2024-01-21

田中目八【週俳12月の俳句を読む】読み方なんて知らねえよ、冬

【週俳12月の俳句を読む】
読み方なんて知らねえよ、冬

田中目八


結社誌、同人誌における作品の発表及び多くの賞の規定が連作形式であることはご周知のことかと思う。
しかし私のような独学のものは連作の作り方も知らない。
唯一教えてもらったのは季節の順番に並べるのが基本、ということだ。
そして更に連作の読み方も知らない。
私が初心者であるからかもしれないが。
連作であるからには一句一句読んでゆけばそれで済むということではなく、それぞれの句が補ったり響いたり、或いはひと連なりとして不可分であったりするのだろうと思う。
しかしそれもそう単純なことではなく、連作の評でよく一句独立ということが言われるのはこれもご周知のことかと思う。
連作内のある句によってまた別のある句が読み解ける、読み開かれる、そういう経験は少なからずあるのではないだろうか。
しかし一句独立ということを考えればそれではいかぬのではないか、とも思うのである。
人の数だけ連作の作り方はあり、人の数だけ連作の読み方はあるのだろう。
それは本来一句においても言えることかもしれない。
しかしある賞では季節の順番に並んでることが最低限求められ、ある賞では季節の順番に並んでることに異議が出ることもある。
つくづく連作とは難しいものだと思う。

前置きがまたもや長くなったけれど、前回に引き続き竹岡一郎氏の作品を読ませて頂いた。
前回は連作として、前後や他の句、全体を踏まえて、都度そのことも鑑賞に加えて書いた。
作品がそのように作られているようにも感じ、また私の力不足故に他の句を参考にしなければ読めなかった句があったことも確かである。
今回も同様なのだが、その辺りを書き加えることはせず、なるべく他の句を参考にせずに一句を読み解こうと試みてはみた。
なので書けそうなものから手をつけてゆくことをせず、一句めからひとつひとつ終わらせて次の句と書き進めたが、やはり影響は拭いきれなかった。
故に加筆修正は最低限に留めてせめてもの抗いとしたい。

敬虔の乳 竹岡一郎

乳粥の零れより起つ雪女 竹岡一郎(以下同)

乳粥といえばスジャータを想起する。
苦行で弱ったブッダはスジャータから与えられた乳粥を食べて回復した後に菩提樹の下で悟りをひらいたとされている。
そのことを踏まえて読めば仏教に限らなくともよいが、どんな救いからも取りこぼされる、零れがあるのではないか、その一つとしての雪女なのではないだろうか。
ブッダの命を救った乳粥が命を奪う雪女となる。
乳粥の白と雪女の白。

帯解の子へ勾り橋捩れ橋

勾った橋も捻れた橋も渡りにくそうだ。
しかしネット検索をすると捻れ橋の方は実際にあるようで、想像とは違い、橋の下部分が捩れている。
勾り橋は恐らく橋上がカーブしてるようなものだと推測されるがここではもっとひどく勾状になってたり斜めになってたりして、捻れ橋もやはりぐにゃりと捻れてどちらも橋として用をなさない、渡るのを拒むかの状態なのではないだろうか。
帯解きとは子どもに初めての帯を締める祝の儀式で、帯を結ぶさいに吉方に向けて立たせる。
その方向に勾り橋と捻り橋があるというのだから前途多難、可能性が塞がれているように感じてしまう。
或いはこの子が世の一般とは違う生を行くことになるということかもしれない。
勾りも捻れも帯を巻いている様子にも見えるか。

帰り花滅びの歌をはつか羞ぢ

帰り花とは初冬に帰り咲く花でその後の厳しい冬の予感を思いやる、そうだ。
ならば滅びとは冬であろうか。
はつかとは二十日ではなく僅かの方だと読んだ。
歌っているのが帰り花のようにも思えてくるが、恐らくそうではなく、歌っているのは冬なのではないだろうか。
その冬の僅かな羞じが帰り花を咲かせるのではないだろうか。
それとも帰り花に対して羞じたのか。
帰り花とは普通のことではなく、言うなれば時間、季節の運行に逆らうものとも言え、冬という滅びの季節、時間への抗いとも取れよう。
冬は己の力及ばずを羞じたか、帰り花の気骨に己の所業を羞じたか。

虎落笛たふとき魄に碧き塞

魄とは人の肉体を司る気、陰の気である。
塞は砦と同じような意味で塞翁が馬の塞だ。
この塞は砦ではなく、棺のイメージではないだろうか。
或いは、魄を塞ぐもの=肉体、それが碧いということは屍かもしれない。
であれば虎落は殯でもあろう。
殯はかつて貴人を葬る前に行われていた仮葬の儀式であるから、たふときとは貴人を指すことになるが、果してそう読んでよいものだろうか。
もう一つの読み方として、書かれてはいないが魄に対して魂が卑であるという可能性はあるだろうか。
一般に尊い、気高いなどと形容されるのは魂だと思われる。
魄に対して魂は精神を司る陽の気だ。
肉体が滅んでも魂は不滅だという言葉もあるし、肉体は魂の容れ物に過ぎないとすら言われる。
しかしそうだろうか、そうではあるまい、尊いのは魄であり肉体である、と覆したいのではないか。
虎落笛は風が物と物の狭い場所を抜けるときに鳴る音である。
容れ物である肉体を風が抜けてゆく、そんなイメージが浮かんだ。

世は蠱毒甕を覆へる室の花

蠱毒とは様々な虫や小動物を一つの壺に入れて殺し合わせ、生残った一匹を使って相手を呪い殺す術のことである。
そこからじわじわと気づかれないように毒を盛る意味もある。
世がその蠱毒のようだというのは案外納得してしまうところがあるのではないだろうか。
甕が蠱毒に用いるものであるかどうかはわからないが、壺中天のように甕の中にもまた一つの世界があるのだろう。
それを覆う室の花も人によって温室で作られたものである。
この世があり、温室があり、甕があり、その甕の中にもまた何か別のものがあって入れ子になっているのだろう。
もちろん我々を使って蠱毒を用いるものがこの世の外側にいるのだろう。

皸の指が緻密な罠描く

指で描くのではなく指が描くのである。
そこに冷静な客観的な眼差しを感じる。
しかし普通、罠は仕掛けるもので描くものではないだろう。
つまり具体的な道具を使った罠ではなく、巧妙に仕組まれた、人を騙し陥れる仕掛けのことだろうと思われる。
その指図する人物の指があかぎれになっているのではないか。
指があかぎれになるくらいだからこの人物は寒さに曝されながら仕事をしたり、或いは水仕事などをよくするのではないかと思われる。
つまりごく普通の人に思え、そういう人が普通に他人への罠を描く。
そしてそういう人が普通にたくさんいるのだろう。
その怖ろしさ。

逆恩を受けし汝こそ小春の咒

逆恩とは恩を仇で返されること。
咒は呪い。
小春とは春ではなく陰暦十月の異称である。
恩を仇で返された汝、しかしあなたこそ小春の呪いである、と言っているのだと思われる。
小春の咒とは何なのかはわからないが、季節としては冬なのに春の陽気を感じさせる、小春そのものが咒ということではないだろうか。
本格的な冬に備える時期である小春はありがたいものだと思うが、それが場合によっては、何者かによっては仇になることもあるのだろう。
本人は恐らく自分が小春の咒だとは気づいておらず好意的に振る舞っているような気がするが、この人物もまた小春の咒を受けているのではないだろうか。

耳鳴りに血と眼が睦む雪の鹹

血と眼が睦む、つまり眼が充血している、或いは結膜下出血なども考えられる。
耳鳴りの原因は血流やストレスなどあるが、この耳鳴りによって血と眼が睦むというのだろうか。
雪の鹹、鹹は塩からい、塩気のこと。
雪は雨と同じ弱酸性であるから、もし感じられるとしたら塩味よりも酸味だろうと思われる。
しかし味覚障害が起きると塩味に苦味を感じることがある。
つまり身体は酷使され傷めつけられているということかと思われる。
白い雪が紅く見えているのかもしれない。

白炭と化す銃身に月測る

銃身は金属でできているので白炭とはならないはずだが、そのあり得ないことが起るほどの無数の弾丸に灼けて遂には白炭と化すほどだということだろう。
白炭を作るには最後に急冷する必要があるのでこの銃身も今急速に冷えていくところだろう。
月を測るというのは果たして距離だろうか、月というものを推し測ることだろうか。
銃身で、ではなく銃身に、であることを考えると後者のように感じられる。
月とは銃の無い、争いの無い場所であろうか、と問うているのかもしれない。

城址轟く猟夫と狒狒の受け答へ

城の阯が轟くとは一体どういうことか。
受け答え、問答によって轟くというのだろうか。
狒狒とは巨大な猿ようの妖怪で山に住むので樵や猟師との縁が深く、様々な伝承や物語がある。
その笑い声が名前の由来となっているらしいのでその声が轟くのかもしれない。
猟師と狒狒がいるので城阯も山城だったと思われる。
狒狒に依って滅んだのだろうか。

十二月八日躱せば血が終る

十二月八日、太平洋戦争開戦日である。
血とはこの太平洋戦争含め今現在も続くあらゆる争いのことではないだろうか。
躱すとはぶつからないように身を翻して避けること。
つまり衝突を避けること、争う姿勢を翻すこと、そういうことではないだろうか。

沈む柱は海溝を統ぶ鮫の嗚咽

沈む柱とは人柱だろうか。
海溝を統ぶは鮫にかかっているのか柱にかかっているのか。
前者であれば柱が統べることによって鮫が嗚咽を漏らす、後者なら沈む柱が鮫の嗚咽であるということになる。
恐らく後者だと思われるがどうだろう。
海中の鮫が嗚咽を漏らすのであればそれは浮かびあがりそうではあるが逆であり、やはり柱によって起る作用が鮫に嗚咽を漏らしめるのだと思う。
つまりこの柱は人柱ではなく一本の柱でもなく大量の柱、海溝を埋めるほどの柱で何らかの人工物が建てられるということなのかもしれない。

饒舌に着ぶくれ逆恩愧ぢぬ彼奴

饒舌は基本マイナスのイメージで使われる言葉であり、そもそも着ぶくれも基本は防寒を一に厚着し過ぎで膨れている状態でやはりマイナスのイメージがあるのでこれはよほどごてごてと着ぶくれているのだろう。
逆恩、恩を仇で返すことも愧じない、つまり面の皮もぱんぱんに厚いのだと思われる。

閘門や色なす鬼火敢へて堰く

閘門(こうもん)とは水位の高さの違う運河などに設置して船を通すためのものである。
色なす、とは血相を変える、激怒する様子を表す言葉。
その昂った鬼火を敢えて堰き止める、わけだが、なぜ敢えてなのかはわからない。
色をなした鬼火は通常堰き止めず流すものなのだろうか。
なるほど、昂った鬼火を堰き止めれば更に昂りそうである。
しかしその意図するところ、閘門との関係もわからない。

毛皮から血の粒除く簸るやうに

剥いだばかりの毛皮なのだろうか。
俳句の季語においての毛皮とは毛皮を使った防寒具のことであるからたぶんそうではないだろう。
となれば返り血だろうか。
毛皮に血が染み込まずに粒のように着くのかはわからないがそれを除くことが必要なのかもしれない。
簸(ひ)る、ゴミを除くように、であるからその血を穢らわしいものとして取り除こうとしているように思える。

耳塚聴けり鼻塚嗅げり餅搗を

耳塚、鼻塚は秀吉の朝鮮出兵の際に首の代わりに切り取った耳や鼻を弔ったとされる塚が有名だがそれ以外にも全国にあるそうだ。
餅搗は正月用の餅を搗くこと。
その音や匂いを聴き、嗅いでいるのは弔われた耳や鼻ではなく塚である。
塚の側で餅搗きをしているとは少々考えにくいので町中のあちこちで行われている餅搗の音や匂いを巨大な一つの耳、鼻と化した塚が聴き、嗅いでいるのだろう。
しかしどんなに聴いても嗅いでも口のない塚には食べることができない。

牛告げし事変をずらす世継榾

天神の使いであろうか。
世継榾とは年越しの夜に火を絶やさないために燃やし続ける榾のこと。
事変とは規模の大きい非常の、不測の出来事。
榾を燃やし続けることによってずらすことができるようだが、あくまでずらすだけであって回避はできないのだ。
つまり世継榾の火が消えれば事変は起こる。
ということは年越し年明けにかけて起こるはずだったということだろう。
ではそのまま榾を燃やし続ければ回避できるのだろうか、答えは……。

凍つる分岐器へと注ぐ指の雨

この分岐器が鉄道に使われるものか、テレビに使われるものか。
恐らく鉄道の方ではないかと感じる。
凍てればその機能は十全に働かないだろう。
分岐器が機能しなければ違う道へ行けず、すべての人たちが同じ場所へ連れて行かれることになる。
ゆえに指の雨は注ぐのだろう。
あちらへ動かせ、そちらへ動かせと。
自らどうにかしようとはせずに。

誰何せよ澄める屍が氷湖割る

澄める屍とはどういうものなのか、皮膚や肉が透けてゆくということなのだろうか。
屍は腐敗してゆくはずで澄むという言葉からは程遠いが、腐敗して肉がなくなり、髑髏になることを澄むと言っているのかもしれない。
そして氷湖を割るということ、誰何せよとあるので動いているのだろう。
氷湖を割るのは何故か。
それはスケートやワカサギ釣りなどをさせないためかもしれないが、恐らくそこを渡らせないためではないだろうか。
しかし誰何せよ、と命令しているのは一体何者で、命令されたものとの関係、澄める屍との関係どういうものなのだろう。
そして誰何したあとに何が起こるのか。

軋みけり魂ずれ著き傀儡師

傀儡、人形を操る傀儡師の魂がその肉体からずれている。
しかもそれが著き、はっきりとずれているというのだが、果たして常人に見えるものではないだろう。
物理的に肉眼で見えるということではないかもしれない。
軋みけり、とあることからそれは音でわかるものなのかもしれない。
傀儡が何らかの原因で軋るように、傀儡師も軋るのだ。
つまり傀儡師もまた誰かに操られる傀儡なのだろう。

熊裂けて梁のわが魔を降し得ず

梁は「はり」か「やな」か。
降し、とあるから恐らくはりだろう。
魔、降、とくれば降魔を想起する。
降魔とは悪魔を退治する、誘惑を克服すること。
しかしわが魔とは何なのか、わが身内にあるのではなくなぜ梁にあるのか。
熊もどうしても裂けたのか、それも魔の仕業なのかわからないが、熊を使って降ろさせるものなのだろう。
物理的に梁から降ろすことが降魔となるのかもしれない。

逆恩を糺す鬼火の結晶化

糺すとは明らかにすること、追求すること。
つまり逆恩の有無を明らかにすること、或いはその是非を明らかにすることだろう。
それが鬼火が結晶することによってなされる、または結晶するかどうかでわかるのかもしれない。
しかし鬼火とは一説に生物の魂や怨念が火となったものと言われていることを考えれば糺されているのが鬼火ということだろうか。
逆恩が糺された結果、鬼火が結晶化する、それは燃えることを止めることであるからもはや鬼火とは言えまい。
その結晶は、恐らくとても美しいもののように思われる。

すくひ放題やつめうなぎへねぶりの血

そのままヤツメウナギが掬い放題ということだろうか。
ヤツメウナギは口が吸盤状になっていて他の魚に吸い付き血を吸うのだそうだ。
そのヤツメウナギをねぶる、舐めるのだろうが、血が出るほど、ヤツメウナギへ垂れる、或いは与えるほど出るまで舐めるという。
ヤツメウナギには鱗が無く、体表は粘液で被われているらしい。
粘液には毒があるらしいが人間が舐めても影響がないのかはわからない。
掬い放題ということは舐めるのは一匹だけではなく、掬っては次々と舐めてゆくのだろう。

息白し人死の毎かはる番地

人死がある毎に番地そのものが変わるということなのか、それとも引越して変わるのか。
後者の場合、同じ町内で引越しするのも限界があるだろうし、そもそも番地だけではなく号も変わるはずだ。
となると前者であるように思えてくるが、なぜ変わるのが番地だけなのか、なぜ町や号は変わらないのか、そもそも人死があるとなぜ番地が変わるのかもわからない。
変わったあと、変わる前の番地はどうなるのだろう。
息白し、は人死とは対象的に生を感じさせるものだが、かえって息を潜めているように感じる。

鐘氷る巨眼の化石あざらけし

眼は化石になりにくいそうだ。
しかし巨眼というほどに大きいものであれば完全にとはゆかずともあり得るのかもしれない。
巨眼とはそのまま大きい目のことであるが、字のインパクトから巨人の目のように大きいもののイメージを持ってしまう。
その巨大な眼の化石があざらけし、新鮮だという。
化石とは古いものだが、まるで今化石になったように水々しさ、生々しさがあるのかもしれない。
ものの形をそのまま留める点で凍ると化石は似ているが、鐘の音が実際に凍ることはない。
しかし鐘の音さえ凍るような、寧ろ凍った鐘の音が巨眼の化石なのではないかとさえ思わされる。
鐘の一突きごとに巨大な眼の化石がごとり、ごとり、と生まれ落ちてゆく。

鬼の読経はいつのまに寒茜色

鬼が読経する、或いは鬼さえも読経せずにはいられない、それは末法の世ということなのだろうか。
それとも改心しての信心ということだろうか。
鬼がまつろわぬもの、蔑まれたものとしての存在であれば釈された、或いは与したということになるのかもしれない。
しかしこの読経しているものが仏教のそれとは限らない可能性もあり、鬼の経である可能性もあるだろう。
一心不乱に読経し続ければ早くも夕方が訪れている、いやそうではないだろう。
鬼の読経それが紅々と燃える寒茜色なのではないか。

咳きや轆轤の律にまつろはず

咳をするのは身体の自動的な反応であり、当然自由にコントロールできるようなものではない。
対して轆轤は、ここでは荷物を上げ下げするものではなく陶芸に用いるものをイメージしたが、技術は必要なもののコントロールすることができる。
断続的に、途切れ途切れに反応の起こる咳に対して連続的に滑らかに回転させる轆轤という対称性が言えるだろうか。
その轆轤回しのリズム、律は咳によって壊される。
咳き込むたびに途切れ、うまく形を成さない、それは求められる形への抵抗、つまりまつろわないということだろう。
仮にそのまま出来上がったとしてもそれは歪で用を為さないものになる。
更に咳とは身体に入った異物を追い出す防御反応であることを考えればまつろわぬものを排除しようとしていると考えられようか。

鷹鳴くが殯の鏡もゆる証

鷹の鳴くことが殯の鏡の燃える証である、ということだと思われる。
萌ゆるの可能性もあるが燃ゆるで読んだ。
しかし鏡は古くは金属、現在はガラスと主にアルミや銀のメッキでできていて燃えるものではないはずだ。
この鳴くは求愛のためのさえずりではなく、地鳴きだろうと推測する。
鷹の地鳴きはキャとミュの中間のような音で濡れた鏡面を擦るような音を連想するかもしれない。
鏡は恐らく反魂の目的で棺に納められていたのではないだろうか。
そうであれば燃えるのは甦りの兆しなのかもしれない。
鳥が霊魂を運ぶとされていたことを考えればその可能性はあるだろう。
ということは燃ゆるではなくやはり萌ゆると読むべきだろうか。

雪女眼窩の棘へ緋の息吹

雪女の息吹であろうか、それとも雪女への息吹であろうか。
雪女であれば緋というよりは氷(ひ)の息吹だろうとは思う。
眼窩の棘とは、例えば髑髏の眼窩に棘のある植物が生えているというようなことかもしれないが、恐らくそうではないだろう。
雪女の眼の奥にある棘、人間への悪意や憎悪かもしれないし、悲しみのようなものかもしれない。
それを緋、火色の息吹が溶かす、そうではないだろうか。

獄門の跡地が舞台漫才冴ゆ

新年の季語である万才ではなく漫才である。
ここでは冴ゆ、が季語だろう。
普通に舞台が獄門の跡地と知ればなにか薄ら寒いような感覚を持ってしまうのではないだろうか。
ゆえに漫才をする人が冴ゆる、冷えるような感覚になると読むのは妥当過ぎる気がしてしまう。
恐らくはその漫才の内容が鮮やかに冴え渡っているということと思われる。
しかしそれはやはり獄門の恐怖と表裏一体のものでもあろう。
その漫才は権力にまつろわぬ内容ではないだろうか。

眉引くに閨の余韻を夕霧忌

夕霧忌は遊妓、夕霧太夫の忌日。
昨夜の閨事の余韻ということだろうか。
何時もより長く引いたのだろうか、とにかく余念なく引いたのだろう。
古来より西施の眉の顰みや蛾眉の形容もあり、眉を如何に作るかは重要だったと思われる。
その美しさを称えられ早逝を惜しまれた夕霧太夫の忌日であれば凄艶ささえ漂ってくるようである。
しかし太夫まで登りつめたとは言え夕霧が遊妓だったことを踏まえれば単なる閨事ではないように思えるのだがどうだろう。
もしかしたらこの眉を引くは死化粧なのかもしれない。
となると能「黒塚」も想起されようか。

骨の手の忽と銭置く夜鷹蕎麦

骨の手とは骨張った手の形容だと思うがここではそうではなく本当に骨の手なのかもしれない。
骨はここでは訓読みのホネで読むが音読みのコツと忽のコツの音がそう感じさせる。
夜鷹蕎麦は鷹匠に由来する説もあるが、夜鷹(娼婦)が腹ごしらえに食べていたから、また花代と蕎麦の料金が一緒だったからという説が一般的に知られていようか。
この手が夜鷹のものであるとしたら、骨となってまでも春をひさがねばならないというのだろうか。
しかし骨となった身では客も取れず、三途の川の渡し賃では蕎麦は食えないだろう。

生殖や小禽に似て病む鬼火

上五と中七以下の繋がりがまったくわからない。
取合せの飛躍があるにせよ、なぜ生殖なのか、私にはイメージがわかないがひとまず一つ一つ検討してゆきたい。
生殖とは生物が自分と同種類の生物を新しく作ること、とある。
小禽は小鳥、鬼火は季語で狐火のこと、山野や墓地で見える燐火、とのこと。
なるほど、つまり小禽と鬼火が似ていることと同種類の生物を作ることの似て非なることの取合せと捉えてよさそうだ。
幾ら似ていても同じ種ではないし、そもそも鬼火は生物ではないだろう。
小禽に似てしまったことで鬼火は病むのか、それとも生物である小禽と同じように病むということなのか。
或いは似てしまうことがそうなのか。
何れにせよ生物ではないはずの鬼火が病むというのは不自然、自然の摂理に反するのかもしれない。
小禽は小禽しか生めず鬼火は生めないし、鬼火は増えるとしてもそれは生殖とは言えないのである。

雪兎月は和毛を与へたし

雪兎は雪を固めて作った兎でもちろん毛など生えてはいないのは自明の通りだ。
故に和毛を与えて欲しいと月に希望したのだろう。
恐らくまだ月は出ていない、それは雲に隠れているかもしれない。
月光が雪兎にかかるとき、その反射する光が和毛になる、そういうイメージではないだろうか。
和毛を与えられた雪兎はやがて月兎となるのかもしれない。

鎌鼬跋扈の痕も顔彩る

鎌鼬で切れるのか、繋がるのかで変わってくるだろう。
後者であれば鎌鼬によって切られた痕も顔の彩りになるということになろうか。
痕も、とあるから化粧などと同様に捉えているのかもしれないが、そうであればなかなかしたたかだ。
前者であればこの人物が跋扈、思うように振る舞うことによってできた痕、物理的な傷かもしれないし、顔つきのようなものかもしれない。
跋扈と捉えるのも一面からの見え方であり、別の面から見れば単なる我儘ではなく、権力の理不尽、不当などに対しての振る舞いである可能性もあるだろう。

焼くや縊るや狐火嚙んで髪しごき

焼くことと並列に並ぶのが煮るなどではなくて縊るというのが奇妙で面白い。
縊るとは首を締めて殺すことであるから焼くも焼き殺す意であろうかと思う。
これは狐火を嚙んでいる者の仕業なのだろうか。
狐火という得体のしれないものを嚙み、恐らく自分のものであろう髪を引き抜かんばかりに強く引く。
狂乱の体と言ってもよいのではないだろうか。
狐火と焼く、髪と縊るが呼応していると思われ、つまり狐火を嚙んで己の口を焼き、髪を扱いて己の首を締めるという自傷行為と取れようか。

「あたしの羽」虚空の冴えをしふねく撫で

恐らく「あたし」以外には見えないのだろう。
冷え冷えとした空間を何度も何度も手が過る、そういうふうにしか見えないのだ。
それは在ると言えるのだろうか、無いと言えるのだろうか。
裸の王様、王様の耳はロバの耳なども想起する。
ひょっとしたら「あたし」は演技をしているのかもしれないし、在ると思い込もうとしているのかもしれない。
或いは逆に無いように見えないように振る舞う、在ると信じたくないということかもしれない。
それを否定せず受け入れることが問われているか。

雪の胚はらむ天命うつろ貝

まず胚とは以下の通り。
1.卵または種子の中で発生をはじめたばかりの幼生物。
2.胎内に子をもつ。みごもる。物事がおこりはじめる。きざす。
もちろん言うまでもなく幼生物やみごもる意味で雪に胚はないし、みごもる意味と中七のはらむが重なるのでやはり違う気がする。
雪の降る兆しとして読むのが一般的ではないかと思う。
しかし中七の天命がそうは読ませない。
はらむにもみごもる意味とふくらむ意味があるが、やはり前者の意味ではないかと思われる。
天命、ここではそれはあらかじめ決まっていて抗い得ないものとして受け入れているように思える。
うつろ貝は貝殻のこと。
その虚ろに雪の胚をはらむイメージと天命というものに動かされる己の虚しさ、自己、自我というものへの懐疑、器としての肉体としてのイメージも重なる。

除雪車を積み白炎の座礁船

季語の除雪車の項には線路の除雪作業を行なう鉄道車両、とあった。
もちろん一般道路で運行されるものもあるが、ここではひとまず前者で読むことを試みる。
除雪車を積んだ船が座礁したのだから除雪車は用をなさなくなって単なる重荷となってしまっているのではないだろうか。
白炎がそのまま白い炎のことであるならその温度は約6500度ということだが、火災発生から三時間でも1110℃程らしいのでこの白炎は物理的な炎とは違うものとして捉えたほうがよさそうだ。
炎のように盛る雪というイメージが浮かぶ。
座礁船から白炎が上がっているのではなく、この白炎によって座礁したのではないだろうか。
それは恐らく除雪車を積んでいたから引き起こされたのではないか。
除雪車を厭い恐れるものによって。
蛇足だが除雪車の形は船に似ている。

崖たり囚徒たり凍鶴が星かくまふ

たりは断定の助動詞で崖である、囚徒である、ということだろう。
鶴が翼に顔埋めているその内に星をかくまっている、或いは星をかくまうために顔を埋めている、そんなイメージが浮かぶ。
険しく切り立つ崖と凍てついたように方脚で立つ鶴、牢の中の囚人とかくまわれた星、という対称性、呼応があると思われる。
凍鶴はなぜ星をかくまうのか。
匿うとは、追われている人などを、人目につかないようにこっそり隠しておく、こと。
ならばなぜ星は追われているのか、追っているのは何ものなのか。
囚徒から脱走者のイメージが浮かぶが、そうすると崖に逃場が無くなるイメージも浮かんでしまう。
星であれば飛んで逃げれそうなものだが、恐らくそうできないからこそ鶴がかくまっているのかもしれない。
鶴が北方に帰る春まで隠し通せるだろうか。

磐に啓くが狼の智慧と声

磐を、ではなく磐に、啓くということである。
磐は岩石のうちとくに大きくごつごつしているもの、啓くは開け広げる意味と物事を理解させる意味とがあるが、ここでは後者の意味だろうと思う。
古来より不変の磐と滅んだ狼という対称性もあるか。
その磐によって狼の智慧と声が啓かれる、一種の悟りが啓かれた、というようなことかと思われる。
狼が智慧と声を得たのか、それとも他の何かが狼の智慧と声を得たのか。
智慧とは難しい言葉であるが、ここではひとまず後者を念頭に様々な智慧のうち狼の持つ智慧ということにしておく。
狼といえば一般的には狡猾というようなイメージが持たれているが、それはあくまでも人間からの印象に過ぎず、逆に言えば非常に賢い動物でそれ故に人間は恐れ、畏れて神にまでもしたのだろう。
つまり狼の智慧と声とは人にまつろわぬものの智慧と声でもあろう。

敬虔の乳噴く天を雪女

敬虔とはうやまいつつしむこと、特に神仏への信心を言うようである。
乳はここでは子を育て養うものとして読むことにする。
敬虔を育て養う乳なのか敬虔によって与えられる乳なのか。
それによって乳を噴くのが敬虔なのか乳を与えられている者なのかが変わってくるだろう。
恐らく後者ではないかとは思う。
敬虔な心を育て養う乳を噴くということはそれを拒否する、抗うことだろう。
乳を噴く、吹き上がる天を雪女が飛来した、恐らく迎えに来たのではないだろうか。
雪女とは人間を惑わせ凍らせ死に致しめる存在であるから敬虔なものにとっては敵対、許されざる存在だろう。
しかしそれは、もしかしたらその存在がある体制から都合が悪く、結果作られたイメージである可能性がないだろうか。
それともやはり…乳と雪女、どちらを取るべきなのか。


後書

前回竹岡一郎氏の連作『敬虔の穹』の鑑賞というか読解というか、そういうことの試みをして力尽きた年末であったけれど、まさかにまたもや42句の連作が待たれていようとは……と目にする気力がなく年が明けてしまった。
そしてまたこうやって原稿依頼を頂き、ならばやはりと足を踏み入れた次第である。
前回は約9000字と鑑賞文としては相当長かったと思われるが、今回は更に越えて約12000字となってしまった。
その結果は御覧の通りである。

最後まで読んで下さった方、お疲れさまでした。
そしてほんとにほんとにありがとうございました。

目八拝

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