2022-12-11

守屋明俊【週俳8月~11月の俳句を読む】三橋敏雄の句碑

【週俳8月~11月の俳句を読む】
三橋敏雄の句碑

守屋明俊


数十年ぶりに高尾山に遊んだ。男坂の百八段の落葉道を上って薬王院へあと少しという見晴らしのよい所に差し掛かると、句碑が立っていて「むささびや大きくなりし夜の山 三橋敏雄」と刻まれている。あの三橋敏雄?! 背筋に電撃が走った。驚いて目を瞠っていると句友の一人が調べてくれて12月1日が命日だと言う。12月1日? 今日! 何という偶然。尊敬する三橋敏雄の命日に彼の句碑と初めて出逢ったのだ。「大きくなりし夜の山」は巧いなあ。曇天の高尾は午後から少しずつ冷え、このまま夜の山になったらどうなるのだろうと考えつつリフトで下山。朝日文庫のシリーズ『現代俳句の世界』の解説を克明に書き続けた三橋敏雄は大正9年八王子市生まれで、ぼくの亡父と同い齢。これも奇遇だった。


はればれと絵踏みに集ふ檀家衆  広渡敬雄

「天草」10句より。前書きに「禁教時代の隠れ切支丹を思ふに」とある。「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に関係する自治体は、長崎市、佐世保市、平戸市、五島市、南島原市、小値賀町、新上五島町、天草市。その天草地方の集落を訪ねての旅であり、隠れ切支丹の歴史に触れる旅であったのだろう。

さて、この句の「はればれと絵踏み」は、現在の場面でなく、禁教時代のことと思われるが、どうなのだろう。庄屋の役宅で行われる絵踏みに際して、ふてぶてしく、時には笑みを浮かべて、堂々と絵踏みする檀徒衆が目に浮かぶ。キリストやマリアを生きる拠り所とし、その地域に柔軟に適応しながらしたたかに信仰を続ける人々の澄んだ目が、この「はればれと」に窺える。作者は時代を遡り、弾圧下の檀徒衆の日々の暮しに想いを馳せている。そう理解した。


土産屋の厠借りけり稲の花  広渡敬雄

文化遺産や大きな史跡、神社仏閣のある所には必ずその近くで「~饅頭」などが売られている。ナイアガラの滝で「ナイアガラ饅頭」は売られていないと思うが、日本ならでの光景で微笑ましい。いっそこのお土産屋も含めて日本特有の「遺産」としたらどうか、などと言いたくなるほど。

その土産屋で厠を借りた。トイレや便所でなく「厠」と言ったところに、古き遺産の地を訪れた作者の感慨が表れている。その周囲の稲の花は、花としては本当にささやかな目立たない花で、その積りでよく見ないと見えない。盆が過ぎ、やがて稲が実り、稲刈がある。その収穫の目出度さを考えると、この稲の花は隠れ切支丹の里への目配りの効いた輝かしい花にも思えてくる。


寅年のマフラーぐるぐるぐるぐる巻き  野口る理

「タイガーモノローグ」40句より。寅年に拘っているのは、ひょっとして寅年生まれなのか。ぼくが寅年生まれなのでそんなことを思ってしまうのだが。このマフラーを例えば「包帯」に変えたらどうだろう。「ぐる」を4回も重ねないだろう。ミイラ男は別としても「包帯ぐるぐる巻く」くらいで済む筈だ。マフラーを勢いよくぐるぐるぐるぐる巻きにするのは心の弾みがなせる業であり、これはやはり寅年と無関係というわけにはいかない。作者にとって今年は充足した一年であったと同時に節目となる年だったに違いない。


再会や虹に緑の濃き中野  野口る理

なぜ中野か。亡き清水哲男さんの〈ラーメンに星降る夜の高円寺〉もそうだが、高円寺とか中野とか総武線沿線の地域の名は「青春」の代名詞とも言え、その名を俳句に入れるだけで、何やら味わい深い印象を与えてくれる。新宿から東の代々木や原宿、渋谷などでは駄目で、高円寺から西の吉祥寺でも駄目。中野、東中野はほどほどに様になる場所だ。この句、再会と虹登場のシチュエーションを野原や山河ではなく中野という町に指定したのが、意外性もあり、好きでした。


枯蟷螂逃がす手つきのまま眠る  野口る理

目覚めたときに、その手つきをして眠ったことが解かったという。それが酔拳でもなく、幽霊の手つきでもなく「枯蟷螂」を逃がすような恰好の手つきだったというのが面白い。それで、問題はこの「枯蟷螂逃がす手つき」。ぼくも実はパソコンの尾根づたいを歩く蟷螂を窓の外へ逃がしてやったことがある。記憶では、ベランダから空へ放ってやるつもりが、そうはならず、かなり乱暴に両手で振り払い、その結果その蟷螂をベランダの壁にぶつけ、殺めてしまった。可哀想なことをした。悪かった。

その時の手つきは今でも再現はできる。ただし、眠って起きた時にその手つきだったとしても、この作者のようには気付かないと思う。それを気付いたというのだから、凄い才能の持ち主である。枯蟷螂ゆえに、きっとデリケートな逃がし方をしたに相違ない。


口中に血の匂ひたる夜霧かな  日向美菜

「皿の裏」10句より。実際の血の匂いなのか、感覚的な血の匂いなのか。実際の血だとして、それは自分の血なのか、はたまた他人の血が口中で匂っているのか。その他人というのが誰なのか。読み手にいろいろ妄想をさせ遊ばせてくれる、とてもシュールな一句。血の匂いから夜霧への飛躍も巧みと思う。妄言多謝。


冬ぬくし机の角に割る卵  日向美菜

豆腐の角に頭をぶつけるということはあるが、机の角に卵をぶつけるというのは経験したことがない。生卵なのか、茹で卵なのか。そもそも何故割るのか。何故机の角なのか。謎の多い句だ。食べる前提でなければ、割った生卵から中身がこぼれて床や畳を汚してもいいわけで、そうなるとこの割る行為は怒りに任せてのこと。悲しみに任せてのこと。

一方で、この句を素直に読めば、卵を割ってハムかベーコンを添えた目玉焼きや、プレーンオムレツを作る、あるいは卵掛けご飯にする、そのために机の角をちょっと拝借した。そう解釈も出来る。ちょっと角に当てて、それから両手で卵をボールに割り落としたのかも知れない。これが固茹での卵だとしたら、案外、常識過ぎてつまらないか。作者の意図から外れてしまうかも知れないけれども、読者の勝手でそのように考えてみた。卵を割った場面を実際に見たならば、それは極めて解かりやすい単純な行為だったに相違なく、ぼくの妄想は一掃されるだろう。


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野口る理 タイガーモノローグ 40句 ≫読む

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