【週俳10月11月の俳句を読む】
立てる
田中目八
〔後書という名の前書〕
不思議と三作それぞれに共通するものがあり、競作のような印象があった。
特に垂水作品と関作品には共通する単語が多いのも興味深かった。
しかし垂水作品にはタイトルが示す通り垂直方向への希求を見出すことができ、関作品にはやはりタイトルが示すように水平方向への視座のようなものをより感じた。
ということで、後書を最初に書いたのは三作品全92句の鑑賞文、スクロールするだけでも大変だろうと思ったからである。
前書は最後に置いておくので酔狂の向きは読まれたい。
●
垂水文弥 両の壁と五十の塔、そしてそのかなしき王たち
これは、明確な弔辞である
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい けふを鶴の忌とする
「ごめんなさい」と三回繰り返しての一字開けは断絶というより穴なのではないだろうか。
その穴へ永遠に「ごめんなさい」を投げ入れる。
「けふを鶴の忌とする」と宣言するものは誰なのか。
謝罪している人物とは違って至って落ち着いているように感じる。
春着でもつて包丁投げ合つて笑ふ
春着を着て、ということなのだろうが、春着をスリングのように使って包丁を投げるようにも思えてくる。
「もつて」「合つて」というリズムからは真っ直ぐ飛んでない印象も受ける。
しかし「笑ひあふ」ではないのだ。
葱買うて振りて少女の真白き夢
「夢の世に葱を作りて寂しさよ 永田耕衣」を踏まえているだろうか。
夢の世とは夢のような儚い世の中のことだが、この句では「真白き夢」なのである。
葱を買ったのも振ったのも少女の夢の中なのだろうか。
買うという現実的な行為、振るという肉体的行為とそこから立ち昇る葱の強い香りによって夢から覚めそうだが。
汽車は雪永劫母を持た不るゆゑ
汽車は雪のなかを走っているとも読めるだろうが、汽車=雪であると読む。
汽車も雪も遠くから来て消えてゆく、過去から未来への指向性を持っていると言えようか。
永劫もまた未来への指向性を持つ。
私が生まれることによって母を持つのは過去においてである、故に生まれなければ母を持つことは叶わぬのである。
「不る」という過剰な表現が(作品というより作者にとって)切実なものであるとして、完全否定の「非」ではなく「不」であるところに母への希求を感じもするのである。
水仙や日の厳を鳥死ぬまで航け
日光の弱い冬であれば「日の厳の中を」と読むよりは「日の厳というものを航く」と読むのがよいだろうか。
或いは日月の意味で捉えてもよいのではないか。
つまり日の厳とは時間の厳である。
鳥は魂を運ぶと古来よりあるが、その魂とは日の厳のことなのかもしれない。
また鳥が航くのではなく、魂たる鳥の死ぬまで人が日の厳を航くのかもしれない。
水仙は彼岸花科であり、海岸に群生するまたの名を雪中花という。
汝に汝のにほひよ汝の春の雪
この春の雪に汝の匂いを感じとったのだろう。
つまり汝は天にいる。
また、もしこの雪が地面に残っている雪だとしても、それは汝の残り香なのである。
春は葬(とむらひ)のseason! 激昂の亀と踊ろ
この句より以後「葬」は春の季語である、と言ってみようか。
確かに春は様々な形での別れの季節でもあり、実感、経験足としてもそうであると納得するのではないだろうか。
「season!」「激昂」「踊ろ」といささか過剰ではあるだろう。
しかしときにひとは舞踏(ダンス)っちまわねばならぬときがあるものだ。
ゆきやなぎからはじまつてゐるこども
小さな白い花が群がって咲く、そのひとつひとつが子供なのだろう。
始まっているのは子供なのか、別の何かかか。
歳時記によれば「雪柳は葉より花が先に咲き、その名に相応しく満開の様子はひとかたまりの雪のようであり、散る様子は風花のようである」と。
つまり雪柳とは子供であり、子供とは葬のはじまりでもある、ということかもしれない。
春の海力士のにほひしてゐたる
力士は鬢付け油の匂いがするとよく聞く。
それは懐かしい甘い香りだそうで、主にバニラによるものだそうだ。
ところで力士のしこ名は「春の海」だろうか「ひねもす」だろうか。
なにせちばてつやの漫画に『のたり松太郎』という相撲漫画があるのだ。
喉潰したら風船になる約束
喉を潰すのは叫びの故か。
風船は空へ、魂の船たるか。
喉は空気の通り道であり、風船は空気をはらんでいる。
約束は誰とのものだろう。
声が届かないのなら風船になって天へ、と。
松公と叫びて松を伐りにけり
ここもまさか『のたり松太郎』ではあるまいな。
「伐る」なので剪定程度ではなく伐採してしまったのではないだろうか。
鶴とくれば松、松とくれば鶴である。
松公は蔑称ではなく愛称だろう。
福楞察の川をさんぐわつびとの名に
福楞察はフィレンツェ、川はアルノ川になるだろうか。
「さんぐわつびと」は三月人だろうが詳細はわからない。
勝手な解釈をすれば三月人形=雛人形を連想する。
なれば川がある故に流し雛の連想も働く。
そのようにゴンドラに乗っているのかもしれない。
春も人参ホラー映画で盛り上がる
「ロシア映画みてきて冬のにんじん太し 古沢太穂」を踏まえているのかはわからないが、ホラー映画「に」ではなく「で」であるから映画を観て盛り上がったのではなく映画の話をして盛り上がったのだろう。
人参は子供の嫌いなものとしてよく挙げられるものだし、由来も人の形に似てるからとも言われるのでホラーと相性がよいかもしれない。
進級してゆく眼(まなこ)の海を搔き出して
目から鱗が落ちるくらいだからそこには海があるだろう。
目から鱗が落ちるのは他者からの働きかけであるが海を掻き出すのは己によるものである。
学ぶことにはその両方が必要だと思われる。
海を涙と取るのは容易いが、掻き出さねば沈む、或いは溺れるのかもしれない。
しかし幾ら掻き出しても海は尽きないはずだ。
酔神父すこし歌ひぬ花林檎
神父であるからカトリックである。
カトリックに禁酒の戒めは特にないらしいがそれでもやはり節度は守らねばならないだろう。
すこし歌うくらいだから泥酔ではなくほろ酔いと言ったところか(私は飲めないのでわからないが)
とはいえ神父といえど酔えば俗人のごとく歌ってしまうものなのだ。
神父に林檎とはベタではあるが、実ではなく花だしそれも酒のせいにしておこうか。
野遊の上等兵と呼ばれけり
言うまでもなく旧日本陸軍の階級である。
「呼ばれけり」が伝聞の過去であるならば納得できるのだが、一応俳句では一人称故の詠嘆の「けり」ということになっている(らしい)
そうなると上等兵と呼んだ人物と呼ばれて詠嘆している人物のその心理が気になってこないだろうか。
兵士の行軍は遊びではなかっただろうことは言を俟たない。
ゆふぐれの海市はためきゐやまずを
海市それがはためいているのか、海市に何かがはためいているのか。
海市に旗が立っている、もしくは海市の立つ海に船の帆がはためいているのだろうか。
いずれにせよ風がやまないのである。
ぬるい風であろう。
或いは無風、凪いでいるのにはためいているのかもしれない。
くらければ昏いランプの中を見る
よくも悪くも俳句を読むものの多くはランプとくれば富澤赤黄男を思い起こしてしまうのではないか。
もちろんそれと関係なく読めるし読んでよいわけだが、この句に季語がないことや「上等兵」の句があることからもより一層赤黄男のランプを思うのである。
昏いといってもランプであり、おそらく灯はついている、昏い光なのだと思う。
古いランプそれ自体も昏い雰囲気をまとっていて、そのランプの中の、増幅された光ではなく芯の炎とその光を見ている。
上五の「くらければ」は物理的な闇であり、また精神的な暗さでもあろうか。
全身が鎖骨で風鈴売になる
正直意味はわからないが、鎖骨の由来である鍵型や鳥の鎖骨ウィッシュボーン(ウィッシュボーンアッシュというバンドがあってだな…)が関係しているだろうか。
それは置いて、全身鎖骨であればまともに身体は機能せず、故に就ける仕事も限られてくるだろう。
風鈴を吊るすのは鎖骨だろうし、屋台そのものも鎖骨で組み上がっている、風鈴の舌も鎖骨でできているのかもしれない。
あぢさゐととても謝りつつ思ふ
語順に撹乱されるが、おそらく意味的には「とても謝る」のではなく「謝りつつ、紫陽花だととても思う」なのだろうと思う。
謝りつつそんなことを思うのであるから内心は如何に。
七変化する紫陽花のようだと自分を揶揄しているのか、それとも相手に対してそう思っているのか。
とても謝っているにしてもとても思うにしても、それは主観であろう。
わたくしはくちなはのくちびる あなたは?
くちなは、蛇に唇があるのかどうかはさておき。
私が唇なのであればあなたはやはり歯、牙なのではないだろうか。
唇亡びて歯寒し、である。
唇と牙であるならば隣接している、それが今はそうではない、遠く貴方にあなたはいるのではないか。
その一字開けなのではないだろうか。
王様は女王様に似て涼し
つまり女王様も王様に似ていると言えるのだが、王様に似ても女王様は涼しくはないのである。
女王様に似ている故に、であるからこそ、涼しいのであろう。
もはや昆布刈ですよね違つたらウケる
なにが「もはや」なのか、なぜ「ウケる」のかわからず置いてゆかれる。
昆布を鎌で刈るように何かが刈られてゆく、そういうことか。
軽いふざけたような口ぶりも実は内心その逆故ではないか、そう言わなければ保てない何かがあるのではないか。
刈られるものが命だとすれば。
茄子は或る日の腕(かひな)ひらがなめくふたり
茄子の黒ぐろとした色艶に日焼けした腕をイメージはできるだろうか。
そうなると平仮名には逆に白いイメージが働く。
漢字を開くという俳句でもよく使われる校正用語だと思うが、意図的に前半は送り仮名と助詞以外漢字にしてあり、後半はすべて平仮名にしてあるのは明白だろう。
つまり二人は開かれたのだ。
深読み、こじつけを承知で読めば「茄子」と「或る日」から茄子の馬を思う。
ならば漢字を開くのは別れなのかもしれない。
我が名は麦死にえいゑんの馬を走らす
新約聖書「ヨハネ伝」第12章を踏まえてのものだろうか。
死とは永遠のものか、いや麦は再生も象徴する。
馬が永遠に走るのではない、「ゑいえんの馬」を走らせることによって死と再生は循環されるのだろう。
昼寝子にgood byeといふ寝言二度
「good bye」を連続で言ったのではなく、昼寝の間に二度言ったのではないだろうか。
僅かな昼寝の間に二度の別れがあったのだ。
夏ゆふぐれ飛行機売となりにけり
飛行機売と言われると個人の小商いという感じがする。
航空機の製造会社を経営しているような大仰な雰囲気ではない。
それこそ紙飛行機や模型を屋台で売っているような。
夏の暑いような涼しいような昼と夜の境目に飛行機を買いにくる、少し存在の薄い人が現れる。
気に入った飛行機を買ってそのまま夕暮れの向こうへ飛んでゆく。
わたくしの生前よりの蚯蚓かな
生前とは不思議な言葉だが、言うまでもなく故人が生きていた頃のことである。
日本では土葬は禁じられているが、墓の下に今「わたくし」がいて、自分より儚い存在だと思っていた蚯蚓が永らえていることに何かを感じているのだろうか。
背泳にぎりしあびとのきたりけり
古代ギリシャ時代には既に水泳が盛んだったらしいが、背泳ぎはなかった。
誰かの背泳ぎに惹かれておそらく現代のギリシャ人ではなく古代の「ぎりしあびと」が来たのだろう。
背泳ぎは天を仰ぐかたちである。
ところでアリストテレスは「大地の腸」と蚯蚓を讃えたとか。
蛇征ケル時一片ノ炎(ほ)モ不許
正直意味はわからないが、イメージとして、火葬を思い起こすことはできるだろうか。
片仮名表記や「不許」によって古い書物に書かれてあるような雰囲気がある。
蛇は再生の象徴であるが、炎はそれを断絶してしまうということか。
これは恋シャワーの中のまるごとが
恋のシャワー!
「シャワーの中のまるごと」とは恋する私のすべて、全身全霊ということだろうか。
母ゆゑに氷室に母を連れてきし
母は氷室のなかで永遠に母であり続けるのだろう。
聖闘士星矢の氷河を思い出したのは私だけだろう(スミマセン)
ゐる姉と秋の螢を見に来たり
「ゐる姉」がいるのだからいない姉もいるのだろう。
秋に螢を見にゆくのだから単なる酔狂か、それともわけがあるのだろうか。
「たましひのたとへば秋のほたるかな 飯田蛇笏」を思えばいない姉に会いに来たのかもしれない。
雨すてふ町より来しと云ひをどる
この句も鑑賞文を書くのは難しい。
「雨す蝶」の可能性がないわけではないが「雨している」という町、と読むのが無難ではあるだろう。
「雨す」という町から来た、と言われて、踊られて、果たしてどう反応したのだろうか。
踊りけりあなたの彗星となつて
なるほど、踊ったのだ。
彗星であるから太陽であるあなたの周りを回っているのだろう。
けり、が悲しい。
休暇明スパムスパムと三人来
スパムスパムと来るとモンティ・パイソンを思い出すが六人組だし違うのだろう。
休暇の間に会社のパソコンに迷惑メールが……というふうに読むのが自然だろうか。
しかし「スパムスパム」の二回繰り返しに「三人」が来るあたりそうではない気もする。
もしかしたら一人はスパムと言っていない説がある。
生前の台風の眼で吐きにけり
生前の記憶と捉えてよいだろうか。
台風の目は低気圧で、いわゆる気象病にかかったのだろうと思われる。
しかし「台風の眼に」ではなく「台風の眼で」と書かれると台風の眼をして吐いた、というふうにも感じる。
何を吐いたかは書かれていないので嘔吐したとは限らない。
蛇穴に入るブラウスを買うて来よ
蛇穴に入るためのブラウスを、とも読めるし、蛇にブラウスを、とも読めるだろうか。
どちらにせよ汚れそうではある。
誰に命じているのか、命じている人物の服のサイズを知っている者だろう。
秋の風鈴吊つて本屋はうつくしいぞ
全身鎖骨の人から買ったものだろうか。
吊らなくても美しそうではある。
秋になっても釣ったままなのではなく秋になって釣ったのは何故か。
何かが通るたびに鳴るのだろう。
僕ら惑星万の鶏頭が身の裡
「僕ら」の「ら」とは我々だろうか。
その僕らの身の裡に万の鶏頭が立つ、なのだとすれば身の裡とは地表であろう。
いや、鶏頭こそが我々かもしれない。
鶏頭の惑星。
夜食人法(ふらん)を数へゐたるかな
フランは通貨、貨幣単位である。
夜食を取りながらフランを数えていて忙しないことだし、行儀もあまりよろしくはない。
「数へゐたる」からはおそらく朝からずっと数え終わらず、夜食を取るまさに今も数え続けているところであると読める。
「法」はあて字であるが、金こそが法であるかのようで、夜食人もまたそれに支配されているが故に数え続けなければならないのである。
煙草てふさびしき塔を持ちあるく
さびしき塔、確かにそうだなと思う。
僅かな時間煙を吸うためだけのものだ。
身体にも悪い(私は吸ったことはない)
連作中、ついに塔の文字が出てきた。
塔だと認識するが故にこの人は吸わないのではないか。
吸うならば塔を倒さねばならなくなる。
木のバット鉄のバットよ火恋し
何故バットと火恋しなのか。
前の句にならえばバットも塔であろう。
鉄のバットは燃えないが木のバットは燃やすことはできるだろう。
恋しいのは本当に火なのだろうか。
神いくらか我にちかづき眠るかな
神が我という存在に、人間というものに近づいたのか、それとも物理的な距離を近づいたのか。
おそらくはその両方だろう。
我に近づいたことで神は存在として人間に近づくことにもなったのではないか。
天より地へ。
しかしその距離は「いくらか」なのである。
神は寂しくて添寝を欲しているのかもしれない。
冬がくるおほきな顎をたづさへて
「たづさへて」だから冬の顔に大きな顎があるのではなく顎を手に持っている、或いは伴っている。
顎が大きいのだから口も大きいだろう、とすれば大口真神、狼と読むのは強引だろうか。
大きな顎はあらゆるもの呑む顎であろう。
落葉して山羊の喧嘩を父と見る
雄と雌では一方的で喧嘩にならないらしいから雄同士か雌同士であろう。
「父」からは雄同士の喧嘩であり、見ているのもやはり息子のように思える。
つまり二匹の山羊は父と息子でもあるのではないか。
意外なことに落葉は山羊の大好物だとか。
新しい葉をつける前に古い葉を切り落とさねばならないのは親子の関係においてもそうなのかもしれない。
家の中に雪ふる桂信子の忌
「窓の雪女体にて湯をあふれしむ 桂信子」をはじめ桂信子には雪の句が多い印象がある。
雪を詠んだ信子の忌に何かを思い誰かを思うのか。
この家は誰の家か、降らせているのは誰かということだ。
何にあこがれ少年はきつねをころす
私が少年なら「きつねにあこがれて」と答えるだろう。
キル・ユア・ダーリン。
アルバムの七曲目くらゐの雪が
クリープハイプの曲の歌詞がもとにあるとすれば、そういう雪が丁度よいのだということだろう。
降って欲しいという願望と読むほうがよい気もするのである。
凍蝶の国と数へきれない扉の家族
数えきれない扉、そのそれぞれに家族があるのか、家族に数えきれない扉があるのか。
前者であれば、まあそうだろうと思う。
そして読者である私自身に照らし合わせれば紛れもなく後者である。
凍蝶の国とそれらは、やはり私の中で=で結ばれる。
抱きしめに来いよ水仙のくせしてなんだよ
「くせして」(ジャイアンか)と言われては水仙も立つ瀬がなかろう。
水仙は動けないのだから拗ねてないで抱きしめに行けばよい。
もちろん後ろから抱きしめるのだ。
そうすれば水面から顔をあげて振り向き、自分の姿ではなくあなたを見つめるだろう。
そして産声
われらみなしごすすめ誰が忌かもわからず
然り。
言うまでもなく我々はみな孤児である。
誰の忌かと立ち止まるなかれ。
孤児に纏わる忌はないのだから。
●
関灯之介 橋
春やうつりにけりな腕(かひな)の刺青(たとぅー)のlife
343443の快いリズムと韻律がすべてと言ってもよいだろうか。
「うつりにけりな」は色褪せる・衰えるの意味であるから、腕のタトゥーの色が褪せたとして、lifeまでかかっているかである。
「春や」を思えばlifeは色褪せていない気がする。
春はlifeだからである。
街はジャズ何処へ帰るも星が要る
春がlifeならば街はジャズである。
街は訪れる場所で住むところではない。
故にジャズなのだろう。
星は昼間にも存在しているが「帰る」からも夜だと思いたい。
船乗りの北極星のように帰る者にも星が必要なのである。
木仏の手粗々と夜を束ねたる
木喰のような木仏を思う。
夜を束ねるとはどういうことだろう。
夜の帳は降りるものであるが、その帷を強引に束ねているとイメージできるだろうか。
木仏には「感情の冷ややかな、情愛のうすい人」の意味もある。
そのような手で、ということかもしれない。
粗々と、にそんな印象を持った。
夢に汝と我はらからに食(くら)ひあふ
「はらから(同胞)に」で軽い切れを読む。
夢で汝と我は血縁となった、そして血をわけた同士で食らいあう、という夢に汝と我は血縁と……と循環、めくるめく夢。
飛花落花ばらばらの木乃伊を思へ
木乃伊がばらばらになれば再生、復活は叶わない。
花はまた来春になれば咲くが、今目の前を飛び散るこの花は二度と戻らず咲くとはない。
しかし、やはりまた花は咲くのである。
浜は伽藍のしづけさにして陽炎へる
伽藍は僧侶の修行する場所なのでもとより静かだろうが、単なる静けさではなく「伽藍の」と限定されているのはどういうことか。
わからないが、僧侶の修行は涅槃に至るためである。
故に、仮に浜は涅槃へ至る静けさであるとしてみようか。
煩悩の火の揺らめき、それが陽炎なのか。
そして「陽炎へる浜」と循環する。
波を打つ舳先どんどろどんどろろ
広島などでは雷をどんどろというらしいが、雷神の雷太鼓をイメージする。
波を打つ、雷太鼓を打つ。
舳先が波を打つ音にも思えるが、波と船の水平性と雷という垂直性の交歓とも取れるだろうか。
千の繭浮かぶ蔟(まぶし)の格子中
回転蔟というものだろうか。
格子中と書かれることによって格子に閉じ込められているような感じがする。
格子の中の繭の中という入れ子構造もあるだろう。
どことなく曼荼羅めいても感じる。
飛礫(つぶて)うちたる夏空をしばし見つ
飛礫が消えるのは一瞬であろう。
飛礫を打っても何も変わらない空を少しの間見た。
日の長い夏の空、しばしが一瞬にも永遠のようにも感じられる。
丸むればほとぼる背(せな)や羽化はいま
逞しく鍛えられた背中を思う。
白いシャツがはち切れそうな。
熱を発しやがてほのと汗ばむ背中の、逞しい筋肉がみちみちと裂けてゆく。
羽化すればそれを捨ててゆくことにもなるだろう。
涅槃もそうであるに違いない。
われらの夢を集めし塔のうすけむり
我らの夢を集めたとても立ち昇るのは薄煙なのか。
いや夢は夢であり、言うまでもなく薄く儚いものである。
塔に夢を集めたのではない、夢を集めて塔と化したのであろう。
故に塔、それ自体が天を志向する薄煙である。
それはおそらくはついぞ天に到らず、だったのだと思える。
虹の巨人は脛ばかり見せくるよ
北欧神話を想起したが虹の橋を守るのは神の側である。
では日本神話の長髄彦か、と思うがそれも関係ないのだろう。
脛といえば弁慶の泣き所、と思えばその弱いところを見せてくるのだから人間を脅威とは思っていないのではないか。
虹が虹の巨人の脛なのかもしれない。
玻璃窓に我その奥の窓にも我
電車の二重窓をイメージするのがわかりやすいだろうか。
例えば鏡にうっすら影、輪郭が映るのをゴーストと言うそうだ。
書かれたことを信じるならばそういう現象であるが、本当に奥にも窓はあるのか、と疑うのは果たして俳句を読むに許されるのだろうか。
ドッペルゲンガーを想起もするが、ここには今三人の我がいるのである。
停電の夜の鏡へ顔を寄す
停電の暗闇のなか鏡へ顔を寄せるのは何故だろう。
自分の存在を確かめるためか、独りの不安からか。
顔を映すのではなく寄せるのは、やはり私(あなた)がいるかどうかを確かめたかったのではないか。
うすばかげろふghostと言ふときの息
「ghost」と言うときの息と「うすばかげろふ」と言うときの息は同じなのだろう。
ウスバカゲロウとゴースト、そして息も同じ存在としてある。
手は供花(くげ)のごと死にがほへ押し寄せぬ
ご遺体には基本触れてはいけないが顔に少し触れるくらいは許されることは多い。
私もそうだが、触れたことがある人は少なくないだろう。
しかし押し寄せるというのは異常である。
供花というのは供えるものであるから、「ごと」と喩であるとしても埋め尽くすほどの手が遺体の顔に供えられている景を浮かべてしまう。
鹿の皮被りて鹿の姿なす
人間もまた然りであろう。
いや天邪鬼のように人の皮を被った人間ではないものもいるか。
鹿の皮を被ったものは姿だけでなく中身も鹿となることができるのだろうか。
仮面を被ることによって別人になるように鹿の姿になることによって鹿になるのかもしれない。
鬼迫り来芒薙ぎ倒し薙ぎ倒し
芒は薙ぎ倒されるものである。
神話において日本武尊が薙ぎ払ったのは野火であるが鬼は芒を薙ぎ倒すのか。
鬼を暴風の喩と捉えることは容易いだろうか。
思えばかつては鬼が追われるものではなかったか。
その鬼は人ではなかったか、いや我々もまた鬼、或いは鬼の裔か。
迫り来るのは私である。
酔(ゑ)うて拾ふ石を冷やさぬやう胸に
酔が覚めれば何故こんなものを拾ったのか、と思うのかもしれない。
「冷やさぬやうに」とあるが、もともと冷えた石であったろう。
火照った胸に石を温める、それは温石の逆の行為と言える。
無数にある中のたまたま拾ったその石ではあるが、しかし何故かこの石だったのである。
石とはそういうものだ。
夢の塔より貝殻を盗みきし
我らの夢を集めた塔だろうか。
夢の塔という虚から貝殻という虚を盗んできたのはそこに実を入れるためなのか。
それともこの貝殻は蛤の殻の片側なのかもしれない。
夕は沖より訪ねくるもの鈴の音と
訪ね来るのだから待たねばならない。
沖に日が沈み、そしてそこから夕が訪ね来る。
鈴の音はそれを告げるものか、それとも鈴の音にあやされ、誘われて来るのだろうか。
夕は手足を持たないのかもしれない。
街灯のごとき体で生れけり
街灯のポールのように細く背が高いのだろうか。
街灯の高さには基準が定められていて、低すぎても高すぎてもいけない。
街灯は動けないが、道を街を照らす。
街灯のごときは体だけなのか、その心も思う。
襖絵の鶴と歩めば眠くなる
仙人であれば鶴に乗って去ってゆくであろうが、共に歩むのである。
眠くなってそのまま眠ってしまったのか最初から夢だったのか。
襖絵の鶴はやはり襖絵のまま、歩かなかったのかもしれない。
ひらがなを含んで愛しあひませう
「含めて」ではなく「含んで」であるから口に含んでということだと思われる。
「愛しあひませう」と丁寧に呼びかけられてはいるが素直にはいと応じるべきなのか。
愛します、愛しましょうではないし、そもそも愛し合うとは呼びかけ、求めることなのか。
死のことを浴槽に湯をはりながら
時間の経過とともに浴槽に溜まってゆくお湯と時間の経過とともに近づく死。
湯を張るとは入浴出来る状態にすること。
死のことを思い、考えている内に湯を溢れさせてしまいそうだ。
溢れた湯は返らないし浸かればまた溢れる。
浴槽は母胎、湯に羊水を思う。
冬薔薇鏡の中の遠き部屋
部屋とは仕切られた空間であるが鏡の中は無限であると言えようか。
鏡の中のものはすべて遠い。
何故ならば触れることは叶わないからである。
鏡に映るのは自分の部屋であるはずなのにその中には入れない。
その部屋にあなたが居ても。
敏雄忌や帆柱がいま納屋の梁
言うまでもなく三橋敏雄は船乗り、練習船の事務長ということであった。
帆柱という垂直を志向するものが今では梁という水平を志向するものに変わっている。
広大な海と空の間に屹立していた帆柱が今や限られた狭い空間の梁となって横たわっている。
この納屋は海辺にありそうだ。
連山を灰吹かれきし氷かな
霧島連山をイメージするがただの連山としておく。
「灰吹かれきし氷」とは連山から吹かれて来た灰が混じった氷ということだろうか。
或いは吹かれてきた灰がまるで凍ったような氷だと感嘆しているのだろうか。
連なる山のどれかではなく「連山を」と一纏めにするところに何かあるのだと思われる。
河は母語わが後方へ流れけり
河が母語であるというのは感覚としてわかる気がする。
一方で言葉それ自体は前へ飛ぶものだと個人的には思っていた。
河が「わが後方へ」流れるのなら我は河の源流を向いている。
流れ着く大海ではなく。
流れているのではなく「流れけり」なのである。
それは振り向かないということだろう。
橋よわれはゆるされずして写真に笑む
何を許されないのか、許さないのは誰か、橋なのか我自信なのか。
許されないものが笑うことは許されるのか。
写真は残る。
許されないまま永遠に笑みを浮かべ続ける。
その笑みは橋の向うへ向けたものか。
●
三宅桃子 溶けたあと
ピンボケは涙のようで豊の秋
ピンボケとは撮りたい対象とは別のものにピントが合ってしまい、被写体がぼける現象である。
被写体がぼけて写っていれば当然その姿ははっきりと見えない。
涙とあるが涙目で見たかのようだということなら納得できる。
かつてそうやって涙の向うにその人を見たのかもしれないし、この先も涙=ピンボケの向うにしかいないのかもしれない。
しかし「豊の秋」だからこんな暗くはないか。
つくつくし紙人形の溶けたあと
紙人形は形代だろうか。
現代の紙雛や形代は水に溶ける紙が使われているので溶けた跡は残らない。
つくつくしの声が聞こえて顔を上げる、視線を戻すと紙人形は溶けた跡もなく消えていた。
紙人形の溶けた後に鳴き出していたように感じる。
つくつくし、法師蝉が鳴き出したのは祈祷だったのかもしれない。
溶けて跡は無いのに溶けた跡を探しているような、そんな気もするのである。
紙コップの紙の香強き秋燕
紙コップは特に温かいものを淹れたときに紙の香りや味がして嫌がる人は案外多いものだ。
まだそれほど寒い訳ではないが、なんとなしに温かいものが欲しく感じる。
ひとくち含み、いつになく紙の香りを強く感じたのは空気が澄んで来たからでもあり、もの寂しさからでもあろうか。
故に燕は南へ帰るのである。
どんぐりの小さくなって石の墓
団栗とひと口に言っても種類は様々である。
団栗の落ちている木々の中を進むとそれまでより小さな団栗が目立つようになり、その中に墓があった。
墓は基本的に石によって建てられるので、イメージとしては木々の中に一基だけぽつんとある、それが「石の墓」ということだと感じる。
大量に落ちている団栗の生とただ一基ある石の墓の死とが対照的である。
父斜めに写りて犬の墓を指す
前句の墓はこの犬のものだったのだろうか。
しかし団栗が落ちているような場所であるからペット霊園などではないと思われる。
「写りて」からは既に父の不在をも感じてしまうがどうだろう。
この写真がピンボケなのだろうか。
翌日は草乾くように鹿の立つ
雨だったのだろうか。
鹿がそういう行動を取るのかわからないが、濡れていると不都合があるのだろう。
明日ではなく「翌日」なので、濡れるたびにそうするのだと推測した。
さすがに翌日まで立っているわけではあるまいが、立ったその後はどうしたのだろうか。
ひとまず乾くことを願う。
白鳥や時計あつめて時こわす
南北を違わず飛ぶ白鳥、一説に体内磁石のようなものを持つとか、近年では目に磁石のような細胞があるとか言われている。
時計は自動修正される電波式ではなく、ズレの大きい機械式でもなく水晶が内蔵されているクオーツ式がイメージには合う。
或いはそれらすべてかもしれない。
我々は時間そのものというよりは時計に支配されていると言ってもよいが、時計を集めても時刻を狂わせるだけで時間は壊すことはできないのではないか。
故に白鳥は今年も違えず渡るのだろう。
くつしたの裏を表にする花野
靴下は肌に触れる内側が汚れるものだから裏返して洗う。
裏返して花野が現れるわけではないが花野はその言葉の華やかさとは違ってどこか寂しげなものである。
例えば刺繍された靴下の裏側、それが花野と響いているように感じる。
息白く糸を漏らさず立っており
吐かずではなく「漏らさず」にはどこか堪えている感じを受ける。
そうして寒い中を立ち続けているのは動くと漏れそうだからなのかもしれない。
一体どういう人でどういう状況なのか。
書かれた通り糸は糸で構わないのだが、糸のような細い声という喩えもあれば寒いというような声を一切漏らさずひたすら立っているのかもしれない。
三角に響いておりしふゆの星
冬の大三角がまず浮かぶだろう。
「おりし」であるから以前は響いていたことをこのひとは知っている。
しかし今はもう響いていない、それは何故か。
このひとの中で三角が意味を成さなくなったからかもしれない。
冬の大三角はオリオン座のベテルギウス、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオン。
「犬の墓」とおおいぬ座、こいぬ座が関係あるのかもしれない。
〔前書という名の後書〕
私のちょうど片手ほどのリアル俳句友達の一人にして基調な本誌における私の鑑賞文の読者でもあるN氏より「本文よりも前書が面白い」という有難いお言葉を頂戴した。
だから最後に持って来たというわけではないが、せっかくなので今回も少しだけ個人的に考えたことを書かせてもらいたい。
それは折良く、垂水文弥『両の壁と五十の塔、そしてそのかなしき王たち』のタイトルと関係している。
「両の壁と五十の塔」が連作52句それを指すことは明らかであるが、垂水氏が俳句のすべてを壁と塔と捉えているかはわからない。
しかし私は最近俳句を、俳句という詩の形式を塔だと考えている。
それは墓石であり、柱であり、梯子であり、また一個のひとでもあろうか。
故に一句独立、一句棒書きなのではないかと、そう考えたのだが如何だろう。
俳句を作るにあたってこんなことを考えてもなんにもならないかもしれない。
だが、私はこの理由から一字開け、多行形式、その他の視覚デザイン的な操作を句に施すのは止めたのである。
私にはこれが俳句という詩の要請する形式の重要なひとつであると思えるが、あくまでも「私にとって」であることもまた付け加えおく。
ここまで書いて連作について新しい考えを得たがそれはまた何処かで。
最後までお付き合いありがとうございました。
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