2023-07-09

岡村知昭【句集を読む】解くのは言葉 五十嵐秀彦『暗渠の雪』の一句

【句集を読む】
解くのは言葉
五十嵐秀彦暗渠の雪』の一句

岡村知昭


大寒や言葉で幾何を解く男  五十嵐秀彦

数学の授業の一コマ。先生は数式で埋め尽くされた黒板を後ろにしながら、幾何の問題の解法を事細かく説明している。時に黒板に、チョークで数字や文字を書き足してもいる。先生の中にあっては、それほど難しくない問題なのであろう。解法の説明は理路整然、弁舌は明瞭にして熱高し。先生にしてみたら、生徒たちがいったい、この問題の、幾何の解法のどのあたりについて苦労しているのか、どうしてもわからない。

一方、聞いている生徒たちのほうにしてみたら、先生がいったい何を語っているのか、どうしてもわからない。数学のこと、幾何のことらしいのは、なんとなくわかってはいる。でも、いったい幾何の何を自分たちがわかっていないのか、それ自体をさっぱりわかっていない。もともと幾何どころか、算数さえきちんとわかっているのか、おぼつかない生徒たちである。

先生は数学を、英語以上に自分たちに理解できない言葉で、自分たちの存在などそっちのけで、熱く語っているようにしか見えていない。この調子では、今度のテストの成績もおそらくはいいものとはならないだろう。大寒の頃となると、期末試験だけでなく、将来の受験も頭をよぎるのだが、幾何どころか数学そのものがなかなかおぼつかない今のままでは、どうなるのだろうとの不安ばかりが先に立つというもの。幾何の問題の解法は解かれていても、先生と生徒の間に生じているわだかまりは、解けるどころかますます難問となって教室を覆い尽くしてしまっている。先生の弁舌は、ますます冴えわたり、生徒たちはノートを取るでもなく、ぼんやりと先生の姿を眺めているばかりだ。

この一句を読みながら、数学をめぐっての葛藤を描いたもうひとつの一句、西東三鬼の「算術の少年しのび泣けり夏」が浮かんできた。こちらの句では、夏休み、算術の宿題がどうしても解けなくて悩み、それでも懸命に解こうとするひとりの少年の姿を、夏の光を背景に描き、眩しさと痛みを一瞬のうちに把握して、像として定着させている。一方、「幾何を解く男」は算術にも数学にも悩んだ形跡はなさそうだ。だから解く言葉にもよどみはない。算術に悩む少年の姿には、読み手にも「自分もそうだった…」との思いを呼び起こさせ、うなずかせる確かな力がある。片や「幾何を解く男」には、「幾何がすらすら解ける人がこの世にいるのか…」との驚きが一句から透けて見えてくる。読み手に、算術に、数学に苦しめられた思い出が深さを、改めて呼び起こさせる強い力がある。

そんな「幾何を解く男」は幾何を解き明かすとき、言葉を懸命に駆使している。数式も解法の説明も、言葉なくしては決して成立しないのだ。もっというと、一句の舞台は日本であるはずなので、使われているのも日本語になるだろう。数学の解法の説明に、言葉は必要不可欠。言葉で語られ、言葉で解かれているのであれば、この幾何の解法が、相手に届かないはずはない。それでも通じない、届いていない…そのような現実を突きつけられてしまって、算術の問題を解けずに涙するあの少年のように、「幾何を解く男」もしのび泣きたい思いに駆られていたりしているのかもしれない。

そう思い直して読み返すと、「幾何を解く男」の一句は、言葉の存在そのものが、私たちが生きていく上で、常にとてつもない難問であるのを突きつけてくる一句にもなる。俳句もまた然り。詠まれた俳句に向かい合い、読み解こうとするとき、懸命に言葉を尽くして、なんとか解き明かそうとするのだが、その言葉の数々は時に、黒板に書かれた数式の羅列のような、自分たちには到底理解しがたいものとして受け止められたりもする。だが、それでも、同じ言葉なのだからわからないはずはない、との思いを振り絞って、一句を解き明かそうとするのを、決してあきらめたりはしない。わだかまりはわだかまりとして受け取って、それでもなんとか、一歩ずつ前に進むしかできないのである。

大寒の頃のひんやりと、いつ雪が降りだしてもおかしくない空気感は、幾何のみならず、言葉のわからなさに戸惑い、打ちひしがれ、それでも解き明かすのをあきらめられない、そんな姿を描く背景としてふさわしい。毎日の生活は続くのだから、しのび泣いている暇はない。数学の問題は解けなくても、この世にはあまりにも解かなくてはならない物事があふれている。そのすべてを、ヒトという生物は、頼りないのは十分承知の上で、言葉を懸命に駆使して解いていかなくてはならない。あらゆる難問を言葉で解き明かしていく困難さに比べたら、幾何の問題などは思っているよりも案外やさしくて、きっかけさえつかめたら、たちまちに解けてしまうのかもしれない。もちろん、いまになって幾何の問題が解けるようになったところで、褒めてくれる先生はどこにもいないのだが。


五十嵐秀彦『暗渠の雪』2023年6月/書肆アルス

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