2026-02-15

鈴木茂雄【野間幸恵の一句】予期せぬ角度

【野間幸恵の一句】
予期せぬ角度

鈴木茂雄


月曜は記紀うつくしく立ち上がる  野間幸恵

この句は、現代俳句の静かなる冒険を体現する一作である。日常の最も平凡な起点——月曜という曜日の名——を、古層の神話「記紀」と結びつけ、しかも「うつくしく立ち上がる」という清冽な動詞で締めくくることで、時間と神話と美の三者が、予期せぬ角度で交錯する。

まず「月曜」という言葉が持つ重みを思い起こしたい。現代の私たちにとって月曜は、週の始まりであると同時に、休日の余韻が急速に剥がれ落ちる瞬間でもある。憂鬱の象徴、義務とルーチンの再開、灰色の通勤風景。多くの俳句がこの「月曜」を季語的に、あるいは心情的に扱ってきたが、野間はそれを逆手に取る。月曜を起点に据えながら、そこに「記紀」という日本最古の神話・歴史のテキストを重ねる。

記紀——古事記と日本書紀——は、天照大神の岩戸隠れから始まる光の回復、神々の系譜、天地開闢の物語を記す。そこには「立ち上がる」行為が幾度も現れる。たとえば天岩戸の前で、神々が舞い、笑い、太陽が再び顕現する場面。あるいは、国生み・神生みのダイナミズムそのもの。野間は、この神話的な「立ち上がり」を、月曜という現代の時間軸に移植する。週の初めが、まるで神代の夜明けのように、美しく、荘厳に、再生の瞬間として立ち現れるのである。

「うつくしく」という形容詞が、句の核心を成す。この言葉は古語的な響きを持ちながら、現代語としても鋭く機能する。記紀の文体が持つ荘重さと、現代の私たちが日常的に使う「美しい」のニュアンスが、微妙にずれながら共振する。結果として、月曜の朝の光景——アラームの音、冷えた部屋、鏡に映る疲れた顔——が、突如として神話的な輝きを帯びる。通勤電車の窓に映る自分の影さえ、記紀の神々が立ち上がった後の世界の余光のように見えてくるかもしれない。

野間の句には、しばしばこうした「言葉のレイヤー」の重ね方が見られる。日常の語彙を、古層の文脈に浸すことで、平凡な時間が異界の深みを獲得する。たとえば野間の他の句に見られるような、水や耳や戦車といったモチーフが、抽象と具体の狭間で揺れるのと同様、ここでも「月曜」と「記紀」の距離が、詩的緊張を生む。しかも「立ち上がる」という動詞が、静的な神話叙述を動的なイメージに転化し、読者に肉体的な感覚さえ呼び起こす。背筋が伸びるような、朝の冷たい空気を吸い込むような、そんな身体性。

この句は、決して神話を美化したり、ノスタルジーを誘うものではない。むしろ、現代の時間感覚——加速し、断片化し、消費される時間——のなかで、神話的な「始まり」のイメージを呼び戻すことで、かすかな抵抗、あるいは静かなユーモアさえ示唆する。月曜の朝に記紀が美しく立ち上がるなら、私たちのありふれた一週間も、実は神話の延長線上にあるのかもしれない。あるいは、記紀の神々でさえ、月曜という曜日の重力に抗って立ち上がらねばならないのかもしれない。

野間幸恵は、こうした句を通じて、俳句という十七音の枠組みを、単なる季節の記述や心情吐露から、時間と神話と言葉の関係性を探る実験場へと押し広げている。この一句は、その静謐な実験の頂点の一つである。月曜の朝、私たちは記紀の光を浴びて立ち上がる——その瞬間だけは、確かに、美しい。

0 comments: