2026-02-01

鈴木茂雄【野間幸恵の一句】言葉そのものの自律

【野間幸恵の一句】
言葉そのものの自律

鈴木茂雄


一反木綿雨後をふくらむジャック&ベティ  野間幸恵

野間幸恵の第一句集『ステンレス戦車』(1993年、Tarô冠者)所収のこの一句は、1990年代の現代俳句において、前衛的な言語実験を象徴する作品である。この句は、夭逝した前衛俳人・攝津幸彦によって極めて高い評価を受け、彼の批評を通じて、現代俳句が直面する本質的な課題ーーすなわち、伝統的な定型を借りつつ意味の完結を拒否し、言葉そのものを自律的な存在として浮上させる「一行詩」の可能性ーーを鮮やかに体現するものとして、注目を集めた。

攝津は、雑誌『俳句あるふぁ』第5号(1993年)の特集「私の好きな女流俳句」において、この句を挙げ、野間幸恵を次のように称揚している。「俳句の方法による一行詩の自律に挑み、幾多の男性俳人が敗れ去った荒野で、ねばり強く言葉と交感する幸恵」。この言葉は単なる好意的な言及に留まらず、攝津自身が『豈』をはじめとする前衛俳句の拠点で追求してきた「言葉の自立した邂逅」による新しい叙情性を、野間が女性俳人としてより徹底的かつ粘り強く実現している点を、鋭く捉えたものである。男性中心の前衛集団が「荒野」と呼んだ実験の限界地帯で、野間は女性としての視点ーーおそらく日常の細やかな観察力と、言葉に対する執拗な親密さーーを武器に、言葉との対話を継続した。その姿勢は、「前衛の不幸」ーーすなわち時代を先取りしすぎたゆえに同時代から理解されず、孤独と困窮のうちに生涯を終えるという悲劇的な宿命ーーを体現しながらも、それを逆手に取り、ねばり強く乗り越えようとする静かな抵抗として現れている。

句の構造を精緻に眺めると、三つの要素が明瞭に分離されつつ、異化の効果によって衝突し、独特の緊張と詩的空間を生み出している。これらの要素は論理的な連続性ではなく、視覚的・音韻的な類似と対比によって接続されており、そこにこそこの句の革新性が内包する。

まず「一反木綿」は、鹿児島大隅地方の民間伝承に登場する布状の妖怪を指す。夜空をひらひらと漂い、人に巻きついて息を止めるという、古層の恐怖と幽玄を帯びたイメージである。伝統俳句ではこうした妖怪が幻想的な季語的役割を担うことが多いが、ここでは文脈的な機能を剥ぎ取られ、純粋に「言葉の物質」として還元されている。妖怪の象徴性は残響として漂いつつも、布という柔らかく広がる物理性に焦点が当てられ、他の要素との衝突を待つ基盤となる。この扱いは、現代俳句が季語依存から脱却し、言葉の自律性を追求する潮流を象徴している。

次に「雨後をふくらむ」は、雨上がりの湿気で布が水気を吸い、物理的に膨張するさまを描写する。ここで際立つのは音韻の工夫である。「ふくらむ」の「ふ」音が、触覚的な柔らかさと視覚的な膨らみを物質的に再現し、句全体に濃密な湿潤感を与えている。この表現は単なる視覚描写を超え、読者の感覚に直接訴えかける。また「雨後」は伝統的に季感として用いられることが多いが、ここでは無季俳句の自由度を最大限に活かし、特定の季節に縛られず、普遍的な湿った空気感を基調とする。この選択は句を時間的・季節的な束縛から解放し、時代や世代を超えたイメージの広がりを可能にしている。1993年という時代を振り返れば、戦後復興の記憶がまだ色濃く残る中で、雨後の湿気は過去の文化的残滓が現代に染み込むような、微妙な象徴性をも帯びてくる。

最後に「ジャック&ベティ」は、戦後日本の英語教育を象徴する開隆堂版教科書『Jack and Betty』(1950〜60年代に全国の中学校で広く用いられた)を指す。カタカナ表記がもたらすポップで外来的な硬質さは、伝統的な妖怪の古風なイメージと激しく対立し、戦後モダニズムの文化的刷り込みを鮮やかに喚起する。教科書は民主主義教育の産物として英語という「外来文化」の浸透を象徴し、多くの世代に共有された日常の記憶を呼び起こす。この要素はひらがなの柔らかさとカタカナの硬質さが音韻的に衝突することで、文化的ハイブリッドの緊張を強調する。

これら三要素の結びつきは、視覚的類似ーー濡れた教科書のページが波打つように膨張するさまと、布のふくらみーーと音韻的対比によって生まれる「不完全な接着」にある。この不完全さは意図的に意味の空白を生み出し、読者に解釈の余白を強いる。伝統俳句の「切れ」による余韻や季語に頼らず、言葉同士の自律的な邂逅によって新しい詩的空間を創出する点が、まさに攝津の評価の核心である。たとえば読者は、雨に濡れて窓辺に置き忘れられた教科書のページがふくらむ情景を思い浮かべ、そこに妖怪の漂いが重ねられることで、日常と非日常の軽やかな交錯を感じる。この余白こそが、句を単なる記述から、読者参加型の詩的体験へと昇華させる。

無季の選択も、この自律性をさらに支えている。「雨後」は季節を固定せず、句を歴史的位相に開く。1993年という時期にあって、戦後教育の記憶がまだ鮮明な世代が、グローバル化と消費文化の加速の中で、古い民間伝承の妖怪を「再起動」させる瞬間が、静かに浮かび上がる。妖怪は古層の産物、教科書は戦後近代化の象徴、そして雨後の湿気という中間項が、それらを結びつけ、文化的記憶のレイヤーを重ねる。この句は、戦後日本の文化的移行を微妙に映し出し、懐かしさと奇妙さが交錯する余韻を残す。

もちろん、限界も指摘されうる。妖怪と教科書の結びつきは視覚的類似に強く依拠するため、文脈的必然性がやや薄く、読者によっては飛躍が過大に感じられるかもしれない。具体的な場面ーーたとえば学校の机や窓辺の置き忘れーーをより明確に匂わせることで、接着が強化され、共感の幅が広がる余地はある。しかし、この「不完全さ」こそが、攝津が称賛した「言葉と交感するねばり強さ」の証左であり、句の方法論的本質でもある。野間は、男性俳人が敗北した「荒野」で、女性としての視点から前衛の不幸を体現しつつ、その不幸を逆手に取り、前衛俳句の限界を静かに突破した。

攝津の批評は、野間を単なる「面白い女流俳人」ではなく、前衛俳句の継承者として位置づけ、1990年代以降の短詩表現に決定的な影響を与えた。今日なお、この一句は「一行詩の自律」という課題を鮮烈に体現し続けている。俳句形式を現代詩の極点へと押し上げ、言葉の物質性とイメージの奔放さを融合させることで、読者に軽やかな微笑みと深い余韻を与える。野間幸恵の試みは、前衛の不幸を背負いながらも、伝統と革新の狭間で現代俳句が探求しうる可能性を、静かだが確かな力で示し、一行詩の未来を、かすかに、しかし確かに照らし出している。

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