2023-05-07

岡村知昭【句集を読む】嗚呼、なんと涼しきディスタンス 仁平勝『デルボーの人』の一句

【句集を読む】
嗚呼、なんと涼しきディスタンス
仁平勝デルボーの人』の一句

岡村知昭


間を空けて立つデルボーの人涼し  仁平勝

芸術家の名前(ジャンルを問わない)の入っている一句に対して、読み手としてどのように取り扱うのかについては、案外難しいところがある。句会か句集で出会ったとき、一句を読む前にどうしても固有名詞が一体何か、そこに目が向いてしまい、一句そのものへ踏み込むのが遅れてしまいがちになるからだ。

この一句の場合だと、まず「デルボー」とは誰なのかを検索しなくては、となるのだろうが、幸いなことに、この一句が納められた句集が「デルボーの人」であり、一句のモチーフとなったであろうデルボーの絵が表紙を彩っている。そのため、デルボーとは誰か、との知識は乏しくても、読みの手がかりは掴められる。

表紙を彩るデルボーの絵の人物たちは、スレンダーを通り越した痩身の裸婦も、丸眼鏡に黒服をまとった紳士たちも、虚ろなまなざしと表情で、絵の中に立ち尽くしているかのような印象を受ける。「涼し」というよりは「冷たし」のほうが似合っていそうな、そんな立ち姿である。しかしこの一句で選ばれたのは「涼し」である。夏の絵ではないにもかかわらず「涼し」なのである。

この一句は新型コロナパンデミックがモチーフの章に納められている。「片蔭の反対側を歩かうか」「端居して端居の人が来れば退く」と続いてからの、この一句である。「間を空けて立つ」にいわゆる「ソーシャルディスタンス」への冷めたまなざし、一連の全体を通じてはっきりとにじみ出ている。章のはじまりの「二〇二〇年夏、そんなに長引くとは思わなかつた」との前書きが、どこか遠く感じられてしまう(遠ざけてしまいたいとの感情ばかりが先立つ)二〇二三年の初夏ではあるが、読みながら「二〇二〇年夏、確かにそうだった」(東京五輪をいったんは遠ざけたのだ)との記憶を引き出してくる力が、この一句、この章にはある。

そうだ、こんな一句もあった「透明に仕切られてゐる薄暑かな」。表紙を彩るデルボーの絵、デルボーの人たちは適度な距離を保っているというよりは、裸婦も紳士も、透明なパーテーションに仕切られているかのように立ち尽くしている。だが、いくら虚ろに見られようとも、血も感情も封じられているように見えていても、デルボーの絵の中で、デルボーの人たちは確かに生きている。距離を保ちながら、仕切られながら、それでも生きている。決して虚ろでもなく、冷たくもなく。

そして、デルボーの絵の裸婦や紳士から、絵の向こう側にひしめき合う、俗社会を生きる読み手への問いかけが、涼しく、はっきり聞こえてくるのを感じるのだ。あなたたちは、密を求めながら、涼しく仕切られたがっているのではないか。ほんとうに虚ろで冷たいのは、あなたたちではないか、と。


仁平勝『デルボーの人』2023年3月31日/ふらんす堂

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