「ぽこと」は、どうしても「似て」見える。
進藤剛至 清 水
更衣さびしき腕を組みかへて
まだ顔をもたずに伸びて青芒
清水汲む零れぬやうにこぼしつつ
祭より抜けて祭の音聞こゆ
すべり込むやうに晴れたることも梅雨
炎天の裏にひんやりある宇宙
都を染めてゆくみんみんの一粒よ
ペン先の滑りやすきも夜の秋
席すこしづつ埋りゆく残暑かな
こほろぎの畳みそんずる翅に風
鷲巣正徳 ぽこと
手花火の腕眩しき白さかな
蜩の声に時空の澄みゆける
涼新た鳥のかたちが欄干に
看護師の胸に蜻蛉のボールペン
海渡る翅の連なり秋の蝶
点滴のぽこと終はりぬ牽牛花
何処までも走り続けて花野中
蟷螂の樋を登つて行くところ
おんおんと酸素を吸へば月の前
キリストの頬に青き血秋の虹
類想とか類句とは違う。
ふと、テレビを見ると、FLOWERというガールズグループの数人がかわるがわるアップになった。
「驚くほど区別がつかないわ」とつぶやく私にすかさず「美少女だからさ。ももクロは全然違うだろ?」と夫が言った。まさに、この感じなのである。
Posted by wh at 0:03 0 comments
2015-08-02
【週俳6月の俳句を読む】二村典子 水母は投げない
【週俳6月の俳句を読む】
水母は投げない
二村典子
対UFO秘密兵器として水母 喪字男
六月の作品の中で、真っ先に、無条件に好きになった。読んでたちまち、水母に見とれている気分になった。私も、そしてUFOも。実際にUFOを見たことはないのだが、いや、見たことがないからこそ、UFOといえば空飛ぶ円盤をイメージする。水母と「視覚的に似ている(瀬戸正洋)」。似ているとなると、無関心ではいられない。あの美しく不思議な浮遊物に魅せられたUFOは、戦意を喪失し、去ってゆくのである。
ああ、こんなベタな解説は書かない方がこの作品のためであるとつくづく思う。
おもひでに網戸の穴をくはへておく 喪字男
網戸は意外なほど汚れている。ちょっと触っただけで、手が真っ黒になるくらいだから、咥えるなどもってのほか…あ、加える?…
網戸のほころびを咥えようとすると鼻が邪魔になるけれど、蝶なら大丈夫だろう。あさぎまだらになりかけた人なら、ほぼ確実に咥えることができるはずだ。
私にも網戸の思い出がある。台所で洗い物をしていた横で網戸にもたれていた子どもが、すうっと暗闇に吸い込まれていった。劣化した網が重みに耐えられず穴があいたのだ。その後大騒ぎになったはずだが、覚えているのは、音もなく吸い込まれていったその瞬間だけである。思い出は静かだからいい。ほこりくささも網の味も思い出を美しくしかしない。
ねむられずあさぎまだらになりかかる 喪字男
荘子は夢の中で胡蝶となった。この句では、眠らずとも蝶になりかけたのだという。なんともうらやましい状況なのだが、語り手はそうとは思ってないようである。「あぶなくあさぎまだらになるところだったよ。」「中途半端に変身しちゃってさあ。」「あさぎまだら」という語感のせいか。そして、喪字男さん。さりげなく表記も作品ごとにぴたりぴたりと決まっている。
何も書かなければここに蚊もいない 福田若之
会議などで、わざと質問や反論の余地を残して発表することがある。文脈にはのせにくいが語りたいことや、印象づけたい内容は、質問させた方が効果的だ。この句もそういう類のものなのだろうか。
そんなわけはないじゃない、何も書かなくても蚊はいると、言ってほしいのだろうか。それでも、ただただ、書くことによって蚊を現出させることを夢想しているのか(か、ばかりで申し訳ない)。寺山修司の「けむり」のように。
ハンカチと呼べばそう詩と呼べばそう 福田若之
広い田に引用されていく早苗
「何か書かれて」の連作は、まさに言葉が主役である。
言葉を喩えるものとして、ハンカチや早苗が書かれている。一瞬にして眼前に水母が浮かんだ「対UFO」の句と対照的に、どんな風景も立ち上がってこない(似ているとどうしても比べてしまうといいながら、似ていなくても比較して、申し訳ない)。
ここで「対UFO」の句について、ただ単に「水母」が好きなだけではないかとの疑問が湧く。「水母」という言葉さえ入っていればOKじゃないのか、私は。
川柳を始めたばかりのころ、句会で出会った
店長として秋の野に立っている 荻原裕幸
の作品の「として」の語に、自分でも驚くほど強い拒否感におそわれたことが忘れられない。単独で美しい色、美しくない色があるわけでなく、組み合わせしだいで美しくもなり、美しくもなくなるように、言葉もそうだと思っていた。俳句や川柳に使う言葉にタブーなどあるはずもなく、どう使うかが重要なのだと思っていたが、思いたかっただけだのようだ。いまだに、単語レベルの好悪の感情に結構振り回されている。
とはいえ、「対UFO」の「として」は、まったく気にならなかった。そういえば、「秘密兵器」なんていうのも決して好きな言葉ではない。「対UFO」の句は、言葉でできあがっているのに、言葉でできあがっていることを忘れさせてくれる力(力?)があるようだ。
風景が立ち上がる句がよい句で、そうでない句が悪いなどとは思わない。が、福田の書く言葉はどこかもどかしい。言葉にこだわっていながら、従来からある言葉の意味やはたらきから逸脱していない。このもどかしさは私のものでもある。
私が言葉を書くのか、言葉が私に書かせるのか。どちらも同じこと、と涼しく言ってみたい。いっそあさぎまだらになりたい。
第424号 2015年6月7日
■利普苑るな 末 期 10句 ≫読む
第426号2015年6月21日
■喪字男 秘密兵器 10句 ≫読む
第427号 2015年6月28日
■福田若之 何か書かれて 15句 ≫読む
Posted by wh at 0:03 0 comments
2014-10-12
10句作品テクスト 二村典子 違う靴
違う靴 二村典子
手も足も届かない椅子秋日和
水澄むや澄めば澄むほど遠ざかる
天高し行きと帰りは違う靴
銀杏を割る難題を聞き入れる
台風がまた来る週末三連休
ねじの谷から虫の声ねじ山へ
今日の月息子の同級生がいる
実は実は秋の重さよ実は実は
あやまってぶつかって真夜中の月
あたらしくきれいなお皿きれいな夜寒
Posted by wh at 0:02 0 comments
