2026-04-26

九月 『恥ずかしい俳句展』に寄せて

 『恥ずかしい俳句展』に寄せて 

九月


「新京大俳句会」を名乗るSNSアカウントから寄稿の依頼が来たとき、最初に抱いたのは「ほんまか?」という疑いだった。 

無理もない。芸人活動の便宜、僕はSNSのダイレクトメッセージ機能を解放しているが、最近届くのは、もっぱら「株式ブロガー」を名乗り儲け話を斡旋する謎のアカウントばかりだ。それらのアカウントは、大抵の場合アイコンが妙にアンニュイな顔をした女性で、「アンニュイな顔した奴が金儲けするわけねえだろ」という一点の偏見において、詐欺だ詐欺だ詐欺めがと判断できた。あんな雑な誘惑に騙されるほど、僕の人生はヤワじゃない。 

しかし、今しがた届いたものは「新京大俳句会」と名乗り、アイコンも無骨にも京大のイメージカラーである青に「京大俳句」と書かれたものである。自分の中に、後輩達の役に立ちたいという奉仕精神に名を借りた、害悪先輩風根性があることは否定しがたい。十年も前に卒業した母校の文芸サークルからの依頼とあらば、僕はなけなしの生活費とわけありの雑所得を、えいやと振り込んでしまうかもしれない。僕とはそこまでヤワではないが、それなりにヤワなのだ。 偉ぶり感情につけ込まれ、騙されたと気付いたときには口座から金が消えており、消費者庁の遅々とした対応に堪忍袋の尾が切れ、一人自室で煩悶する自分の姿は、想像するだに恥ずかしい。依頼など受けまい、文章など書くまい、新京大俳句会からの依頼など信ずるものか、と数分思ったことをここに明記しておく。本当に騙されたと分かったとき、少しでも恥ずかしくないようにするためだ。 

人生というのは、さまざまな葛藤と煩悶、後悔、自己憐憫、悪質な開き直り、そういったものの連続だと信じる。なぜならば僕の人生がそうだからだ。誰の人生もそうに決まっている。もし葛藤や後悔や開き直りのない人生があるとしたら、それがよくよく見たら人生ではないというだけだ。 

そういった意味において、『恥ずかしい俳句展』には正しい人生がある。並んだ句には、人生が見える。情けなく、哀れで、寂しく、さもしく、浅ましく、ぬけぬけと開き直ってさえいる。いくつか気になった句にコメントをしておく。
 
漱石など読みたし八月の陽射し 

「漱石など」の「など」につきまとう自我も面白いし、「読みたし」に留まり、この日は漱石はおろか活字を読んでなさそうなのもよい。ある種の教養主義的な精神と、それを許さない夏の物理的暑さのアンバランスが見える。後ろで韻を踏んでいるのもまたよい。踏めるものは踏んだほうがいい。
 
三日月や愛などよりもニーチェ読む 

ニーチェは愛だし三日月な気がする。これは、ニーチェの本を手に取ってはいそうなところがいい。手に取って、もしかしたら文字を目で追ったかもしれないが、だからって特にわかってなさそうなのがいい。筆者はニーチェでそれをやったというが、僕はフロムでやった覚えがある。フロムこそ愛だろ。
 
ナンマイダー秋刀魚3×40枚おろし 

これは、読めない。読めないのがいいし、読めないのが致命的である。あとそんなにおろしたら食べづらい。みじん切りとかに近いのだろうか。絶対にそんな調理をしていないのもいい。なんなら、筆者は3枚おろしもやったことなさそう。俺はやったことない。どういうシステムで魚が3枚になるのかがわからない。切ったら2枚にならない? ところで、魚を切った後の単位が「枚」なの怖い。そんな無生物っぽくなっていいのか。 

恥ずかしい俳句と題された俳句を読むとき、読者には筆者の生活や背景がありありと見える。それが面白い。お笑いでいうところ、「初めて作ったネタ」「親には見せられないネ「老人ホームで信じられないぐらいスベったネタ」とか、恥の前置きを整えてから見るネタに特有の旨みがあるのと似ている。そういうネタには、立体化した文脈がフリとなって、楽しみやすいように作用する。

「恥ずかしい俳句」にも同様の力学が働いているといえるだろう。全ての過去はフリになってくれるのだ。 僕たちはそんなふうに過去の立体的な文脈を整備しながら、恥ずかしがりながら、痛みながら、時に開き直りながら、膝の砂をはらって生きていくしかない。その悲しみと喜びを体現しようとする、気持ちのよい企画展に一筆添える機会を頂けたことを、たいへん嬉しく思う。 

ところで、本当に詐欺ではないのか。僕はまだ疑っている。マイナンバーは要らんのか。必要なら送るぞ。5、7...。


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