振付としての俳句展ーパティオ北白川ルポよりー
前川友萌香
荒川修作+マドリン・ギンズによる「意味のメカニズム」というプロジェクトがある。絵画、ドローイング、建築模型など127点の作品群から成り、日常的に何気なく用いている「言語」に疑いを与え、観察者に「自分だったらどうするか」と問いを投げかけ、理解と実行を促す仕掛けだ。
今回、パティオ北白川ルポについての評を依頼された。しかし正直に言えば、私はこの展示を実際に訪れていない。そのため、展示期間中に行われた吟行句会がどのような雰囲気であったのかを知ることはできない。ただし、展示されたすべての作品が建築と絡み合い、純真な装置として成立していたことは、残された記録から十分に読み取ることができる。
私は踊りをしているが、ダンサーとして見ても建築と詩はきわめて相性がよいと感じている。振付が〈動かす装置〉であり、詩が〈発話させる装置〉だとするならば、建築は〈居させる装置〉だ。鑑賞者がそこに居て、発話することで、イマジネーションは急速に拡張する。そして、そこに実在する俳句を成立させるために、鑑賞者は壁に寄り、椅子に座る。そうして再び俳句を思い出し、意味が纏っていたイメージを跳躍させる。まさにこの展示は、1「意味のメカニズム」として成立していたのではないだろうか。
では、パティオ北白川ルポそのものを意味のメカニズムであると仮定し、もし私が鑑賞者として参加していたなら、身体はどのように動いただろうか。以下は、そのための思考のエクササイズであり、振付である。
梅雨を祝う椅子の回転を使って/佐藤智子『ぜんぶ残して湖へ』
ゆっくりと踵へ重心をかけていく。じっとりとした疲労感をすべて仙骨に集める。下腹部の奥が、いつもより重たい。椅子に座る。深く腰をかけたかと思えば、瞬時にその重たさから解放され、座り直す。ほんのわずかにお尻を持ち上げただけなのに、緩和は上半身へ、胸へと移動する。大きく息を吸い、吐いた瞬間、頭がスピンを始める。ハンマー投げだ。踵は少し床から離れる。___浮いたった(他力もイエス)
僕のほかに腐るものなく西日の部屋/福田若之『自生地』
向こうを見る。
壁がある。白い。
枠がある。大きい。
道がある。眼球が真下に移動する。じっくりとその先を見る。靴があった。どうやら一足ではない。四足だ。四足あるが、片方が見当たらない。玄関がある。白い。
(この間の私は地面に歩かされている。)
白い玄関は、たちまち大きくなる。後ずさる。ふと右目が少し細くなる。手は拳になる。呼ばれた気がして、左の顔から後ろを見る。車が一台、通り過ぎる。
壁倒立ただし雷春には弱い
踏ん張れ、血管!
筋肉が痙攣したら手のひらを右、左と地面に大きく打ち鳴らし、足を振り上げ宙を蹴る。ドキュンと血管が急速に流れ始めるのを感じる。足が地面に戻ってきたらザパッと両手を振り上げ「弱くない」と叫びおわりながら、肩を右左と上げ、再度右を上げるときに、真横に雷が堕ちる。尾っぽを踏まれた猫ごとくそこら中に怯え威嚇する。
次回があればぜひ参加したい。
【参照】
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