2023-06-11
小笠原鳥類 カッコウや、ハト(ふくろう)、時計ペンギン
Posted by wh at 0:04 0 comments
2020-02-16
【俳句関連書を読む】句と句、自由につながる 三島ゆかり・中山奈々『フリーしりとり 二句二円』 西原天気
【俳句関連書を読む】
句と句、自由につながる
三島ゆかり・中山奈々『フリーしりとり 二句二円』
西原天気
三島ゆかり・中山奈々『フリーしりとり 二句二円』はB6判・全104ページに1000句が並ぶ。あとがき(三島ゆかり)によれば、両氏が交互に句を投げ合う、いわば句の掛け合いのようなものは2016年2月にツイッターで偶発的に始まった。以後、2018年3月まで断続、両氏500句ずつ1000句に至ったところで、この本が編まれた。つまり、自選などは施されていない模様。
「しりとり」と銘打つものの、下の句を受けて、といったルールはなく、前句とのつながりは自由自在。それゆえ「フリー」と冠されているのだろう。
例えば、
スマホ見るひとの行列薄暑光 ゆかり
から、
まほろばにマルコ・ポーロや夏はじめ 奈々
は「まほ」の音でつながる。
そこから、
茉莉花や裏に穴ある丸ぼうろ ゆかり
は、音は音だが、すこし凝っている。マルコ・ポーロ→丸ぼうろ。
さらに、
うろ覚えなる枝豆のみどりかな 奈々
は、「穴」から「うろ」へとつながる。しりとりと言いつつ、連句の要素も含まれるようだ。
一句一句を味わう(句集や連作のように)のとは別に、句の《つながり方》が楽しめる。その意味では、どのページを開いてもよさそう。1000句はいかにも膨大だが、どこから読み始めてもいい、となれば、心がラク(句集って、なぜかアタマから読んじゃう、読まされちゃう。拘束はないはずなんだけどね)。
俳句には、いろんな楽しみ方がある。つくるにも、読むにも。そう思わせてくれる本。
なお、書名にある「二句二円」は、「ひとつの句の世界を円としたとき、ふたつの句を並べるとどうなるか。数学の授業で習った集合のベン図のように、ふたつの円の交わりには共通の要素があるかもしれないし、あるいはレオ・レオニの『あおくんときいろちゃん』のようにふたつの色が重なり合って、驚きとともにあらたな色が生まれるかもしれない」(三島ゆかり「あとがき」)といったアイデアに由来するとともに、1000句を収めたこの本の定価は1000円。1句につき1円、2句につき2円、というわけで、なかなか気がきいている。
三島ゆかり・中山奈々『フリーしりとり 二句二円』(2020年2月)/みしみし舎
問い合わせ≫https://twitter.com/officemisimisi
Posted by wh at 0:04 0 comments
2015-04-26
『関西俳句なう』につっこむ 1 佐藤文香
【俳句関連書を読む】
『関西俳句なう』につっこむ 1
佐藤文香
『関西俳句なう』という、関西の若手の俳句が載ってる本が出たと聞いたので購入することにした。
まず「東京がなんぼのもんじゃ」というコピーが、フォント違いでクロスした二重の虹のように書かれているのにぎょっとする。
(どうでもいいが、もんじゃは月島名物である)
(ポップ体の「じゃ」は背表紙にかかっており、「若手26人」の下に現れる)
が。
とりあえず、買った。
買った理由は、ぱらっとめくった黒岩徳将の近影がかわいかったからだ。
何か食っている。
(その上の加納綾子は、プリクラか? ふたりの写真のギャップが凄い。)
ともかく近影があるのは、チョシャキンフェチ(著者近影フェチ)としては嬉しいので、買った。
●
もともと一応兵庫県神戸市出身のわたしとしては(11歳まで)、関西にまた住みたいという気持ちもあるし、26人のうちわりと深い付き合いがある人もいる。
と、ラインナップをよく見て、驚いた。
中山奈々がいない。
中山奈々は1986年生まれ、「里」「百鳥」所属である。
いくたびもまぶたの落ちる雪景色 中山奈々
ざらつきて舌の悴むこと知らず
ああ春はまだ暗がりに置くピアノ
雪道はどんと一本牛の匂ふ
かかとより入れば重たき雪の声
以上は「里」2月号特集「2015寒稽古in軽井沢入選全句」より。
わたしと所属誌が同じなので身内贔屓に見えるかもしれないが、知る限りの関西の若い子のなかでは、中山が面白いと常々思っていたので、中山の不在に落胆した。中山奈々50句は、なんならわたしがつくる。それにしても、中山より面白いやつが本当にわんさかいるのか?
その代わり、岡田一実が入っていることに喜ぶ。岡田は愛媛県松山市在住である。
関西俳句じゃなかったのか。
西日本はすべて関西なのか。
(時間だけでいえば、新大阪から松山は、電車だと接続がよくても4時間かかる。新大阪から岡山までが50分、岡山から松山までが2時間50分。一方、東京と新大阪は2時間半。それでも、愛媛を関西に入れなあかん事情があるんでしょう。)
『関西俳句なう』というタイトルを見ると「関西の俳句の現在」の本のように見えるが、というよりは、帯からもわかるように、「東京のおまえらに見えてない俳句の現在を世間に知らしめる!」という意図があるのだろう。
(君らの言う、東京の人らって誰やねん。)
(たぶん、あれやな、俳壇とかいわれるヤツやな。)
ここまできて、ようやく、関西俳句なう代表の塩見恵介の「はじめに」を読むと、
総合誌の話題はどうしても首都圏が中心となっており、関西に住む我々にとっては少し残念な思いをすることの多い日々が続きました。(中略)
それならば関西(西日本)の同世代的な俳句を我々で発掘、紹介していこうという企画で一年間サイトを運営しました。
なるほど。話題にされたいわけだな。というわけで、今、話題にしています。
そしてそのサイトは「俳句グループ「船団」の関西在住若手メンバー六人で立ち上げ」た、とあるのだが。
またしても驚いた。
本書は、二〇一二年現在、「船団」に所属している若手作家十三人と、他結社・個人の作家十三人の書簡交換形式による作品五十句の発表の場としました。
また、「船団」の先輩諸俳人から、若手俳句のキーワードを種にミニエッセイを寄稿していただきました。
関西の若手っていっても、半分は船団なのか?
若手じゃない船団の人のエッセイは掲載される必要はあるのか?
これは、『船団俳句なう』じゃないのか。
(帯写真をもう一度ご覧ください。上段が「船団」、下段がそれ以外です)
船団以外の13人の所属を見てみると、なんと5人がいつき組だ(黒岩、山澤、岡田、羽田、森川。羽田は「百鳥」にも所属)。若狭・手嶋も俳句甲子園出身で、立場的にもいつき組と近いところにいる(いた)と言えるので、半分近くがいつき組界隈ということになる。また、半分ほどが現在関西に住んでいないことも確認できる(手嶋に至っては関東在住)。
これも、もうちょっとなんとかできたのではないか。
友達に頼んだだけじゃないか、と不安になる。
(多彩な作品に期待する。)
また、鬼貫青春俳句大賞受賞者が、プロフィールでわかる範囲で船団側に6人いる(加納、二木、山本、藤田、久留島、中谷)。このへんも気になるところだ。(それなら鬼貫青春俳句大賞じゃなくて、船団新人賞でいいんじゃないか?)
別に、偏っていても、船団の本でも、いいのである。アンソロジーを出すといったときに、編者の意図で偏ることはあるだろうし、ある集団が自分たちの本を出したいことだってある。
しかし、仮にも、『関西俳句なう』というタイトルなのだから、俳句を愛する人間としては、関西の今の俳句シーンの一番素敵なところを汲み上げているだろうと期待して読みはじめるつもりだし、今俳句に興味を持ち始めた関西ラブな人が手にとったとき、「びっくりして嬉しくなる(by池田澄子(船団))」かどうかを本気で確かめたい。
補足
ちなみに、年齢でいうと、最年少が1990年生まれ(今年25歳)の黒岩徳将、最年長が1969年生まれ(今年46歳)の朝倉晴美。
船団側は20代が4人、30代が6人、40代が3人。それ以外側は20代が3人、30代が6人、40人が4人と、年齢に関しての偏りは少ない。20代が全体で7人入るのは、わりと多い印象。
*「週刊俳句」読者の方へ、参考までに、今年25歳が村越敦、今年30歳が山口優夢(佐藤も)、今年46歳が関悦史である。
●
Posted by wh at 0:50 8 comments
2012-09-30
寝る前の一冊 矢島渚男『身辺の記Ⅱ』 関悦史
【俳句関連書を読む】
寝る前の一冊
矢島渚男『身辺の記Ⅱ』
関悦史
タイトル通り、普通のエッセイ集である。
ことさら俳句についてばかり語った本ではない。
一篇が見開き二ページ、どこから読み始めても、どこでやめてもよい。
寝る前に読むのに最適である。
歳時記、季語にまつわるものを別にして、こういうエッセイ、俳人によるものは意外と見かけない気がする。
俳句が話題の中心になっていると、ものによっては、床柱を背に説教を聞かされている気になってきたり、そこまでいかずとも、どことなく窮屈な感じがしてくることが少なくないのだ(この辺、個人的な感じ方で、俳書を集中的に読む機会も必要もない人にとってはまた別なのかもしれないが)。
飯田龍太のエッセイは立派なものだが、読むほうも背筋を正さなければならない気がするし、山口誓子のを読んだときは、新聞の読者投稿欄じみた何の発見もないいかめしさに辟易した。
そういうわけで、あまりもっともらしくなりすぎない、肩の力を抜いて、寝る前に読める俳句周辺のエッセイというのは、案外貴重なのだ。
寝る前に聴く音楽について書かれた「眠りの音楽」で挙がっているのは、クイケンのヴィオラ・ダ・ガンバ無伴奏曲集である。これは私もよく聴いていた。
《アーベルとかオルテスとかいう名も知らない人の古曲が演奏されていて名曲ではない気安さからか、最後まで聴かないうちに眠ってしまう。》
ほかにグールドのゴールドベルク変奏曲とか、同じくバッハでクニャーゼフの無伴奏チェロ組曲なども挙がっているが、この本自体にも似た功徳がある。
句会で奇妙な陶器が出てきて、これがじつは戦時中に作られた信楽焼の手榴弾だったとか、NHK全国俳句大会で五万句から来る投句(大半はお行儀のよい月並句である)のなかで渚男氏が選んだのが《蛇はきらい臍の緒よりも長いから 野田月子》という抜群にヘンな句で、発表したら会場がどよめいたとか。
あるいはユン・チアンの『マオ――誰も知らなかった毛沢東伝』を読んで、ギネスブックでスターリン、ヒトラーをしのぐ史上第一位の虐殺者に毛沢東が挙がっているのに驚いたり、宇宙空間の暗黒物質や、宇宙誕生のもととなった「対称性の破れ」について感心したりとか。
ほかにも、珍しい名字の話、サソリは自殺するかしないか等々。
個人的な思い出話ももちろん入るが、関心が広くて、各篇二ページのなかにいろいろな話題が出てくる。
そして話を切り上げるときの中庸を得た感じがよい。
というか、ここが「寝る前に読む本」たりうるかどうかの分かれ目でもある。独創的な卓見だらけだったら、こっちは寝るどころではなくなるのだ。
私の知らない、興味深い俳人のことも出てくる。
渚男氏の結社「梟」に大住日呂姿という人がいた。『埒中埒外』(二〇〇一年)という句集を出して、まもなく亡くなった。
《不可思議な人が不可思議な句を残し、句集を作り一年半ほどで忽然と世を去って行った。》
句集冒頭と末尾の二句だけ引かれているのだが、確かにやや変わった句である。
探梅や手柄立てむに似し心 日呂姿
雪原二枚縫ひ合はせ来しわが足跡
中原道夫氏にも通じるような奇想の見立てだが、それが外に硬く自立するのではなくて、もっと自分の心情に還ってきて、親しげなおかしみに転じるというか。
ちょっと前にネット上で「夏の夜長」なるヘンな言葉を見かけ、体が微妙にねじくれるような気がしたが、ちゃんと秋の夜長になってから、時宜を得た本に会った。
これを書いている今は不眠の真っ最中なのだが、また床に就いて、拾い読みでもしてみようか。

矢島渚男『身辺の記Ⅱ』紅書房/2012年9月
※本書は著者より寄贈を受けました。記して感謝します。
Posted by wh at 0:04 0 comments
Labels: 俳句関連書を読む
2012-09-23
〔古本という愉しみ〕 『スターシップと俳句』 三島ゆかり
【古本という愉しみ】
『スターシップと俳句』
三島ゆかり
古書店にも傾向というのがあって、まるでかつての自分の本棚のような店に巡り会うこともある。昨夏、実家にそのままにしてあった本の大量処分をそんな店にお願いした。換金されたいくばくかを財布に入れて店頭を眺めていたら、この本が目に飛び込んだ。ソムトウ・スチャリトクル/冬川亘訳『スターシップと俳句』(ハヤカワ文庫、昭和五十九年刊、絶版)。私が俳句の実作を始める十年前に出た本に、こんなふうに巡り会うのも何かの縁なのだろう。
変な本である。時代は一九九七年から二〇二五年まで行き来するが、二十一世紀の初めに「千年期大戦」で壊滅的に荒廃した地球が舞台で、いかにもSFらしく、ある種のテレパシーにより主人公らが危機を克服する話である。とまあ、基本は実にオーソドックスなのだが、そこに欧米人の日本文化理解へのパロディがまぶしてある。著者はタイ王家の血筋を引く当時の新進気鋭の作家で、のみならず作曲もものにし、NHKの音楽番組に出演したこともあるという。日本文化理解へのパロディで俳句関係というと、W.C.フラナガン著の日本語訳という体裁をとった小林信彦の創作『ちはやふる奥の細道』(新潮社、昭和五十八年刊、絶版)がほぼ同時代でわずかに先行しているが、タイ人作家による欧米人日本理解のパロディを日本語訳したもので日本人が読む、というよじれ具合もまた格別なものがある。
全体は四部に分かれ、さらにプロローグが付く。巻頭と四部それぞれの冒頭に江戸期の俳句が何かの象徴のように意味ありげに引用されている。ローマ字表示と英訳の雰囲気をそのまま生かして逆に日本語訳したものは、それだけでも可笑しい。
ガイコツノ 見よ! 骸骨どもだ
ウエヲヨソーテ 祝日の晴着をきて
ハナミカナ 花を眺めているぞ
―――鬼貫(一六六一~一七三八)
の如し。以下、同様の体裁で各部冒頭には「美しき凧あがりけり乞食小屋 一茶」「春の海ひねもすのたりのたりかな 蕪村」「夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉」「荒海や佐渡によこたふ天河 芭蕉」が引用されている。
さて、プロローグである。舞台は一九九七年春。のっけから自殺である。二人の若者を前に、なんと金閣寺の老管長が謎めいた予言を残し飛び降り自殺する。刊行当時、三島由紀夫の自殺から十四年。切腹や神風特攻隊が決して過去のものではなかったことに、欧米人はさぞかしショックを受けたことだろう(ということにしておく)。彼らにとっては、日本人といえば自殺を愛好する民族なのである。
二人の若者は、イシダ・アキロウとタカハシ・ヒデオ。この二人は後に政治的に対立することになるが、老管長は次のように言い残す。「タカハシ、おまえはおまえの死の以前に、死をねがうことになろう。そして、イシダ、おまえは死ぬまえに生きたいとねがうことになる」「人類は五十年以内に非人類種属とコンタクトを行なうことになる。そして、おまえたちはその事件にかかわりを持ち、両名とも曲げることのかなわぬ人類のプランを押し曲げて、みずからのプランとするよう努めるであろう」と。ちなみに全編を通じ日本人名はこのように片仮名表記。また、おそらく原文で日本語がローマ字で取り入れられている場合「きこう」(貴公のこと)のように平仮名表記するなど、カルチャー・ギャップを誇張する方向で日本語訳されている。
以下、本章のあらすじを紹介する。主人公はイシダ・アキロウの娘リョーコ。それから、戦争で壊滅的な被害を受けたハワイを脱出して来日する日系人ジョッシ・ナカムラとその弟ディディ・ナカムラ。そして悪役として上記タカハシである。また、鯨は人類とは異なる高度な知性と文化を有していて、地球の終末にあたりテレキネシスを用い人類にコンタクトをしかける。物語上はだんだんと核心に迫るようにわざと時代を前後させるところに妙味があるのだが、長くなってしまうので編年体で記す。
二〇〇一年 「千年期大戦」勃発。月がふたつに割れるほどの大戦争で、ハワイでは戦後多くの人が後遺症で奇形となった。
二〇〇七年頃 日本は「歴史に戻れ」との政策を掲げる。真意は、世界の終末にあたり伝統的な様式によるセップクを奨励することである。
二〇二二年春 イシダ・アキロウの長女リョーコがハワイへの洋上航海中、鯨に話しかけられる。「きみたち人間の死に対する反応は、無知と感情の未熟さに根ざしている。そうじゃない、生命はわれわれの主要な目標のひとつではない。美しい死は無上の愉楽、知性の究極の達成なのだ。生命はただそのための必要条件としてのみ存在している」「われわれはもうとおい昔から、物質世界のバリアを突破したところにある永遠なるものについてしか考えて来なかった。しかし、いまやすべてのもののサバイバルが問題となってしまった」「きみの父上に、いまから六ヶ月後に大臣をみんなつれてヨコハマ港まで来なくちゃならんと伝えてくれ」
同じ頃ハワイでも瀕死の鯨が浜に打ち上げられ、ディディにコンタクトする。ディディは言葉が話せず周囲からは知恵遅れと見られていたが、奇形のあらわれとして、ある種のテレパシーの能力があることがこの段階で明らかになる(それに対しリョーコは鯨から一方的にメッセージを受け取るだけである)。
リョーコとジョッシが出会う。リョーコは政府の視察団であり、ジョッシは奇形人の世話係で立場はまったく異なるが、ジョッシは日本の方がましな暮らしができることを知る。
二〇二二年夏 リョーコが鯨からのメッセージをイシダ・アキロウ大臣に伝える。イシダの役職は生存大臣。他省には秘密裡に、地球を脱出し恒星船による四千年の旅を志している。一方、ジョッシはディディを連れて日本行きを企てる。船代は持っていなかったが祖母の形見の歪んだテンモク茶碗を差し出したところ、二人の船長との間で争いが起こり、敗れた方がセップクする。美のために命を引き替えにする日本人というものに認識を新たにしつつ船に乗る。
二〇二二年秋 リョーコと三人の大臣が鯨と会う。イシダ以外の大臣は、タカハシ・ヒデオ終末大臣とカワグチ慰謝大臣。三人とも復古政策で僧衣をまとっている。鯨はリョーコのからだを借りて三人に話しかける。
イシダ「おまえはわれわれの恒星船(スターシップ)を要求するつもりなのか。」
鯨「スターシップなどについて、ぼくにいったいどんな要求ができるだろう?あれの寸法はぼくには合わない、内部環境も合わない、いったいクジラが人類に同行して、多世代宇宙旅行などできると思うか?」「この少女(リョーコのこと)を引きとってくれ。まもなく、彼女はまるで死んだようになるだろう。彼女を病院に入れてくれ、そして、彼女の卵巣をとりだしてくれ。そのなかに、あなたがたはいくつかの受精した卵を見出すだろう。それはぼくのチャイルドたちだ。かれらはプサイ的静止状態にあって、諸君が旅の目的地にいきつくまで分割をはじめることはない。彼女は心のなかに、諸君の科学者たちに対する指示をたずさえているから、かれらをどう成長させるか科学者たちに対する指示をたずさえているから、かれらをどう成長させるか科学者たちにはよくわかるだろう。われわれはあなたの仕事に、このわずかな分けまえだけを求める、ミニスター・イシダ。これは過大な要求だろうか?」
さらに続けて鯨は鯨の祖先と日本人について驚くべきことを語る。
「彼女(鯨の祖先の遺伝子改変者アアアアアイオオケカイア)は、あるときひとつの大いなる夢を見、そのなかでかわいた陸地の上の知的霊長類のあいだに、彼女自身のチャイルドを植えつけた。かれらはものを考えないが、偉大な道具のつくり手になる可能性をひめている、と彼女は考えた。われわれが力をくわえてやりさえすれば、と。彼女はありとあらゆる海域から千の千倍もの仲間たちを呼びあつめ、――当時、われわれは何百万もいたのだ――かれらはこぞって大いなる夢を夢見、あまりに夢見る力がつよかったので、そこにあらたな接合子がつくりあげられることになった。アアアアアイオオケカイアは苦心して出産のためにかわいた陸にのりあげ、そこにみずからのチャイルドたちを放置し、その大部分は――生きのこったものたちは――人類のかたちと心性とをもつものであった。しかし、千の千倍のクジラたちの夢見る力も、人類の真のファクシミリを創造することはできなかった。そこに同数の染色体があり、かれらが人類と交雑さえしたのは事実だった。しかし、いくつかのことがかれらには変えられなかった。それが諸君の美意識だ。これまでほかの民族によって、このことが幾度かたられてきたことだろう。諸君にあっては、あれは本能的なものだ。あの多くのゆがんだ茶器、あの不完全さへの歓びは、われわれの遺産なのだ。ヒチリキやシャクハチの蕭々たるあの音色は、諸君の祖先の記憶の深みから発する叫び声なのだ。そして、死の歓びもまた――あれもまた永遠への跳躍の記憶なのであり、クジラが超越的な啓示のさなかに、銛に出会おうと歓喜とともに突進していく姿なのだ。」
このことは終末大臣タカハシによって利用され、かつて捕鯨民族だった日本人は政府のキャンペーンにより先祖殺しの罪深さを認識し、ますます自殺に駆り立てられる。リョーコと鯨の出会いを題材とした新作カブキ「鯨波白暮浪漫譚(いさなみはくぼのろまんす)」が上演され、劇中では少女は崖から身を投げて死ぬ。このカブキを観て感動した人々が多数自殺した。そんな中、イシダはリョーコに宇宙に脱して欲しいと伝えるが、彼女自身劇中のヒロインに恋いこがれていたため、イシダは失意のうちに自殺する。
以後、物語は死の帝王と化したタカハシの恐怖政治が延々と描写され、それに終止符を打つべく、リョーコおよび日本で偶然に再会したジョッシ、ディディ兄弟の三人が活躍する話に転じて行く。困難な場面を切り開くのはどの場面でも、ディディのテレパシー能力であり、スピリチュアル小説の趣さえ感じられる。日系人ディディは、戦争後遺症による奇形のあらわれとして、先祖返りで鯨のコミュニケーション方法を使えるようになった。そのテレパシー能力を「真の話法(トゥルー・スピーチ)」と呼び、人類の言語とは異なるため、作中では例えばこのように記述される。
ディディは真の話法(トゥルー・スピーチ)を使うたびに衰えて行く。そしてクライマックスではタカハシ、リョーコ、ジョッシの心の壁を破壊して大団円に向かうとともに、ディディは絶命する。
イシダ大臣がまだ生きていた頃、リョーコが父に鯨との出会いを熱く語る場面がある。
「いま思い出しても驚くのは、そのクジラがとても日本的だったということですわ。まるで日本人みたいに、かれは死について語りました。かれならきっとフジサン(作中のゆがんだ茶器の名前)が理解できたと思います。それだけでなく、ティー・セレモニーやハイクや、昔のガイジンのエキスパートが、わたしたちの文化のなかで、奇妙すぎてとてもついていけないと考えていたすべてが……オトーサン、信じていただけないのね」
また、ジョッシがまだ弟の能力に気づいていなかった時期の描写で、以下のくだりがある。
歩きはじめると、ジョッシの心のなかをひとつのイメージが飛びめぐった。ある光景の記憶、外部から心のなかに映写されているのかと思えるほどそれは鮮明だったので、かれは思わずあたりを見まわしてなにかを捜しもとめたが、そこには弟しかいなかった、無害なひとりの子ども――
銀針林立
黒きもの飛び出でて
海や海
そのイメージそのものがひとつのハイクであり、完結にして完璧、測りがたい意味を秘めていたので、かれはぎゅっと目をつむり、そのいくつもの針をもっとはっきり見ようとした。
結局のところ、このSF小説の設定上では、俳句は鯨の言葉だから外国人には理解できないものであり、それゆえに実は俳句とは真の話法(トゥルー・スピーチ)そのものなのである。
常日頃、俳句を技術的な手法に還元しようとしたり、韻文と散文の間の隔たりに頭を悩ませたりしてきたものだが、真の話法(トゥルー・スピーチ)だと割り切れば、一切合財腑に落ちるではないか。こんなふうに。
●
Posted by wh at 0:22 0 comments
2012-09-16
〔俳句関連書を読む〕中村裕『疾走する俳句 白泉句集を読む』 猫髭
〔俳句関連書を読む〕
中村裕『疾走する俳句 白泉句集を読む』……猫髭
渡邊白泉は、生前は「反ホトトギス」の新興俳句運動の旗手と謳われるほど注目を集めたのにも関わらず、軍国主義の台頭で治安維持法により弾圧され、出るはずだった句集も出せず仕舞いという、「ツイていない俳人」だったが、そうツイていないわけでもないと思わせる本が出た。中村裕『疾走する俳句 白泉句集を読む』(春陽堂)がそうである。
白泉の俳人としての業績は、白泉に師事した三橋敏雄が白泉没後に編んだ『渡邊白泉全句集』(沖積舎)が、初出誌に可能な限りあたって丹念に編まれた初出発表順句集と白泉自筆稿本による『白泉句集』、及び白泉が加わった三吟歌仙一巻を併載した決定版だが、如何せん、定価8400円は高過ぎておいそれと手が出ない。
本書は、その『渡邊白泉全句集』を定本に、全作品約千三百句の中から百句を精選した袖珍本で、それぞれに七行ほどの解説を付したものなので、あとがきまで155ページのそれほど厚い本ではないし、一気に読める。新書版をひとまわり大きくしただけの小冊子にも関わらず、紙が片手で読んでも親指でめくるのに適した硬さで、タイトルの『疾走する俳句』に連動した、疾走するように読める作りになっていることもある。「戦争が廊下の奥に立ってゐた」という代表句を記した腰帯が読むのに邪魔なので外すと、印刷された黒い腰帯が現れて、そこに白泉の代表句が白抜きで十一句並ぶという懲りようで、写真も白黒だが多数収録されていて、これで1400円というのはリーズナブルで、白地に赤いタイトルのシンプルな作りながら、白泉に対する並々ならぬ思い入れが溢れた一冊だということがわかる。どれだけ業績が優れていても、誰でも手にとって読めるという袖珍本がなければ、去るもの日々に疎しである。作者中村裕は三橋敏雄に師事とあるので、白泉の孫弟子にあたるから、白泉は時代には「ツイていない俳人」だったとしても、弟子たちには「ツイている俳人」だったといえる。なお、三橋敏雄は西東三鬼に終生仕えた俳人だが、彼を三鬼に紹介して師事する事を薦めたのは白泉である。
目次をくくると、採り上げられた百句が四ページに亘って並ぶ。この百句の多彩さに驚く。発表順に恣意的に引いてみる。治安維持法による弾圧(これには俳人側の密告も重なるので、一概に権力側の強制だけとは断じられない)を受けたために、当時の時勢も参考までに挿入する。作品の表記は旧字旧仮名と新字新仮名が混在するものがあるが、それは戦後の新字新仮名に変更した時代の流れで是非ない部分もある。わたくしの母も旧字旧仮名変体仮名で育ったので、未だに新しい字ではどう書くのかと尋ねることがある。
■大正2年3月24日、東京都赤坂生れ。本名は威徳(たけのり)。中学四年の時『子規俳話』に接し、蕪村に魅了され、やがて自分でも俳句を作ってみようと思い立つ。
白壁の穴より薔薇の國を覗く 昭和4年 16歳
街燈は夜霧にぬれるためにある 昭和9年 21歳
鶏たちにカンナは見えぬかもしれぬ 昭和10年 22歳
■昭和12年7月、日中戦争勃発。
われは恋ひきみは晩霞を告げわたる 昭和12年 24歳
銃後といふ不思議な町を丘で見た 昭和13年 25歳
憲兵の前で滑って転んぢゃった 昭和14年 26歳
戦争が廊下の奥に立ってゐた 昭和14年 26歳
■昭和15年2月新興俳句(「京大俳句」)弾圧事件。5月白泉検挙。8月三鬼検挙。白泉は三ヵ月後起訴猶予となるも、執筆禁止となる。
■昭和16年12月、対米英大東亜戦争開始。
庭中にまはりてふるや春の雪 昭和18年頃
鳥籠の中に鳥飛ぶ青葉かな 昭和18年頃
■昭和19年6月応召。横須賀海兵団入団。
めつむりて打たれてゐるや坊や見ゆ 昭和19年 31歳
夏の海水兵ひとり紛失す 昭和19年 31歳
■昭和20年8月14日、ポツダム宣言受諾による大東亜戦争敗戦日。翌15日玉音放送。
玉音を理解せし者前に出よ 昭和20年 32歳
新しき猿又ほしや百日紅 昭和20年 32歳
砂町の波郷死なすな冬紅葉 昭和23年 35歳
■昭和25年6月朝鮮戦争勃発。
まんじゅしゃげ昔おいらん泣きました 昭和25年 37歳
■昭和27年4月。サンフランシスコ講和条約締結による国際法上の大東亜戦争終戦日。
■昭和28年7月朝鮮戦争休戦。
■昭和29年3月、米軍の水爆実験により第五福竜丸被曝。
地平より原爆に照らされたき日 昭和31年 43歳
万愚節明けて三鬼の死を報ず 昭和37年 49歳
あぢさゐも柳も淡き雨のなか 昭和39年 51歳
極月の夜の風鈴責めさいなむ 昭和39年 51歳
松の花かくれてきみと暮らす夢 昭和40年代
おらは此のしっぽのとれた蜥蜴づら 昭和40年代
谷底の空なき水の秋の暮 昭和40年代
■昭和44年1月30日、バスに乗ろうとして転倒した際、脳溢血を起こし死去。沼津市立沼津高等学校教諭。享年55歳。
●
白泉と言えば、腰帯に代表される戦争俳句が最も有名で、無季口語俳句というイメージが強いが、有季定型俳句あり、俳諧趣味の俳句あり、これほど多彩にひとりの俳人が俳句を自在に詠んだというのは、珍しい。しかし、唯一というわけではない。
新興俳句の拠点である「京大俳句」を興した俳人たちで言えば、昭和6年刊の『高浜虚子選 日本新名勝俳句』で「帝国風景院賞」に輝いた、
噴火口近くて霧が霧雨が 藤後左右
の藤後左右が奔放さでは白泉に引けを取らない。
夏山と溶岩(らば)の色とはわかれけり 藤後左右(昭和5年)
と、これは桜島を詠んだ句だが、白泉も、
溶岩は太古のごとく朝焼けぬ 白泉(昭和9年)
と本籍の富士河口湖町の溶岩を詠んでいるので、白泉も左右の句を知っていた可能性も高い。左右は「京大俳句」を興した俳人の一人で、白泉は「京大俳句」に投句していたために第二次京大俳句弾圧事件で捕まっているので、知らない筈はないと考えるのが自然だろう。
左右の溶岩の句はルビが英語の「らば」だったので当時は新鮮だったのだろう、虚子親子も溶岩を詠んでいる。
溶岩に秋風の吹きわたりけり 高濱虚子
溶岩色(らばいろ)を重ねて古りて冬ざれて 高濱年尾
年尾の句は「溶岩(らば)」だから、明らかに左右の先例を踏まえて詠んでいる。
京大の学生だった左右は、誘われて余技で始めた俳句で「ホトトギス」の巻頭を飾るという、本人も驚くデビューを飾るが、彼が「ホトトギス」輩出の俳人たちの中で異才を放っているのは、卒業するや「京大俳句」という新興俳句の立ち上げに参加して、以降は奔放な口語俳句を詠み始めることで、
スラバヤを出しな軍刀にけつまづいた 左右(昭和17年頃)
などは、逆に左右が白泉の「憲兵の前で滑って転んぢゃった」を踏まえて詠んだようなおもむきがある。軍刀とは軍人の魂であり、軍旗を跨ぐなどと同じで、見つかったら軍法会議ものであるが、御両人、どちらも舌を出している。
左右は、晩年まで、
新樹並びなさい写真撮りますよ 左右
といった飛んでる俳句や、
裁判長浜が消えたから貝も消えました 左右
といった公害俳句の破天荒な句ばかり詠んでおり、その句柄の変遷は、俳句の振幅の大きさでは白泉に匹敵すると言える。しかし、左右は「誰もやったことのないこと」に憑かれたように猪突猛進する、破天荒で無邪気でエネルギッシュで面白過ぎるほど愛すべき「ツイている俳人」なので(「京大俳句」を興した一人なのに、事件当時、左右は医業に専念していたため逮捕は免れている)、同じように有季定型俳句から始めて無季口語俳句も詠んだとはいえ、死ぬまでそれらを並行して、その時の日常にあわせて読み続けた白泉とは、表現の振幅の大きさでは同じように比類ない才能を持ちながら、「行きっぱなし」の左右と、「往還」する白泉とでは全く質が違う。左右の破天荒な俳句に興味がある向きは、関悦史の『藤後左右の初期作品以外の句をほとんど知らないので全句集を勉強会に持ち込んで読んでみた』を参照願いたい。「べつに御中虫の句ではない。」といった関氏の解説に笑えるような句を左右は詠んでいる。
「行きっぱなし」と「往還」の違いはあるが、この二人は、いわゆる戦意高揚のためだけの翼賛俳句を詠んでいない。文学者の戦争責任の問題は、『転向』(平凡社)として戦後話題になるが、飯田蛇笏の句集『白嶽』など、病死や戦死した自分の子どもたちを詠む、魂で詠んだとしか思えない痛烈な句に混じって、今詠むと、これがあの「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり」の蛇笏が詠んだとはとても信じがたい翼賛俳句も多々あり、俳壇では「転向」問題は喧しくなかったのだろうかと不思議に思ったほどだった。新興俳句の山口誓子もシンガポール陥落の際は戦勝俳句を詠もうと苦吟しながら夜徘徊していたら不審者で誰何された体験を随筆で書いていたから、長谷川素逝のように優れた戦場句を詠む俳人もいたが、蛇笏のような「ホトトギス」生え抜きのトップクラスの俳人すらもが数多の翼賛俳句を詠んでいた時代だったから、銃後俳句も戦場俳句も、白泉も左右も詠んでいるが、翼賛俳句だけは詠んでいない、という意味で、特筆される俳人だと思う。あとは平和でなければ俳句は詠めないと完全に句断ちをした原石鼎ぐらいしか、わたくしは寡聞にして知らない。橋本夢道も詠んでいないが、投獄されていたので発しようが無いということはある。獄中で、
大戦起るこの日のために獄をたまわる 夢道
と詠んでいるくらいで、こちらは筋金入りの一徹プロレタリア俳人である。橋本夢道については、甥の殿岡駿星が書いた『橋本夢道物語』(勝どき書房)が無類の面白さなので、興味のある向きはそちらを参照願いたい。
白泉に戻れば、白泉の句の自在さには、時に「玉音を理解せし者前に出よ」といった一見一喝するような句はあるが、では天皇に対する弾劾句かというと、戦場で幾多の戦友の死を見てきた白泉が、死者の代弁をするような思い上がった句を詠むとは思えない。死者に対して生き残った自分も含めての権威を振り翳す生者への皮肉であり、自分を安全圏に置いて詠んだ句ではないように思える。要するに、「上から目線の句」は白泉は詠まない。というより詠めない。常に地べたから詠んでいる「下からの目線の句」である。
白泉の多彩な句の根幹にあるのは、この「常に自分の目線の句を詠む」という一貫した姿勢であり、常に自分が居る場所、自分が日常に暮らしている場所から言葉を発しているという詠み方だと思う。銃後でも、戦場でも、恋でも、家族でも、死でも、自分を巻き込むものごとに対して、常に自分はこう感じる、こう思うという姿勢を崩さない。有季も無季も、文語も口語も、その違いには拘泥せず、そのつどの自分の思いを満たす受け皿であれば自由に歌い分ける。
ただ、多分シャイなひとなのだろう。暴力を憎むひとなのだろう。しかし、腕力の無いひとなのだろう。心優しいひとなのだろう。えらい意見にゃ頭が下がる、下がりゃ意見は上通ると、弱い自分を守るために、韜晦し、酩酊し、ひとりごつように、俳句を詠まなければならなかったひとのような気がする。
それが渡邊白泉の銃後俳句や戦争俳句が、あの強制の時代にあって、数多くの翼賛俳句の中で、最良の俳句として今も輝き続ける理由かもしれない。現に、翼賛俳句の数々は、詠んだ本人や弟子たちが戦後封印しているのか、文学者の戦争責任という『転向』問題としては出て来ない。例えば、蛇笏は翼賛俳句を詠んだが、息子の飯田龍太もまた中学校四年の時、これは白泉が俳句に志した年齢でもあるが、
熱き銃後の真心あれば 満州吹雪もなんのその
銃後固けりゃお国のために 心置きなく花と散る
という翼賛標語を残しているから(有泉貞夫「俳人蛇笏・龍太と戦争」山梨ふるさと文庫)、ばりばりの翼賛親子だが、『飯田龍太全集』(角川書店)では全く触れられていない。作者の中村裕が飯田龍太が白泉の風鈴の句を執拗に貶めていると本書で触れて、なぜそれほどけなすのか不思議がっていたが、
くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 飯田蛇笏
極月の夜の風鈴責めさいなむ 渡邊白泉
では、どう見ても俳句としては蛇笏の句の姿の方が美しいが、蛇笏と白泉では、俳句の言葉の出所が全く違うので、白泉の句の方に詩情をびんびん感じるという人もいる。真冬の風鈴の音が現実と切り結んでいる不安の象徴のように聞こえれば、それは句の姿が美しいとか美しくないとかではなく、生きている息苦しさのリアリティとして響くということになる。龍太が白泉の句をわからないのは、というか、わかりたくないのは、白泉の句から立ち上る、今なお銃後を戦争を生きている、そういうリアリティが、翼賛俳句や翼賛標語を素通りして清算しなかった龍太には不気味に思えるからではないだろうか。
中村裕は『やつあたり俳句入門』(文春新書)という本があるように、やたらとやつあたりする癖があり、新興俳句に肩入れする余り、入れ揚げ過ぎている箇所もあり、勇み足もあるとはいえ、本書の百句解説と白泉小論には、この不遇の俳人の真価を何とかわかってもらいたいという、いじらしいほどのパッションが感じられて、読んでいて、いろいろと考えさせられることも多々あり、普通のアンソロジーではここまで白泉の凄さがわからなかったのは事実である。
中村裕『疾走する俳句 白泉句集を読む』は、庶民の暮しを脅かす様々な「順応を強いる圧力」に対して、俳句の自由を守った一俳人の記録でもある。
白泉の俳句の多彩さは、白泉が蕪村から入ったように、古俳諧の研究者でもあったため、俳諧の奔放さを受け継いでいるのかも知れないということを思い出したので、最後にそのことについて触れたい。
白泉の句業を世に広く知らしめたのは、三橋敏雄の『渡邊白泉全句集』の前に、昭和32年刊の『現代日本文學全集91 現代俳句集』(筑摩書房)があり、その選者であり、藤後左右や橋本夢道も掲載する慧眼の碩学で、巻末の名論として名高い「現代俳句小史」を著わした神田秀夫がいる。彼は「俳道所思」(「俳句」昭和39年8・9月号掲載)の中で、西鶴の『好色一代男』、芭蕉の『奥の細道』、蕪村の『春風馬堤曲』に触れて、「俳諧は美の拡充者だつた。何しろ相手どつたのは和歌だけなんだから、和歌でさへなければ何やつたつて構はないと、独吟あり、俳文あり、川柳あり、したい放題だ。これが俳諧本来の姿だつたのである」と述べたあとで、こう言い放っている。
明治になつて、ヨーロッパ文化の潮流に足もとを洗はれると、俳諧は俄かに萎縮して自己限定を始め、連句を切捨てて、「俳句」と称し、新傾向―あれは「俳句」ぢやない、新興俳句―あれも「俳句」ぢやない、前衛―あれも「俳句」ぢやない。神田秀夫が『現代日本文學全集91 現代俳句集』に白泉を入れたのは、白泉を新しい美の拡充者として、「この俳人を見よ」と差し出したのである。
一体、何が起つたといふのだ。ただ、ひとりで堅くなつて、悴んでゐるだけの話である。籠の口はあいてゐるのに、籠の中の止り木をつかんではなすまいとしてゐる小鳥のやうな美の縮小者、―これが俳人か。
Posted by wh at 0:07 2 comments
Labels: 俳句関連書を読む
【俳句関連書を読む】必携! 遠山陽子『評伝 三橋敏雄 ーしたたかなダンディズムー』のCM 佐藤文香
【俳句関連書を読む】
必携!
遠山陽子『評伝 三橋敏雄—したたかなダンディズム—』のCM
佐藤文香
同人誌「鏡」の仲間である遠山陽子さんより、分厚い本が届きました。
『評伝 三橋敏雄 —したたかなダンディズム—』(沖積舎)……ダンディズムと書かずとも、表紙の三橋敏雄がすでにダンディー。600余ページの二段組、圧巻であります。
三橋敏雄については、ほとんど池田澄子のエッセイでしか知らない私は、こんなに敏雄さんのことを! と嬉しい気持ちで、さっそくページをめくりました。(まだ、全部読んだわけではないです。)
路地せまくはざまのそらへ髪伸びたり 三橋敏雄(昭和12年)
雑誌や新聞などに発表した作品はもちろん、青年期の同人誌の中の詩から句会録、1年ごとにその年の時事も(たとえば昭和60年なら、「スーパーマリオブラザーズ」発売大ヒット、などまで)添えてあります。
新興俳句からの出発、古俳諧研究、朝日文庫の監修のこと、敏雄句集それぞれのいきさつなどからは、三橋敏雄と遠山さんを介して、俳句の歴史を面白く覗くことができます。
敏雄の動向や交友関係に関しては、遠山さんが実際に現地を訪れたり、多くの人へのインタビューや手紙のやりとりを通して得た、こぼれ話に満ちた軽やかな記述が、読ませます。
月曜会(黒田杏子氏がとりしきり、小料理屋「卯波」で毎月行われた句会)のメンバーが口々に、三橋先生の真摯な句作態度と格好のお洒落さについて語っているのが印象的でした。
写真も豊富で、達筆の葉書は想像の範囲内にしても、奥様との仲睦まじいツーショットやベレー帽の西東三鬼、阿部青鞋の半裸写真は見どころと思います。
うえしたの兄弟を蝕んだホーズキムシのこと、全財産を失った詐欺事件の折に、遠山さんが運転する車で多摩地区の公団を見て回った話。遺影を頼みに奥様が写真館へ行ったとき、すでに敏雄本人の依頼で遺影が作られていたこと。
ある人の、いや、三橋敏雄という人の人生というのは、こうも苦しく愛おしいものなのかと、これから読み進めるのが楽しみです。
手をつなぐ男女あるいは秋の国 三橋敏雄(昭和61年)
あとがきによれば遠山さんは、師である三橋敏雄の来し方を書き残すことをライフワークと決め、その場として個人誌「弦」を創刊したということです。以来9年間35回にわたっての取材・執筆。俳句書くなら一家に一冊ダンディズム!だと思います。
門下生というのはそれぞれ長所を生かして師の遺志を継ぐものであり、皆が評伝を書けばいいというものではありません。それに、三橋敏雄の性格を察するに、適当なことを書くくらいなら書かない方が喜びそう。
でも、今ごろ敏雄さんも、「遠山陽子あたりなら、全部書いちゃうかもしれないなぁとは思ってたよ」と微笑んでいるのではないでしょうか。
Posted by wh at 0:06 0 comments
Labels: 俳句関連書を読む
2012-09-02
【俳句関連書を読む】作家性・時代性への目配り 小林恭二『この俳句がスゴい!』
【俳句関連書を読む】
作家性・時代性への目配り
小林恭二『この俳句がスゴい!』
生駒大祐
「俳句研究」誌に平成15年から平成23年まで連載された「恭二歳時記」から抜粋し再編集したのが、本書。
この本の意義は筆者自身があとがきに書いてあるとおりだろう。
本書でとりあげた句のほとんどは、発表時話題となった作品です。(中略)こうした選句をしたのには理由があります。ひとつには、その時代にもてはやされた句を引くことによって、固有の時代の熱を伝えたかったということ。(中略)ついで、選句に必要以上の主観が入ることを恐れたということもあります。(中略)話題句を引いた三つ目の理由は、かつて盛んに人の口の端に上った新興俳句、前衛俳句の話題句が最近あまり聞かれなくなってきたことにあります。時代性、句集の構成といった境界条件を飛び越えて句を取り上げ、論を展開する俳句評論において、その句が発表された時代に確かに纏っていた空気感を再現することは難しいとともに往々にして「私が当時どう受け止めたか」という主観を述べるにとどまる。本書はもちろん筆者の独自の審美眼を前提として論を展開させているが、その句が当時どのような反応を持って受け止められたのかまで踏み込んで書かれており、読んでいて新鮮だった。その意味で、主観と客観のバランス感覚の優れた、読者の「俳句どっぷり度」を選ばない良書になっているのではないかと感じた。
全体としての描き方が、短い文章ながらもその俳人の「ある一貫した作家性」をあぶりだそうとしている意図が汲み取れ、その人物像を信じる信じないの問題はさておき、ある時代と生き抜いた俳人たちは物語性においてもやはり面白いものを持っているのだなあと感じた次第。
全く個人的には、龍太の
かたつむり甲斐も信濃も雨のなか
の「かたつむりと雨がつきすぎ問題」に対する論考が、かつて上田信治さんによって展開されたもの(http://uedas.blog38.fc2.com/blog-entry-135.html)とはまた違ったものとして描かれていて、楽しめました。俳句を象徴的に扱うか技術的なものとして扱うかは、反するというより互いに相響きあう捉え方なのではないでしょうか。
でも、本の名前はそのまま「恭二歳時記」で良かったのではないかなあと、かなり強く思いました。
Posted by wh at 0:05 0 comments
Labels: 俳句関連書を読む
2012-08-05
「恐怖」という扁額 倉阪鬼一郎『怖い俳句』を読む 藤 幹子
「恐怖」という扁額
倉阪鬼一郎『怖い俳句』を読む
藤 幹子
「俳句は世界最短の詩です。
と同時に、世界最恐の文芸形式でもあります。」
という語り出しで始まる本書は、怪奇趣味的な俳句はもちろん、一見読み過ごしてしまいそうでありながら、ふとどこかで心に引っ掛かりを生じるような奇妙な味わいの句たちのアンソロジーである。テーマ別アンソロジーは、これまでも種々数多編まれてきたと思われるが、「怖い」を主テーマに据えたアンソロジーは初めてではないだろうか。
驚くべきは掲出される俳句と作者の多彩さであろう。松尾芭蕉から種田スガルまで、実に二百人とその二百句以上を挙げ、それぞれに鑑賞が行われている。虚子・子規とその直接の門下など教科書に載るような作者たち、あるいは三鬼、赤黄男、白泉、窓秋に代表される新興俳句の雄、前衛俳句、自由律、現代川柳も忘れず、新撰・超新撰・俳コレ所収作家も目配りした漏れなき構成。(著者のブログに目次があるので、参照していただければどれだけ網羅しているかがわかる→ こちら)
掲載句をつらつら抜き出せば、
太陽や人死に絶えし鳥世界 高屋窓秋
野遊びの児を暗き者擦過する 永田耕衣
帰り花鶴折るうちに折り殺す 赤尾兜子
デパートのさまざまの椅子われら死ぬ 島津亮
ひとりゐて刃物のごとき昼と思ふ 藤木清子
首をもちあげると生きていた女 時実新子
このような具合で、私のような浅学な者には、こんな句こんな作者がいたのかと身を乗り出すことも多々あり、著者の碩学・収集努力には頭が下がる。
鑑賞はテーマ通り怪奇・幻想・恐怖寄りであり、いささか強引の感を覚えることもあるが、これは前書きにあるとおり、
「本書に掲載されている俳句に接して、すべてを怖いと思われる方はまずいないでしょう。怖さのツボは人によって違うのですから」
ということなのだろう。個人的には多行書きや分かち書きの句について、その効果にきちんと触れて、著者の視点から丁寧に説明されているところに好感をもった。
かつて澁澤龍彦はその博学を以て、多岐にわたる分野における「奇なるもの」を紹介し、論じた。その奇想という扁額によって、ある人々は嬉々として、またある人々は恐る恐るそれらに触れ、めくるめく未知の世界の開帳に酔いしれることとなった。本書もまた、「怖い」というキーワードをかかげることで、俳句形式の短さゆえに起こる余韻、響きが時に醸し出す奇妙な感覚を、まだ俳句に触れた事がない、あるいは少ない者へ伝えていく一書になるのではないだろうか。新書サイズという手軽さもそれに一役買うだろう。まずは一読、お勧めする。
Posted by wh at 0:07 0 comments
Labels: 俳句関連書を読む
2012-02-12
親切で誠実な批評 樋口由紀子『川柳×薔薇』を読む 西原天気
親切で誠実な批評
樋口由紀子『川柳×薔薇』を読む
西原天気
樋口由紀子は、親切で誠実な書き手である。とりわけ、批評の際には、その特質が際立つ。評言のどこにも目眩ましがなく、水増しもない。「わかりやすい」ことを扱うわけではなく、むしろ「わかりにくい」こと、こんがらがってしまうことを扱うのに、ていねいに語を重ね、読者になにがしかの理解や納得をもたらしてくれる。
それは『川柳×薔薇』の巻頭〈はじめに〉を読んでも明らかだ。川柳と自分の関係から解き起こす誠実。この冒頭部分に、樋口の批評の要点がすでにちりばめられている親切。私たちは、安心して、樋口の語ることを聞きさえすればよいのだ。
手ぶらで訪ねた客にも、何かを持たせて帰す。川柳というものについての知識もなく、ましてや、樋口の扱ういわゆる難解な川柳など読んだことのない読者が(私もこの手の読者に近いからこそ、こう言えるのだが)いきなりこの本を読んだとしても、なんらかのスーベニールを手にするだろう。
さて、ここで、やや前提的で、また茫漠としたことを言うのだが、言葉《によって》感じること、言葉《を》感じること、この二項対立は、川柳や俳句の書き手・読み手の世界に広く横たわる。 前者においては、言葉は伝達の道具であり乗り物。そこで伝えられるもの、搭載される荷物とは「意味」であったり、「思い」であったりする。後者においては、言葉そのものが、愛や戯れの対象である。この二項の両極で、あるいは中間で、あるいは時と場合によって二項のあいだを揺れつつ、書き、読んでいる。
「言葉から書いていく」(4頁)と明言する樋口は、言うまでもなく後者。しかし、ここで困難が持ち上がる。「思い」はともかくとして、「意味」という代物は言葉にとって抜き差しならず、「どう振り払っても言葉には意味がくっつき、べったりと張り付いている」(134頁)。その「意味」という代物に、どう対処するというのか。
「意味のネジをもう一度きつく締めて、意味を出しすぎることのマイナスをプラスに変換していく」(6頁)と樋口は言う。「川柳を書くことによって、意味がきゅっきゅっと音を立てる」(同)。この「きゅっきゅっ」は、なんだかとてもよくわかる。樋口の川柳を読んだときに感じた言葉と世界の違和、といってもけっして不快ではない軋みのような感触が「きゅっきゅっ」であり、これは作者樋口によってはっきりと企図された効果だったのだ。
一方、「私性」という厄介な事柄、川柳では俳句に増して伝統の大きな成分を占めるこの「私性」は、「言葉派」にとって無視できない課題となる。言葉《によって》ではなく、言葉《を》、愉悦の対象にするなら、「私性」は邪魔にもなろう。そのあたりのことは、〈川柳における「私性」について〉(14頁~)でていねいに論じられ、現実の「私」に制限されない広義の私性、表現としての私性へと向かうべきであると結論づけられている。
「『私』の思いを書くという殻を言葉で破り、『私性』を言葉で、もっと開拓していけば、もっと多種多様な川柳が生まれ、川柳はもっと魅力ある場になっていく。言葉を生かせば、思いに縛られた『私』ではなく、もっと自由な『私』を出現させることができる」と樋口が書くとき、「出来事」を機軸にした時実新子の「私性」からの発展とも離脱とも読める。
言葉にまつわる意味、川柳にまつわる私性。これらの大問題についての樋口の見解は、本書の冒頭近くに並べられた〈川柳における「私性」について〉(14頁~)と〈中村冨二の川柳〉(26頁~)に凝縮されているように思う。読者は、まずこの二つの論考をゆっくりと読み、ひと息ついてから、各論ともいえる句集評や作家論へと読み進むのがいい。意味の問題、私性の問題は、具体的な作品を前にして実践的に繰り返し語られることになる。
例えば、草地豊子を、「(言葉に意味が張り付いてしまう)その不快を逆手にとって、まっすぐに言葉を引き受け、作者の意味づけを行っている」と評し、さらに「川柳が言葉のつながりによって生じる意味を愛する文芸であるということを彼女の作品で確認することができる」(135頁)と書く。
加藤久子を評して、「(…)ゴールの旗の横をすり抜けて、どんどん進んでいく。みんなは旗の位置でガッツポーズを決めて、大玉を止めているのに、彼女は自分の納得のいく場所に大玉を運ぶまで競技をやめない。(…)その結果、大玉は転がせば転がすほど弾みがつき、言葉の潜在的エネルギーを引き出す」(125頁)と論じるなど、意味と言葉と川柳の問題は、きわめて具体的な批評の言説となって示される。
一方、松永千秋の川柳について、「(…)仕上がった作品は不思議なほど手垢はついていない。それは彼女が自己の経験を水戸黄門の御印籠のように使用していない、つまりは『私性』のありように演劇的な小細工をしていないためだと思う」(140頁)と評するなど、私性という課題をさまざまな層・さまざまな局面に繰り返し浮上させる。
また、小池正博を、「経験を元にして書くのではなく、知識から判断して作り上げる。史実や教養などをスルーさせて、主観を省いてしまう。観照、つまり知恵を持って事物を想像、創造する」(101頁)と論じる箇所では、《私》の多元性・多様性を小池作品に見てとっているようだ。
ただ、こうした樋口にとって近しく親しい川柳作家を論じるときの筆致・口吻の樋口らしさが、俳句・俳人を扱うときにはやや薄れ、「らしくない」と感じるのは、私が俳句の近くにいるせいだろうか。攝津幸彦については、樋口が取り上げた多くの川柳作家と同じノリで語ってほしいところだが、なにかどうも、〝よそいき〟の感じがする。
攝津俳句に気持ちよく翻弄される樋口、それはそれで読んでいて興味深いが、〈意味がきゅっきゅっと音を立てる〉川柳とそれほど勝手が違うとは思えない。だが、まあ、そのあたりに川柳と俳句の微妙なノリの違い、空気の違いのようなものがあるのかもしれない。
ひとつ思うのは、川柳はマジメ、ということだ。樋口は、中村冨二を「真面目なのかふざけているのかわからない」(27頁)と書いているが、俳句愛好者の私から言わせると、とことんマジメです。中村冨二は、冗談を言うときでさえマジメです。ちなみに、俳句はもっといいかげんで、フマジメ。私自身は、川柳のマジメも俳句のフマジメもどちらもそれぞれの魅力だと思っている。
さて、ここまで書いてきたが、書評というにはまとまりを欠き、また、この本の魅力を伝えきれているとも思えず、誠におぼつかないことだが、要は、言葉の飛距離に思いを馳せ、言葉のおもしろさ、言葉の華やぎを、いたってマジメに見つめ続ける人の言葉は、私たちにとって貴重なもの、ということなのだ。樋口の誠実な批評、心優しい解きほぐしは、本書のいたるところにある。風通しがよく、なおかつ豊饒な批評に満ちた書と、最後に念を押すように絶賛しておきたい。
Posted by wh at 0:05 0 comments
Labels: 俳句関連書を読む
2011-08-07
『俳風動物記』三島ゆかり
【古本という愉しみ】
『俳風動物記』
三島ゆかり
とある絶版フェアで宮地伝三郎『俳風動物記』なる本を購入した。1984年に出た黄色時代の岩波新書で、著者は動物生態学専攻の学者。目次は以下。
Ⅰ 香魚のすむ国
香魚のすむ国
Ⅱ 水辺の優位者たち
カワウソと獺祭
水郷のおしゃべり鳥・行々子
カイツブリの生活と行動型
Ⅲ 俳諧師との湖沼紀行
アメノウオと湖沼類型
イサザの幼態進化
タニシを鳴かせた俳諧師
三種のシジミと環境語
Ⅳ 不殺生戒の時代
蚊を焼く
放生会
川狩りの記憶
これらの話題について、著者は動物生態学の立場から俳句の解釈を試みる。そのアプローチの仕方が日頃読み慣れた俳書とはかなり異なるので、非常に興味深い。世間的にはあまり評価の高い本ではなかったのかネット上では多くの古書店が1円(+送料)で売っている現状だが、読んでみるとじつに面白い。取り上げられた句はほとんど江戸期のものだが、著者自身の句(俳号・非泥)も少なからず掲載されている。
*
例えば、「タニシを鳴かせた俳諧師」の章である。山本健吉の『最新俳句歳時記』で「古来田螺鳴くと言っているが、空想である」と片付けられているような季題について、著者は延々と論考する。
タニシの鳴き声を聞いた人がいるだろうか。ちかごろは水田地帯を歩いてもタニシを見かけることさえ希なのだが、近世の俳人たちは、日常のこととしてその鳴き声を聞いていた。
韮くさき垣の隣りを鳴くたにし 祥禾
春嬉したにしの鳴くに及ぶまで 葛三
桃さけか桜咲けとか鳴くたにし 玉峩
田螺鳴き柳くもれる野末かな 為十
鳴くものの拾ひかねたる田螺かな 頓吾
夕かげや水の浅黄に田螺なく 花県
こけ落ちて田螺つぶやく水の音 嘯山
田螺鳴く小田のたんぽぽ打ちほけぬ 暁台
春、それも昼間に鳴いている場面が多いように見えるが、そうとばかりは限らない。夜も鳴く。
菜の花の盛りを一夜啼く田螺 曾良
田螺啼いて土臭き春の夕べかな 保吉
鳴く田螺きかんともなく聞く夜かな 保吉
たにしなく夜は淋しいに蚤ひとつ 撫節
これらの句を列挙したのち曰く、
それにしても、これほどの俳人が鳴くのを聞いたというのに、タニシの発声器官も聴器も見あたらない。タニシの身代わりとして、ほんとうに鳴いている動物が別にいるのではあるまいか。
と論を展開する。ふつうに俳句に親しんでいる者であれば季題には空想のものが含まれることは常識であるが、著者にとってはそうではないのである。かくしてこの展開の中で何種類もの小動物や昆虫の話が出てくる。シュレーゲルアオガエル、ミズギワカメムシ、キンヒバリ、ミズムシ、コミズムシ、チビミズムシ…。中でもウンカの発振装置のくだりなど、実に驚くべきものがある。
稲の害虫ウンカは稲田に多く発生して、以前は大飢饉をおこすほどの損害を与えた。田圃路を歩けば、誰でも見かける小昆虫だが、それが鳴くのを聞いた覚えは私にはない。ところが、京大教授だった石井象二郎博士の研究室での実験によると、ウンカのおすの腹部第一及び第二背板には、発振装置があって、空中伝播するその振動に誘われて、めすはおすのところに寄ってくる。それは人間の可聴域外の振動であるが、適当な共振物を添えればわれわれも聞くことができる。一方、めすもその腹部を上下に動かして信号を送る。これも人間には聞えないし、ウンカのおすにも空中を伝わる音としてではなく、稲の葉で伝わる振動として受信され、配偶行動に導かれるという。どち
らの振動にも種特異性があって、異種のウンカには感応しない。
「田螺鳴く」からここまで深入りするあたりが、なんとも科学者の姿勢である。
*
「獺祭」の話も可笑しい。獺祭書屋主人・正岡子規によって知られる季題「獺魚を祭る」は「礼記」が出典であり、山本健吉の『最新俳句歳時記』(文藝春秋)では「とった魚を岸にならべてなかなか食わないと言われ、そのことを獺が正月(陰暦)に先祖を祀ると言ったもので、空想的季題である」とされる。それが『俳風動物記』ではかくの如し。
獺のまつり見てこよ瀬田の奥 芭蕉
魚まつる獺おぼろなり水の月 青橘
何魚を祭るぞ獺のかげおぼろ 文児
獺の祭りに恥ぢよ魚の店 蝶夢
などの句を列挙した上で、著者・宮地伝三郎氏は「日本の俳諧師は誰も獺祭の現場は確認していない」(!)と断定し、ライデッカー『王室自然史』(1922年)の記述を紹介する。
捕らえた魚は、小さいのは前肢でもって、背泳しながら、その場で食うが、大きいのは陸上に運んで、手で持ち、頭から食べて尾ひれだけを残す。とくに興味があるのは、魚がたくさんとれる場合で、殺したのを陸上に置いては、また、漁をつづける。そればかりでなく、殺しのための殺しをする習性があって、一かみしただけの魚を、食べないで陸上にちらかしておくのを、人が拾って食べることもあったという。動くものを見たら飛びかかって殺す狩猟本能によるのである。これらの観察は、『礼記』の獺祭魚の記述とよく照応する。もっとも、獺祭魚の魚は、食う前にまず先祖の霊に捧げるので、お下がりは食うようにも読みとれるが、ライデッカーによると、カワウソは食う必要以上の魚を殺して捨てておく。古代中国の経書、『礼記』の獺祭は架空の作り話とはいえないのである。
云々。じつに認識を新たにする。
*
「蚊を焼く」の章。昔の人は蚊帳に入ってしまった蚊を紙燭で焼き殺していたという。はじめて知った。
蚊を焼いてさえ殺生は面白き 川柳
紙燭してな焼きそ蚊にも妻はあらん 二柳
閨の蚊のぶんとばかりに焼かれけり 一茶
蚊を焼くや褒姒(ほうじ)が閨の私語(さざめごと) 其角
蚊を焼くや紙燭にうつる妹が顔 一茶
ぶんという声も焦げたり蚊屋の内 白芽
蚊を殺す罪はおもはず盆の月 写也
後の世や蚊をやくときにおもはるる 成美
独寝や夜わたる男蚊の声侘し 智月
などの句を俎上にのせ、著者は動物生態学や死生観の見地からうんちくを傾ける。今日でこそ血を吸う蚊はメスであることが知られているが、二柳や智月の句をみると江戸期にはオスの蚊が血を吸うと思われていたことが分かる。ところで其角の句、「褒姒」を検索すると面白い。(以下、wikipediaより)
褒姒(ほうじ)は前8世紀(紀元前770年)頃に、周(西周)の幽王の后として活躍した女性。絶世の美女だったといわれ、後に周を滅ぼす元凶となった。(中略)
当時幽王は申后という女性を后としていたが、褒姒の美しさに惹かれ、彼女を溺愛するようになった。その後すぐに申后を廃して、彼女を后とする。更に申后との間で出来た子供が太子であったのを廃し、褒姒との間で生まれた子を太子とするほどであった。
だが、褒姒はどんなことがあっても笑顔を見せることはなかった。幽王は彼女の笑顔を見たさに様々な手段を用い、当初、高級な絹を裂く音を聞いた褒姒がフッと微か笑ったのを見て、幽王は全国から大量の絹を集めてそれを引き裂いた。そしてそれにあわせて褒姒が微かに笑うのだが、次第に笑わなくなった。
ある日、何かの手違いで烽火が上がり、諸侯が周の王宮に集まったときである。有事でもないのに諸侯が集まったので、その可笑しさに再び褒姒が笑った。それを見た幽王は再び褒姒の笑顔を見たさに、有事でもないのに烽火をあげ、諸侯を集めるといった行為を始めた。それによって、褒姒は笑顔を見せるようになったが、周に仕える諸侯は、幽王の愚かな行為に、次第に彼を見限りはじめた。そして、后の座を追われた申后の父、申侯ら申一族が、周に不満を持っていた諸侯と、蛮族の犬戎 (後の匈奴)と手を組み、周に反乱を起こした。それに驚いた幽王は、有事の烽火を上げたが、いつもの愚かな行為と見た周に仕える諸侯は、すぐには集まらなかった。結局幽王は驪山の麓で捕えられ、その場で殺された。
要するに国を滅ぼす文字通りの「傾城」である。「蚊を焼くや褒姒が閨の私語」は、紙燭を烽火に見立てたところが眼目であろう。さて、そうすると俄然気になるのが其角の別の有名な句である。
越後屋にきぬさく音や衣更 其角
この句について小西甚一は『俳句の世界』(講談社学術文庫)で「(越後屋は)それまでは一反単位でしか売らなかった旧式の経営法を改革し、ほんの一尺二尺でも快よく分け売りをした。家計のやりくりに苦心する奥さん心理にぴたりとマッチしたこの新案は、俄然、大好評。「絹裂く」はその分け売りをさす」と書いている。もちろん表向きはそうなのだろうが、こちらの句も実は褒姒を踏まえた裏の意味があるのではないだろうか。つまり其角なら「さんざん儲けて、女かこって幽王みてえなことしてんじゃねえか」という皮肉を込めたのではなかろうか、と思う。そう思って堀切実編注『蕉門名家句選(上)』(岩波文庫)および半藤一利『其角と江戸の春』(平凡社)をあたってみたが、あらあら、そんな読みをするのは私くらいのようであった。さて、『俳風動物記』に戻る。
蚊を入れないように子供だけを蚊帳に入れるのは「子福者の蚊帳へ数へてつつきこみ」(武玉川)のように技巧を要するのだが、一旦入った蚊は、耳もとへブーンと、高い羽音を立ててやって来るので、とても寝つかれない。掌で打ち殺すのも、ねぼけていてはうまくゆかない。そんな時には、おもい切りよく起きて、根もとを紙で包んだろうそくの灯を用意する。蚊帳に止まった蚊にその炎を近づけると、鳴き声を出す間もなく、ジュと音を立てて、灰も残さず消滅する。血を吸ってふくれあがったのは、多少の手ごたえがある。子供にはやらせてもらえない作業だが、焼殺の効率はよくて、短時間にして安眠が得られる。
いささか脱線するが、ここから分かることは「蚊帳は容易に燃えない」ということである。それで思い出すのが、三島由紀夫『金閣寺』の放火シーンである。
最初に運んだのは、吊手を除いた蚊帳と敷布団一枚である。次に運んだのは掛布団二枚である。次はトランクと柳行李である。次は三束の藁である。これらを乱雑に積み上げて、藁の三束は、蚊帳や布団の間にはさんだ。蚊帳が一等火がつき易いように思われたので、それらを半ば他の荷の上へ拡げるようにした。(十頁ほど中略)火は藁の堆積の複雑な影をえがき出し、その明るい枯野の色をうかべて、こまやかに四方へ伝わった。つづいて起る煙の中に火は身を隠した。しかし思わぬ遠くから、蚊帳のみどりをふくらませて焔がのぼった。あたりが俄かに賑やかになったような気がした。
おそらく放火した青年僧は蚊を焼いたことがなく、一方作者の三島由紀夫は「蚊帳は容易に燃えない」ということを熟知していたのだろう。迫真の描写である。
*
俳人の立場から興味を覚えた部分を拾って見てきたが、『俳風動物記』には動物生態学者としての発想の飛躍にのめり込むくだりが二箇所ある。ひとつはびわ湖特産のハゼ科淡水魚イサザの出自であり、もうひとつは同じびわ湖特産のセタシジミの出自である。とりわけ後者の発想はダイナミックで、門外漢の私にとっても感動的ですらある。中国に太湖という湖があり、そこにセタシジミそっくりのシジミがいるという。それに対し、なんと著者・宮地伝三郎氏は日本列島が中国大陸と陸続きだった時代にまで思いを馳せる。その時代、揚子江と当時は南流していた黄河とは合流して一本の河として南支那海に注ぎ、びわ湖と瀬戸内海を結ぶ「古瀬戸内海」はその一つの支流として、それに合流していたと推定される。よって、太湖と古びわ湖は同一水系に属していたのだ、という。実にスケールの大きい推察ではないか。これらのくだりでは、俳句の読者そっちのけで、江戸俳諧の引用もなく筆が進み、その集中がすばらしい。随想というものは「こうでなくては」と、つくづく思う。
●
Posted by wh at 0:08 0 comments
2011-05-22
爽快、「理解不能で面白い」という感じ方。 樋口由紀子『川柳×薔薇』を読む 山田耕司
爽快、「理解不能で面白い」という感じ方。
樋口由紀子『川柳×薔薇』を読む
山田耕司
≫関悦史「私が川柳大会について知った二、三の事柄」:ウラハイ=裏「週刊俳句」2011年5月7日
岡山で開催された川柳雑誌「バックストローク」の大会に選者として臨席した折のことを関悦史が書き起こしているのだが、彼の簡潔な文体と的確な批評、そして被災後の日常から岡山の日常を見て「異様に見えた」とする紀行奇譚風な書き出しから、どうも『ガリバー旅行記』を読んでいるような気分になった次第。
川柳では俳句でいうところの句会というのはあまりなく、「大会」という形式が一般的らしい。百人から数百人くらいが一堂に会して、複数の兼題全部に対して投句するのである。投句は膨大な量となるので、いちいちにコメントしている暇はない。 そもそも参加者は講評にはあまり関心がなく、自分が採られたかどうかが問題なのだそうだ。選者に採られることを川柳では「抜ける」という。 さらに選句のしかたも、基本的に選者の好き嫌いでいいらしい。選者個人の川柳観と普遍性とのすり合わせを飛ばせるわけで、批評が育ちにくく、文芸ジャンルとしての自律性が得にくいというのは、この辺にも原因がありそうである。なるほど。センリュウ国の生態の一部がここに知らされていて興味深い。と同時に、われらが関悦史が「選者個人の川柳観と普遍性とのすり合わせ」ということに着目しているところがハイク国の生態を示しているわけでもある。俳句においては個人的な批評と普遍的な批評とは「すり合わせ」るべきもの、というのが関氏の態度だ。個別の一句の批評がそのまま形式そのものへの批評として帰納されうることを前提に論考する、その姿勢は俳句の特徴として、まことに共感(まあ、形式の約束事を形骸化して、その形骸のカチコチを無検証に演繹することで「俳句をやってます」ということにしちゃう場合があるのも弊害となるわけではあるが)。
さるにても、文芸ジャンルとしての自律性が得られない、というのはどういうことだろうか。
「川柳って何?」「ん?俳句から季語抜いたヤツじゃない?」というようなやりとりがあるとして、俳句の相対的な位置でしか認識し得ないということなのだろうか。
●
樋口由紀子の新刊『川柳×薔薇』は評論集。
初ざくら自愛ほとほとくたびれる 池田澄子
遠くの船につい手を振って青水無月
初恋のあとの永生き春満月
デリケートな感情を書くのがうまい。それも概念で括りえない感情を提出する。その時々の彼女の見ているものや考えていることをくっきりと受け取ることができ、捉えている世界が見える。それは主体がはっきりとし、事象をしっかりと見据えているからである。彼女の文体はありきたりではなく、そこかしこに工夫が施されている。従来のオーソドックスな俳句では掬い取りにくかったものを掬い取った。彼女の髪にとめてあるヘアーピンはどんな金庫破りも手が出せなかった俳句の新たな領域の金庫を開け放った。
掲出の文は「固有性と独自性」と題した池田澄子小論。口語体と韻律のありようをもって池田澄子の個性を指摘し、対象の捉え方に「従来」にない非凡さを指摘している。指摘はしているが、どうしてそういえるのか、その論拠はほぼ「評者がそう感じた」、ということにかかっているようである。
初恋のあとの永生き春満月
この句における「春満月」はどのように機能しているのか。
「初恋のあとの永生き」を端的にまとめてみせた<喩>であるともいえようが、同時に、四季の移り変わりを人生におきなぞらえた上での春の役割を作者は意識しているだろう。「初恋のあとの永生き」という<経過>としての時間と「春満月」という<点>としての時間をひとつに折り畳むのは、すくなくとも「作者が個人的に抱く感情」+「季語」=俳句 という図式ではない。
むしろ季感そのもののイメージ、関悦史の言葉を借りれば「普遍性」をまず飲み込んだ上での一句ともいえよう。あえていえば「春満月」のひとつの<喩>として「初恋のあとの永生き」がもてなされていると、とらえることさえできるのではないか。
と、こんな理屈を述べるのは、やはりハイク国の住人的なんだろうなぁ。
実のところ、作品という次元で考えると、現代俳句と現代川柳との区分は見いだしにくい。俳句作品そのものが、その表現の特徴に於いてが一枚岩というわけでもない。
ああ、そうか、やはり。読みの方向が異なるんだな。
俳句と川柳との差を形成しているのは、読者、か。
見ているものや考えていることをくっきりと受け取ることができ、捉えている世界が見える。それは主体がはっきりとし、事象をしっかりと見据えているからである。この部分は、池田澄子の批評のカタチを借りた、川柳の川柳たるところの言挙げなのではあるまいか。
しかるに、『川柳×薔薇』とは、川柳作家がみずから川柳を追う姿勢を告白する一冊であり、そうした追いかけ方が批評としてどのような姿をすることになるか、その可能性の一稜線として味わうべきなのであろう。
ここで私は選と見直しを終えた後、時間が余ったので、何の気なしに、選んだ句を全部番号順に並べておいた。 これが実は川柳大会最大のタブー(?)であったらしい。 私が披講する番になり、採った句を読み上げはじめたら、五、六句目あたりから、これはどうも番号順に並べられてしまったらしいと悟った会場がザワザワザワとどよめき、笑い始めた。 終わってから樋口さんが、言うのを忘れていた、まさか番号順に並べるとはと飛んできた。川柳大会の披講はランダムに並べるか、後ろの方ほどだんだん良くなるように配列するかのどちらかなのだそうで、番号順の披講というのは私に実際にやられるまで予想すらしなかったらしい。ここが少々不思議なところではあるが、俳句関係者は今後川柳大会の選者を務める機会があったら、一応念頭に置いておいたほうがよいかもしれない。俳句関係の何人かと話したが、川柳大会のこの習慣について聞いたことがあるという人はいなかった。(前掲・関悦史 「私が川柳大会について知った二、三の事柄」より)なるほど、感動の順、か。
全体像へのまなざしよりも、向かい合う一句への情熱を優先するわけか。
川柳は前句付けから始まった文芸である。(『川柳×薔薇』「はじめに」より)前句付けといえば「斬りたくもあり斬りたくもなし」という題がまずあって、そこに「盗人をとらえてみれば我が子なり」と付ける仕儀であるが、その回路は、人間として「ああ、わかるわかる」と膝を打つことでつながっているといえるであろう。
一方、俳諧の連歌においては、季の遷り、言葉の「句去り」を意識して進行させる、すなわち、未知なる全体がありその表現のひとつとして現前の句があるという発想があり、すなわちその回路は、人間の生き方や感情よりも、語同士の響きあいの方に重きを置きつつ、付きつつ離れることで結ばれるものとなる。
こうしたバックグラウンドが、今日すべて引き継がれているとは思えないのだが、すくなくとも読者が形式に何を期待しているのか、その姿勢は、俳句よりも川柳の方がはっきりしているように思えるのは私だけだろうか。
おそらく近代における「俳句」の<発明>が、文芸としての出自と表現の見とどけどころの少なからぬズレの発生源。そこを掘り下げるのは当文章の主旨ではないが、川柳において古層と現代とがしっかりと地続きであることをこのところ感じていることは『川柳×薔薇』の読後感として報告させていただきたい。
さきほどの関悦史の懸念、川柳においては批評の育ちにくさが文芸ジャンルとしての自律性の得難さにつながる、ということについてであるが、むしろ、普遍性やら仮想された全体やらへのすり合わせをあえてしないことで、古層とのつながってしまうようなところにこそ、文芸ジャンルとしての川柳の自律性を樋口が見いだしているのではないかとさえ思えてくるのである。
(池田澄子の独自性を述べるにあたり「従来のオーソドックスな俳句」と異なるというのだという筆者の指摘は、その「従来のオーソドックスな俳句」とはどういうものであり、どのような点において池田澄子が突出しているかを論述しなければならなくなる必然を含んでしまう。俳句批評としてあげつらうならば、そこに筆が及んでいないことに触れなければならない。
しかし、本書の意義は川柳の批評の立ち姿にある。むしろ、通時的な視野にちょっと触れることで、「感じること」を重んじる筆致の一貫性に余分なブレが加わってしまったのを本書の瑕として惜しむことにしたい。)
●
さて、そうした川柳の読み方にふさわしい作家として攝津幸彦の作品に再会したのも『川柳×薔薇』においてである。
一般常識からズレていて、答えが明示されないので、焦点が合わせられない。まして全貌を把握することなど到底できない。だからといって、誰か巧者に読み解いて欲しいとも思わない。理解不能で面白い。それだけで満足する不思議な作品である。(「籤箱からの言葉」より)樋口由紀子が「私の宝物」とする攝津幸彦句集『與野情話』への文章から。
攝津幸彦は、きわめて俳句的な作家であり、方法を追い求めておのれの私情を去り、であるからこそ、自己の世界を歪ませて見せることができた、と山田は個人的に思っているのだが、そのことはさておくこととしよう。
攝津幸彦の句の持ち味を壊さないように解説しようとすると、これが至難の業なのである。とくに俳句の全体像を仮想して、その「普遍性」とのすり合せをしようとすると、その回路の複雑さ飛躍の非凡さにいなされることとなり、よしんば、そのあたりを散文化してみせたところで「余計なお世話」レベルの言辞になってしまいがちなのである。
しかるに、「理解不能で面白い」という樋口の感じ方こそが、攝津幸彦へのただしいアプローチなのかもしれない。「理解不能だが面白い」ではなく「理解不能で面白い」という感じ方に、川柳の現在を見いだしてしまう。また、ともすれば「理解不能でつまらない」と言いのけてしまいがちな、そんな俳句批評の保守化に風穴を開けうる姿勢をも「理解不能で面白い」という認識に対して感じてしまうのだが、いかがであろうか。
●
さて、本書は三部構成になっており、おおむね、川柳を巡る総論、句集評、作品評とわかれているようである。その第一章、この評論集の巻頭が「川柳における『私性』について」。
時実新子の活躍は「思いを吐く」川柳に勢いをつけ、女性川柳人に浸透していった。川柳を成立させる根拠を私の思いを吐くところに置き、現実の、日常の私をそのまま述べるだけの、日常生活の一面を少しだけ膨らませた「私」のいる川柳が多く書かれるようになった。読み手は悲壮感などの感情移入できるものを好み、難解で複雑なものよりもわかりやすい感情を好み、共感した。 (中略) 時実新子は時実新子という物語の「私」という場で川柳を書いた。しかし、多くは時実新子の現実の出来事の「私」として川柳を書いたと錯覚した。大切なのは「私性」を感じさせる面白みを言葉のどこでどのように関係づけていくかである。言葉より思いの方を重視して、言葉より自分の思いを優位に置き、そこで川柳は「私性」を作り上げてきた。現実の出来事の主体としての「私」をよりどころとして創作し、そういう「私」を期待して作品を読もうとする行為を川柳の今日までの流れとして客体化した上で、一方、共通の価値観を通じて受けを狙うような既成概念の練り直しが近年の川柳の傾向であるとも指摘、川柳の良質性を活かす独自の機知として、「私」から発するものの見方を私性と位置付けて提案する。
さらに、
この5句を挙げてつぎのように続く。十人の男を呑んで九人吐く 時実新子
現身にほろりと溶ける沈丁花 大西泰世
レタス裂く窓いっぱいの異人船 加藤久子
眦の深き奴隷に一礼す 清水かおり
たすけてくださいと自分を呼びにいく 佐藤みさ子
時実新子は時実新子という物語の「私」という場で川柳を書いたと先に書いたが、時実新子は自分の作り上げた時実新子の物語から抜け出ることができなかった。しかし、清水かおりは清水かおりの物語を持とうとしていない。佐藤みさ子も同様に佐藤みさ子の物語を持とうとする意識が皆無である。彼女らは出来事化した「私」を語ろうとはしない。作中主体は作者だろうけれど、「わたくしごと」に比重はかけていない。そんな「私」でさえ川柳にできることがわかる。何も起こらなくても、何も起こさなくても「私」という存在は得体の知れない、不思議な面白いものなのである。ここにおいて、樋口の言う「私性」というものが、「わたくしごと」から離れ、共感を得やすいような既成概念の練り直しからも離れたものとして位置付けられていることは、わかった。
とはいえ、私性とは個人的な出来事を含まない主体のありようだとして、それは作者が意図するべきガイドラインのようなものであるとするならばまだしも、たとえば読者として作家を区分する上での特徴として用いるには、読みが恣意的になる傾向を避けられないのではないだろうか。どれが「私」という場から離れていて、どれが既成概念から距離をとっているのか、それをあらかじめ読者が見分けられるのかどうか。
たまたまなのかもしれないが、上記の5人では、脱「時実新子」、という視点があらかじめ予定された上で、性的な物語性をふくむか否かという線引きを「私」という場からの距離の実例へと引き写してしまっているだけのように思えるのであるが。
論はさらに川柳と俳句の比較へと続くのだが、これには「ちょっと待った」をかけたくなる。
を挙げて、まずは、縄跳びをするぞともなかは嚇かされ 石田柊馬
赤ん坊に もなかの皮に ある時間
山の向こうにやさしいもなかが待っている
三月の甘納豆のうふふふふ 坪内稔典
四月には死んだまねする甘納豆
十二月どうするどうする甘納豆
石田柊馬の川柳には「私」が見える。彼は「もなか」に心を通わせて、何かを乗り越えようとしている。事情や出来事に対する思いではなく、世間や世界に対しての意識を、言い換えれば、不条理と自分自身の関わりを「もなか」を仲立ちにして、引き上げている。「もなかは」の「は」、「赤ん坊に」「もなかの皮に」の「に」などの助詞に「私」の意志を強く含ませ、そこには明らかに「私」が存在し、「私」に問いかけている。石田柊馬の川柳に「私性」の一つの捉え方を垣間見ることができる。と論じているのだが、「もなかは」の「は」、「赤ん坊に」「もなかの皮に」の「に」などの助詞に「私」の意志を強く含ませ、そこには明らかに「私」が存在し、「私」に問いかけている。という部分において、どうしてその助詞に「私」の意志が含まれているといえるのか。そこに明らかに「私」が存在しているというが、その「私」とは樋口が述べてきた「私性」とどのようにかかわるのかが、よくわからない。
どうもお菓子つながりということで、「甘納豆」の登場となったようなのだが、こういっちゃなんだが、どうしてよりによって坪内稔典のこのあたりの句を以て俳句の一般性へと論をつなげてしまうのか。そこのところもよくわからない。これらの句を評して
作者がものに向き合い、いかに対処するかというのではなく、ものというのは、作者がいなくても「私」をなしにしても、「私」がどう思っても、そのままでそこにあるのではないかという書き方であるとあるが、掲出の坪内の句は、「言葉遊びで面白がっている自分」が甘納豆と一緒にスナップショットのフレームにおさまっているような趣であり、どちらかといえば「私」が感じられるタイプの俳句作品なのではないだろうか。
あ、しまった。本書の面白みは「感じ方」にあると認識したばかりであった。
こまかいところで立ち止っていては、本書の魅力を伝えそこねる。
●
そういえば、なにげなく読んだ新聞記事に目が釘付けになり、「ああ、私には俳句は詠めない、川柳でよかった」と痛切に思ったことがあった。長谷川櫂の「古典について」というエッセイで朝日新聞に数日連載されていた。「古典を学ぶということは一も二もない。幾度も自分を殺すことである。そして、ことばのはるか彼方から響いてくる言葉の声に耳を澄ます」ものであり、「個性、才能、自己表現。そんな恥ずかしいものを見せびらかしたい人は勝手に見せびらかしてくれ。早晩、時間がきれいに洗い流してくれる」と書いていた。「個性、才能、自己表現」どれも私の憧れるものである。たとえそれが取るに足らない恥ずかしいものであっても私はそれにこだわりたいし、そこで表現していきたい。(『川柳×薔薇』「詠めばわかる」と題された文より)まるで自分の作品は時間に洗い流されることが無いとばかりの高所からの長谷川櫂の口吻には閉口するが、それはさておき、作者の態度を制限することで良い作品が生まれると思っていることに俳句表現の「つまらなさ」を樋口が感じているとしたら、山田は樋口を支持する。
俳句には「人からクレームが付けられないように作りたい」という作者の姿勢と「そういう配慮があるんだなあ」と読み取る読者のキャッチボールのようなやりとりが見受けられることがある。実のところ、これは俳諧の連歌のマナー(ヘタだと「二の句が継げ」なくなる)。
そうした他律的な「制限」をどうやって自律的な「制限」へと切り替えていくのか、そこにこそ俳句が近代以降直面するはずの課題があったのではないか。こうした「全体への配慮」を解体していく過程こそが、俳句における「私性」と向かい合うことになるはずなのだ。しかしながら、ともすれば、句の向こうに私生活(わたくしごと)がどれほど垣間見えるか、といった程度にしか「私」をめぐる議論がふくらまないのが、俳句を巡る現状の課題であろう。
作品を通じて人を見とどけ、また、人を見とどける読者を想定して言葉と向かい合う、そのやりとりの情熱を、まことにわかりやすく伝えてくれるのが、『川柳×薔薇』の魅力。「私大好き」という自己愛から距離をとりつつ「私」をめぐる考察を重ねていって、とはいえ結果的に評者の「私」を感じさせてやまないスタイル、これは川柳の評論の特徴なのか、樋口由紀子のスタイルなのか。まあ、その判じ難さそのものも川柳の余裕なのかもしれず。一冊を通して出会える川柳作品の面白さくすぐったさも手伝って、愉しい一冊、読後感、爽快。
●
Posted by wh at 0:40 0 comments
2011-04-03
【俳句関連書を読む】金子兜太×池田澄子『兜太百句を読む』 西原天気
【俳句関連書を読む】
よろしき距離
金子兜太×池田澄子『兜太百句を読む』 ……西原天気
池田澄子が金子兜太100句を選び、一句ずつについて作者と選者・評者のふたりで語り合うという趣向の『金子兜太×池田澄子 兜太百句を読む』 (ふらんす堂・百句他解シリーズ 2011年3月)。すでに刊行されている「百句自解シリーズ」の向こうを張った、とも言えます。
この本、とてもおもしろい。
ほぼ時間軸に沿って句が並んでいるので、伝記的な意味での「兜太入門」にもなります。
他選なので作者本人にとって予想外の句もあり、また、これまで注目度の高くなかった句も紛れ込み、むしろその点もおもしろく読める。有名句を集めたアンソロジーでは味わえないことです。
逆に、通り一遍のアンソロジーには当然入っていそうな句が洩れたりもします。例えば「原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ」は洩れ、池田が選んだのは「原爆の街停電の林檎つかむ」。この2句について、兜太と池田のやりとりのなかで、池田が次のように言います。
(…)反対のしようがないんです、「原爆許すまじ」って。「そうでしょうか」とか言えないんです。洩れたといっても、洩らした理由について語られるのですから、結果的には洩れていないのですが。
絶対に正しいところが、生意気ですが私は物足らないのです。
この本のおもしろさは、池田澄子というキャスティングの成功がもたらしたものでしょう。金子兜太という大俳人、兜太句という偉大な産物との距離感がいい。池田のそれらへの愛情は、深いけれども、盲目的ではなく、適度な距離があるのです。
よろしき距離が生み出す対話のおもしろさ、俳句を語ることのおもしろさが、この本の随所にあります。
もし、例えば、編集部が、金子兜太「先生」にインタビューするというかたちでは、こんな本になりません。あるいは、兜太に心酔する人とでは、このような対話にはなりません。
金子兜太への信仰表明・帰依宣言のような文章は、比較的よく目にします。
去年2010年9月に創刊され、このところ更新のないサイト「俳句樹」に連載されていた「海程ディープ/兜太インパクト」は少なからぬ人に驚きと失望を与えました(私もそのひとり)。
ファンクラブの会報と見紛うような、信仰表明・帰依宣言は、書き手本人には意義のあることでしょうし「海程」という組織にとっても意味があるかもれませんが、多くの読者にとっては、「なに、これ?」であり、むしろ「金子兜太」を遠ざける負の効果を生みます。
それではもったいない。兜太句は、読者すべての共有財産ですから。
百句他解シリーズは、これからどんな作者と読者(選者・評者)の組み合わせが実現していくのでしょうか。楽しみです。
池田澄子が作者の役にまわることも当然考えられますが、そのとき誰が選者・評者の役をこなすのか、それも楽しみです。「信仰表明・帰依宣言」ではなく、よろしき距離をもって池田澄子俳句を愛し、語れる人をもってくるのは、簡単ではないでしょうが、このシリーズの成否はそこにかかっているはずです。ふらんす堂編集部に期待、です。
Posted by wh at 0:02 8 comments
2010-02-14
【俳句関連書を読む】西村睦子『「正月」のない歳時記』 ……上田信治
【俳句関連書を読む】
ひとりのおっさんが好きに決めた部分
西村睦子『「正月」のない歳時記』
……上田信治
ちょっと以前、古典文法に照らして、俳句における慣用表現を文法的に間違っていると、あげつらうような議論がありました。
そういうとき、慣用表現の攻撃派も擁護派も、学校で使うような古語辞典の記述をもとに、自説を展開されるので、「そんな中高レベルの話じゃなくて、その辞書作った人呼んできてよ」と思ったものです。
●
歳時記と季語を巡る議論についても、そんなもん「作った人呼んできてよ」ーーと、著者が思われたかどうかわかりませんが、西村睦子著『「正月」のない歳時記』は、副題に「虚子が作った近代季語の枠組み」とあるように、「季語」「歳時記」を論じるにあたって、まず「作った人=虚子」を呼んで、その考えをただそうという、たいへんラディカルな一書です。
●
「季語」および「歳時記」は、海底にプランクトンの死骸がふりつもるように「歴史の中でじょじょに蓄積された」というイメージ(それを「伝統」といってもいいでしょう)に、その正統性を負っていると思われます。
多くの歳時記編者が、「季語」「歳時記」について「幾時代もかけて日本人が総がかりではぐくみ育ててきたもの」(河出文庫『新歳時記』1989)「日本という風土の自然現象と生活と美意識とを長い歳月のあいだに選択し、分類し、そして集成、体系づけた」(ハルキ文庫『現代俳句歳時記』1997)「日本人の生活感情の総索引」(角川書店『角川俳句大歳時記』2006)「日本文化のエッセンス」(角川文庫『俳句歳時記第四版』2007)と、書いていることを見ても、それは、そうはずれてはいないでしょう。
しかし、はたして本当に、「歳時記」の総体というものは、「編著者」イコール「日本文化」のようなかたちで成立したものなのか。
調べてみたら……やっぱりな事実が現れます。
●
著者は、近代的歳時記の成立を明治後半とし、そこから昭和初期に至る代表的な歳時記の収録語彙の変遷を、季語単位で調べてゆきます。
すると、たとえば、こういうことが分かる。
「障子洗ふ」「障子貼る」
江戸期は嘉永1「季寄新題集」に「障子出し」があるのみで、例句なし。
明41年12月刊柏浦編[新撰歳事記] 「障子洗ふ」(障子干す・障子張る) 例句なし
明43[明治新題句集] 冬に例句2。
張りかへし窓の障子や機織場 三川
海晴れて船の障子を貼る日かな 四沢
他の例句集には例句なし
[ホトトギス雑詠]大正4年に登場。以来、昭和9年までに「障子張」(「障子洗ふ」ふくむ)の項に224句。
昭8 改造社版「俳諧歳時記」 例句1
昭9 虚子編「新歳時記」 「障子洗ふ」例句5 「障子貼る」 例句7
冬の部首題に「障子」加わる。
(同書p.322より抜粋)
つまり、それまで、ほとんど使われていなかった季語が、ある時「ホトトギス」雑詠に入選することで、爆発的に流行し、季語として定着するということが起こる。
加えて「障子」の冬への立項にいたっては(障子を貼るのが秋なら、障子は冬でいいんじゃないか、ということなのでしょうか)、もう「新歳時記」を一人で書いた虚子の恣意によるものだとしか、言いようがない。
そして現在「障子貼る」「障子洗ふ」「障子」が立項されていない歳時記というのは、おそらくないか、よほどの例外に属する(いい句がたくさん出来ちゃってますからね)。
●
著者は、500あまりの季語について検討を加え、次のようなことを指摘していきます。
・現在流通する「歳時記」の収録季語のかなりの部分は、虚子の雑誌運営上の戦略と、恣意によって定められた。
・大正8年のホトトギス付録「季寄せ」から、唐突かつ強引に太陽暦に移行したため、多くの矛盾や不具合が生じている。
・「薄氷」を春の氷に限定したのは、あきらかに虚子の一存(和歌では冬春両説、連歌では冬十月とされていた)。
・「虹」「夕焼」「瀧」を夏の題にしたのは、もちろん虚子。
・「春の泥」→「春泥」「春の炬燵」→「春炬燵」など「の」を縮めて四音五音にして、使いやすくするのは虚子好み。ほかにも「春眠」「春潮」など「シュン」大流行。
他にも、多くの季語についてのトピックがあり、読み物としても実に面白い。季語と歳時記を考えるにあたっての、必読書と言っていいでしょう。一読をお勧めします。
虚子の季題に対する考え方はまことに合理的で自由閥達であり、恣意的に無季の句も選んでいるし自らも作句しており、季題に縛られていない。時代や社会の変化に対応して古臭い実際に使われない題はバッサリ捨て去り、"実際に身の回りにある題材を見たままに客観写生して詠みなさい" と奨め、結果的にはこの花島諷詠・客観写生路線が開拓した多くの題の中から、季題と認めた句を選んで雑詠欄に載せた。さらにその中から独断で選択を行い、歳時記を編んだのである。
季題とするかどうかは虚子の胸三寸にあった。虚子編序文の結びの言葉、《作句本位の最も便利な歳時記を作るのを目的としたものである。》ーーまさにその通りである。作句者である誌友のニーズを最優先し、"詠みたい題、詠める題=使える題" を集めたそのことが結果的には季語を再編し近代における季語の枠組みを作り、現在我々が使っている季語のベースを作り、客観写生と相挨って俳句の大衆化を一気に推し進めたことが分かった。
(同書p.455-456)
●
ところで昨年12月刊の「俳句」1月号から、片山由美子「伝えたい季語 変化する歳時記」という連載が始まっていて、本書の刊行(昨年12月)とまさに同時スタートで、歳時記に見る季語の変遷という、同じテーマを取り扱っています。
一見、合理的に思える現実に即した歳時記という発想は、季語が負ってきた季節感を奪うものであり、季語の働きを否定するものである。(片山「歳時記を考える」2009「俳句年鑑」角川書店)
と書くように、「プロ歳時記(歳時記優先主義)」的立場をとる片山氏が、季語・歳時記の変遷をたどってゆけば突き当たるにちがいない「ひとりのおっさんが、好きに決めた」部分を、どう呑み込んでいくのか、興味深いです。
とりあえず連載2回目で、片山氏は「薄氷」について、ある意味より伝統的と言える「残る氷」や「春の氷」を、虚子が「薄氷」の傍題にしてしまったことに驚きつつ、「虚子の意図は「うすらい」という美しい言葉を前面に出すことにあったのではないか」(「俳句」2月号)と、しています。
プロ歳時記≒プロ美意識である、ということに、なっていくのかもしれません。
●
もともと自分としては「歳時記」「季語」について「作品に即して、ゆるく」と考えていましたが、それって意外と、虚子の考えに近かったかな、と。
●
Posted by wh at 0:04 0 comments
文庫化をよろこぶ 高浜虚子の『俳句の作りよう』『俳句とはどんなものか』、正岡子規『仰臥漫録』 猫髭
【俳句関連書を読む】
文庫化をよろこぶ
高浜虚子『俳句の作りよう』『俳句とはどんなものか』、正岡子規『仰臥漫録』
猫髭
角川ソフィア文庫から、昨年の7月に高浜虚子の『俳句の作りよう』、9月に正岡子規の『仰臥漫録』、11月に虚子の『俳句とはどんなものか』と、陸続と虚子と子規の本が出て、子規と虚子の袖珍本は岩波文庫専属と思っていたので目を引かれた。駅構内の「通勤読書本」売店に、返品が利かない岩波文庫が並ぶことなどありえないとしても、俳句の本が立て続けに平積みで並ぶというのも前代未聞ではないか。しかも、虚子の『俳句の作りよう』は三版を重ねており、『俳句とはどんなものか』の売れ行きもこれを上回る勢いである。
俳人というのは、他人の俳句関連書を買ってまで読もうという習いは余り無い。これは、句集は売るものでも買うものでもなく、配り恵贈に与るものであるというのが俳句世間の常識だからである。しかし、『俳句の作りよう』は売れた。マーケティングの天才が角川ソフィア文庫の編集者には居たということだ。
マーケティングの基本はAIDA理論が基本になる。Attention(注目)、Interest(興味)、Desire/Demand(欲しい)、Action(買う)である。『俳句の作りよう』の表紙をご覧いただきたい。誰これ?
睫毛こそ描かれていないがゲジゲジ眉毛にパッチリお目めの真赤なおちょぼ口の帽子を被った口髭親爺の顔がどでかく載っている。高浜虚子の本だから虚子なのだろうが、確かにわたくしも御本人には御目文字したことは無いが、全集の巻頭で写真は見ているから、まったく似ていないどころか、一体何を根拠にこういう肖像画を描いたのか、飯野和好という画家(ほんとに画家か)、いや、書き直しを命じなかった編集者に直に聞いてみたいくらいぶっ飛んだ肖像画である。
しかし、虚子はまだいい方かもしれない。正岡子規の『仰臥漫録』の肖像画など、どっから見てもこそ泥にしか見えない。表紙を開けると本人の写真があるから比べればわかる。表紙絵は首に赤いマフラーのようなものを巻いているから赤い着物を着た囚人か、贔屓目に見てもやっぱり泥棒にしか見えない恐れ入った肖像画である。
しかし、まさしくこのインパクトこそ、この本を手に取る最初のAttention 、Interestの2ステップを楽々とクリアーしている見事なまでの編集力なのだ。
虚子の二冊は昭和27年『俳句の作りやう』として合本となり、わたくしは鎌倉の古書店で散歩のときに見つけて読んでいる。この本は小学生にもわかるように書かれたものだから、かなり大掴みな書き方をしているので、新樹社が昭和47年に出した『俳句読本』も、『俳句の作りやう』では飛ばされた話題も網羅されているので、併せて読んだ。
子規の『仰臥漫録』は、四十年ほど前、講談社の『子規全集』第十一巻の四大随筆集が第一回配本だったので、新刊で買って読んでいる。
にも関わらず、この三冊の新刊はわたくしを喜ばせた。
先ず『俳句とはどんなものか』も『俳句の作りやう』も、『定本高濱虚子全集』(昭和49年、全16巻、毎日新聞社)には完全な形では収録されていない。どちらも雀の涙ほどの抄録である。角川書店の『飯田龍太全集』の時もわたくしは激怒したが、全集というものは、
悉く全集にあり衣被 田中裕明
でなければならない。これでは全集ではなく選集に過ぎない。解題の栗田靖に寄れば、昭和9年の改造社版と昭和24年の創元社版全集には全文が収録されているという。昭和49年版の毎日新聞社版は抄録だが削正が加えられているという。だったら、最新版を全文収録して校異として巻末に纏めればよいではないか。というより全集とはそういうものである。実に杜撰な編集としか言い様が無い。文庫本とはいえ、全文を読める方がまだましである。活字も大きく読みやすい。
『仰臥漫録』は寒川鼠骨が原本を子規庵から持ち出しては愛読していたが、いつからか、子規生誕百年祭まで行方不明になっていて再版不可能だった経緯があり、遺族と子規庵の管理者が裁判沙汰になる曰く付きの一書で、今回は全編カラー写真という快挙で、かつ原文が漢字とカタカナだったのを漢字混じりのひらがなに組み直して読み易く配慮してある。ただそのまま出しました、ではない工夫を凝らしているのだ。実に芸が細かい編集である。
子規には新聞などに連載された『松蘿玉液』『墨汁一滴』『病牀六尺』(いずれも岩波文庫で現在復刊中)という三大随筆があるが、『仰臥漫録』は一般に公開されない子規の私的日記だった。これが「この人を見よ」というしかない凄まじい闘病記なのだが、寒川鼠骨ではないが読むと勇気を手渡されるような赤裸裸な魂に触れる清冽さがあるのである。人生のバイブルと言ってもいい。これほど死と正面から向き合った記録は稀有だからだろう。
表紙に関しては、さすがに売れたとはいえ、気が引けたのだろうか、三作目の『俳句とはどんなものか』は肖像画ではなく、虚子の遺品を描いている。腰帯を外した写真を冒頭に載せたが、虚子生誕百年祭のイベントに訪れた者ならわかるが、一番下の手提げ袋は虚子の愛用した俳句手帳や老眼鏡や筆記用具を入れた俳句袋なのだ。わかる人にはわかる心憎いばかりの心遣いで、わたくしは前二作の肖像画の暴挙を忘れて、飯野和好という画家とカバーデザインの井原靖章と編集子に、一挙に尊敬と親愛の念を抱いた。
虚子の俳句入門は、「ホトトギス」誌上に大正2年5月号から「六ヶ月間俳句講義」として連載され、翌年3月『俳句とはどんなものか』と題して実業之日本社から発行され、大正2年12月から続編として連載された『俳句の作りやう』は、翌年12月同題名で発刊、第二次大戦下で絶版になるまで、合わせて百版を越えるロングセラーとなった。俳句本としては珍しいベストセラーだと言える。殊に『俳句の作りやう』は、内容が具体的に愚直なほど実作に徹していたので、部数も桁違いに売れた。しかし、それから百年近く経っているのだ。古典の部類に入ると言ってもいいだろう。にもかかわらず、巷間では歓迎されている。今はここまで手取り足取り教えることは少ないから、わかりやすくて新鮮だととらえられたのかもしれない。
虚子の俳論を一通り読めばわかるが『俳句とはどんなものか』と『俳句の作りやう』が一番面白く、「婦女老若にも判るように」という法話の「仮名法語」に倣っているので、これで俳句が詠めなければ嘘だというほど懇切丁寧で(無論水を飲みたくない馬は川に連れて行かれても飲まないが)、急く事無く諄々と説く平明にしてツボを押さえた実作論は、これを読んでいたら桑原武夫は「第二芸術論」を書かなかっただろうとさえ思わせる。
角川ソフィア文庫は、発刊の順序が逆で、『俳句の作りやう』の方が『俳句とはどんなものか』より売れたから先に出したという商売上の判断だろう。結局見事にその目論見は当たり、『俳句とはどんなものか』も日の目を見た。したがって、これから読んでみようかと思っている読者は、『俳句とはどんなものか』を先ず読んでから『俳句の作りやう』を読むことをお勧めする。やはり発刊の順に読んだ方が筋道が立つのは当然である。
で、なぜ面白いかだが、「婦女老若にも判るように」説くというのは、これは簡単なようでいて実に難しい。持論を説くに拙速で、上から目線の論がほとんどだからだ。虚子の指導者としての資質がずば抜けているというのは、『俳句とはどんなものか』を読み始めた途端にわかる。自分が俳句を全く知らなかった子どもの時から話を起こすのがそのひとつ。目線を本当に子ども時代に落として語り出す愚直さが凄い。
誰でも知っている加賀千代女の、
朝顔に釣瓶取られて貰ひ水
の句が最初に母から聞き覚えた句だという話をしたあと、近所の友人の家で、虚子は歌を詠みたかったのだが、友人が発句を作りたがったので、その友人のお母さんも発句を作るということになって彼女が思案の挙句に出した句が、
朝顔の蕾は坊のチンチ哉
いきなりこれである。虚子は子どもながらに「いくら発句は品の悪いものでもまさかそんなものではあるまい」と目を白黒させて説き起こすから面白い。
『俳句の作りやう』になると、実に実践的で、この第五章に「埋字」という俳句の鍛練法を出して来る。
虚子が子規と三河島村を吟行しながら歩いていると、子規が虚子に「鍋提げて」という上五の下に十二字をくっつけて句を作って御覧と言い出す。虚子は、泥田で田螺を掘っているのであろう、二三人の女が腰をかがめている景を目にとめて、
鍋提げて田螺掘るなり町外れ 虚子
という句を作る。それを見て子規は、実はこの原句は、芭蕉に私淑した高桑闌更(たかくわらんこう)の、
鍋提げて淀の小僧を雪の人 闌更
という句であり、「鍋提げて」だけを抜き出すとちょっと尋常でない言葉のようで、そのために虚子の句にしても「田螺掘るなり町外れ」だけでは平凡だが、「鍋提げて」をつけるとちょっと変わった句になっている、と言って笑ったという。
これは面白いと虚子は上五や中七や下五を埋字にして遊びまくる。そうすると、普通の句作では思いもつかぬ意外な言葉を見出したり、また意外な辺に考えが飛んだりして、先人の句作の苦労がわかったりと、句作の修練の上で得る事が多いことに気づく。そこから「埋字」により、古句の意味、その句作上の苦労を探り、それを自分の句作に応用し、漢詩や和歌を作る時の本歌取りのように、先人の句に刺激を受けて、自分でも思いも寄らない句が生れる可能性にチャレンジする事を虚子は薦めるのである。「温故知新」の実践と言えるだろう。
例えば、わたくしの愛誦句にこういう句がある。
底紅や黙つてあがる母の家 千葉皓史『郊外』
この句の埋字を、
〇〇〇〇〇黙つてあがる母の家
底紅や〇〇〇〇〇〇〇母の家
底紅や黙つてあがる〇〇〇〇〇
というようにチャレンジしてみれば、この句がどれだけ優れているか、いかに一字なりとも動かないかがよくわかる。
「酔芙蓉黙つてあがる母の家」だと酔っ払った放蕩息子の御帰館のようだし、芙蓉も木槿も朝に咲いて夕べにしぼむ一日花だが、木槿だと芭蕉の有名な句(「道のべの木槿は馬に食はれけり」)が邪魔になるのと比べても、底紅の「紅」が効いている。
「底紅や呼び鈴鳴らす母の家」では宅急便。
「底紅や黙つてあがる人の家」では泥棒だって。
というように「埋字」によって、自分の愛誦句もより深く味わう事が出来るし、何より、句をどう詠むかに様々な角度が付き、作句の幅が広がる。
俳句の創始者である子規や、俳句の普及者である虚子が考案した「埋字」は、俳句を読んで味わう事と、自分独自の句を詠むという「読解」と「作句」の両方を一挙に学べる俳句の鍛練法であり、「埋字」が様々な結社や総合俳句誌でも取り上げられているのはそのためだろう。
この子規が考え、それを広めた虚子という関係も面白い。子規は天才であり、その発想は驚くほど自由でオリジナリティに溢れている。言わばパスカルのように切れる。しかし、その天才のオリジナリティを、広く一般に普及させるには、デカルトのように、森の中で道に迷ったら一つの方向を決めて歩き通すという愚直なまでの実践的な信念が必要になる。砂漠に出たとしても森は抜けられたのである。虚子はデカルトの「方法叙説」を俳句で実践したとも言える。
わたくしが俳句に関して、よく鞄に入れているのは、正岡子規『俳諧大要』(岩波文庫)、高浜虚子選『ホトトギス雑詠選集』(朝日文庫)、『俳句歳時記第四版』(角川文庫)で、歳時記だけは山本健吉編『季寄せ』(文藝春秋)になることもあるが、これがわたくしにとっては袖珍本版俳句の三種の神器である。角川ソフィア文庫が売れたことと、NHKの「坂の上の雲」の放映により、子規に関心が集ったことで、品切れだった『俳諧大要』も七年ぶりに再刊された。ただし、『ホトトギス雑詠選集』は品切れのままであり、ここは角川ソフィア文庫の天才編集者に、角川文庫から昔出ていた『ホトトギス雑詠選集』を復刊させてもらいたいと切に希望するものである。
最後に去年見た忘れ難い光景を添えて終わりたい。
JR中央線高円寺駅ホーム上には文庫本の自動販売機があり、加賀まりこ『純情ババァになりました』(講談社文庫)や、佐伯泰英『居眠り磐音江戸双紙』(双葉文庫)と並んで、高浜虚子『俳句の作りよう』(角川ソフィア文庫)が並んでいた。コカ・コーラや煙草のように自動販売機で虚子が買える時代が来るとは、感無量である。
Posted by wh at 0:04 4 comments
Labels: 俳句関連書を読む
2009-11-15
虚子の未来・俳句の未来 久留島元
【俳句関連書を読む】
虚子の未来・俳句の未来
『国文学 解釈と鑑賞』74巻・11号(2009年11月)「特集 高浜虚子・没後50年~虚子に未来はあるか」を読む
久留島 元
まず目次を紹介したい。
●エッセイ・虚子を読む一目瞭然、「俳壇」サイド、つまり実作者からの起用が少なく、なにより虚子特集ながら「ホトトギス」関係者の少なさが目を引く。例外は熊本大学教授でもある岩岡中正氏(「阿蘇」主宰)、虚子記念館学芸員の小林佑代氏くらいか。
虚子の去年今年 野山嘉正
革新の古び 三田完
虚子と松山 竹田美喜
脱力虚子 清水哲男
写生句の読み方 佐佐木幸綱
●虚子と時代
現代思想としての虚子 岩岡中正
●写生文家・虚子
漱石と虚子 「余裕」の帰趨 大沢正善
虚子にみる回想の仕組み 漱石を語るということ 長島裕子
『寒玉集』時代の虚子写生文 その問題点と可能性と 中島国彦
高浜虚子の小説作法 『朝鮮』をめぐって 三谷憲正
紀行文というリアリズム 虚子と日本語表現のリアリティ 中川成美
●俳人・虚子
虚子のモダニズム 発句の解体 仁平勝
なぜ取り合わせをしないか 自流を行う 中原幸子
花鳥諷詠とは何か 「伝統」を装った近代 今泉康弘
虚子の季題論と季題 筑紫磐井
文学と生活の源泉としての「ホトトギス」 大野道夫
●写生文十冊
『鶏頭』/『俳諧師』『続俳諧師』 青木京子
『朝鮮』/『女七人に男一人』 三谷憲正
『風流懺法』/『柿二つ』 わたなべじゅんこ
『十五代将軍』/『虹』 神野紗希
『椿子物語』/『現代写生文集』 坪内稔典
●『虚子百句』を読む 五七五の魅力
坪内稔典/中原幸子/小西昭夫/塩見恵介/小枝恵美子/滝浪貴史/わたなべじゅんこ/中谷仁美/水上博子/二村典子/森山卓郎
●研究の手引き
高浜虚子研究文献目録一覧 小林佑代
ちなみに、たまたま手許に以前古本屋で買った『解釈と鑑賞』36巻12号「特集 虚子と虚子以後 現代俳句の大動脈として」(1991年10月)があるので、双方の執筆陣をざっと比べてみる(各タイトルは割愛)。
●虚子雑感 飯田龍太内容以前でこだわり過ぎるのも失礼だが、やはり実作者が圧倒的に多く、第二部の各論から推しても基本的に実作者側に立った編集だったといえそうだ。
●座談会 高木晴子・上野章子・大岡信・川崎展宏
●第一部 <虚子>とは何か
柄谷行人/高橋睦郎/平井照敏/矢島渚男/原子朗/粟津則雄/清崎敏郎/藤井淑禎/小澤實/本井英
●第二部 虚子以後―現代俳句の更なる展開―
栗田靖/野山嘉正/原裕/宮坂静生/松本旭/廣瀬直人/上野さち子/倉橋羊村/松井利彦/長谷川櫂/森田峠/村田脩/宇多喜代子/畠中淳/小室善弘/桂信子
●事典・虚子と現代俳句の作家 川名大
ここでの注目は虚子の四女・高木晴子氏、五女・上野章子氏を迎えた巻頭座談会「父・虚子、俳人・虚子を語る」。個々の執筆者の意図は別にして、ここでは「虚子」の作品よりも「人物」を含めた「虚子特集」が意図されていた、といえるだろう。
これに比べ、今回の74巻11号の執筆陣には、作品へ向き合う「読者」の視点が期待されているといえる。今回の特集の目玉と思われる「『虚子百句』を読む―五七五の魅力」について、坪内氏は次のように述べる。
高浜虚子の自選自筆句集『虚子百句』は昭和三十三年十二月、便利堂から出版された。……晩年の虚子が自選したこの百句について、表現に即した鑑賞を試みた。定型や季語の働き、さまざまな表現技法に即して鑑賞することで、五七五(俳句形式)の表現的な魅力を捉えようとしたのである。鑑賞者は俳句グループ「船団の会」の会員。(p126)「虚子の没後五十年」「著作権が切れる」年の特集号として、直近の「ホトトギス」から仰ぎ見、語られる「虚子先生」ではなく、共有財産として「表現に即し」「虚子」を読み解く可能性を探る特集なのだろう。(参照:http://sendan.kaisya.co.jp/nenten_ikkub09_1002.html)
さて、ようやく内容にはいる。
エッセイ「虚子を読む」。執筆者はそれぞれ、国文学者、小説家、子規記念館館長、詩人、歌人とバラエティ豊かな顔ぶれ。
野山嘉正氏は、虚子の代表句「去年今年貫く棒の如きもの」に、茶道の「炭つぎ」のイメージが重なる、という裏千家の師匠の言葉を紹介し、
いくら何でも棒が炭ということはなくて、「如きもの」という簡明この上ない直喩に、幾重にも交錯している世々の重なりや具体と抽象の言いしれぬ関連が封入されたのであろう。(p6)という。結局おおきく読みが更新されるということでもなく、ちょっと肩すかし。
以下、三田完氏は虚子の句を「写生」からだけでなく「しらべ」からも評価すべきと説き、竹田美喜氏は虚子が故郷松山を語った『松山道後案内』『いよのゆ』の二作品を紹介。清水哲男氏は、「読む側の膝が思わずガクッとなったり、緊張の腰を折られたり」するような「脱力句」が虚子俳句の「本流」だ、という自説を述べる。
佐佐木幸綱氏は「遠山に日の当たりたる枯野かな」「流れゆく大根の葉の早さかな」などは素人にわからない「業界向けの句」であり、むしろ「写生した側、つまり作者を読もうとする」こと、作品からみえる<われ>の視点を読むことを提唱する。
<景>そのものではない。<景>を写生した作者<われ>を読むのだ。流れてゆく大根の葉を、目をそらさずにじっと見ている<われ>。(p14)これらの提言は必ずしも目新しいわけではないが、かえって虚子の「客観写生」がもつ「わかりにくさ」「古くささ」のイメージの堅牢さがよくわかる。「平明」をめざした虚子作品にとって、このイメージはどうやって克服していけるのだろうか。
岩岡中正氏は、虚子の「客観写生」「花鳥諷詠」を、近代的な自我の文学とは別の「脱近代的世界観」であり、「生活と不可分の生き方を含む」「思想」と位置付ける。
評価は難しいが、少なくとも長命な虚子の思索が最初から一貫していたはずはなく、もっと年代を追って検証されるべき余地がある。また、後半の今泉氏の論考では、虚子が俳諧・俳句の本質を一貫して「花鳥諷詠」と規定したことを批判的に論述している。
虚子は子規の<近代>を受けつぎながら、それを<伝統>として演出した。そのための道具が「花鳥諷詠」という概念である。虚子は<反モダニズム>ではあるが、<反近代>なのではない。虚子は<近代>なのである。(p88)虚子の「写生」観を知るうえでは「写生文」の表現も無視できない。国文学専門誌だからということもあるが、今回「写生文家」としての虚子が大きく取り上げられている。
大沢正善氏の論考では、漱石が虚子の短編集『鶏頭』を「余裕のある小説」と評したことから出発し、「態度や思想の問題として評価されがちな「写生」や「余裕」の帰趨を、表現自体の問題として再考したい」と問題を提起している。
大沢氏によれば、漱石と虚子の「余裕」は、子規の「写生」を継承し、「筋」や「語り」を表面化させることなく物語の類型化を克服する手段である。そして虚子の「余裕」は「葛藤を消去しながら定型に筋を委ねる近代俳句」に帰趨した、という。
このほか、中島国彦氏、三谷憲正氏らは、虚子が、筋や語りに主眼を置かず、対象に節度をもって描写する「写生文」を用いつつ、さまざまな内容に挑戦していたことを論じている。近代文学黎明期のひとつの可能性として、虚子はもっと顧みられるべきだろう。
俳句に関する考察ではやはり仁平勝氏、筑紫磐井氏のものが興味深かった。
仁平氏は、虚子にとって俳句の近代化が「大衆化」に他ならなかった、という考えを進め、虚子の反近代性とも解される「連句」への関心を「人事を詠むのに適した」「平句」への関心だった、という。虚子が俳句の絶対条件とした「季題」も、伝統的な教養に裏打ちされた「発句」の季ではなく、「平句の季に近い」ものであり、また虚子俳句に「発句の格」を保証する「切れ」が少なく、以下のように結論づける。
俳句の近代化にあたって、虚子のもっとも大きな功績は、五七五という定型のなかで発句の格を解体したことだ。(p71)筑紫氏は、虚子にとっての季題論を「花鳥諷詠以前」「以後」で区別し、
子規も虚子も、明治三十年代には「俳句は季題諷詠の文学である」などとは思ってもいなかったはずなのである。こうした考え方が虚子に生まれた背景には、過激な碧梧桐の新傾向俳句に対する対抗意識が大きく働いていると推測されるのである。(p93)とする。筑紫氏の論考はさらに「熱帯季題」に触れつつ、虚子が時代に合わせてどのような季語を選んでいるかに及んでおり、同時期に出た「昭和の季語」『別冊俳句生活 季語の楽しみ』(2009年10月)と併せて興味深い。
筑紫氏と似た観測は同じく中原氏の論考でも指摘されており、虚子の「客観写生」は、子規、碧梧桐に対する「自流」として意識的に選ばれたものであるという。
自流に徹することは他流を興す。『ホトトギス』は水原秋桜子、山口誓子ら天才ある一人一人を発たせたのである。(p78)さて、ざっと特集記事を眺めてきた。「高浜虚子」の存在は、よくもわるくも間違いなく近代俳句の方向性に大きく影響している。「虚子」が俳句にもたらしたもの、俳句が失ったものは何か。人物・虚子への盲信や感情的な反発ではなく、もっと真摯に「表現」に即して読み解き、もっと自由に鑑賞する試みが続けられるべきだろう。
今回の特集では、本稿では触れえなかった記事にもいくつも興味深い示唆があった。しかし、副題「虚子に未来はあるか」に対する答えは何だったのだろうか。正直なところ、私にはよく分からない。
もっとも、こうした試みがなされなくなったら、虚子に限らず、俳句に未来は、ない。
Posted by wh at 0:06 0 comments
Labels: 俳句関連書を読む
正直すごく面白い「つぶやき」 せきしろ/又吉直樹『カキフライが無いなら来なかった』 山田露結
【俳句関連書を読む】
正直すごく面白い「つぶやき」
せきしろ/又吉直樹『カキフライが無いなら来なかった』
山田露結
書店でうろうろしながら『カキフライが無いなら来なかった』(せきしろ/又吉直樹・幻冬舎)という本を偶然手にした。帯に『「無修正の心」をありがとう 穂村弘(歌人)』とあったので、へぇ~と思って中をぱらぱらめくってみた。え、何コレ、自由律俳句?
落ちたはみがき粉ここで一番白い せきしろ
目を開けていても仕方ないので閉じる
バスタオルは無い小さいタオルで拭く
桜の花びら踏んでも音はしない
ひとりになって玄関が広い
死後も怒られる
醤油差しを倒すまでは幸せだった
言うほど近道ではなかった
眼鏡が曇ったもう負けでいい
幼児の玩具砂場で冬を越す
転んだ彼女を少し嫌いになる 又吉直樹
フタをしめない主義なのか
大人なのに行きつけの店がない
モータープールでは泳げないと知った夏の日
ひげ剃りにも負けた
まだ帰りたくないからナゾナゾに答えない
遠目に見ていた観覧車に明日乗る
ポケットに五円玉いつのものか
便座はおそらく冷たいだろう
まだ何かに選ばれることを期待している
著者は妄想文学の鬼才せきしろ氏と吉本興業のお笑いコンビ「ピース」の又吉直樹氏の二人ということだが、私はこの二人についてほとんど何も知らない。この本(句集?)には句のほかに散文もあって、こちらもかなりぐっとくる。正直、すごく面白かった。何故か妙な劣等感、嫉妬心さえ感じた。
「こんなの俳句じゃない。」と言ってしまえばそれまで。作者に聞いたって「ええ、俳句じゃありません。」と言うかもしれない。
もしかしたら、この本を読んで面白いと思うのと、いわゆる俳人の句集を読んで面白いと思うのとは意味が違うのかもしれない。
俳句というよりは単なる「つぶやき」だと言うことも出来るかもしれない。
しかし、普段見逃しがちな些細なことを日常から掬い取って面白く仕立て上げる、という意味ではこの「つぶやき」はかなり俳句的ではあるとは思う。
そして、いわゆる俳人の句集とはっきりと違うのは、この本がエンターテイメントだということだろうか。つまり、何かを表現したい、伝えたい、というのと同時に人が読んで面白いかどうかを意識しているということ。
せきしろ、又吉の両氏はプロのエンターテイナー(職業としていると言う意味で)だからそんなことは当たり前といえばアタリマエ。出版社にしたって「売れる本」を作ろうとするのは当然といえばトーゼンだろう。
もちろん、いわゆる俳人の句集が読者を意識していないということではないのだが、ここでは「面白い」の意味が違う(のだと思う)。まあ、比べること自体、野暮というものか。とにかくこの本が面白かった、ただそれだけのことなのである。
Posted by wh at 0:06 3 comments
Labels: 俳句関連書を読む
2009-11-08
真っ赤な嘘をつく 鷹羽狩行『俳句の秘法』 猫髭
【俳句関連書を読む】
真っ赤な嘘をつく
鷹羽狩行『俳句の秘法』 ……猫髭
鷹羽狩行の新著『俳句の秘法』は、昭和62年から平成21年までの二十年余にわたる講演のうち八篇の講演録を中心に寸言や添削をまとめた一書である。タイトルが蠱惑的で、わたくしのような下手の横好きでも、これを読めばたちどころに上達するような錯覚を起こさせるので、早速買って、ページをめくる手ももどかしく、いつ秘法が公開されるのか、次か次かと読んでいるうちに読み終わってしまった。
「あとがき」にはこうある。
タイトルの『俳句の秘法』の「秘法」は秘密の方法という意味である。だから講演だけにとどめておくべきものだが、あえて公開することにした。「あえて公開することにした」という、門外不出、一子相伝のような「秘法」を読み落としたのかと、読み直したのが今回のブックレビューである。
わたくしが『俳句の秘法』に期待したのは故がないわけではない。鷹羽狩行には『俳句入学』(NHK出版)という俳句入門書があり、初学時代に学んで舌を巻いたからだ。殊に「俳句の背景」の章は、「数と俳句」「色と俳句」「地名と俳句」というように、「季語」という扇の要のような俳句の中心だけではなく、その背景になる数字や色や地名などを論じて、俳句の全体構造を説くという、実にシャープな切れ味の俳句入門書だった。
有季定型俳句は、普通「季語」を中心に詠む。しかし、ある程度五七五のリズムが指を折らなくても一塊の十七文字という形態として身に付けば、「季語」以外の「数」や「色」や「地名」や「五感」を心に置いて詠めば、自然以外の世界に対しても瞬発力と想像力を養い、素材のヴァラエティが広がるため、「写生」という単色のデッサンの、次のステップとして理に適った指導方法だった。
例えば「数と俳句」を例に取れば、鷹羽狩行は、「一」「二」「三」「四」「五」「七」「八」「八十」「百」「千」ひいては「おおよその数」といった、それぞれの数の持つイメージやニュアンスを説き起こして例句を並べるので、実に明解で、工夫を凝らすとはどういうことなのかがワイドショーのように楽しめる。わたくしが原石鼎という俳人に惹かれ、分厚い『原石鼎全句集』(沖積舎)を買ったのは、鷹羽狩行の緻密にして繊細な鑑賞を読んだためである。
「二」という数は、本来、同じだけの力・価値をもって対峙・対立しあう意味をもっています。この同じ対立の関係でも、そこから生じる内容によっては、不統一なものや調和のないものといった、いわゆる“違和感”や“不安定”な気分を表わす「二」もあります。たとえば、『俳句の秘法』を読み始めての違和感は、この緻密にして繊細な目が、別人28号かというほど大雑把になっていることで、例えば第一章は「俳句の素材と発想」「詩趣と品格」の二編からなるのだが、「俳句の素材と発想」では、まず、「山寺にはらはら降りし落葉かな」という「俳句のような格好をしているが、俳句とはいいがたい」、いわゆる月並句を挙げ、「降ったものが落葉」だから「木の葉かな」でなければならないとダメ出しをして(「降りし」と目睹回想の過去形だから既に落葉になっていると思うが)、山寺と落葉の取り合わせや「はらはら降」るというのが手垢のついた古臭くて使い古されたものだから、「俳句でもっとも大切な“感動”が感じられない」と切り捨てる。
秋風や模様のちがふ皿二つ 原石鼎
夏が過ぎて秋風が立ち始める頃の、そぞろ慌ただしく落ち着かない季感が根本にある句です。風だけは秋なのに(外部の皮膚感覚)、なお夏が残っている初秋の違和感(内部の身体感覚)が、「模様のちがふ皿二つ」の「二つ」といえないでしょうか。
いきなり「感動」を出されると困る。感動はひとそれぞれなので、万人が感動するものなどありえないし、ことに俳句は「感動=主観の最たるもの」なので、「感動」を省略するのが俳句の骨法だから、感動を押し出す論法は俳句からは最も遠い。
「感動(emotion)」というと、わたくしなどは映画『気狂いピエロ』の中でサミュエル・フラーがジャン・ポール・ベルモントに「映画とは何か」と聞かれて「映画は戦場のようなものだ。愛、憎しみ、アクション、暴力、死、つまり、ひとことで言えば感動だ」と応えるシーンを思い出すが、映画のような暗室に詰め込まれて、映像、音響、音楽などがでかい銀幕から体ごと鷲掴みにするように降りそそぐ装置であればまだしも、俳句はぴらぴらの短冊一枚で納まる仕掛けだから、「俳句は戦場のようなものだ」とは言い切れない。感動の仕掛けが恐ろしく低いので、蚯蚓が鳴いたり亀が鳴いたりする幻の声に耳を傾けないと聴こえないほど、俳句の声はか細い。
現に、「落葉」という古い素材でも新鮮な感動に満ちている句として挙げている、
啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 水原秋桜子
の有名句にしても、綺麗な句だとは思うし、うまいとは思うが、感動するかというと、少し違うという気がする。
わたくしのバッテリーの感度が悪いといわれればそれまでだが、この秋桜子の句もそうだが、この後に「古い素材を新しくよみがえらせる」例として、
滝の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半
をりとりてはらりとおもきすゝきかな 飯田蛇笏
ひつぱれる糸まつすぐや甲虫 高野素十
といった句を挙げられると、これは余りと言えば余りに権威主義的引用で、牛刀を以って鶏を割くようなものではなかろうか。
山寺のはらはら落葉が、駄目な事例というのはわかるが、これらの大家の例句は、彼らにとっても代表句として人口に膾炙される句であり、彼ら第一級の俳人たちでもおいそれとほいほい作れる句ではないだろう。それをもって、
このように、ふだん見たり聞いたりしていても気がつかず、なにも感じなかったものを、詩人の目で眺めることである。/句の材料の発見ではなく、すでにある材料を自分の目で新しく見直さなければならない。素材を既成概念に左右されず、子供のような目で見ること、体験を重ねて想像を広げることなど、素材が自分の所有物になる喜びを得るまで、よく吟味してみることが大切である。と押し出されても、誰が夜半や蛇笏や素十の真似が出来るというのだろう。いきなり裏山へ散歩からエベレストに登れというようなものだ。
また、「詩人の目」とか「子供のような目」と言われても、先ず、詩と俳句は構造的に違う。詩は「虚」の構造を持つが、俳句は「実」に根ざした構造を持つ。「子供のような目」と言われても、「子供=純真」というのは大人の幻想に過ぎない。不遜な目も、残酷な目も子供は持っていることを忘れては困る。古来「泣く子と地頭には勝てぬ」といったほど持て余し者でもあるのだ。
それにしても、これをしも「秘法」というのだろうか。とりあえず、「俳句の素材と発想」の結論を見てみよう。「秘法」は最後に明かされるものだから。こうある。
結論として、社会の事象などもふくめた「自然」と、そこにかかわって切りはなすことのできない「人間」が、その只中に身を置いて、その時々刻々をどのように見つめ、聞き、感じ、喜び、悲しみながら、生きていることのかけがえのなさをどう表現してゆくか、ということにつきるのではないだろうか。何か身の上相談を漠然としているような結論だが、少なくとも「秘法」はどこにもない。
第一章のもうひとつの「詩趣と品格」は、ここでも、
ちるさくら海あをければ海へちる 高屋窓秋
を筆頭に、誰も文句をつける者がいないような「詩趣と品格」に溢れた高名な俳人の代表的な句が並ぶのだが、最後とは言え「秀句・佳句の条件」という項目を立てて、四句の例句の後に自句を置き、
鮟鱇もわが身の業も煮ゆるかな 久保田万太郎
大寒や転びて諸手つく悲しさ 西東三鬼
春寒やぶつかり歩く盲犬 村上鬼城
露の世に生れて怺へきれず泣く 山口誓子
昼寝より覚めてこの世の声を出す 狩行
狩行句では昼寝の別世界に遊んでいても結局はこの世の現実に戻ってこざるをえない、どこか哀しい人間の存在への嘆きである。これらが、読者の内部にある過去の体験を思い起こさせ、共感を呼ぶのではあるまいか。と鑑賞するのは、いかがなものであろうか。
自句自解は、俳句では最も恥ずべき野暮事とされている。俳句は省略の文芸だから、省略した部分を滔滔と解説されると、解説しないと十七文字では成り立たない句なのかと作品自体の自立性を否定しかねないのと、この句はここが眼目、ここで苦労したと自慢話を聞かされるようで疎まれるからだろう、だったら人には見せずに独り善がりをしていればいいということになる。俳句は未完の文芸とも言われ、作者が半分を作り、読者が読むことで残りの半分を完成させると言われるからだろう。自句自解とはイコール自句自壊なのだ。
にも関わらず、俳人協会からは『自註現代俳句シリーズ』が二百冊以上出ているし、『自選自解句集』というのも白凰社や講談社から出ている。最近は粋人加藤郁乎も『俳の山なみ』に「實話私註自句自解」を収めているのに驚いた。小説の神様と崇められた志賀直哉も自作を語っているから、年を取ると、どうでもよくなるだけなのかも知れないが、自句自解を句会ではどこでもタブーとされるのに、俳人協会の会長自ら自句自解し、自解句集が陸続と編まれるのは俳壇七不思議の最たるものだ。
そういうわけで、第二章がいよいよ本論の八篇の「秘話」が山盛りの講演集ということになるが、第一章で見たように、「大雑把」「権威主義」「野暮」という3点セットで押してくるのは間違いない。
一番目の講演は「私の初学時代」。この本は参照が無いので、いつどこで誰を相手に講演したのかの記録が全く無い。タイトルでわかるように自句自解のオンパレードで、多分、自分が育った尾道での講演だろう、はばかることなく自画自賛をしている。処女句は、十五歳の時の校内俳句雑誌『銀河』に掲載された、
稲刈りの進めば進む蝗かな 高橋行雄(鷹羽狩行の本名)
実に上手い。当時はコンバインなどはないから力仕事である。稲穂の揺れから蝗が飛び立つ様まで能く見える。広範囲に目配りの効く集中力と才能を若くして持っていたことがわかる。
春光や砂の皺より蜆貝
苗代の乾きし泥の浮き上がる
石に跳ね水に音して木の実落つ
など見事だが、本人が「砂の皺」はよくとらえたものだとか、乾いた泥のところが浮き上がっているとはよく観察しているとか、「木の実落つ」は「石を打ち水を飛ばして青い柿」が実際に見た景だが推敲して添削したとか、いちいち言うので五月蝿い。それを我慢すれば、やがて山口誓子に傾倒し、高橋行雄をもじって誓子が鷹羽狩行という俳号を与えて俳人鷹羽狩行の誕生を見るまで、高橋行雄が十代にして華やかな作句力と推敲力と添削力を持っていたことがわかる自伝である。
この「私の初学時代」の講演は、有名な、
人の世に花を絶やさず返り花 鷹羽狩行
で終るが、これだけ見事な挨拶句を作れる才能は稀有だろう。巧過ぎて厭味なほどだ。ということで、ここでも自句自解は聞かせられるが「秘話」は出ない。
次の講演録は「選ばれてこその俳句」で、高浜虚子の「選は創作なり」から説き起こし、具眼の士に選ばれることが俳諧以来、俳句文芸の大事な特質の一つであり、「自分の中にもう一人の批評してくれる自分(自分の批判者)を育てる」ことも大切と結ぶ話である。とはいえ、「三冊子」で聞いたような話であり、自句に冷却期間を置けというのもよく聞く話で、「秘法」とは言えまい。
鷹羽狩行の師が山口誓子であり、山口誓子の師が高浜虚子である以上、師の師である虚子の言説には明るいと思っていたが、「選は創作なり」という虚子の有名な言葉を、これは昭和十八年に中村汀女の句集の序文に初めて出てくる言葉だと断言しているのは事実に反しているので、ここで訂正しておく。
この言葉は、昭和六年五月から刊行された『ホトトギス雑詠全集第四巻夏の部上』(全十二巻の第一回配本)の序に掲げられた。
選と云ふことは一つの創作であると思ふ。少くとも俳句の選と云ふことは一つの創作であると思ふ。此全集に載つた八萬三千の句は一面に於て私の創作であると考へて居るのである。いつになったら、「秘話」が出て来るのだろうと、この辺でだんだん不安になるが、読み直してやっと気づいた。
わたくしは本を読むときに邪魔なので、カバー腰帯を外して裸本で読む癖がある。ふと、カバーと腰帯を今見てみると、腰帯にでっかく「摩天楼でなにが」という文字があり、その下に小さな字で「多感な少年時代から、ニューヨークでの衝撃的な一句<摩天楼より新緑がパセリほど>まで、名句誕生の秘法を公開する。」とある。
「俳句の秘法」とは自句自解のことだったのだ。
第二章の講演録の最後に「私の一句」という講演があり、これがパセリの句について滔滔と述べられているものだ。
この句は以前より、あれはエンパイアステートビルからセントラルパークの新緑を詠んだ景ではなく、東京タワーのビルから増上寺の新緑を詠んだ真赤な嘘をついた句だと噂があったものだ。モダンでお洒落で人工的な感じを与える句だからかもしれない。
わたくしもマンハッタンには仕事でよく出かけたので、セントラルパークは馬車馬の糞を除けながら何度も散歩したが、とにかくだだっ広い公園だった。高所恐怖症なので、自由の女神には登らせられて一週間膝が笑いっぱなしだったほど恐怖の体験をしたから、エンパイアステートビルや貿易センタービルに行っても下界をしみじみ見ることは無いが、百万坪の公園の緑がパセリほどの小ささに見えるというのはかなりデフォルメした景だとは感じていた。
ただ、作品として優れていれば、わたくしはその出自は問わない。自句自解も要らない。俳諧から俳句は独立して一句自立の栄光を確立したのだから、作品が良ければそれでいいと思う。
摩天楼より新緑がパセリほど 鷹羽狩行
は、セントラルパークで詠まれようとエンパイアステートビルで詠まれようと、リッツ・ホテルで詠まれようと、秀句だと思う。
爽波は「つまるところ俳句は題詠ですよ。吟行で写生の技を身に付けておいて、題詠で想像力を駆使して臨場感を手に入れ、まるで見たような真っ赤な嘘をつくのです。心が自由になったときにふと生まれたその句は、紛れもなく写生句です。他人が写生句として褒めてくれるぼくの句も、そんな題詠から生まれたものが多いのですよ。例えば山吹の作品なんかもね(「ちぎり捨てあり山吹の花と葉と」のことだと思う)」と弟子たちに語ったそうだが、袋回しで「パセリ」という題詠で生れた句が摩天楼の句であったとしてもわたくしは一向に構わない。
さあれ、この爽波の言葉こそが「俳句の秘法」と言えるのかもしれない。
Posted by wh at 0:45 0 comments
Labels: 俳句関連書を読む
2009-10-11
岩淵喜代子『評伝 頂上の石鼎』を読む 猫髭

【俳句関連書を読む】
岩淵喜代子『評伝 頂上の石鼎』を読む
猫髭
原石鼎の名前と俳句は、どの「歳時記」や「季寄せ」にも必ず載っているから、知らない俳人はいないと思うが、俳句に親しんで二三年の初山踏みでも知っている石鼎句というと、次の二句だろうか。
頂上や殊に野菊の吹かれ居り
秋風や模様のちがふ皿二つ
結社に所属したり、同人誌に所属したりして俳句に入れ上げていれば、石鼎が「鹿火屋」主宰であることを知る者は、
淋しさにまた銅鑼打つや鹿火屋守
が結社誌の由来を明かす一句として知っているだろう。
花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月
風呂の戸にせまりて谷の朧かな
山の色釣り上げし鮎に動くかな
蔓踏んで一山の露動きけり
などを加えると、これらは石鼎句の中でも人口に膾炙された句の上位になるだろう。現に、平成十六年(2004)五月号の「俳句」における特集「大正俳句の魅力」で俳人たちに選ばれた石鼎の句の上位三句もこの中におさまる。
「鹿火屋」系の俳人であれば、たちどころにそれ以上の句が口の端にのぼるのは当然だが、考えてみれば、わたくしのような「鹿火屋」に縁のない雑食俳句愛好者でも、これらの句を諳んじられるというのは、それだけ石鼎句は印象鮮明で舌頭千転できる調べに満ちているからだろう。
しかし、飯田龍太によって「虚子門葉中、もって生れた天賦の才に恵まれたひと、といえば、まず第一に原石鼎に指を屈してもいい」とまで評価されたにも関わらず、「忘れられた俳人」の仲間入りをしているのは、石鼎の半生が神経障害の療養に明け暮れ、ために初期の深吉野の秀句のみが語られることが多いと、アンソロジーなどの解説を見て、そのまま信じている読者は多いだろう。わたくしもそうだった。
ところが、石鼎生誕百年を記念して出版された『原石鼎全句集』(沖積舎)を読んで愕然とした。
海上雅臣の解説「他句の連想を拒絶する俳句」と「年譜」に、石鼎の神経病の原因は石鼎の名声を苦々しく思っていた虚子の露骨な圧迫に拠るものだという由が記してあったからだ。天賦の才に恵まれた石鼎を俳壇から抹殺したのは虚子であるという怨念のようなものは、海上雅臣のパッションに引きずられるように書かれた小島信夫の石鼎評伝『原石鼎-二百二十二年めの風雅』(河出書房新社)にも流れていて、デーモンのような虚子が見えて来る。
だが、果たしてそうだったのだろうか。というのは、虚子と石鼎の出会いは、俳壇史上でも例を見ない幸運な出会いで、虚子選の膨大な「ホトトギス雑詠選集」を古書で読み漁ると、石鼎句は、常に虚子選の上位に入り続けていたからだ。火のないところに煙は立たずとはいえ、俄には信じられなかったが、わたくしは「鹿火屋」派でも「ホトトギス」派でもないため、当事者で無い分、手出しの出来ない暗雲に包まれたような心持だった。
そういう時、「ににん」に連載されていた岩淵喜代子氏の『評伝 頂上の石鼎』(連載時のタイトルは「花影婆娑と」)に出会った。
これは七年間にわたる連載で、手元の『原石鼎全句集』をくくりながら読んでいると、句の順番や表記にも異同があり、変だなと思いながら比較すると、岩淵氏は、初出の「鹿火屋」や「ホトトギス」に当たりながら書いているのだった。
石鼎が「ホトトギス」に「頂上や」の句で初登場したのは大正元年(1912)十二月号であり、「大正二年の俳句界は二人の新人を得たり。曰く普羅、曰く石鼎」と虚子が激賞したことで、一躍石鼎は全国に名前が知れ渡るのだが、自選句集や全句集だけではなく、九十年前の資料を探して初出に当たりながら書くというのは、上野の国会図書館や新大久保の俳句文学館でも当時の資料は欠けているので、その労苦たるや筆舌に尽くしがたいものがあるので驚いた。
この評伝が、読み始めるや事実考証の確かさを感じさせるのは、そういう地道な検証の上に成り立っているからで、海上雅臣の紙面が燃えるような情熱とは異なる冷静に入れ上げる評伝が現われたことを喜んだ。
岩淵氏の評伝の特長は、経糸として、深吉野以前の石鼎句が生まれる背景から、深吉野以後の晩年に至るまで、丹念にその住んだ場所を辿って事実を追確認し、緯糸として、その句が詠まれた現場に立った句の鑑賞を織り込んでいく手法で、加えて氏が長年かけて体得した俳句への思いが経糸と緯糸を織り込む力加減に加わって、やがてタペストリーのように、鮮やかに純粋俳人としての石鼎が現われることである。
いわば評伝の形を取った俳人論であり、俳論であり、通常の評伝の寄り添うような浪花節から距離を置いた硬質な美しさすら感じるのは、この実証と鑑賞と俳眼のバランスが美しい距離を持っているためだ。一例を挙げよう。
冒頭、いきなり、
七草に入りたきさまの野菊かな
と、明治三十六年(1903)の山陰新聞紙上で十七歳の石鼎の初めて活字になった一句を記すところから、評伝は始まる。
連載時は、氏がなぜ石鼎伝に取り組んだかの経緯が書いてあった(これは「あとがき」にまわされている)。それをすっぱり切って、単刀直入に石鼎の処女句から入る。そして、次の行では「忘れられた俳人」石鼎の核心の謎が毅然として提示される。
石鼎についてはいつも吉野から語られる。そして誰もが吉野で尽きるのである。まるで、その後の石鼎が存在しなかったかのごとく。加藤郁乎も、深吉野以後の石鼎の句に敬意を払わぬ俳壇に非礼誤認も甚だしいと異議を唱えていたが、ここに初めて、深吉野以前から深吉野以後までを語れる語り部が誕生したと言える。
頂上や殊に野菊の吹かれ居り 大正元年十月三十日
もまた、「ホトトギス」が初出ではなく、その二ヶ月前の奈良朝報に掲載された六句のうちの一句だったことを明らかにし、「この野菊と、十七歳の時の野菊の間こそが、石鼎の俳句の土壌を養う月日だった」と氏が説くくだりは美しい。
深吉野の小高い位置に身を置いたとき、野菊に視線が導かれたのは偶然ではないのである。小さな菊はふるさとであり、ふるさとの石鼎自身なのである。そして、十七歳の少年が知っている数少ない花の中で、もっとも身近に親しんだ野菊なのである。「全句集」の解説で、「頂上や」の句を、芭蕉の「古池や」の句に替わる写生だと言い切る海上雅臣の入れ上げ方も半端ではないが、岩淵氏の鑑賞は、石鼎句の現場を辿り、同じ場所に立って、まさしく石鼎の目で句を読んだような自然な説得力がある。氏は、その前に、【俳句は「ただそれだけのこと」でいいのである。「ただそれだけのこと」であるのに、読むたびに、限りなく周波を送ってくれる作品であることが俳句の魅力である。いくら語っても、それはあくまで作品世界を解説するに過ぎないのだから】と述べているが、この透徹した鑑賞の素晴らしさは解説とか評伝の域を越えている。
石鼎は「ありのまま、口をついて出るままに詠んだだけなのです」と自句について問われるたびに応えていたが、岩淵氏は、そのことを引いた後で、
言霊の力としか言いようがない。詩とは本来そうした生まれ方をするものである。十七字しかない俳句は尚更である。方法論や志向が先にあるのではない。まさに「口をついて出るままに」としか言えなかったのである。と言い切る。
石鼎の唯一の自選句集『花影』は、その集積であるから魅力的なのである。
『花影』は、作品は言うに及ばず、紙の手触りの滑らかさ、装画の石鼎の絵も美しい装本の小ぶりな句集だが、豪華さでは美術書老舗の求龍堂が出した限定版『定本石鼎句集』には及ばなくとも、この『花影』は、何とも手になじむ美しさがあって、何とはなくこの句集が一番魅力的だと愛着を感じていたが、氏の言葉を読んで、なぜなのかを納得した。この句集には丸ごとの石鼎がどかんと居るのだ。
300ページ近い大著だが、一気に読めるのは、天性のままに生きる石鼎の憎めない純真さと、コウ子夫人の生涯処女説の真偽もかくやという献身ぶり、虚子の権威と取り巻きの右顧左眄の悲喜劇がエピソードのように散りばめられて、読者を引っ張るからでもある。エンターテインメントとしても一級品ということだ。
石鼎ファンだけでなく、多くの俳句愛好者に読んでいただきたいと切に願う一書である。
Posted by wh at 0:07 0 comments
Labels: 俳句関連書を読む





