【週俳3月の俳句を読む】
ナイス浮かせっぷり
山田耕司
◆岩田奎「ミャクミャク」10句
「血沼海」と書いて、「ちぬのうみ」と読む。
「ちぬのうみ」といえば、大阪湾と了解する。
「茅渟の海」とも、書くそうで。
(大阪湾が血だらけになってるわけではないのであって)
そこまでが、意味の世界。
ともあれ、血。あまつさえ、沼。
もう、スプラッタ。
それが、字面による印象の世界。
それぞれの句に、散りばめられていて。
まんべんなく、血。とりもなおさず、沼。
それが、作者が張り巡らした結界。
大阪万博。「いのち輝く未来をデザインする」というのがテーマであって。そのシンボルが、ミャクミャク氏。「細胞と水がひとつになったことで生まれた、ふしぎな生き物。その正体は不明。」とのこと。
了解した。意味の世界においては、そういうことになっているのだ。
ミャクミャク氏。
それにしても、その面構えよ。
それにしても、そのデザインよ。
ほのぼのと、気持ち悪い。
ふわふわと、呪わしく。
いいね。こういうインパクト、嫌いになれない。
印象の階層での、この雄弁さよ。
10句に、「血沼海」。
これらの言葉は、句の中で浮いている。
言葉で書き表すのではく、言葉と言葉の関わりにおいて感じられるところの浮っぷり。
その浮きっぷりが、結界のように張り巡らされていて、その存在感が、なるほど、ミャクミャク。
血沼海むらがりとぶは杉の胤
「むらがりとぶは杉の胤」。花粉を、「胤」と認識しているところが、ツボ。
なるほどと思わせる措辞が、うまい。このうまさがあるからこそ、「血沼海」が、浮いて見える。
ながし雛ながれ腐りや血沼海
日野日出志かよ。
「ながれ腐り」の現場としてつながるのは「海」。
文字面としての「血沼」の部分は不条理な余剰のように見える。「雛」は、そう簡単に血だらけにならない。
血沼海かぢめ醜と女学生
卒業の脛美しや血沼海
女学生。爽やかな女子高生とその美意識。
「脛美し」という湿度のあるフェチズム。
これらは、さしずめ、「美女と野獣」の美女ポジションか。
「女子高生」にせよ「脛」にせよ、それらの対象への読解へと読者を惹きつけておいて。であるからこそ、「血沼海」が、浮く。
血沼海骨くきやかに春手套
うまい着眼。「骨くきやかに」なんて、手袋の描写になかなか使えない。
こんなゴチソウ、他の上五を斡旋していれば、一句として整ったものとなるだろうに、そこに「血沼海」。
狙って浮かしてるのが、よくわかる。
夏蜜柑殖ゆるなかぞら血沼海
そういう意味で言えば、この句の「夏蜜柑殖ゆるなかぞら」も、うまい。「なかぞら」が出てきそうで出てこない。読者の視線を、この「なかぞら」に持っていかせているわけだから、「血沼海」は、もう取ってつけた言葉になっちゃっているとしか言いようがないわけで。
この作品群を読んで、言葉の効きが甘いところがあるというような批評が上がってくるかもしれないけれど、そんなことは作者は百も承知で遊んでいるに違いない。
気持ち悪くて、呪わしい。
そんな印象が、現実味を持たないまま、世界に散りばめられている。
いいな、これ。
ややこしい言い方をすれば、「ミャクミャク」の俳句的な内面化に成功している、てなところか。
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