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2018-04-29

ハイク・フムフム・ハワイアン 6 自由律俳句のスピリット 小津夜景

・ハ 6
自由律俳句のスピリット

小津夜景


わたしとわたしのかげと椰子が実をつけてゐて涼しい 丸山素仁

荻原井泉水はハワイ訪問の翌年にあたる1938年『アメリカ通信』という旅行記を刊行しました。その中で彼は、南の楽園のすみずみにまで浸透するアメリカの経済的パワーに圧倒されつつ、平地はさることながら火山の上までドライブできてしまうハワイの開発状況を賞賛しています。

井泉水が訪れた頃のホノルルの様子がこちら。船上の雰囲気、島の遠景のあと、2分50秒あたりからホノルルの光景が続きます。



とても暮らしやすそうな雰囲気です。とはいえハワイにおける自由律俳句のメンバーは、都会人から構成される有季定型派のヒロ蕉雨会(当連載1および2を参照)とは対照的に、多くのプランテーション労働者から構成されていたことを決して忘れることはできません。ハワイの俳壇で最初に句集を出版した丸山素仁も、そんな労働者の一人でした。

丸山素仁はワヒアワというパイナップル・プランテーション地帯で農業に従事しつつ、ワヒアワ高原吟社や布哇俳句会で活動した俳人です。布哇毎日、日布時事、布哇タイムズで記者を務めた川添樫風の『移植樹の花開く:ハワイ日本人史実落ち葉籠』(1960年)に素仁にかんするこんな記述がありました。

素仁・丸山宗作翁…明治39年(1906)7月23日、一家再興のため、壮年30歳で來布、布哇 在住51年間。

私が日布時事の文芸欄を担当した頃、それは1929年頃と思うが、其頃ワヒアワに自由律俳句の、生れたばかりの高原吟社があった。

草の実の散る音を聞いたり、草の渋で手を黒く染めたりなど、じっと自然に親しむ土の俳人をその中に発見して、私はひそかに敬慕の念を禁じ得なかった。それが素仁翁であった。…

素仁翁は戦争直前『草と空』と云う布哇では最初の句集を出し、自由律俳人としては一家をなした。…

翁は昭和の初めの頃、同志と共に蕉葉会と云う定型俳句の結社を作っていたが、古屋翆渓氏の導きで自由律に入り、後には先生の翆渓を凌駕するに至ったことは、これは翆渓氏の述 懐。…

大ていの事は聞き流しにして草をとっている  
余生果樹を育て葉が散れば葉を掃いている
(川添樫風『移植樹の花開く』/島田法子氏の論文からの孫引き)

丸山素仁句集『草と空』が層雲社から刊行されたのは1941年のこと。装幀・題字・序は荻原井泉水。この本のあとがきには、1927年、素仁がホノルルの古屋翠渓とぐうぜん出会い「層雲」の俳句を熱く説かれたことで、自由律俳句が外国に暮らす日本移民の情緒によりフィットした方法であることを理解し、すぐさま自由律に転向したことが記されています。

俳句は、何よりも詩であることである。
俳句は、ただ俳句らしい形の一列の文字であるだけではいけない。
其内に生命、その表現にリズム、しらべを持たなければならない。
懇々と説き聞かされた。我々はその熱意に動かされた。無限の未来性のある自由律俳句、日本の外にある日本人である我々にぴったりとくる、この新しい俳句の道を、我々はまっしぐらに進んで行かうではないか。翠渓氏の説く層雲道に共鳴した我々は、即座に蕉葉会を「高原吟社」と改めて、層雲に入り、其後は井泉水先生、並に翠渓氏の指導によって句作を続けてきたのである。
(丸山素仁『草と空』あとがき/島田法子氏の論文からの孫引き)

で、素仁の作品ですが、こんな感じです。

ずうっと草が空へゆけば家があるという
椰子に風が吹いている土人の女たち
ここにも雨の降らない蔗畑の家が一軒
夢がにっぽんのことであって虫に啼かれる
蔗に蔗がのしかかっていて逢う人もいない
月を木蔭にして日本の戦争ニュースが聞えるころ
今日帰還兵があるという旗出して庭一ぱいに蕨 

ハワイの空気を深く呼吸する句群    まるで、五感という名の認識(理屈)へと体感を分割してしまう以前の、トポスを流れる霊気そのものを丸ごと呑みこんだかのような。

落ちるともなくペアーの実落て陽のうつりゆく石段

ペアーはハワイ語でアボカドのこと。

お迎え申して椰子の風に吹かるることする

井泉水をハワイに迎えた折の作。この句には南の島の風情と相まって、土地の霊気と調和しながら、なにか霊魂にまつわる儀式を営んでいる雰囲気の優美さがありますが、そうした効果を最大限に引き出している要因のひとつが自由律という方法にあるのは間違いなさそうです

飛行場の風見は海へ向いてみんなスタートする

遠い外国でプランテーションに従事する日々の苦労をうたいつつも、その苦しさや悲しみの頭上に明るい風がそよぎやまない。目に見える言葉の手ざわりはしなやかに揺れ、いっぽう見えない芯の部分はすっくと立っている。

こうした質の「屹立」は、ハワイの自然にそなわる圧倒的なオーラに由来するとも考えられますし、また素仁の(ひいてはハワイ移住者の)フロンティア・スピリッツに由来するとも考えられるでしょう。一句を成立させる類の「屹立」とは言葉のかたちよりむしろ精神のかたち、その逞しさや気高さなのだということを教えられるような気にもなります。


《参考資料》
「「日布時事」1932年10月9日号、1937年3月9日号、1940年9月9日号
島田法子「俳句と俳句結社にみるハワイ日本人移民の社会文化史1」
トイダ, エレナ ヒサコ「ヤシの葉蔭にて : ハワイにおける日本人移民の俳句」

2018-04-08

ハイク・フムフム・ハワイアン 5 続・荻原井泉水とハワイ 小津夜景

・ハ 5
続・荻原井泉水とハワイ

小津夜景



 風、葉の葉の夕風や椰子やカマニや   荻原井泉水

さて、1937年にハワイまでやって来てしまった荻原井泉水の滞在スケジュールを調べてみました。新聞で拾うことができたのは以下の情報です。

6月11日 ホノルル入港 各方面への挨拶
12日 布哇俳句会同人、新聞、雑誌、文芸愛好家主催の晩餐会、歓談会(於・春濤楼)
13日 昼・観光。夜・歓迎句会(於・ワイキキ「汐湯」)
14日 講演会「心と言葉」(於・フオート仏青会館)
16-17日 俳書展および即売会
18日 ハワイ島ヒロへ出発
19日 昼・ヒロ蕉雨会および大正寺俳研同人との顔合わせ。夜・講演会(於・シーサイド倶楽部)
20−22日   火山鑑賞・句会・俳書展(於・ヒロ)
23日 ホノルルに戻る
24日 鳳梨工場視察 俳句研究会
25日 一般文芸愛好家向け文芸講話(於・ペレタニア街商業組合事務所)
26日 布哇俳句会出席・同人作品選評(於・カイムキ見田宙夢氏宅)
27日 朝、耕地巡り 昼、句会(於・料亭「春日」) 夜、集会&晩餐会(於・井田東華市宅、丸山素仁主催)
29日 俳談会(於・モイリリ河重夏月氏宅)
7月1日 日布時事訪問、送別晩餐会
2日 出ホノルル港

これによると句会は最低4回、講演会も最低4回しています。それから即売会込みの俳書展が2都市。晩餐会が3回。おもてなし観光や移動にかかる時間をかんがえると、毎日忙しかったみたいですね。

ヒロ蕉雨会や、日系2世の若者に日本語の読み書きを継承するために活動していた大正寺俳研など、有季定型派の人たちとも有意義な交流をしたようで、ヒロに到着した翌日の新聞には「十七字型本格俳句大繁盛のヒロ市に自由律俳句の大先生井泉水氏にホノルル同派の闘将古屋、泰両雄随行として乗込んだ(反響如何生)」といった囃し記事が出ています。前回書いたように、井泉水はヒロ蕉雨会の早川鷗々が編纂した『布哇歳時記』に序文を寄せているといった意味で、そもそもハワイとの関係は有季定型派との出会いから始まっているんですよね。さらに早川鷗々は『層雲』にも創刊当初から投句していましたし、井泉水のヒロ訪問は長く待ち望まれていた出来事だったようです。

さて、13日ワイキキ「汐湯」における布哇俳句会の句会は21名が参加しています。冒頭の〈風、葉の葉の夕風や椰子やカマニや〉はその句会で井泉水が詠んだ句です。語のスタティックなポジションとキネティックなバランスとがいずれもよく練られ、安定したうねりのある書法を感じさせます。また27日の料亭「春日」における句会は17名、持ち寄り6句で行われました。この時の井泉水の句は〈海には雲の影、草に牛のゐる〉というもの。

以下、日布時事に2回にわたり掲載された句会の様子から、荻原井泉水選の句をいくつか紹介(実際の紙面はこちらこちら

銅像の影も夕べとなれば人通りも多くなる道   川端端月

苺の花、家が一軒また建ちました  同

ぱらッとまいた星が、椰子の木みずにうつつてゐる   木原晶

庭にいろいろの蝶が来る、縫(ぬひ)かけにしておく  秦幸子

椰子の木椰子の木と水平線が明けてくる  同

いちじくは枝に、夕風の米といで置きます   河重十九子

その他、選から漏れたもので、わたしの気に入った句も少し。

熱もとれたので昼時のペパーの木に風ある   古屋翠渓

ひるねの、わたしも眠れてガデュアのかほり   同

マンゴのまだ青い、下駄はいて湯から出てゐる  河重夏月

虹、みなとのそとにも船のゐる帆ばしら  同

見上げる崖の覇王樹の、そらふかし   北原晶

黍の穂、この女も日本から来て先生をしてゐる  同

飛行機の通る空へ大きなくしやみして朝  東海林隈畔

オハイの茂(しげり)をタロ田の夕風を豆腐買いにゆく  丸山素仁

蝶々、ふと日本のことが出てゐる  見田宙夢

野鳩、降つて鳴いて照つて鳴いて、くつきり山の緑  小川美佐子


《参考資料》
「日布時事」1937年6月11日-7月7日号

2018-03-18

ハイク・フムフム・ハワイアン 4 荻原井泉水とハワイ 小津夜景

・ハ 4
荻原井泉水とハワイ

小津夜景


 星が海までいつぱいな空には白いボート    荻原井泉水

ある一時期、ハワイに布哇俳句会(1926年発足)という名称の、荻原井泉水主催『層雲』に投稿していた人々によって運営される自由律俳句のグループがありました。

ちょっと驚いてしまうような話ですが、『層雲』の自由律俳句は、戦前のハワイ俳壇における二大潮流のひとつ(もうひとつはホトトギス主観派の室積徂春率いる「ゆく春」)なんです。『層雲』の名の由来である「自由の夏光耀の夏の近づき候際を以て出づる層雲」という一文に象徴されるように、この結社は「自由」と「自然」とをその主題にかかげ、単に自然を写生するのではなく内面の滲み出た詩となることを目指しており、これがハワイのおおらかな風土や移民の精神性にたいへんフィットしたらしいんですね。

井泉水という人はもともとハワイの俳句に興味があったようで、1913年、かの地で出版された『布哇歳時記』に序文を寄せ「ハワイ歳時記の成立によって、単なる祖国憧憬や慰めの俳句を脱し、真の芸術としての俳句が誕生した」〔註1〕ことを述べています。さらにハワイの同人を熱心に指導するばかりでなく、1937年6月11日には単身でハワイに上陸してしまいました。同日の日布時事による取材に「私は海外の旅行は今回が最初であり、満鮮支那方面へもまだ行つたことはありません」答えています。


記事に見える〈影、日蔽のはためくのも布哇が見えさうな〉は記者の求めに応じて、井泉水がハワイ行きの船上から打った俳句の電報を、後日鉛筆で書き直したもの。とても素敵な字です。

井泉水がどのような日程で、いかなる俳句伝道をしたのかについては次週に譲ることとして、今回は彼の体験した「憧れのハワイ航路」な気分を、片岡義男のエッセイから引用しておしまいにします。

荻原井泉水が昭和13年に『アメリカ通信』という本のなかで、次のように書いている。  
「潮はほんとうに南国のブリュウである。その波にちりばめられている日の光もすばらしく華やかだ。また、日の熱も非常に強くなったことが感じられる。船員たちも、けさから皆、白い服に着かえてしまった。日覆(ひおおい)に、強い風がハタハタと吹きわたっている。デッキの籐椅子がよくも風に飛んでしまわないと思うくらいだ。この椅子に腰をおろして飲むアイスウォーターがうまい」 

このとき荻原井泉水は大洋丸という船でホノルルにむかいつつあり、横浜を去ること2453マイルの地点にいた。アイスウォーターとは、水のなかに氷をうかべたものではなく、水を冷蔵庫で冷やしたものだ。ハワイの家庭では冷蔵庫にいつもこのアイスウォーターが入っていて、訪問するとまずこれを飲ませてくれる。荻原井泉水はこのアイスウォーターが「うまい」と言っているが、ほんとうに目まいがしそうなほどにうまい。片岡義男「秩父がチャイチャイブーだなんて、すごいじゃないか」


〔註1〕 島田法子「俳句と俳句結社にみるハワイ 日本人移民の社会文化史」『日本女子大学文学部紀要』第57号、55-75 頁、 2008年

《参考資料》
「日布時事」1937年6月11日号

2018-03-11

ハイク・フムフム・ハワイアン 3 俳句の電報、俳句の香木 小津夜景

・ハ 3
俳句の電報、俳句の香木

小津夜景


先日、日布時事でこんな短歌を目にしました。

 ヌアヌ風そよ吹くあたり君は今、碁かマージャンか午後三時なり  赤松祐之

オアフ島のヌアヌは、その昔、天上の神々の住処だった場所。またその森はハワイの王族達の愛した避暑地としても知られ、聖地カニアププにはカメハメハ3世の夏の離宮が今も残っています。

赤松祐之は元小説家志望のホノルル総領事。この歌はというと、日本に帰国する赤松氏がクィーン浅間丸のデッキ・チェアーに寝そべってホノルル生活を思い出していたところに、総領事館一同から無事の航海を祈る電報が届いたのだそう。で、それに返事すべく、万年筆をとりだしてスラスラと一同に宛てた短歌電報、とありました。

ああ、このむせかえるようなハワイの香り。内容はとても俗なのに、いやだからこそ、永遠に誰も死なない楽園を彷彿とさせる。思わず「いいなあ。俳句にもこういう甘い夢みたいのないかしら」と探してみましたら、こんな俳句電報を発見。

 たまたまに逢ふ兄弟や春の嶋  古屋静雅

古屋静雅はヒロ蕉雨会の同人。この句は特務艦神威に乗っていた静雅氏の義兄弟がハワイの港に寄港することになった折「顔が見たい」と氏に連絡をよこしたのを、どうしても外せない用事のあったために、洋上の神威に宛てた無電の文面らしいです。静雅氏曰く「俳句の究極点がこの平々凡々のところにある」とのこと。うむ。たしかに。

それにしても、短歌電報にせよ俳句電報にせよ〈逢いたい/逢えない〉というのが前提としてあるにもかかわらず、信じられないほどふわふわ。まるで郷愁がウクレレの音色に乗って漂っているみたい。あるいは心の目をひらいてハワイの風土を見つめ、その土地特有の実存様式に身をひたすと、おのずとこういった作品が醸されるのでしょうか。

ついでに書きますと、古屋静雅氏の家業はヒロのカメハメハ街にあった古屋美術店のようです。下は氏のお店の雰囲気を描いた文藝雑記より。

▲カメハメハ街古屋美術店の店頭  春の店頭にふさはしく、趣味豊かな布哇(ハワイ)香木の板が、数枚ぶら下げられてゐる。その中の一枚に、品川玉兎子が達筆を振つて『山茶花の垣に物干す小春かな』とある。
▲つかつかと入つて来た白婦人、火山の写真などには目も呉れず、これを下さいと俳句の香木を買い取つた。婦人はヒロ市公立学校々長エム・ビー・ブリュー夫人にて、これを英訳してくださいとの申し出。(「日布時事」1930年4月6日)

とても風流な光景です。四季のうつろいを愛で、心を遊ばせるのに、軒に吊るす香木はぴったりですね。無論その中には、先週紹介したキアヴェも混じっているのでしょう。他にもいくつか静雅の春の句を。

 父となりし君の噂や春の宵  古屋静雅

 訪ね来し村遥かなり花マンゴ  〃

 祭殿の昼の灯しや花マンゴ  〃


《参考資料》
「日布時事」1930年4月6日、13日、1930年8月17日

2018-03-04

ハイク・フムフム・ハワイアン 2 渓谷のハイキング 小津夜景

・ハ 2
渓谷のハイキング

小津夜景

 下船待つ甲板(デッキ)の上や月涼し  花雪

1930年8月の「日布時事」を眺めていたら「ヒロ蕉雨会の俳句行脚 幽渓の島馬哇へ」といった見出しの2ヶ月にわたる大特集を見つけました。

ヒロ蕉雨会は1903年頃ハワイ島ヒロにて創設された俳句結社。記事のサブタイトルには「夏は船に乗って」とあり、内容はこの会の俳人12名で「渓谷の島マウイ」に船旅行した時の寄せ書き紀行文です。


布哇の文壇に一大センセーションを巻き起したと、自任して居る、ヒロ蕉雨会のマウイ嶋俳句行脚紀行文は出発前の紳士協約に依って、各々の持場を定め、他を侵害せず、各自の個性を発揮した、名紀行文を発表する事は既報の通りであるが、遉(さすが)『俳聖』と呼ばれただけ、其の行動も俯仰天地に恥ざるものの如く、締め切り日迄には全文が集まつた(……)時代の尖端を走る迷文もあれば十八世紀時代の遺文もある事だけを披露して置く。

この俳句行脚のリーダーはどうやら強烈なリーダーシップを発揮する性格だったようで、あなたはこの町、おまえはあの町と、各人に吟行場所を指定したもよう。さらに、それとは別に『俳聖』全員によるハイキングまで敢行したらしく、イアオ渓谷に分け入って、その一番の見所である針山(イアオ・ニードル)を眺めながら川辺でバーベキューに興じています。

イアオ渓谷 (c)Mark Fickett
 針が峰仰げば霧のうごきけり  一星

イアオ谷の針山(ニードルポイント)!(……)僕等は三台の自動車の殿(しんがり)をつとめ、五分ばかり遅れて谷についたのであるが、その時は、先客の一部は川の辺で盛んに石を焼き、漬焼きの準備をしてゐた『俳聖』達は針山(ニードルポイント)の根を洗ふ清流の上に架けられた橋の上で盛んにパチリパチリとスナップだ。巧く撮れたかどうだか。

 伝え聞しイアオの谷の清水かな  玉兎

 写真機を置きて清水を掬ひけり  弦波

小菊の模様のある法被をつけた白人のレデーは、絵筆を洗ひながら、針山の写真に彩色してゐる。ヨセミテバリーに居るが政府の為に働いてゐる。そして此キモノは加州のオークランドで買つたなどと僕に話したっけ。

 渓流に絵筆洗ふや夏霞  夕鳥

「ヨセミテバリーに居るが」という一文は、作家マーク・トウェインがイアオ渓谷を指して「太平洋のヨセミテ」と賞賛したことに由来しています。


ひややかな山風は盛んに煙を靡かせてゐたが、はじめ僕は、一行の煙とばかり思つて居たが、その一部は救世軍の漬焼きでもあつた。吉岡大尉と久し振りで立話をした。肉の焼ける臭が盛んに鼻を衝いてゐたが、よほど間があつてから喰ひ方始めの号令が掛かつた。焼石の上に焼けただれる半焼けの肉を、グアバの棒の先で突き刺して食ふのであるが、その味のよさ、正に天下一品だ。連中の食べること食べること。

 肉を焼く谷の昼餉や夏の霧  紫洞

これといってなんの変哲もない砂浜も見にゆきます。ぞろぞろと。完全にツーリスト感覚です。

 ケアべ伐り拓く砂地や浜の風  紅流

 椰子道にキヤベ灯りや夏の浜  静雅

キアヴェは豆科の樹木。とても香りが良いため燻製材として使われ、また花が蜜をたっぷりと含んでいてハチミツもおいしい。Wikimediaを覗いてみると、ちょうどマウイ島のキアヴェの写真が。

マウイ島のキアヴェ (c)Forest & Kim Starr
これ、すごく写生したくなる木ですね。

あ、そういえば、ひとつ不思議な句があったのでした。下の句です。これ、いったいどこのことなのでしょう。気になります。もしかすると、マウイ島を知る人にはどうってことのない場所なのかもしれませんけれど、奇妙にファンタスティックで、この句こそが伝説の片言みたいだなと思いました。

 伝説のお米が浜や星光る  一星


《参考資料》
「日布時事」1930年8月10、17、24日号、9月28日号

2018-02-25

ハイク・フムフム・ハワイアン01 新年、マイナのなきごえより。 小津夜景

ハイク・フムフム・ハワイアン01
新年、マイナのなきごえより。

小津夜景


たまにハワイの俳句が気になる。その発端についてはこちらに書いたことがあるのだけれど、もっと直接的に、外国に住んでいるせいで季について考える機会が多いから、という理由も大きい。

ハワイの人々も同じようで、さっきたまたま『日布時事』1908年1月3日号をひらいてみたら、正月早々第一面で「俳諧阿ほう帳」と題し、日本に住んでいても各地の気候や習慣によって同じ句が良くみえたり悪くみえたりするのに、ハワイで詠むとなった日には、そりゃあうんぬん、などとパワフルに論じられていた。曰く、

更に一層面白いのは布哇(ハワイ)の俳句だ。観来れば奇想天外ともいふべき配合ばかりを捉へることが出来る。イヤこれが慥か自然だから仕方がない。此の面白い処にをつて、ヤレ季違ひの歳時記がどうのといふて、力めて自然を抹殺するものがあるのは何たる不了見だろう。そんな人は活気ある俳句などを学ぶよりも死んでしまつたがよい》(病明々「俳諧阿ほう帳」より。原文は句読点なし)

とのこと。ノリノリです。で、実際の活気ある俳句とやらを見てみると、

元朝の珊々(さんさん)と鳴る簾かな

銀盤に氷を盛らん屠蘇の酔

二タ処蚊遣を据へてかるたかな

年礼や浴衣さはめく市の様

おお、予想に反して浪漫的! 元朝の簾とは、なんと典雅な。いいですねえ。蚊遣りにかるたの配合も、いとをかしきかな、の妙感。浴衣で年礼をかわす様子は、うきうきとしあわせで、しかもちょっぴりせつない。そうそう、ハワイならではの正月の季語をつかったものといえば、

コーヒーの梢明るし初マイナ  西本貞子

初マイナ起きよ起きよと鳴き立てる  片野耕村

こんな句もある。マイナはハワイのどこにでもいる鳥で、きょろきょろ、と鳴く。なんというか、うーん、ハワイだけに文字どおり天国的ではないか。

正月の句だけでなく、大晦日の句も胸にしみる。

製糖の響動(どよめ)き止みぬ除夜の鐘  松花

ハワイの移民一世は、そのほとんどが砂糖プランテーションの労働者。彼らは蔗を刈り取り、筧(フルム)で流して製糖場(ミル)へ運搬し、工場内で圧搾する。

こういった句を読むと、人間の営みがかもしだす詩情は、とても美しく、そしてやはりせつないと思う。

梢にとまるマイナ (C) Bernard Gagnon

《参考資料》
「日布時事」1908年1月3日号
篠田左多江「『ハワイ歳時記』にみる文化変容 : (1)新年の季語について」,東京家政大学生活資料館紀要 2, 57-75, 1997-03
高木眞理子「俳句・ 短歌から見る日系移民の姿 (1930年〜 1960年) ハワイ島を中心に」,愛知学院大学文学部紀要 37, 1-15, 2007-09