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2018-04-08

ハイク・フムフム・ハワイアン 5 続・荻原井泉水とハワイ 小津夜景

・ハ 5
続・荻原井泉水とハワイ

小津夜景



 風、葉の葉の夕風や椰子やカマニや   荻原井泉水

さて、1937年にハワイまでやって来てしまった荻原井泉水の滞在スケジュールを調べてみました。新聞で拾うことができたのは以下の情報です。

6月11日 ホノルル入港 各方面への挨拶
12日 布哇俳句会同人、新聞、雑誌、文芸愛好家主催の晩餐会、歓談会(於・春濤楼)
13日 昼・観光。夜・歓迎句会(於・ワイキキ「汐湯」)
14日 講演会「心と言葉」(於・フオート仏青会館)
16-17日 俳書展および即売会
18日 ハワイ島ヒロへ出発
19日 昼・ヒロ蕉雨会および大正寺俳研同人との顔合わせ。夜・講演会(於・シーサイド倶楽部)
20−22日   火山鑑賞・句会・俳書展(於・ヒロ)
23日 ホノルルに戻る
24日 鳳梨工場視察 俳句研究会
25日 一般文芸愛好家向け文芸講話(於・ペレタニア街商業組合事務所)
26日 布哇俳句会出席・同人作品選評(於・カイムキ見田宙夢氏宅)
27日 朝、耕地巡り 昼、句会(於・料亭「春日」) 夜、集会&晩餐会(於・井田東華市宅、丸山素仁主催)
29日 俳談会(於・モイリリ河重夏月氏宅)
7月1日 日布時事訪問、送別晩餐会
2日 出ホノルル港

これによると句会は最低4回、講演会も最低4回しています。それから即売会込みの俳書展が2都市。晩餐会が3回。おもてなし観光や移動にかかる時間をかんがえると、毎日忙しかったみたいですね。

ヒロ蕉雨会や、日系2世の若者に日本語の読み書きを継承するために活動していた大正寺俳研など、有季定型派の人たちとも有意義な交流をしたようで、ヒロに到着した翌日の新聞には「十七字型本格俳句大繁盛のヒロ市に自由律俳句の大先生井泉水氏にホノルル同派の闘将古屋、泰両雄随行として乗込んだ(反響如何生)」といった囃し記事が出ています。前回書いたように、井泉水はヒロ蕉雨会の早川鷗々が編纂した『布哇歳時記』に序文を寄せているといった意味で、そもそもハワイとの関係は有季定型派との出会いから始まっているんですよね。さらに早川鷗々は『層雲』にも創刊当初から投句していましたし、井泉水のヒロ訪問は長く待ち望まれていた出来事だったようです。

さて、13日ワイキキ「汐湯」における布哇俳句会の句会は21名が参加しています。冒頭の〈風、葉の葉の夕風や椰子やカマニや〉はその句会で井泉水が詠んだ句です。語のスタティックなポジションとキネティックなバランスとがいずれもよく練られ、安定したうねりのある書法を感じさせます。また27日の料亭「春日」における句会は17名、持ち寄り6句で行われました。この時の井泉水の句は〈海には雲の影、草に牛のゐる〉というもの。

以下、日布時事に2回にわたり掲載された句会の様子から、荻原井泉水選の句をいくつか紹介(実際の紙面はこちらこちら

銅像の影も夕べとなれば人通りも多くなる道   川端端月

苺の花、家が一軒また建ちました  同

ぱらッとまいた星が、椰子の木みずにうつつてゐる   木原晶

庭にいろいろの蝶が来る、縫(ぬひ)かけにしておく  秦幸子

椰子の木椰子の木と水平線が明けてくる  同

いちじくは枝に、夕風の米といで置きます   河重十九子

その他、選から漏れたもので、わたしの気に入った句も少し。

熱もとれたので昼時のペパーの木に風ある   古屋翠渓

ひるねの、わたしも眠れてガデュアのかほり   同

マンゴのまだ青い、下駄はいて湯から出てゐる  河重夏月

虹、みなとのそとにも船のゐる帆ばしら  同

見上げる崖の覇王樹の、そらふかし   北原晶

黍の穂、この女も日本から来て先生をしてゐる  同

飛行機の通る空へ大きなくしやみして朝  東海林隈畔

オハイの茂(しげり)をタロ田の夕風を豆腐買いにゆく  丸山素仁

蝶々、ふと日本のことが出てゐる  見田宙夢

野鳩、降つて鳴いて照つて鳴いて、くつきり山の緑  小川美佐子


《参考資料》
「日布時事」1937年6月11日-7月7日号

2018-03-18

ハイク・フムフム・ハワイアン 4 荻原井泉水とハワイ 小津夜景

・ハ 4
荻原井泉水とハワイ

小津夜景


 星が海までいつぱいな空には白いボート    荻原井泉水

ある一時期、ハワイに布哇俳句会(1926年発足)という名称の、荻原井泉水主催『層雲』に投稿していた人々によって運営される自由律俳句のグループがありました。

ちょっと驚いてしまうような話ですが、『層雲』の自由律俳句は、戦前のハワイ俳壇における二大潮流のひとつ(もうひとつはホトトギス主観派の室積徂春率いる「ゆく春」)なんです。『層雲』の名の由来である「自由の夏光耀の夏の近づき候際を以て出づる層雲」という一文に象徴されるように、この結社は「自由」と「自然」とをその主題にかかげ、単に自然を写生するのではなく内面の滲み出た詩となることを目指しており、これがハワイのおおらかな風土や移民の精神性にたいへんフィットしたらしいんですね。

井泉水という人はもともとハワイの俳句に興味があったようで、1913年、かの地で出版された『布哇歳時記』に序文を寄せ「ハワイ歳時記の成立によって、単なる祖国憧憬や慰めの俳句を脱し、真の芸術としての俳句が誕生した」〔註1〕ことを述べています。さらにハワイの同人を熱心に指導するばかりでなく、1937年6月11日には単身でハワイに上陸してしまいました。同日の日布時事による取材に「私は海外の旅行は今回が最初であり、満鮮支那方面へもまだ行つたことはありません」答えています。


記事に見える〈影、日蔽のはためくのも布哇が見えさうな〉は記者の求めに応じて、井泉水がハワイ行きの船上から打った俳句の電報を、後日鉛筆で書き直したもの。とても素敵な字です。

井泉水がどのような日程で、いかなる俳句伝道をしたのかについては次週に譲ることとして、今回は彼の体験した「憧れのハワイ航路」な気分を、片岡義男のエッセイから引用しておしまいにします。

荻原井泉水が昭和13年に『アメリカ通信』という本のなかで、次のように書いている。  
「潮はほんとうに南国のブリュウである。その波にちりばめられている日の光もすばらしく華やかだ。また、日の熱も非常に強くなったことが感じられる。船員たちも、けさから皆、白い服に着かえてしまった。日覆(ひおおい)に、強い風がハタハタと吹きわたっている。デッキの籐椅子がよくも風に飛んでしまわないと思うくらいだ。この椅子に腰をおろして飲むアイスウォーターがうまい」 

このとき荻原井泉水は大洋丸という船でホノルルにむかいつつあり、横浜を去ること2453マイルの地点にいた。アイスウォーターとは、水のなかに氷をうかべたものではなく、水を冷蔵庫で冷やしたものだ。ハワイの家庭では冷蔵庫にいつもこのアイスウォーターが入っていて、訪問するとまずこれを飲ませてくれる。荻原井泉水はこのアイスウォーターが「うまい」と言っているが、ほんとうに目まいがしそうなほどにうまい。片岡義男「秩父がチャイチャイブーだなんて、すごいじゃないか」


〔註1〕 島田法子「俳句と俳句結社にみるハワイ 日本人移民の社会文化史」『日本女子大学文学部紀要』第57号、55-75 頁、 2008年

《参考資料》
「日布時事」1937年6月11日号

2016-09-04

自由律俳句を読む148  「荻原井泉水」を読む〔3〕 畠働猫

自由律俳句を読む 148
荻原井泉水」を読む3

畠 働猫

今回は荻原井泉水の後年の句を鑑賞する。
これまで取り上げてきた句と比べて、句風に変化があることがわかる。
より自由なリズムを求めた結果であろうか、長律の句が多く見られる。



▽句集『長流』(昭和39)より【昭和21年~昭和35年】
ひでりばたけの火のようなトマトのみずみずしさよ 荻原井泉水
トマトの赤の鮮烈さが中心である。
戦後の暗さの中、赤く実るトマトが「光」であり、生命の「力」そのものに感じられたのだろう。
しかし「火のような」「みずみずしさ」と二つも説明を入れてしまっているのは語り過ぎのように思う。



水の中からもふる雪の水にふる 荻原井泉水
静かな水面に雪の降る様子が映っている景である。
幻想的な景の発見である。
しかし最後の「水にふる」は説明的過ぎるか。



黒い鵜の嘴(はし)に光る白い鮎が闇の中 荻原井泉水
鮎の艶めかしく光る体がこの句の中心の「光」である。
同時に、鵜の黒と鮎の白の対比も詠んでいる。
しかしその対比を確実に伝えたかったためか、「黒い」「白い」を言ってしまっているところが余分に思う。



れいろうと湯のわが一物(いちもつ)も、山の秋を見る 荻原井泉水
井泉水門下は一物句を詠まねばならないのだ。
一物は陽物であり、「光」と「力」そのものなのだろう。



きさまおれというきさまがおれのへちまをほめる 荻原井泉水
上の句からの連想で、「へちま」が一物のことのように見えて仕方がない。
仲良しで一緒に温泉かな。
ひらがな表記は童心への回帰を表しているのだろう。



走つてぬれてきて好い雨だという 荻原井泉水
良い句である。
この句での「光」は、会いに来てくれた人の笑顔であろう。
直接それを詠みこんではいないが、情景は容易に浮かぶ。
上に挙げた句群が説明過多であったのに対し、この句ではむしろ省略された部分に「光」がある。



月くもるとき石と石と寄り添う 荻原井泉水
「石」は墓石であろうか。
月が曇ることによってその輪郭があいまいになっていった様子だろう。
この句もまた「光」を直接詠んではいない。
しかしその不在を詠むことでかえってその存在を強調していると言える。



▽句集『大江』(昭和46)より【昭和36年~昭和45年】
蝶が蝶の影もつてとんでいるきよう 荻原井泉水
当たり前のことを言っているだけである。
しかし、『長流』から取り上げた句が説明過多であったのに対し、この句では余剰な語が逆に効果的である。
「蝶が蝶の影」とは、「あるがまま」であることを言うのであろう。
この境地は次の句にも見ることができる。



仏として石のほほえみ 荻原井泉水
石仏を前に詠んだ句であろう。
しかし、そこにあるのは石を石として見る現実的な目である。
仏として彫られた像も、彫った者の思いも、信仰もその眼を曇らせることはない。
石は石であり、石として微笑んでいる。
詩情を突き詰めたところに生じた現実主義的視点。
これが井泉水の辿り着いた一つの境地と言えるのではないだろうか。



▽句集『四海』(昭和51)より【昭和46年~昭和51年】
ほたる飛ぶ水は暗いほうへ流れる 荻原井泉水
「光」は言うまでもなく「ほたる」である。
しかし詠者の視線は「暗いほう」へ向いている。
「自然」と「人生」の光と力を追い求めながら、その対極に目が向き始めたのだろうか。
晩年の句である。



残る花はあろうかと見にいでて残る花のさかり 荻原井泉水
これも「残る花」の重複が効果的である。
「残る花のさかり」とは、「今・ここ」における美の発見であろう。
「残る花はあろうか」と、せめて散っていない花がないものかという期待を持ちながら外に出たのだ。しかし現実は期待とは無関係であった。「今・ここ」にある花は、「今・ここ」における美を湛えている。
これはまさに末期の眼ではないか。
対象を対象そのものとして見る現実主義的視点がさらに昇華し、対象の「今・ここ」こそがあるがままに美しいという境地である。
ここにおいて「光」も「力」も殊更に強調されるべきものではなくなり、それらは自然を自然のままに詠むことですでにしてそこに在るはずのものである。
したがって、この句における「残る花」は前と後で大きくその意味が異なるのだ。
末期の眼が開眼したそのときをとらえた句であると言える。



美し骨壺 牡丹化(かわ)られている 荻原井泉水
「絶句」となった句である。末期の眼には自分が収められるべき骨壺もこの上なく美しく見えたことだろう。
いずれその中に収まる身には、それは世界であり、宇宙そのものとも言える。



*     *     *



今回の句評にも表れているように、『長流』の頃の句について私はあまり評価できない。冗長で説明過多であるからだ。
前回までに挙げた井泉水の句には激しさがあった。
「わからないなら殺す」とでも言いたげな修羅の顔が見えていた。
それが説明過多の句になっていった背景には、受け手に対する不信感があるように思う。
受け手がわかるように、噛んで含めるように説明することで、句は切れ味を失ってしまっているのだ。鵜と鮎の句などはまさにそうである。
これは表現者には共通のジレンマと言っていいだろう。
「わかる」ように、「わかりやすく」することによって、表現の切れ味は鈍り、あるいは本質から遠退いてしまう。
しかしおそらくは、「AはAである」「AはAでしかない」という現実主義的な視点に立つことによって、井泉水はそのジレンマから脱したのだ。
「石仏」は石に仏を刻むことで、わかりやすくした信仰の道具であると言える。
しかし「石」を「石」のままに見ることで見えてくる「本質」がある。
それこそが「光」であり「力」であったのだ。
井泉水の句が古びないのは、そうした本質に至っているからであろう。
その後を生きる我々は、早くその境地に至り、そして越えてゆかなくてはならない。



次回は、「中塚一碧楼」を読む〔1〕。

※句の表記については『鑑賞現代俳句全集 第三巻 自由律俳句の世界(立風書房,1980)』によった。


2013-12-08

自由律俳句を読む 22 荻原井泉水 〔2〕 馬場古戸暢

自由律俳句を読む 22
荻原井泉水 〔2〕

馬場古戸暢


前回に引き続き、荻原井泉水句の鑑賞を行う。

石のしたしさよしぐれけり  荻原井泉水

「したしさよ」の主観ぶりが面白い句か。山頭火の「しぐるるやしぐるる山へ歩み入る」の句と比べれば、井泉水の落ち着いた(?)暮らしぶりが描かれているようにも思える。

わらやふるゆきつもる  同

冬のあり方をそのまま詠んだ、韻律が心地よい句。時代を感じてしまう私は、実は「わらや」の現物を満足に見たことがない。

棹さして月のただ中  同

尾崎放哉もそうだが、井泉水にも月を詠んだものによく知られる句が多い。先に紹介した「空あゆむ」と並んで、この句も井泉水の代表句といえるだろう。

湯女もてすりに、あれは蝦夷へゆく船  同

蝦夷へゆく船を、湯女とてすりにもたれながら見送っているのだろう。個人的には、句の中に句読点があるものをあまり好まないが、掲句では読点が効いているように思う。

誰とて黙ってただただ雪降る世相か  同

当時がどのような時代だったかは、その時代を生きた人にしかわからないとも、後代の人にしかわからないとも言える。井泉水はどのようにして、その時代を想っていたのだろうか。


※掲句は伊藤完吾「荻原井泉水」(『自由律句のひろば』創刊号/2013年)より。

2013-12-01

自由律俳句を読む 21 荻原井泉水 〔1〕 馬場古戸暢

自由律俳句を読む 21
荻原井泉水 〔1〕

馬場古戸暢


荻原井泉水(おぎわらせいせんすい、1884-1976)が河東碧梧桐とともに『層雲』を創刊したのは、1911年のことであった。そこでは、「俳壇最近の傾向を論ず」など、さまざまな俳論を掲載した。碧梧桐が『層雲』を離れて後は、『層雲』は井泉水の主宰誌となった。井泉水による、碧梧桐に端を発する新傾向俳句の批判、検証を通して、自由律俳句はまた更新されて行く。

力一ぱいに泣く児と啼く鶏との朝  荻原井泉水

私自身、鶏がそばにいない人生を歩んできたためか、ドラマの中の一シーンを見ているかのような感じさえする。昔の農村の風景とは、このようなものだったのだろうか。

たんぽぽたんぽぽ砂浜に春が目を開く  同

たんぽぽが砂浜で咲き始めた様を、「春が目を開く」とした句だろうか。子供の頃、砂浜に生えているたんぽぽに腑に落ちないものを感じていたことを思い出した。何故か「たんぽぽと砂浜の組み合わせは変だ」と感じていたのである。

空をあゆむ朗朗と月ひとり  同

井泉水の代表句のひとつ。「月の舟」の歌を思い出す。最後の「ひとり」は、月のことと同時に、そんな月を眺める自身のことをも指しているように思う。

湯呑久しくこわさずに持ち四十となる  同

この湯呑との付き合いがどのくらいに及んだのか気になる句。しかし、四十にしてこのことに不意に気付いたとすれば、湯呑を一層愛しく想えそうだ。

ただに水のうまさを云う最期なるか  同

残される人にとって、先に逝く人の最期は非常に重要な出来事である。明るいことを云ってくれたならば、救われることだろう。


※掲句は伊藤完吾「荻原井泉水」(『自由律句のひろば』創刊号/2013年)より。