2022-12-25

季語「開戦日」の怪  島田牙城

季語「開戦日」の怪   

島田牙城

開戦日(仲)十二月八日(ルビ略)
太平洋戦争開戦の日。一九四一年(昭和一六)一二月一日の御前会議を経て、「ニイタカヤマノボレ」の電報が打電された。…………

上は、先月末に刊行された『新版角川俳句大歳時記 冬』の「開戦日」冒頭四行である。解説は池田澄子さんの筆。

そこそこ若い人の例句が多く、「開戦日」経験者となると、木田千女さん(大正十三年生・狩行さん門・開戦日今宵は風呂を熱うせよ)当時十五歳、大牧広さん(昭和六年生・登四郎さん門・開戦日が来るぞ渋谷の若い人)と櫻井博道さん(昭和六年生・澄雄さん門・十二月八日味噌汁熱うせよ)は若干十歳。大人としてこの日を受け止めたであらう方々の句は、皆無である。

大歳時記の旧版(二千六年)では、解説は池田さんで新旧ほぼ同じではあるものの、「十二月八日」が見出し季語、「開戦日」が傍題と逆転してをり、「生活」から「行事」への部の移動といふ大転換もあった。

例句に「開戦日」は先出の千女さん(開戦日くるぞと布団かむりけり)の一句のみで、熊谷愛子さんの句(大正十二年生・楸邨さん門・十二月八日かがみて恥骨在り)のやうに「十二月八日」の句が圧倒的だ。

『合本俳句歳時記第三版』(角川書店、千九百九十七年)には「十二月八日」も「開戦日」もない。第四版は未確認だが、第五版(二千十九年)では「開戦日」を主季語として入集させてゐる。「開戦日」は、どうも戦後五十五年を過ぎた今世紀に入ってから、突如季語として認知され始めたのではないかといふ疑問が湧く。

そもそも先掲五句のうち「熱うせよ」が二句、「来るぞ(くるぞ)」も二句とは、この日への思ひの常套、貧困をあげつらはれても仕方あるまい。

大牧さんの句、渋谷の「若い人」たちは「放っといて」と言ふだらう。貴方は何を知ってゐるのかと問ひ返したくもなり、高圧的な説教調が鼻につく。「若い人」は怒ってもいいのではないか。大牧さんから見たら、儂も若造であった。

また、千女さん、博道さんの「熱うせよ」にも違和を感じる。まさか「開戦」に心が昂ぶったのか、とは思いたくないが、静かにこの日を迎へたといふ句ではない。命令形であることの怪しさを思ふと、ゾッとする。あなた方に命令される謂れは、ない。

「十二月八日」で広く記憶されてゐる一句がある。

十二月八日の霜の屋根幾万 加藤楸邨 

楸邨さんの昭和十六年十二月八日、まさにその日の作品。楸邨さんは、『雪後の天』の「十六年抄」にこの句を「十二月八日以後」の題のもと、その一句目として残した。衝撃的な日だったことが手に取るやうに分かる。「霜の屋根幾万」には苦渋が満ちてゐる。しかし、「十二」「八」といふ数字は記録としてのそれであって、季語ではない。

楸邨さんの句を見てみようか。

戦傷兵外套の腕垂らしたり      十三年三月
つひに戦死一匹の蟻ゆけどゆけど   十四年 夏
征きて病みつばくろを見きと茂木楚秋 十五年七月
埋み火のあるひは灯り戦すすむ    十六年五月

楸邨さん関連でもう一つ、執筆資料を出しておかう。 

十二年十一月 戦争と俳句         「新潮」
十三年 一月 誓子氏の戦争俳句論     「新潮」
    八月 戦争俳句・その他(草田男・三鬼・白
      泉・有風・辰之助との座談)「俳句研究」
   十二月 戦争俳句の進展       「新潮」

など、昭和十六年十二月までに楸邨さんが戦争について詠んだり、書いたり、語ったりした数は膨大である。友や教へ子の多くは出征し、傷付き、骨となって帰還する者もゐた。

そんな中つひに「開戦の詔勅」が下され、アメリカやイギリスとも戦はなければならなくなった(対戦国が増えた)日が「十二月八日」だったのではないか。中国での戦ひは戦争ではなく事変であると万が一にも嘯(うそぶ)く人がゐたとして、その人は上の楸邨さん執筆時評などのタイトルにある「戦争」の語を俳句作品にある「戦」の文字を、そして、あまりにも多く世に記録されてゐる昭和十六年十二月八日以前の「戦争」を嘲笑(あざわら)ふのだらうか。

「開戦日」が太平洋戦争開戦、すなはち日米開戦を表してゐることは自明、といふ声も聞こえてくるんだ。しかし、決して自明ではない。少なくとも『広辞苑』には搭載されてをらず、儂は「神戸新聞」しか確認してゐないが、十二月八日の朝刊に「開戦日」の語はなかった。日本にとって、とうに戦争は始まってゐて、すでに疲弊し始めてゐたのだから当然のことだらう。

「開戦日」とは、俳人だけが使ひ始めた、怪しく特殊な単語だと言へる。(あるサイトによると、右翼団体がこの語を使ってゐた形跡はあるやうだが)。

また、日米開戦の日を経験した俳人の多くが、「開戦日」といふ言葉では俳句を残さぬままに鬼籍に入られてゐる、といふ事実は、儂にはさうたうに重い。

昭和十六年十二月で思ひ出されることがある。京都大学法学部の平松小いとゞ君は、この月徴兵検査を受け、月末繰り上げ卒業、翌年二月に応召した。

当時大学生がどれほど貴重な頭脳であったかは、今の比ではない。昭和十六年の全国大学生数は、文部科学省資料によると四万一千九百六十五人。それに比し、日米開戦時の日本軍の兵力は約二百四十万人とも言はれてゐる。大学生を全員動員したところで、全体の二パーセントにも満たない。なのに彼らを戦場へ送らざるを得なかった。そこまで追ひ込まれてゐた上での、日米開戦であった。

大日本帝国といふ我々日本国の前身は、満州事変、特に日華事変(千九百三十七年)以後、完全な戦争状態にあった。この事実を、「開戦日」といふ、俳人により二十一世紀に広められた安易な単語は、誤らせる。

『角川俳句大歳時記 冬』旧版が歳時記としての初登載なのだとしたら、まだ刊行後十六年。傷は浅い。海軍祈念日(千九百五年五月二十七日の日露戦争日本海海戦を記念する日)だって、一度は季語となったがその後廃れた。また、日清、日露、第一次大戦、いや、遡れば戊辰戦争にだって「開戦日」はある。忘れていい戦争ではない。

『新版角川俳句大歳時記』では旧版の「震災記念日」を廃し、「秋」に「関東大震災の日」を立てた直したうへで、「春」に「東日本大震災の日」を、「冬」に「阪神淡路大震災の日」を新たに立てた。様々な開戦日があるにも関はらず、日米開戦の日だけを、それも俳人だけが「開戦日」としてゐるといふ意味でも、この季語は実に怪しい。

歴史的事象を季語とするか否かは、よほど慎重でなくてはならない。また、単語が使はれてゐる事実だけをみて、検証することなく季語を増やすといふ態度も、考へ直さうよ。

向後、儂が「開戦日」を季語として使ふことは、ない。

戦争が廊下の奥にたつてゐた 渡邊白泉 S14作

(「里」2022年12月号初出の拙文に若干加筆した)

3 comments:

牙城 さんのコメント...

終わりの方、
「秋」に「関東大震災の日」を立てた直した
立て直した
やんなぁ。
ごめんなさい。

牙城 さんのコメント...
このコメントは投稿者によって削除されました。
牙城 さんのコメント...

もう一つ訂正。
千女さんの当時の年齢は、
十五歳ではなく、十七歳やね。
十代の二年は大きい。