馬場古戸暢 一日
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毎週日曜日更新のウェブマガジン。
俳句にまつわる諸々の事柄。
photo by Tenki SAIBARA
一日 馬場古戸暢
朝の音いやだな起きる音
髭剃りへ風来る窓だ
吊れない首が汗かく
さかむけを食む女の睫を見つめていた
珈琲薫るさぼる南天
降り始めた空へ口開けてやる
爪のかたちにずれがある定刻
アイス買うて帰る夏夜猫
褥濡らした夕立だったか
シュラフで寝入る台所の軋む音
●
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自由律俳句を読む 100
矢野錆助〔2〕
馬場古戸暢
前回に引き続き、矢野錆助句を鑑賞する。
浅い眠りに氷の溶ける音 矢野錆助
薪がぽきんと折れる音で目が覚めるシーンを以前に映画で見たが、この句もそのような状況を詠んだものだろう。夏の昼下がりの気だるさを詠んだものと見た。
捕えたバッタ五本足 同
意外と足なしでも生きていけることに気づいた子供の時分、自身の足の切断を親に頼んで困らせたことがある。申し訳ない子供だった。
暗闇の水溜りにはまる 同
そのまますぎるためか、そのままに景が浮かんでくる。そこに面白みを感じる。
棚田山影に沈む 同
棚田の景色は、とにかく美しい。夕焼時であれば、掲句のようになおさらなのである。
誰ぞの軍手に霜の降る 同
よい景。こうした音のない句は、静かで時間がある時にゆっくりと味わいたいものである。
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自由律俳句を読む 99
矢野錆助〔1〕
馬場古戸暢
矢野錆助(やのさびすけ、1975-)は、随句誌『草原』編集同人。以下では、自由律俳句誌『蘭鋳』(雲庵、2014)より数句を選んで鑑賞したい。
俯いて小便の泡 矢野錆助
男性ならではの句。最近では便器が汚れるのを防ぐために、座ってする人も多いとか。時代はこうして変わって行くのである。
今日も居ったな守宮 同
この守宮と会えなくなる日が、いつかどうしてもやってくるのだろう。その時にはじめて、これまでの日常が幸せだったと気づくのだろう。たぶん。
オケラ鳴く夜の借金の話 同
オケラが鳴くということを、この句ではじめて知った。作者は借金をした側か、金を貸した側か。いずれもどうにもいやな夜だ。
観音様の前で蚊をうつ 同
蚊をうつ句は多くあろうし、蚊あるいは蝿と仏様を詠んだ句も散見されよう。しかし掲題の句のシンプルさは、どうしても採りたくなってしまう。
舌絡み合って熱帯夜 同
視覚と聴覚、嗅覚、臭覚、触覚、そして味覚にまで、影響を及ぼしてしまう一句。
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自由律俳句を読む 98
青木此君桜〔2〕
馬場古戸暢
一と足うしろへ牛がうごいた 青木此君桜
音のない、静かな句。以前にも書いたが、牛が日常にいる生活への憧れを未だ捨てられないでいる。
顔ぼうぼうとあつくわらをたく 同
焚き火の句をいつか詠みたい詠みたいと思いながら、ついに詠んでない。焚き火をしたことがもう数十年単位でないからである。現代っ子なのである。
ここにひかりあつめているほうせんか 同
ひらがながかもし出す柔らかさが、よく出ている句。
小蟹の一番ちつこいのをかわいがる 同
この露骨なまでの分け方を区別と呼ぶか差別と呼ぶかで、呼ぶ人の能力が問われる。ちつこいのは仕方ないなあと思う。
一と鉢の黄菊 同
五四の韻律が、記憶に残りやすい。足らない感じも含めて、短くてよいと思う。
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自由律俳句を読む 97
青木此君桜〔1〕
馬場古戸暢
青木此君桜(あおきしくんろう、1887-1968)は、福井出身の自由律俳人。層雲へ入るも、俳句は短律でなければならぬと主張し、層雲を離れて「新俳句」を主宰した。以下では数句を選び、鑑賞したい。
草におればあたたかくうしろ通つていく 青木此君桜
川沿いの土手に寝転んでいると、その後ろを人か牛か何かが通っていった様を詠んだものだろう。草原に寝転ぶという行動に憧れがあるが、実際に自分でしてみると、手持ち無沙汰ですぐに起き上がりたくなる。
つくろうて着るとて春がくる 同
五四五の韻律が、春らしい様子をよく描いているように感じる。あるいは、九三二で読んでもおもしろい。
牛のいかりに正しく牛の綱がある 同
綱は、脱走防止用ではなく、実はいかり用だったのであろう。実に正しい。
咲くとしつぼみべにさしている 同
鏡台の前で口紅をぬっている女性が、まずもって浮かんでくる。べにはとにかく色っぽいのである。
今以て座右にあつて一個の石塊 同
ここでの座右は、文字通り座っているところの右側のことだろう。どうでもよい石の塊を川辺からひろってきて幾十年、捨てるにもはや捨てれまい。
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自由律俳句を読む 96
さはらこあめ〔2〕
馬場古戸暢
前回に引き続き、さはらこあめ句を鑑賞する。
やさしくされました電線に這う月 さはらこあめ
電線を地中に埋める計画があったように思うが、未だ実行されていない。月はいつまでも、日本のここかしこで電線に這い続けるほかない。
太股の間から月を見た 同
女性ならではの句。カーテンを開けているのがよい。
風の名を春と呼びたくなる歩道 同
夏や秋、冬とは呼びたくならないのかと考えたが、やっぱり春だなと思うにいたった。楽しい一日となりそうである。
男に雪が降る静か 同
こうした男はダンディでなければならないと、常日頃より考えている。果たして彼はどうだったか。
どこまでが空なのか燕は行った 同
空の範囲については、定義がなされていたように思う。燕はそうした定義を破壊して飛んでいったのか。
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自由律俳句を読む 95
さはらこあめ〔1〕
馬場古戸暢
さはらこあめ(1973-)は、結社未所属の自由律俳人。以下では、自由律俳句誌『蘭鋳』(雲庵、2014)より数句を選んで鑑賞したい。
だれかたすけてにんげんにうまれた さはらこあめ
にんげんにうまれた以上、もろもろの苦悩から逃れることはできない。事態を認識できないにんげん以外の何かにうまれた方が、楽な気はする。
母を憎んで同じ顔になっていた 同
遺伝子の強さ。後天的な影響もあるのだろうか。
嘔吐する母の背骨の蝉時雨 同
夏の暑い盛りに嘔吐する母に寄り添う。疲労がこちらまで伝わってきそうである。
あついあつい骨を手に取る 同
箸を使わずに直に手に取った。誰か特別な思い入れがある人が焼かれたのかもしれない。
母のふくらみに眠る 同
今夜も母のふくらみが呼吸しているのを確認してから、布団の中に潜る。そうした
静かな日常もまた、心地よいものである。
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自由律俳句を読む 94
高沢坡柳〔2〕
馬場古戸暢
前回に引き続き、高沢坡柳句を鑑賞する。
果せぬ思いあり石女着飾りて鳳仙花 高沢坡柳
石女という単語を未だ日常生活できいたことがないが、昔は普通に用いていたのかどうか気になっている。彼女たちにもいろいろな苦悩があったことだろうか。
藤の花落ちる岩水溜りに春のこり 同
藤の花の美しさに、春の残りを見出した句。こうした写生句は、今後も詠まれて行ってほしい。
姉とし妹として鬼灯色づき上る 同
鬼灯を少女が持ってどこかへ行く風習があったような記憶があるが、仔細を覚えていない。そうした風習を詠んだものか。ご存知の方がいらっしゃれば、ご教授のほどよろしくお願いいたします。
朝顔種はじけ蔓ばかり抗の乾割れ 同
朝顔を思い出せば、およそ掲句のような景が自然と浮かんでくる。朝顔の様子は、百年前も今もさほど変わっていないのだろう。
鳰は吾が水とおもう雲映り 同
この句を読むまで、カイツブリという名前を知らなかった。画像を見てみると、確かにどこかで遭遇したことがあるような鳥であった。牧歌的な景である。
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自由律俳句を読む 93
高沢坡柳〔1〕
馬場古戸暢
高沢坡柳(たかざわはりゅう、1886-1976)は、岐阜生まれの自由律俳人。塩谷鵜平の門をたたいて後、碧梧桐第二次全国行脚の鵜平庵俳三昧に参座。高島寂三らと「俳藪」を再興した。以下では数句を選び、鑑賞したい。
ゆく春の家深く竈あり女の顔白く 高沢坡柳
まだ寒さが残る季節の、古い家の様子を詠んだものだろう。この女は病がちな気がするが、いかがだったか。
腑におちぬ顔のほぐれた髪につく風花 同
若い女性の「腑におちぬ顔」は、とにかくかわいい。さらにほぐれた髪と風花があれば、もはや言うことはあるまい。
行く秋のこれからの道を石にたずねる 同
この場合の道とは、人生そのもののことか。石に何かをたずねる人は多くあったが、そうした景が詠まれるようになったのはいつごろだろうか。
干柿の甘くなる里へ山越えるこのみち 同
ここでの里は、自身の故郷のことのように思われる。もうすぐ干柿が甘くなる季節。楽しみな帰省となった。
枇杷の花客ありて陶の白さを拭く皿 同
枇杷の花と陶磁皿の白さが浮かび上がってくる句。夕闇の中で、こうした白さを拭いていたい。
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自由律俳句を読む 92
ロケっ子〔2〕
馬場古戸暢
前回に引き続きロケっ子句を鑑賞する。
僕のためじゃないポニーテールが宙を舞う ロケっ子
作者はやはり、男性か。女性がポニーテールを詠むことはないのではないか。なお最近では、ポニーテールではなく何か別の名称を用いると以前に聞いたが、忘れた。
妹のくちびるに春がきた 同
妹のくちびるに春を感じたのだろう。ついに妹も、恋に落ちる齢となったか。
あのとき助けた蜘蛛はどうした 同
たまに気になることがある。この前、いつか助けた蜘蛛の死体を発見した。天寿をまっとうできたと信じたい。
雲が動いた私は残った 同
雲が動いたのか、私が動いたのか。地球の自転を含めて考えると、どっちなのかわからなくなるときがある。
生まれただけでよかったはずの子を叱る 同
叱ることすらできない親のもとに生まれてこなくて、この子も幸せである。いい子に育て。
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自由律俳句を読む 91
ロケっ子〔1〕
馬場古戸暢
ロケっ子は、インターネット上で活動している自由律俳人。2011年頃より、インターネット上で展開される定型俳句や自由律俳句の句会へ参加するようになった。「千本ノック」という自由律俳句のネット句会を主催している。以下では数句を選んで、鑑賞したい。
まだ泳いでいたかったか喉の骨 ロケっ子
子供のころ、こうした骨が怖くて魚を食べることが億劫であった。最近になってようやく、克服しつつある。
くたびれた花輪が客を待っている 同
ずっと出しっぱなしだったのだろう。しかしどうにも、客の入りが悪そうだ。
夢で私が泣いていたという 同
誰の夢か。私かあなたか、第三者か。夢の私が笑顔になることを。
ひと雨ごとにひとごとになる 同
ひとごとになるといっても、そこには段階があるのだろう。少しずつ、過去はひとごとに変わって行く。それでよいと思う。
妻という名の猫かもしれない 同
てっきり作者は女性だと思っていたが、猫を妻にもつ男性かもしれない。「鍵っ子」も男の子だったりするし。
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自由律俳句を読む 90
浅野麗木
馬場古戸暢
浅野麗木(あさのれいぼく、1888-1962)は、東京出身の自由律俳人。新劇俳優を志し、後に劇場の支配人となった。専門学校時代に上級にいた飯田蛇笏の影響もあって定型俳句をはじめたが、一碧楼に師事して『海紅』に参加。その後、『青い地球』によった。以下では数句を選んで鑑賞したい。
少し風邪気味の女体に触れんとす 浅野麗木
少し風邪気味なのは、麗木か女か、両方か。いずれの場合で読んでも、非常に美しい景が広がる。いざいかん。
誰かいたづらのぎんねこやなぎぞ白きうなぎぞ 同
不勉強なためか、よくわからない。ぎんねこは、私娼のことか。いたづらとは、やなぎとは、白きうなぎとは。ただ、雰囲気が綺麗だと思ったので取り上げた。
菜の花さき貧しきこども目刺のごとく並びいる 同
「目刺のごとく」の直喩が、子だくさんの時代をよく表している。このこどもたちが現代の私たちにつながっていることが、嬉しくてならない。
逃げる蛇ころしたをとこ夜の愛撫やさしく 同
この「をとこ」は自身のことか、誰かのことか。少なくとも、殺生と愛撫は同時に存在することができるのである。
まひるさみしおたまじやくしのほか見るものなし 同
「おたまじやくし」を自然の中で見た記憶がない私には、こうしたまひるをむしろ羨ましく思う。しかし水とか田とか山とか川とか、見るものはなかったのか。
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自由律俳句を読む 89
岡田平安堂
馬場古戸暢
岡田平安堂(おかだへいあんどう、1886-1960)は、京都出身の自由律俳人。生涯を筆商として過ごし、喜谷六花や小沢碧童らと竜眠会の運営に努めるとともに、『海紅』や『海紅同人句録』の創刊に尽力した。以下では数句を選んで鑑賞したい。
つかれたる帯ときたり蚊帳せまし 岡田平安堂
平安堂自身の様子を詠んだものと考えてもいいし、他の女性の様子を詠んだものと考えてもよい。後者であれば、「蚊帳せまし」が艶やかに生きてくる。
童女のまなざし神あり冬の海あり 同
「冬の海あり」の取って付けた感が、またよいように思う。童女のまなざしに、神とまではいかずとも、たまに畏怖を覚えることはわかる。
此道冬木の道行く一碧楼黒いマント 同
一碧楼の様子をそのまま詠んだ句があるとは、知らなかった。やはり、冬と一碧楼は離しがたいのか。
少し銭もち深川のあたりことに木場の浅春 同
浅春の深川を、のんびりと散策しているところを詠んだものだろう。説明文的な箇所が、この季節の冗長な感じを描き出しているように思う。
わたしたつてゐる木々づうとたつてゐる冬来る 同
寒くはないのかと余計な心配をしたくなるが、ここで寒がっていては句にならない。木々と一緒に冬の到来を感じていたい。
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自由律俳句を読む 88
高木架京〔2〕
馬場古戸暢
前回に引き続き、高木架京句を鑑賞する。
砂の足が海の深さを知りたがる 高木架京
海の中で砂に沈み込む足を見ていると、何やら楽しい気分になる。この鑑賞文を書いている現在、季節は冬の真っ盛りだが、夏には久しぶりに遠浅の海で走ってみたい。
秋がつまらない魚の顏で出てくる 同
魚たちにどれほどつまらないという感情があるのか知らないが、確かに秋にはそんな顔をしていそうに思う。秋はそういう季節なのである。
グラスの中で氷の女消します 同
自身が映っていたグラスの中の氷を噛み砕こうとしているところか。夏らしい。
風鈴が黙って夜の詩になる 同
無音の夏の夜が、詩を詠みだしたところか。風鈴が揺れない夜も、楽しいものなのだろう。
鳥になるはずの雲が崩れる 同
惜しかった。結構な時間が詠みこまれているように感じる。
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自由律俳句を読む 87
高木架京〔1〕
馬場古戸暢
高木架京(たかぎかきょう、1952-)は、福岡を拠点に活動している自由律俳人。1996年に、重富架光が率いる『新墾』に合流して以降、『層雲』へも加入するなど、活動の幅を広げてきた。2014年には新たに創刊された『青穂』に参加。以下では数句を選び、鑑賞したい。
行き先の違う雨を帰っていく 高木架京
「行き先の違う/雨を/帰っていく」、と読むべきか。雨天の中、それぞれの帰路についたところだろう。「行き先の違う雨」と読むと、少しばかりファンタジーが広がるように思う。
にほひ袋ほしいとねだる春霞 同
にほひ袋なるものが存在することを、これまで知らなかった。江戸期創業の専門店もあるようで、種類も多岐におよんでいる。春霞に似合ったにおひを求めたくなる。
触れたい手が遠い月明かり 同
一緒の空間において、月明かりが射し込んでいるところだろう。さっさと触れてしまえばよいのにと思うのは、自身が第三者だからに過ぎない。
月の冷たさをテーブルに置く髪飾り 同
月明かりが射し込んでいるテーブルか。女性らしい句。
風鈴に君の風がきている 同
外―君―風鈴-私の並びとなっているところか。それとも、並びに関係なく、君のような風がきていたのか。子供の頃、祖母宅近くに広がる海を「ばあちゃんの海」と呼んでいたことを思い出した。
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自由律俳句を読む 86
安斉桜磈子〔2〕
馬場古戸暢
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自由律俳句を読む 85
安斉桜磈子〔1〕
馬場古戸暢
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自由律俳句を読む 84
小山貴子〔2〕
馬場古戸暢
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自由律俳句を読む 83
小山貴子〔1〕
馬場古戸暢
小山貴子(こやまたかこ、1951-)は、尾崎放哉の研究家として知られる、自由律俳人。1975年、層雲に入門。近年、『自由律俳句『層雲』百年に関する史的研究』(自費出版、2013年)を出版し、自由律俳句誌『青穂』を創刊するなど、ますます精力的な活動を展開している。以下では数句を選んで、鑑賞したい。
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