2024-02-04

二村典子【週俳12月の俳句を読む】 としか言っていない

【週俳12月の俳句を読む】
としか言っていない

二村典子


この空かこの青空のふゆのそら  上田信治

もやもやする。なんなら少しいらいらする。なんだろうこの句。おもしろくはない。うまいとも思えない。意味がわからないわけでもない。「この空か」見たくてしかたがなかった特別な空なのであろう。大切な人との約束の空かもしれない。この場合の「か」は疑問というより詠嘆の意味として読んだ。この句の感動の中心となる部分である。それはどんな空なのだろうと読者も期待する。「この青空の」ああ、青空なのね、「ふゆのそら」…なにか肩透かしにあったような気分になった。つまりは「冬の青空」としか言っていない。冬の青空は見上げると鼻の奥がつんとして、吊り橋効果のように自動的に切なくなる。季語としてどうのというより素朴に実感できる言葉である。でもこの作品はそれがまったく発動しなかった。「この空か」で高まった期待にこの句が何も答えてくれないと感じるのは、一つには「ふゆのそら」という季語がひらがな表記されているせいであろう。「冬の空」と書かれるより意味や映像がぼんやりする。ぼんやりどころか私には真っ白に思えた。「この青空の」の助詞の「の」も、何も限定してくれない。俳句の定石として、季語を感動の中心に据えることが多い。季語を主役に、などともよくいわれる。そうじゃない句もあっていいのに、とか季語が主役って季語以外の言葉に失礼じゃないかな、と日頃思っていた。つまり定石どおりじゃない句だって読んでみたいし作ってみたい。その点「この空か」の句は、季語をみごとに「無化」している。あまり見たことのない季語の使い方をしている。へんな句、と思いながら頭から離れたかったのはそのせいかもしれない。


組み敷いてみればサンタクロースかな  村田篠

「この空か」の句でもやもやしたせいで、この句を読んで目が洗われるような気がした。文句なくおもしろい。友だち同士で話題にしたら盛り上がること間違いのない内容である。「サンタクロースって白い髭に赤い服のおじいさんでしょ。それが組み敷いてみるまでわからないってどういうこと?」「それがねえ、暗闇で後ろから襲われたのよ」「危ない!抵抗したらだめじゃない」もしくは「それがね、見た目は普通だったけど、グリーンランド国際サンタクロース協会認定の公認サンタクロースの資格を持っていたのよ」 わかりやすいおもしろい句をありがとうございました。でも笑っただけでなく、サンタクロースがサンタクロースであるには、ってすごく考えたよ。


セーターで見分けてゐたり兄の友  岡田由季

作中の実物が「兄の友」をどういう存在として見ているかがよくわかる。よく似たものでも見分けることができるのは、必要性、関心の度合い、さらに言えば愛の多寡による。掲句、友人の多い兄のようだ。家にやってくる兄の友人たちを顔や背格好で見分けることができない(する気がない)のは、その程度の関心しか持てなかったから。この作品がその日一日だけのことを描いているのなら、着ているもので区別するのは、手っ取り早く合理的である。けれど日をまたいで入れかわり立ちわわり出入りする友人のことだとしたら、危うい。失礼なことになりかねない。でもその危うさも含めて「まっいいっか」と思っていそうである。これは「兄の友」と「妹」の距離感として好ましい、と兄を持つ私は思う。いろいろ入替がききそうにも思える句であるが、温度・湿度・色合いもろもろ絶妙に心地よい。


年の瀬の雪の曇りの奥の月  福田若之

底を見ているようだと思った。行き止まりの底からにぶい光を放つ月。月とくに満月を見るといつも軽く驚く。科学的な話はさておき、あんなに大きなものが浮いていることが不思議なのだと思う。この句の月は浮いていない。重い雪雲の中に沈んでいる。五つの「の」の過剰なたたみかけは、どんどん落ちていくような感覚になる。見上げているのに落ちてゆく、この押しつまった年の瀬に。


川田果樹 ペリカン 10 ≫読む 868号 20231210

竹岡一郎 敬虔の乳 42 読む 870号 20231224

村田 サンタクロース 5 読む

上田信治 この空  5 読む

岡田由季 テノール 5 読む

福田若之 果て 5 読む


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