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2022-11-27

柳俳合同誌上句会2022 選句結果

週刊俳句
柳俳合同誌上句会2022 選句結果
1週間延ばしましたが、結局、お一人様から選句が届きませんでした(音信不通)。届いたぶんで結果とさせていただきます。

10名様参加。5句選(特選1句・並選4句)。≫投句一覧

※選外の句へもコメントをいただいています。

〔柳人〕
嘔吐彗星
城崎ララ
真島久美子
翠川蚊
湊圭伍
〔俳人〕
青本柚紀
浅川芳直
小川楓子
津川絵理子
山田耕司

※参加者プロフィールは、このページの末尾に。

【草】

偶会の波引く草の枯を踏む  浅川芳直

思ひきり脚掻いて草の実だらけ  小川楓子
■えのこずちでしょうか。小さなお子さんのはしゃぐ姿が想像されて楽しいです。「思ひきり」がもっと見えてきてほしい気もします。(浅川芳直)

星を喰ふひと今の草は揺れてゆれて  湊圭伍

草食の月に寄るべを求めるな  城崎ララ
◯嘔吐彗星
■食性のカテゴリを与えられたことで、肉食や雑食などその他複数の月の存在が暗示されて面白いです。伝承のようでもあり、個人的な経験に基づく忠告とも読めそう。なぜ?と先を想像させる魅力があります。なんとなく、静かに誰にも気付かれずに自滅してしまうのでは、という予感がしました。(嘔吐彗星)
■「草食の月」がいいと思った。「寄るべ」があいまいに感じたので、そのあいまいさと「求めるな」の命令がちょっと座りが悪いかも。(湊圭伍)
■「あなたの発想はどこから?」と聞きたくなるような、「なんだそれ?!」感があって好きです。草食の月ってすごいなあ。月がもの食うのは前提で、そのうえで草食とそれ以外に分けている。と思ったけど、この草食は「草食系男子」の草食かも。「草食のオトコに寄るべを求めるな」なら、なんかそういうしょうもない警句っぽくなるし。まあいずれにせよ、月が草食なのは「変良い」ですね。(翠川蚊)

草笛の苦手分野を吹き渡る  嘔吐彗星
◯真島久美子◯城崎ララ◯山田耕司
■どんなところであれ、草笛を吹きながらあるきつづけられる人は、それなりに無敵。(山田耕司)
■苦手分野を吹き渡る、がいいなと思いました。草笛、中々思うように吹けないと思うのですが、吹き渡ることで堂々と挑んでいくような……潔さ、晴れやかさを感じます。(城崎ララ)
■子供の頃、父が吹いてくれた草笛。何度教えてもらっても吹けないまま、父の口元を黙って見ていた。苦手分野という領域を染めながら、どこまで広がってゆく音。それはまるで自分は自分のままでいいのだと教えてくれているようだ。(真島久美子)
■「草笛の苦手分野」!!(翠川蚊)

草彅の彅ほぐしつつむかいかぜ  翠川蚊
◯津川絵理子
■彅をほぐしているのは「むかいかぜ」なのか、頭の中で作者自身がほぐしているのか。もしかすると両方かもしれない。そう考えると、作者の受けるむかいかぜが頭の中をそのまま通って行くようなイメージが広がって面白い。「彅」という字は「弓」「前」「刀」にほぐれるし、これらもさらにほぐせるから、最終的にそれぞれが一本の線になって、まるで草みたいだ。そうか「草」と「彅」ってお互いに繋がっているんだな、と思ったりして、この句の世界に遊ばせてもらった。(津川絵理子)
■初読からしばらくの間「草粥の粥」と空目して俳句だと思い込んでいて、草粥の湯気が向かい風とまざりあうところまで味わってしまいました。読み直すと川柳なのですが、俳句の風情も感じられます。彅は「弓で強く剪る」の会意とのことで、これをほぐす作業からあふれてくる抜け感がいいです。はじめは一方向だった向かい風も、全体の3分の2以上のひらがなによってほぐされてあやふやになっていそうです。(嘔吐彗星)

冬青草包みごと割るチョコレート  津川絵理子
◎城崎ララ◎山田耕司◯真島久美子◯湊圭伍○浅川芳直
■割る。その時の手から伝わる感覚。「冬青草」とのリンクは万人が受け入れるものではなく。であるからこその潔さのようなものが感じられました。(山田耕司)
■チョコレートを割る句はあるのかなと思いつつ、清冽な冬青草の感じが好きでした。(浅川芳直)
■ふゆあおくさとそのまま読むのですね。季語は景色の見える美しい言葉だなと思いました。包みごと割るなら外で友達と分けたのか、それともこれは明日の分、と自分と分けることにしたのか。その情景の美しさで、割るという動作にマイナスでなく、喜びや期待など、ポジティブな感情を分け与える印象を受けました。あの銀色の包みまできらきらと見えるような、すてきな句です。(城崎ララ)
■「冬青草」を用いた句のストックが脳内にないので季語として効いているのかは分からずながら、中七下五のまっすぐな印象が思い切りがいい主体を伝えていてよいと思った。(湊圭伍)
■恋の真ん中でする儀式に「手作り」というものがある。誰かを想いながら大きなチョコレートを迷いなく割る気持ちよさ。冬青草が一生青春だと叫んでいるようだ。(真島久美子)

猫よ草吐け俺よ有季定型句を吐け  山田耕司
◯真島久美子◯津川絵理子
■有季定型句を吐けと自分に命令しながら、そうなっていないところに「俺」の葛藤が伝わる。猫が草を吐くのは辛そうだから、「俺」もそんな風に苦しいのだろう。(津川絵理子)
■生理現象としての有季定型句だなんて驚いた。そこからの定型無視に、自然と口角が上がる。句の勢いに一気に飲み込まれてしまった。(真島久美子)
■メタに実感を込めるのってむずかしいと思うんです。メタは上位者の視線を導入することだから、どうしても冷笑っぽくなる。それはつめたいメタ。でもこの句はなんというか、生々しい体温とか実感があって、熱いメタ。熱いメタ、好きなんですよ。(翠川蚊)

文脈は草茫々という手紙  真島久美子
◯翠川蚊◯嘔吐彗星
■互いの近況や打ち明け話でしょうか、文脈が知らないうちに伸び放題になる草に擬えられています。書ききれなかったことも余白に生い茂っているんでしょう。有機物である草の生長スピードがちょうどよく喩として機能していて、代替が思い付きません。題の特質が十全に生かされた句だと思いました。また「茫々」と表記されることで雑草の煩わしさが一転して、この事態を価値判断以前の認識へと解放してくれるようでもあり、万物斉同にも通ずる境地が垣間見えました。(嘔吐彗星)
■「文意」とかではなく「文脈」。だから手紙の本題が「草茫々」なのではなくて、あくまで意味上の連関とか脈絡のうえでのみ「草茫々」がある。「草茫々」がテクストの織り目の合間にそっと身を引くような、そんな美しさがあります。(翠川蚊)
■「文脈は草茫々」に引っかかって何度か読み返した句。文ではなく、文脈。支離滅裂なのか、脱線しているのか、四方山話が尽きないのか……なんにせよ思いのこもった手紙なのだろうと思います。(城崎ララ)

眩む手を草のあなたがおほふ傷  青本柚紀
◯翠川蚊
■読めば読むほどグラグラします。どこで切断するかによって、いろんな読みが浮かび上がってくるんですね。でもそのどの読みにも、読み切れるような読み切れないようなもどかしさがずっと付きまとって、痒いところに手が届かない。ウザい多面体(すっごい褒めてます)みたいな句だと思いました。(翠川蚊)
■かなりアクロバティックな句。「眩む」のは目だろうし、「手」が傷を覆うべきなのだが、そうした自然な措辞を外した裂け目を「あなた」への呼びかけが埋めている。「草のあなた」が謎めていて、同時に読者が句を読む行為と重なり合っている。(湊圭伍)

【書】

ぬるい霜月書けば日照雨に木が痩せて  青本柚紀

ひとりずつひとりとなって書をひらき  湊圭伍
○浅川芳直
■下五のものほしげな言いさしが、「ひとりずつひとりとなって」というちょっと鬱然たる気分に説得力を与えていると思いました。(浅川芳直)
■「ひ」の畳みかけがおしゃれです。「ひとりずつひとりとなって」、良いですね。音読したくなりますね。【書】という題に対していちばん正面から向き合ってる句だという気がします。「書」ってたしかにそういうもんだよね、っていう納得感がある。選からは漏れてしまったけど、とても心に残った句です。(翠川蚊)
■はじめの「ひとり」はカウントされる人数としての「一人」、続く「ひとり」は孤独の「独り」と読みました。自ら選べる孤独があるのは豊かなことだと、この句が言っているわけではないのですが、ひらがなで並列されたひとりひとりに書がひらかれている光景はどうしてもうつくしく、肯定を免れません。たまたま今年観た、レイ・ブラッドベリ原作でトリュフォーが映画化した『華氏451』のラストを彷彿とさせる句でもありました。(嘔吐彗星)

もろともに晴れ間から下書きのぞく  嘔吐彗星

玉砕もおりこみずみのお品書き  翠川蚊
◯城崎ララ◯山田耕司◯嘔吐彗星
■見開きタイプのお品書きを想定しました。雑俳の折込みに掛けているのだとすると、品目の中に「玉砕」の二字が詠み込まれているのかもしれません。内容が気になるところですが、最後の晩餐まで取って置いて、裏切り者に開けさせたいですね。(嘔吐彗星)
■いい度胸だな。(山田耕司)
■ひらがなの部分から「こおり」を空目してしまい、一気に玉砕のイメージが補完された句。「みず」もありますね……玉砕といいながら実力を試したいような、果敢な印象も受けます。(城崎ララ)
■「玉砕」とは穏やかではない。ただし、それは「おりこみずみ」であるし「お品書き」にていねいに記されているらしい。中七・下五の頭の「お」が落ちつき払っているものの、やはり「玉砕」である。ひどい目に会う人らも居るんだろう。 (湊圭伍)

山霧や駅に学童書道展  浅川芳直
◯真島久美子◯翠川蚊◯小川楓子
■子供たちの作品が並ぶのは、山深い駅だろうか。霞む山に対して伸び伸びとした筆で表される墨色がみずみずしい。(小川楓子)
■いわゆる「お習字」の句というと、「雪の教室壁一面に習字の雪/榮猿丸」を思い出します。習字が壁一面貼られてる光景ってちょっと怖いんですよね。この句は山だし霧も出てるし、余計ゾッとする感じがある。「liminal space」っぽいからかもしれない。いや、別にそんなこと書いてないんですけど。でもどうしてかこれは無人駅だという気がする。そこにひとり取り残されて、山の駅だから次の電車も全然来なくって、すごく静かで、そんななか学童書道展がひっそり開催されていて、明らかに子供たち自身のものではない言葉が飾られている。こわいなあ、という妄想。(翠川蚊)
■なんと静かで澄んだ句だろうか。子ども達が懸命に書いた作品を、微笑ましい気持ちで眺める小さな駅。心の余裕とは、たわいもない場所に存在している。(真島久美子)

書き足せばBマイナーになる眠る  真島久美子
◯山田耕司
■スイッチを切るためのスイッチ。(山田耕司)
■「とても眠くて楽譜一枚書き漏らす/海地大破」の変奏かなあ。眠くて書き漏らした人と、書き足してBマイナーにしてから眠った人。「Bマイナー」、調べたらバッハの「ミサ曲ロ短調」というのが出てきて、聴いてみるとすっごい荘厳。でも眠る前に書き足したのだとしたら、ちょっとかわいい。あ、でもBマイナーに「なる」なのか。おのずと?(翠川蚊)

折れ折れて書架のわが影冬に入る  津川絵理子
◎浅川芳直◯小川楓子◯嘔吐彗星
■夕陽の射す開架よりは深閑とした閉架書庫、その冷気に導かれる影でしょうか。
折れ折れていく影が幾何学模様をなすかと思えば、冬に至るまでの、書架を巡った時間が長時間露光されるようにも見えます。「わが影」を第三者視点で捉えているところもソリッドで格好いい句です。(嘔吐彗星)
■書架に私が入ったときの私の影の折れ方に冬の到来を感じた、と理解しました。折りたたまれた言葉が開かれるような展開の仕方が良いと思いました。(浅川芳直)
■自分の影を折るには、身体を曲げるのが一番簡単かもしれない。くねくねとした人なのだろうか。それとも、、、。冬の始まりの空気のなかで何か不思議なことが起きる気配がする。(小川楓子)

舌で書くバカの二文字よしょっぱいぜ  山田耕司
◯真島久美子
■バカは甘いものだと思っていたが、その矢印が自分へ向いた途端にしょっぱくなってしまうものだと気付かされる。舌先が感じるのは小さな後悔なのだろう。(真島久美子)
■尻文字はありますけど、「舌文字」とは。身体の中でもかなりよく動く器官なんで、書こうと思えば書けそうですね。「しょっぱいぜ」。そうですか……と思いながら笑っちゃいました。(翠川蚊)
■ヌーベルヴァーグに出てきそうな、愛嬌のある自棄ですね。「ぜ」はまだしも、この「よ」は気恥ずかしくてなかなかできない気がします。ポーズを全うしているところに好感を持ちました。(嘔吐彗星)

昼の書き順をなぞる爪のひかり  城崎ララ
■「書き順」は「昼」という文字のものか、それとも昼という時間に書き順があるということか。前者が実景だが、後者の感覚も重ねてある、と読みたい。(湊圭伍)
■「書き順」私もいろいろ考えたんです。でも、これより良い句はできなかったな。句意も明瞭で、誰が読んでも良い句なんじゃないかなあ、と。採るか最後の最後まで迷いました。(翠川蚊)

冬がはじまる友だちの白い書架  小川楓子
◯津川絵理子◯城崎ララ
■書架って冷たいんですよね……学校の地下書架を思い出しました。冬の書架は白くて、寒くて冷たい。なんとなくこの友だちはひとではなく、建物や場所であるように感じます。(城崎ララ)
■どんな友だちなんだろう、と想像する。親友というのでもなく、どことなく掴みどころのない人のような。「冬がはじまる」と「白い書架」の取り合わせと、全体的にふんわりした雰囲気に惹かれた。(津川絵理子)

【乗り物】

サーカストラック雨の向こうへ行ったきり  真島久美子
◯小川楓子
■サーカスというと大型テントに大型トラック、いずれも懐かしいアメリカ映画に出て来そうな色合いの印象がある。祝祭のあとの寂しさが「行ったきり」とさりげなく表されている。(小川楓子)
■何かが向こうの世界へ行ってしまって、帰ってこないという句、川柳には多い気がします(勝手に川柳と決めつけていますが…)。「弁当を砂漠へ取りに行ったまま/筒井祥文」とかね。で、これはたぶん子供の視点という気がする。子供からしたらサーカスはひとつの小宇宙ですから、それがもう行ってしまったって、たぶんすごい喪失感。非日常が日常に戻るときの、そのなんとも言えぬ悲しさですね。(翠川蚊)

トーストのうえをトロリーバスが行く  翠川蚊
◎真島久美子◎湊圭伍◯小川楓子
■「トロリー」ならぬ「トローリ」の「チーズ」が隠されているというまことにベタなお遊びながら、というかそのベタさゆえに軽やかな明るい朝の風景(とちょっとの眠気)が起ちあがっている。「~が行く」も句の外へうまく抜けていて心地いい。(湊圭伍)
■トーストの上で溶けてゆくバターのような、優雅な時間を感じる。実際に見たことも乗ったこともないのだが、耳の奥を静かにトロリーバスが過ぎていった。(真島久美子)
■日本では、トロリーバスを見かけることは少なくなったが、ドイツなどでは、今でも交通機関として活躍しているらしい。トロリーバスの「トロリー」という音がトーストの上で溶けるバターを彷彿とさせられ美味しそう。トースト一枚で小旅行の気分。(小川楓子)

ほどよい誤訳ね。ギアが滑るときの  湊圭伍
○翠川蚊
■ギアが滑るという感覚、ペーパードライバーの私にはよく分からないんですが(調べてもピンとこなかった)、ギアが滑るたびにこの世に「誤訳」が紛れ込むという「感じ」は不思議とわかる気がします。この句のなかに「誤訳」を探したくもなりますね。「ね」のあとの句点が重要なのかも。これによって「ほどよい誤訳ね」がテクスト上の発話だということが強調されている。話者はもしかしたら、自分がテクスト内存在だと気づいていて、誤訳されているのは話者自身なんじゃないか。「ほどよい誤訳ね。」が誤訳なら、なんかもうそういうパラドックスみたいになりますが。(翠川蚊)
■誤訳にも程度があること、その楽しみ方まで心得ている手練れの翻訳者が想像されます。句点の手前から、向こう側を傍観する……微笑を浮かべたまなざしと、事故の予感とを交錯させる倒置が効いています。「ほどよい」や「ね」の選択によって表面上マイルドに仕上げているところに、作者のねじれたセンスのよさがうかがえる句です。(嘔吐彗星)

機内誌のヨレも乗りこなすサーファー  嘔吐彗星
◯湊圭伍
■乗客が何人も乱暴に読んだ機内誌のページの折り目を越えてゆくかに見える写真の中のサーファー。飛行機旅の微妙な疲れで気怠くなった目線がとらえたディテール。チープで意味が無いのがよい。(湊圭伍)
■良い波なのだろうなと嬉しくなります。きっとたくさんの人が手に取った、ベテランの機内誌。(城崎ララ)

枯れ山を股に挟めば馬の声  山田耕司
◎津川絵理子○浅川芳直
■上五中七はどういう状態?と一瞬考えた。でも下五の「馬の声」で、馬に乗っているのかも、と。馬の背を枯れ山に喩えたことで、なんだかおとぎ話に出て来そうな大きな馬を思った。馬の声が前方遥か彼方から聞こえてくるのだ。自分が今股に挟んでいるのは、馬であり枯れ山なのだと感じると、世界は果てしなく広がり、自分もまた果てしなく広がっていく。(津川絵理子)
■解釈が必要な一句。股覗きのような仕方で枯山を見ていると取りました。鄙の雰囲気に惹かれて。(浅川芳直)

自転車に馬のぬくもり帰り花  津川絵理子

冬凪にアクセルふんはりと踏まれ  小川楓子
◎翠川蚊◯山田耕司
■「ふんはり」に心打たれたので特選。「ふんはり」の旧仮名の手触りがたまらない。「は」がポカンと空気みたいなんですね。「ふ」のたたみかけも気体っぽい。「冬凪」だから静かな大気が、足もとで「ふんはり」と少しだけ動く。その風の動きが、その感触が、そのさびしさが、そのかわいさが、そのかすかな温度が見える。アクセルが主語なのも良いですね。アクセルを踏むのではなくて、アクセルが踏まれるという、そういう世界への眼差し。私は運転教習所がこの世でいちばん嫌いですが、この句を見ると、クルマ、運転、なんか良いなってなります。もう超絶好きな句です。(翠川蚊)
■冬凪に対して、ではなく、冬凪を原因として、という意味で、この「に」という助詞を受け取りました。(山田耕司)
■言われてみれば、アクセルを急に踏むのは危ない。「ふんはりと」ですね。(浅川芳直)

冬麗の汽笛ほど汽車遠からぬ  浅川芳直
◎小川楓子◯津川絵理子◯湊圭伍◯城崎ララ
■電気機関車の甲高い汽笛ではなく、蒸気機関車の圧倒的な音量と複雑な音質の汽笛が、ふさわしく感じる。「汽車遠からぬ」という措辞には、そんな汽車への愛情がにじむ。澄んだ日のどこまでも響く汽笛が醸し出す奥行きにしばし佇んでいたい。(小川楓子)
■ふゆうらら。これも調べたのですが、季語って本当に美しい。冬の空は高く、汽笛が響き渡る晴天が見えるようです。どんなに遠くからだろうと振り向いたらそこの線路だった、なんて思わずはにかんでしまいそう。汽車の向こうまで見えそうな句です。(城崎ララ)
■通常「遠からず」とするのかと考えたが、「遠からぬ」と形容詞的に後ろに何かがあることを示唆しているところに味がある気がしてきた。頭の「冬麗」へと戻ってゆくような。(湊圭伍)
■汽笛は遥かから聞こえてくるのに、汽車はそれほど遠くないところに見えている。そんな風景をどこかで見たことがあるような気がする。なるほど確かにそうだと思う。冬麗の不思議な光景。(津川絵理子)

透けてゆく舟は階下へ実を運び  青本柚紀
◎嘔吐彗星◯湊圭伍
■舟を透過して階段に揺れる光の網。超自然的な美しさのあるシーンです。下へ動くのであればこの舟は沈んでいることになると思うのですが、「実」を運ぶ役目を果たしているらしい。むしろ「実」の重みによって沈んでいるのでは……という実際的な読みは差し置かれます。それよりもなんの「実」なのかが気になるからです。なんらかの実が階上から階下へ降りることは、種子への回帰を思わせもします。舟が透けてゆくのは消失を意味するのか、その引き換えとしての実なのか……意味深で、複数の読みを誘う句です。けれどどの問いも抽象的なまま麻痺させられるので、分析をやめて句のイメージに没入、陶酔しました。(嘔吐彗星)
■「透けてゆく」で切れるかどうか。とりあえず切って読んだ。そうすると要素が多くて複雑な句になるのだが、すべてが透けてゆき上下の区別も不分明となった世界を移動する「舟」の像が浮かんで解放感があった。(湊圭伍)

流星を手本にTime Machine【🔛】  城崎ララ
○浅川芳直
■初めて見た絵文字で面くらいました。「手本に」、よくわからないようで、われわれが見ている星の光は約0.003秒前の光。そんなところの繫がりがあるのかなと思いました。(浅川芳直)
■パッと見ていちばん気になる句ですよね。「流星を手本にTime Machine」は素直に読めますが、なんだ【🔛】って。Time Machineの起動って、こんな感じなんだろうか…と妄想できてたのしい。(翠川蚊)
■乗り物というテーマにたいしてTime Machineを持ってこれた時点でリーチですね。Time Machineがつよすぎて、たいする「流星」の斡旋がややおぼろげな気もしますが。??の左右両矢印で句の前後の時間に飛んでいけそうな感じが面白いです。Emojiの導入に挑みながら、「りゅうせいを/てほんにタイム/マシン・オン」とスムーズに17音で読ませる保障も忘れてはいません。(嘔吐彗星)


【参加者プロフィール】

嘔吐彗星 おうと・すいせい
無所属フリー。句集未刊。note https://note.com/vomitcomet09

城崎ララ きのさき・らら
西脇祥貴との川柳ユニット「川柳諸島がらぱごす」で季刊ネプリを発行。オンライン句会「海馬川柳句会」「川柳句会ビー面」に参加中。

真島久美子 ましま・くみこ
1973年生まれ。卑弥呼の里川柳会代表。番傘川柳本社同人。川柳葦群同人。全日本川柳協会常任幹事。

翠川蚊 みどりかわ・か
2000年生まれ。未所属。プロフィールに書くことなくて悲しいです。誰か一緒に川柳やりましょう。好きな映画は『ダンボ』と『ラルジャン』です。noteのリンク(連作等あり)https://note.com/midorikawa_ka

湊圭伍 みなと・けいご
「川柳スパイラル」、「せんりゅうぐるーぷGOKEN」同人。昭和48年、大阪府生まれ。愛媛県松山市在住。句集に『そら耳のつづきを』(書肆侃侃房、2021年)。海馬川柳句会運営。

青本柚紀 あおもと・ゆずき

浅川芳直 あさかわ・よしなお
1992年生まれ。「駒草」「むじな」。第8回俳句四季新人賞、令和3年度宮城県芸術選奨新人賞、第6回芝不器男俳句新人賞対馬康子奨励賞。「河北新報」秀句の泉 水曜、土曜担当。

小川楓子 おがわ・ふうこ
1983年生まれ。「舞」会員。今年5月に第一句集『ことり』を上梓。共著に『超新撰21』『天の川銀河発電所』ほか。

津川絵理子 つがわ・えりこ
1968年兵庫県生まれ。1991年南風入会。鷲谷七菜子、山上樹実雄に師事。句集『和音』『はじまりの樹』『夜の水平線』など。第61回俳人協会賞。

山田耕司 やまだ・こうじ
1967年生まれ。俳句同人誌「円錐」編集人。句集『不純』ほか。

2019-10-13

青本柚紀 水の回遊記 10句


水の回遊記 青本柚紀

浮舟よ口に棗の緋を交はし
仮枕手を流れ出て色は葛
忌の薄い鐘をとほして木槿にゐ
くだる身のあなたを波になる菊が
秋蛍食べては砂の弧をうつし
藻に代へてとどまる鮎を藤の香
明け暮れの散らかる川を骨は葉に
萩は目に奥をひづめの澄みながら
わたくしを傾け壺に棲む獏は
いろは坂昏くてとどく雁の呼気
まばたきをうすももいろの鵙の木々
見えてゐる痣に芒がかかり笑む
満ちて野の花さいごの水の輪を鳥が
ここは月の間千の夜がどしや降りで来る
木犀をはなれて舟の野に覚める







内容/形式についての覚書 青本柚紀

内容/形式についての覚書

青本柚紀


今年は九月の末になっても相変わらず暑い日が続いた。秋らしいのは日差しがやわらいだことくらいかと思っていた頃、コンビニにおでんののぼりが立つようになったのを見た。

そこで思い出すのはやはり神野紗希の〈コンビニのおでんが好きで星きれい〉なのだけれど、東京都心で一人暮らしをするようになっても、この句の読みの大枠は初読時からついぞ変わらなかったことに気づく。句から読み取られることは、主体がおでんが好きであること、ひいてはコンビニのおでんを買ってみずからの暮らしに充足するような素朴な主体であること、そしてその主体が歩いている場所は星がきれいに見える程度には明かりが少ないということ、などだろう。そう、そこで背景に読み取られるのは郊外の風景なのだ。

星きれい〉という記述と同時に、前半のフレーズによる叙景や、一句が口語で書かれていることから読み取られる主体の純朴さが、句の背景にある土地を光にあふれたきらびやかなものに見せないようにしているといえるのではないだろうか。『光まみれの蜂』において提示されている主体のあり方として、それはあまりありそうなことではない、ということだ。

それは神野紗希のほかの句についても言えることだろう。たとえば〈花菜風君洗濯をしているか〉〈ここもまた誰かの故郷氷水〉などにおいても、一句自体が口語で書かれていることや、そこにはいない具体的な他者/見知らぬ他者にてらいなく思いを馳せることや、その契機との関係性において、主体の素朴さ、純朴さを読み取りうる。また、口語で書くということが、幼さ/若さ/素朴さのようなものを読み取ることを可能にしている。

このことが読みのうえで大きく効果を発揮するのは、それらの句が作者の名前の下に並べられたとき、すなわち連作や句集として発表されたときだろう。そこで起こっているのは、ある句から読み取られる主体のあり方が、別の句の読みを規定し、はたまたある句から読み取られる主体のあり方が、別な句から読み取られる主体のあり方を規定する、ということだ。



上述のような読みを前提とした句群の提示の仕方は、遡れば山口誓子の連作論に行きつくだろう。「かつらぎ」昭和七年十月号初出の「連作俳句は如何にして作らるゝか」において、誓子はつぎのように述べている。

「連作俳句」の創作は、必らず二つの過程を踏まなければならない。
二つの過程とは何であるか。
第一の過程は、「個」の俳句の創作過程であり、第二の過程は「個」の俳句のモンタアジユ過程である。
連作俳句を作る場合に於て、何人と雖、このことを強く銘記しなければならない。

ここでいう「個」の俳句とはしばしば言われる一句独立のもとにある句を指すのだが、第一の過程から第二の過程の橋渡しとして、誓子は次のような段階が必要だと述べる。

感情が作家を誘導してくれる。作家は感情のまゝに、ひたすら「個」として完成した俳句を作り続ければいゝのである。
斯くの如くにして、作家は「個」として完成した複数の俳句を獲得することが出来るであらう。(尤も之は一概には云へない。「個」として完成した俳句のあるものは、その時、その場所に於て得られなくて――同じ感情のもとに――他の時、他の場所に於て、漸く得られる場合もある)

ここから、同一の感情のもとに連作を構成する句を作ることへの要請を読み取れるだろう。実際、つづく第二の過程について述べた箇所では、

而てこの過程(=モンタアジユ≒構成 筆者注)を経て、曾て「個」の俳句が現出した個々の「感情の世界」は、その独自の存在を完全に主張しながら、その儘の姿に於て結成され、綜合されて、更に規模の大きい「感情の流れの世界」を現出する。
だから連作俳句にあつては、「個」の世界と「全」の世界との共存共栄が、実に麗しく実現されてゐるのである。

と、連作形式の目的が「感情の流れの世界」の現出であることが明らかにされている。連作によって、単純に記述量が増えることでそれが可能になったと言えそうだ。ここでのモンタージュは連作をつなぎとめるための、それを偶々まとめられたひとかたまりの記述にしない要素としても見ることができるだろう。

ただし、連作形式はあくまでも一句の外の形式であること――一句単体では書けない内容の実現が、俳句における形式的な発明(修辞的な発明と言ってもいい)ではなく、連作形式の発明、つまり一句の外の形式の発明によって成されようとしていた、ということ――には十分に注意しておきたい。



連作的な読まれ方の前提となる連作形式の成立について触れたが、一句中の主体のありかたについて話すのであれば、金子兜太のことは避けては通れないだろう。

兜太は「造型俳句六章」の第一章「主観と描写」において、大正初期の言説を代表して、高濱虚子の『俳句管見』から「俳句上の大問題は、五七五の調子の破壊でもありません、季題趣味の破壊でもありません。まづ作者めいめいの主観の涵養であります」という箇所を引用し、「ぼくの知る範囲では、俳句史のなかで、主観という言葉が、これほど意識的に語られた時期は、それまでになかったと思います。」と述べる。そのうえで、虚子の言う主観の意味内容をさぐるために正岡子規へと遡る。

そこで兜太は『俳諧大要』の「俳句は文学の一部なり。文学は美術の一部なり。故に美の標準は文学の標準なり。文学の標準は俳句の標準なり。」という箇所をふまえた「美の標準を以て各個の感情に存すとせば、先天的に存在する美の標準なるものあるなし。」と述べる部分などを引用し、「これらを綜括すれば、子規は、俳句(すなわち文学)の美の基準は、固定的な超絶的なものではなく、流動的な時間的なものとみていたということです。そして、そう見ていた理由は、あくまでも『各個の感情』の表現こそ俳句の根本の目的であると考えていたからでありましょう。」と、子規が俳句を近代文学として整備した際に重視したのが個人の感情であったとする。そして、それをふまえて「虚子の『主観』という言葉は、以上のように子規の認識していた個人の内包する個我の状態――平易にいえば『各個の感情』――を意味していると思います」として、虚子のいう主観の概念の意味内容を規定する。

つづく第二章「描写と構成」、第三章「構成の進展」において、兜太は、主観を表現するための手法のありかたの変遷と、その過程で一句に書き込まれる作者の内実が変化していったことを述べる。そして、それらをふまえ、第四章「主体」において「個我の状態としての主観、という概念で規定できない内実の姿がみられます。それをぼくは、主体(サブスタンス)と呼ぶことにします」として、主体という語を登場させる。主体がどのようなものであるかについて、主観に紐づけられている個我と比較しながら、兜太はつぎのように述べる。

図式的にいえば、個我は近代の内実であり、主体は現代のそれである、といって差支えないと思います。現代とは、先述しましたように、機械の高度の発達(いわゆるマシニズム)を土台として、人間の社会的存在としての部面が決定的に人間を支配している時期、いわば、政治、経済、文化などの社会的営為が緊密に結合し、人間の行為の全面を問うている時期――と規定しましょう。

ここから、兜太が主観と主体の区別に、自己と社会的なものとの関係性への――もっと広くいえば個人を取り巻く環境との関係性への――意識を求めていることを読み取ることができるだろう。主体とは書かれているものとの距離感から読み取られるものである、とも言えるかもしれない。

この後語られるのは、兜太によるありうべき俳句の書かれ方だが、これまでのことを踏まえれば、「造型俳句六章」は主観→主体といった、俳句において追求される内容(とそれに伴う形式)の変化を追った俳句史のひとつの解釈といえるだろう。
 


ここまでしてきた連作や主体の話は、俳句を内容/形式に分けたときの内容の話題に該当する。

内容は字義通り、一句に書かれた内容を、形式は一句中の言葉や語順、言葉同士の統語的つながり、助詞や季語、切れ字などの修辞的な部分を指す。俳句史をふりかえって、あらたな形式の発明により内容が刷新された場合においても、焦点を当てられるのは内容が中心で、形式の変化――修辞をどのように操作することでその新しい形式が可能になったか――ということはあまり語られてこなかった、正確に言えば、切れ字や季語の使い方などといった限られた(そして伝統的な)点についてしか語られることがほとんどなかったように思う。

人間探究派・プロレタリア俳句・社会性俳句といったくくりがあることも、内容の方に焦点をあてて俳句史が書かれてきたことの証左とは言えはしないか。

その数少ない反例が先に挙げた兜太の「俳句の造型について」や「造型俳句六章」なのだが、そのなかで語られる「暗喩」は、現実→感覚→イメージ→暗喩による一句の組み立て、という語られ方をしており、そこにおいて形式は内容に完全に隷属している。言い換えれば、形式は新たな内容を書くための道具以上の役割を果たしていないし、それ以上の役割を期待されてもいないということだ。
 


諸賢の察しのとおり、この文章は形式の下克上を訴えるものなのだけれど、そこでは形式にどのような役割が期待されるのか、ということを書いておわりにしたいと思う。

美学者の佐々木健一は1983年の論文「発見術としてのレトリック――フィギュールと想像力」において、芥川龍之介の『芭蕉雑記』における〈鐘消えて花の香は撞く夕べかな〉という倒装法という漢詩の技法(意味を強めるために句の順序を入れ替える)を用いた句への分析を皮切りにレトリック(すなわち形式)のはたらきについて論じている。

そこでとりわけ重要なのが、ベルクソンを引き合いに出しつつ図式(修辞における形式の役割)のはたらきについて述べる以下の部分だ 。

ベルクソンは、そっくりそのまま繰り返される具体的なものをイマージュと呼び、これに模倣を配し、他方、これに対置すべき創造の可能性を図式の中に求めている。
即ち、一つの古いイマージュから別の新しいイマージュを生み出すかけ橋となるのが図式である。(中略)創造の出発点となるのは一つの図式である。
そして図式が具体的普遍であり、具体的な表現(すなわちベルクソンの言葉で言えばイマージュ)を通じてしか把握されないものであるとすれば、それを身につける最上の途は、一度その具体的表現を模倣してみることである。模倣したことのあるものは、記憶の中へよりしっかりと根をおろすことであろう。
ただし、そのままでは、図式はその具体的表現に言わば固着した状態であるだろう。この具体的表現を忘れることによって、図式は応用の可能性を、すなわち創造性をうる。図式の深度が深くなればなるほど、言いかえれば、当初の具体的表現から離れれば離れるほど、創造性は高くなると言ってよい。
ただしそのことは、図式が抽象的になるために応用される表現の外延量が広がる、という意味ではない。そうではなく、深い図式は我々の精神の個性的な反響をよびおこす、という意味で、新しい表現を生み出す可能性をもっている、ということなのである。

ここで佐々木は、具体的表現の模倣を通じて図式を深化することで、その理念的価値を汲みとることによって創造性が高まり、新たな表現につながると述べる。これは、創造の契機は図式の側にこそあると言いかえることができるだろう。

俳句であれば図式に該当するのは、五七五の定型そのものや、個々の書き手の文体などだ。俳句において定型はほぼ前提になっており、透明化されているため、おもに問題になるのは文体の部分だろう。個々の文体は語彙といった意味的な部分を含むが、語の選び方やつなぎ方、並べ方といったところにあらわれる全体のなんとなくの感じとして図式たりうる。外山一機の「Ooi Ocha」(お~いお茶のパッケージに載る俳句の文体模写)のような文体模写の試みが成立するということからもそれは言えるだろう。形式面のはたらきなくして、文体が図式として機能することは考えにくい。

俳句は言葉で書かれる。それゆえ、つねに内容の影がつきまとい、形式について語ることはいつの時代も困難を極める。それでも形式について語らねばならない。内容空疎であることも批判されるべきだが、形式なくして内容が成立することはない。創造的な変化のもたらされないジャンルは澱み、書き尽くされて終わるだろう。



〇参考文献
稲畑汀子・大岡信・鷹羽狩行(監修)『現代俳句大事典』、三省堂、2005
大塚凱、「21.2世紀の雨宿り」、「つくえの部屋」第4号、2019
金子兜太、『金子兜太集』、第四巻、筑摩書房、2002
神野紗希、『光まみれの蜂』、角川書店、2018
佐々木健一、「発見術としてのレトリック――フィギュールと想像力」、「思想」(706)、岩波書店、1983、68-99頁
佐々木健一、『美学辞典』、東京大学学芸出版、1995
高柳重信、『バベルの塔』、永田書房、1974
正岡子規、『俳諧大要』、岩波書店、1955
山口誓子、『山口誓子全集』、第七巻、明治書院、1977


青本さんたちに、二人で出てもらった理由 上田信治

青本さんたちに、二人で出てもらった理由

上田信治


青本瑞季さんと青本柚紀さんの姉妹を、自分は、ほとんどいつも、とり違える。

「えーと、ミヅキさん?」「ユズキです」(または、その逆)というやりとりを会うたびに繰り返していて、しばらく話していると、もう大丈夫、見分けがついたと思うのだけれど、彼女らは、だいたい一人づつ現れるので、また二分の一以上の確率で、失礼をしてしまう。

そんな二人をセットのように見なすことは(人権的に)よろしくないのだけれど、この人たちを含めた何人かの書き手が、それぞれの方法で新しいことをやっていて、しかも、なぜか、よく似たあたりを攻めていることが、とても面白く、そのことが広く知られるといいと常々思っていたので、今回(偶然もあって)お二人で作品欄に出ていただくことになった。



二人のやっていることの共通点を言えば、言葉の音やはたらきを、細かく分節し再構成するというアプローチだ。5・7・5を、さらに細分化した上で17音プラスαに構成するといような。

荻の袖眼の奥を歌たちのぼる  青本瑞季
萩に衣服を歌ふ手つきでこぼれだす

銀色の荻と衣服を幻視することから、歌が「たちのぼる」という内的感覚にスライドさせるわけだけれど、そのとき「眼の奧を」がパサーのように働いていること。「萩に衣服を歌ふ手つきで」の、3/4・3/4、というリフレインによって、七七五の頭のおもさが、歌謡のリズムに流れて(こぼれて)いくこと。二句目は、一句目と同じモチーフのバリエに見えるけれど(荻と萩で切り変えてある)一句目に見えていた主体が、二句目を読んでいく途中で消えていく、この浮遊感。

満ちて野の花さいごの水の輪を鳥が 青本柚紀
浮舟よ口に棗の緋を交はし

「満ちて野の花」同じ七七五でも、3/4・4/3と入って「(水の)輪を鳥が」(3/2/3)と、譜割りが細かくスタッカートのようであること(「水の」の3音は両側につながっている)。「浮舟」にはじまるエロティックなイメージが、口・棗・緋と連鎖していき、さいごに交歓の対手を見せずに、色+動作という抽象で終わること。

ここ数年、ものすごく複雑に分節するリズムを叩くドラマーが、新しい音楽をリードしていたようだけれど、そういうことを連想させて、どうしてこんなに、細かく感じながら書けるのかと、驚かされる。

佐藤文香や生駒大祐が示してきたような、新しい「書法」を、また先へ進めていこうという人たちがいるということを、知ってほしかったわけです。

2018-11-25

2018角川俳句賞「落選展」を読む(2) 岡田一実

2018角川俳句賞
「落選展」を読む(2) 

岡田一実

>>(1)

5.  初々しさ 津野利行  ≫縦書き ≫テキスト

妻書斎まで来てバレンタインデー

この作者は人生のちょっとした余裕や人情を大切にしていて好感が持てた。
掲句、普段は「書斎」へは客中主体以外は誰も来ないのかもしれない。「書斎」は閉ざされた自足的な城のようなイメージ。そこへ「妻」が来る。「まで」が驚きであり感動を表わす措辞だ。「妻」は甘い甘いチョコレートを持ってくるのであろう(おもに日本のみの文化だ、などと指摘するのは無粋)。「バレンタインデー」は別称「愛の日」。「妻」の愛情を確かに感じる出来事である。

中華屋のおやじも卒業生の父

馴染みの「中華屋」だろうか。「中華料理店」ではなく「中華屋」という響きにカウンターに面して調理する、ラーメンと餃子と炒飯がメインメニューの店を想像した。なぜ「卒業生の父」だとわかったのだろうか。「うちの子も今日が卒業でね」などと中華鍋を振りながら語ったのかもしれないし、あるいは卒業式の保護者席に「おやじ」を発見したのかもしれない。いずれにせよ、「中華屋のおやじ」というのは社会的な役割であるが、その「おやじ」にも個人としての役割、しかも「卒業生の父」という晴れやかな役があったという驚き。共に祝したいという気分が溢れている。

滝の音ほどの滝ではなかりけり

「滝の音」が先ほどからずっとかなり大きく聞こえていた。きっと大きな「滝」に違いないと期待して辿り着いてみたら「滝の音ほどの滝では」ない。がっかり。ではあるが、「滝」に辿り着いた達成感や滝底から吹いてくる風の清涼感などがほのかに感じられるのは「なかりけり」という空白の多いたっぷりした措辞のせいであろうか。期待したほどの「滝」の大きさではないけれど、これはこれでまあ楽しめばいいか、という余裕が垣間見られる。

他にも〈家族葬済ます勤労感謝の日〉の不思議な悲しさ〈開店の準備オーバー着たるまま〉などの取材の良さには親しみを覚えたが、〈遠花火バックミラーに開きたる〉〈焼きそばのソースの匂ひ秋祭〉などには類想感があった。


6.  星加速 折勝家鴨(*) ≫縦書き ≫テキスト

牛乳のコップの波紋冬深し

なにかの拍子に食卓が揺れたのだろうか。小さな地震かな、とも思った。具体的な理由はわからないがただ「牛乳のコップ」に「波紋」がおこっている。濃い白色の「牛乳」におこった小さな「波紋」はささやかな異変とも言えないような異変であるが、寒さが募る時期である「冬深し」とよく響く。一抹の不穏に余情がある。

空砲は空へ片道卒業す

「空砲は空へ片道」は真理。復路のある「空砲」などない。この真理は指摘されるとなるほどと思うが、日常的には見過ごしてしまうところだろう。「片道切符」などという比喩表現もあるが、すべての「空砲」が「空へ片道」だと思うと清々しい気分になる。そういう意味で「卒業」もまた「片道」だ。不可逆性のきっぱりとした華やぎがある。この「空砲」が「卒業」を祝しているようでもあり、青空も見えてきて気持ちがいい。

猫の仔をタオルに包み農学部

「農学部」というのがいい。この「タオル」はおそらく新品ではない。農作業をするときに使う何度も洗濯を繰り返したくたくたの柔らかいタオル、そういうものであって欲しい。「農学部」の構成は多くは学生、そして講師や教授もいる。指導する者とされる者。先輩と後輩。そういう大学生活独特の層状の人間関係の中で「猫の仔」はひときわ愛らしい異物として構われる。

7.   江口明暗  ≫縦書き ≫テキスト

春立つと午前零時のメール鳴る
君よ夏のクラウドに記憶せし写真
珈琲を飲み干す夜長ウェブ赫き


現代感覚的な新味を取り入れて俳句的世界の更新を試みている。
一句目、この「メール」は立春を知らせるためのものだろうか、関係ないのだろうか。「春立つと(いうのを知らせるための)」「メール」が鳴った、ということであると若干因果を感じるので、「春立つと(気付いた、そのときふと)」「メール」が鳴った、という風に取りたい。「午前零時」に短く「鳴る」電子音が春を告げているかのようだ。
(余談だが「E-mail」は「メール」と略してはならないという主張もあるらしい。「俳諧の益は俗語を正す也」(松尾芭蕉)であり、意図があっての使用であることは明らかであるので、ここでは容認したい。)

二句目、「クラウド」とは、「クラウドサービスプラットフォームからインターネット経由でコンピューティング、データベース、ストレージ、アプリケーションをはじめとした、さまざまな IT リソースをオンデマンドで利用することができるサービスの総称」だそうだ。DropboxやOneDriveなどと具体名でイメージした方がわかりやすいかもしれない。スマートフォンで撮った写真などをそのままデバイスに保存すると容量が溢れてしまうのでクラウド管理する、という考え方は年々一般化しているように思う。自分以外の人と共有できるのもクラウド管理の利点だろう。掲句は「君よ」と呼びかけている。その「写真」を共有する「君」かもしれないし「写真」の中の「君」かもしれないし、両方かもしれない。いずれにせよ恋のニュアンスがある。眼目は「記憶せし」である。「クラウド」というデジタルなモノが擬人的に「記憶」をする。「夏の」は位置的に「クラウド」と「写真」の両方にかかっているのだろう(「クラウドに記憶せし夏の写真」ではない)。「写真」に記録し、「クラウド」に「記憶」させるのは、夏の一瞬のきらめき……エモ(wikipedia)って感じしません? 私はします。

三句目、「ウェブ」はわかりますね? そう、あなたが今ご覧になっているそれです。この記事も「ウェブ」で公開しています。掲句、「赫き」が禍々しい。「珈琲を飲み干す」安らぎの世界と「ウェブ」で繋がる禍々しい異世界とを思うとその「ひとごと」感が空恐ろしくもある。

古寺に古きもの見て稲光

前述のような現代的感覚もあれば掲句のような渋い句もあり、ヴァリエーションの豊かさがこの作者の魅力であった。


8.  あなた泉と云ふいつか 青本柚紀  
 ≫縦書き ≫テキスト

俳句を読む楽しみは明瞭に伝えられた明瞭な景を味わうことの他に、言葉の意外な連なりによる景の結びにくい複雑なイメージを味わう、ということもある。本作品は後者であり、かなり質の高い作品だと感じた。

雲雀どこかにえいえんのある落日の
萵苣ゆがむ顔のかげりはをととひの


本作品からまず感じたのは循環への志向である。
例えば句末を「の」で結ぶ句。他に〈まぎれてゐる光る眼鏡の霾の〉〈口ごもる虹の匂ひは水草の〉〈いよいよの畳に蛇がゐる夢の〉〈濁つてゐるうたごゑの夜の梧桐の〉と本作品では頻出の型である。

前句、「落日の」が「雲雀」に輪廻して循環をなす。この循環が「えいえん」の永続性を支え、「どこかに」という措辞とは裏腹にこの句そのものに「えいえん」がピン止めされたような茜色に眩い世界がある。

後句、こちらは単純な循環を拒否しているように思う。「かげりは」の「は」があることよって「おととひの(かげり)」とつながっていくのだと想像させる。「ゆがむ」は「萵苣」と「顔」の両方にかかっているのか。「萵苣ゆがむ」で切って取り合わせとして読んでもいいのだが、「萵苣」で切って「ゆがむ顔の」と取り合わせるイメージも捨てがたい。「萵苣」の瑞々しく淡い緑ははかない線で描かれ、危ういバランスで成り立っている。

両句とも季語のモノとしての具体性を剥落させて、時間のあり方を環にすることで歪にゆっくりまわる円盤のようなイメージ世界を読者に与える。

煮る人をこぼれて歌の金目鯛

「風の」や「月の」など「○○の」という属性を帯びさせて詩的世界を立ち上がらせるのは伝統的俳諧の手法であるが、ここでは「歌の」である。この「歌」は音楽の方の歌だろうか、和歌などの「歌」だろうか。イメージを限定しないことによって多読性を喚起しながら、確かに何かの調べが聞こえてくるところが非常に味わい深い。「金目鯛」が「こぼれる」のは通俗的には鍋や皿だと思うが、ここでは「煮る人を」である点も詩的である。
掲句も倒置して「て」で繋ぐという循環の技法がとられている。

他にも〈夏蝶の渚といふはしのわずり〉〈夏痩のこはれる岸のしろい窓〉〈洗はれて火の粉のくぐる牛のなか〉〈なほざりの葉書は蛇の湖あかるい〉〈草刈のしなへる日々の塔がある〉〈野は汽車の花咲く苔のさよなら〉など全体を通して「言葉を書くのだ!」という強い意志が感じられ、非常に刺激的で魅力的であった。

(3へつづく)

2018-11-04

■2018角川俳句賞「落選展」第2室■5. 初々しさ 津野利行 6. 星加速 折勝家鴨(*) 7. 息 江口明暗 8. あなた泉と云ふいつか 青本柚紀

2018角川俳句賞「落選展」第2室
(*)一次予選通過作品 

5.  初々しさ 津野利行




6.  星加速 折勝家鴨(*)



7.  息 江口明暗



8.  あなた泉と云ふいつか 青本柚紀




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 ≫テキスト 


■2018角川俳句賞「落選展」第2室■テキスト版

2018角川俳句賞「落選展」第2室■テキスト
(*)一次予選通過作品 

5.  初々しさ 津野利行

レストランみな巻き込んで初笑
初富士の傷の如くに登山道
松明けや海のもの売る日本橋
成人の日の鼻歌に起こされて
寄合の顔ぶれ揃ふ小正月
民家まで団子屋の列初大師
妻書斎まで来てバレンタインデー
犬ふぐり目黒銀座に五番街
線香の香を残したる春手套
先輩の話に重み柳の芽
地に落ちず天に昇らずしやぼん玉
客の見る花の話を植木市
風光る路地曲がるまで見送られ
中華屋のおやじも卒業生の父
娘にも付き合ひのある春コート
口紅の初々しさよ春休
娘帰宅し春の夜の落ち着きぬ
綻びを縫ふやうにして巣組かな
山笑ふ京都タワーを真ん中んに
蝌蚪の紐子を惹き付けて寄せ付けず
しつかりと雲の形をつくる春
春深しやさしくされて泣けてくる
けふはよく道を聞かれる若葉風
銅像の姿晦ます緑夜かな
ひらひらが下着みたいな日傘かな
夏座敷ひとりに一つづつ鞄
かき氷親の財産食ひ潰す
死にたいと言つたそばから髪洗ふ
滝の音ほどの滝ではなかりけり
炎天へ指一本で履ける靴
葱盛つて息吹き返す泥鰌鍋
睡蓮や古墳は一度目を覚ます
遠花火バックミラーに開きたる
山の日の道半ばにて引き返す
ゑのこ草雨にもじやれてをりにけり
蝉ひとつ啼かせてをりぬ秋簾
焼きそばのソースの匂ひ秋祭
十六夜やゆつくり下る神楽坂
外泊を父は認めず寝待月
投げ銭はギターケースへ小鳥来る
標本の硝子の曇る甘露かな
プレミアムフライデーにも夜業かな
家族葬済ます勤労感謝の日
マフラーをどうも寿司屋へ忘れたか
ドトールの奥に居座る十二月
点滅をさせて聖樹となりにけり
開店の準備オーバー着たるまま
忘年会危ふく首と言ひそうに
一年のインクの重み古日記
テーブルに椅子みな上げて除夜の鐘


6.  星加速 折勝家鴨(*)

木を削り鳥になるなり冬はじめ
小春日やふたりに開く自動ドア
十二月八日鸚鵡の羽振くなり
聖夜なり椅子と下がりしギタリスト
よく動く眉だけ若し聖夜劇
時雨るるやラム酒の強きロシア菓子
高音の耳憑く風邪のはじめなり
倒木を馬跨ぎけり冬あたたか
啼き声を忘れてきたるジャケツかな
年移りけり鍵束の鍵選ぶ
着膨れて今日は大声出す仕事
捨鉢に土残りけり寒波来
牛乳のコップの波紋冬深し
バス降りて走る塾の子寒昴
息白く白樺に馬繋ぎけり
傷口の治りはじめの毛布かな
丸暗記出来る身体や冬青空
裸木の名を知り少年のこころ
冬の夜や灯の突っ張りし繁華街
風冴ゆる穴の廻りの警備員
星ひとつ出て凍鶴の羽摶ちかな
雪の鹿吾より先に動きけり
夜の端に丹頂鶴の声欲す
鳥の水脈重なるバレンタインの日
鵜の群れの水面を叩く二月尽
貌長き風刺画春の来たりけり
草青む馬上に鈴の呉れし音
抱き寄せて春の来ている羽根枕
ジーンズのポケット狭し梅の花
折り込みの広告の束あたたかし
繰り返し働く肌着鳥雲に
本棚に書名静もり春の霜
貸傘の大きく開き雛の家
夕星は布告のごとし春の山
空砲は空へ片道卒業す
優劣を教えぬ鏡ライラック
行列のごつごつ曲がり春夕
吸殻の眠たそうなり春の川
ふらここや空をくすぐるほどの雲
花冷や星に近づく星加速
湯にほぐす即席スープ花曇
ジオラマに馬の四つ足春深し
アパートの空室の日や春の川
猫の仔をタオルに包み農学部
折紙の鶴傾ぎある朧かな
坐る席ひとつ空け春惜しみけり
木に社旗に風吹く五月来たりけり
覚悟かためし泰山木の花の雨
薄翅蜻蛉視線を連れて川岸へ
長き橋日傘の信者渡り来る


7.  息 江口明暗

春立つと午前零時のメール鳴る
地母神や夜通し受くる春の雨
そこはかと春の心地す小銭殖え
渦を巻く紅茶の底や三鬼の忌
春の日の運河の孤舟江戸へ行き
椿とは名乗りを上げず素浪人
入相の墓地より来たる猫の夫
うたた寝に鯛めし浮かぶ春日かな
その人の声忽ちに春の息
うららけし長谷川利行の絵はずどん
つばくらや汝は不羈の形なり
また今年往生遂げし花の塵
存分に肥えて機を待つ牡丹かな
燦燦と夏手袋や喜寿の人
青葉潮照る日に光返しけり
はつなつの生まれは少し羨まし
葉桜やさやと鳴り今日ざわと鳴り
正岡子規記念球場の熱さ哉
大坂と言わず吾にも夏の陣
暑き日や物干しの影墨太く
君よ夏のクラウドに記憶せし写真
海まではあと一キロの浜万年青
自分史に雛罌粟の揺る丘はあり
石鳥居驟雨烈しき日なりけり
粥の香に浄められたり旅の秋
曼珠沙華弥生の人も見たるかな
生き生きとゲームする子ら草の市
ヘッドフォンから囁き聴こゆ白鳥座
秋味は故郷に還り喰われけり
爽籟や蕎麦屋の酒を暮るるまで
古寺に古きもの見て稲光
麗人の芋ひと抱え買いて去る
テーブルに林檎劉生置き忘れ
青ばかりの秋天遠近法虚し
秋惜しむ新郎新婦ミラノへと
珈琲を飲み干す夜長ウェブ赫き
秋冷や静脈に沁む深呼吸
星冴えて人語なき夜の平和かな
から風や柴の親子の鼓笛隊
海鼠なぞ見たことなしと妻笑う
しんとして猫背で食らうきな粉餅
鉢の木の降ったる雪の眺めかな
雪数多に白磁微かに翳りたり
銀屏風《在ること》の不安鎮めつつ
生牡蠣の喉堕つる音秘め事や
水仙や黄泉よりそっと迎え花
谺聞く冬田のバックホウ一台
音鳴らし靴で雪割る子に戻る
あの空の彼方にラララ夢は凍て
玉子酒浮き世は凄き風の中


8.  あなた泉と云ふいつか 青本柚紀

君がため春野の薔薇にならずゐる
手のきのふ雨が霞を流しては
煮る人をこぼれて歌の金目鯛
春が光の靴下の短さの川
にもつは靴だんまりのなか虻になる
桜この昼を書いては水に散る
藤棚のあばらな椅子の日のおもて
年月の咲いて李のまはる銃
雲雀どこかにえいえんのある落日の
春落葉夜遠く見るその鼓膜
あひだの木夜に原宿さしこむ春
萵苣ゆがむ顔のかげりはをととひの
まぎれてゐる光る眼鏡の霾の
目ふたつは春の彼岸の河茫々
村は干潟の夕日おほきくよこになる
夏蝶の渚といふはしのわずり
口ごもる虹の匂ひは水草の
さつきから葉騒のままで猫がゐる
ばらの花てのひらに電波がとどく
葉桜に群れて無帽の邑の新橋
とげて羽蟻は雪のはやさに灯のほとり
濯ぐ夜のしなびて線路ぎはの部屋
スヌーピー茶けて扇風機とずつと
母たちの金魚ぼうつと濁る九九
みづおもて日時計に夕凪がくる
夏痩のこはれる岸のしろい窓
そこは翡翠空席いつまでもかがやく
ほほゑみの遠のく風の青簾
涼しさの目の奥にはしごがかかる
半袖に話の消えてゐる魚
洗はれて火の粉のくぐる牛のなか
なほざりの葉書は蛇の湖あかるい
坂の茂りのぐわりとめきしこの祭
あぢさゐの褪せて架空のこどもたち
象が来て手に香水の残るともしび
落ちてゐる絵にさるびあの身のほとり
草刈のしなへる日々の塔がある
くはへ飛ぶ鴉はうたかたの夏を
いよいよの畳に蛇がゐる夢の
朝だつた袖から瓜がおりてくる
根が羽根へゆらぐ晩夏の日のあひだ
木は一位暑さの川がたちあがる
夏草は距離ゆく球のみづたまり
濁つてゐるうたごゑの夜の梧桐の
けむりから灰がくづれて日日草
風季ほら飛魚が水に遅れる
眼のくぼむあなた泉と云ふいつか
野は汽車の花咲く苔のさよなら
さざなみ・痩せながら虹の秋は遠い




≫縦書き

2017-10-15

【週俳9月の俳句を読む】まなざすということ 青本柚紀

【週俳9月の俳句を読む】
まなざすということ

青本柚紀


俳句には、世界との出会い方、世界の捉え方が記される。そう、思っている。それはべつに、俳句に限った話ではなくて、詩や短歌、数学や地質学についてもそうなのだ。みじかく、ぎゅっと。焼きつけられた手ざわりの話をしたい。

ひややかやビーズ叱られながら買ふ  豊永裕美

母と子の景。ビーズを買うことが嬉しすぎたり、選ぶのに時間がかかってしまったり。とにかく、叱られてしまって、しゅんとする。よろこびが萎んでしまったことと、ビーズの質感とが「ひややか」で結びつく。この感触は大人になっても案外覚えていて、ふいに蘇っては、また、締めつけられるのだった。

はてしなき両替のごと滝壺よ  鈴木陽子

両替の硬貨が落ちる様と滝壺まで水が叩きつけられる様とを、重ねる。この句で書かれていることは、一見わかりやすいけれど、読んでいくと妙に引っかかる。

まず、「はてしなき両替」それ自体は架空の存在だ。尽きることない欲望をちらつかせながら、滝壺まで落ちて、受け止められているそのことが、変な説得力を持って迫ってくる。

そして、「両替」。滝壺に置いては、何が、何に? 滝は寄せつけなさともいえる、ある種の聖性を持って書かれることが多い。ここでは、滝の価値観が、聖から俗へと書き換えられつづけている。そして、それとは関わりなく、滝壺は水を受け止めつづける。

語り尽くした眠たさの草かげろう  森澤程

草蜉蝣や優曇華に眠たさが重ねられることはたしかによくあるけれど、語り尽くした眠たさ、と言うとそれらとはまた違ってくる。語り尽くしてしまうことは、高揚感とむなしさとの間にある。それはきっと相手もわかっているのだろう、と思う。けだるさや、むなしさ、語り尽くしてしまえたということが、草かげろうのにおいや、存在感に重なる。

手ざわりを、そのときたしかにそのものがあった、ということを書くのは困難だ。正確なデッサンよりも印象派の光がときにはっきりと描かれたものを立ちあげるのと同じように、正確にその場にあるものを書き取れば、手ざわりを残せるとは限らないからだ。もちろん、印象派の光がただぼんやりと消えていくこともありうる。

ここでは、書かれたものごとが目の前にありながら、多かれ少なかれ心象のほうへ揺れている句について書いたつもりだ。俳句は、たしかに感情の入り込む余地が少ない。けれど、わたしたちの目が、まなざしが、真に「客観的」であることなど、ありうるのだろうか?




豊永裕美 この町あの町 10句 ≫読む
鈴木陽子 あの町この町 10句 ≫読む
柳元佑太 土佐夕焼 10句 ≫読む
第543号 2017年9月17日
森澤 程 レモン捥ぐ 10句 ≫読む
伊藤蕃果 天象儀 10句 ≫読む

2016-11-13

2016「角川俳句賞」落選展(第1室) 1.青木ともじ 2.青島玄武 3.青本瑞季 4.青本柚紀

2016「角川俳句賞」落選展■第1室


1.青木ともじ




2.青島玄武 




3.青本瑞季 




4.青本柚紀




1. 夜があり 青木ともじ

あたたかや二人で運ぶ長机
飛び出さぬ飛び出す絵本うららけし
囀や跳ね奔放に書道展
入試監督きれいなこゑではじまりぬ
やはらかに廃車積まるる桜かな
桜かつ散るや上野にすこし雨
大筋は桜の頃に聞いてゐる
おとうとの家庭訪問ヒヤシンス
ヒヤシンス並べなほして退任す
春濤をひとり占めしてひとりなる
くづれさうな光を春の海といふ
生卵割る背筋まで新社員
青饅にふと深海のふかみどり
かぎろへば神奈川へゆく橋にゐる
風船を連れ不自由な体なる
夏近き空に火葬の煙残る
人類に火があり天に藤があり
白蝶を吹き消すやうに見失ふ
対岸を眺めてをれば春終る
はつ夏はさつき見てゐた雲の白
友を待つ背に噴水を感じゐる
立ち漕ぎの一歩目強き植田かな
のつぺりと羊羹倒す暑さかな
居酒屋のトイレに香水がにほふ
なきがらの金魚とろんと沈みたる
苦しんで死ねば汗なら残るだらう
ヘルメットの内側臭き夏野かな
ねむり草めざめるときの波紋めく
日傘して孤島のやうな女かな
売る籠のすべてからつぽ登山道
くちなはの来てゐて此岸広くある
何の碑か知らずありがたがつて秋
旧友は嫁いで百舌鳥の街にゐる
皿に入れポン酢あかるき良夜かな
一といふ字の潔き夜学かな
紅葉かつ散る空港の片隅に
菊の日の寺に裏口見つけけり
わけいつて山頭火忌の酒場かな
文殻のやうに蜜柑の皮を閉づ
理科室のうしろのストーブが匂ふ
実験のマスクがすこし驚きぬ
フラスコの沸騰を待ち山眠る
夜廻りのひとにちひさな橋があり
湯豆腐の波に豆腐のくづれけり
おほかたはわたしの上に降らぬ雪
まいにちの中に夜があり吹雪きけり
本に倦み二月の町をかなしうす
いつか返さうCDとマフラーと
船団がその闇にある寒さかな
火事跡は画廊の明さもて暮るる



2. 海神(わだつみ)の裔(すえ) 青島玄武

寝転べばあまりに天の高きこと
芒原夕陽の舟となりにけり
梨を剥く日照雨のなかを蝶が舞ふ
寂しさは楽園にあり法師蝉
名月の踊り出さんとしていゐたり
七五三も昔のことと言ふ子かな
小憎らしき頬をつねれば冷たくて
秋麗の袖に隠るる腕時計
小春日やバスいつぱいの子供たち
やおとめは初めて雪をまとひけり
木枯らしの表へ出ろと引き出され
聖菓より少し大きな聖樹かな
年の瀬のくの字に座るお人形
曳猿が晴れ着の人を追い回す
ジヤンボ機の翼の下の玉競り
鶴舞ふや久遠のの尽くるまで
熱燗を胃の腑の奥で抱き締むる
嬰の手と握手する指寒桜
春水のはしやいでをりし水車かな
経由して茶となりにけり春の水
里の子が斑雪山へと登校す
体内へ降りる階段梅真白
寒戻る寒戻るよと烏啼く
山々は膝を崩して桜草
春コート風欲しがつてゐたりけり
花影の猫となりたる夕べかな
泣き叫ぶ子供のゐたり花の宴
花満てり水面の花の散るときに
散る花へ修羅と争ふ波濤かな
お小言のまあどつさりと春の風邪
父親が怪獣となる野の遊び
連翹や海へ海へと汽車は往く
どうにでもしてよと春の大根が
海神の裔の仔馬の生まれけり
唇が歌ふ形となりて夏
旅人に旅の小路や若葉冷
掌の山河を渡る螢の火
髪筋に指先沈む薄暑かな
冷房でご飯が冷めるラーメン屋
写真屋の声の太さよ夏の富士
人殺せさうな器や夏料理
マイクにて蚊に刺されしと発表す
鼻息の急に荒ぶる泥鰌鍋
薔薇の香を嗅ぐや爪先立ちとなり
梅雨寒の切手は丹念に舐むる
プール出て生まれ変はりし女かな
トマト掴む親指までも細き手が
白南風や波が客なる自転車屋
用件を指示しながらも髪洗ふ
観音の御影を包む深緑



3. 山羊がゐる 青本瑞季

夏菊に閉ぢてまぶしき扉かな
南風散らかつてゐる子らのこゑ
貝殻の口を小さき蜘蛛わたる
花あやめ雨に紛るる鳥の足
梅雨晴の足波立たす団子虫
六月の書庫は階段匂ひけり
昼顔に白犀ほどの雲ありぬ
合歓の花おほきな水はよく流れ
えぞにうの腰折れてゐるところかな
白扇は後ろの森に陰りけり
煙草の箱夏痩の手をはみ出せる
その朝の海のごとくに曇る葡萄
濡れてゐる楽譜秋果の籠の下
虫籠のかたちの染みを風とほる
絵本閉づれば真葛原まで続く道
干柿に牧草昏くなりにけり
ぽつぽつと菌百葉箱の下
芒野の終はるまぎはの水飲み場
いななきに幕切れめける花野かな
おほらかに学生蔦の灯へ帰る
はつ冬の夢の合間を来る地震
絨毯に目覚めて舟と思ひけり
肉塊に糸の食ひ込む十二月
湯ざめしてみんなやさしい電話口
風邪気味よ歩みに鳩のちよつと飛び
初雪やサドルひと拭きにて乾く
冬ざれの盲点として秩父の牛
火事場帰りの胸元にペン差しなほす
倒木を容れぬ浅さに水温む
春の白鳥ひらがなの受肉とも
ぐつぐつと混みあへる夜の残る鴨
春の日に睡られずゐて湖を過ぐ
踏青の見知らぬ墓地に来てしまふ
蘖が幽霊よりもどつとある
汐干狩続けることの憎むに似
つぶ貝を焼けば電話を待つやうな
しんじつは日より冷たし干鰈
茶筒固くて永き日の座敷かな
からだぢゆうのみづがねむれりうららかに
花なづな鳥の足あと乾きつつ
羊蹄や汀てふもの川にもあり
たんぽぽの絮散る笛のもつれる音
パンジーの花ふてぶてし地を擦つて
白蝶よかぼそい泥の脚を上げ
とどまりて髪ぬるくなる虻の岸
春休四方がさぼてんにて座る
しだれざくら舟に届かず雨のなか
菜の花の中の蛇口の涸れてをり
黄水仙天国なら散らかつてゐる
春落葉懐かしさうに山羊がゐる



4. 消えろ 青本柚紀


砲錆びて芽吹きはじめの山を向く
この昼の囀の木であることよ
人がゐてミモザはいつまでも渚
川は流れて柳に触れし無数の手
電気ブラン飲みたし蝶に溺れたし
空腹に慣れて桜が白いのだ
たんぽぽの絮を奪へばひかりにきえる
春休読書のあとに釘打てば
食堂に溜まり春愁なき君ら
山のうしろははや花過ぎのけふである
花散らす力を沖に太宰の忌
見つめあふやうに新樹の明けてゆく
まつくらな門をくぐれば薔薇に着く
いちまいの葉をいくたびも迷ふ蟻
句は縦書き初夏の修道女のやうに
十薬の茂みを日々はひきかへす
泉見て四肢の時間のゆたかなる
女子寮に殖ゆる噂よ夏落葉
火蛾と火蛾ぶつかる夜を醒めてゐし
夏痩に渋谷の音の押し寄せる
箱の虫うごき夜学は力学へ
秋雨の受話器の奥の息づかひ
待てど来ず秋刀魚の骨を外したる
名月を山手線の廻りをり
通信の絶えて桔梗をまじまじ見る
大学へ傘が秋思が重なりあふ
束ねたる手紙信濃は霧の中
弦楽に林ひらけて秋逝けり
冬の噴水割れて一羽の鳥が発つ
いくたびも指が時計に触れ枯野
尽く冬の灯にして小さき部屋
そのことを問へば白息がちとなる
祝はれてゐて室咲のあをざめる
はばたきは微かに枯葦の日ざし
毛糸編む絵の少年と語りつつ
ふくよかな道にて竹馬のすすむ
枯枝を踏み折る空の深さかな
缶詰の尽きれば霜の声さやか
見せたしと思へば鴨がどんどん発つ
枯木まで来たり枯木を引きかへす
冬の木を書いた言葉で死ねるだらう
閉ぢてゆく森早春の声がある
蘖の幹いつまでも水浸くなり
永き日の座せばさざめく遠くかな
墓がある恋猫のゐたこの庭に
風船の力をゆふぐれに還す
月下細魚はだんだん白い鳥になる
今日までの山河を忘れたい辛夷
言ひ得ないことが菜の花より多い
新宿はすべて雑音 消えろ蝶

2016-11-06

【週俳9月の俳句を読む】 小澤實の中の川 青本柚紀

【週俳9月の俳句を読む】
小澤實の中の川

青本柚紀



ぼくの体の中には川が流れている。
川を見るのが好きだ。川を見るのが好きだ。川を見ているとき、眼前に流れている川と、ぼくの中を流れる川とを無意識のうちに比較している。
(邑書林『セレクション俳人 小澤實集』 初出は「FRONT」1999年9月号)
そう、小澤實の中には川がある。彼自身の中のみならず、その俳句 の中にもその川は見られる。滔々と流れる川が。

たとえば音の中。小澤實の韻律にはせかせかしたところがない。五 七五をはみ出ても言葉を尽くして書く、ということはなされている が決して定型をはみ出ることなく一句が悠然と立っている。
 
秋刀魚焼きをるは隣家か帰り来て 小澤實
爺ひとり住まひ新酒をコップに酌む
ミニカーを戻し放つや廊冷ややか
 
一句目。ゆったりとした句またがりが帰宅時のほっとした気持ちと よく響いている。家の近くで秋刀魚の匂いがするなと思っていたら 通り過ぎてしまったのだろうか。あるいは。匂いのもとにたどり着く前に帰宅してしまったのか。

二句目。上中下の各句に自立語が二つずつあることで少し波打つような韻律になっている。ゆっくりと夜を過ごしているのだろう。先日、おいしい酒を飲むのはおいしいという感情を誰かと共有する行為なのだと聞いた。時間のある夜にひとりで酒を飲むというのはさびしいことだ。老いるときっとなお。コップにこぽこぽと酒が注がれてゆく音をたった一人で聞かねばならないのだから。ときに誰かを思い浮かべながら。

三句目。濁音がひとつあるほかは比較的静かな音で構成されている。それゆえに動作の主体が子供ではないよう見えるのは作者名に引っ張られてしまいすぎだろうか。句中の言葉も大人びている、というよりは落ち着きがあるのだ。少なくとも句の主体からはそれが感 じられる。ミニカーがかたかた鳴るのをやめた先に静かな、誰もいない廊下がぽっかりとある。
 
川は景の中にも時間として存在する。「住宅地」十句には住宅地に息づく生活が描かれているが、そこでの時間は都市のそれとは違う独特な流れ方をしている。職住分離型の住宅地という仕事の場と切り離された生活の地の、そこで暮らすひとりの人間のゆるやかな時間の川が。

 ひとり、といえば小澤實の俳句の主体は圧倒的なひとりであると思う。これは他者の存在の有無の話ではない。ここに来て非常に感覚的になってしまい申し訳ないのだが、景を見ているひとりの人間の確かな目があることを、それがはっきりとした息づかいを持ってあることを思う。

ふはふはのふくろうの子のふかれをり 小澤實『砧』
遠足バスいつまでも子の出てきたる  同『立像』

 
彼自身は俳句は「謙虚な詩」であるとするが、(邑書林『セレクション俳人 小澤實集』初出は「澤」創刊号 2004年4月)徹底して眼前を書くということに集中することで かえって「見つめる主体」がはっきりと浮き彫りにされている。深淵を覗くとき、深淵もこちらを覗いている――ではないが、先に挙げた二句のなかにも「見つめる主体」が息づいているように思える 。

川を見て育った小澤實の中にはひっそりと川が流れている。それ と同じように俳句の中で描かれているものたちはもう小澤實の中に あるのかもしれない。小澤實の俳句は、景が作者の中から出てきたような確かさを伴っている。それゆえにか虚子にも通じる得体の知れなさや底知れなさが漂っている、というと言い過ぎなのだろうか。ともかく、小澤實の中の川は流れ続けている。

2016-02-21

【落選展2015を読む】 (1)「水のあを」から「梅日和」まで ……仲寒蟬 × 上田信治

【落選展2015を読む】
(1)「水のあを」から「梅日和」まで

仲寒蟬 × 上田信治



信治:
上田です。このたびは、仲寒蝉さんをお迎えして、「2016落選展」にご応募いただいた各作品を読み進めていきたいと思います。

寒蝉さんよろしくお願いいたします。

寒蟬:
よろしくお願いします。以前「里」でこのようにネット上の掲示板に書き込んで対談したことありましたね。なるべくうまくつながるように進めて行きたいと思います。

信治:
はい。掲示板対談なので、噛み合わい切ってないところはご愛敬で。

まずは、二人それぞれ、27人の方の応募作から、10作品を選びました。
僕も寒蝉さんも、27作を通して読んで、○の多かった10作品をピックアップしています。


寒蝉10作品選

1.青木ともじ  「水のあを」
3.青木瑞季  「鰭の匂ひ」
4.青本柚紀  「飛び立つ」
6.上田信治  「塀に載る」
7.大塚 凱  「鳥を描く」
15.北川美美  「梅日和」
20.高梨 章  「明るい部屋」
22.堀下 翔  「鯉の息」
27.利普苑るな  「否」
28.小池康生  「一睡」

信治10作品選
1.  青木ともじ  「水のあを」
3.  青本瑞季 「鰭の匂ひ」
4.  青本柚紀 「飛び立つ」
7.  大塚 凱  「鳥を描く」
14. 仮屋賢一 「鷲掴む」
19. 折勝家鴨 「塔」
20. 高梨 章  「明るい部屋」
22. 堀下 翔  「鯉の息」
27. 利普苑るな 「否」
28. 小池康生 「一睡」


信治:
なんとそれぞれ10作中8作品が、同一になりました。寒蝉さんは、本選の審査員と同じく、作者の名前を隠して、読んでいただいたんですよね。ぼくは、作者名を隠さず読んでしまったので「この人だったら」「この人としては」とかそういう観点も入ってしまったかも知れません。

寒蟬:
それにしても、私の中には信治さんの作品が入っているからそれをのぞくと、8/9まで一致してしまったんですねえ。

信治:
堀下・大塚組もふくめてのこの一致は、ちょっと予想外でした。寒蝉さんと僕、あるいは彼らと、そんなに俳句観が一致する方でもないでしょうにね。

寒蟬:
ただ、「里」で牙城と一緒に選をしていて、こいつとは全然価値観も経験の内容も違うはずなのに、現に取る句も大分違うのに、或る部分だけはかなり共通しているという経験をよくします。

これは、俳句に対する考え方は微妙に異なっていても所謂「取れる句」というものは、一定レベル以上の俳句経験を有する者の間でさほどずれはしない、ということではないか。年齢や経験年数は大して関係なく。そう思うのです。

信治:
二人の選んだ12作を鑑賞し終わったら、せっかくですから、他の作品についても、取った句、感想などを書いていきましょう。


1. 青木ともじ 「水のあを」

寒蝉選
スティックシュガー音たてて出る立夏かな
青葉風ベンチはひとつづつあけて
繁華街の色をしてをり夜の金魚
ハンカチを返すとき手をすこし高く
重力のかすかにありぬ花野道
集金の人と小鳥の話など
秋の蚊をしばし相談して打ちぬ
冬めきて本の挿絵の蓄音器
地球儀は高いところへ煤払
背もたれに余るコートの長さかな
風光りチーズケーキは砂丘めく
喰ふ舌の先まで恋の猫である
田楽を串の出でゆく力かな

信治選
スティックシュガー音たてて出る立夏かな
風にほぐるる鹿の子の耳の先
犬ゐれば声をかけけり黄落期
背もたれに余るコートの長さかな
人日やただまつすぐにバス通り
みな同じ岩を踏みゆく磯遊び

寒蟬:
実はこの50句はけっこう評価の高かったもののひとつです。

最初の2句は気持ちよく入れました。

全体的に上手い感じはしましたがあまり冒険した感じはなかった。「集金」や「本の挿絵」みたくさらっと詠んだように見える句にいいのがありました。

反対に「花の野の果て」はまどろっこしくて成功していないし「イオマンテ」がいきなり出て来るのもどうか。「亡国の名の酒場」は何か言いたそうなんだけど伝わってこなかった。

信治:
「スティックシュガー」や「鹿の耳」の感覚的なよろこび。「コートの長さ」、まっすぐな「バス通り」、磯遊びのみんなが踏む「岩」……「ベンチ」「待ち針」の、ちょっと正確な把握。

ただ、ある範囲のなかで詠まれているという、物足りなさはある。

悪くなくて「ほどがいい」。でも、ものすごく「ほどがいい」というところまではいかないので、そこはやや残念かも。安全な作り方を離れて、言葉自体になにかさせようとすると、まだちょっとうまくいかないというか。

あと既存の俳句にある作り方ですけど、「力」とか「温度」とか言って、なにか言ったような感じになってる句は、もういいんじゃないかという気がする。

ぼくのイチオシは、
風にほぐるる鹿の子の耳の先
みな同じ岩を踏みゆく磯遊び
この二句なんですけど、青木さん自身を、いちばん喜ばせるのはどういう俳句なんだろう。いろいろ作れてしまっているので、この50句からはそれが少し見えにくい。

寒蟬:
まあ器用なんでしょうね。色々と出来てしまう。だから「これ」という句が見当たらないのかもしれません。

「磯遊び」はいい目の付け所だけれど同工異曲の句があるような気がします。「鹿の子」の方がオリジナリティがありそうです。私のイチオシは先にも少し触れましたが
集金の人と小鳥の話など
冬めきて本の挿絵の蓄音器
かな。
風光りチーズケーキは砂丘めく
も好きでしたがどこか櫂未知子さんの「南風吹くカレーライスに海と陸」を思い起こさせるところが不利ですね。

「力」確かに重力入れると2句も出てきている。でも田楽の句とか悪くはない。

信治:
ちょっとだけ概念をかませて一句というレトリックですよね。近年かなりたくさん試されてる気がして、僕は食傷気味に感じました。


3. 青本瑞季 「鰭の匂ひ」

寒蝉選
三月のひかりに壜の傷あらは
涅槃の日鸚鵡少女の声を出す
藤房は垂るるものなり足もまた
蛍烏賊青菜に目玉こぼしをり
惜春の傘襞深く閉ぢらるる
言葉より疾し目高の逃げゆくは
耳栓のうちに大暑の機械音
きちかうの高さを煙とほりけり
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ

信治選
三月のひかりに壜の傷あらは
雪解川遠くの橋の昏くあり
蛍烏賊青菜に目玉こぼしをり
麦秋や絵に神々の憎みあふ
水かげろふ日傘のうちを照らしけり
涼しさや龍をふちどる金ひとすぢ
炎天をかりかりと蝶登りをり
劇場の裏の木屑や小鳥来る
きちかうの高さを煙とほりけり
玻璃すこしみづに汚れて秋の声
藻は水の流るるかたち雁渡し
白菊に喉の渇きを思ひ出す
枇杷の花牛乳揺らしつつ帰る
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ
林開けて向かひあはずに椅子がある

寒蟬:
4句重なりましたね。

信治:
イチオシはどれですか?

寒蟬:
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ
かなあ・・・。毛糸玉をこんな風に詠んだ俳句を知りません。毛糸玉=球体という常識をさわやかに覆してくれました。
三月のひかりに壜の傷あらは
50 句揃えるとなると最初の5句くらいはとても大切です。ここにいい句がないとあとは読んでもらえません。その意味でこの1句目は成功している。まだ春浅いけ れども徐々に強くなっていく日光に、壜の細かい傷が浮かび上がって見えるのですが、それを掬い上げて俳句にする感性は非常に繊細なものです。「あらは」と いう止め方も上手い。
涅槃の日鸚鵡少女の声を出す
涅槃会との取合せに驚いた一句です。鸚鵡が人の声を出すというのは当た り前でしょうが、敢えて「少女の声」と言うことで妙にリアリティーが出て来る。涅槃会というと釈迦の入滅を悲しむ衆生の泣き声とか動物たちの咆哮といった詠まれ方をすることが多いけれど、この鸚鵡の声はちょっとずらしてあって意図が読めないだけに不思議な句となっています。

信治:
三月のひかりに壜の傷あらは
光線、瓶、傷という組み合わせは、ちょっと常識的。なので、この句には全面的に賛成というのではないですが。瓶の色、書いてないけど緑色のような気がするんですよね。「三月」の芽吹きのイメージにひっぱられて、だと思うんですけど、そこが面白かった。あと「傷あらは」に、すこし心理的な思わせぶりがありそうで、このナイーブさは、プラスにカウントしましょう。
雪解川遠くの橋の昏くあり
明るさと音に包まれて、遠くの橋という、小さくて動かないものが「昏い」。
この対比、見え見えと言われればそうかもしれませんが、自分も橋の上にいて、上流の橋を見ているのかな、と思うと、ほんとうにその明るさにあらがうようにして、昏い橋を見つめている本人が、浮かび上がってくる。
蛍烏賊青菜に目玉こぼしをり
あーあ、っていうねw これ、かなり好きですね。
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ
これは、認識の句ですね。こういうのは無季句で作るといいと思うなw
林開けて向かひあはずに椅子がある
椅子が2つあるわけでしょうね。そこを言わないことで、心理的なことを伝えるてるのがいいな、と思いました。

ボキャブラリーが俳句の埒内にあるので、分かりやすく見えますけど、この人の本丸はたぶんかなり理解しにくいような心理的なところにあって、繰り返しにな りますけど、それが抑制されつつ見えている感じが面白い。ヒリっとくる痛みがある。内面的になりすぎないように選ばれたであろう抑制された書き方、モチー フが、心理的なものに力を与えていると思いました。

寒蟬:
傷の少ない50句という感じでした。ただ
鰭の匂ひか南風蔵の中へ入る
という表題の句、「鰭の匂ひ」の表現は面白いけれどどうかなあ。詰め込み過ぎの気がしました。結局「みなみ風蔵の中へと入りにけり」に「鰭の匂ひか」をくっつけただけで、そのくっつけ方があまり成功していないような。

「蛍烏賊」いいですね、私も好きです。「惜春の傘」はやや狙いが見える気もしますが何とも言えぬ陰翳がいい。

信治さんの感想とダブるかもしれないけどこの作者は光と影の両方に惹かれながらもより良い部分は影の方にあるのかもしれないと思ったりします。レンブラントほど強烈ではないが光と影のメリハリを感じました。


4. 青本柚紀 「飛び立つ」

信治選
鳥飼つて二月の空を明るくす
蝶よりも薄く図鑑の頁あり
風船に透けて十指のふかみどり
木の芽風つよし病棟より出れば
鳥なくて鳥の巣に日の真直ぐなり
紫となりて鳩発つ晩夏かな
雪の木に雪を解かさぬ光かな
嘘よりも口は小さし水仙花
鳥の骨春風に満たされてゐる
たとへば刃蛇這ふ音の重さとは
夏川に冷え千層の岩なりき
ふと遠いひとと白鷺と飛び立つ

寒蝉選
鳥飼つて二月の空を明るくす
風船に透けて十指のふかみどり
鳥なくて鳥の巣に日の真直ぐなり
目を閉ぢてをれば眼の浮く五月
夜店てふ小さき牢のごときもの
みちのくの林檎しづかに尖るなり
手の冷えを重ね遠くに巴里のある
嘘よりも口は小さし水仙花
冬の川舌のごとくに夜が来る
四五匹のみんな恋猫みな濡れて
駆け抜けて胸の高さに夏の草
馬を彫る泉につけて来し両手
よく鳴る森木に空蝉の夥き森

信治:
「木の芽風」の句、倒置法によって、明暗の明にはっきりウェイトをかけて、かつ、その明るさの過酷さを暗示している。暗いものの内部にいた自分が明るさにさらされて、今度は自分の内部にその暗さの残響を抱え込んでいる。

他にも「紫と」「嘘よりも」「鳥の骨」「たとへば刃」など、わりと力技でポエジーを説得してしまう剛腕に、魅力を感じました。

寒蟬:
鳥飼つて二月の空を明るくす
50句の始まりとしてまことに明るく余韻に富んだ俳句。これなら句集の巻頭句としても行けそうです。信治さんの「明るさの過酷さ」という把握はすごいなと思いました。二月の痛々しさみたいなものが表面でなく深い所に蔵されているからかもしれませんね。
風船に透けて十指のふかみどり
なるほど風船を透かして見るとその向こうに持っている手の指が映っている、そういう経験はあります。しかしその指を「ふかみどり」と看破した感性は真に鋭い ものがあります。全然そうは思わなかったけれど、こう言われてみればそうかもしれないと思わせる強さがこの表現にはありますね。
たとへば刃蛇這ふ音の重さとは
これは私には成功しているとは思えませんでした。「刃」は鋭いでしょう?蛇の這う音はどちらかといえば鈍い。作者自身も「重さ」と言ってしまっている。これは矛盾ではないでしょうか?
四五匹のみんな恋猫みな濡れて
うまいなあ。「みんな」「みな」のリズム感。恋猫たちのそれぞれの姿態が見えてくるようです。
駆け抜けて胸の高さに夏の草
こう言う句は若い人、それも女性にしかできないんじゃないか。年とると駆け抜けられないんですよ。それに男は「胸の高さ」を感覚よりも理性的に理解しますが女性は感覚的に感じるんだと思うんです。それはひとえに乳房のあるなしによるのかもしれませんね。
馬を彫る泉につけて来し両手
この句には驚きました。彫刻家でもない限りいきなり「馬を彫る」とは言えないでしょう。しかも「泉につけて来し両手」が妙に生々しい。実際にやったことのある人でないと詠めないんじゃないかと思わせる臨場感があります。

信治:
ドスがきいてるんですよねw迫力がある。下五に重心の来る句が多くて、流した言い方をしない。

モチーフも一貫性があって、こう、かたちを与えたいものが、もどかしくありますよね。たとえば簡単にことばを与えしてしまうと、それはこの人だけのものではなくなってしまうような性質のモチーフがある。だから、心理的はものは、苦闘の跡をとどめてもどかしくなる。
鳥飼つて二月の空を明るくす
二月の空はもうだいぶ明るいんじゃないかと思うんだけど、それを意志で明るくすと言わせるのは、なんだか鳥のようなものを抱え込んでしまっている本人の内面の事情でしょう。
風船に透けて十指のふかみどり
これ、風船をわしづかみにしてるんですよね。そして手放せないで、ただ持ってるw この動作から伝わるものがあります。
たとへば刃蛇這ふ音の重さとは
この音の重さは、斬られちゃってるわけじゃないでしょうか、効果音つきで、自分がw
鳥の骨の句と並んで大げさといえば大げさ。でも、ガンガンいけばいいと思う。
夏川に冷え千層の岩なりき
好きな句です。
ふと遠いひとと白鷺と飛び立つ
この不安定なリズム、若い世代の共有財産になりつつある。絶句すれすれで13音目までたどりついて、間白が入るから、飛べるんですね。


6. 上田信治 「塀に載る」

寒蝉選
寒晴のかばんの蓋の磁石鳴る
夜の梅テレビのついてゐるらしく
空はいつもの白い空から花の雨
白きもの食べれば独活や雨の香の
一人は立ち一人はしやがみ梅雨の浜
炎昼に半月がありずつとある
自転車の錆びたベルから秋の蝶
ワイパー二本に軍手引つかけ雲の秋
たてものに秋の公孫樹の影はんぶん

寒蟬:
本人を前に言いにくいんですが、この50句最初の掴みが弱い気がしました。まずぐいと作者の世界に引きずり込む強引なほどの力を感じなかったんです。
寒晴のかばんの蓋の磁石鳴る
ただこの辺になってさりげない日常のさりげない、見逃してしまいそうな事物にこの人はていねいな目を向けているなと感じさせ好感を持つようになります。ここまで来て振り返ると2句目の「濡れた板」も結構面白く思えてきます。
夜の梅テレビのついてゐるらしく
不思議な梅の句です。伝統的な「梅の香」を全く感じさせない。どちらかと言えば視覚からのアプローチですね。梅を視覚から詠むのは大抵昼間です。だって夜は 見えないんだから。それで「夜の梅」と言えば嗅覚の句になってしまうんです。でも作者は「テレビのついてゐるらしく」と言うことでほんのりした明るさを持ち込んだ。これが夜の闇に浮かび上がる梅の白さを感じさせる仕組みです。「らしく」なので本当にテレビがついているのか分からない。ちょっと変わった見立ての句のようになっています。
空はいつもの白い空から花の雨
「空」と言う語の繰り返しが眼目ですね。しつこい、余計だと思うか・・・。現に最初の「空は」を取っても意味は十分通じますから。ただこの「空は」が一句全体をそれこそ空のように包み込んでいると取ると俄然素晴らしい表現に思えてくるんですよ。
白きもの食べれば独活や雨の香の
このレトリックはすごいなあ。「や」で「あ、何かと思ったらこの白いものは独活だったんだ」という驚きを表わしていますし、最後の「雨の香の」と言う付け方、余韻を持たせた終わり方は実に心憎い。
一人は立ち一人はしやがみ梅雨の浜
これ、いいですねえ。よくある風景だし、何も特別な言葉は使っていない。でも立ってる人としゃがんでる人、2人が浜辺で何らかの関係を持って関わり合っていて梅雨の雨が風景全体をけぶらせている、そういう一幅の絵が有無を言わせぬ実在感を以て立ち現われて来るのです。
炎昼に半月がありずつとある
これもよくある風景をちょっと変わった表現で描き直して見せた句ですね。先ほどの「空」の繰り返しや「雨の香の」のダメ押しにも似て「ずつとある」が使われている。意味を伝えるのなら上五中七だけでいい訳ですよ。でも作者は「ずつとある」と言わずにはおられなかった、言いたかった。この措辞によってはかな 消えそうな真昼の半月が永遠に詩の上に定着されたのです。
自転車の錆びたベルから秋の蝶
これはちょっとした驚きを掬い取った俳句らしい俳句。「錆びたベル」がリアリティーを高めています。ただ「錆びた」と「秋の」が付き過ぎかも知れない。
ワイパー二本に軍手引つかけ雲の秋
ありますね、ワイパーに軍手をひっかけてある光景。でも「ワイパーに」でなく敢えて字余りにしてまで「ワイパー二本に」とした細部描写にこの作者のこだわりを感じます。「雲の秋」という聞きなれない下五の表現が細部から一気に大きな空間へと読者を持って行く、そこが見事です。
たてものに秋の公孫樹の影はんぶん
この句の眼目は「はんぶん」でしょうね。「たてもの」という漠然とした、いい加減な表現の後に妙に正確を期したような「影はんぶん」を持ってくる。そのギャップがおかしい。作者は大真面目でも読む側はくすっと笑ってしまうんです。

信治:
ていねいに読んでいただき、本当にありがとうございます。

角川「俳句」掲載の作品も含めて、候補作を読ませていただいて、思ったんですけど、50句を通じて、その人のやっていることの文脈が伝わるかどうかということは、重要だなと。
自動車はシンメトリーで冬の海
日のひらめく海の若布を食べにけり
空はいつもの白い空から花の雨
著莪の花つめたいペットボトルかな
ねぢ花を見てゐる顔や空の雲
芋虫のまはりを山の日が透きつ
今回の50句で、僕が勝負に行ってるのって、このあたりの句なんですけど、必ずしもwそれは伝わってないんだろうなと。そういう意味での、力不足だなと。

読む側あるいは選ぶ側としては、今、俳句を、作家それぞれのコンテクスト抜きで読んで評価しようとしたら、単なる技術的評価か好みの押しつけになる。技術と好みだけでは、こういう賞のような共通領域としての俳句の場を成立させることが、できないんじゃないか。

一句一句ではなく、作家と出会うためには、句会とは違った「読み」筋が必要なのではないかと感じます。

寒蟬:
それは賞というものをどう位置付けるかでしょう。

角川俳句賞はいちおう新人賞的な位置づけらしいので一番は作者の将来性を見るのでしょうが、それが言葉ほどたやすくはないのですね。だって「こいつは将来性がある」って、仮令50句並べたからってどこまで分かりますか?

私はやはりまず1句1句をきちんと読んでいって、そこから立ち上る作者の世界観みたいなものを感じ取り、それを評価するしかないと思います。

例えばすごくまとまったかっちりした世界を提示する人もいるでしょう。反対にどっち向いてるのかわからないような、でも1句1句は面白いという独特の世界を見せてくれる人もいるかもしれない。それはどちらがいいとかどちらを勝ちとするかでなく、或るときは甲をよしとし、或る時は乙を、その判断基準はある程度相対的なもの、言ってしまえば「作者による」ものではないか。曖昧かもしれませんがそう言う他ない気がします。

それに作者の意図なんてそのまま読者に伝わる筈もないので・・・。

例えば信治さんが挙げた
自動車はシンメトリーで冬の海
日のひらめく海の若布を食べにけり
空はいつもの白い空から花の雨
著莪の花つめたいペットボトルかな
ねぢ花を見てゐる顔や空の雲
芋虫のまはりを山の日が透きつ
ですが、これらは必ずしも私にとって50句の中で光っている句ではありませんでした。自転車の句は「可愛くない子供で春の夕焼で」にも使われている「で」という語の使い方に違和感を感じましたし、「日のひらめく」はこの作者のいい部分とは感じられなかった。

この中ではすでに述べたように「空は」が圧倒的にいい。そうしてこの句の差す方向は「雨の香の」とか「ずつとある」と共通しているという私の考えは変わりません。

信治:
ぼくは実は、新人賞は、将来性を見るものでも、達成度を見るものでもないと思っているのですが。ま、そこは長くなるかもなので、後編にとっておきましょう。

寒蟬:
新人賞に対する信治さんのご意見をぜひ後半にでも聴かせていただきたい所です。私もいちおう新人賞(本来50歳未満のはずなのに諸事情でいただいた芸術選奨文部科学大臣新人賞というやつ)を戴いたばかりなので、自分の中でこの「新人」の意味をどう考えようか悩んでいましたから。

信治さんの 50句は各句の観賞の部分でも触れましたが「ダメ押し」感が際立っている気がします。そこが作者の行きたい方向かなと思った訳です。デフォルメされた細かさというかしつこいくらいの細部表現。そうは言っても所謂写生の細かさとは違って、画家がモデルを別の角度から見て筆を足すような、やっぱり「ダメ押し」 というのが一番近い。
さっき違和感を感じたと言った「・・・で・・・で」という表現もそこから生まれて来る訳ですよ。

でもこういう所を追求して成功するととても面白い世界が開ける気がします。「空は」の句なんかはそういう面白さを垣間見せてくれてるんじゃないかな。

信治:
五七五は言葉のはめっこになりがちなので、意味的にも言葉的にも、過不足なくはめるのではなく、わざときれいに収まらないようにはめるということを考えています。その結果としてのだめ押し感、たしかにそうかもしれません。

ていねいに読んでいただき、感じ入りました。
ありがとうございます。


7. 大塚 凱 「鳥を描く」

信治選
冬晴の赤い実があり怪しい実
冬帽のてつぺんどうしても余る
受験子が駅のおほきな風に立つ
冷蔵庫ひらき渚に立つこころ
割箸にくれなゐ残る子規忌かな
鶏頭の襞の深きを蟻が這ふ
おでん屋のテレビの中を兵歩む
小雨ならコートに光る逢ひにゆかう

寒蝉選
太陽はもはや熟れごろ初詣
冬帽のてつぺんどうしても余る
残雪の厚みの辞書を父より享く
いもうとをのどかな水瓶と思ふ
パンジーも選挙事務所も消えてゐる
何の木と知らねど夕焼に似合ふ
眼は次の草を見てゐて草むしり
水に影おとさぬ高さ鬼やんま
おでん屋のテレビの中を兵歩む
古暦つまり風葬ではないか
しんしんと大つごもりの油濾す
夢の島除夜のおほきな闇が来る

寒蟬:
一番安定している感じがした、というか安心して読めた50句でした。まんべんなくいい句が配してある。いやそうじゃなくて意図的でなくとも結果的にいい句が散りばめられる形になる、ということは実力があるのでしょうね。

最初にぐっと惹きつけておいて中弛みもなく最後もきちっと締められれば50句としては大成功ですから。

信治:
オーソドックスな感情入りの叙景と、そこに一つジャンプを飛躍を入れで書く、という、二つのメソッドで、書かれている、と見ました。

オーソドックスなほうは、着眼とか感情がすごく普通。「受験子が」とか。

飛躍のあるもののほうが、ぼくは楽しい。そのジャンプによって、書かれる前には気づかれていなかった感情に到達したよう見えるものもあった。「冷蔵庫ひらき」とかw

書く前から分かってたところに着地するタイプの句が多く見えたのは、「賞」に出す作品だからかもしれませんね。

ちょっと首肯しがたい行き方の句もあって。
太陽はもはや熟れごろ初詣
残雪の厚みの辞書を父より享く
「もはや熟れごろ」「残雪の厚み」は、単なる言い方ではないか。こういうのはなんとなく信用できないw

寒蟬:
「太陽は」「残雪の厚み」は技巧に走り過ぎたきらいがあるので胡散臭さが拭えないという向きもあるかもしれませんね。私はこういうレトリックもありだと思いました。

ただ
母の日の父と来てゐる楡のかげ
はないなあ。狙いが見え透いてしまう。
不平等なからだと紺の水着かな
の「不平等な」も才に走り過ぎた感がある。

信治:
寒蝉さんの評価されたポイントは、どのあたりですか?

寒蟬:
一方で「太陽は」とか「いもうとを」のような意表を突いた才気煥発さを示しながらも、冬帽子のたしかに余ってしまいがちな天辺に気付いたり、パンジーは花時が終わることによって、選挙事務所は選挙が終了したことによって消えてしまうという、そういうありふれた日常の中の「おっ?」と思う出来事にちゃんと注目して一句に仕立てる力量がある作者だなと感心したわけです。

信治:
ここで寒蝉さんの言われる「日常」は、人間の生活意識で見る世界、ということですよね。人間の平常運転の世界。

それは、禅僧が太い字で「日々」と書くような人間の究極層としてのそれとは対極にある、なんというか、ベタな日常意識。そういう人間の普通の感情に詩を見出すっていう行き方もたしかにありますよね。たしかに、ありなんですよ。
受験子が駅のおほきな風に立つ
単なる「共感」のやりとりのレベルで書かれ読まれて消費されてしまうのではないか、という危惧もあるのですが、でも、このちょっとしたやさしさには、ちょっと奥行き感がある。
割箸にくれなゐ残る子規忌かな
あんまりいい割り箸じゃない。でも、健啖のかなしき子規の忌であれば、供養と思って美味しく食べてやろうという。ちょっと構図にはめたおもむきもありますが、いい句ですよね。

寒蟬:
「人間の生活意識で見る世界」そうです、そうです。詩なんかなさそうなところに詩を見出すのが俳のこころなんじゃないかと常々思っているのでこういう書き方になってしまいました。

受験子の句は風を「おほきな」と感じたところに眼目があるのでしょう。その一点においてのみ日常から少しはみ出ている。

割箸の句は何か(例えば紅生姜)をつかんだ時の紅色が箸に残っていると気付く、その「おっ?」という感じを掴み取ったところが手柄。ただし紅=赤から喀血した子規につなげるのはちょっとイージーかな。

冷蔵庫の句は最後の「こころ」が要らないなあ。

信治:
今回、作品を寄せてくれている、青本姉妹、大塚、堀下、宮﨑さんは同学年で、寒蝉さんも所属している「群青」のメンバーですよね。僕は、彼らのこれからをとても楽しみにしています。

彼らはいわゆる「石田郷子ライン」的限界(という話を最近また蒸し返しているのですが)の内にいることを、拒否しようとしているのではないか。それは、角川俳句賞的には、取りにくくなるほうへダッシュで駆け出すような方向性なんですが。大塚さんのこの50句は、多少、賞というものに対する気づかいがあるような気がする。

でも、
冬晴の赤い実があり怪しい実
冷蔵庫ひらき渚に立つこころ
小雨ならコートに光る逢ひにゆかう
といった句にあらわれる、語操作の恣意性とでも言うべきもの、わがままな書きぶりに、僕は、今後何年か分の、俳句の可能性を感じます。

寒蟬:
信治さんの言った「賞というものに対する気づかい」は「角川俳句賞の応募作なんだからいい句を揃えてやろう」という気概でしょうか。まあ応募するからには皆そういうものは抱いている訳ですが、信治さんの言いたいのは「敢えて自分の行きたい方向性を曲げてでも」という意が籠められているのでしょうか?私自身、他の人の作品と比べて確かにこの作者は実力があるんだからもっと冒険してもいいのでは?という感じがしないでもなかった。

若い人にはまずは自分の俳句でできる最上と思われる世界を構築することに全力を傾けよ、と言いたい。その上でそれが賞を取れれば素晴らしいこと。取れなくても自分がやりたいこと、表現したい世界が書ききれていればそれでいいいじゃないか。私は句会でもそういう気持ちで投句していますので・・・。角川俳句賞に応募した時は その気持ちにぶれはありませんでした。


14. 仮屋賢一 「鷲掴む」

信治選
新緑や鬣かたきチェスの馬
小道具のパンはほんもの聖夜劇
勝独楽の立ちたるままを鷲掴む
万札の上に銭投げ残り福
春の日や吊りて仕舞へる一輪車
花水木けふは午後よりはじまる日

信治:
これらは、句意がよく分かる、誰にも異存はなかろうという句。

物を、感覚情報の提示によって、はいこれ、と見せる。「鬣固き」とか「パンは本物」とか。で、それは同時に、人間の関わる場面だったりするので、そこで「感じるべき内容」も明確。

どこも悪いところがない。というのは、1の青木さんや7の大塚さんの句からも感じたことです。ただ、もともと打率の上がりやすい作り方なんだから、こういう書き方なら百発百中であってほしいという気もします。

百発百中が実現すると、その先に、誰も書かなかったような句とか、自分も二度と書けないような句が、ぼんぼん出るようになるんじゃないかと。そこからが書き手としての勝負かな、と。

寒蟬:
10作には入れていませんが、取った句は
新緑や鬣かたきチェスの馬
大学の鬼門に実家天の河
セスナ機も花野もおなじ風のなか
終ひには紐いきいきと猿まはし
春の日や吊りて仕舞へる一輪車
水性の朧油性の朧かな
あのー、ちょっと厳しいこと書きますけど、例えば
方違して竹馬を片付けり
古暦すこし汚してより捨てり
人日のニュースは人を呼び捨てり
「片付く」「捨つ」を他動詞として使う時は下二段活用ですから、持続・完了の助動詞「り」は四段活用の命令形とサ変の未然形にしか付かない訳ですよ、絶対に。だからこれらの句は文法的に間違っている。

賞に応募する時やっちゃいけないこと、そりゃ剽窃は論外として文法の間違いと仮名遣い、漢字の間違いです。そこをクリアしていない作品を読む必要はない。時間がもったいないですから。

信治:
そうか。片付けり、捨てり、は、まずいですね。

なんとなく表現の収まりが悪いなと思ったら、「俳句検索」 のページで、言い回しを検索してみたりするといいですよ。作例がなかったり、少なすぎる言い方はあやしい。 

寒蟬:
それと、表題になっている
勝独楽の立ちたるままを鷲掴む
ですが「鷲掴みにする」とは言うけれど「鷲掴む」という動詞はあるのか?「夕焼くる」という表現ですら、有名な俳人が何人も使っているにも拘らず認めないとおっしゃっている俳人もいる。況してや「鷲掴む」はダメでしょう。

信治:
鷲掴む も、たしかにまずいか。鷲づかみにする、とか、鷲づかみに掴む、という言い方ができるわけですからね。これは、選んで申し訳なかった。

でも、この句の語勢はとてもいいので、なんとか推敲してものにしてほしいです。


15. 北川美美 「梅日和」

寒蟬選
隣人に挨拶をする梅日和
春風や拳は素手で作るもの
野を焼いて水を飲み合う男たち
昼つづく昼の麦酒を開けおれば
隕石を重し重しと十三夜
駅伝のテレビに映る近所かな
初場所のひかりをはなつ水と塩
駅伝のテレビに映る近所かな
初場所のひかりをはなつ水と塩
夏の馬川がひとつになるところ

寒蟬:
隣人に挨拶をする梅日和
いきなり表題の句を持って来た。題をどうするか?というのは結構大切だと思うんです。それが代表句であろうとなかろうと、いわば50句の顔になるのですか ら。その意味でこの第1句はよかった。気負っていなくて、他人への優しさもあって、これから始まる作者の俳句世界への誘いの句になっている。
春風や拳は素手で作るもの
「拳」という堅そうな怖そうなものと「春風」という柔らかく優しそうなものとの取合せ。俳句らしいと言えば言えるけれど、あまりわざとらしさを感じない、それは「拳は素手で作る」というアホらしいほど当たり前のことを言挙げされて、そっちに意識が行ってしまうからなんでしょう。
野を焼いて水を飲み合う男たち
これ、いいですね。野焼の光景が活写されている。野焼というイベントは確かに男のするものかもしれない。火の熱と流した汗のために喉が渇いて水をがぶがぶ呑む男たち。「飲み合う」という表現の中に連帯感を感じます。

信治:
隣人に挨拶をする梅日和
この句は、「隣人」という言葉があまりに概念的で悩みました。。わざと日常意識の雑さみたいなものを、無造作なざらっとした言い方で表しているのかなあ、と。 日用雑器のよさというか。「暖房や硝子に映る我等あり」「怪我をした男に運ぶ氷水」なんて句もあって、氷水はかき氷なんで、季語じゃないんですけど、
春風や拳は素手で作るもの
舟底より水面は高し燕子花
当たり前のこと言ってるシリーズ。でも、かすかな発見はある。
拳にしても、素手は素手だし。(虚子の「闘志抱きて」や、敏雄の「義歯確に」をふまえてるんでしょうね)。

乗っている自分たちの重さで(とは書いてないけどそうだと思う)舟底がさらにすこし低くなっていて、水面よりすこし自分の尻が低いという実感。
歩き来て足が真つ赤ぞ鳥曇
鉄橋や高きを揺れる山の藤
夏の馬川がひとつになるところ
いいですね。世界が安定してて。

予選でそんなにたくさん○をつけたわけではないんですけど、いただいた句は、味があるなと、思いました。

寒蟬:
いや、「隣人」でそんなに悩む必要はないのでは?もちろん「汝の隣人を愛せ」というイエスの言葉にあるような使い方もあるのですがこの場合は普通に「お隣のおばさん」くらいでいいのでは?

信治:
考えすぎでしょうか。僕は俳句で「隣人」てすごく使いにくいです。怪人と同じくらい使いにくいw

寒蟬:
頭を上げて啼く鳥を見る春の昼
この「頭」、「づ」と読ませるのかな。それはやめてほしい。字余りでいいから「あたま」と読ませてほしいなあ。

「舟底より」の句、私もいいと思いました。でも「燕子花」を付けられると「ああ、潮来の水郷巡りね」とオチが付いてしまってつまらない。


(後編につづく)