2024-05-26

西川火尖【週俳2月の俳句を読む】情報真空状態のタメから一気に輪郭獲得などなど

【週俳2月の俳句を読む】
情報真空状態のタメから一気に輪郭獲得などなど

西川火尖


自分なりの俳句の読み方、感じ方、俳句の中の言葉をどう受け取ったかと、その法則性をなるべく丁寧に書き残しておきたいなと思う。

熊鈴のかすかにきこゆ椿かな  森尾ようこ

小学生に持たせる防犯ブザーの、その目的のために設計された音とは違い、熊鈴は危険回避の用途とは思えないくらい澄んだ音がした。もちろん、熊は基本的には人間を恐れるため、人間の存在を知らせる熊鈴は多くの場合有効なのだそうだが、山中で突然出くわす脅威、死の可能性に対して、どこか我関せずというか、超然としたところが熊鈴の音色にはあると思う。

この句で言えば、冬眠から覚めたばかりの危険な熊からちょっと意識がずれて、椿に向くところなど「熊鈴のかすかにきこゆ」の空気感、他人事感が程よく滲んで、危うい面白さを作り上げている。しかも、それが他人事のまま消化不良に陥っていないのは、椿の芯にある死や終わりのイメージが、熊鈴の音色を受け止めているからではないだろうか。

復元土器恥づかしさうに立つ二月  同

小学生のころ、学校の資料室や来客用の部屋などがある廊下にスズメバチの巣や市内から掘り出された土器や土偶が展示されていた。この句を見て、人気の少ない廊下のひんやりとした空気の感触を思い出した。それにしても復元土器に「恥づかしそうに」という表情を見つけ出したのはすごいと思う。この言葉から私は分厚い縄文土器や火炎型土器などの羞恥心の無さそうな土器ではなく、それよりも薄く洗練されてはいるが手作りの素朴さが残る弥生土器を想像できたし、復元という行為そのものに含まれるある種のデリカシーの無さも句を味わう程よい苦みとして感じることができた。

二月のまだ冷たい空気に、復元された土器の恥じらいが少し火照るような、そういったフェティッシュな感興も、「恋人の心臓の音あめふらし」耳「穴に棲みたくなりぬ春の暮」といった句に馴染んでいて面白いと思った。


よく育つヒヤシンスなり歩き出す  堀切克洋

最初この句を見たとき、ヒヤシンスが勝手に歩き出してどこかへ行ってしまう映像が浮かんだ。奇想ではあるが「よく育つ」の一語とそれを含めた「よく育つヒヤシンスなり」という注目の仕方が「ヒヤシンスの歩行」に説得力を与えている。

細かく見ていこう。まず、ヒヤシンスは水栽培が可能な植物であり、この句のヒヤシンスが水栽培か土栽培かを考える必要がある。ここでヒントになるのは「よく育つ」という措辞で、これは、ヒヤシンスにおいては半分が土に隠れた土栽培より、根の成長まで観察できる水栽培に馴染む表現だと思う。意識を根に向けるのは、根を「歩き出す」足にするためである。次に上五中七の「よく育つヒヤシンスなり」という表現であるが、ここで注目すべきは情報の少なさである。どのようによく育っているのか?色は?匂いは?これらに一切触れることなくただ単に「なり」で断定している。この情報の少なさによる「タメ」と余情に、「歩き出す」の一言を加えることで、情報真空状態から一気に強力な輪郭が生まれ、句が面白い内容のまま引き締まる。ヒヤシンスはよく育った根を動かし、透明な器を這い出して歩いていくのである。また、「学びては知らぬこと増え冬木の芽」、「受験生ひとり監督ふたりなり」のような成長、挑戦を含んだ句が十句中にあることも、「歩き出すヒヤシンス」にいくばくかの影響を与えているようにも思う。

蛇足ではあるが、仮に「歩き出す」を作中主体の行動であると解釈した場合は、上五中七の「タメ」を活かせないどころか「歩き出す」が拍子抜けで、十二音もかけた「よく育つヒヤシンス」の中身が見えてこない。この消去法的な理由からも、この句ではヒヤシンスが歩き出すという解釈の方が面白く説得力もあるように感じられる。


初日記果物を剝く白さかな  瀬間陽子

年明けの真新しい日記帳を開いた時の輝くような白さ、一新される気分を、日光の甘さを存分に蓄えつつも、皮によって守られ一度も日を浴びたことのない果実の白さを用いて表現する。日記と果物という一見性質も成り立ちも違う二物の本質を同じ「真新しさ」であるとしたところに、取り合わせの新鮮さも加わり面白さ、説得力に繋がっている。「果物を剝く白さ」がもし安易でありきたりな「手つかずの新雪」「まだ足跡の無き雪野」などと比べればよりはっきりと前者の良さが際立つだろう。

円陣の半分が泣き氷下魚かな  同

氷下魚(コマイ)はタラ科の魚類で主に春先、北海道で漁獲され、頭、ワタを取られ一夜干しなどにされる。美味である。

この句の読みには正直あまり自信がない。自信がないが気になる句である。「よく育つヒヤシンスなり歩き出す 堀切克洋」の鑑賞のときは、それ以外ないくらいの勢いで「ヒヤシンスが歩き出す」句として鑑賞したが、この句はどうであろうか。手探りで検証していこう。

まず、円陣を組むのが人間だった場合。円陣は主にチームスポーツの試合前に行われる。三人以上で円形になるように肩を組み合い、掛け声と共に士気をあげるのが一般である。しかし半数が泣いているとは尋常ではない。考えられるのは部活の引退試合などで敗色濃厚の試合中改めて円陣を組みなおす場面だろうか。ドラマチックな情景である。もう一つは、試合ではなく会社などの送別会や何らかの解散式といった場面だろうか。こちらであれば「半数は泣き」から見えてくるものが幾分自然に思える。ただ、どちらにしても「氷下魚かな」との温度差が飲み込めない。保護者からの差し入れだろうか?円陣の半数が泣く異常事態そっちのけで氷下魚に万感の詠嘆を込めるだろうか?もちろんそういう読みもできなくはないが上五中七の行き場の無さ、突然現れる氷下魚が少々ちぐはぐに思える。

では円陣を組んでいるのは誰か?氷下魚かもしれない。もちろん文字通りの円陣というわけではないだろうが、氷下魚は群れを作る魚であるという。円陣はそれを象徴しているのではないか。「半分が泣き」も「行春や鳥啼魚の目は泪 松尾芭蕉」を思えば意外に古式ゆかしくも面白く感じられる。漁期の氷の下の魚たちに思いを馳せた句であると捉えれば「地球儀が軋む」10句中に登場する動物たちと同様に生き生きと感じられる。


瀬間陽子 地球儀が軋む 10句 読む 第876号

堀切克洋 四日 10句 読む 第877号

森尾ようこ 木偶 10句 読む 第878号

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