2026-02-08

鈴木茂雄【野間幸恵の一句】スピード

【野間幸恵の一句】
スピード

鈴木茂雄


草書体そのスピードでさくらする  野間幸恵

この句は、野間幸恵という稀有な言語感覚の持ち主が、桜という古来の季語を一度も季語として扱わず、まるで現代の筆致で書き直したような一枚の疾走する絵巻である。

まず「草書体」という言葉が、句のほとんどを占めている。 草書とは、本来、楷書や行書を崩し、連綿と筆を走らせて一気呵成に書く書体だ。そこには必然的に「速さ」と「勢い」と「制御ぎりぎりの危うさ」が宿る。作者はその書体の本質を、ただの比喩ではなく、現象そのものとして桜に重ねている。 桜は咲くのではない。「さくらする」――動詞化された桜は、もはや静的な花ではなく、行為そのもの、進行中の事件なのだ。

「そのスピードで」という接続が秀逸だ。草書体のスピードを指し示す「その」は、まるで目の前に草書の名蹟が展開しているかのように具体的で、読者を即座に共犯者にする。そして最後に「さくらする」。この「する」は、単なる擬人法を超えて、桜が自らのエネルギーを消費しながら疾走しているような、ほとんどエロティックなまでの自己燃焼感を帯びている。花びらが散るのではなく、花自体が筆となって空間を裂き、墨を振りまきながら消えていく――そんな倒錯した華やかさ。

一句全体が、まるで極薄の和紙の上を筆が滑る一瞬の軌跡のように、留まらず、止まらず、しかし確かに「そこにあった」ことを主張している。季語としての「さくら」は存在しない。にもかかわらず、春の最大速度で、最大の儚さで、最大の暴力性をもって「さくら」はここに顕現する。それはもう、桜というよりも、桜という速度そのものだ。

野間幸恵の言語感覚は、しばしば「日常のオブジェを異化する」方向に働くが、この句では逆に、もっとも抒情的な対象である桜を、書道の極限技法という最もドライで抽象的な概念に接続することで、異様なまでの鮮烈さを獲得している。結果として生まれたのは、散り際の美ではなく、散る前にすでに散りきっているような、超高速の「いま・ここ」の残像である。

一読して脳裏に焼きつくのは、墨の飛沫のような桜の、途方もない加速と、その瞬間の静寂だ。草書を書くとき、最後に筆を紙から離す刹那、墨がまだ宙に漂っているような、あの空白の残響を、この句は見事に十七音で再現している。

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