【週俳6月の俳句を読む】
水母は投げない
二村典子
対UFO秘密兵器として水母 喪字男
六月の作品の中で、真っ先に、無条件に好きになった。読んでたちまち、水母に見とれている気分になった。私も、そしてUFOも。実際にUFOを見たことはないのだが、いや、見たことがないからこそ、UFOといえば空飛ぶ円盤をイメージする。水母と「視覚的に似ている(瀬戸正洋)」。似ているとなると、無関心ではいられない。あの美しく不思議な浮遊物に魅せられたUFOは、戦意を喪失し、去ってゆくのである。
ああ、こんなベタな解説は書かない方がこの作品のためであるとつくづく思う。
おもひでに網戸の穴をくはへておく 喪字男
網戸は意外なほど汚れている。ちょっと触っただけで、手が真っ黒になるくらいだから、咥えるなどもってのほか…あ、加える?…
網戸のほころびを咥えようとすると鼻が邪魔になるけれど、蝶なら大丈夫だろう。あさぎまだらになりかけた人なら、ほぼ確実に咥えることができるはずだ。
私にも網戸の思い出がある。台所で洗い物をしていた横で網戸にもたれていた子どもが、すうっと暗闇に吸い込まれていった。劣化した網が重みに耐えられず穴があいたのだ。その後大騒ぎになったはずだが、覚えているのは、音もなく吸い込まれていったその瞬間だけである。思い出は静かだからいい。ほこりくささも網の味も思い出を美しくしかしない。
ねむられずあさぎまだらになりかかる 喪字男
荘子は夢の中で胡蝶となった。この句では、眠らずとも蝶になりかけたのだという。なんともうらやましい状況なのだが、語り手はそうとは思ってないようである。「あぶなくあさぎまだらになるところだったよ。」「中途半端に変身しちゃってさあ。」「あさぎまだら」という語感のせいか。そして、喪字男さん。さりげなく表記も作品ごとにぴたりぴたりと決まっている。
何も書かなければここに蚊もいない 福田若之
会議などで、わざと質問や反論の余地を残して発表することがある。文脈にはのせにくいが語りたいことや、印象づけたい内容は、質問させた方が効果的だ。この句もそういう類のものなのだろうか。
そんなわけはないじゃない、何も書かなくても蚊はいると、言ってほしいのだろうか。それでも、ただただ、書くことによって蚊を現出させることを夢想しているのか(か、ばかりで申し訳ない)。寺山修司の「けむり」のように。
ハンカチと呼べばそう詩と呼べばそう 福田若之
広い田に引用されていく早苗
「何か書かれて」の連作は、まさに言葉が主役である。
言葉を喩えるものとして、ハンカチや早苗が書かれている。一瞬にして眼前に水母が浮かんだ「対UFO」の句と対照的に、どんな風景も立ち上がってこない(似ているとどうしても比べてしまうといいながら、似ていなくても比較して、申し訳ない)。
ここで「対UFO」の句について、ただ単に「水母」が好きなだけではないかとの疑問が湧く。「水母」という言葉さえ入っていればOKじゃないのか、私は。
川柳を始めたばかりのころ、句会で出会った
店長として秋の野に立っている 荻原裕幸
の作品の「として」の語に、自分でも驚くほど強い拒否感におそわれたことが忘れられない。単独で美しい色、美しくない色があるわけでなく、組み合わせしだいで美しくもなり、美しくもなくなるように、言葉もそうだと思っていた。俳句や川柳に使う言葉にタブーなどあるはずもなく、どう使うかが重要なのだと思っていたが、思いたかっただけだのようだ。いまだに、単語レベルの好悪の感情に結構振り回されている。
とはいえ、「対UFO」の「として」は、まったく気にならなかった。そういえば、「秘密兵器」なんていうのも決して好きな言葉ではない。「対UFO」の句は、言葉でできあがっているのに、言葉でできあがっていることを忘れさせてくれる力(力?)があるようだ。
風景が立ち上がる句がよい句で、そうでない句が悪いなどとは思わない。が、福田の書く言葉はどこかもどかしい。言葉にこだわっていながら、従来からある言葉の意味やはたらきから逸脱していない。このもどかしさは私のものでもある。
私が言葉を書くのか、言葉が私に書かせるのか。どちらも同じこと、と涼しく言ってみたい。いっそあさぎまだらになりたい。
第424号 2015年6月7日
■利普苑るな 末 期 10句 ≫読む
第426号2015年6月21日
■喪字男 秘密兵器 10句 ≫読む
第427号 2015年6月28日
■福田若之 何か書かれて 15句 ≫読む
2015-08-02
【週俳6月の俳句を読む】水母は投げない 二村典子
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