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2026-06-28

柳俳合同誌上句会2026 外野席から選句する 湊圭伍×山田耕司

柳俳合同誌上句会2026
外野席から選句する

湊圭伍×山田耕司  進行:西原天気



--こんにちは。週刊俳句100号を記念して開催された「柳俳合同誌上句会2026」。そこに、投句していないおふたりが選と選評で参加するという企画です。来ていただいたのは、川柳から湊圭伍さん、俳句から山田耕司さんです。

湊圭伍さんは句集『そら耳のつづきを』(2021年/書肆侃侃房)のほか、管見の範囲でもいくつかの川柳雑誌で作品を拝見していいます。また、私にとっては、『新撰21』(2010年1月/邑書林)掲載の関悦史小論「《現実界(レエル)》のほかに俳句なし」(湊圭史名義)という出色の作家論が長く強く印象に残っています。

山田耕司さんには、2冊の句集、『大風呂敷』(2010年/大風呂敷出版局)、『不純』(2018年/左右社)があります。また俳誌『円錐』で定期的に句を発表されています。個人的に、山田耕司句のファンです。無季の句も少なくなく、ときおり「川柳寄り」と、浅薄な私見ですが思うことがあります。

こんなおふたりです。私の理解では、ジャンル横断的な思考やセンスを持ち合わせた方にお越しいただけたと思います。

外野席からの選句には、もっと違う人選もあったでしょう。例えば、有季定型しか作らない結社出自の俳人。川柳プロパーについて、私には理解がないのですが、もっと川柳川柳した句を作る方。それも、おもしろかったかもしれませんが、今回の投句一覧だと、大いに困惑させてしまうかもしれません。それはやめておいたほうがいい。

なお、外野席から誰かが選句するこの企画は、句会の参加者10名にはお知らせしていません。

前口上が長くなってしまいました。それでは始めます。それぞれ、特選1句・並選4句を教えてください。

湊圭伍〔以下湊〕●
確認ですが、3題合わせた全体から、特選1句、並選4句でOKでしょうか。

--はい、30句全体からです。川柳の方は、たくさんの選に慣れているせいでしょうか、毎回、1題につき5句選で送ってくる方がいらっしゃいます。今回の30句から5句選は、俳句だと若干多めでしょうか。少なめよりも多めのほうが盛り上がると踏んで、こうしました。

湊●
了解です。山田さん、よろしくお願いいたします! 違った選になったらおもしろそう、と思いつつ。

特選は
友引が千日続く青山椒

並選が
金魚草群れ咲くころは千葉の旬
はよ食べなさい空気が抜けてしまう
暗に麩は往復はがきねばならない
アヴェ・マリアにも網戸はおしゃべりだ

山田耕司〔以下山田〕●
わあ。湊さん。ご一緒できてうれしいです! 川柳の選をするの、実は初めてなんです。よろしくお願いします。

特選
どうしても千枚通しだとしても

並選
アヴェ・マリアにも網戸はおしゃべりだ
千代田区の電柱にある夏日かな
白桃をてこてこ運び来て小声
青梅雨や和菓子を買うて橋の上

--ありがとうございます。1句、選が重なりました。《アヴェ・マリアにも網戸はおしゃべりだ》。ともに並選です。選評をお願いします。

湊●
街のなかの建物の一室でコーラスが歌われており、ただ開け放った窓の網戸を通して、外の人声や騒音も入っている、という景を思い浮かべました。「アヴェ」は「こんにちは」や「おめでとう」の意味があるらしい(「こんにちは」と「おめでとう」だと全然意味が違うだろ!)。「アヴェ・マリアの祈り」はイエスを身籠って目出度いとマリアを褒めたたえる歌ということで「おめでとう」が八割程度か。

一方、「網戸」の外の「おしゃべり」は 同じ事態をまったく別の解釈で話しているのでは? 頼りない境界である「網戸」の内と外に別の語り・別の時間が流れていて、しかも、この句がどちらにも与してなさそうなのがよいと思いました。

山田●
なるほど。そうですよね。この網戸は、ひとつの結界のようです。アヴェ・マリアの聖とおしゃべりの俗。聖と俗との対比という視点は、俳句っぽいものかもしれませんけれど。それを隔てる結界。

音と音。その間にある網戸。音が簡単に通過できる透過性の高いものとして、この網戸を捉えることもできるとは思うんですけれど、私は、視覚を鈍らせるフィルターのようなものとしてこれを受け止めてみました。

聴覚で受け取れる素材の間に、対象を視覚的に鈍らせたり濁したりするフィルターがある。これって、クールでメタリックな絵を見た時の受け止め方の描写なのではないかしら、とも思いました。世界を鈍らせたり濁したりして、俗の手触りに拉致するのが、句を作る際の自己の手応えになっているんじゃないか、そんな読みです。聴覚と視覚の混線、そのひねり具合も手ごたえの一部として。

「アヴェ・マリアにも」の「も」の向こう側に、作者自身のうちなるあやうげな浄らかさが漂っているようにも思いました。

--ちなみに「網戸」は夏の季語ですが、おふたりとも、そこにはこだわらなかった。《網戸》を境界・結界という語で表現されました。聖/俗がそれをはさんで共存しているイメージは、この写真にもよく合いますね。難しい題だと思っていたのですが、この句は、写真の説明からも逃れていて、いい感じです。おふたりの選評を聞いているうち、どんどんおもしろさが増していきました。

湊●
おふたりの読み・ご説明で、俳人は視覚を意識しているというか自然にその観点が入ってくるのだなと思いました。「網戸」が季語というのも、機能性よりは目にも入るモノ性を読みとらせるように効いてくるのではないか。

--ああ、なるほど。俳句の場合、機能はすでに季語の「意味するところ」に含まれているので(防暑)、そこをすっ飛ばして視覚に行きがちなのかもしれません。

山田●
たしかに、視覚的な要素を勘案するところが俳句にはあるかもしれませんね。共有情報である季語を取り込むに際して、いかにその句の一回性という肉を与えられるか、という視点が反映されているのかもしれません。これって、写生という方法意識ではなくて、概念を形而下にひきずりおろして可視化するプロセスとして捉えることもできるのではないかとも思っています。

--ちがうフィールドからお越しいただいたおふたりの話、とてもおもしろくて、「網戸」だけで記事がひとつ成り立ちますね。それでは次に、それぞれ、特選の句について、コメントをいただけますか?

湊●
私の特選句は、

友引が千日続く青山椒

です。

「友引」には幸せを引く吉、不幸や死を引く凶どちらの面もあるとして、ただ、それがずっと続くのだとしたらまことに不穏で、凶の側が色濃くなっていくように感じます。しかも、「千日」! 一方、「青山椒」はよい保存方法があるとしても、その香りはさすがに「千日」は持たず、見た目の鮮やかな緑もくすんでいってしまう。

この句、一度や二度読む限りでは、上五・中七の不吉さを、「青山椒」のピリッとした刺激が抑え込んでいる。だが、さらに眺めつづけて、「友引」の語をくりかえし唱えていると、山椒のもつ一種の魔除けの作用はすり減って、引かれた「友」たちの集合体ののっぺりとした薄気味悪さが印象づけられてきます。

『千夜一夜物語』よろしく、「千」につづく「一」に何かが隠されているのかもしれないけれども。

山田●
私の特選は、

どうしても千枚通しだとしても

手にしている道具があります。それが千枚通しであるとして、その道具の視覚的な要素を描写するという方向に進みがちなのが、俳句なのかもしれません。

時に、この句は、そうした道をすべて捨て去っています。これが千枚通しであるかどうかも、怪しい。人を殺傷することができるような凶器を手にしながら、それを日常の連続に属する千枚通しだと言い張る人がいる。血だらけだったりするかもしれません。どう見ても千枚通しではなさそうなのに。仮にこれが千枚通しだとしても、どうして血まみれなのか、どうしても千枚通しだと言い張る根拠はどこにあるのか、そのようなドラマを内包しうる作品なのだと思います。

--ありがとうございます。それぞれの選評を腑分けするようにお互いに語っていただくこともできるでしょうし、聞いてみたい気持ちはあるのですが、それをやっていたら、夜が明けてしまいそうです。簡単に。「採らざる」の弁をお訊きします。山田さんは《友引が千日続く青山椒》を、湊さんは《どうしても千枚通しだとしても》を、選外にされた理由を。ほんと、簡単でいいです。

山田●
友引ばかりが続くのは、大安や仏滅が来ないということでもあります。他者との相互作用のみに浸る日常を想像しました。その想像に、青山椒のピリリをうまく絡み合わせることができませんでした。

湊●
「友引」と「青山椒」については、確かに絡み合わないですね。その点、言葉の読み取り自体は山田さんと私で変わらないような気がします。そのうえで、私はそれぞれの言葉がワガママに動いて、ある意味裏切り合っているのを楽しんでいます。俳句っぽい姿の句ですが、川柳的に読んでおもしろがっているのだと思います。

山田さんの評にある「千枚通しだと言い張る」の「言い張る」は川柳のけっこう大きい部分だと思います。ふつうに考えたら無根拠なことを言い切ることで、そうでしかないと読者を引きずり込んでしまう。

「どうしても千枚通しだとしても」の句については、川柳のそんな力技が効きそうな感じはあったのですが、「どうしても」と「だとしても」の音の重なりが気持ちよくないなというのがあり、それがしばらく読んでも解消されなかったので外しました。音のくりかえしが悪いというのではないですが、この句の場合、音の重なりがダマになって気持ちよく通り抜けさせてくれないような。

言い切りに引き込む仕掛けとしては、「だとしても」の締めが思わせぶり過ぎるかな、と思ってしまったのも選ばなかった理由ですね。

--ありがとうございます。今日はこのへんしておきましょうか。

湊●
昨日、俳句甲子園の松山大会で初めて審査員をしまして、そのあと夜中まで飲んで今日は二日酔い気味で、そろそろ瞼が重くなってきました……。

山田●
湊さん、私も土曜日に高崎会場にて審査員をさせていただきました。ご一緒でしたら、盃を重ねていたことと思います。今日はありがとうございました!

interlude

--それでは再開です。それぞれ残りの並選について。まず、湊さんがお採りの《金魚草群れ咲くころは千葉の旬》。

湊●
「金魚草」はよくある園芸品種で何度も見たことはあるんですが、好きでも嫌いでもなく、どこで見たか記憶にもあいまいです。たぶん名前に入っている「金魚」のせいで、言葉の強さよりも現実の印象が薄いせいでしょう。

千葉在住・出身の方には悪いが、「千葉」もまた印象が薄い。この句のポイントはこの二つの印象の薄い存在をやや言い過ぎの「群れ咲く」で彩ることで掛け合わせ、名前がもつ言葉のポテンシャルを発揮させている点にあると考えています。

現実には地名である「千葉」に「旬」などはないでしょうが、無数の花、千の葉が群れて重なり合うことによって、この句の中で作られた言葉の交錯でのみ感じられる「旬」の感覚が伝えられます。

--金魚草を調べると仲夏の季語なんですね。2月に南房総の花卉農家でよく見る花なので、春の季語かと思っていました。

湊●
そう聞くと、実景から書かれた、土地の「旬」についての素直な句なのかな。「金魚草」が仲夏の季語というのも、「金魚」に引っ張られたのかなあというところでおもしろいですね。

--次は山田さん並選の《千代田区の電柱にある夏日かな》。いかにも俳句的な体裁です。

山田●
千葉から、千代田区へ。連想させる物語の数が多すぎて、千代田区についてはイメージが絞り込めないところがありますね。一方で、電柱の方は無名性の表象のようでもあります。多くの情報文脈を退けて、無名なる存在に心寄せをしているのが、この句の眼目なのだと思います。

存在を示す動詞としての「ある」だと凡庸ですが、連体詞「ある」(ある日森の中クマさんに…という「ある」。某という意味)として、この「夏日」が無名な誰かの個人的な物語に属していることを暗示しているのかもしれません。「かな」という強調が、そのような読みを促しています。

--湊さんの並選、《はよ食べなさい空気が抜けてしまう》。これは俳句からは出てこない。川柳らしいと言っていいんでしょうか。

湊●
さすがにこれが俳句ならのけぞるかも(笑)。

まず、前半の会話体「はよ食べなさい」には、関西ふうのせっかちさがありますね。それだけではなく、五七五定型を諦めて会話体を採用することで生まれたリズム(あるいはその欠如)のせいで、後半の「空気が抜けてしまう」にもどこか音が足りないような、間の抜けた感が漂っています。

この句を読む体験そのものが、この「空気が抜けてしまう」感覚を味わわされることでもあります。言われるままに「はよ食べた」とて「空気」を食んでいるに過ぎず、とはいえ、空気が抜けきった皮のようなものが残るのだって気持ちいいとは思えない、というようなことを考えているうちに、この句の発話者はもう別のほうを向いている。

結局、「だから何(So What)?」なんですが、こうして「だから何?」まで 句を通過していく過程が川柳的体験だと思います。純粋川柳ですね(笑)。

--次は山田さん並選の《白桃をてこてこ運び来て小声》。

山田●
「てこてこ」をどう受け取るかですが、私は、幼い子供が大きめの白桃を抱えるようにこちらへ運んでくるさまを示す措辞として味わってみました。そのさまはかわいいものなのですが、それを消費することは、この句のポイントではないでしょう。

大切なものを一生懸命運んできました。ここにたどり着き、それを見せつつ、ひょっとしたら手渡してくれているのかもしれません。渡す相手だけに伝わる小声。そこに示されているのは、人と人との間に漂う親密さ。それこそがこの句の要と言えるでしょう。

「てこてこ」という表現で幼児のかわいらしさを引き出そうとしているのかもしれませんが、この言葉遣いにより、運ぶ主体としての幼児の姿を消すことにも成功しました。人の姿が書き表されていないことで、かえって「小声」の存在が際立っているようにも思います。

--最後ですね。湊さんの並選、《暗に麩は往復はがきねばならない》。

湊●
最初の「暗に麩」からよく分からないので、Google検索してみると、AI Overviewが〈「暗に麩」というフレーズは、おそらく松山市周辺のスーパー等で買える美味しい「お麩」についての話題か、もしくは打ち間違いのどちらかだと思われます。〉と教えてくれました。私の住んでいる場所が割れているのが気持ち悪いですね。

(松山はとくに麩の名産地やないやんけ、とつっこんでみたら、〈松山地域の伝統的な名産品として知られるのは「麩」ではなく、フワフワとした食感で知られる薄揚げの「松山あげ(程(ほど)の伊予名産 松山揚げ)」です。〉と出ました。程野商店の「松山あげ」は基本、刻みで売られていて、美味しくて使いやすく、軽いので、松山みやげにおススメです。閑話休題、)

「往復はがきねばならない」も相当ムリな言い回しです。「往復はがき(を送ら)ねばならない」と補ってやる義理は、読者には毛頭ない。句を真面目に読もうとすると、足場になるのは「麩」ぐらいしかないわけですが、足場としてはスカスカでいかにも頼りなく、読みの途中で裏切られる気しかしない。

これは、作者に直接「往復はがきねばならない」のでは。

--山田さんは、《青梅雨や和菓子を買うて橋の上》。お願いします。

山田●
絵の世界を叙景として捉えているとしたならば、その風景を説明するのではなく、気配を人のふるまいとして表現したところにこの句の良さがあります。「青」が効いています。絵との繋がりを示しているだけではなく、行為の清々しさを支えている世界観の基本色となっています。

ですが、私は、叙景の作品としてこの句を選んだのではありません。課題の絵には、道がありません。水路が見えていますが、そこからどこかへいける気配がありません。明るく美しい閉塞感。そんな印象を持ちました。

私がこの作品において着目したのは「や」です。俳句の切字「や」はテーマを提示します。そして、下へ読み進めたのちに、冒頭へ読者の視線を回帰させる働きを内蔵します。このような俳句ならではの修辞を用いることで、この明るく美しい閉塞感を示そうとしたのではないか、というのが私の視点です。一句の中で言葉が循環しつつどこにも行かない。それは、この絵の印象に限ることではなく、俳句作品がそれとなく目指す境地なのかもしれないと思うところがあります。

--ありがとうございます。選外で気になった句があれば、どうぞ。

湊●
最初、各題2句で選んでいて、【3 写真で一句】では次の句が並選でした。

夏川とさて明日はなき摩天楼

句の3分の2は題の絵を説明しただけで、雑と言えば雑な作りなんですが、「さて明日はなき」と大げさで無責任な見えを切ったところでその雑さが逆に活きていると判定します。

「摩天楼」は“Skyscraper”の訳で、この語は19世紀後半までは、背の高い人や馬、船のマストの天辺の三角の帆などを指していたらしい。1880年代後半にアメリカの大都市で高速建築が次々と建てられるようになってようやく現在の意味が定着して、それからまだ一世紀半しか経っていない。

暗渠から這い出てくる川、デジタル感のある絵に描かれた街にさえ「夏」を感じる感性からすれば、明日「摩天楼」が消えてしまってもどうでもよいではないか。瓦礫をどうするかについては考える必要がありますが。

結構暗渠好きなのでちょっとリサーチしましたが、この絵は渋谷川、八幡橋? 関東の人にはよく知られた場所なんですね、ネットに写真がいっぱいある。

--渋谷川です。「よく知られた」というほどでもないのですが。

湊●
山田さん並選の「千代田区の電柱にある夏日かな」「白桃をてこてこ運び来て小声」「青梅雨や和菓子を買うて橋の上」、それから「てのひらの蚊を捧げたり雨あがり」「ひるがほの花へ煙や鳥を焼く」、これらの句も、俳句としてまとまっていて世界の手ざわりがあり、 ぞれぞれに佳句だと思います。選んだ句と分かれたのはふり返ってみると、直感的に「読みで遊ばせてくれるかどうか」と感じたかどうかかな(評者のワガママですが、川柳の選や読みではこのワガママはけっこう大事だと思っています)。

とは言え、山田さん評を読んだ後だと、自分の俳句の読みの甘さを感じますね。「千代田区の電柱に・ある夏日かな」は思いつきませんでした。改めて考えると、俳句だと存在の「ある」は余分なので、という読みの展開は十分あり、というところなんですが。

白桃をてこてこ運び来て小声」の関係性まで踏み込んだ読みもなるほどです。私はからくりの茶運び人形を思い浮かべて、ちょっと気持ち悪い感じ、と読んでいました。子供のもつ異界性というようなテーマで。まあ、読み過ぎですね(笑)。

青梅雨や和菓子を買うて橋の上」は擬古典調?という辺りで私の読みは止まってしまいました。俳句のフォームにこだわることで読みを進められるのですね。

川柳らしい句では、山田さん特選の「どうしても千枚通しだとしても」、それから「さかなのうわさにふさわしかった」も気になっていました。「さかなのうわさ」の句は広がりがあってよいですが、ちょっとぼんやりしているとも言えて、周りに別の句を置く(連作?)ほうがおもしろくなりそう。実を言うと、投句一覧では、

さかなのうわさにふさわしかった
アヴェ・マリアにも網戸はおしゃべりだ

と並んでいて、キリスト教的な背景(イエス・キリストの象徴が魚[Ichthys イクトゥス])、「うわさ-おしゃべり」のつながりが(偶然?)生まれています。川柳の選者選の句会であれば、各題10句から5~6句ほど選ぶことになりそうですが、この2句はぜひ最後に並べたいところです。川柳・選者選ふうの選です(勝手に川柳句会、ですみません)。

【3 写真で一句】
タピオカ吸ふ暗渠の果てのあをぞらに
てのひらの蚊を捧げたり雨あがり
まやかしがまやかしを呼び照り返す
夏川とさて明日はなき摩天楼
さかなのうわさにふさわしかった
アヴェ・マリアにも網戸はおしゃべりだ

--なるほど。こう並べると、短句のない長句ばかりの連句のようです。《タピオカからおしゃべりまで、流れを感じます。句会もまた共同作業だったとは! 山田さんは、なにかありますか?

山田●
俳句と川柳が混在する中から選句をするのは、初めての体験でした。俳句らしさとか川柳らしさとか、それはよくわかりません。

そもそも俳諧は、〈和歌ではない〉ものとして育ってきたわけですし、近代俳句は、〈江戸俳諧ではない〉ことを足がかりに膨らんできたわけです。現代川柳も、幾層もの〈……ではない〉を潜り抜けてきたのではないでしょうか。

〈……ではない〉ものを選んでいる。その覚悟で、作品に向かい合いました。

すると、その結果、なぜこんなことを書くのだろうか、という作家の動機のようなものへの想像が鑑賞の中心軸となりました。選び終わっても、作家の動機などがわかったわけでもありません。しかし、〈らしさ〉によりかからずに鑑賞できた快感が、事後に残りました。皆さんの作品と湊さんの鑑賞文のおかげだと思っております。ありがとうございます。

--それでは最後に、余興として、どの5句が柳人作かを推理していただけませんか? ぜんぶは大変なので、【千】の10句で。もちろん、作者が柳人か俳人かなんて、あまり意味はないとは思うのですが。それに、俳句と川柳どちらもつくるという人も混じっていますから。あくまで余興で。

1 金魚草群れ咲くころは千葉の旬
2 友引が千日続く青山椒
3 千鳥格子の隙間に生まれ
4 一千年後のあたらしい息を吐く
5 千里眼で地球一周した風景
6 千代田区の電柱にある夏日かな
7 たのしい王手の千年でした
8 鳥除けの針千本と蜘蛛の子と
9 くしゃくしゃの千円札のアレやって
10 どうしても千枚通しだとしても

(番号で柳人作と思う句をお答えください)

山田●
3、5、7、9、10。

湊●
とりあえず、川柳っぽい句と俳句っぽい句に分けると、 川柳っぽい句が6句になってしまいました。うーむ、俳人が川柳っぽい句を出していたり、また逆もあるのか。そうなると相当難しいですね。

柳人が書いた川柳かな、と若干自信があるのが、5、7、9ですね。あと、3、4、10 が川柳っぽい句ですが、これらは俳人が書きそうな匂いもします。逆に、柳人が書いた俳句っぽいのは、1、2でしょうか。柳人がまず書きそうにないのは、6、8。

1、4、5、7、9で行きます。

ちなみに、かたちから川柳と判断するのは、3、4、5、7、9、10です。

--では、答え合わせ、行きますね。山田さんは4つ正解。10番は俳人作、それも山田さんがよくご存じの俳人です。

湊さんも4つ正解。1番は俳人作です。「川柳っぽい句ですが、これらは俳人が書きそうな匂いも」とおっしゃった3、4、10。10は鋭どかったですね。あと、「かたちから川柳と判断するのは、3、4、5、7、9、10」というところ、鋭いです。10を除けば、全正解。つまり、柳人作は、3、4、5、7、9です。

おふたりとも正答率80パーセント。クイズ的には充分に優秀ではないでしょうか。

あ、そうそう、おふたりの選句5句の内訳をお伝えしておきます。湊さんは柳人作を2句、俳人作を3句、山田さんは柳人作を1句、俳人作を4句、お採りです。どなたの作かは第1001号のリリースをおたのしみに。

今回はほんとうにありがとうございました。おふたりのおかげで、予想した以上におもしろいセッションになりました。

湊●
何だかテンションが高くて(俳句甲子園の影響?)、急ピッチで話してしまいましたが、楽しかったです。別の読みが出る緊張感と、山田さんならという安心感がありました。

山田●
ありがとうございました! 何かの機会に川柳の会に参加させてください。

(了)

2025-06-15

山田耕司【週俳3月4月5月の俳句を読む】ドーナッツと穴と

【週俳3月4月5月の俳句を読む】
ドーナッツと穴と

山田耕司


ふちゅーいゆーいゆーえい禁止のゆめみる湖  おおにしなお(以下同)

意味をコントロールする手綱からふっと手を離してみると、言葉は音としてふるまい始める。
音を遊ばせながら、また、意味への手綱をふいに引き締める。
文学とは命の重みを映し出す器であるという考え方があるとするならば、弛緩と緊張の繰り返しを与えられた意味と音との痙攣は、その器を蹴飛ばすことになる。
軽々と信じられてきたような文学に揺さぶりをかけること。その行為そのものがテーマになっているのが、おおにしなおの作品なのだろう。
「ゆめみる湖」という俗っぽい表現は、「ゆ」という音の痙攣から導かれたものであると同時に、(ひょっとしたら遊泳禁止の湖で起きた事故などを逆説的に表現したものなのかしらなどという)意味の深みへの道筋を封印する効果も発揮しているようである。


空き地でかたるねねどこ再び翅まみれ

空き地でかたるね/ねどこ再び翅まみれ と文節することができるのだろう。ともあれ、ここでは「ね」という音のの痙攣が主眼なのだろうし、「ねどこ」という言葉を中心としての想像を、痙攣を濁らせないように(つまり、意味内容の方が音遊びの趣を調節してしまわないように)、ほどほどに提示しようとしているようだ。「空き地」の虚しさは、そうした「ほどほど」の手の打ち方のひとつなのだろう。


しかしぼろいな梅雨にはびこる言葉の塵

抉れてえんちゅういつかこころになれるかなあ

俳句を詠む。その行為そのものを対象として、そして、多くの場合において信じられている俳句という存在を揺らすことを目的として、作品を書く。
それは、俳句へのメタ的な接近方法でもある。メタ的な方法には、行為者のボヤキが滲み出ることが少なくない。
上記の句などを、その手のボヤキとして受け取ってみようか。作者の、誠実さや内省の深さのようなものを汲み取りながら。


あのねはつゆき あ、初雪の なんでもない

書く。それは、言葉として何らかを指し示すこと。これ、ドーナッツ。ドーナッツの形や味を求めるのが、意味を書くということ。
書く。それは、言葉では言い尽くせない何かをイメージしながら、あるいは、イメージを結ばないように配慮しながら、あえて言葉でそれを作ってみることでもある。それって、穴を作るためにドーナッツを利用しているということができるかもしれない。

この世界には、意味でドーナッツをこしらえることにこだわりを持つ人もいれば、ドーナッツそのものよりも穴の存在に惹かれていく人もいる。

どちらが良いのかを判定しても面白くない。
ともあれ、言葉を書き連ねることへの傾きは人によって違うよね、という表現行為への柔らかさは持っていたいものだなぁと思うところ。

「はつゆき」を音として解き放ち、「初雪」という意味の世界へと踏み込んでみたものの、どのようにグレて見せようとも(グレるというのはあくまでも喩としての表現。作者の誠実さを茶化したりするものではない)、何やらそれなりの文学的な意味の重たさを引き受けてしまいそうになる。ドーナッツを作りたいのならば、その文学性に身を委ねてゆけば良い。しかし、穴に関心がある者は、立ち止まってしまう。「なんでもない」。このフレーズは、そうした立ち止まりをメタ的なニュアンスも込めて書き留めたものかもしれない。穴を作ろうとしているのかもしれない。

込められた意味をちゃんと解釈する。そんな読み方がある一方で、ドーナッツになりたくないという志向を受け取りつつ、意味に着地しないように配慮する読み方もある。
ナンセンスな行為が何の役に立つんだろうと思う人もいるかもしれないけれど、役に立たない行為が、この世界ってこんなもんだよねとわかりきってしまったような考えを揺さぶって目覚めさせてきたことは忘れてはいけないと思う。
ドーナッツになりたくない作品として、おおにしなおの取り組みを読ませていただいた次第。


松田晴貴 巣箱 10句 読む 936号 2025330

 おおにしなお ゆらめくようにだめなとこ 10句 読む 939号 2025420

 超文学宣言 ハプスブルク家の春 読む 940号 2025427

 竹岡佐緒理 夏の詰合せ 10句 読む 942号 2025511

 上田信治 とは 15 読む 944号 2025525


2024-11-23

山田耕司【週俳9月10月の俳句を読む】遊びとシバリ

【週俳9月10月の俳句を読む】
遊びとシバリ

山田耕司


いますこしままこのしりぬぐひをみる 村上瑠璃甫

文字列を、みる。

「いますこし」のうしろにつづいているひらがなを、みる。

「ままこの」が「このまま」に見えてきたりする。

「ぐひ」。ヘンな音。

ひらがなでの表記は、音遊びへと読者を誘い込む。

音で遊ぶためには、文字が示している意味をいったん横に置くことになる。

意味を横に置くのは、言葉の役割をひとつはぎとってしまうふるまいでもある。言葉の意味の前で、こうやってよそ見をする。そうすると、言葉にちょっと重みがつくような気がする。日常のやり取りの中で「伝わることで消えていってしまう」言葉に、別の役割を与えてあげたような気分になるから。

この句が意味として伝えることは、あまり深みを持たないように思う。

とはいえ、言葉の遊びの前で立ち止まっているような感情の揺れを読み取るとしたら、日常からはみ出しつつある作者の姿を横から目撃しているような読後感を味わうことができるかもしれない。


不死鳥を踊らせて土器吹雪く   マブソン青眼

「火焔土器に蛍」という題がついている。

作品群のモチーフそのものだ。

おどろおどろしい単語が示されていたり、松尾芭蕉の作品を下敷きにしているフレーズがあったりする。Tシャツにしたら、カッコいいかも。

それはそうと、タイトルの横に(五七三)とある。

これは、作者が自らに課したシバリ。(五七五)の定型ではなく(五七三)で行きますぞ、という宣言。

自分にシバリを与えながら俳句を書く。与えられたシバリではなく、自ら選びとったシバリを貫く。好きですよ、そういうの。

「不死鳥を」「踊らせて土器」「吹雪く」

シバリのことが頭になければ、土器が吹雪いているように読むのがスジなのかもしれない。吹雪くように激しい動きを火焔土器の造形に見届けているということか。ともあれ、そうなると、土器のありさまを示すと思われる「不死鳥を」「踊らせて」という表現と「吹雪く」とがカブってしまうようにも思える。

ここで、キレの出番。

「不死鳥を踊らせて土器」。ここまでは、土器の様子。

ここで、大きく切ってみる。(五七三)の三、ここに、キレを感じてみる。

「吹雪く」。この動詞の主語を「土器」から解放してみる。

となると、いうまでもなく、主語として「空」「大気」などが想定される。グンと世界が広がる。感じ取った広い世界に対して、あらためて「不死鳥を踊らせて土器」を配置してみる。イメージが、かなり深くなる。

キレを感じる。飛躍を読み取る。

それは、散文では表現できないような感覚をもたらす。

こういう作用は、俳句ならではの魅力。

「師・金子兜太にささぐ」とある。

俳句でしか示すことができない感覚。それこそが、師へのささげものなのかもしれない。


長き夜の高きを灯し機体ゆく  月野ぽぽな

飛行機。夜を高く飛んでいるのである。ジェット機のような大きな飛行機なのだろう。

飛行機と書いてしまえば、意味は分かりやすくなる。「長き夜の高きを灯し飛行機は」、たとえばこんな風に。

意味がわかりやすい。でも、これって、言葉がものごとの報告に奉仕する方向に傾くことでもある。

「機体ゆく」。

モノとしてのつかまえかたが、クール。

「ゆく」という表現があることで、句の中にさらりと時間が取り込まれている。

時間だけではない。空間の広さも、読者にもたらされる。

「飛行機は」より「機体ゆく」の方が、しっかり面白い。

そもそも、この句の焦点は「長き夜」にある。

「夜長」「長い夜」。秋を示す季語。
なんとなく添え物のように使われがちな言葉なんだけど、この句においてはそれそのものの存在を示そうとしている。

「高きを灯し機体ゆく」。「機体」を「飛行機」だと理解する読者なら、ここでの「高さ」にも想像が働くことだろう。「灯し」という言葉だけで、時刻や天候や「機体」が進んでゆくスピードや見上げるものとの距離感などまで一挙に味わうことができるだろう。

季語に血をめぐらす。それは、忘れがたい俳句作品を仕上げるための道でもある。


村上瑠璃甫 ままこのしりぬぐひ 10句 ≫読む 第907号 2024年9月8日

マブソン青眼   火焔土器に蛍(五七三)10句 ≫読む 第909号 2024年9月22日
月野ぽぽな ピアニシモ 10句 ≫読む 第911号 2024年10月6日

2024-04-21

山田耕司【週俳3月の俳句を読む】ナイス浮かせっぷり

【週俳3月の俳句を読む】
ナイス浮かせっぷり

山田耕司


◆岩田奎「ミャクミャク」10句
 
「血沼海」と書いて、「ちぬのうみ」と読む。
「ちぬのうみ」といえば、大阪湾と了解する。
「茅渟の海」とも、書くそうで。
(大阪湾が血だらけになってるわけではないのであって)
そこまでが、意味の世界。

ともあれ、血。あまつさえ、沼。
もう、スプラッタ。
それが、字面による印象の世界。

それぞれの句に、散りばめられていて。
まんべんなく、血。とりもなおさず、沼。
それが、作者が張り巡らした結界。

大阪万博。「いのち輝く未来をデザインする」というのがテーマであって。そのシンボルが、ミャクミャク氏。「細胞と水がひとつになったことで生まれた、ふしぎな生き物。その正体は不明。」とのこと。

了解した。意味の世界においては、そういうことになっているのだ。

ミャクミャク氏。
それにしても、その面構えよ。
それにしても、そのデザインよ。
ほのぼのと、気持ち悪い。
ふわふわと、呪わしく。
いいね。こういうインパクト、嫌いになれない。
印象の階層での、この雄弁さよ。

10句に、「血沼海」。
これらの言葉は、句の中で浮いている。
言葉で書き表すのではく、言葉と言葉の関わりにおいて感じられるところの浮っぷり。
その浮きっぷりが、結界のように張り巡らされていて、その存在感が、なるほど、ミャクミャク。

 血沼海むらがりとぶは杉の胤

「むらがりとぶは杉の胤」。花粉を、「胤」と認識しているところが、ツボ。
なるほどと思わせる措辞が、うまい。このうまさがあるからこそ、「血沼海」が、浮いて見える。

 ながし雛ながれ腐りや血沼海

日野日出志かよ。
「ながれ腐り」の現場としてつながるのは「海」。
文字面としての「血沼」の部分は不条理な余剰のように見える。「雛」は、そう簡単に血だらけにならない。

 血沼海かぢめ醜と女学生
 卒業の脛美しや血沼海

女学生。爽やかな女子高生とその美意識。
「脛美し」という湿度のあるフェチズム。
これらは、さしずめ、「美女と野獣」の美女ポジションか。
「女子高生」にせよ「脛」にせよ、それらの対象への読解へと読者を惹きつけておいて。であるからこそ、「血沼海」が、浮く。

 血沼海骨くきやかに春手套

うまい着眼。「骨くきやかに」なんて、手袋の描写になかなか使えない。
こんなゴチソウ、他の上五を斡旋していれば、一句として整ったものとなるだろうに、そこに「血沼海」。
狙って浮かしてるのが、よくわかる。

 夏蜜柑殖ゆるなかぞら血沼海

そういう意味で言えば、この句の「夏蜜柑殖ゆるなかぞら」も、うまい。「なかぞら」が出てきそうで出てこない。読者の視線を、この「なかぞら」に持っていかせているわけだから、「血沼海」は、もう取ってつけた言葉になっちゃっているとしか言いようがないわけで。

この作品群を読んで、言葉の効きが甘いところがあるというような批評が上がってくるかもしれないけれど、そんなことは作者は百も承知で遊んでいるに違いない。
気持ち悪くて、呪わしい。
そんな印象が、現実味を持たないまま、世界に散りばめられている。
いいな、これ。
ややこしい言い方をすれば、「ミャクミャク」の俳句的な内面化に成功している、てなところか。


浅川芳直 寝返り 10 読む  第880

宇佐美友海 背中 10 読む  第881

岩田奎 ミャクミャク 10 読む  第883

若林哲哉 ひとひら 10 読む  第884

2022-11-27

柳俳合同誌上句会2022 選句結果

週刊俳句
柳俳合同誌上句会2022 選句結果
1週間延ばしましたが、結局、お一人様から選句が届きませんでした(音信不通)。届いたぶんで結果とさせていただきます。

10名様参加。5句選(特選1句・並選4句)。≫投句一覧

※選外の句へもコメントをいただいています。

〔柳人〕
嘔吐彗星
城崎ララ
真島久美子
翠川蚊
湊圭伍
〔俳人〕
青本柚紀
浅川芳直
小川楓子
津川絵理子
山田耕司

※参加者プロフィールは、このページの末尾に。

【草】

偶会の波引く草の枯を踏む  浅川芳直

思ひきり脚掻いて草の実だらけ  小川楓子
■えのこずちでしょうか。小さなお子さんのはしゃぐ姿が想像されて楽しいです。「思ひきり」がもっと見えてきてほしい気もします。(浅川芳直)

星を喰ふひと今の草は揺れてゆれて  湊圭伍

草食の月に寄るべを求めるな  城崎ララ
◯嘔吐彗星
■食性のカテゴリを与えられたことで、肉食や雑食などその他複数の月の存在が暗示されて面白いです。伝承のようでもあり、個人的な経験に基づく忠告とも読めそう。なぜ?と先を想像させる魅力があります。なんとなく、静かに誰にも気付かれずに自滅してしまうのでは、という予感がしました。(嘔吐彗星)
■「草食の月」がいいと思った。「寄るべ」があいまいに感じたので、そのあいまいさと「求めるな」の命令がちょっと座りが悪いかも。(湊圭伍)
■「あなたの発想はどこから?」と聞きたくなるような、「なんだそれ?!」感があって好きです。草食の月ってすごいなあ。月がもの食うのは前提で、そのうえで草食とそれ以外に分けている。と思ったけど、この草食は「草食系男子」の草食かも。「草食のオトコに寄るべを求めるな」なら、なんかそういうしょうもない警句っぽくなるし。まあいずれにせよ、月が草食なのは「変良い」ですね。(翠川蚊)

草笛の苦手分野を吹き渡る  嘔吐彗星
◯真島久美子◯城崎ララ◯山田耕司
■どんなところであれ、草笛を吹きながらあるきつづけられる人は、それなりに無敵。(山田耕司)
■苦手分野を吹き渡る、がいいなと思いました。草笛、中々思うように吹けないと思うのですが、吹き渡ることで堂々と挑んでいくような……潔さ、晴れやかさを感じます。(城崎ララ)
■子供の頃、父が吹いてくれた草笛。何度教えてもらっても吹けないまま、父の口元を黙って見ていた。苦手分野という領域を染めながら、どこまで広がってゆく音。それはまるで自分は自分のままでいいのだと教えてくれているようだ。(真島久美子)
■「草笛の苦手分野」!!(翠川蚊)

草彅の彅ほぐしつつむかいかぜ  翠川蚊
◯津川絵理子
■彅をほぐしているのは「むかいかぜ」なのか、頭の中で作者自身がほぐしているのか。もしかすると両方かもしれない。そう考えると、作者の受けるむかいかぜが頭の中をそのまま通って行くようなイメージが広がって面白い。「彅」という字は「弓」「前」「刀」にほぐれるし、これらもさらにほぐせるから、最終的にそれぞれが一本の線になって、まるで草みたいだ。そうか「草」と「彅」ってお互いに繋がっているんだな、と思ったりして、この句の世界に遊ばせてもらった。(津川絵理子)
■初読からしばらくの間「草粥の粥」と空目して俳句だと思い込んでいて、草粥の湯気が向かい風とまざりあうところまで味わってしまいました。読み直すと川柳なのですが、俳句の風情も感じられます。彅は「弓で強く剪る」の会意とのことで、これをほぐす作業からあふれてくる抜け感がいいです。はじめは一方向だった向かい風も、全体の3分の2以上のひらがなによってほぐされてあやふやになっていそうです。(嘔吐彗星)

冬青草包みごと割るチョコレート  津川絵理子
◎城崎ララ◎山田耕司◯真島久美子◯湊圭伍○浅川芳直
■割る。その時の手から伝わる感覚。「冬青草」とのリンクは万人が受け入れるものではなく。であるからこその潔さのようなものが感じられました。(山田耕司)
■チョコレートを割る句はあるのかなと思いつつ、清冽な冬青草の感じが好きでした。(浅川芳直)
■ふゆあおくさとそのまま読むのですね。季語は景色の見える美しい言葉だなと思いました。包みごと割るなら外で友達と分けたのか、それともこれは明日の分、と自分と分けることにしたのか。その情景の美しさで、割るという動作にマイナスでなく、喜びや期待など、ポジティブな感情を分け与える印象を受けました。あの銀色の包みまできらきらと見えるような、すてきな句です。(城崎ララ)
■「冬青草」を用いた句のストックが脳内にないので季語として効いているのかは分からずながら、中七下五のまっすぐな印象が思い切りがいい主体を伝えていてよいと思った。(湊圭伍)
■恋の真ん中でする儀式に「手作り」というものがある。誰かを想いながら大きなチョコレートを迷いなく割る気持ちよさ。冬青草が一生青春だと叫んでいるようだ。(真島久美子)

猫よ草吐け俺よ有季定型句を吐け  山田耕司
◯真島久美子◯津川絵理子
■有季定型句を吐けと自分に命令しながら、そうなっていないところに「俺」の葛藤が伝わる。猫が草を吐くのは辛そうだから、「俺」もそんな風に苦しいのだろう。(津川絵理子)
■生理現象としての有季定型句だなんて驚いた。そこからの定型無視に、自然と口角が上がる。句の勢いに一気に飲み込まれてしまった。(真島久美子)
■メタに実感を込めるのってむずかしいと思うんです。メタは上位者の視線を導入することだから、どうしても冷笑っぽくなる。それはつめたいメタ。でもこの句はなんというか、生々しい体温とか実感があって、熱いメタ。熱いメタ、好きなんですよ。(翠川蚊)

文脈は草茫々という手紙  真島久美子
◯翠川蚊◯嘔吐彗星
■互いの近況や打ち明け話でしょうか、文脈が知らないうちに伸び放題になる草に擬えられています。書ききれなかったことも余白に生い茂っているんでしょう。有機物である草の生長スピードがちょうどよく喩として機能していて、代替が思い付きません。題の特質が十全に生かされた句だと思いました。また「茫々」と表記されることで雑草の煩わしさが一転して、この事態を価値判断以前の認識へと解放してくれるようでもあり、万物斉同にも通ずる境地が垣間見えました。(嘔吐彗星)
■「文意」とかではなく「文脈」。だから手紙の本題が「草茫々」なのではなくて、あくまで意味上の連関とか脈絡のうえでのみ「草茫々」がある。「草茫々」がテクストの織り目の合間にそっと身を引くような、そんな美しさがあります。(翠川蚊)
■「文脈は草茫々」に引っかかって何度か読み返した句。文ではなく、文脈。支離滅裂なのか、脱線しているのか、四方山話が尽きないのか……なんにせよ思いのこもった手紙なのだろうと思います。(城崎ララ)

眩む手を草のあなたがおほふ傷  青本柚紀
◯翠川蚊
■読めば読むほどグラグラします。どこで切断するかによって、いろんな読みが浮かび上がってくるんですね。でもそのどの読みにも、読み切れるような読み切れないようなもどかしさがずっと付きまとって、痒いところに手が届かない。ウザい多面体(すっごい褒めてます)みたいな句だと思いました。(翠川蚊)
■かなりアクロバティックな句。「眩む」のは目だろうし、「手」が傷を覆うべきなのだが、そうした自然な措辞を外した裂け目を「あなた」への呼びかけが埋めている。「草のあなた」が謎めていて、同時に読者が句を読む行為と重なり合っている。(湊圭伍)

【書】

ぬるい霜月書けば日照雨に木が痩せて  青本柚紀

ひとりずつひとりとなって書をひらき  湊圭伍
○浅川芳直
■下五のものほしげな言いさしが、「ひとりずつひとりとなって」というちょっと鬱然たる気分に説得力を与えていると思いました。(浅川芳直)
■「ひ」の畳みかけがおしゃれです。「ひとりずつひとりとなって」、良いですね。音読したくなりますね。【書】という題に対していちばん正面から向き合ってる句だという気がします。「書」ってたしかにそういうもんだよね、っていう納得感がある。選からは漏れてしまったけど、とても心に残った句です。(翠川蚊)
■はじめの「ひとり」はカウントされる人数としての「一人」、続く「ひとり」は孤独の「独り」と読みました。自ら選べる孤独があるのは豊かなことだと、この句が言っているわけではないのですが、ひらがなで並列されたひとりひとりに書がひらかれている光景はどうしてもうつくしく、肯定を免れません。たまたま今年観た、レイ・ブラッドベリ原作でトリュフォーが映画化した『華氏451』のラストを彷彿とさせる句でもありました。(嘔吐彗星)

もろともに晴れ間から下書きのぞく  嘔吐彗星

玉砕もおりこみずみのお品書き  翠川蚊
◯城崎ララ◯山田耕司◯嘔吐彗星
■見開きタイプのお品書きを想定しました。雑俳の折込みに掛けているのだとすると、品目の中に「玉砕」の二字が詠み込まれているのかもしれません。内容が気になるところですが、最後の晩餐まで取って置いて、裏切り者に開けさせたいですね。(嘔吐彗星)
■いい度胸だな。(山田耕司)
■ひらがなの部分から「こおり」を空目してしまい、一気に玉砕のイメージが補完された句。「みず」もありますね……玉砕といいながら実力を試したいような、果敢な印象も受けます。(城崎ララ)
■「玉砕」とは穏やかではない。ただし、それは「おりこみずみ」であるし「お品書き」にていねいに記されているらしい。中七・下五の頭の「お」が落ちつき払っているものの、やはり「玉砕」である。ひどい目に会う人らも居るんだろう。 (湊圭伍)

山霧や駅に学童書道展  浅川芳直
◯真島久美子◯翠川蚊◯小川楓子
■子供たちの作品が並ぶのは、山深い駅だろうか。霞む山に対して伸び伸びとした筆で表される墨色がみずみずしい。(小川楓子)
■いわゆる「お習字」の句というと、「雪の教室壁一面に習字の雪/榮猿丸」を思い出します。習字が壁一面貼られてる光景ってちょっと怖いんですよね。この句は山だし霧も出てるし、余計ゾッとする感じがある。「liminal space」っぽいからかもしれない。いや、別にそんなこと書いてないんですけど。でもどうしてかこれは無人駅だという気がする。そこにひとり取り残されて、山の駅だから次の電車も全然来なくって、すごく静かで、そんななか学童書道展がひっそり開催されていて、明らかに子供たち自身のものではない言葉が飾られている。こわいなあ、という妄想。(翠川蚊)
■なんと静かで澄んだ句だろうか。子ども達が懸命に書いた作品を、微笑ましい気持ちで眺める小さな駅。心の余裕とは、たわいもない場所に存在している。(真島久美子)

書き足せばBマイナーになる眠る  真島久美子
◯山田耕司
■スイッチを切るためのスイッチ。(山田耕司)
■「とても眠くて楽譜一枚書き漏らす/海地大破」の変奏かなあ。眠くて書き漏らした人と、書き足してBマイナーにしてから眠った人。「Bマイナー」、調べたらバッハの「ミサ曲ロ短調」というのが出てきて、聴いてみるとすっごい荘厳。でも眠る前に書き足したのだとしたら、ちょっとかわいい。あ、でもBマイナーに「なる」なのか。おのずと?(翠川蚊)

折れ折れて書架のわが影冬に入る  津川絵理子
◎浅川芳直◯小川楓子◯嘔吐彗星
■夕陽の射す開架よりは深閑とした閉架書庫、その冷気に導かれる影でしょうか。
折れ折れていく影が幾何学模様をなすかと思えば、冬に至るまでの、書架を巡った時間が長時間露光されるようにも見えます。「わが影」を第三者視点で捉えているところもソリッドで格好いい句です。(嘔吐彗星)
■書架に私が入ったときの私の影の折れ方に冬の到来を感じた、と理解しました。折りたたまれた言葉が開かれるような展開の仕方が良いと思いました。(浅川芳直)
■自分の影を折るには、身体を曲げるのが一番簡単かもしれない。くねくねとした人なのだろうか。それとも、、、。冬の始まりの空気のなかで何か不思議なことが起きる気配がする。(小川楓子)

舌で書くバカの二文字よしょっぱいぜ  山田耕司
◯真島久美子
■バカは甘いものだと思っていたが、その矢印が自分へ向いた途端にしょっぱくなってしまうものだと気付かされる。舌先が感じるのは小さな後悔なのだろう。(真島久美子)
■尻文字はありますけど、「舌文字」とは。身体の中でもかなりよく動く器官なんで、書こうと思えば書けそうですね。「しょっぱいぜ」。そうですか……と思いながら笑っちゃいました。(翠川蚊)
■ヌーベルヴァーグに出てきそうな、愛嬌のある自棄ですね。「ぜ」はまだしも、この「よ」は気恥ずかしくてなかなかできない気がします。ポーズを全うしているところに好感を持ちました。(嘔吐彗星)

昼の書き順をなぞる爪のひかり  城崎ララ
■「書き順」は「昼」という文字のものか、それとも昼という時間に書き順があるということか。前者が実景だが、後者の感覚も重ねてある、と読みたい。(湊圭伍)
■「書き順」私もいろいろ考えたんです。でも、これより良い句はできなかったな。句意も明瞭で、誰が読んでも良い句なんじゃないかなあ、と。採るか最後の最後まで迷いました。(翠川蚊)

冬がはじまる友だちの白い書架  小川楓子
◯津川絵理子◯城崎ララ
■書架って冷たいんですよね……学校の地下書架を思い出しました。冬の書架は白くて、寒くて冷たい。なんとなくこの友だちはひとではなく、建物や場所であるように感じます。(城崎ララ)
■どんな友だちなんだろう、と想像する。親友というのでもなく、どことなく掴みどころのない人のような。「冬がはじまる」と「白い書架」の取り合わせと、全体的にふんわりした雰囲気に惹かれた。(津川絵理子)

【乗り物】

サーカストラック雨の向こうへ行ったきり  真島久美子
◯小川楓子
■サーカスというと大型テントに大型トラック、いずれも懐かしいアメリカ映画に出て来そうな色合いの印象がある。祝祭のあとの寂しさが「行ったきり」とさりげなく表されている。(小川楓子)
■何かが向こうの世界へ行ってしまって、帰ってこないという句、川柳には多い気がします(勝手に川柳と決めつけていますが…)。「弁当を砂漠へ取りに行ったまま/筒井祥文」とかね。で、これはたぶん子供の視点という気がする。子供からしたらサーカスはひとつの小宇宙ですから、それがもう行ってしまったって、たぶんすごい喪失感。非日常が日常に戻るときの、そのなんとも言えぬ悲しさですね。(翠川蚊)

トーストのうえをトロリーバスが行く  翠川蚊
◎真島久美子◎湊圭伍◯小川楓子
■「トロリー」ならぬ「トローリ」の「チーズ」が隠されているというまことにベタなお遊びながら、というかそのベタさゆえに軽やかな明るい朝の風景(とちょっとの眠気)が起ちあがっている。「~が行く」も句の外へうまく抜けていて心地いい。(湊圭伍)
■トーストの上で溶けてゆくバターのような、優雅な時間を感じる。実際に見たことも乗ったこともないのだが、耳の奥を静かにトロリーバスが過ぎていった。(真島久美子)
■日本では、トロリーバスを見かけることは少なくなったが、ドイツなどでは、今でも交通機関として活躍しているらしい。トロリーバスの「トロリー」という音がトーストの上で溶けるバターを彷彿とさせられ美味しそう。トースト一枚で小旅行の気分。(小川楓子)

ほどよい誤訳ね。ギアが滑るときの  湊圭伍
○翠川蚊
■ギアが滑るという感覚、ペーパードライバーの私にはよく分からないんですが(調べてもピンとこなかった)、ギアが滑るたびにこの世に「誤訳」が紛れ込むという「感じ」は不思議とわかる気がします。この句のなかに「誤訳」を探したくもなりますね。「ね」のあとの句点が重要なのかも。これによって「ほどよい誤訳ね」がテクスト上の発話だということが強調されている。話者はもしかしたら、自分がテクスト内存在だと気づいていて、誤訳されているのは話者自身なんじゃないか。「ほどよい誤訳ね。」が誤訳なら、なんかもうそういうパラドックスみたいになりますが。(翠川蚊)
■誤訳にも程度があること、その楽しみ方まで心得ている手練れの翻訳者が想像されます。句点の手前から、向こう側を傍観する……微笑を浮かべたまなざしと、事故の予感とを交錯させる倒置が効いています。「ほどよい」や「ね」の選択によって表面上マイルドに仕上げているところに、作者のねじれたセンスのよさがうかがえる句です。(嘔吐彗星)

機内誌のヨレも乗りこなすサーファー  嘔吐彗星
◯湊圭伍
■乗客が何人も乱暴に読んだ機内誌のページの折り目を越えてゆくかに見える写真の中のサーファー。飛行機旅の微妙な疲れで気怠くなった目線がとらえたディテール。チープで意味が無いのがよい。(湊圭伍)
■良い波なのだろうなと嬉しくなります。きっとたくさんの人が手に取った、ベテランの機内誌。(城崎ララ)

枯れ山を股に挟めば馬の声  山田耕司
◎津川絵理子○浅川芳直
■上五中七はどういう状態?と一瞬考えた。でも下五の「馬の声」で、馬に乗っているのかも、と。馬の背を枯れ山に喩えたことで、なんだかおとぎ話に出て来そうな大きな馬を思った。馬の声が前方遥か彼方から聞こえてくるのだ。自分が今股に挟んでいるのは、馬であり枯れ山なのだと感じると、世界は果てしなく広がり、自分もまた果てしなく広がっていく。(津川絵理子)
■解釈が必要な一句。股覗きのような仕方で枯山を見ていると取りました。鄙の雰囲気に惹かれて。(浅川芳直)

自転車に馬のぬくもり帰り花  津川絵理子

冬凪にアクセルふんはりと踏まれ  小川楓子
◎翠川蚊◯山田耕司
■「ふんはり」に心打たれたので特選。「ふんはり」の旧仮名の手触りがたまらない。「は」がポカンと空気みたいなんですね。「ふ」のたたみかけも気体っぽい。「冬凪」だから静かな大気が、足もとで「ふんはり」と少しだけ動く。その風の動きが、その感触が、そのさびしさが、そのかわいさが、そのかすかな温度が見える。アクセルが主語なのも良いですね。アクセルを踏むのではなくて、アクセルが踏まれるという、そういう世界への眼差し。私は運転教習所がこの世でいちばん嫌いですが、この句を見ると、クルマ、運転、なんか良いなってなります。もう超絶好きな句です。(翠川蚊)
■冬凪に対して、ではなく、冬凪を原因として、という意味で、この「に」という助詞を受け取りました。(山田耕司)
■言われてみれば、アクセルを急に踏むのは危ない。「ふんはりと」ですね。(浅川芳直)

冬麗の汽笛ほど汽車遠からぬ  浅川芳直
◎小川楓子◯津川絵理子◯湊圭伍◯城崎ララ
■電気機関車の甲高い汽笛ではなく、蒸気機関車の圧倒的な音量と複雑な音質の汽笛が、ふさわしく感じる。「汽車遠からぬ」という措辞には、そんな汽車への愛情がにじむ。澄んだ日のどこまでも響く汽笛が醸し出す奥行きにしばし佇んでいたい。(小川楓子)
■ふゆうらら。これも調べたのですが、季語って本当に美しい。冬の空は高く、汽笛が響き渡る晴天が見えるようです。どんなに遠くからだろうと振り向いたらそこの線路だった、なんて思わずはにかんでしまいそう。汽車の向こうまで見えそうな句です。(城崎ララ)
■通常「遠からず」とするのかと考えたが、「遠からぬ」と形容詞的に後ろに何かがあることを示唆しているところに味がある気がしてきた。頭の「冬麗」へと戻ってゆくような。(湊圭伍)
■汽笛は遥かから聞こえてくるのに、汽車はそれほど遠くないところに見えている。そんな風景をどこかで見たことがあるような気がする。なるほど確かにそうだと思う。冬麗の不思議な光景。(津川絵理子)

透けてゆく舟は階下へ実を運び  青本柚紀
◎嘔吐彗星◯湊圭伍
■舟を透過して階段に揺れる光の網。超自然的な美しさのあるシーンです。下へ動くのであればこの舟は沈んでいることになると思うのですが、「実」を運ぶ役目を果たしているらしい。むしろ「実」の重みによって沈んでいるのでは……という実際的な読みは差し置かれます。それよりもなんの「実」なのかが気になるからです。なんらかの実が階上から階下へ降りることは、種子への回帰を思わせもします。舟が透けてゆくのは消失を意味するのか、その引き換えとしての実なのか……意味深で、複数の読みを誘う句です。けれどどの問いも抽象的なまま麻痺させられるので、分析をやめて句のイメージに没入、陶酔しました。(嘔吐彗星)
■「透けてゆく」で切れるかどうか。とりあえず切って読んだ。そうすると要素が多くて複雑な句になるのだが、すべてが透けてゆき上下の区別も不分明となった世界を移動する「舟」の像が浮かんで解放感があった。(湊圭伍)

流星を手本にTime Machine【🔛】  城崎ララ
○浅川芳直
■初めて見た絵文字で面くらいました。「手本に」、よくわからないようで、われわれが見ている星の光は約0.003秒前の光。そんなところの繫がりがあるのかなと思いました。(浅川芳直)
■パッと見ていちばん気になる句ですよね。「流星を手本にTime Machine」は素直に読めますが、なんだ【🔛】って。Time Machineの起動って、こんな感じなんだろうか…と妄想できてたのしい。(翠川蚊)
■乗り物というテーマにたいしてTime Machineを持ってこれた時点でリーチですね。Time Machineがつよすぎて、たいする「流星」の斡旋がややおぼろげな気もしますが。??の左右両矢印で句の前後の時間に飛んでいけそうな感じが面白いです。Emojiの導入に挑みながら、「りゅうせいを/てほんにタイム/マシン・オン」とスムーズに17音で読ませる保障も忘れてはいません。(嘔吐彗星)


【参加者プロフィール】

嘔吐彗星 おうと・すいせい
無所属フリー。句集未刊。note https://note.com/vomitcomet09

城崎ララ きのさき・らら
西脇祥貴との川柳ユニット「川柳諸島がらぱごす」で季刊ネプリを発行。オンライン句会「海馬川柳句会」「川柳句会ビー面」に参加中。

真島久美子 ましま・くみこ
1973年生まれ。卑弥呼の里川柳会代表。番傘川柳本社同人。川柳葦群同人。全日本川柳協会常任幹事。

翠川蚊 みどりかわ・か
2000年生まれ。未所属。プロフィールに書くことなくて悲しいです。誰か一緒に川柳やりましょう。好きな映画は『ダンボ』と『ラルジャン』です。noteのリンク(連作等あり)https://note.com/midorikawa_ka

湊圭伍 みなと・けいご
「川柳スパイラル」、「せんりゅうぐるーぷGOKEN」同人。昭和48年、大阪府生まれ。愛媛県松山市在住。句集に『そら耳のつづきを』(書肆侃侃房、2021年)。海馬川柳句会運営。

青本柚紀 あおもと・ゆずき

浅川芳直 あさかわ・よしなお
1992年生まれ。「駒草」「むじな」。第8回俳句四季新人賞、令和3年度宮城県芸術選奨新人賞、第6回芝不器男俳句新人賞対馬康子奨励賞。「河北新報」秀句の泉 水曜、土曜担当。

小川楓子 おがわ・ふうこ
1983年生まれ。「舞」会員。今年5月に第一句集『ことり』を上梓。共著に『超新撰21』『天の川銀河発電所』ほか。

津川絵理子 つがわ・えりこ
1968年兵庫県生まれ。1991年南風入会。鷲谷七菜子、山上樹実雄に師事。句集『和音』『はじまりの樹』『夜の水平線』など。第61回俳人協会賞。

山田耕司 やまだ・こうじ
1967年生まれ。俳句同人誌「円錐」編集人。句集『不純』ほか。

2022-11-06

宮本佳世乃【句集を読む】 閉まることのない穴 山田耕司『不純』

【句集を読む】
閉まることのない穴
山田耕司不純

宮本佳世乃

初出:『炎環』第460号・2018年10月

一九六七年生れで高校時代から作句をはじめたが長らく沈黙していた作者の『大風呂敷』(二〇一〇年)に続く第二句集。ある意味奇抜とも言えるタイトルの本句集は十章に分かれ、各章にテーマ性を持たせている。

山々に足こそ無けれふところ手  山田耕司(以下同)

山は笑い、滴り、よそおい、眠る。この句にあるように、山は顔も、手も、精神も持ち合わせていそうだ。普段は地にどっしりと腰を下ろしているが、もし足があったとしたら、雨に小躍りしたり、桜に駆けだしたり、誰かと絡ませたりするかもしれない。地中の根が見えないのと同じように、「ふところ手」は手先が他者から見えない。敢えて「手」の季語を使うことによって、自由な部分を想像させる。

秋耕の目鼻がありて二三人

秋の寂しさを含めた風景で、案山子を詠んだとも考えられる。「目鼻の」ではなく「目鼻が」と書くことで、顔の不思議さも思わせる。

面影に天ぷらそばを持たせけり

面影は記憶によって心に呼び起こさせる姿。もしくは幻。「俤」とも書く。誰のどのような面影を思い浮かべたのかによって句意は違ってくるが、天ぷらそばを持たせるくらいだから親しく、温かい感情を通わせた間柄だと思う。なんといってもおいしそうだ。

二階には泥鰌が足りてゐて静か

暑いさ中、みんなで泥鰌鍋を食べにきている。一階はまだ足りておらず、炊いている匂いばかりが充満している。ああ、早く食べたい。もしかしたら二枚目を待っているのかもしれない。満足と不満足ではなく、満足ともうすぐ訪れる満足を描いている。

みつ豆の叱る側だけ泣きながら

これも食べ物の句。二人で店に入って、向かい合って話さなければいけないこと状況。そういうとき、あまり重たいものを頼みたくはない。二人ともみつ豆を頼む。アイスが乗っているわけではないので、溶けない。豆の黒さと寒天の質感が泣いていることに通じている。

鶯やしやぶるくちよりでるめだま

鯛だろうか。『不純』には「挿す肉をゆびと思はば夏蜜柑」「あけぼのや乳房仕舞ふに目を見つつ」など、性的志向に読みを誘う句も多いのだが、この句もそうだ。人はほんとうに何でも食べる。目玉さえもしゃぶるし、嚙み砕くことさえある。そのくちびるを始終、眼で見ているわけだ。鶯は「梅に鶯」というように古くから親しまれているが、谷を渡ることもあるこの鳥を季語に配したことで、生きつなぐことの俗っぽさ、怖ろしさを感じた。

この句集にまさか『純粋』『純真』というタイトルはつけられないだろう。どのように生きていても、生活者としての混じりけからは逃れられないからだ。捻ったように見えてストレート。タイトル、装丁、俳句すべてから、こころのどこかの、閉まることのない穴を思った。


山田耕司『不純』(2018年/左右社)≫版元ウェブサイト

2022-05-29

山田耕司 桐生が岡動物園にて 10句

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桐生が岡動物園にて  山田耕司

プチトマト潰れてゐるや孔雀吼ゆ
まほろばや水漬くカピバラ薄眼のカピバラ
にんげんとおぼしき者らタヌキを囲む
クモザルへ手は乳母車のくらきより
おむすびを出しキリンの目を見てゐる
寝そべりてカンガルーたる五月かな
あーたんのぽんぽん出てるライオン舎
服を着て佇てり〈準備中〉の檻の前
緑陰が吐き出すものにフラミンゴ
鍵束を見せペンギンにいとま乞ふ

2020-09-20

【週俳8月の俳句を読む】ちょっと別の感覚へと 山田耕司

【週俳8月の俳句を読む】
ちょっと別の感覚へと

山田耕司



ぐらぐらになつた詩人が生えてゐる  堀田季何

何を書いたらいいのか迷っているのは、何かを書こうとしているからである。何か「を」書くという他動詞としての「書く」ではなく、書くことそのものを目的化している状態を自動詞としての「書く」という考え方を示したのは、たしか、ロラン・バルトであったろうか。

言葉を使うならば、社会的な意義あることを何らか言わなければならない。そういうまなざしの読者を想定して、詩歌においても何事か「を」言わなければならないというザワザワ感が広がり始めたのはいつからだったろうか。個人的な感覚で言えば、東日本大震災あたりから、か。

たしかに、言葉を使うものならば何かを訴えなければならないという義に思いいたす傾き具合もわからなくはない。と、同時に、「書く」ことを自動詞化する行為、つまり、作品を書くことそのものを目的とする営みが、詩歌というものの根っこのあたりにふかく組み込まれていることも忘れてはならないのだと思う。

「詩人」が「ぐらぐらになつた」状態とは、何ものをも書くことができなくなったことではなく、むしろ、何ごとか「を」描き続けなければならないありさまを指すのではなかろうか。他者であれ、またみずからの内奥にある読者であれ、その期待に応えることが、自己目的としての詩歌の手触りよりも、情報を運ぶウツワとしてのふるまいにつながってしまう。そんな時代の空気が、詩人をぐらつかせているのかもしれない。「詩人」を「奥歯」などに置き換えると、歯茎がイカれてしまっているのでアブナくなっている歯のありようを思い浮かべることができる。「生えてゐる」とは、「爛々と昼の星見え菌生え 高浜虚子」における「生え」とは異なって、やっとのことでそこに踏みとどまっているというように読めるのも、そのせいだろう。


掃除機の鳴りては止みぬ茄子の馬  柏柳明子

いうまでもなく「掃除」という目的があるからこそ、掃除機は吸ったりしているし、すなわち、その際に鳴ったりもするのである。「茄子の馬」という情報によって、掃除をしているのは「お盆」の準備やら後片付けやらが連想される。それは、〈意味〉の世界の図柄。なるほど、〈意味〉において、つじつまがあうようにしっかりと書かれている。

掃除機の音にのみ関心がある書き方をしている。ここに、〈意味〉の世界から、ちょっと別の感覚へと読者を誘う扉が備えられている。

「鳴りて」と「止みぬ」の間に、助詞「は」が示されている。このことで、「鳴り」と「止み」の営みが反復されるふるまいであることが読者にもたらされる。

人間の営みの慣習として飲み込もうとするならば、時代や場所が違っても「お盆」のころは人と人が出会い別れる機会が多く、なるほど、掃除機も鳴ったり止まったりを繰り返すことになるだろうなぁ、というヨミにたどり着くことになるだろう。ともあれ、こうした人間の営みの慣習に回収するヨミは、せっかくの「ちょっと別の感覚」への扉を活かしきれていないようで、私の好みではない。

モノとしての掃除機そのもののふるまいとして「鳴りては止みぬ」を読み直してみると、では、このずんぐりとしていて割り箸の四肢をふんばっている「茄子の馬」も、ひょっとしたら、自らの営みとして、あくびのひとつくらいするかもしれないなどという想像のエリアに足を踏み入れることになるかもしれない(ちなみに、キュウリで作るのが「精霊馬」、茄子で作るのは「精霊牛」というのだそうだが、この手のことはちょっと脇に置いておくことにしよう)。まあ、「想像」というよりは、「妄想」の域のヨミではあろうけれども。


693号 2020年8月2日
堀田季何 生えてゐる 10句 ≫読む
佐藤友望 旅程表 10句 ≫読む
中矢 温 にこり 10句 ≫読む
衛藤夏子 海辺の映画館 10句 ≫読む
柏柳明子 あをき箱 10句 ≫読む

2019-11-24

【週俳10月の俳句を読む】鶉のジェンカ 山田耕司

【週俳10月の俳句を読む】
鶉のジェンカ

山田耕司



初恋よどこ澄む水の夕つ方  田中惣一郎

「どこ吹く風」という言葉が「風がどこを吹いているのか、知ったこっちゃない」という意味で用いられていることを下敷きにするならば、「どこ澄む水」には「水のどこが澄んでいようが、知ったこっちゃない」という意味が込められていることになる。

さて、句の表面的な趣としては、〈こっちは「はつ恋」で忙しいんだから、水がどうなろうが知ったこっちゃないぜ〉という「現場、ど真ん中です」というよりは、〈水がどうなろうが知ったこっちゃないように、初恋ともかなり距離ができちゃっているんだけどね、ちょっと懐かしいじゃないか、「初恋」ってものは〉というような「そんなこともあったね」という外側からの視点こそがメインになるようだ。

だからといって、作者が恋愛から距離のある生活をしているかどうかはわからないことであるし、そんなことを報告したかったわけでもないだろう。

おそらくは「秋の水」という言葉への距離をどのように見定めるのか、そこのところの手触りが作者にとっての面白みだったのではないだろうか。古来多くの人に詠まれた(よく言えば磨き上げられ、悪く言えば手垢のつきまくった)語を、ちゃっかり自分の世界に入れ込んでしまうのではなく、むしろ、遠い手触りを遠い手触りとして詠みあげること。そんな心意気こそが読解されるべきだろう。「初恋」は、自己に限定したエピソードなどではなく、誰にとっても「遠くにあって思うもの」という趣(「初恋」なんて、まさに、それ)で用いられているが、それこそが、自分の作品のテーマをきわだたせるための仕掛けであるといえようか。

てのひらを懐しうする火もがな  同

生身よりも二次元をこそ愛してしまう事態を想起するとわかりやすいのかもしれないけれど、それそのものの現実的存在よりは、〈情報という次元にいったん遠ざけてこそ、身のうちに取り込みたくなる〉という愛のカタチが、この世界には、ある。それが良いとか悪いとか分別する意味はない。さるにても、田中惣一郎氏の作品にただよう言葉との距離には、〈遠ざけてこその愛〉のありようを見ること、禁じ得ず。「てのひら」という自己と分かちがたいものを「懐かしうする」という発想なども、また。



この人のベッドの秋の蛾を追ひつ  島田牙城

ほっておくと「蛾」は季語として夏を示してしまうから、わざわざ「秋の蛾」とするわけだけれど、「秋の」昆虫という表現は、〈死に近いところにあるにもかかわらずなお生きようとする〉というような趣を抱え込んでしまいがちである。〈無常にあらがう健気さ〉とでもいうべき趣向は、それなりに俳句の大好物とするところなのだが、であるからこそ、そこに一句の眼目も吸い取られてしまいかねない。

「ベッド」のあたりの「蛾」を「追」うという行為は、これといった屈折もないそのままの事柄であるとも言えるし、写生的な視点における点描というところでもあるのだろう。そこに「秋の蛾」という趣向が加わると、ひょっとして、この「ベッド」が、重い病の床ではないのか、という〈深ヨミ〉が誘発されてしまう。そんな病床から〈無常〉を連想させうるものを追い払った切実さと、〈無常にあらがう健気〉な存在を吹き払ってしまったことへのやるせない後悔のようなものがともどもに入り混じった感情などを〈深ヨミ〉してしまう読者もいるだろう。〈深ヨミ〉が、悪いわけではない。ただ、そうすることにより、写生的な手応えは影を薄くし、むしろ、言葉は、伝えたいイメージの〈喩〉という佇まいに変容してしまうだろう。それを良しとするかどうかは作者によって異なるわけだが。

さて、それはそうと、「この人の」とはどう解釈したら良いものだろう。

「この人のベッド」というところが素直な汲み取り方だが、「この人の」の「の」を主格として解釈すると「この人が蛾を追う」という文脈が浮き上がってくる。そもそも「この人」の「この」とは、どのように飲み込んだら良いのだろう。

作者の置かれている状況を知ることで腑に落ちるところがあるのかもしれないが、俳句読解とは身の上調査ではないので、あまり深く詮索するつもりはない。ただ、わたしは、ここに、〈喩〉として読解されてしまうことに対して、〈あ、現実に、この状況は存在したんです、ほれ「この人」です〉というような意味を感じ取った次第。

これは、作者の意地のようなものであろう。



泪声ほやほやと野の鶉なる  青本瑞季

『伊勢物語』における

年を経て住みこし里を出でていなばいとど深草野とやなりなむ
野とならば鶉となりて鳴きをらむかりにだにやは君は来ざらむ
というやりとりで、「鶉」は女の自己像として、かつ、一首の歌の風情ある眼目として味わい深い存在感を示している。これを本歌とすると言われる
夕されば野辺の秋風身にしみて鶉なくなり深草の里
だが、鴨長明の『無名抄』の記述によれば、代表歌を尋ねられた藤原俊成が「面影に花の姿を先立てて幾重越え来ぬ峰の白雲」にもまして自らの「おもてうた」であると応じた一首。

古典の世界で、鶉が鶉を追っている。

青本瑞季氏の一句が、この鶉ジェンカの列に加わろうとして書かれたものかどうかはわからないが、先行する文学への軽やかなイナシ方のような文体を拝読するにあたり、古典と接続させてみたくなった次第。

和歌の世界でいかに風情をこめて心情を描き出そうとも、「泪声」とイッパツでくくりあげるところに、俳句の面目躍如が果たされているようでもある。「ほやほやと」という措辞は、手ざわりを連想させるところではあるが、一方で「野の鶉」と気軽にさわれないような距離感を用意周到に述べられているところを見ると、さわりごこちではなく、列をなしている姿のようにも思えてくる。これも、〈鶉ジェンカ〉の趣。

「野の鶉なる」と連体形で言い収めて、おのずから読者の思いを句の冒頭に循環させようとする配慮は、「あたらしい」リズムや文体は、先行する作品のエフェクト(効果)を学ぶからこそ生まれうるのだなぁ、などという感慨をもたらしてくれた。

まあ、あくまでも、読者としてもろもろ決めつけながら遊ばせていただいたわけで、実のところ、この句の味わいはおおむね「ほやほやと」していて多様なるものなのだろうが。



満ちて野の花さいごの水の輪を鳥が  青本柚紀

たしかに「満ちて」は動詞だが、それは「野の花」の状態を表す修飾的な役割として言い収められている。そうすることで、読みのフォーカスは「野の花」に移る。そして、かつ、「さいごの水の輪を鳥が」のあとに動詞が不在であることを強調することになる。そして、その〈不在〉こそが、鳥の営み、鳥の行方などを暗示させて、一句の運動性を豊かなものにしている。

語順をあれこれ入れ替えるのは、それなりに実現できる。その「入れ替え」作業だけでは、「あたらしさ」は姿を現さない。その入れ替えの過程において「これだ!」とシャッフルを止めることができるかどうか、その判断こそが必要になるのだ。

「ここだ!」と句の姿を決めるのは、ひとりの作家における〈読者〉のセンスが際立つところだろう。「あ、おもしろい」という感覚は、〈作者〉として恣意のカケラを持ち合わせていたりすると、おおむねうまくいかないものだ。

そういう意味において、今回の句群において、青本柚紀氏がユニークな「読者」であることを認識した。



田中惣一郎 はつ恋考 10句 ≫読む
島田牙城  10句 ≫読む
651号 20191013
青本瑞季 ありえない音楽が聞こえる 15句 ≫読む
青本柚紀 水の回遊記 15句 ≫読む

2019-06-16

【週俳5月の俳句を読む】わからなさを楽しむ 山田耕司

【週俳5月の俳句を読む】
わからなさを楽しむ

山田耕司



椅子のない部屋が灯って鳥雲に  川嶋健佑

夕刻になって灯る部屋。「鳥雲に」という季語。

「椅子のない」部屋というところに注目することで、関わりがないようなふたつのことがらが、ふと面白くからみだすような気分がしてきます。「椅子のない部屋」によって、人間の営みがうすめられている空間の味わいが感じられるからでしょうか。あるいは、座るという行為が失われている空間そのものになんらかの浮揚感を感じ取ってしまうからでしょうか。読者に取って、このところはうまく言葉にできません。

このように、うまく言葉にできないような感覚を「うまく言葉にしないで(注1)」うまく言葉にする(注2)俳句が好きです。(注1)のほうは「うまく説明することなく」というような意味です。別の言い方をするならば、他の人にこの句を説明するときにあれこれ魅力を語るよりも、句そのものを見せてしまったほうが早いようなテイストを維持しているということになります。(注2)の「うまく言葉にする」は、それが言葉として通じるようになっているということです(言葉としての機能を停止してしまってめちゃくちゃな言葉の連なりになっている句も嫌いではないのですが、それがめちゃくちゃであればあるほど、俳句形式というフレームを破壊するどころか甘えているのでは?  という気分になることが少なくないのです)。見どころとすれば、季語が生かされているかどうか。ただたんに季節を示す約束事として書き込まれているのではなくて、「椅子のない部屋が灯」ることと「鳥」が「雲」を越えて移動しようとしていることとの空間の対比がこの句には意図されています。意図はしていますが、作者がそこのところを説明せずに、しかしながら俳句の約束事を約束事に留めずに言葉として生かしている、というところにおもしろみを感じるのです。

読者が面白さをうまく説明できなかったように、作者もうまく説明できないからこそ、〈うまく言葉にしないでうまく言葉にする〉ということが起きるのかもしれません。「灯って」という単純接続のかたちでふたつのことがらを結びつけるのは、なんだかうまくわからないけれどこのふたつにはとてもかかわりがあるとおもうんだよね、という積極的なはたらきかけが埋め込まれているように思います。ともあれ、一般的に俳人がこの句の批評をする場合には、この「灯って」というつなげ方が強引でよろしくないという感想がでてくるのではないでしょうか。「では、どうすればよいのでしょう」と尋ねても提示された答えは元の表現とは異なったものになってしまっているし、その提案がより面白い結果をもたらすかどうかは別の問題ということになります。結局は目指さなければならないゴール、というものが見当たらない感覚とでもいうような事態ですが、こういうあいまいさをよくないことと嘆くよりも、なんだ答えがいっぱいあるじゃないかと楽しむことで、次の面白い句が生まれてくるのだと思っています。


火の中の椎の若葉もありにけり   藤本夕衣

ふむ、「火の奧に牡丹崩るるさまを見つ 加藤楸邨」のような句なのだろうと思ったのです。火の中で、ということは、滅びの瞬間に、命が輝きを見せる。その、むごくも美しいありさまのことなんだろうと早合点をしました。

しかし、この句は「火の中に」ではなく、「火の中の」と示されています。「椎の若葉」が火の中にあるのではなく、「火の中の椎の若葉」が、どこかにあるというような印象へと読者を導きます。しかも、助詞の「も」によって、もともと何かが存在しているところに「火の中の椎の若葉」が加わっていて、「あ、君もいたんだね」というように認識されていたと思われるのです。

言葉の流れに身を委ねれば、そのような意味内容にたどりつきます。さて、そこからが、読者の想像力の出番です。もともと何が存在していたのだろうか。「火の中の椎の若葉」とは、「火の中の椎の若葉のようなもの」なのか、「火の中の椎の若葉」という物質および状態そのものなのだろうか。

結局、答えは出ません。答えのヒントとなるようなものが見つからないからです。俳句がもたらしてくれる見かけ上の情報は限られているのです。

ともあれ、答えが出ない想像を重ねていくうちに、自分の中のイマジネーションが引っ掻き回されて姿をあらわし始めるのを感じることがあります。作品はうまく読み込めませんでしたが、自分自身のイマジネーションには触れることができたような気分になります。何かを伝える機能を求めることもさることながら、何かが伝わらないことを以って刺激を受ける自分自身への手応えを求めることこそが、俳句作品というものを楽しむ上では大切なのではないか、ということをこの句を読みながらあらためて感じました。


逃げ水や夢のつづきをみるこころ  うにがわえりも

夢をみるのは、たしかにわたし自身ではあるのですが、かといって、あらためて思い返してみると、夢をみる主体は、すんなりと「はい、わたし自身です」とも言い切れないような気もします。ましてや、「つづき」を見ようという感覚は、自分自身の管理下から離れたあてどないことにふみだすような気分でもあります。こうした、わたしからの離脱を言い表すためなのでしょうか、「こころ」という主体を作者は示したようです。ともあれ、たいていの読者は、「わたし」と「こころ」は同じものだという感覚だと思われますので、「なにもわざわざそんなことを言わなくたって」という感想を漏らすかもしれません。そもそも「わたし」とはなんなのか、「こころ」とはどんなものなのか、など説明しはじめたらどれだけの分量の言葉を費やさなくてはならないかけんとうもつかないほどです。面倒ですね。それを「逃げ水や」と言いのけています。「逃げ水」が「夢のつづき」とどう関係があるのかを考えても仕方がないでしょう。むしろ「夢のつづきをみるこころ」という状態をまるごとひきうけて「な、わかるだろ、こういう感じなんだよ」と示してくれているようです。「そこかとおもえばそこにはなくて追いかければ追いかけるほど迷わされる」というようなイメージが「逃げ水」には備わっています。科学的な説明や歴史的な使用経歴まどはちょっと横に置いておいて、読者のいだくおぼろげながらも他者と「だよね」と共有できるようなイメージが俳句の読解ではステージのセンターに立つようですから、「逃げ水」への理解もこのようなものになるのです。この「そこかとおもえばそこにはなくて追いかければ追いかけるほど迷わされる」というイメージは、「夢」にほどこされているというよりは、夢をみる主体である「わたし」に与えられているものなのではないかというのが山田の読後感なのですが、かなりひねくれているので共感が得られるとも思っていません。


川嶋健佑 鍵垢手垢 10句 ≫読む
藤本夕衣 つややかに 10句 ≫読む
うにがわえりも 食べられないぶどう 10句 ≫読む

2018-09-23

【句集を読む】 山田耕司句集『不純』第5章「山田耕司vs山田耕司」で 小久保佳世子さんと太田うさぎさんに旗を挙げてもらいました

【句集を読む】
山田耕司句集『不純』第5章「山田耕司vs山田耕司」で
小久保佳世子さんと太田うさぎさんに旗を挙げてもらいました


山田耕司『不純』p61~70「山田耕司vs山田耕司」の章は、1ページに赤白2句が並んで掲載され、読者が勝ち負けを決めるという趣向。特集「山田耕司『不純』を読む」の興奮さめやらぬなか、小久保佳世子さんと太田うさぎさんに判定を下していただきました。



進行:西原天気▼
最初の取組は「白魚」です。

赤 白魚やがさりとラジオ黙りたる
白 青春の飲む白魚のやうなもの

それぞれ、どちらかが勝ちか、旗を挙げてください。

小久保佳世子(以下、佳世子)◆
《赤 白魚やがさりとラジオ黙りたる》です。

太田うさぎ(以下、うさぎ)◆
私は《白 青春の飲む白魚のやうなもの》。

進行▼
分かれましたね。

佳世子◆
《赤 白魚やがさりとラジオ黙りたる》の「がさり」という音には荒っぽい容赦なさがあります。その為、その後の沈黙には一方的に切られた電話の後のような痛みすら感じます。白魚のロマンもまたそこで非情に遮断されてしまったような。

うさぎ◆
不思議な句です。「白魚のやうなもの」と言っているので実際に飲んでいるのは白魚ではありません。

ですが、それが何にせよ、踊り食いのようにピチピチと犇めく生命を臓腑に落とし込むのが青春期というものか、とも思いました。青春の文字に隠れた青と白魚の白のコントラストもいい。どことなくエロスを感じるのは私の妄想でしょう。

進行▼
佳世子さん、うさぎさんが妄想とおっしゃる「エロス」という点、いかがですか?

佳世子◆
「しらうおのような指」と女性のしろく細い指を言ったりすることから、女性への憧れのようなものを感じました。ですから掲句にはエロスの生々しさより、むしろ初々しさを感じました。

進行▼
次は「末黒野」です。

赤 末黒野や知らない家族また出てくる
白 さびしさの末黒野を出てなほ道たる

うさぎ◆
《赤 末黒野や知らない家族また出てくる》。

枯草を焼いて新芽の生長を促すのが野焼き。焦げ臭い野原から家族が出て来る。「知らない」と言いながら家族だとの認識は何故かある。家族の再生とも解釈できますが、シュールな光景です。「また」がじわじわ来ます。

佳世子◆
私も赤です。

消えてはまた出てくる家族なんてゾンビのようでちょっと不気味。知らないけれど、意識下では知っている家族のような気もします。「また出てくる」ことを、もしかして懐かしがっているのかも。家族という言葉にはある温みがあるからでしょうか。背景が末黒野ということは原始からの累代の家族が描かれているのかもしれません。

うさぎ◆
末黒野は最初、《白 さびしさの末黒野を出てなほ道たる》だったんですよね。でも見直していたら赤の方が段々よく見えてきて……。

佳世子◆
末黒野は荒涼とした景なので「さびしさ」は言わずもがな。そんなこと分かっているにちがいない作者なので、そこに興味があります。

進行▼
「白魚」2句と「末黒野」2句は、「や」切れと喩がセットになっているということで、この見開きは合わせ鏡のようです(「末黒野や」の「や」は一物っぽいですが)。佳世子さんは、「白魚」「末黒野」ともに、「や」切れの句に旗を挙げた。うさぎさんは、「白魚」では喩の句を、「末黒野」では「や」切れの句をお採りになった。

うさぎ◆
上五を「や」で切る句の場合、読み終わった余韻の中に上五の言葉がぼやーんと反響している感じがあるのが好きです。白魚の句ですと、ラジオが黙るという事象に対して白魚がどう関わるのかが私にはちょっとピンと来ませんでした。末黒野の句は、「また出て来る」……そんな末黒野であることよ、と始まりに戻っていくのが面白いです。

喩の句はその象徴するところに読者がどれだけ感興を催せるかにかかっていると思います。「さびしさの」は「道」にどの程度の深みを汲み取るべきなのか、測りかねたところがあります。

進行▼
なるほど。次に行きましょう。

赤 丸腰を蛍のせゐにしてをりぬ
白 蛍衰へたどりつきたるハムエッグ

どちらも一筋縄では行かない句ですね。それでは旗をどうぞ。

佳世子◆
《白 蛍衰へたどりつきたるハムエッグ》。

源氏蛍、平家蛍と名付けられたり、古くから死者の霊魂に見立てられたりしてきた蛍。もののあわれという美意識の代表のような蛍ですが、それを支える共同体が衰退し、蛍がたどりついた先はなんとハムエッグという味気ない和製英語。都市のホテルで鑑賞用に飼育される蛍などが思われます。現代の蛍の滑稽と哀れを痛烈なアイロニーで描いた一句です。

進行▼
蛍にまつわる観念や情緒の歴史性を思えば、「アイロニー」が読み取れるというわけですね。そのあたり、うさぎさんはいかがですか?

うさぎ◆
衰退の果ての変性という図式はアイロニカルというよりどちらかと言えばシニカルな印象を受けました。解釈のむつかしい句ですが、「螢衰へ」は枕詞的な使われ方なのかなと思ったり。夜が明けて朝ごはんに目玉焼きが出ました、実はそれだけのことだったりして、とも。「それだけ」というのは悪い意味ではなく、ありきたりのことを如何に書き表すかは誰もが苦心するところです。

進行▼
うさぎさんは、どちらの句を?

うさぎ◆
私は《赤 丸腰を蛍のせゐにしてをりぬ》です。

可笑しいです。やましいことがあったりすると、人って何かの所為にしたがるよねって。蛍に罪を着せた時点で即座に周囲から集中砲火を浴びそうな気がします。愛すべき人物です。《じゃんけんで負けて蛍に生まれたの 池田澄子》への遠くからの挨拶のようでもあります。

進行▼
次は「金魚」です。

赤 提げ歩く金魚赤赤黒茜
白 姿見に金魚きて去り去りはてず

佳世子◆
《赤 提げ歩く金魚赤赤黒茜》です。

色が際立つ句でかなり好きです。提げ歩く速度も思われ、その動きを「茜」で止めるあたり技あり。赤と茜の間にある「黒」は出目金か金魚の模様でしょうか、或いは存在しない何かの影のようで気になります。この黒があることによって赤も茜も鮮やかさを増すようです。

うさぎ◆
うーん。迷いました。「アカアカクロアカネ」の心躍るリズムもいいのですが、私は《白 姿見に金魚きて去り去りはてず》を。

水槽であれ金魚釣りのビニール袋であれ、姿見の細い幅を金魚が過った。鏡中から消えた後でも眼裏に鮮やかな姿態が揺らいでいる、「去りはてず」はそういう意味に受け取りました。姿見の前に立っているのは美しいお嬢さんでしょうか。涼やかな句です。

進行▼
あくまで「美しい」「お嬢さん」なわけですね。山田耕司さんじゃなくて。

うさぎ◆
うーん。姿見や金魚に女性のイメージを重ねるからでしょうね。男性と考えるとこの金魚はメタファー的な意味合いを帯びてきそうです。

進行▼
次は「西瓜」です。

赤 男手をわたりてきたる西瓜切る
白 西瓜に顔彫つて真闇へ向けにけり

うさぎ◆
《赤 男手をわたりてきたる西瓜切る》。

「男手を」と断るからには西瓜を切るのは女性でしょう。バケツリレーのように何人もの男性の手から手へ運ばれてきたというだけで、大きくてはち切れそうな西瓜が目に浮かびます。俎板の鯉ならぬ西瓜に刃を入れる様が頼もしい。「切る」の二字が爽快です。

佳世子◆
私も同じく赤。「男手をわたりてきたる」ことに焦点が当たることに何故か不穏を感じます。「西瓜切る」も読み方によって不穏さを引きずります。女手では手に負えない西瓜の大きさ重さをイメージすればよいのかもしれませんが、それだけではないような。男手に悪い感じを持ってしまうのです。悪い感じは決して俳句の魅力を損なうものではありませんが。

進行▼
6つめは「黄落」。

赤 黄落や触るるも見えぬ盆の窪
白 黄落にすべなき笊となりにけり

佳世子◆
《白 黄落にすべなき笊となりにけり》。

籠と笊の違いはよく分かりませんが、器の出来は籠のほうがよさそう。思えばザルという響きは何となく情けないものがあります。この句の笊はますます貧弱に見え、それに比して黄落の大いなることよ。「すべなき笊」という表現によって黄落の怖いほどのエネルギーが感じられます。昨今の想定外の自然現象まで思ってしまうのは読みすぎでしょうか?

うさぎ◆
私も白です。

かねてより笊には秋の季感があると思っています。季語認定して貰いたいくらい、と言うと大袈裟ですけれど。

黄落という終わっていくものと使い途のない笊とはいわゆる「即(つ)く」関係にあるのでしょうが、そこがいいというか。私は佳世子さんのおっしゃるエネルギーよりも諦念とか受容といったものをこの句から感じました。私という人間も所詮一枚の笊である、みたいな……。考えすぎかな。

赤の「触るるも見えぬ盆の窪」は確かにぃ~と感心しましたが、その発見がちょっと黄落の情緒に寄りかかってしまっているように思いました。

佳世子◆
同じ句に軍配をあげていても、西瓜の句にうさぎさんは、ある爽快さを、私は不穏を感じたり、黄落の句も、うさぎさんは黄落を終わってゆくものと見たけれど、私は怖いほどの大黄落という思いから離れられなくなっていたことに気付き、とても面白いなあって思いました。

うさぎ◆
ほんとうに。

一つの句でも受け取り方が違うものですね。黄落をエネルギーと捉えたことがなかったので、佳世子さんの鑑賞にハッとしました。

進行▼
ラス前は「柚子湯」です。

赤 恋おとろへ柚子に湯舟の広きこと
白 はらわたを暗さと思ふ柚子湯かな

佳世子◆
《白 はらわたを暗さと思ふ柚子湯かな》

英語のdarknessを調べると、暗さ、色の黒さ、秘密、邪悪、無知などと訳されていて、darknessのすべてが「はらわた」にもあるということでしょうか? 柚子の黄色と白い(とりあえず)素裸の表面的にはシンプルで明るい場面ですが、はらわたの暗さ重さがあるから、湯のなかに沈むのですね。「はらわたを暗さと思う」場として柚子湯はとてもふさわしいような気がしてきました。

うさぎ◆
同じく白に軍配。

句集にはほかに《はらわたは見えぬがよろし大どてら》《はらわたは温し遠しや曼殊沙華》があり、はらわたを単なる臓腑として以上に意識していらっしゃるようです。この句、「暗し」ではなく、「暗さ」であることが肝心だと思います。柚子湯に芯から温まりながら、自分の体内の暗黒に目を据えている。それでいて結語は「柚子湯かな」と平和。このちょっとした捻じれが面白いです。

進行▼
《蛍衰へたどりつきたるハムエッグ》は「衰へ」と漢字、こちらは「恋おとろへ」と平仮名。用字が変えてあるんですね。

佳世子◆
「衰へ」は、まだどこか頑張っているけど、「おとろへ」はちょっと諦めを感じませんか? そういえば、「蛍衰へ」の句には、三橋敏雄の有名句《 昭和衰へ馬の音する夕かな》をちらっと思いました。

進行▼
さて、いよいよ最後です。

赤 冬愁てふ季語無きことよ海鼠嚙む
白 ゆく雲を足裏と思ふ海鼠かな

佳世子◆
《白 ゆく雲を足裏と思ふ海鼠かな》

雲足はゆく雲の速度をいう言葉。その雲足とは足裏のことだと言われれば、だんだんそんな気がしてきます。地上の生き物は雲の上層部が見えないので。

初めは奇想と思えたことも何? 何故? と頓智を考えるように嵌ってゆく感じです。そこに海鼠。海鼠の目は見えないような気がしますが思考する生き物かもしれず、とやや強引に海鼠の気持ちに納得させられてゆく困惑と楽しさ。

うさぎ◆
同じく白……と思いましたたが、佳世子さんと同じ旗ばかり上げていても、ということで、《赤 冬愁てふ季語無きことよ海鼠嚙む》。

「ない」ことを考えるとき、大概はその存在を意識しているものです。とすればなにがしかの憂いがふと胸を過ったのでしょう。でも、そこが俳人根性といいますか、「春愁、愁思はあるが冬愁は季語にないなあ」とそちらへ考えが行ってしまう。いや、あえて物思いに真っ向から挑まずにスライドさせたのかも。海鼠が大人の味わい。でも、顎が疲れそう。

進行▼
俳人根性! すごい言い方! 俳人魂、俳人の性(さが)ということですね。

うさぎ◆
柚子湯に戻るのですが、読み返してふとわからなくなりました。

○○を△△と思ふ□□かな

は一つの型としてありますよね。よく知られたところでは攝津幸彦の《露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな》。『不純』にも

瓢箪をわが子とおもふ鯰かな
ゆく雲を足裏と思ふ海鼠かな

があります。いずれも"思う"のは金魚であり、鯰であり、海鼠であると何の疑念もなく受け取りました。

ですが、《はらわたを暗さと思ふ柚子湯かな》の思う主体は〈私〉。金魚、鯰、海鼠という生命体ではなく、柚子湯は〈場〉だから、自然と「柚子湯にいて~思う」という流れで読むんですよね。読み返して一瞬あわてたのは、これはもしや、柚子湯が思っている句なのでは? 私は誤読したのでは? と。よく考えればあり得ないのでしょうが、そそっかしい性格なもので。

見開きに同じ型で解読が異なる句を載せたのはやはり作者の意図なのでしょうか。

佳世子◆
私も「……を……と思ふ……かな」という言い方には攝津幸彦句のパロディを思いました。とくに海鼠の句は、攝津句を強く感じました。でも、柚子湯の配合はパロディから離れてゆく感じがしました。「もの思う柚子湯」とは露ほども思いませんでした。

見開きにあえて載せたのは、読者サービスかもしれず、柚子湯のところは少しずらしたあしらいだったのかもしれませんね。

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これでひととおり旗を挙げ終えたわけです。さて、赤対白、どちらが勝ったのか。句によって好悪が分かれたケースもあるのですが、合計点は、佳世子さんもうさぎさんも、4対4のイーヴン。これ、作者の山田耕司さんが仕組んだ結果だとしたら、すごいですね。

あるいは、赤と白の配分で、読んだ人の俳人としてのタイプがわかるとか、性格がわかるとか。この句集には、その手のことは書いてありませんが、どこかで仕掛けが明かされるかもしれません。あるいは、仕掛けなど、ないのか。

おふたりには、もうすこしだけお付き合いいただきます。この句集『不純』をひとことで人に伝えるとしたら、どう表現されますか?

佳世子◆
軽やかならざるものを抱えつつも、人を喜ばせようと意匠を凝らし才気あふれたサービスをしてくれたような句集。

うさぎ◆
ひとことですか。おっぱいの真ん中に置くならこの一冊、とでも。

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ありがとうございます。最後に、もうひとつだけ。句集『不純』から一句選ぶとしたら?

うさぎ◆
ありすぎて困りますけれど、敢えての一句なら

 うぐひすや順番が来て巴投げ

無性に好きです。前進する線がある地点でクルリと回転するという運動の永久のリフレイン。天上には伸びやかな鶯の鳴き声。説明の出来ないところが魅力、なんて逃げているようですが、とにかく読んでいてとても楽しくなります。

佳世子◆
私は、

 挿す肉をゆびと思はば夏蜜柑

エロチックな描写に違いないけれど、騙し絵を見ているように知覚が刺激されるところがあって、句集『不純』への期待感が否応なく高められる奇妙な巻頭句だと思います。

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ありがとうございました。たいへんおもしろい話をお聞きできました。