【句集を読む】
永遠の転校生
岡田由季『犬の眉』を読む
三島ゆかり
『みしみし』第10号(2021年冬至)より転載
本稿の初出は『豆の木』第二二号(二〇一八年)。今回転載にあたり多少の改稿を行った。
岡田由季『犬の眉』(現代俳句協会、二〇一四年)を読む。内容は六章に分かれほぼ経年順とのこと。章ごとに見て行きたい。
一.「あるある感」とはちょっと違う微妙な感じ
章のタイトルは「一塁ベース」。
美術館上へ上へとゆく晩夏
朝礼の一人上向く今日の秋
新生児室の匂ひや星祭
十月の家庭裁判所の小部屋
章の中の見開きに並んだ四句である。たまたま開いたページがそうというわけでもなく、岡田由季の句は総じて状況の提示が簡潔にして鮮やかである。なんでこんなにうまく切り取れるんだろう。そんな中で三句目は異質だ。いわゆる二物衝撃の作りとなっていて、新生児室が中心で星祭を取り合わせたようにも、星祭が中心でそこに「新生児室の匂ひ」を感じたようにも取れる。新しい生命と星祭をめぐる伝説との取り合わせの中で、読者の想像は自在に広がる。
自動ドアひらくたび散る熱帯魚
遠足の別々にゐる双子かな
日常のなかの曰く言い難い違和感を印象深く句に仕立てている。「あるある感」とはちょっと違う微妙な感じである。
父と子が母のこと言ふプールかな
人日やどちらか眠るまで話す
血のかよった人間関係というか、了解しあえる機微というか、そういうものがそのまま句に定着されている。この句の世界、そうとう好きだ。
二.あるがままにそこにある感じ
次の章は「城へ」。
卒業を小部屋に待つてゐたるなり
釣堀の通路家鴨と歩きけり
日の溜まる時代祭の支度部屋
かなかなや攻守の選手すれ違ふ
岡田由季の句には、華やかな舞台へ出る前とか、場面交代の奇妙な間合いを詠んだものが少なからずある。それも、不安だとか感情が高まるとかの描写ではなく、ただそういう間合いがあるという提示なのである。
しやぼんだま見送りてから次を吹く
花水木荷物と別に来る手紙
これらも奇妙な間合いの仲間かも知れない。
春日傘立つて見てゐるイルカショー
百日紅モデルハウスの中二階
自宅兼事務所のまはり田水沸く
だからなんだ、ということはほとんど言っていないのに、この場所の提示の面白さは何なんだろう。
だんだんと案山子の力抜けてくる
霧の這ふ卓球台の上と下
なにか、見えるものすべてが力が抜けて、あるがままにそこにある感じなのである。いいなあ。
三.七番センター岡田
次の章は「アフリカ」。
大人のみ部屋に残れる三日かな
正月に親戚が集まると、いとこ同士の子どもばかりで外へ出て行って遊びに興じたりすることがある。それを回想するのではなく、小学生の少女・岡田由季として詠む。前章の「悴んでドッジボールに生き残る」も、あるいは「目覚めては金魚の居場所確かむる」も、小学生の少女・岡田由季が息づいている。
犬笛の音域に垂れ凌霄花
凌霄花は校庭のネットなどかなり高いところに垂れているのを見かけるが、それを「犬笛の音域に垂れ」と詠めるのは愛犬家の岡田由季ならではだろう。犬と言えば「敷物のやうな犬ゐる海の家」も楽しい。
秋蝶もゐてセンターの守備範囲
野球の句では他に「どくだみや一塁ベース踏みなほす」「かなかなや攻守の選手すれ違ふ」「ブルペンの音聞こえ来るクロッカス」「敵側のスタンドにゐてかき氷」があり、どの句もじつにリアリティがある。もしかすると、少女・岡田由季は男子に混じって実際にグラウンドに立っていたのではないだろうか。だとすると句集の最初の章が「一塁ベース」だったのは深い必然性があってのことだったのだ。
四.奇妙なずれの可笑しさ
次の章は「好きな鏡」。
菜の花の奥へと家族旅行かな
日常会話であれば旅行の行き先は鴨川であったり館山であったりだろう。そこへいきなり「菜の花の奥」と置く。岡田由季の句では、しばしば解決すべき因果のレイヤーがずれていてなんとも飄逸な味わいが感じられる。
拾はれて七日目の亀そつと鳴く
「亀鳴く」は、歳時記を開けば「実際には亀が鳴くことはなく、情緒的な季語」とされている。そこまでは周知のこととして俳人は腕を競うわけだが、岡田由季は何かと取り合わせるでもなくしれっと「拾はれて七日目の亀」などと嘘のディテールを付け加える。そうとう可笑しい。
帰国して朝顔市に紛れをり
まるで犯罪者が潜伏しているようなものいいである。
百号の絵に夏痩せの影映る
絵画を鑑賞すべき場所で、絵画ではなくその場所にいる自分を俯瞰して詠んでいる。「マスクして大広告の下にゐる」という句もあるが、「百号の絵」も「大広告」も人間界の意味情報としての機能を失い、宇宙人としてそこに佇む趣となっている。
要点をまとめて祈る初詣
前の章に「喪失部分ありて土偶の涼しかり」という句もあったが、「要点」とか「喪失部分」とか、詩的とは言えない実務的な語彙が岡田由季の句の世界にはしばしば入り込んでいて、奇妙なずれが絶妙に可笑しい。
五.極端に単純化された不動の犬
次の章は「ネコ科」。
隣り合ふ家の朝顔似てゐたり
二つの絵が左右にあって「この絵には違うところが何ヶ所あるでしょう」というのがあるが、岡田由季の句の世界も、読者が問われているようなところがあって、よく知っているものがなにか違うものに感じられ始めたり、逆に違うものだったはずのものが同じに見え始めたりする。掲句、「そりゃ朝顔なんだから似てるでしょう」と片付けられない佇まいを感じる。
天高し待つときの犬三角に
私自身は犬を飼ったことがないのだが、これは「おすわり」の姿勢だろう。広がる秋空の下、「三角」とまで極端に単純化された不動の犬の従順さ、飼い主への信頼が胸を打つ。
ギリシャ語をふたつ覚えて秋の航
「はい」と「いいえ」だろうかとか、「こんにちは」と「ありがとう」だろうかとか、読者の方で想像がふくらむように仕組まれた「ふたつ」がいい。
川沿ひは歌はずにゆく聖歌隊
なんだか現金な聖歌隊である。
六.永遠の転校生
最後の章は、「超軽量」。
すこし先の約束をして猫じやらし
約束の中身については何も触れていない。ただ、まったく平生と変わらぬかのような季語と取り合わせる。だから却って人生の転機となる約束なのではないかと想像がふくらむ。
枯芝に思ふぞんぶん菓子こぼす
句集全体を通して句の幅としても作中主体の生活態度としても非常に抑制が効いていて、おもいっきり羽目をはずして「やったぜ」という感じのものはほとんど見当たらない。そんな中での「思ふぞんぶん」が「菓子こぼす」であるのがひどく可笑しい。
追ふ蝶と追はるる蝶の入れ替はる
急がぬ日急ぐ毛虫を見てゐたり
句集全体を通して表面的な作句技法に走る傾向はほとんど感じられないし、むしろそういうことを感じさせないように周到に配慮しているのではないかとも思うのだが、そんな中でのリフレインの二句である。
ひとりだけ言葉の違ふ茄子の紺
東京から関西に移り住んだ境遇を籠の中の茄子に託しているようにも見えるが、そんな断定はしない方がいいだろう。これまで見てきたように岡田由季の句は、その場所に初めて立ったような奇妙なずれや、小学生が初めて感じたような違和感を打ち出すことによって、岡田由季ならではの飄逸さに充ち満ちている。いわば、岡田由季とは永遠の転校生なのだ。
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