冬が終わるので、冬の句を。とはいえ、そんな詰め合わせはあまりない。
西原天気
あすは立春。まだまだ寒い日が続きそうですが、暦の上ではきょうで冬が終わります。ちょっと時間が空いたし、冬の句をつまみ読みして、冬の気分の味わいおさめとしたい。
(あれ? つまみ食いとは言うが、つまみ読みは、いま初めて聞いたような気がする。が、俳句は「つまみ読み」が似合うような気がする。指でつまめるかんじ)
で? そうそう。冬の句で、冬の気分、という話でした。
ところが、どれをめくればいいか。これが存外たやすくない。句集は、たいてい全部の季節が入っている。結社誌や同人誌はきほん、当季で投稿・入稿するので、最近届いたものの多くは、秋の句が並んでいる。作句・投句・入稿時と発行・発表時のズレです。俳句は季節のもの。というのがコンセンサス。なのに、このズレは見過ごされたまま長年続いている模様。
歳時記の冬の巻をめくればいいんじゃないの? という強力なアドバイスもあろうかと存じますが、例句の良い歳時記は少ない。
などと、めんどくさいことを言っていたら、目の前に雪我狂流句集『葉牡丹と寒牡丹』があった。
新年を含めに冬の句ばかりを集めて93句。つまみ読みには、数もちょうどいい。
敷金のまるまる戻る神無月 雪我狂流(以下同)
神の恩寵というわけではありませんが、トクは絶対していないのにトクした気分。
行灯に電球透けて一の酉
二の酉の串にさされり鳥の皮
握りては竹の太さや三の酉
律儀に三句が並んでいて、それそれがそれぞれの気分。とりわけ三句目は、モチーフと季語のあんばいが絶妙です。
老人の汚れちまつた寒さかな
悲しみが汚れちまった中原中也よりも、みずからが汚れちまった老人のほうがよほど悲しい。そして、寒い。陰惨なはずが、なんだか笑える。俳句はいろいろ救ってくれます。
朝が来て地球の上に霜柱
「地球の上に朝が来る」川田義雄とミルク・ブラザース(1939)は85年前。それ以来、否、それ以前も、日に一度、朝が来るという摂理。
猫のゐて文学的になる炬燵
点景としての猫。演出効果絶大な猫。
これは湯気あれはお墓に立つ煙
例えば卓上の茶碗からのぼる湯気、窓の外の墓地に上がる線香の煙。
靴下と股引にある隙間かな
情けなさ、横溢。これも「絶対領域」と呼ぶことにする。
正月の東京タワーの脚を見る
東京スカイツリーはなんだか愛想がないと思っていました。理由は脚がないからもしれない。
大吉がバスに轢かれてぺつしやんこ
かなり虚構的。ですが、こんなシーンで始まるドラマ/映画、大歓迎です。
騒がしく水を使ひて春隣
なんだかうきうきしてきました。もうすぐです。暖かくなるのは。
雪我狂流句集『葉牡丹と寒牡丹』(2019年12月/私家版)
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