【句集を読む】
機械と音楽
瀬戸正洋『似非老人と珈琲 薄志弱行』とゆるく付き合う・その3
西原天気
ボサノバや機械が珈琲を淹れる 瀬戸正洋
コーヒーメイカーやらエスプレッソマシーンやらをわざわざ《機械》と呼ぶその視点は、人間が手で淹れるのがふつうの時代を知っている人かもしれない。喫茶店でも家庭でも、かつては(というほど昔ではない)もっぱら手で淹れた。今でも家でそうする人は多いだろう(私もそう。ちょっと凝って、紙ではなくネルで淹れたりする人もいるにはいる)。店はずいぶんと機械が増えた。バイトさんでも一定の品質を保持できるし、合理的な判断だろう。機械で淹れるのがコーヒーショップ、手で淹れるのが喫茶店という範疇化を、いま思いついた。
なつかしい絵面としては、蝶ネクタイのマスターが姿勢よくカウンターで珈琲を落とす。あるいはサイフォンなどという代物が並んでいたら、さらになつかしい(いわゆるレトロな)風景だ。
ムダ話ばかりしているが、俳句というものがそもそもムダと思っている人しか読まないので、遠慮なくムダ話をしている。
さて、《ボサノバ》は、どうだろうか。じつは、これもまたちょっと昔の雰囲気が漂う。だって「新傾向」と名付けられた音楽ジャンル名が、もう、すでになつかしい。それが新しい流行だったのは、もうずいぶん昔だ。アントニオ・カルロス・ジョビン(1927~1994)が「イパネマの娘」を書いたのは1962年なのですから。
かといって、ボサノバは過ぎ去った流行なんかじゃないですよ。いまも脈々と、世界中の、日本のポップミュージックに息づいている。ボサノバと呼ばなくても、意識しなくても、現代の若者(!)の耳の中にもボサノバは鳴り続けている。
んだけど、わざわざ「ボサノバ」と提示し、しかも切字「や」を付けるのは、やはり人として年季の入った人のやることだろう。
おっ、ボサノバが鳴っている! 機械が珈琲を淹れているぞ。
これは現代の風景を、ある程度、年齢の行った人が詠んだものかもしれない。あるいは、当時の風景を詠んだものかもしれない。ちなみに、エスプレッソマシーンは20世紀の初めからあったらしいし、少なくとも私の学生時代、40年以上前、邪宗門という喫茶店にはエスプレッソマシーンがあったように憶えている。
まあ、今だろうが当時だろうが、どっちでもいいとも言えるが、どちらを思い浮かべるかで、感興・情趣がちょっと違ってくる。ってことは、強く思いましたね。
ところで、この句、季語は見当たらない。「ボサノバ」は夏の季語だろうだなんて言辞は、お遊びの軽口以上のものではなくて、無季上等。季語を入れるか入れないか、いくつ入れるか。それは自分(作者)が決めることです。
でも、なんか、この句にいる人は、薄着な感じはしますよね。
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