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2024-02-04

二村典子【週俳12月の俳句を読む】 としか言っていない

【週俳12月の俳句を読む】
としか言っていない

二村典子


この空かこの青空のふゆのそら  上田信治

もやもやする。なんなら少しいらいらする。なんだろうこの句。おもしろくはない。うまいとも思えない。意味がわからないわけでもない。「この空か」見たくてしかたがなかった特別な空なのであろう。大切な人との約束の空かもしれない。この場合の「か」は疑問というより詠嘆の意味として読んだ。この句の感動の中心となる部分である。それはどんな空なのだろうと読者も期待する。「この青空の」ああ、青空なのね、「ふゆのそら」…なにか肩透かしにあったような気分になった。つまりは「冬の青空」としか言っていない。冬の青空は見上げると鼻の奥がつんとして、吊り橋効果のように自動的に切なくなる。季語としてどうのというより素朴に実感できる言葉である。でもこの作品はそれがまったく発動しなかった。「この空か」で高まった期待にこの句が何も答えてくれないと感じるのは、一つには「ふゆのそら」という季語がひらがな表記されているせいであろう。「冬の空」と書かれるより意味や映像がぼんやりする。ぼんやりどころか私には真っ白に思えた。「この青空の」の助詞の「の」も、何も限定してくれない。俳句の定石として、季語を感動の中心に据えることが多い。季語を主役に、などともよくいわれる。そうじゃない句もあっていいのに、とか季語が主役って季語以外の言葉に失礼じゃないかな、と日頃思っていた。つまり定石どおりじゃない句だって読んでみたいし作ってみたい。その点「この空か」の句は、季語をみごとに「無化」している。あまり見たことのない季語の使い方をしている。へんな句、と思いながら頭から離れたかったのはそのせいかもしれない。


組み敷いてみればサンタクロースかな  村田篠

「この空か」の句でもやもやしたせいで、この句を読んで目が洗われるような気がした。文句なくおもしろい。友だち同士で話題にしたら盛り上がること間違いのない内容である。「サンタクロースって白い髭に赤い服のおじいさんでしょ。それが組み敷いてみるまでわからないってどういうこと?」「それがねえ、暗闇で後ろから襲われたのよ」「危ない!抵抗したらだめじゃない」もしくは「それがね、見た目は普通だったけど、グリーンランド国際サンタクロース協会認定の公認サンタクロースの資格を持っていたのよ」 わかりやすいおもしろい句をありがとうございました。でも笑っただけでなく、サンタクロースがサンタクロースであるには、ってすごく考えたよ。


セーターで見分けてゐたり兄の友  岡田由季

作中の実物が「兄の友」をどういう存在として見ているかがよくわかる。よく似たものでも見分けることができるのは、必要性、関心の度合い、さらに言えば愛の多寡による。掲句、友人の多い兄のようだ。家にやってくる兄の友人たちを顔や背格好で見分けることができない(する気がない)のは、その程度の関心しか持てなかったから。この作品がその日一日だけのことを描いているのなら、着ているもので区別するのは、手っ取り早く合理的である。けれど日をまたいで入れかわり立ちわわり出入りする友人のことだとしたら、危うい。失礼なことになりかねない。でもその危うさも含めて「まっいいっか」と思っていそうである。これは「兄の友」と「妹」の距離感として好ましい、と兄を持つ私は思う。いろいろ入替がききそうにも思える句であるが、温度・湿度・色合いもろもろ絶妙に心地よい。


年の瀬の雪の曇りの奥の月  福田若之

底を見ているようだと思った。行き止まりの底からにぶい光を放つ月。月とくに満月を見るといつも軽く驚く。科学的な話はさておき、あんなに大きなものが浮いていることが不思議なのだと思う。この句の月は浮いていない。重い雪雲の中に沈んでいる。五つの「の」の過剰なたたみかけは、どんどん落ちていくような感覚になる。見上げているのに落ちてゆく、この押しつまった年の瀬に。


川田果樹 ペリカン 10 ≫読む 868号 20231210

竹岡一郎 敬虔の乳 42 読む 870号 20231224

村田 サンタクロース 5 読む

上田信治 この空  5 読む

岡田由季 テノール 5 読む

福田若之 果て 5 読む


2022-12-11

二村典子【週俳8~11月の俳句を読む】平和って平和?

【週俳8~11月の俳句を読む】
平和って平和?

二村典子


皿の裏 日向美菜

作者名に目がいった。おいしそうな「日向」の「美」しい「菜」。野菜って善。おいしい野菜の話をしていると大体平和。

紙に拭ふ鍋の油や黍嵐  日向美菜

「紙で拭ふ」というなら何でもない日常の動作である。けれど「紙に」と書かれると、紙についた油をまじまじと見つめているような感じがする。拭った油がどこかにつかないように、速攻で紙を捨てたくなるものなのに。キッチンペーパーで拭うころには、油はいろいろなものを含んで汚れ、酸化して飴色をしている。そんな油の様子を楽しんでいるのだろうか。それともまだ何かに使えないか考えているのか。季語が「黍嵐」だから単純に楽しい光景ではなさそうだ。ざわざわと音を立てる強風。外は風が吹いている中、お家仕事にいそしんでいるだけかもしれないが、どうも使用済み油の行方にざわざわするのである。

煮凝や外みえてゐる換気扇  同

旧い家の換気扇はひもを引っ張るとガタンと音をたてて扇風機のような羽根が回るものだった。羽根の隙間から壁の向こうの戸外が直に見える。調理中つけっぱなしにすると暖かい空気も逃げていってしまう。とにかく昔の台所は寒かった。魚の煮汁も一晩もたてば煮凝となる。名古屋には「うめご」と呼ばれるサメの皮の煮凝がある。見た目はグロテスクだが、味はたんぱくで、なかなかのごちそうだ。私はこれが身震いするほど嫌いだった。お正月の食卓に出すために切り分けていると端っこのちょっと形が歪んでいる部分を「口に放り込んじゃいなさい」と姑に言われた。「あんまり好きじゃないんです」と告げたのだが、一年経つとまた「口に放り込んじゃいなさい」何の罰ゲームだよ。

せめて煮凝が好物だったら、この句にこれほど寒さを感じなかったのかもしれない。

露草や定規に正す手紙の字  同

「露草」と取り合わされて、正される手紙の文字がかわいそうにみえてくる。正されるのだからもちろん達筆ではなかろうが、勢いのある癖字ではなく、弱弱しい筆跡の小さな文字のようである。そのふにゃふにゃした線が許せない、とばかりに定規を持ち出して修正しよとする人物。手紙の字の主と正す人物は別人かもしれないし、本人かもしれない。本人だとすると、もう一つ別の風景が立ち上がってくる。定規を使って字を書くのは、つまり筆跡を隠そうとしている可能性がある。そうまでして事件性をつけ加えたい、のかな。

犬の嗅ぐ皿の裏がは冬隣  同

裏とか表とか犬にとってはどうでもいいことに違いないし、そもそもそんな認識があるのかどうか。餌のなくなってしまった皿をひっくり返るまでなめ回していたのだろうか。そこには犬は愚かだからかわいいという視線を感じる。「うちの子はほんとうに賢い」と犬自慢されるよりはよほど好感度は高いのであるが、なんというか、そういう好悪の感情がそのまま俳句のよろしさに関係するのがちょっとひっかかる。一目で読めてしまう俳句は好悪の「悪」の感情を持たれてしまうと、それ以上読んでもらえない。門前払いはしたくないしされたくない。

それにしても助詞「に」の使用頻度の高い作品群である。一〇句中七句。鼻につくほどではないが、何かこだわりがあるように見える。ただ鼻につかないのは使い方というよりも「に」の音の持つ柔らかさにあるのかもしれない。


タイガーモノローグ 野口る理 四〇句

四〇句、ほとんど事件は起きていない。

流氷も頸椎も切るピアノ線  野口る理

「ピアノ線」と呼ばれるが、ピアノだけではなく広く工業用に使われる強度の強い金属製ワイヤーのことであり、橋のケーブルにもなっているらしい。そんなものをピンと張ったら流氷も切ってしまえるだろうなとは思うのだが、「ピアノ」の語感のせいでグランドピアノのある洋間がちらつく。機能と名前のギャップ。絞首刑にも使われたことがあるようだ。「頸椎」を切れば、それは事件である。ただこの句を読むと、切ったとは限らない。ピアノ線で切れるものを淡々と数えているようである。それはそれでぞっとする。ワイヤーは切るものでなく、支えるもののはずである。

花冷のソファーにひそむ巨大発条  同

ソファーは「発条」が大切らしい。耐久性や座り心地の要となる。中にはバネ使われず、ウレタンなどのクッション素材だけで作られているものもあるらしい。ソファーの中身は外から見えない。「ひそむ」という措辞は少々不穏であるし、「巨大」という言葉もただ「大きい」というより脅威を秘めている。とはいえ、せいぜいソファーのバネ。壊れて飛び出したとしても大した事件ではない。「花冷」という季語はそんなわかりやすい事件を想像させる言葉ではない。

水撒けば砂縮こまる残暑かな  同

水がかかっても砂は小さくならない。ただ白っぽい砂の色が黒く変わって「縮こまる」ように見えるのかもしれない。濡れると粒が際立って、隣の砂粒との連帯感が消え、そう見えるのかもしれない。あるいは盛大に水を撒かれて、恐れをなしたように感じられたのかもしれない。実際には縮こまらない砂を縮こまると表現して、砂のかわいらしさがましている。そして残暑はまたあっという間に砂を乾かしてしまうのだろう。

秋の夜の猫座なら尾の躍動感  同

「猫座」は聞いたことがなかったので調べたところ、一九世紀のフランスの天文学者ラランドが考えた星座のようだ。現在星座といえば、一九九二年に国際天文学連合が認定した八八の星座をさすらしく、猫座はその中に入れてもらえなかった。その不憫さもあいまってそそられる星座名である。星図に描かれた猫座を見たが、猫の尾に躍動感は感じられない。星座はほぼ動かないので、躍動感は作者の想像力のたまものであろう。猫の尾は感情表現が豊かである。

冬晴やパーカーのひもあいまいに  同

パーカーは便利。首元の日除けにもなるし、少しぐらいの雨は防げる。顔も隠せる。フードをかぶるときにきゅっと締めるひもであるが、ひもってどうして結ぶときはそうでもないのに、ほどくのは面倒なのだろう。ついぞんざいに扱う。すると次に締めようとしたときに通し穴に入ってしまっていたり、左右の長さが極端に違ったり。そもそもひもをつかう機会はそんなにない。要らないと思って引き抜くと、いざという時に後悔する。あいまいってそんな感じなのかな。違う気もするな。それこそがあいまいか。


広渡敬雄 天草 10 読む

野口る理 タイガーモノローグ 40句 読む

2021-04-18

【週俳3月の俳句を読む】やきそばに目がくらむ 二村典子

【週俳3月の俳句を読む】
やきそばに目がくらむ

二村典子


服を縫ふ指にんにくを分解す  篠崎央子

家事、と一括りにされるけれど、掃除と料理、裁縫と買物など、正反対と言っていいほど違う。「服を縫ふ」ことと料理をすることがどれほど違うものかこの句を読んで考えた。裁縫は、工程にもよるが、縫っている間は無心になれる時間があるように思われる。好きならばなおさらだ。一方料理は常に理性的ではないか(土筆の袴をとる時ともやしの根をとる時を除く)。料理がさほど好きではない者の偏見かもしれない。にんにくを「剥く」のでも「刻む」のでもなく、「分解す」という表現に、この句の人物もなんとなく料理が好きではない、というか得意ではない気がしてくる。今まで楽しく(?)服を縫っていた同じ指がにんにくを分解していることの不思議というか、融通がきき過ぎる感というか。それにしても順番は大切、と思った。にんにくを分解した指が服を縫っては、匂いが気になってしょうがない。

食ひ余すピザの切つ先鳥帰る  篠崎央子

切り分けられたピザにはたしかにとがった部分があるけれど、あそこを「切っ先」と思ったことはない。切っ先は刃物あるいは刃物のようにある程度かたく、触れたら痛そうでなくては。ピザのとがったところは持ち上げたらふにゃふにゃで、すぐにでも口に運ばないと・・・とどこまでも「切っ先」にピンとこないところが、つまりは意外性となってこの句にひきつけられる要因になっている。「食ひ余」してかたくなってしまったのかもしれないし、食べ残したことへの罪悪感に責められている気分をよんだのかもしれない。「鳥帰る」という季語は時の経過を感じさせることばであるが、この句の場合「立つ鳥跡を」というか、立ち去った後の場面を演出しているようにも読める。

やきそばは半額梅が枝は湾曲  篠崎央子

脚韻というのは難しいもので、調子がいい分、軽みというより軽薄になってしまう(軽薄が必ずしも悪いわけではありませんが)。しかも「やきそばは半額」ではじまるこの句は、一歩間違えば「おもしろすぎる」と評されてもおかしくない。けれど「梅」の品性というか人徳のようなものと「梅が枝」という古式ゆかしいことばのおかげで、なんというかいい塩梅である。これでは「梅」を褒めているだけかな。ちなみにやきそばは大好きなので、半額なら絶対買う(やきそばにはずれは少ない)。「梅」と「やきそば」に目がくらんでいるかもしれないけれど、それをさしひいても(さしひけないけれど)佳い句だと思う。


ぬけがらの何処かで燃えている野焼  近 恵

「何処かで」というからには眼前で燃えているわけではない。煙とか匂いで野焼と知ったのか。しかもどうやって燃えているものを「ぬけがら」と特定したのだろう。独特の匂い?虫とか蛇とか?考えてみたらお菓子の箱とか包装も中身を出してしまえばぬけがらと呼べるかもしれない。そして、なるべく比喩的に読みたくはないのだが、日常的には魂のぬけがら、とうつろになった人間を指すことが多い。虫などのぬけがらと違って人間のぬけがらは魂が戻ってくるのを待って使いまわさなければならず、捨て去ることができないが、なんなら燃やすことができるようなものならいいのにとも思う。それにしても「どこかで」というのはずるいことばである。「どこかにある」「どこかで聞いた」と言われれば否定するのは難しい。どんな不思議もあり得てしまう。「夢落ち」なみに用心することにしよう。


勝てる気の全然しない猫柳  近 恵

発言した本人の気持ちはさておき、「勝てる気がしない」と言われればこちらも少々悲しくなるが、「勝てる気が全然しない」と言われると笑いながらお尻をたたけそうである。誰(何)が誰(何)に、どんな勝負で、と全く状況のわからない句であるが、「猫」の文字が続くことでどうしても猫がけんかしようとしている姿が目に浮かぶ。猫が特にけんかっぱやいわけではなかろうが、猫と猫が出会うとつい対決を期待する。まあ、猫じゃなくて猫柳ですが。


雪下ろす黄色の屋根は我が家のみ  須藤 光

旅先の景色で素敵だなと思って見ていると、屋根の色に統一感があることが多い。景観を守るため周囲との調和に気を使っているのかもしれない。ちょっと調べたところ屋根の色の人気は茶系/グレー/緑/青/黒/赤/オレンジと続くらしい。「黄色の屋根」はなかなか個性的だ。この句の人物は「我が家のみ」の「黄色の屋根」を恥ずかしがっているような気がする。家族の誰かの趣味で意に沿わぬ黄色になってしまった屋根。気に入らないからといってそんなに簡単に変更することのできない屋根の色。雪で隠れていた色が雪下しであらわになり、やっぱりうちの屋根は黄色かった、とため息をつく。それでも白と黄色で構成されたこの句はまぶしいほど明るい。


第724号 篠崎央子 猫の貌 10句 ≫読む

第725号 中西亮太 祝祭 10句 ≫読む

第726号 近恵 どこかで 10句 ≫読む

第727号 須藤 光 故郷 10句 ≫読む

2020-05-03

【週俳3月の俳句を読む】一周まわって 二村典子

【週俳3月の俳句を読む】
一周まわって

二村典子



夕星の弘法市に苗木見に  藤田哲史

「夕星」「弘法市」「苗木」、同趣の風流で穏やかことばが並ぶ。今までこういった句にあまり惹かれなかったように思う。

「弘法市」といえば京都の東寺が有名であるが、自分の地元である愛知県知立市にもある。「弘法さん」と呼ばれる遍照院の縁日には善男善女がたくさん詰めかけるため、駅からの道が歩行者天国になる。その道が中学の通学路と重なっていたため、うっかりはちあわせると、露店と善男善女で狭くなった道を通りぬけるのが大変だった。あらかじめわかっていれば遠回りしたものだ。露店で売られているものにも全く興味がそそられなかった。弘法市は身近ではあるが避けるべきもの、とずっと思っていたため、まともに訪れたのはごく最近になってからである。

弘法市は午前中からお昼にかけてが最盛期で、ほんとうによい苗木がほしいと思えば夕方では遅い。この作品の人物も人の多い弘法市のさなかは避けて家の中に引っ込んでいたのかもしれない。夕方になって人通りも途絶えたであろうことを見計らって外に出る気になったのだ。「弘法市に苗木見に」、と目的がはっきりと書かれている割には「弘法市」にも「苗木」にもさほど関心があるようには思えない。つまりは風流なことばが並びながら、風流とはどこか距離を置いている。そんな態度が私には好ましかった。そのうえで、弘法市は来月も来年もあり、人々でまた賑わうに違いない、と疑いもしなかった日々が遠くになりつつあることにうっすら気づいているようだ。

卒業期サンドイッチのきゅうりの味  藤田哲史

卒業期。卒業のためのあれこれをこなしつつ、新生活への準備も必要な忙しい時期。「卒業」という行事と無縁になろうとも、この時期への感傷めいた気分は多くの人が共感できるものである。お昼どきであろうか。サンドイッチなら作業の手を休めて手軽にさっとすますことができる。

ここのところきゅうりがしみじみおいしく感じる。よくおやつ代わりにかじったりする。きゅうりといえば、本場イギリスのアフタヌーンティーのきゅうりサンドはあこがれの食べ物である(本に出てくるそれのおいしそうなこと)。さらに、昔飼っていた猫の子がもらわれていった先で、きゅうりの食べ過ぎで死んでしまった。このようにきゅうりに関して結構思うところがあっても、この句が「きゅうりの味」をなにか特別なものと言っているようには読めない。下句の字余りのぐだぐだとした感じにもそれは現れている。サンドイッチに入っているきゅうりは、その歯ごたえは多少主張するところがあっても、とびきりおいしいものではない。そんな存在感がこの句のあじわいそのもののようだ。もしかしたらあわてて食べたきゅうりが歯にひっかかっていて、しばらくたって気づいて噛みしめたのかも、とも考えた。けれどそんな読みは、この句にとって「事件」であり過ぎる、おもしろがり過ぎている。

「きゅうりの味」とはっきりと書きながら、きゅうりの味の変哲のなさを示している、と感じられた。そのあたりが今回惹かれた二句の共通点かもしれない。もちろん共通点をさがす必要などこれっぽっちもないのだが。作品は多かれ少なかれ時代の気分を反映するといわれる。その影響はむしろ読み手にまわったときに強く働くのかもしれない。



森羽久衣 風の日は 10句 ≫読む
生駒大祐 口伝花語 15句 ≫読む
藤田哲史 鋼の卵 15 ≫読む  
6742020322
大野泰雄 コロナ裏仮面 10句 ≫読む
龍翔 放し飼ひ 10句 ≫読む

2016-09-25

【週俳8月の俳句を読む】二村典子 秋の長雨のせい

【週俳8月の俳句を読む】
秋の長雨のせい

二村典子


さかのぼるひばりひきちぎれるかひかり  福田若之

前書のついた作品は、前書込みで引用すべきであるが、この美しい句に対してむしろ邪魔な気がして、あえて前書なしで記してみた。まっすぐに、高速で上昇するひばりの視界に広がる、目にもとまらぬ世界。

「ひきちぎれるか」の措辞にどうしようもなくあふれる若さと苦さがまぶしい。


玉虫の背中に色や本閉づる  宮本佳世乃

玉虫の玉虫たる所以は、まさに背中の色にある。それを「玉虫の背中に色や」と、ぬけぬけと驚いてみせた。しかし、「本閉づる」とは。もしかしたら、そんなとぼけた句なのではなく、ほんとうに玉虫を見たことがないのかもしれない。わたしたち(たち?)は、当然季語をよく知っているものとして読んだり書いたりしている。けれど、実物はもちろん写真も見たことがなく、玉虫について書かれた本だけを読んだとしたら。どのような文章で綴られているのか、その文章から想像された玉虫がどんな色かなどと思いを巡らすのも楽しい。

百聞は一見に如かず、の逆であるが、少数派と思われる百聞派に加担してみたい。


めりめりとしたるパラソル状の祖父  鴇田智哉

パラソル状のものって、意外と少ない。結構独特のかたちだ。だから「パラソル状の祖父」には、立ち往生せざるを得なかった。雨の多い九月を過ごし、傘を見上げていて、万華鏡の中の風景は、パラソル状と言えるのではないかと思いついた。

両親や祖母と違って印象が希薄な祖父。そんな亡き祖父の姿が万華鏡の中に浮かぶように思い出された。現実の姿ならば目をつぶればいいが、記憶の映像を消すのはむつかしい。めりめりと、それこそちからずくで、脳裏から引きはがさなければならない。立ち往生したわりには、すんなり腑に落ちた。


かなかなのこゑの数だけある画像  鴇田智哉

かなかなの声はどうやって数えるのだろう。そもそも声なんて数えることができるのだろうか。とはいえ、かなかなだけに「かな」でひとつ、「かなかな」でふたつ、と無理をすれば数えることができるような気もする。

「かなかなのこゑの数ほどある画像」と書かれていれば、わかりやすかった。とかく多くの画像に取り囲まれた日常がすぐに思い出される。けれど「だけ」とある。何かが欠けているのであろうか。どこか偏っているのであろうか。「だけ」の一語が悩ましい。

かなかなのこゑの数だけの画像を一面に敷きつめたら、一枚の絵のように見えはしないか。だとしたら、高く高く、できるだけ高く離れて、その絵を見てみたい。


あるいはねびめく  田島健一
あいさすと色鳥うすびへるしんき
おすかりの颱風くびれひただよう
かかりさるともだちいんび秋まつり
蝦蔓にたつみはるけくゆびみつる
いることのまびわりかなし鬼やんま
菊月のねびゆくけしきうぞくまり
うしろあびひうらにおいてくる瓢

この二週間ほど田島健一の句に夢中だった。

既存のことば(変なことばだ)を微妙にずらしてつくられたように見えることばが散りばめられた一編。

当初、どうしても元のことばを探してやろうという意識が働き、なんとももどかしかった。「うぞくまり」は「うずくまり」だろう、「あいさす」は「あいさつ」であろうか、等々。

けれど、この作業は全然おもしろくなかった。自分自身で見つけた答めいたことばには「選択責任」のようなものが発生してしまい、作品の楽しみ方を狭めているような気がした。

そうまでして意味をとらなくても、季語と意味のわかることばの連なりだけで、秋の、古典的なほど秋の気分は伝わってくる。俳句に季感がそれほど大事だとは思わないが、秋という季節の趣は大好きなのだ、わたしたちは。

プリントアウトした紙を何日も眺めていて、五・七・五の切れ目に「/」を入れてみた。

あいさすと/色鳥うすび/へるしんき
おすかりの/颱風くびれ/ひただよう
かかりさる/ともだちいんび/秋まつり
蝦蔓に/たつみはるけく/ゆびみつる
いることの/まびわりかなし/鬼やんま
菊月の/ねびゆくけしき/うぞくまり
うしろあび/ひうらにおいて/くる瓢

すると、意味のわからないことばに対するこだわりが、すうっとなくなっていった。(わざわざ「/」をいれなくても最初からこう読めたはずだけれど)

声に出してよむ。意味はわからないのに、さらさらと歌うようによめる。「散文的」な俳句は否定的に語られることが多いが、「韻文」が何であるかを説明するのは難しい。けれど、声に出して気持ちがよければ、これはもう、よい韻文ではないか。ただし、このような楽しみ方をするためには、一句では物足りない。田島の神経が隅々まで行きわたっている連作ならではのよろしさである。私自身、何句かまとめて発表する場合、全くばらばらな句をランダムに並べはしない。作句の際、連作という意識が思わぬ一句を生む楽しさがあることも十分知っている。けれど「一句の独立性」が云々されるため、あからさまな連作に見えないようしていた。世知辛い。作品より先に評価の基準などないことを、ことばではわかっていたはずなのに。

(ここまで書いてトオイダイスケ氏「美という音、音という美」を読みました。すばらしい。先に読んでいたら、とても書けなかったと、告白させてください)


安易に「似ている」と言わないことにしている。「区別がつかない」のは区別される側ではなく、区別しない側に多く要因があるからだ。区別するほどの関心も、必要もないため、同じように見えてしまう。俳句作品も、一句一句を括ることなく読みたいと思ってきた。たとえ同じ作者の句であっても。

けれど、それなのに、とはいえ、進藤剛至の「清水」と鷲巣正徳の「ぽこと」は、どうしても「似て」見える。

進藤剛至 清 水
更衣さびしき腕を組みかへて
まだ顔をもたずに伸びて青芒
清水汲む零れぬやうにこぼしつつ
祭より抜けて祭の音聞こゆ
すべり込むやうに晴れたることも梅雨
炎天の裏にひんやりある宇宙
都を染めてゆくみんみんの一粒よ
ペン先の滑りやすきも夜の秋
席すこしづつ埋りゆく残暑かな
こほろぎの畳みそんずる翅に風

鷲巣正徳 ぽこと
手花火の腕眩しき白さかな
蜩の声に時空の澄みゆける
涼新た鳥のかたちが欄干に
看護師の胸に蜻蛉のボールペン
海渡る翅の連なり秋の蝶
点滴のぽこと終はりぬ牽牛花
何処までも走り続けて花野中
蟷螂の樋を登つて行くところ
おんおんと酸素を吸へば月の前
キリストの頬に青き血秋の虹

類想とか類句とは違う。

ふと、テレビを見ると、FLOWERというガールズグループの数人がかわるがわるアップになった。

「驚くほど区別がつかないわ」とつぶやく私にすかさず「美少女だからさ。ももクロは全然違うだろ?」と夫が言った。まさに、この感じなのである。




第485号2016年8月7日
進藤剛至 清水 10句 ≫読む
第486号 2016年8月14日
加田由美 引き潮 10句 ≫読む
鷲巣正徳 ぽこと 10句 ≫読む
生駒 大祐 読む 
田島 健一 読む 
鴇田 智哉 読む 
福田 若之 読む
宮本佳世乃 読む
岡野泰輔 焦げる 10句 ≫読む

2015-08-02

【週俳6月の俳句を読む】二村典子 水母は投げない

【週俳6月の俳句を読む】
水母は投げない

二村典子


対UFO秘密兵器として水母  喪字男

六月の作品の中で、真っ先に、無条件に好きになった。読んでたちまち、水母に見とれている気分になった。私も、そしてUFOも。実際にUFOを見たことはないのだが、いや、見たことがないからこそ、UFOといえば空飛ぶ円盤をイメージする。水母と「視覚的に似ている(瀬戸正洋)」。似ているとなると、無関心ではいられない。あの美しく不思議な浮遊物に魅せられたUFOは、戦意を喪失し、去ってゆくのである。

ああ、こんなベタな解説は書かない方がこの作品のためであるとつくづく思う。


おもひでに網戸の穴をくはへておく  喪字男

網戸は意外なほど汚れている。ちょっと触っただけで、手が真っ黒になるくらいだから、咥えるなどもってのほか…あ、加える?…

網戸のほころびを咥えようとすると鼻が邪魔になるけれど、蝶なら大丈夫だろう。あさぎまだらになりかけた人なら、ほぼ確実に咥えることができるはずだ。

私にも網戸の思い出がある。台所で洗い物をしていた横で網戸にもたれていた子どもが、すうっと暗闇に吸い込まれていった。劣化した網が重みに耐えられず穴があいたのだ。その後大騒ぎになったはずだが、覚えているのは、音もなく吸い込まれていったその瞬間だけである。思い出は静かだからいい。ほこりくささも網の味も思い出を美しくしかしない。

ねむられずあさぎまだらになりかかる  喪字男

荘子は夢の中で胡蝶となった。この句では、眠らずとも蝶になりかけたのだという。なんともうらやましい状況なのだが、語り手はそうとは思ってないようである。「あぶなくあさぎまだらになるところだったよ。」「中途半端に変身しちゃってさあ。」「あさぎまだら」という語感のせいか。そして、喪字男さん。さりげなく表記も作品ごとにぴたりぴたりと決まっている。


何も書かなければここに蚊もいない  福田若之

会議などで、わざと質問や反論の余地を残して発表することがある。文脈にはのせにくいが語りたいことや、印象づけたい内容は、質問させた方が効果的だ。この句もそういう類のものなのだろうか。

そんなわけはないじゃない、何も書かなくても蚊はいると、言ってほしいのだろうか。それでも、ただただ、書くことによって蚊を現出させることを夢想しているのか(か、ばかりで申し訳ない)。寺山修司の「けむり」のように。

ハンカチと呼べばそう詩と呼べばそう
 福田若之
広い田に引用されていく早苗

「何か書かれて」の連作は、まさに言葉が主役である。

言葉を喩えるものとして、ハンカチや早苗が書かれている。一瞬にして眼前に水母が浮かんだ「対UFO」の句と対照的に、どんな風景も立ち上がってこない(似ているとどうしても比べてしまうといいながら、似ていなくても比較して、申し訳ない)。

ここで「対UFO」の句について、ただ単に「水母」が好きなだけではないかとの疑問が湧く。「水母」という言葉さえ入っていればOKじゃないのか、私は。

川柳を始めたばかりのころ、句会で出会った

  店長として秋の野に立っている   荻原裕幸

の作品の「として」の語に、自分でも驚くほど強い拒否感におそわれたことが忘れられない。単独で美しい色、美しくない色があるわけでなく、組み合わせしだいで美しくもなり、美しくもなくなるように、言葉もそうだと思っていた。俳句や川柳に使う言葉にタブーなどあるはずもなく、どう使うかが重要なのだと思っていたが、思いたかっただけだのようだ。いまだに、単語レベルの好悪の感情に結構振り回されている。

とはいえ、「対UFO」の「として」は、まったく気にならなかった。そういえば、「秘密兵器」なんていうのも決して好きな言葉ではない。「対UFO」の句は、言葉でできあがっているのに、言葉でできあがっていることを忘れさせてくれる力(力?)があるようだ。

風景が立ち上がる句がよい句で、そうでない句が悪いなどとは思わない。が、福田の書く言葉はどこかもどかしい。言葉にこだわっていながら、従来からある言葉の意味やはたらきから逸脱していない。このもどかしさは私のものでもある。

私が言葉を書くのか、言葉が私に書かせるのか。どちらも同じこと、と涼しく言ってみたい。いっそあさぎまだらになりたい。


第424号 2015年6月7日
利普苑るな 末 期 10句 ≫読む
第426号2015年6月21日
喪字男 秘密兵器 10句 ≫読む
第427号 2015年6月28日
福田若之 何か書かれて 15句 ≫読む

2014-10-12

二村典子 違う靴 10句

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週刊俳句 第390号 2014-10-12
二村典子 違う靴
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10句作品テクスト 二村典子 違う靴

違う靴  二村典子

手も足も届かない椅子秋日和

水澄むや澄めば澄むほど遠ざかる

天高し行きと帰りは違う靴

銀杏を割る難題を聞き入れる

台風がまた来る週末三連休

ねじの谷から虫の声ねじ山へ

今日の月息子の同級生がいる

実は実は秋の重さよ実は実は

あやまってぶつかって真夜中の月

あたらしくきれいなお皿きれいな夜寒