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2016-10-23

【落選展2015を読む】 (2)「塔」から「一睡」まで ……仲寒蟬 × 上田信治

【落選展2015を読む】
(2)「塔」から「一睡」まで

仲寒蟬 × 上田信治




19. 折勝家鴨 「塔」 予選通過作品

信治選
 冬立つやひとりひとつの顕微鏡
 臘梅や水を掃きたる竹箒 
 理科室の棚に鍵あり梅の花
 鳥雲に入る半地下の文芸部
 紙折つて塔の立つなり夏はじめ 
 足首の無防備にある泉かな 
 蟬時雨腕立て伏せの胴長し
 星と星引つ張り合ひて涼しさよ
 虫の夜や遅れて消ゆる車内灯 

寒蝉選
 冬立つやひとりひとつの顕微鏡
 寒柝の耳にイヤホンありにけり
 蝋梅や水を掃きたる竹箒 
 紙折つて塔の立つなり夏はじめ 
 足首の無防備にある泉かな 
 虫の夜や遅れて消ゆる車内灯 
 雁渡し本棚本と共に古る

*「俳句」2015年11月号掲載句

信治:
取合わせのメソッドに「忠実」と言ってよいほどに、手堅く書かれています。人間的な一シーンが、スナップ的に切り取られていて、そこに季語が取り合わされている。

でも、蝋梅と竹ぼうきくらい、計いの見えにくい取合わせの方が面白いのになーと、思わないでもないです。

寒蟬:
7句しか取ってないのに信治さんと5句まで一致するとは!

実は今回論じる中では一番評価の低かった作品なんです。☓をつけたのは「雪解や轍やくかいにして愉快」「丸まつて眠る地球や栗の花」くらいなのですが余り面白いと思った句がなかった。

選んだ7句にしても寒柝の人がイヤホンしてるとか車内灯が遅れて消えるという発見はそれなりに面白いけれど「おおっ」という感じではない。

信治:
きびしいですね。

「車内灯」の句、車内はさっきまで自分がいた場所で、虫の夜は、いま自分が包まれている空間、という対比がいいです。車はそこにとり残されたように、いっしゅん遅れて車内灯が消え、そして、自分はこれからすこし歩く。という時間の幅に対する意識もあって、僕はこれは好きな句でした。

寒蟬:
顕微鏡の句は研究室か何かでしょうか、視点がちょっと新鮮でした。題名になった「塔」の句もいい句です。足首の無防備は既視感があるなあ。

出だしの2句が大雑把すぎて入って行くのがためらわれました。顕微鏡が1句目でもよかったのに。

信治:
二物衝撃は、無意識をひっぱりだすための手法だと思いますが、意識の範疇でつきすじが見えてしまう句については、ぼくも不満です。銀河→子守唄、水仙→頭痛とかですね。

でも、取り合わせの前提として、現実を12音で切り出す視線に、どこ見てんのこの人っていう面白さがあって。

顕微鏡がいっぱいとか、半地下の部室とか。あとは折紙の塔とか。それだけで面白いですよね。

 理科室の棚に鍵あり梅の花

この梅の花の、審美的じゃないかんじ、好きですね。
窓には白いカーテン。

 鳥雲に入る半地下の文芸部

上昇/下降という対比は見えやすいところですが、憧れをもっぱらとする文芸部が、地面にめり込んで(脳内で)空を見上げていると思うと、おかしいです。

 紙折つて塔の立つなり夏はじめ

紙と夏はじめは、かなり近いですけど、これはきれいさを狙った句なのでOKです。とうぜん初夏の風と光線を受けて、ちょっとピカピカするわけです。

 蟬時雨腕立て伏せの胴長し

あはは。この蟬時雨も、梅の花とおなじくらいいいな。夏休みで畳、ってことですか。

寒蟬:
ああ、なるほど。信治さんの読みを聞いて思ったのですが「半地下」の句は面白いかもしれません。

ただ選ばなかった句が大きな瑕はなくとも惹かれもしなかった。日常の細かい所を描写する力はあるんだけれど、そこから飛躍する時に力不足というか、うまく行ってない印象でした。


20. 高梨 章 「明るい部屋」

寒蝉選
 飯食ひながら夕焼のことばかり
 蝿がきてそのまま奥に消えにけり
 夜濯や母の手くびの輪ゴム跡
 がまぐちの口金ゆるし緑の夜
 目刺くふ子もくはぬ子もきて坐る
 靴下をはき靴をはき初氷
 一気にファスナーひきおろすやうに鵙啼けり
 うろこぐもうまくつまめぬオブラート
 山の名もわからぬままに冬の山
 鳥帰る屑籠に屑しづかなり

信治選
 春の月ぐいとキヤベツの葉を剥がす
 蝿がきてそのまま奥に消えにけり
 靴先を内側に向けしやぼん玉
 ずるいなあと母のつぶやく春の山
 口あけてはるばる春のしじみ汁
 鳥帰る屑籠に屑しづかなり


信治:
全体に、自由に読もうとされていることに、好感を持ちました。

 春の月ぐいとキヤベツの葉を剥がす

中七下五は、100%のフレーズではないんですが、春の月がおもしろい。
50句ラストの「透明な夏のいちにち非常口」も、上五中七はともかく「非常口」がかなりいい。

 靴先を内側に向けしやぼん玉

なにか、この人のおもしろさの核みたいなものは、既につかまれていて、
こういう句には、わかりやすく、それがあらわれるんだろうなという印象。

 ずるいなあと母のつぶやく春の山

この句はすごくいいですね。お母さんの心には、なにが通りすぎたんでしょうか。

春の山が、母にとっての過去と現在の(同時にそれがただあることの)象徴のようにも見える。それは、語り手にとってもまた、思い出であり、同時になまなまとただある現実としての母の象徴のように見える。

 口あけてはるばる春のしじみ汁

この「はるばる」は、はるばると来つるものかな、という感慨だと思うんですけど、そう読むと「口あけて」が、口開けたままはるばる来たように読める。ちょっと置き方、むずかしいなという。

寒蟬:
しかし、俳句賞の応募作としては失敗していると言わざるをえないところがある。

たとえば6句目、8,9,12句目に母が出てくるけれども最初の母

 夜濯や母の手くびの輪ゴム跡

が生きて活動している母なのに

 あれは母ではなく冬の夕焼
 母からこぼるるこなごなの枯葉よ

ではだんだん抽象的な存在になって行く。

 床下に夕焼さはぐと母のいふ

となると夕焼自体が主題のようで、しかも現実の夕焼ではないようで、よく分らない世界。季節も夏からいきなり冬に飛ぶ。その後また夏に戻る。もうめちゃくちゃ。

でも嫌いかというと嫌いじゃないんです。必ずしも成功していないけれども何かやってやろうという感じがする。

独特の世界観、感性を持った人だと感じました。

信治:
そうですねえ……。

これ、誤解される言い方になるかもしれませんが、賞は別にもう受賞しなくても、それはそれで。仮のハードルでもいいような気がするんですよ、その一年の自分の最高到達点を可視化し実現するためには、棒高跳びのハードルを棒なしで越えるくらいの気持ちの設定が必要な気がして。

そんなことを言ってるから、ぼくも予選すら通過しないのかもしれないですけどw

22. 堀下 翔 「鯉の息」

信治選
 夏が始まる羊羹のつまやうじ
 また中へ戻るはちすのうへの蠅
 柿の花石白く水湧きにけり
 日時計の石痩せにけり秋燕
 胡桃割るとき実の中をとほる音
 空腹を木の葉の降りしきる日かな
 侘助や本棚見えて教授棟
 いくたびか氷りてしはしはとなりぬ
 切株の根にたんぽゝの短き首
 こひいつもその日のことの燕かな
 パンジーの黄やうらがはにその黄透く
 林が疎まつすぐ行けば水芭蕉
 深秋やさうかと思ふ竹林
 散らばつてゆく春雲に空が出る
 春を唄へば浅草の筈である

寒蝉選

 濠めぐる大きな水よ夏薊
 夏が始まる羊羹のつまやうじ
 エアコンをとりつけて目を動かして
 葉をきはめたる尺蠖のをどりかな
 胡桃割るとき実の中をとほる音
 裸木の分厚くめくれたるところ
 蟻穴を出てすぐ横にちがふ穴
 春を唄へば浅草の筈である
 パンジーの黄やうらがはにその黄透く
 紙は日に焼けその春の惜しまるゝ

寒蟬:
かなり大胆で冒険的なスタートだと思いました。

1句目の「麦が笛になる」とか3句目の「池のをはりは流れ出す」など日本語の文法の範囲ギリギリのところですごくアクロバティックなことをやっている。

そう言う意味では私の取った句はこの50句の中ではやや常識的な部類に入ってしまうかもしれません。
この行き方、最初の方では成功していますが、

 峰雲のつゞきの空ぢやないかなあ

という口語が突然出て来たり

 別巻を欠き観月に出でにけり

みたいに省略が利きすぎて作者の意図を途中で追えなくなるような句に出会うとちょっと首をかしげてしまいます。

信治:
堀下さんのはじめの3句は、ふつうに失敗しているのでは?

「肉声の」は、前半後半の内容がジャマしあってるような気がします。「濠」をめぐる大きな水というのは、二重の濠を想定してる? そうでなかったら流れるプールのように、水が濠の中を回っていることになる。三句目は、人工の「噴水池」が人工の川につながっている?

ぼくも、自分の句では、最近、わざと日本語として失敗するということをするのですが、そういうのとも、ちょっと違うのかな。

寒蟬:
いや、「濠めぐる大きな水」はイコール濠の中の水なんですよ。大きな水のかたまりが濠という容れ物の中を廻っていると、そういう把握ではないでしょうか。「噴水の池のをはり」は噴水の水をためておく池から水が溢れ出している様でしょう。

確かにちょっとまだるっこしい表現で、これらが最初に置かれると読んでいる側はイラッとするかもしれませんね。その意味では並べ方が下手だ。こういう句は真ん中辺の読者の読むスピードが定まってきたあたりに置いた方がいい。

信治:

 エアコンをとりつけて目を動かして

これは「いい失敗」かも。
一読して、行為の主体が自分か他人か特定しづらくて、でも、エアコンてあんまり自分でつけないから、他人か、と。でも目を動かすのって、じつは内的な感覚じゃないですか。そこのズレが気持ち悪い。

でも、主観とか視点が浮遊するこの気持ち悪さは、写生の眼というものの非人間性と通じるものかも知れず、まぐれあたりかもしれませんが、読み直すと、いちばん好きかも、となってしまいました。

噴水の句は「をはり」が引っかかるんですよね。あと、噴水池から、水があふれるかなあ・・・。あとお濠の水は、めぐりますかねえ。「城めぐる」ですよね、ほんとは。

いや、ぼくは、言い損なって面白くなることには賛成で、作者もここで、勝負してきてると思うんですよね。

ただ語の結合をあいまいにゆるく取っただけの書き方は、ただの失敗におちいりがちなので、もうちょっとこう上手く転ばないとw と思うんです。

寒蟬:
実は「エアコン」の句、気になっていたんですが最初はここから外していました。見直して「やっぱり入れておこう」と(笑)。エアコンをこんな風に詠んだ俳句ってないでしょう?しかも取り付けて、その取り付けた人が「目を動かして」いる。何なんだ、これは??当たり前と言えば言えるが意図のない馬鹿馬鹿しさというか・・・。この一句だけポンと置かれていたら私は信治さんの句かな?と思ったかもしれません(笑)。

私は「濠めぐる」は「大きな水」の把握が大づかみで好きでした。でも他の2句は失敗ですね。だから50句としては損をしちゃってる。

信治:

 夏が始まる羊羹のつまやうじ

この抒情性、すばらしい。オブジェとしてきれいだし。

 また中へ戻るはちすのうへの蠅

すごくくだらないことを、キレイな韻律で歌ってたり。

柿の花石白く水湧きにけり

三段切れの間の空白が、自然観照的うっとり感に通じてる。いい。純粋の自然詠で、言葉であたらしいことをやって成立させてるという行き方、いいですよね。攻めてる。

 侘助や本棚見えて教授棟

いい構図。広くてきもちいい。つつましい花と老(?)教授を響かせている。

寒蟬:
つまようじの句はとてもいい。信治さんの意見に賛成です。
蠅の句の馬鹿馬鹿しさはどこか「鳥の巣に鳥が入つてゆくところ」に近いものがある。とても面白い句だと思いました。気合の入った(縦令失敗していようと)句の後にこういうふっと気の抜ける句を持ってくる配置の仕方はいい。

蟻穴を出てすぐ横にちがふ穴

これは「はちすのうへの蠅」に近い馬鹿馬鹿しさ、そんなことわざわざ俳句で言うか?と突っ込みたくなる面白さがあります。

春を唄へば浅草の筈である

この強引な断定。嫌な人は嫌と思うでしょうね。そういう反対意見をものともしない勇猛果敢さ、その意味ではすごく若さを感じさせる句です。「上手いなあ」と思わせる種類の俳句とは全く違った行き方、私にはこの辺にこの作者の将来性を見た気がします。

パンジーの黄やうらがはにその黄透く

これはどちらかと言えば「上手いなあ」という類。まず観察が緻密、皆が見ているはずの光景を皆が見ているのとは違う方向から描いてみせる。「や」を持ってくるところとか「その」の使い方とか、テクニシャンですね。

紙は日に焼けその春の惜しまるゝ

惜春の句として、50句の最後を飾る句としてなかなかいいんじゃないでしょうか。「その春」に籠められた余韻、作者はどんな春を送ったのだろうと想像が膨らみます。ただ直前のパンジーの句にも「その」があるので、ちょっと違う使い方と言うことを割り引いても気にはなりますね。

信治:
春を唄へば浅草の筈である」これ、かわいいですね。浅草オペラかw
レトロにもほどがあるw

2015年、堀下さん他こちらで読ませていただいた若手数人は、予選通過してもぜんぜんOKだったと思いますけどね。小野あらた、青木ともじ、青本瑞季と、三人通過しているので「学生枠」的配慮もあったと思います。

ただ、堀下さんでいえば「肉声の」「峰雲の」のような、埒を踏み出ようという句があって、それが疵とみなされただろうという気はする(予選通過の人たちが攻めてないというわけでは、もちろんないですが)。

寒蟬:
かなりの冒険作、野心作と見ましたが必ずしも成功していない。大いに暴れるのはいいのです。ただ勝負に出た句が必ずしも成功していないのが残念。


27. 利普苑るな 「否」

信治選

 漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな
 母の日やベンチに並ぶ松ぼくり
 盆波の犇いてゐる板の下
 用水路跨ぎ花野に入りにけり
 てのひらに硬き切符や冬ぬくし
 春落葉日当るものはくれなゐに
 少年のまなじり赤し磯巾着


寒蝉選

 漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな
 母の日やベンチに並ぶ松ぼくり
 木犀やわれ亡きあとの太陽系
 用水路跨ぎ花野に入りにけり
 和紙にある草のぬくみや時雨来ぬ
 流氷より戻りし人に灯せり
 抱き戻りけり朧より出し猫
 死神に否と応へし春の夢

信治:
利普苑さん、今年、亡くなられたんですよね。
闘病のあったことを感じさせる句はありましたが、まだお若いので驚きました。

寒蟬:
FBの友達でしたが亡くなったという発表が御主人からあって、本当に驚きました。長い間G(癌のことを彼女こう書いてました)と闘っておられたようですが。今から思えば

 熱帯夜病棟に棲む黄泉神
 木犀やわれ亡きあとの太陽系
 花野道死は弾丸となりて来る
 白線の向かう黄泉らし蚯蚓鳴く
 死神に否と応へし春の夢

などは死を予感して、或いは死と向き合っている毎日だからこそ作れたのかなと。

信治:

 漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな

川筋に沿って漕ぐかぎり、川岸が長いのはあたりまえなんですが、でもふしぎな実感があります。漕ぎ出したら、長い川岸の長さに、かすかな感情のざわめきを感じながらこぎ続けなければいけない。「薄暑」が祝福であり、救いであり。いい句だな。

 用水路跨ぎ花野に入りにけり

花野は異界なので、結界があるという発想はあるとは思いますが、用水路跨ぎ、というこのざっかけなさに好感。

 春落葉日当るものはくれなゐに

これは、夕日ってことですよね。春で、落葉で、没日で、それはあかあかと、はかなく美しかったと。

 少年のまなじり赤し磯巾着

ちょっとエッチでいいですね。

闘病を感じさせる句については、この作者の自分へのはげましだったろうと思います。
それでいいんだろうと。


28. 小池康生 「一睡」

信治選
 閉館のキネマの隣布団干す
 海に浮くごとくに聴いて除夜の鐘
 外出はせぬがよそゆき大旦
 地の雪と五重塔に載る雪と
 マフラーに普段着のありそればかり
 花水木住めば覚える人の顔
 たけのこの白きところに値の書かれ
 我ながら大きな文字や夏見舞
 黒南風や五人で守る草野球
 釣り人を離れぬ鷺や秋の昼  

寒蝉選
 閉館のキネマの隣布団干す
 男湯と女湯代はる去年今年
 お水取り巨きな夜を燃やしけり
 啓蟄の秘仏の腹のレントゲン
 青空を眺めに出掛け落第す
 鳥交る片方だけが無表情     
 苗札のなきものばかり咲きにけり
 たけのこの白きところに値の書かれ  
 台詞なき場面のつづく涼しさよ
 バナナ剥く北に東に南西に
 唐辛子売るや辛さを詫びながら

寒蟬:
ちょっとレトロな感じのこの作者の示す世界が割と好きでした。

 閉館のキネマの隣布団干す

こういう場末の映画館、今はあまり見かけなくなりました。「キネマ」という表現も古いけれどそれが閉館しちゃっている、その横では時代の流れと関わりなく「布団干す」庶民の生活が続いている。

 男湯と女湯代はる去年今年

ありますよね、午前零時になったら男湯と女湯が入れ替わる温泉。それが大晦日と正月であっても普段と同じように続けられているという発見。「色々あるけど時間は流れて行くんだよ」という感じです。

 お水取り巨きな夜を燃やしけり

お水取りは火の祭、私は見に行ったのが幼い頃だったのであまり覚えていませんが「巨きな夜」との把握にはしっかりと見てきたものの強みを感じます。

 啓蟄の秘仏の腹のレントゲン

秘仏の胎内をレントゲンで探るという技術。啓蟄との取合せが面白かった。

 青空を眺めに出掛け落第す

これも落第という人生の一大事に関わりなく青空は常にあるとの思いがベースにある。ただこう書くと「青空を眺めに出掛け」たという能天気な行為が落第を招いたようで面白い。それでもいいじゃないか、と言っているようで。

 鳥交る片方だけが無表情

本当なのかな、でも本当かも知れないなと思わせる。つい人間同士の行為になぞらえてしまうからなのでしょうね。

 苗札のなきものばかり咲きにけり
 たけのこの白きところに値の書かれ

いい所に目を付けたなという句です。これまで挙げた句のような時間の流れはあまり感じさせませんが 箸休めとしてはいい。

 台詞なき場面のつづく涼しさよ

ああ、この人はこういう場面から涼しさを感じ取るんだなと。この感性は作者の時間に対する「仕方ないじゃん」という思いと無縁ではないでしょう。

 バナナ剥く北に東に南西に

いいなあ。何だか馬鹿馬鹿しいことに夢中になっているいい歳したおじさん的で、好きですね。

 唐辛子売るや辛さを詫びながら

詫びているのは唐辛子売りなんだけど作者も唐辛子売りに共感していて決して腹立てたりはしていない。いいよ、いいよ、仕方ないよ、この優しさのトーンが全体を覆っていると思うのです。

信治:

 閉館のキネマの隣布団干す

これは、こてこてですねw。かつての昭和モダンが失われて、庶民の町の素地が露呈している。日当たりがいいのが救いで、この国の青春時代を思いながら、老化した町がいねむりをしている、という景。「隣」は、リアルというより、すこし簡単すぎる気もしましたが。

 海に浮くごとくに聴いて除夜の鐘

なかった比喩ではないかもしれないけれど、除夜の鐘をきくのに、波の間に間にたゆたってるような気持ち、暗いような、あの世のような気持ちになっているというのは、とても、よくないですか。渚男の「船」の句を思い出したりもして。

 外出はせぬがよそゆき大旦

一転、日常としての正月風景。寒蟬さんの選んだ「男湯と」の句にも通じるところがあります。
ぼくの父はこういう人でした。

 地の雪と五重塔に載る雪と
 たけのこの白きところに値の書かれ   

写生あるある。どうでもいいことを言いがち。些事が言葉になっていくときの、なんというんでしょう、無差別、無分別の楽しみがある。タケノコの皮に、白っぽいところと毛の生えてるところがあるということですねw

五重塔の句は、視点、空にあると思いましたけど、むしろ下からですかね。

 マフラーに普段着のありそればかり 
 花水木住めば覚える人の顔
 我ながら大きな文字や夏見舞     
 黒南風や五人で守る草野球        

人間にいちばん興味がある。それも、日々の、ふつうの精神状態の人に。それがこの50句、というより、小池さんのいちばんの特徴だと思います。

 釣り人を離れぬ鷺や秋の昼      

この鷺のひとなつっこさには、微量の謎があって。お魚もらえるのかしら、とも思いますが、意味もなく近くにいるというほうがいいな。

寒蟬:
久し振りに読み返してみたら信治さんの取った

 外出はせぬがよそゆき大旦
 地の雪と五重塔に載る雪と

ものすごくいいですね。大したことは言ってないんだけれども気持ちが入って来るというか時間とともにしみじみいいなと思えてくる。

 たけのこの白きところに値の書かれ

は選んでいながら前回コメント入れ損ねていました。この発見はいい。滑稽さもあるし実に生活に即しているし「あるある」なんだけど陳腐じゃないですね。全体の中でも評点の高い作品でした。

信治:
寒蟬さんの取られた、

 啓蟄の秘仏の腹のレントゲン
 青空を眺めに出掛け落第す
 鳥交る片方だけが無表情     
 バナナ剥く北に東に南西に

とかは、すこしサービスよすぎるのでは、とも思うのです。
エンターテイナーなんですね。きっと。


新人賞について

信治:
保坂和志がどこかの講演で話していた逸話です。小島信夫に、保坂和志が「小説家も、選考委員になると、評論家みたいになっちゃうから」と言ったら、小島信夫が「それならまだいい。彼らは、選考委員になってしまうのですよ」と言ったというw

作家も、選考委員という立場になると、文学の代理人として読む、のではなくて、業界の代表者として、賞のそういう性格を無意識に反映して、読み、選別するように、なりがち。それって、たとえば、新人賞が、入社試験みたいになるということですよね。

寒蟬さんはそのへん、どういうふうにお考えでしょう。

寒蟬:
よく分んないけど俳人も選考委員になったら評論家、もしくは「選考委員という人」になってしまうということでしょうか??

信治:
作家は文学とサシの関係であり、文壇に(必ずしも)従属するものではないですが、選考委員になってしまうとは、文壇という業界の機能に、なってしまうということだと思います。

寒蟬:
私のここでの発言がどう取られるかはわからないしどうでもいいですが、私自身は業界(俳壇というものがあればの話)を代表しているつもりもないし新人を送り出そうというつもりもありません。ただ俳句の作者兼読者として思う所を自由に述べさせていただいているつもりです。

先日、小澤實さん、筑紫磐井さんと3人で第1回姨捨俳句大賞という句集に与えられる賞の審査員をやりました。面白かった!自分の俳句観をぶつけて小澤さんとガチでやり合いました。(杉山久子さんの『泉』が受賞)

私は姨捨俳句大賞の公開審査でもここでの信治さんとの対話でも、言っていることにブレはないつもりでいます。

信治:
寒蝉さんが、「賞応募作としては」と言われるとき、彼らに受かって欲しいという、気持ちで言われているのだと思うのですが。

でも、「賞応募作」として、何かを書くというのは、そうとう難しい。
そんな席題が出たら困りますでしょう?

寒蟬:
ああ、そのことですね。言葉が悪かったかもしれない。賞に応募する人は応募するからには賞を取ろうと思っているのでしょう?こちらは読者としてそれを読む時に俳句の並べ方はどうか、統一されたテーマみたいなものはあるか、などと一つの作品として読もうとするということです。それは仕方のないことだと思いますが。

信治:
なるほど。50句トータルでの見せ方ということですね。
たしかに、それはかなり大きな影響あるかもしれません。

ただ、完成度や疵のない作品を、ついつい求めてしまうのは、賞というものが、業界メンバーを選ぶ選別装置であるという前提があって(文芸誌の新人賞だって、芥川賞だってそうですよね)、選考委員となった作家は、無意識のうちに、その関所の門番として機能してしまう。

寒蟬さんも、角川の選考委員の諸先生も、いつもはそういう人じゃないのに。

寒蟬:
まあ立場が人を作るし人を変えてしまうのは致し方ないと思っています。

例えば私は医者として一人の臨床医のつもりですが、同時に病院の地域医療部長でもある。ただ部長として行動する時にも一人の臨床医であることを忘れたくないし忘れないようにしているつもりです。誰かから「お前は一人の臨床医としての立場を忘れている」と指摘されたら恥じ入るし反省するでしょう。

俳人としても同じだと思っています。分って頂けます?

信治:
もちろん分かります。

寒蟬:
「賞応募作として」なんて考える必要はないと思います。自分が俳句でやりたいことを決められた50句なら50句の中で存分にやればいいのです。それが読む側の琴線に触れれば受賞ということになるのでしょう。





【落選展2015を読む】
(1)「水のあを」から「梅日和」まで
……仲寒蟬×上田信治 ≫読む


補遺 全応募作より印象句 ≫読む

【落選展2015を読む】 補遺 全応募作より印象句 仲寒蟬 × 上田信治

【落選展2015を読む】
補遺 全応募作より印象句

仲寒蟬 × 上田信治



2. 青島玄武 「おしりの人」

仲 寒蟬 選

神様が旅立つ二両列車にて
爪先を辺境と思ふ霜柱
をさな子の尻の重たしあたたかし
おにぎりも子供も山も笑ひをる
晴れ晴れと象の交める涼しさよ

上田信治 選   

木枯しをくしやくしやにしてポケツトへ
冬帝に体毛といふ体毛を
山越えてまた菜の花となりにけり
躑躅たることを嬉しく唄ひをり
お日さまがよいしよつと夏来たりけり


5. 青山青史 「死海」

仲 寒蟬 選

閻魔蟋蟀夢なきころは殺めけり
月面の海しづかなる鵜舟かな

上田信治 選   

海豚抱くほかなき海の青さかな
あとずさる猿に後光を大旦
戦士の休息南方系の蝶放ち
籐椅子や特許許可局廃墟とし
虹を指さすたび喜びの世界


9. 奥村 明 「ZARAにあるLOVE,ないLOVE. 」

仲 寒蟬 選

水のなき初夏のプールの中歩く

上田信治 選

水のなき初夏のプールの中歩く
朝涼のパンを焦がせし蝉の声
冬近し道路横切る鹿の王


10. 葛城蓮士 「終末論」

仲 寒蟬 選

水洟をすする眼の鋭さよ

10. 葛城蓮士 「終末論」

上田信治 選

サングラス煙草手向ける花の白
路地裏の八百屋の留守や冬ひでり


11. 加藤絵里子 「ものの芽」

上田信治 選

春を読みさして海までささくれる
梅干しの苦手な人の背中かな
星瞬く自分の靴をはいてをり


12. 加藤御影 「蛇苺」

上田信治  選

倒れたる空壜の先虫の闇


13. きしゆみこ 「まつはる色」

仲 寒蟬 選

門番の薄紫の午睡とも

上田信治  選

遠目にも広場が見えて鐘涼し
街の灯の中を明るき涼み船
蜘蛛が囲を張るやうに池凍りたる


16. 吉川わる 「アディオス」

仲 寒蟬 選

プラタナスらせんとなりて芽吹きけり
黙黙と天ぷら食らふ夕立かな
鉄棒の匂ひ残るや曼珠沙華
耳の穴きれいに見えて春着かな

上田信治  選

おとなしく傘たたまれて花の冷


17. 杉原祐之 「日乗」

仲 寒蟬 選

畦塗の準備のままの猫車
明らかに人手不足の神輿来る

上田信治  選

遠足の子の聖堂に静まれる
海の日や海岸倉庫飾らるる
キャタピラの轍の残り厚氷


18. すずきみのる 「初扇」

仲 寒蟬 選

とかげ息せりあまた罅あるつち壁に
新聞の厚みうれしき初景色

上田信治  選

抜く腸もぷりぷりとして春鰯
天井より涅槃図床へ垂れゐたる
花芯よりつまみてはなむぐりを剥がす
とかげ息せりあまた罅あるつち壁に


21. ハードエッジ 「ブルータス」

仲 寒蟬 選

枯草は倒れ枯木は立てりけり
大根も抜きたる穴も濡れてをる

上田信治  選

新聞も三月三日ひなまつり
空蝉と例へば空の段ボール
水槽のびくともせずに夏の夜
たまりたる落葉の下の水たまり
息のあるものが生きもの雪ふりつむ


23. 前北かおる 「光れるもの」

仲 寒蟬 選

イーゼルを倒して風や立葵
避雷舎に入れば真昼のほととぎす
牛乳を飲んで朝顔数へけり

上田信治  選

イーゼルを倒して風や立葵
五月雨の甘く匂へる板廊下
吊り橋をとほり抜けたる螢かな
奥山に金湯館や霧を積む
牛乳を飲んで朝顔数へけり
夕紅葉家族を置いてきたりけり


25. 宮﨑玲奈(宮﨑莉々香)「眠る水」

仲 寒蟬 選

鳥来れば泉の泉らしくなる
オムライスの丘を崩せば春はじまる
レガッタの一人遅れて櫂を取る

上田信治 選

古本は菓子の香マスカットが近い
蔦である或るいは図絵の窓である
卒業や写真にうつる大きな木
あげまんぢゅうのぢが好きなのだ春の虫
教室に蝶いて先生がやさしい
金魚泳げばうしろを眠るような水

 26. 薮内小鈴 「声真似」

上田信治  選

炎昼や蛸も狐もビルかげに
ふと止まりふと動きだす団扇の手
傘よりも明るき脚で鴨およぐ

しましまの街もあるらん花曇





2016-04-10

落選展2015を読む〔2〕 大塚凱×堀下翔

落選展2015を読む〔2

大塚凱×堀下翔




»承前

●杉原祐之「日乗」

大塚:
畦塗の準備のままの猫車
遠足の子の聖堂に静まれる
明らかに人手不足の神輿来る
リビングの隅の聖樹の消し忘れ
などに印をつけています。文体が優しい印象でした。それだけに、順当な句に感じられてしまう部分もあります。〈夕立の気配に露店畳みだす〉〈報知器の響き渡れる厄日かな〉〈廃校の窓に小鳥の来ては去り〉など、正直に言ってしまうと面白いとは思えなかった。類想や季語のイメージに接近しすぎているということだと思います。
でも、冒頭に掲げた4句のようなおおらかな捉え方が魅力です。良い句には裏切りがある。それぞれ「準備のまま」、「遠足が静まる」、「人手不足」、「消し忘れ」というところにハッとさせられます。

堀下:
遊船や屋根を開きて橋潜る
明らかに人手不足の神輿来る
天の川濃くなり冷えて来りけり
土管より頭を出せば秋高し
あたりを取っています。突飛なことを言おうとしないで、目に見えるものを大切に書いていこうとする志向が充実した50句だと思います。読んでいると名詞の多いことに気が付きました。名詞が多い、ということはともすれば手抜きである場合も多いと僕は思います。とりあえず言葉を繋いで、それから季語を取り合わせて、みたいな。でも杉原さんの場合は、名詞が描写のために尽くされている。〈遊船や屋根を開きて橋潜る〉を見ると分かりやすいんですが、これは「遊船」というものを写生するために「屋根」とか「橋」とかの名詞が費やされる。念入りな描写って個性が出るんです。用言的に把握するのか、体言的に把握するのか、付属語的に把握するのか。杉原さんの句は体言的な把握が文体としてしっかり確立されている。凱君は「順当」な句が多いという印象を持ったようですが、それもこのあたりから来ている筈です。目に見えるモノをひたすら挙げていく、というのが杉原さんの書き方ですから。〈空港の管理用地の薄かな〉とか、取ってませんけど、根性を感じます。

大塚:
結局は語りたい10作品のうちにこの作品を選びましたが、それはその確立した文体に惹かれたのだと思います。ただ、50句作品は、書き手がいかに読者を飽きさせないかという腕の見せ所でもありますよね。執拗な写生はそれはそれで惹かれるのですが、やっぱり50句となるとワンダーというか、ハッとさせられる前掲のような作品がもっとあると、よりドキドキします。堀下くんの「体言的」という指摘は頷けました。

後半に〈演習の土嚢の積まれ枯野原〉から〈キャタピラの轍の残り厚氷〉まで、急に戦争俳句みたいになっているのは意図があるのでしょうか。句の善し悪しは別として、そこまで続いてきた流れがぶっ飛んでしまって残念でした。

堀下:
戦争俳句というか、自衛隊のイベントか何かに行ったんじゃないですかね。展示を見ながら書いた一種の吟行句かなと思いました。一般論としては、全部の句ではなくて一部分が連作ふうになっているという纏め方は特段気になりません。とはいえこの句はたしかに流れが全然違ってきてしまっていますね。視点が変わっていますから。

大塚:
ここらへんの連作としての感覚は人それぞれでしょうか。一部分が連作になっているからダメだ、なんて横暴は考えていませんけれど、これは50句のテーマ性というか、ゆるやかに連鎖する作品性が結構ブレてしまったんじゃないかという気がしたのです。結局は程度問題かとは思いますが。



●折勝家鴨「塔」

大塚:
冬銀河子が減り子守唄が減り
寒柝の耳にイヤホンありにけり
風ひとをさびしくさせるパセリかな
日盛や鳩を散らして人を待つ
虫の夜や遅れて消ゆる車内灯
どこかシニカルな雰囲気の漂う作品でした。〈冬銀河子が減り子守唄が減り〉といった捉え方、〈日盛や鳩を散らして人を待つ〉といった心の動きに惹かれます。他にも、季語の配し方が面白いと思います。掲句では、「寒柝」「パセリ」でうまく裏切られた感じ。その一方で、上五が「○○○○や」の句が多いなと。そこらへんは単調に感じます。

堀下:
冬銀河子が減り子守唄が減り
臘梅や水を掃きたる竹箒
声出して心戻しぬ草の花
などが好きです。完成された取り合わせの句が並んでいて、これはいいなと思いました。「鷹」が培った型の強みを感じました。季語のつけ口で句のイメージがぽーんと変わってゆく面白さ。簡潔だけど緻密な12音を書く作業、そこに新しいイメージを関わらせてゆく作業、その根気の50句だと思います。

こういう書き方をする場合、意味の切り取り方に新しさが必要だと思いますが、たとえば
理科室の棚に鍵あり梅の花
空席に木の影ありし五月かな
少年の夏自転車を分解す
あたりの句はどうでしょう、この「理科室-鍵」「空席-木の影-五月」「少年-夏-分解」といった組み合わせから喚起されるイメージは、もう読者の方でも共有ずみではないかと思います。「少年-夏」という組み合わせが陳腐なのは言うまでもありませんが、そこに加わる「分解」というイメージもまた、実は今となっては「少年」に内包されてしまっている部分なのではないかなと。この種の平凡な展開をしている句がいくつか見られたのが気になりました。

大塚:
作者の意識としては、「理科室」に「梅の花」を取り合わせることに面白さを志向したのではないかと思います。二句目は「空席」、三句目は「分解」という言葉のワンポイントで勝負したかったのではないでしょうか。それがあまり意外性の方向へ弾んで行かなかった、と。だからといって大きなキズでもないですし。フレーズに季語をぶつけるという「型」は強みでもありますし、一方でみんな読みなれている方法論ですから、高い完成度でいかに固定化されたイメージを裏切りつつけるかという根気勝負になっていくと思います。

この方法論は文体の自由度がどうしても低くなりがちです。取り合わせにおける文体をいかに更新していくか、僕も耕していきたい余地だと考えています。

堀下:
そうなんです。文体の不自由さがネックなんです。助詞や助動詞でくふうしたり、あるいは律を崩したり、取り合わせ文体の更新はやっていかないといけない。一方でこの50句の場合は、そういう革新を目論んでいるのではなくて、すでに確立した型の中で完成度を高めていこうとしている。細部の強度が必要な書き方です。たしかに「梅の花」「空席」「分解」あたりの語には瞬発力が感じられもするのですが、それ以外の部分がひどく無防備だと思いました。



●高梨章「明るい部屋」

大塚:
炎天やみるみる泣くぞ泣くぞ泣く
目刺くふ子もくはぬ子もきて坐る
空き箱をかかへて春の微熱かな
雨の日を昼寝してゐる漂流記
三月は木陰のやうに来てゐたり
文体・発想がのびのびしていてとても面白かったです。手を変え品を変え楽しませてくれている印象でした。その一方で、季節が行ったり来たりするのには疲れます。秋の句が極端に少なかったり、一句目の「炎天」から「春の月」に季節が戻るところでまず読みづらくなってしまう。50句作品のテーマ性にまで踏み込むとさらに良い作品になっていくと思いました。母の句が著しく多いですが、あまり他の句と有機的には絡んでいない気がします。

堀下:
空き箱をかかへて春の微熱かな
ずるいなあと母のつぶやく春の山
雨の日を昼寝してゐる漂流記
三月は木蔭のやうに来てゐたり
俳句らしい型を意識しない文体。毎年気になっている方です。平易な語彙の選択、ひらがなの多用、ずらしたり繋げたりする技術、いろんな要素が調和をとって、この流線的な印象を達成しています。発想としては飛躍の大きいものもありますが、それらを生のままぶつけるのではなく、冗語をさしはさんだり、時には過度に口語的に言ったりして、ゆるやかに結びつけていこうとする。言葉の密度は低いながらもイメージの結びつき方が緊密な句にいい句があると思います。ただ極端に字余り・句またがりが多いですね。その曖昧なリズムに価値を見出しているのか分かりませんが、もう少し定型感があると、より文体の自由度が際立つと思います。文体の自由度と律の自由度は別問題ですから。

大塚:
やはり、律の良し悪しも読後の疲労度に関わってきますよね。個人的には字余りや句またがりは好きなのであまり嫌な印象はありませんでしたが、堀下くんがそう言うのも納得はします。詩のことばはつまり暗喩に還元されると言えますが、この作者も取り合わせにおける文体をいかに個性的に、いかに書き手の味方につけるかという部分で勝負している。そうしていると、読んでいて疲れるような、律の問題が生まれてくるという側面もあるのかもしれません。この方法で作品がどこへいけるのか見てみたい。一句における韻律と意味が噛み合った時のパワー、その可能性を感じます。



●ハードエッジ「ブルータス」

堀下:
白梅のかたき莟の香なりけり
大学も大学院も春休
十薬やひと雨にふる雨の粒
遠ざかる一つの時代天の川
平明な読みぶりが気持ちよいです。この方も毎年気になっている作者です。
池に雨松の手入も済みたるよ 2014
運動会その翌日が土砂降りで 2013
と、これは過去の「落選展」の句ですが、どうでしょう、僕、好きなんです。口当たりのよさと言いますか、すらすらと口をついて出てきたような感じがあります。去年の落選展のときにも書いた気がしますが、はじめからこの形だったんだろうな、という素直さを感じます。〈白梅のかたき莟の香なりけり〉〈十薬やひと雨にふる雨の粒〉のような素朴な写生句を50句揃えたらかなり読みごたえが出てきそうな。一句目、「かたき莟の香」がいいですね。硬さと匂いなんてほんとうは順接で関係づくものじゃないのに、でも、あのあおくさい莟の匂いはたしかに「かたき」の感じがあります。二句目は実はどういうことを言おうとしているのか模糊としている、でも、ざあっと降った雨の一粒がありありと目に入ってきます。雨粒を描写するために雨降りを持ちだす、という単純だけど念入りな書き方。

大塚:
正直、採った句はそれほど多くない作品でした。理屈っぽさがどうしても拭えなかったから、当初は平明という印象ではありませんでした。ただ、読んでいくうちにそのなかに堀下くんの言うような面白い作品があったので頂いたという次第です。

堀下:
理屈っぽさというと、
新聞も三月三日ひなまつり
ものを煮ることなき水が噴水に
「盆踊雨天中止」が雨に濡れ
あるモチーフの意味性を取り出して、その意味から少しずらしたモチーフをもう一つ横に置く、という作り方。意味のリフレインとでも言いましょうか。でも、いや、それは面白くない。

大塚:
そうですね。〈空蝉と例へば空の段ボール〉とか、「そこで空って言う!?」って思いました。因果を感じたくないな、と思いながら俳句を読みますが、発想につながりが見えるともう因果に引きずられてしまって言葉が理知的な理解で留まってしまうような感覚です。自然の大きさと時間感覚というテーマ性においては先行句は無いとは言えませんが、〈枯野行く少し狂ひし腕時計〉なんかには因果関係がなくて好感を持ちました。それから、〈蟻の巣に入らぬものを壊しをる〉〈大根も抜きたる穴も濡れてをる〉にも素直な詠みぶりの良さを感じます。変に発想を飛ばしたり空想っぽいのものを詠んだりすると、やっぱり理知的な作り方になってしまっていると思います。

堀下:
いわゆる写生句のように見えている素朴な句も、じつは理知的に作り上げられたものなのかもしれません(だったらダメだということではないですよ、為念)。というのも、さいきん素十の句を読みなおしているのですが、写生の神様と思われているこの人の句の一部が、妙に構成的な印象を発していることに気づいたのです。
柊の花一本の香かな 高野素十『初鴉』
という句、これ、いいですよね。花の香りがする、というただそれだけのことを言った句です。素十の作品世界のつつましさ、すなわち、俳句はこれだけでいいんだ、という倫理が感ぜられます。花の香りがする、という以上のことは言わなくてもいいんです。だから柊の花なんていう長ったらしい季語にずいぶん音数を取られてしまったあとも、まだ余白がある。何も言わなくていいのだけど、十七音には足りませんから何か言わなくてはいけない。そういうときに素十は「一本」ということを書くんです。こんなこと言わなくていいじゃないですか。「柊」と書かれた時点でわれわれに「一本」は見えています。だから「一本」と言い足したところで情報量は増えません。とはいえ素十の眼の前の柊の木はたしかに「一本」ですから素十はそれを写生しているわけです。捉える対象を絞った結果、却ってヘンなものが取り沙汰されている。客観写生の威力とはつまりこういうことでしょう。

でも、この句、読みようによってはたいへん構成性に富んだ句です。小さな花があって、それをつけた木があって、その木のまわりが匂っているという、三段構えの図式がある。

彼の代表句、
くもの糸一すぢよぎる百合の前 高野素十『初鴉』
における「前」というのもそうなのですが、平明な句、強烈な美意識を盛り込まない句を書こうとすると、位置関係を把握するという方向にしばしばなるんです。となると、いま「関係」という言葉が出てきましたとおり、理屈抜きで書いた筈が、変に理屈っぽく読めてしまう、ということが起こります。重要なのは逆も然りだということです。われわれは一見写生句のような句を理屈で書くことができる。ハードエッジさんの〈白梅のかたき莟の香なりけり〉〈十薬やひと雨にふる雨の粒〉、これ僕大好きなんですが、もしかするとこれらは「かたき-莟-香」「雨-雨粒」の関係性によって書かれた理屈の句かもしれない、とそんなことを思いました。



●堀下翔「鯉の息」

大塚:
また中へ戻るはちすのうへの蠅
林が疎まつすぐ行けば水芭蕉
日時計の石痩せにけり秋燕
蟻穴を出てすぐ横にちがふ穴
深秋やさうかと思ふ竹林
好きな句がいろいろとありました。やはりなんといっても文体が確立している強さです。〈また中へ〉〈蟻穴を出て〉の句は第6回石田波郷新人賞受賞作にある〈茎を蟻登り来てまた引き返す〉などに通ずるある種のゆるい馬鹿馬鹿しさ、だけれど対象を執拗に眺めているという目線。あるいは、〈林が疎〉というフレーズに代表される表現の密度。その両者、つまり対象への目線の密度と表現の密度が中心にあります。堀下くんの堀下くんたる表現は、その助詞の用い方でしょう。〈をさなくて春暮れゆくに遅れをる〉〈こひいつもその日のことの燕かな〉のように、敢えてワンポイント的に「に」「の」などの助詞を用いています。どの助詞を用いるかで、前後の動詞や切れの置き方にも影響が出てきます。あたかも助詞から一句を組み立てていくような感覚が、堀下翔のもつ心地よさの大きな部分を占めていると僕は感じています。

堀下:
取ってくれてありがとう。僕はおしゃべりが好きなので自分の句ですが気兼ねなく書かせてもらいます。神は細部に宿るといいますか、助詞とか補助動詞とか助動詞とか、そういう部分で表現の精度を上げていくのがまず自分の仕事かな、と思っています。そういう意味で自分は言葉派と思われてもいい。でも技巧が風景に先んじているのではないということはぜひ言っておきたいです。どうも僕は外を歩くのが好きで、特に花があまり咲かない土地で育ったものですから、草木のうつくしさには心を奪われます。花を見ておどろいた気持ちをそのまま書きたい。美しいものを「美しい」と書いたところで何の足しにもならないのでしぜん言葉の細部で補強してゆかなければならない。机上派と言葉派は同義語ではないんです。さいきん気になっている句集に千葉皓史『郊外』があります。千葉の扱う題材は、多くは身辺や自然で、派手なところはありません。どの句をとっても、風景・表現ともにシンプルなんです。でも、こういう句があります。
東京に人影は秋来てゐたり
この助詞への気の配り方、はっとします。同句集所収では〈裸子がわれの裸をよろこべり〉といった句の方が有名でしょう。「裸子が」の句の助詞は一見平凡です。でも、動かない。この風景を再現するための最適解なんです。どの助詞も緻密に鍛え抜かれている。僕もこういう態度を取りたい。正直にいえば今年の角川の50句は今となっては甘い句ばかりで、読み直して赤面しています。もっともっと確かな句を書いてゆきたいです。
肉声の日々なり麦が笛になる
林が疎まつすぐ行けば水芭蕉
柿の花石白く水湧きにけり
あたりは、とりあえず残してもいいかな、という気がします。


大塚:
肉声の句なんかはさっき堀下くんが言ってた「理屈」の話に近いものを感じます(笑)

これは位置関係の句ではないけれど、平明なふりをして一種の理屈としても読めてしまう部分もあるかもしれない。敢えて批判をするとすれば、やや観念的であったり意味が取りづらくなっていたりしてもその韻律にごかまされてしまいそうになるときがある(笑)〈めくるめく史実を春の暑さとも〉などは「史実」という言葉が身に迫るかといわれるとそうではない。〈視力たのしく走りたり麦の中〉の「視力」なども挑戦は面白いけれど、「たのしく」への語彙選択に無理が生じてしまっている感があります。それを押し通してしまいかねない韻律の力強さはあるけれども、成功しているかといわれるとそうではないと思う。

堀下:
あはは、ごまかすつもりはないんだよ(笑) でも確かに観念的な句が交じっているのはよくないねえ。もっと即物的に書く根気強さを身に着けたいと思います。

大塚:
話がズレますが、「理屈」や「観念」という言葉においては、それをときにアレルギー的に忌み嫌い、ときに抗生物質を投与するような安易さで作品の評価に用いているという側面があるのではないかと懸念しています。これらの言葉の定義も曖昧ではあるのですが。「ホトトギス」昭和8年4月号に山口誓子が「詩人の視線」という題のアフォリズム的文章を寄せています。要するに京大俳句草創期に、婉曲的な表現を用いながらホトトギスひいては高浜虚子批判をした離脱表明とも受け取れる文章なのですが、そこには「選者はいまかいまかとその句を選から外そうとしているのだ」というような文脈があるのです。誓子の指す「選者」は虚子のことですが、われわれひとりひとりも〈選者〉だと拡大解釈するならば、その句を選ばなかった場合には理由を後付けているような気がしていて、「理屈」や「観念」といった言葉はそのような場合に多く用いられているような感覚が僕にはあります。これらの言葉には注意しないといけない。きっと「理屈」「観念」にも石に玉が混じっているような気がしていて、これらのことばで句を切り捨ててしまうことには反省がつきまとっています。本当に話がズレました。

堀下:
耳が痛い話です。「理屈」とか「観念」とか、あるいは僕は似た文脈で「意味」という言葉をよくネガティブワードとして使いますが、ほんとうにこれって切り捨てていいものなのか、切り捨ててしまうのは早計なのではないか、ときどきそんなことに思い至って真顔になります。「理屈」「観念」を否定するのが後付けの理由であるとは僕には言い切れません。俳句のポエジーはそういったものではないのだ、というフレーミングを長いあいだ俳句作者たちが重ねてきた結果だと思います。でも、そうではなくて、われわれが「理屈」だとか「観念」だとかと呼んで“いない”ものの中に、実は「理屈」「観念」に相当するものがあって、時としてそれを面白がっているのではないか、そういう虞を感じるのです。たとえば「この句は味があるね」というときの「味」なんかその最たるです。いったいポエジーとはどこに発生しているのか、きちんと選り分けて行かないと、うっかり「理屈」「観念」を暴力的に切り捨ててしまうことになりかねない。言葉というものそれ自体が観念の上にあるので、ほんとうは理屈がない、観念がない言葉というのはありえないんです。そこから目を逸らすのは戒めないといけない。以上の点、今年はもっと冷静に考えてみたいと思います。でも、やっぱり「理屈」は嫌いです(笑)



●前北かおる 「光れるもの」

堀下:
手堅い句が多いと思いました。
立春の水を掬つて顔に
花冷の学生服の背中かな
五本づつ炉火に挿し足す串のもの

要素が多めで、ともすれば焦点がぼやけがちではありますが、新奇さを狙わず、淡々と書き進めていく感じに惹かれました。一句目は要素が多いうえに述べ方も悠長なんですが、そのゆるゆるとした感じが景と合っています。二句目は季語がいいですね。三句目の即物性も大好きです。〈山の雨降りて明るき泉かな〉のような、自然をポエティックな印象で書きとどめようとする句よりも、掲出句のような、人間生活を着実に言葉にしていく句の方に味があります。

大塚:
僕も似た印象でした。採れる句が多かったです。なぜ10作品に入れなかったかというと言い訳めくのですが、文体に新奇性をあまり感じなかったからでしょうか。必ずしも新奇であればなんでもいいというわけではなく、それならそれで手堅さで勝負するタイプの作品も尊いものだと感じますが、それでもって強くインスピレーションを受けるほどの派手さは感じなかったです。〈立秋の候と書きさし窓の外を〉などの景色に惹かれましたが、いい意味で裏切られるような感覚はなかった。例えば花冷の句なども採ってはいるのですが、「花」の成分が「学生服」とマッチしていて、「冷」の成分が「背中」とマッチしているような感じ。句としてはいいとは思うのですが、あくまで「納得する」というレベルでの配合だったかなと思います。ちょっと順当さが拭えませんでした。

堀下:
なるほど、花冷の句の分析、納得します。たしかにその要素ごとの対応は「納得」を生むものです。一句の中にそういったいくつかの力関係があるんですよね。言葉の引力が、べっとりと全体を塗りつぶさず、微妙に拮抗している句にいいものがあると思います。



●宮﨑莉々香「眠る水」

大塚:
最初に取り上げた青本柚紀さんと同年齢ですが、あちらが象徴性の作家だとしたらこちらは切実さの抒情で読ませる書き手です(寒蟬さん信治さんの対談の方で僕と堀下くんも同年齢とされていましたが、正確には僕と堀下くんは1歳上です)。実体に対して仮想や観念を発想するという方法で作られています。

完成度が高いとは言えませんでしたが、面白くなりそうな句がありました。〈おおきな良夜のちいさなコンビニの聖書〉は「おおきな」と「ちいさな」がすごく勿体無いけれど、目の付け所はいい。〈鯛焼きを分け合い星に歴史かな〉〈春雨のあとの静かな象舎かな〉なども面白いと思いました。ただ、表現が粗かったり発想が安易である句も多いのは確かです。一般に「俳句的」ではない語彙、表現を用いようという志向があるのだと思いますし、そこに可能性を感じます。〈嵐や風の転校生は鹿をみる〉など独特なリズムに惹かれました。一方で、無理やり言葉を飼おうとしてしまっている感があって、言いたいことがたぶんうまく表現できていない。そこのバランスが取れるようになってくると、もっともっと面白くなると思います。

堀下:
鯛焼きを分け合い星に歴史かな
実感や詩のように飛ぶ春の蜂
あげまんぢゅうのぢが好きなのだ春の虫
あたりが面白いと思いました。言葉に懸けようとしていながらも、肝心の言葉の精度があまり高くないのは否めないと思います。この人のやろうとしていることは「切なさ」ですよね。平凡なものを見ている筈なのにそれが切なくて仕方がない。その切なさを、お前には分からないんだ、と言って逃げてしまうのではなくて、できるだけ分かりやすい形で相手に差し出そうとしているんだと思います。でも、言いきれていない。あるいは、いや、そんなに大したポエジーではないぞ、というケースもあります。稚拙な情感をこのひと流の文体に流し込んでしまうと、独り相撲の滑稽さになる。そういう意味で〈鯛焼きを分け合い星に歴史かな〉なんかは、情が過多といえばそうなんですが、「歴史」という言葉の軽さに見るものがありますし、それが「星」という詩語と結びついて、大がかりなようでいて実はポップに仕上がっているのも面白い。二句目の「実感や」もキているでしょう。「春の蜂」でいいのかと言われればちょっとダメだと思いますが。三句目は「春の虫」でどうにかなっているような気がしないでもないです。
卒業や写真にうつる大きな木
親戚や同じかたちの雑煮餅
みたいな、王道的すぎる詩情は、一周回ってるのが分かっている人ならばいいのですが、読者はそれほど親切じゃありませんからね。この作者と親しいわれわれなら、両句の「や」の馬鹿丁寧さあたりからその機微を察せますが、ハタから見たらやばい人になりかねません。

大塚:
堀下くんの言うように「なんでこれを面白がってるんだろう」と思う句もありますけれど、あんまりそれを指摘しても意味がないような、50句を読んでそんな気がしています。それよりも、この人にはキてる作品を書いてもらいたい。観念といえば観念の構造なのですが、それが面白い観念だという場合がある。50句作品という単位での完成度では他の方に譲る部分が大きいですが、ときどきキてる句が見られたのは幸せでした。

堀下:
卓抜した展開で揃った50句が見たいですね。そのときのために読者の方もきちんと批評できる言葉を用意しておかないと。「キてる」じゃあんまり享楽的な読者ですから。

大塚:
それは反省ですね。口走りすぎました(笑) とにかく、今後の作品が楽しみです。



●利普苑るな 「否」

堀下:
型の強みで取りました。
転校は履歴書に無し蓼の花
はいかにも蓼っぽいし、
和紙にある草のぬくみや時雨来ぬ
はいかにも時雨っぽい(あとこれは「来ぬ」もいいですね)。季語が動かないのもよさです。

あと、
鳰鳴くや鎌田實をポケットに
というのも、ちょっと俗っぽすぎるかもしれませんが、意外な感じがして好きです。優等生らしすぎるのが却ってばかばかしいような。
西国より届く白桃父米寿
の「父米寿」や
白玉や野良猫三代盛衰記
の「盛衰記」
光満ちたり花虻のホバリング
の「ホバリング」

は、その一語に俳句の面白味を求めすぎで、丁寧に書いてほしいです。

大塚:
利普苑さんも実感の書き手かとお見受けしました。

料峭やてつぺん見えぬ螺旋階〉、螺旋階段をそう略して伝わるのか微妙に思いましたけれど意外性があります。〈囀や応募葉書に貼るシール〉なんかも生活詠としていいところだと思います。その一方で〈漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな〉〈てのひらに硬き切符や冬ぬくし〉など、実感はあるけど既視感の強い作品、パターン的な季語の付け方を感じました。ここら辺が残念に思います。これらを〈転校は履歴書に無し蓼の花〉と比べると、やはりフレーズの視点、季語の配合ともに単純な物足りなさを感じてしまいます。

堀下:
ああ、切符がどうのこうのというのは、やっぱりねえ……。〈漕ぎ出せば川岸長き薄暑かな〉も、薄暑だと、もうなんにも残らないですね。一昨年の秋に出た利普苑さんの第一句集『舵』、いいんですよ。
一行の編集後記夏来る
引算の答さみしや蟻の列
あつけなく猫の逝きたる桜かな
季語のつけ筋がはっきりしているし、他の12音の方も強度がある。さっぱりとした喪失感を書いた句がとてもいいんです。これはまあファンのわがままですけれど、今年の50句は情や生活臭が強すぎるのかな、という気がします。そういうわけで〈転校は履歴書に無し蓼の花〉が一押しでした。



●小池康生「一睡」

大塚:
手袋もをのこも行方不明なり
ゆきぐものよこにあをぞら法隆寺
降り残す雨を今ごろ椎若葉
花水木住めば覚える人の顔
安心して読めた一連でした。それはおそらく、用言を中心とした無理のない句作りによるものでしょう。緻密な写生という句柄ではなく、ものごとを大掴みなフレーズに練り上げ、季語と取り合わせるという手法です。その把握が例えば〈ゆきぐものよこにあをぞら〉というリアリティを生んでいます。その句柄は「降り残す雨」の物理的な動きを描くのではなく、「雨を今ごろ」というおおらかな言葉から椎若葉らしさを描き出しています。しかし、〈鳥交る片方だけが無表情〉や〈生身魂あの世の下見済んだらし〉などは作者が思っているよりも面白くはないと思いました。描くというよりは述べてしまっているような、身に迫る表現にはなっていないと思います。〈新暦の方の二月を愛しをり〉という暦の概念までいってしまうと、正直ついていけないという思いでした。

堀下:
ゆきぐものよこにあをぞら法隆寺
描きかけの消防車なり出動す
花水木住めば覚える人の顔 
降り残す雨を今ごろ椎若葉
あ、選がだいぶん被りました。やっぱりこのへんがいいですよね。大らかな味わいを大らかに書く句にいいものがあります。類想感の強い句(〈男湯と女湯代はる去年今年〉〈台詞なき場面のつづく涼しさよ〉あたりです)や現実世界の「あるある」をそのまま俳句にしただけの句(〈立春のトールサイズといふカップ〉〈一本も観ずに延滞春の雨〉あたり)、それから凱君が指摘したそれほど面白くない句を丁寧により分けていくと、重心のしっかりとした句が残って、それらに明確な共通点があるわけでもないようなのですが、どれも大粒で面白かったです。たぶん人情だとか通俗的なかっこよさに別段の面白味を感じて書いている作者だと思うのですが、それをそのまま俳句にするよりも、その恰好のつけ方、まなざしの持ち方で俳句的素材を扱った句のほうが成功しています。

大塚:
先ほど安定感と言いましたが、それは句末がとくに名詞で着地する傾向とも関連していると思います。読後にキッパリとする感じは、この効果による部分も大きいかと思います。

2016-02-21

【落選展2015を読む】 (1)「水のあを」から「梅日和」まで ……仲寒蟬 × 上田信治

【落選展2015を読む】
(1)「水のあを」から「梅日和」まで

仲寒蟬 × 上田信治



信治:
上田です。このたびは、仲寒蝉さんをお迎えして、「2016落選展」にご応募いただいた各作品を読み進めていきたいと思います。

寒蝉さんよろしくお願いいたします。

寒蟬:
よろしくお願いします。以前「里」でこのようにネット上の掲示板に書き込んで対談したことありましたね。なるべくうまくつながるように進めて行きたいと思います。

信治:
はい。掲示板対談なので、噛み合わい切ってないところはご愛敬で。

まずは、二人それぞれ、27人の方の応募作から、10作品を選びました。
僕も寒蝉さんも、27作を通して読んで、○の多かった10作品をピックアップしています。


寒蝉10作品選

1.青木ともじ  「水のあを」
3.青木瑞季  「鰭の匂ひ」
4.青本柚紀  「飛び立つ」
6.上田信治  「塀に載る」
7.大塚 凱  「鳥を描く」
15.北川美美  「梅日和」
20.高梨 章  「明るい部屋」
22.堀下 翔  「鯉の息」
27.利普苑るな  「否」
28.小池康生  「一睡」

信治10作品選
1.  青木ともじ  「水のあを」
3.  青本瑞季 「鰭の匂ひ」
4.  青本柚紀 「飛び立つ」
7.  大塚 凱  「鳥を描く」
14. 仮屋賢一 「鷲掴む」
19. 折勝家鴨 「塔」
20. 高梨 章  「明るい部屋」
22. 堀下 翔  「鯉の息」
27. 利普苑るな 「否」
28. 小池康生 「一睡」


信治:
なんとそれぞれ10作中8作品が、同一になりました。寒蝉さんは、本選の審査員と同じく、作者の名前を隠して、読んでいただいたんですよね。ぼくは、作者名を隠さず読んでしまったので「この人だったら」「この人としては」とかそういう観点も入ってしまったかも知れません。

寒蟬:
それにしても、私の中には信治さんの作品が入っているからそれをのぞくと、8/9まで一致してしまったんですねえ。

信治:
堀下・大塚組もふくめてのこの一致は、ちょっと予想外でした。寒蝉さんと僕、あるいは彼らと、そんなに俳句観が一致する方でもないでしょうにね。

寒蟬:
ただ、「里」で牙城と一緒に選をしていて、こいつとは全然価値観も経験の内容も違うはずなのに、現に取る句も大分違うのに、或る部分だけはかなり共通しているという経験をよくします。

これは、俳句に対する考え方は微妙に異なっていても所謂「取れる句」というものは、一定レベル以上の俳句経験を有する者の間でさほどずれはしない、ということではないか。年齢や経験年数は大して関係なく。そう思うのです。

信治:
二人の選んだ12作を鑑賞し終わったら、せっかくですから、他の作品についても、取った句、感想などを書いていきましょう。


1. 青木ともじ 「水のあを」

寒蝉選
スティックシュガー音たてて出る立夏かな
青葉風ベンチはひとつづつあけて
繁華街の色をしてをり夜の金魚
ハンカチを返すとき手をすこし高く
重力のかすかにありぬ花野道
集金の人と小鳥の話など
秋の蚊をしばし相談して打ちぬ
冬めきて本の挿絵の蓄音器
地球儀は高いところへ煤払
背もたれに余るコートの長さかな
風光りチーズケーキは砂丘めく
喰ふ舌の先まで恋の猫である
田楽を串の出でゆく力かな

信治選
スティックシュガー音たてて出る立夏かな
風にほぐるる鹿の子の耳の先
犬ゐれば声をかけけり黄落期
背もたれに余るコートの長さかな
人日やただまつすぐにバス通り
みな同じ岩を踏みゆく磯遊び

寒蟬:
実はこの50句はけっこう評価の高かったもののひとつです。

最初の2句は気持ちよく入れました。

全体的に上手い感じはしましたがあまり冒険した感じはなかった。「集金」や「本の挿絵」みたくさらっと詠んだように見える句にいいのがありました。

反対に「花の野の果て」はまどろっこしくて成功していないし「イオマンテ」がいきなり出て来るのもどうか。「亡国の名の酒場」は何か言いたそうなんだけど伝わってこなかった。

信治:
「スティックシュガー」や「鹿の耳」の感覚的なよろこび。「コートの長さ」、まっすぐな「バス通り」、磯遊びのみんなが踏む「岩」……「ベンチ」「待ち針」の、ちょっと正確な把握。

ただ、ある範囲のなかで詠まれているという、物足りなさはある。

悪くなくて「ほどがいい」。でも、ものすごく「ほどがいい」というところまではいかないので、そこはやや残念かも。安全な作り方を離れて、言葉自体になにかさせようとすると、まだちょっとうまくいかないというか。

あと既存の俳句にある作り方ですけど、「力」とか「温度」とか言って、なにか言ったような感じになってる句は、もういいんじゃないかという気がする。

ぼくのイチオシは、
風にほぐるる鹿の子の耳の先
みな同じ岩を踏みゆく磯遊び
この二句なんですけど、青木さん自身を、いちばん喜ばせるのはどういう俳句なんだろう。いろいろ作れてしまっているので、この50句からはそれが少し見えにくい。

寒蟬:
まあ器用なんでしょうね。色々と出来てしまう。だから「これ」という句が見当たらないのかもしれません。

「磯遊び」はいい目の付け所だけれど同工異曲の句があるような気がします。「鹿の子」の方がオリジナリティがありそうです。私のイチオシは先にも少し触れましたが
集金の人と小鳥の話など
冬めきて本の挿絵の蓄音器
かな。
風光りチーズケーキは砂丘めく
も好きでしたがどこか櫂未知子さんの「南風吹くカレーライスに海と陸」を思い起こさせるところが不利ですね。

「力」確かに重力入れると2句も出てきている。でも田楽の句とか悪くはない。

信治:
ちょっとだけ概念をかませて一句というレトリックですよね。近年かなりたくさん試されてる気がして、僕は食傷気味に感じました。


3. 青本瑞季 「鰭の匂ひ」

寒蝉選
三月のひかりに壜の傷あらは
涅槃の日鸚鵡少女の声を出す
藤房は垂るるものなり足もまた
蛍烏賊青菜に目玉こぼしをり
惜春の傘襞深く閉ぢらるる
言葉より疾し目高の逃げゆくは
耳栓のうちに大暑の機械音
きちかうの高さを煙とほりけり
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ

信治選
三月のひかりに壜の傷あらは
雪解川遠くの橋の昏くあり
蛍烏賊青菜に目玉こぼしをり
麦秋や絵に神々の憎みあふ
水かげろふ日傘のうちを照らしけり
涼しさや龍をふちどる金ひとすぢ
炎天をかりかりと蝶登りをり
劇場の裏の木屑や小鳥来る
きちかうの高さを煙とほりけり
玻璃すこしみづに汚れて秋の声
藻は水の流るるかたち雁渡し
白菊に喉の渇きを思ひ出す
枇杷の花牛乳揺らしつつ帰る
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ
林開けて向かひあはずに椅子がある

寒蟬:
4句重なりましたね。

信治:
イチオシはどれですか?

寒蟬:
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ
かなあ・・・。毛糸玉をこんな風に詠んだ俳句を知りません。毛糸玉=球体という常識をさわやかに覆してくれました。
三月のひかりに壜の傷あらは
50 句揃えるとなると最初の5句くらいはとても大切です。ここにいい句がないとあとは読んでもらえません。その意味でこの1句目は成功している。まだ春浅いけ れども徐々に強くなっていく日光に、壜の細かい傷が浮かび上がって見えるのですが、それを掬い上げて俳句にする感性は非常に繊細なものです。「あらは」と いう止め方も上手い。
涅槃の日鸚鵡少女の声を出す
涅槃会との取合せに驚いた一句です。鸚鵡が人の声を出すというのは当た り前でしょうが、敢えて「少女の声」と言うことで妙にリアリティーが出て来る。涅槃会というと釈迦の入滅を悲しむ衆生の泣き声とか動物たちの咆哮といった詠まれ方をすることが多いけれど、この鸚鵡の声はちょっとずらしてあって意図が読めないだけに不思議な句となっています。

信治:
三月のひかりに壜の傷あらは
光線、瓶、傷という組み合わせは、ちょっと常識的。なので、この句には全面的に賛成というのではないですが。瓶の色、書いてないけど緑色のような気がするんですよね。「三月」の芽吹きのイメージにひっぱられて、だと思うんですけど、そこが面白かった。あと「傷あらは」に、すこし心理的な思わせぶりがありそうで、このナイーブさは、プラスにカウントしましょう。
雪解川遠くの橋の昏くあり
明るさと音に包まれて、遠くの橋という、小さくて動かないものが「昏い」。
この対比、見え見えと言われればそうかもしれませんが、自分も橋の上にいて、上流の橋を見ているのかな、と思うと、ほんとうにその明るさにあらがうようにして、昏い橋を見つめている本人が、浮かび上がってくる。
蛍烏賊青菜に目玉こぼしをり
あーあ、っていうねw これ、かなり好きですね。
毛糸玉とはもう言へぬ平たさよ
これは、認識の句ですね。こういうのは無季句で作るといいと思うなw
林開けて向かひあはずに椅子がある
椅子が2つあるわけでしょうね。そこを言わないことで、心理的なことを伝えるてるのがいいな、と思いました。

ボキャブラリーが俳句の埒内にあるので、分かりやすく見えますけど、この人の本丸はたぶんかなり理解しにくいような心理的なところにあって、繰り返しにな りますけど、それが抑制されつつ見えている感じが面白い。ヒリっとくる痛みがある。内面的になりすぎないように選ばれたであろう抑制された書き方、モチー フが、心理的なものに力を与えていると思いました。

寒蟬:
傷の少ない50句という感じでした。ただ
鰭の匂ひか南風蔵の中へ入る
という表題の句、「鰭の匂ひ」の表現は面白いけれどどうかなあ。詰め込み過ぎの気がしました。結局「みなみ風蔵の中へと入りにけり」に「鰭の匂ひか」をくっつけただけで、そのくっつけ方があまり成功していないような。

「蛍烏賊」いいですね、私も好きです。「惜春の傘」はやや狙いが見える気もしますが何とも言えぬ陰翳がいい。

信治さんの感想とダブるかもしれないけどこの作者は光と影の両方に惹かれながらもより良い部分は影の方にあるのかもしれないと思ったりします。レンブラントほど強烈ではないが光と影のメリハリを感じました。


4. 青本柚紀 「飛び立つ」

信治選
鳥飼つて二月の空を明るくす
蝶よりも薄く図鑑の頁あり
風船に透けて十指のふかみどり
木の芽風つよし病棟より出れば
鳥なくて鳥の巣に日の真直ぐなり
紫となりて鳩発つ晩夏かな
雪の木に雪を解かさぬ光かな
嘘よりも口は小さし水仙花
鳥の骨春風に満たされてゐる
たとへば刃蛇這ふ音の重さとは
夏川に冷え千層の岩なりき
ふと遠いひとと白鷺と飛び立つ

寒蝉選
鳥飼つて二月の空を明るくす
風船に透けて十指のふかみどり
鳥なくて鳥の巣に日の真直ぐなり
目を閉ぢてをれば眼の浮く五月
夜店てふ小さき牢のごときもの
みちのくの林檎しづかに尖るなり
手の冷えを重ね遠くに巴里のある
嘘よりも口は小さし水仙花
冬の川舌のごとくに夜が来る
四五匹のみんな恋猫みな濡れて
駆け抜けて胸の高さに夏の草
馬を彫る泉につけて来し両手
よく鳴る森木に空蝉の夥き森

信治:
「木の芽風」の句、倒置法によって、明暗の明にはっきりウェイトをかけて、かつ、その明るさの過酷さを暗示している。暗いものの内部にいた自分が明るさにさらされて、今度は自分の内部にその暗さの残響を抱え込んでいる。

他にも「紫と」「嘘よりも」「鳥の骨」「たとへば刃」など、わりと力技でポエジーを説得してしまう剛腕に、魅力を感じました。

寒蟬:
鳥飼つて二月の空を明るくす
50句の始まりとしてまことに明るく余韻に富んだ俳句。これなら句集の巻頭句としても行けそうです。信治さんの「明るさの過酷さ」という把握はすごいなと思いました。二月の痛々しさみたいなものが表面でなく深い所に蔵されているからかもしれませんね。
風船に透けて十指のふかみどり
なるほど風船を透かして見るとその向こうに持っている手の指が映っている、そういう経験はあります。しかしその指を「ふかみどり」と看破した感性は真に鋭い ものがあります。全然そうは思わなかったけれど、こう言われてみればそうかもしれないと思わせる強さがこの表現にはありますね。
たとへば刃蛇這ふ音の重さとは
これは私には成功しているとは思えませんでした。「刃」は鋭いでしょう?蛇の這う音はどちらかといえば鈍い。作者自身も「重さ」と言ってしまっている。これは矛盾ではないでしょうか?
四五匹のみんな恋猫みな濡れて
うまいなあ。「みんな」「みな」のリズム感。恋猫たちのそれぞれの姿態が見えてくるようです。
駆け抜けて胸の高さに夏の草
こう言う句は若い人、それも女性にしかできないんじゃないか。年とると駆け抜けられないんですよ。それに男は「胸の高さ」を感覚よりも理性的に理解しますが女性は感覚的に感じるんだと思うんです。それはひとえに乳房のあるなしによるのかもしれませんね。
馬を彫る泉につけて来し両手
この句には驚きました。彫刻家でもない限りいきなり「馬を彫る」とは言えないでしょう。しかも「泉につけて来し両手」が妙に生々しい。実際にやったことのある人でないと詠めないんじゃないかと思わせる臨場感があります。

信治:
ドスがきいてるんですよねw迫力がある。下五に重心の来る句が多くて、流した言い方をしない。

モチーフも一貫性があって、こう、かたちを与えたいものが、もどかしくありますよね。たとえば簡単にことばを与えしてしまうと、それはこの人だけのものではなくなってしまうような性質のモチーフがある。だから、心理的はものは、苦闘の跡をとどめてもどかしくなる。
鳥飼つて二月の空を明るくす
二月の空はもうだいぶ明るいんじゃないかと思うんだけど、それを意志で明るくすと言わせるのは、なんだか鳥のようなものを抱え込んでしまっている本人の内面の事情でしょう。
風船に透けて十指のふかみどり
これ、風船をわしづかみにしてるんですよね。そして手放せないで、ただ持ってるw この動作から伝わるものがあります。
たとへば刃蛇這ふ音の重さとは
この音の重さは、斬られちゃってるわけじゃないでしょうか、効果音つきで、自分がw
鳥の骨の句と並んで大げさといえば大げさ。でも、ガンガンいけばいいと思う。
夏川に冷え千層の岩なりき
好きな句です。
ふと遠いひとと白鷺と飛び立つ
この不安定なリズム、若い世代の共有財産になりつつある。絶句すれすれで13音目までたどりついて、間白が入るから、飛べるんですね。


6. 上田信治 「塀に載る」

寒蝉選
寒晴のかばんの蓋の磁石鳴る
夜の梅テレビのついてゐるらしく
空はいつもの白い空から花の雨
白きもの食べれば独活や雨の香の
一人は立ち一人はしやがみ梅雨の浜
炎昼に半月がありずつとある
自転車の錆びたベルから秋の蝶
ワイパー二本に軍手引つかけ雲の秋
たてものに秋の公孫樹の影はんぶん

寒蟬:
本人を前に言いにくいんですが、この50句最初の掴みが弱い気がしました。まずぐいと作者の世界に引きずり込む強引なほどの力を感じなかったんです。
寒晴のかばんの蓋の磁石鳴る
ただこの辺になってさりげない日常のさりげない、見逃してしまいそうな事物にこの人はていねいな目を向けているなと感じさせ好感を持つようになります。ここまで来て振り返ると2句目の「濡れた板」も結構面白く思えてきます。
夜の梅テレビのついてゐるらしく
不思議な梅の句です。伝統的な「梅の香」を全く感じさせない。どちらかと言えば視覚からのアプローチですね。梅を視覚から詠むのは大抵昼間です。だって夜は 見えないんだから。それで「夜の梅」と言えば嗅覚の句になってしまうんです。でも作者は「テレビのついてゐるらしく」と言うことでほんのりした明るさを持ち込んだ。これが夜の闇に浮かび上がる梅の白さを感じさせる仕組みです。「らしく」なので本当にテレビがついているのか分からない。ちょっと変わった見立ての句のようになっています。
空はいつもの白い空から花の雨
「空」と言う語の繰り返しが眼目ですね。しつこい、余計だと思うか・・・。現に最初の「空は」を取っても意味は十分通じますから。ただこの「空は」が一句全体をそれこそ空のように包み込んでいると取ると俄然素晴らしい表現に思えてくるんですよ。
白きもの食べれば独活や雨の香の
このレトリックはすごいなあ。「や」で「あ、何かと思ったらこの白いものは独活だったんだ」という驚きを表わしていますし、最後の「雨の香の」と言う付け方、余韻を持たせた終わり方は実に心憎い。
一人は立ち一人はしやがみ梅雨の浜
これ、いいですねえ。よくある風景だし、何も特別な言葉は使っていない。でも立ってる人としゃがんでる人、2人が浜辺で何らかの関係を持って関わり合っていて梅雨の雨が風景全体をけぶらせている、そういう一幅の絵が有無を言わせぬ実在感を以て立ち現われて来るのです。
炎昼に半月がありずつとある
これもよくある風景をちょっと変わった表現で描き直して見せた句ですね。先ほどの「空」の繰り返しや「雨の香の」のダメ押しにも似て「ずつとある」が使われている。意味を伝えるのなら上五中七だけでいい訳ですよ。でも作者は「ずつとある」と言わずにはおられなかった、言いたかった。この措辞によってはかな 消えそうな真昼の半月が永遠に詩の上に定着されたのです。
自転車の錆びたベルから秋の蝶
これはちょっとした驚きを掬い取った俳句らしい俳句。「錆びたベル」がリアリティーを高めています。ただ「錆びた」と「秋の」が付き過ぎかも知れない。
ワイパー二本に軍手引つかけ雲の秋
ありますね、ワイパーに軍手をひっかけてある光景。でも「ワイパーに」でなく敢えて字余りにしてまで「ワイパー二本に」とした細部描写にこの作者のこだわりを感じます。「雲の秋」という聞きなれない下五の表現が細部から一気に大きな空間へと読者を持って行く、そこが見事です。
たてものに秋の公孫樹の影はんぶん
この句の眼目は「はんぶん」でしょうね。「たてもの」という漠然とした、いい加減な表現の後に妙に正確を期したような「影はんぶん」を持ってくる。そのギャップがおかしい。作者は大真面目でも読む側はくすっと笑ってしまうんです。

信治:
ていねいに読んでいただき、本当にありがとうございます。

角川「俳句」掲載の作品も含めて、候補作を読ませていただいて、思ったんですけど、50句を通じて、その人のやっていることの文脈が伝わるかどうかということは、重要だなと。
自動車はシンメトリーで冬の海
日のひらめく海の若布を食べにけり
空はいつもの白い空から花の雨
著莪の花つめたいペットボトルかな
ねぢ花を見てゐる顔や空の雲
芋虫のまはりを山の日が透きつ
今回の50句で、僕が勝負に行ってるのって、このあたりの句なんですけど、必ずしもwそれは伝わってないんだろうなと。そういう意味での、力不足だなと。

読む側あるいは選ぶ側としては、今、俳句を、作家それぞれのコンテクスト抜きで読んで評価しようとしたら、単なる技術的評価か好みの押しつけになる。技術と好みだけでは、こういう賞のような共通領域としての俳句の場を成立させることが、できないんじゃないか。

一句一句ではなく、作家と出会うためには、句会とは違った「読み」筋が必要なのではないかと感じます。

寒蟬:
それは賞というものをどう位置付けるかでしょう。

角川俳句賞はいちおう新人賞的な位置づけらしいので一番は作者の将来性を見るのでしょうが、それが言葉ほどたやすくはないのですね。だって「こいつは将来性がある」って、仮令50句並べたからってどこまで分かりますか?

私はやはりまず1句1句をきちんと読んでいって、そこから立ち上る作者の世界観みたいなものを感じ取り、それを評価するしかないと思います。

例えばすごくまとまったかっちりした世界を提示する人もいるでしょう。反対にどっち向いてるのかわからないような、でも1句1句は面白いという独特の世界を見せてくれる人もいるかもしれない。それはどちらがいいとかどちらを勝ちとするかでなく、或るときは甲をよしとし、或る時は乙を、その判断基準はある程度相対的なもの、言ってしまえば「作者による」ものではないか。曖昧かもしれませんがそう言う他ない気がします。

それに作者の意図なんてそのまま読者に伝わる筈もないので・・・。

例えば信治さんが挙げた
自動車はシンメトリーで冬の海
日のひらめく海の若布を食べにけり
空はいつもの白い空から花の雨
著莪の花つめたいペットボトルかな
ねぢ花を見てゐる顔や空の雲
芋虫のまはりを山の日が透きつ
ですが、これらは必ずしも私にとって50句の中で光っている句ではありませんでした。自転車の句は「可愛くない子供で春の夕焼で」にも使われている「で」という語の使い方に違和感を感じましたし、「日のひらめく」はこの作者のいい部分とは感じられなかった。

この中ではすでに述べたように「空は」が圧倒的にいい。そうしてこの句の差す方向は「雨の香の」とか「ずつとある」と共通しているという私の考えは変わりません。

信治:
ぼくは実は、新人賞は、将来性を見るものでも、達成度を見るものでもないと思っているのですが。ま、そこは長くなるかもなので、後編にとっておきましょう。

寒蟬:
新人賞に対する信治さんのご意見をぜひ後半にでも聴かせていただきたい所です。私もいちおう新人賞(本来50歳未満のはずなのに諸事情でいただいた芸術選奨文部科学大臣新人賞というやつ)を戴いたばかりなので、自分の中でこの「新人」の意味をどう考えようか悩んでいましたから。

信治さんの 50句は各句の観賞の部分でも触れましたが「ダメ押し」感が際立っている気がします。そこが作者の行きたい方向かなと思った訳です。デフォルメされた細かさというかしつこいくらいの細部表現。そうは言っても所謂写生の細かさとは違って、画家がモデルを別の角度から見て筆を足すような、やっぱり「ダメ押し」 というのが一番近い。
さっき違和感を感じたと言った「・・・で・・・で」という表現もそこから生まれて来る訳ですよ。

でもこういう所を追求して成功するととても面白い世界が開ける気がします。「空は」の句なんかはそういう面白さを垣間見せてくれてるんじゃないかな。

信治:
五七五は言葉のはめっこになりがちなので、意味的にも言葉的にも、過不足なくはめるのではなく、わざときれいに収まらないようにはめるということを考えています。その結果としてのだめ押し感、たしかにそうかもしれません。

ていねいに読んでいただき、感じ入りました。
ありがとうございます。


7. 大塚 凱 「鳥を描く」

信治選
冬晴の赤い実があり怪しい実
冬帽のてつぺんどうしても余る
受験子が駅のおほきな風に立つ
冷蔵庫ひらき渚に立つこころ
割箸にくれなゐ残る子規忌かな
鶏頭の襞の深きを蟻が這ふ
おでん屋のテレビの中を兵歩む
小雨ならコートに光る逢ひにゆかう

寒蝉選
太陽はもはや熟れごろ初詣
冬帽のてつぺんどうしても余る
残雪の厚みの辞書を父より享く
いもうとをのどかな水瓶と思ふ
パンジーも選挙事務所も消えてゐる
何の木と知らねど夕焼に似合ふ
眼は次の草を見てゐて草むしり
水に影おとさぬ高さ鬼やんま
おでん屋のテレビの中を兵歩む
古暦つまり風葬ではないか
しんしんと大つごもりの油濾す
夢の島除夜のおほきな闇が来る

寒蟬:
一番安定している感じがした、というか安心して読めた50句でした。まんべんなくいい句が配してある。いやそうじゃなくて意図的でなくとも結果的にいい句が散りばめられる形になる、ということは実力があるのでしょうね。

最初にぐっと惹きつけておいて中弛みもなく最後もきちっと締められれば50句としては大成功ですから。

信治:
オーソドックスな感情入りの叙景と、そこに一つジャンプを飛躍を入れで書く、という、二つのメソッドで、書かれている、と見ました。

オーソドックスなほうは、着眼とか感情がすごく普通。「受験子が」とか。

飛躍のあるもののほうが、ぼくは楽しい。そのジャンプによって、書かれる前には気づかれていなかった感情に到達したよう見えるものもあった。「冷蔵庫ひらき」とかw

書く前から分かってたところに着地するタイプの句が多く見えたのは、「賞」に出す作品だからかもしれませんね。

ちょっと首肯しがたい行き方の句もあって。
太陽はもはや熟れごろ初詣
残雪の厚みの辞書を父より享く
「もはや熟れごろ」「残雪の厚み」は、単なる言い方ではないか。こういうのはなんとなく信用できないw

寒蟬:
「太陽は」「残雪の厚み」は技巧に走り過ぎたきらいがあるので胡散臭さが拭えないという向きもあるかもしれませんね。私はこういうレトリックもありだと思いました。

ただ
母の日の父と来てゐる楡のかげ
はないなあ。狙いが見え透いてしまう。
不平等なからだと紺の水着かな
の「不平等な」も才に走り過ぎた感がある。

信治:
寒蝉さんの評価されたポイントは、どのあたりですか?

寒蟬:
一方で「太陽は」とか「いもうとを」のような意表を突いた才気煥発さを示しながらも、冬帽子のたしかに余ってしまいがちな天辺に気付いたり、パンジーは花時が終わることによって、選挙事務所は選挙が終了したことによって消えてしまうという、そういうありふれた日常の中の「おっ?」と思う出来事にちゃんと注目して一句に仕立てる力量がある作者だなと感心したわけです。

信治:
ここで寒蝉さんの言われる「日常」は、人間の生活意識で見る世界、ということですよね。人間の平常運転の世界。

それは、禅僧が太い字で「日々」と書くような人間の究極層としてのそれとは対極にある、なんというか、ベタな日常意識。そういう人間の普通の感情に詩を見出すっていう行き方もたしかにありますよね。たしかに、ありなんですよ。
受験子が駅のおほきな風に立つ
単なる「共感」のやりとりのレベルで書かれ読まれて消費されてしまうのではないか、という危惧もあるのですが、でも、このちょっとしたやさしさには、ちょっと奥行き感がある。
割箸にくれなゐ残る子規忌かな
あんまりいい割り箸じゃない。でも、健啖のかなしき子規の忌であれば、供養と思って美味しく食べてやろうという。ちょっと構図にはめたおもむきもありますが、いい句ですよね。

寒蟬:
「人間の生活意識で見る世界」そうです、そうです。詩なんかなさそうなところに詩を見出すのが俳のこころなんじゃないかと常々思っているのでこういう書き方になってしまいました。

受験子の句は風を「おほきな」と感じたところに眼目があるのでしょう。その一点においてのみ日常から少しはみ出ている。

割箸の句は何か(例えば紅生姜)をつかんだ時の紅色が箸に残っていると気付く、その「おっ?」という感じを掴み取ったところが手柄。ただし紅=赤から喀血した子規につなげるのはちょっとイージーかな。

冷蔵庫の句は最後の「こころ」が要らないなあ。

信治:
今回、作品を寄せてくれている、青本姉妹、大塚、堀下、宮﨑さんは同学年で、寒蝉さんも所属している「群青」のメンバーですよね。僕は、彼らのこれからをとても楽しみにしています。

彼らはいわゆる「石田郷子ライン」的限界(という話を最近また蒸し返しているのですが)の内にいることを、拒否しようとしているのではないか。それは、角川俳句賞的には、取りにくくなるほうへダッシュで駆け出すような方向性なんですが。大塚さんのこの50句は、多少、賞というものに対する気づかいがあるような気がする。

でも、
冬晴の赤い実があり怪しい実
冷蔵庫ひらき渚に立つこころ
小雨ならコートに光る逢ひにゆかう
といった句にあらわれる、語操作の恣意性とでも言うべきもの、わがままな書きぶりに、僕は、今後何年か分の、俳句の可能性を感じます。

寒蟬:
信治さんの言った「賞というものに対する気づかい」は「角川俳句賞の応募作なんだからいい句を揃えてやろう」という気概でしょうか。まあ応募するからには皆そういうものは抱いている訳ですが、信治さんの言いたいのは「敢えて自分の行きたい方向性を曲げてでも」という意が籠められているのでしょうか?私自身、他の人の作品と比べて確かにこの作者は実力があるんだからもっと冒険してもいいのでは?という感じがしないでもなかった。

若い人にはまずは自分の俳句でできる最上と思われる世界を構築することに全力を傾けよ、と言いたい。その上でそれが賞を取れれば素晴らしいこと。取れなくても自分がやりたいこと、表現したい世界が書ききれていればそれでいいいじゃないか。私は句会でもそういう気持ちで投句していますので・・・。角川俳句賞に応募した時は その気持ちにぶれはありませんでした。


14. 仮屋賢一 「鷲掴む」

信治選
新緑や鬣かたきチェスの馬
小道具のパンはほんもの聖夜劇
勝独楽の立ちたるままを鷲掴む
万札の上に銭投げ残り福
春の日や吊りて仕舞へる一輪車
花水木けふは午後よりはじまる日

信治:
これらは、句意がよく分かる、誰にも異存はなかろうという句。

物を、感覚情報の提示によって、はいこれ、と見せる。「鬣固き」とか「パンは本物」とか。で、それは同時に、人間の関わる場面だったりするので、そこで「感じるべき内容」も明確。

どこも悪いところがない。というのは、1の青木さんや7の大塚さんの句からも感じたことです。ただ、もともと打率の上がりやすい作り方なんだから、こういう書き方なら百発百中であってほしいという気もします。

百発百中が実現すると、その先に、誰も書かなかったような句とか、自分も二度と書けないような句が、ぼんぼん出るようになるんじゃないかと。そこからが書き手としての勝負かな、と。

寒蟬:
10作には入れていませんが、取った句は
新緑や鬣かたきチェスの馬
大学の鬼門に実家天の河
セスナ機も花野もおなじ風のなか
終ひには紐いきいきと猿まはし
春の日や吊りて仕舞へる一輪車
水性の朧油性の朧かな
あのー、ちょっと厳しいこと書きますけど、例えば
方違して竹馬を片付けり
古暦すこし汚してより捨てり
人日のニュースは人を呼び捨てり
「片付く」「捨つ」を他動詞として使う時は下二段活用ですから、持続・完了の助動詞「り」は四段活用の命令形とサ変の未然形にしか付かない訳ですよ、絶対に。だからこれらの句は文法的に間違っている。

賞に応募する時やっちゃいけないこと、そりゃ剽窃は論外として文法の間違いと仮名遣い、漢字の間違いです。そこをクリアしていない作品を読む必要はない。時間がもったいないですから。

信治:
そうか。片付けり、捨てり、は、まずいですね。

なんとなく表現の収まりが悪いなと思ったら、「俳句検索」 のページで、言い回しを検索してみたりするといいですよ。作例がなかったり、少なすぎる言い方はあやしい。 

寒蟬:
それと、表題になっている
勝独楽の立ちたるままを鷲掴む
ですが「鷲掴みにする」とは言うけれど「鷲掴む」という動詞はあるのか?「夕焼くる」という表現ですら、有名な俳人が何人も使っているにも拘らず認めないとおっしゃっている俳人もいる。況してや「鷲掴む」はダメでしょう。

信治:
鷲掴む も、たしかにまずいか。鷲づかみにする、とか、鷲づかみに掴む、という言い方ができるわけですからね。これは、選んで申し訳なかった。

でも、この句の語勢はとてもいいので、なんとか推敲してものにしてほしいです。


15. 北川美美 「梅日和」

寒蟬選
隣人に挨拶をする梅日和
春風や拳は素手で作るもの
野を焼いて水を飲み合う男たち
昼つづく昼の麦酒を開けおれば
隕石を重し重しと十三夜
駅伝のテレビに映る近所かな
初場所のひかりをはなつ水と塩
駅伝のテレビに映る近所かな
初場所のひかりをはなつ水と塩
夏の馬川がひとつになるところ

寒蟬:
隣人に挨拶をする梅日和
いきなり表題の句を持って来た。題をどうするか?というのは結構大切だと思うんです。それが代表句であろうとなかろうと、いわば50句の顔になるのですか ら。その意味でこの第1句はよかった。気負っていなくて、他人への優しさもあって、これから始まる作者の俳句世界への誘いの句になっている。
春風や拳は素手で作るもの
「拳」という堅そうな怖そうなものと「春風」という柔らかく優しそうなものとの取合せ。俳句らしいと言えば言えるけれど、あまりわざとらしさを感じない、それは「拳は素手で作る」というアホらしいほど当たり前のことを言挙げされて、そっちに意識が行ってしまうからなんでしょう。
野を焼いて水を飲み合う男たち
これ、いいですね。野焼の光景が活写されている。野焼というイベントは確かに男のするものかもしれない。火の熱と流した汗のために喉が渇いて水をがぶがぶ呑む男たち。「飲み合う」という表現の中に連帯感を感じます。

信治:
隣人に挨拶をする梅日和
この句は、「隣人」という言葉があまりに概念的で悩みました。。わざと日常意識の雑さみたいなものを、無造作なざらっとした言い方で表しているのかなあ、と。 日用雑器のよさというか。「暖房や硝子に映る我等あり」「怪我をした男に運ぶ氷水」なんて句もあって、氷水はかき氷なんで、季語じゃないんですけど、
春風や拳は素手で作るもの
舟底より水面は高し燕子花
当たり前のこと言ってるシリーズ。でも、かすかな発見はある。
拳にしても、素手は素手だし。(虚子の「闘志抱きて」や、敏雄の「義歯確に」をふまえてるんでしょうね)。

乗っている自分たちの重さで(とは書いてないけどそうだと思う)舟底がさらにすこし低くなっていて、水面よりすこし自分の尻が低いという実感。
歩き来て足が真つ赤ぞ鳥曇
鉄橋や高きを揺れる山の藤
夏の馬川がひとつになるところ
いいですね。世界が安定してて。

予選でそんなにたくさん○をつけたわけではないんですけど、いただいた句は、味があるなと、思いました。

寒蟬:
いや、「隣人」でそんなに悩む必要はないのでは?もちろん「汝の隣人を愛せ」というイエスの言葉にあるような使い方もあるのですがこの場合は普通に「お隣のおばさん」くらいでいいのでは?

信治:
考えすぎでしょうか。僕は俳句で「隣人」てすごく使いにくいです。怪人と同じくらい使いにくいw

寒蟬:
頭を上げて啼く鳥を見る春の昼
この「頭」、「づ」と読ませるのかな。それはやめてほしい。字余りでいいから「あたま」と読ませてほしいなあ。

「舟底より」の句、私もいいと思いました。でも「燕子花」を付けられると「ああ、潮来の水郷巡りね」とオチが付いてしまってつまらない。


(後編につづく)


2016-01-24

落選展2015を読む〔1〕 大塚凱×堀下翔

落選展2015を読む〔1

大塚凱×堀下翔




編集部・記今回、「落選展2015」参加作品について、参加者でもある大塚凱さん・堀下翔さんのお二人に対談していただきました。お二人には、事前に参加作品から10作品をピックアップしていただき、それらの作品を中心に、語っていただいております。お二人の選は下記のとおりです。

大塚凱選10作品
  • 青本柚紀「飛び立つ」
  • 上田信治「塀に載る」
  • 加藤絵里子「ものの芽」
  • 杉原祐之「日乗」
  • 折勝家鴨「塔」
  • 高梨章「明るい部屋」
  • ハードエッジ「ブルータス」
  • 堀下翔「鯉の息」
  • 宮﨑莉々香「眠る水」
  • 小池康生「一睡」

堀下翔選10作品
  • 青本柚紀「飛び立つ」
  • 上田信治「塀に載る」
  • 大塚凱「鳥を描く」
  • 杉原祐之「日乗」
  • 高梨章「明るい部屋」
  • 折勝家鴨「塔」
  • ハードエッジ「ブルータス」
  • 前北かおる「光れるもの」
  • 利普苑るな「否」
  • 小池康生「一睡」

大塚:
10作品選には入れなかったものの、選んだものよりも「採れる」句が多かった作品があったことは事実です。ただ、今回は対談形式ということなので、僕が喋りたい作品を選びました。喋りたい作品というのは、僕にインスピレーションを与えてくれた作品です。俳壇ではペーペー中のペーペーであって、ましてや角川の一次通過作品に入っていない僕には本来このように通過作品を含めて公に評をするなどという権利も価値もない、と思い込むようにしているので、作品の善し悪しをあまり評したくないなあ……、と消極的な気持ちでいます。大それていることをしている以上、僕は僕の観点から「自分はどう感じたか」だけを言っていると解釈していただければ幸いです。かつて上下関係の厳しい環境で野球をしていたせいか、年功というものにはひどく臆病です。前置きが長くなりました。すみません。


堀下:
おなじく、取りたい句の数ではなく、書き方や問題意識が特徴的で、ぜひ触れておきたい作者を10人挙げてみました。あんまり気負いせず、面白い表現を面白いと言っていく感じでがんばります。


大塚:
結構、採った作品が被ってしまいましたね。



●青本柚紀「飛び立つ」

堀下:
鳥飼つて二月の空を明るくす
叢に蟻の泉を掘りあてる
馬を彫る泉につけて来し両手
青嵐鳥に始まる進化学
あたりをとっています。

蟻の泉とか、最高だねえ。わーっといる感じがたまらない。

クリアーな語彙をわりと狭い範囲から選び取って、それをどう関係づけていくのか、というところで書いた50句だと思います。あるものとあるものとを関連付けようとすると、ふつう、切って並べてぶつける、というやり方をするのが一番ラクなんですが、この50句を見てみると、そういう王道的な取り合わせの型があまり多くない。かわりに「て」でゆるやかに二物を結びつける、という方法がひじょうに多いんですね。上に挙げた〈鳥飼つて二月の空を明るくす〉もそうだし、〈鳥なくて鳥の巣に日の真直ぐなり〉〈蜩に明けて一日の晴れわたる〉あたりもそうです。

ゆるやかに繋ぐために、二物どうしのあいだに、もうワンクッションを入れているわけです。「飼ふ」とか「なし」とか「明く」がそうですね。それが、まあ読み手の感じ方にもよってくるんでしょうが、僕には、描写している感、みたいなものに思われました。細部に言及していることが、一句のたしかさになりえているような。 


大塚:
青本家が誇る妹、柚紀さんの作品から。

僕も堀下くんの採ったものはチェックをつけています。〈蟻の泉〉の句は採ってるけれど、ちょっとオーバーすぎる感じはしました。ただ、この作品群には溶け込んでいます。他にも〈鳥なくて鳥の巣に日の真直ぐなり〉〈カルデラの深さを思ふとき夏帽〉〈鳥の骨春風に満たされてゐる〉〈四五匹のみんな恋猫みな濡れて〉〈よく鳴る森木に空蝉の夥き森〉などもいただいています。まず動物の句が多いですね。特に鳥。動物を「標本」として物体的に捉えている印象でした。〈恋猫の硬く帯電してをりぬ〉がいい例だと思います。そこに「濡れる」や「風に満たされて」といったフレーズを配合することで象徴化を図っているのだといった感じです。堀下くんはその部分を「描写」と捉えているけれど、つまりそのブリッジを用いることで心象風景とリアリズムをつなぎとめているのだと解釈できるのではないでしょうか。最後の〈白鷺〉の句もそうですが、なんだかレリーフのような……或いは、古代エジプトの壁画のような原始性がこれらの句にはあるかと。色彩を多用しているのもその志向と密接だと思います。逆に、〈あめんぼに水の逆らひつつへこむ〉なんかの写生句の方が、この作品群では異質に感じられたくらいです。植物ですら動的なんですね。〈ひらきゆく蓮を真中に抱くからだ〉や〈誰も見ぬダリアに水の真つ逆さ〉など。

その一方で、〈銅像を誰も過ぎ去り花は葉に〉〈墓の裏に廻れば花野そして風〉なんかは順当な印象。〈蝶よりも薄く図鑑のページあり〉は高柳克弘さんの〈つまみたる夏蝶トランプの厚さ〉(『未踏』)が出てきてしまって、2句目なのが勿体なかった。もう少し人事の句があるとバランスがいいかな、と思ったりもしましたが、この句作の方向性を突き詰めるには人事句を入れづらかったのかもしれません。堀下くんの指摘の通り語彙やモチーフが幅広い作り方ではないので、来年これをどう更新するのか、一読者として楽しみにしています。 


堀下:
即物性を志向していないのにも関わらず、心象風景を読者に手渡そうとするために、リアリズムの影が差している感じ、ですね。



●上田信治「塀に載る」

堀下:
空はいつもの白い空から花の雨
ねぢ花を見てゐる顔や空の雲
雨の祭の金魚のやうなこどもたち
芋虫がふたつゐて芋虫のころ
をとっています。これねえ、すごくゆるゆるじゃないですか。言葉どうしの緊張感がまるでない。緊張感のない中で書くとすれば、別のところでひっかかりをみつけなきゃいけないんですが、上にあげた句などは、たとえば、語順や文法といった表現のうえでヘンなところを見せようとしていたり、あるいは言ってることに妙な実感があるぞ、というところを狙ったり、そういう方法で問題を乗り越えようとしている感じがありました。骨はないんだけど、読んでいるうちに、そこで語られている言葉が急にのっぺりと、生クリームが固まるような感じで、手ごたえのあるものに変質していくイメージ。

ものすごくしょーもない句も多いんです。〈夜の梅テレビのついてゐるらしく〉とかは、〈夜の梅〉がヘンで面白い、という向きもあるかもしれないけど、まあ、しょぼい。たぶんこの書き手は、俳句形式、言い換えれば俳句という強烈な文体をしんから信頼していて、俳句にすればどんなこともたしかな手触りをともなって立ち上がるんだ、と思っている。それが成功したときには、あ、これが言葉になるとリアリティをもつのか、とびっくりさせられます。〈ねぢ花を見てゐる顔や空の雲〉がとくにそうですね。下五へのふわふわした飛び方もいいですけど、「ねぢ花を見てゐる顔」がいいですね。「見てゐる」だから、主体が注目しているのは相手の目なんです。見られているとも知らないで「ねぢ花」なんて変なものを見ている間抜けな目。で、それは「見てゐるまなこ」とかではなく、「見てゐる顔」と書かれている。いとしさがありますよね。眉毛とか、口元とか、顔のバランスとか、そんなところもひっくるめて、ちょっと好き、みたいな口吻があるなあと思いました。

あと〈雨の祭の金魚のやうなこどもたち〉はとにかく鮮やかでうつくしいので好きです。 


大塚:
気象というか、空の句が多い印象だったのですけれど。なんていうかな、文体と相俟って、良く言えばおおらか、悪くいえばゆるゆる、という。それが成功している句にはなんだか惹かれてしまいます。

神の留守たて掛けてある濡れた板〉の謎めき、〈お団子は串に粘つて道に雪〉のどうでもよさ、〈ひばりの空のびる手足のつめたさよ〉はのびやかで季感もあるし好きです。〈炎昼に半月がありずつとある〉〈吾亦紅ずいぶんとほくまでゆれる〉なんかは言葉の密度が薄くて、鰹出汁だけの美味しさ、みたいな。個人的には〈空はいつもの白い空から花の雨〉に可能性を感じました。読み下す時には〈空はいつもの/白い空から花の雨〉とも読めるし、2度目には〈空はいつもの白い空/から花の雨〉と断裂させたい心地がして、でもやっぱりひと続きなんだなあ。メビウスの輪のような奇妙さが「花の雨」の風景と合っています。ここら辺にインスピレーションを強く受けました。〈雨の祭〉の句は、僕はあまり推しません。「雨の祭のこどもたち」が「金魚のやう」だって解釈すべきなら比喩が飛んでいないし、「こどもたち」が「雨の祭の金魚のやう」だと読ませたいなら「祭」という要素、しかも「雨」ということがこの句においては贅肉になってしまっている気がします。

堀下くんが「しょぼい」として挙げた〈夜の梅〉の句と、一方で採っている〈芋虫〉の句も作者は恐らく同様に「積極的に内容がない句」として詠んでいるつもりだと思うのですが、両者が違うのは対象へ向かう意識の密度ではないかと。〈テレビのついてゐるらしく〉はどこか他人事で、推定の助動詞だし、句が薄いのです。その点、〈芋虫〉は奇妙に執拗です。なのに述べ方がぶっきらぼうだから捻れていて面白かった。〈二月の雨ピンクのジャージ着て女は〉などの流し方は句を薄くしてしまっていると思いました。俳句の「内容」と「表現」が一定の相関関係を持つにしろ対になる概念だと解釈することを許して、両者の密度を一句においてどう設定しているかでモデル化を図るならば、両方が薄いと「しょぼい」になってしまうんではないかと。


堀下:
ああ、なるほど、対象へ向かう意識の密度、分かりました。意味性を逃れようとするときに、意味からだけでなく、対象からも目をそらしてしまっているというのはたしかにその通りだと思います。全体としてまなざしの拡散している句が多いのですが、それぞれのまなざしが拡散した先で、全部が全部なにも見ていない、ということが起こっているんですね。それぞれが見ているものが一句のうちにバランス悪く書き込まれ、そのバランスを失した感じがポエジーになる、ということならいいんですが。

 

大塚:
意味から逃れるために対象を凝視する方向性は、詩に結び付くと思います。それはゲシュタルト崩壊に似ているような。「あ」という文字を眺めていて、「『あ』ってこんな文字だったっけ?」という感触。そこに「あ」は実在するのだと思います。




●大塚凱「鳥を描く」

堀下:
タクシーの問はず語りもしぐれをり
母が拭く成人の日の鏡かな
火にひらく貝のふしぎを春の暮
母の日の父と来てゐる楡のかげ
冷蔵庫ひらき渚に立つこころ
大塚凱のことが大好きなので、もっとたくさんとろうかと思いましたが、まあこんなところで。あなたは人情派だよねえ。母とか父とかの出てくる句は最高。一緒に句会をやっていると、昭和の青春をやっているようなダサい句がいつも出てきて、うすうす大塚凱の句だろうなあと思いつつ、「これはクソダサいね」などと言いながら、やっぱり取っています。泥臭さを演じながら、それを情感のレベルにとどめて、表現上で陳腐さを見せないのが、いいところだなあと思います。

タクシーの問はず語りもしぐれをり〉は助詞が決まっているよねえ。「の」の省略が効いているので、「タクシーの問はず語り」のくだりは一語あたりの意味濃度が高くて、コクになっている感じ。「も」で、車内の淀んだ空気、それから時間が長く感じられるような気分も見えてきて、何回でも読みたい句だなあと思わされます。田中裕明の〈大学も葵祭のきのふけふ〉(『山信』私家版/1979)に見られる、助詞のゆるぎなさが、この句にもあるよねえ。

母の日の父と来てゐる楡のかげ〉は、下五、ことに「かげ」がいいね。平仮名表記がなんとも言えず純朴で。

火にひらく貝のふしぎを春の暮〉も、省略と助詞の正確さにほれぼれします。あなたはともすれば意味で読まれがちな句の書き手なんだけど、それ以上に表現が緻密だよね。


大塚:
堀下くんは僕の作品も採ってくれたようで、ありがとう。今年度、初めて角川俳句賞に投句しましたが、そこから半年以上経つと「僕のやりたいこと」と「やらなければならないこと」と「賞が求めるもの」とのそれぞれの間にはそれなりに大きな乖離があるという気がしてなりません。僕は俳句をはじめた環境からして「賞や大会は狙うべきものである」という一種のイデオロギーに曝されてきました。賞への投句は「賞を獲るため」なのか「自分の志向を発露するため」なのか、そしてその両立は可能であるのか。僕は自分でとてもつまらないことを言っていると感じるけれど、でも間違っているのは果たして僕だけなのでしょうか。僕は「積極的ニヒリズム」として俳句を詠んでいると自己を解釈していますが、あらゆる賞に対しても、投句するたび自分が「消極的ニヒリズム」に堕落していく虞を抱いています。


堀下:
いいがたいものがあるの、たいへんよくわかります。新人賞の発表の時期になるといつもウツウツとした気分になる。僕の場合は高校2年生のときに島田牙城からいきなりメールが来て「角川賞に出そう」と言われてから、志のある書き手は角川賞に出すものだとなんとなく信じてきて、これは変な言い方かもしれないけれど、年に50句、自力で最高の句をそろえられることが、特にわれわれのような若い書き手にとっての矜持であり良心である、みたいな変な倫理観すらないではないのです。きみとおなじく「やりたいこと」「やらねばならないこと」は持っていますが、それは賞の求めるものかどうか、という点とは対立する項目ではない気がするので、おれの革新的な表現が俳人たちを瞠目させるんだ、という気概でどうにかしています。……と、ちょっと青臭いことを言ってみました。


大塚:
いや、対立はしていないけれど、乖離している気がするのです。
……自分語りが過ぎました。「俳句」の話をすると心が座礁しますが、「その俳句」の話は楽しいですから。次の「その俳句」の話に移ります。



●加藤絵里子「ものの芽」 

大塚:
加藤さんの作品、堀下くんは採っていないですね。僕はなんだかゾクッとしますが。
麗らかなオルガンの中みちなりに
足踏みや菜の花畑に溶け込んで
晩春の甘皮むいて砂の中
など。この方の句からは静かな狂気を感じます。特に〈甘皮〉の句には久しぶりに興奮しました。どこか、身体が自然へ還元されてゆくような危うさを感じます。これが魅力です。自然との対話、というよりは、作中主体が外界との同化を志向しているかに。シングルヒット以上の句の絶対数はそこまで多くはないかもしれませんが、断片的にゾクッとした言葉を連ねているんです。音が悪いのが難点ですが(個人的には中八がすごく気になります)、〈春風はモルヒネのように夜行列車〉。或いは〈春を読みさして海までささくれる〉の「海がささくれる」という部分など、完璧な一句ではないかもしれないけれど、所々に可能性を感じるのです。

一方で、外界を観念として把握しようとすると、やはり成功からは遠のくのではないでしょうか。〈水温む銀河系とは素数かな〉〈空想はスクリーンを泳ぎ青嵐〉〈四分音符てんとう虫を掬い上げ〉など。それでも、この人は身を鉛筆のように削ってこの作品を書いたんじゃないかと、そんな手触りがあって。粗さはあるのですが、でも、加藤さんの作品をまた見てみたいな、と、素直にそう思いました。


堀下:
単純に中八が多いので心が折れてしまったのですが、
春を読みさして海までささくれる
桜蕊散る都心部の車輪たち
梅干しの苦手な人の背中かな
風花に問われてみれば椅子に居て
あたり気になっています。口語性がつよい。〈桜蕊散る都心部の車輪たち〉の「たち」が擬人化になっているあたりがそうなんですが、概念的とはいっても、難解な方に捉えるのではなくて、ちょっと天真爛漫の感じがある。でも、そうかとおもえば、〈春を読みさして海までささくれる〉〈風花に問われてみれば椅子に居て〉のような、どこから発想したのかちょっと不思議な、ラフで明るい言葉遣いなんだけど心中には冷静を残す句が出てきて、こういうのがいいと思いました。〈晩春の甘皮むいて砂の中〉も取りこぼしの感があります。どの句も緩急がないのが特徴だと思います。


大塚:
梅干しの句は言いませんでしたがしるしをつけています。擬人化が多すぎる、音が悪いなどはやはり難だと思います。だから50句単位で見ると堀下君のように心が折れてしまう人が出てくる。でも発想が面白くて、自由な感じが好きです。


次回へつづく……

2015-11-01

第445号 2015年11月1日

第445号
2015年11月1日



2014「石田波郷賞」落選展 ≫見る


2015 角川俳句賞落選展

1 青木ともじ  「水のあを」
2 青島玄武 「おしりの人」
3 青本瑞季 「鰭の匂ひ」
4 青本柚紀 「飛び立つ」
5 青山青史 「死海」
 1-5 ≫読む
6 上田信治  「塀に載る」
7 大塚 凱  「鳥を描く」
8 岡田幸彦  「虚も実も」
9 奥村 明 「ZARAにあるLOVE,ないLOVE. 」
10 葛城蓮士 「終末論」
 6-10 ≫読む
11 加藤絵里子 「ものの芽」
12 加藤御影 「蛇苺」
13 きしゆみこ 「まつはる色」
14 仮屋賢一 「鷲掴む」
15 北川美美 「梅日和」
 11-15 ≫読む
16 吉川わる 「アディオス」
17 杉原祐之 「日乗」
18 すずきみのる 「初扇」
19 折勝家鴨
 「塔」
20 高梨 章   「明るい部屋」
21 ハードエッジ 「ブルータス」
 16-21 ≫読む 
22 堀下 翔  「鯉の息」
23 前北かおる 「光れるもの」
24 岬 光世  「波の記憶」
25 宮﨑玲奈宮﨑莉々香)「眠る水」
26 薮内小鈴 
「声真似」
27 利普苑るな 「否」
28 小池康生 「一睡」
 22-28 ≫読む 

予選通過作品

……………………………………………

現俳青年部11月勉強会のための短期連載
敏雄のコトバ(3)……生駒大祐 ≫読む

後記+執筆者プロフィール……上田信治 ≫読む




 
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2015角川俳句賞落選展 1 青木ともじ(*)  2 青島玄武   3 青本瑞季(*)  4 青本柚紀  5 青山青史 

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1 青木ともじ  「水のあを」



2 青島玄武  「おしりの人」




3 青本瑞季 「鰭の匂ひ」



4 青本柚紀 「飛び立つ」




5 青山青史 「死海」







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2 青島玄武  「おしりの人」 ≫テキスト
3 青本瑞季 「鰭の匂ひ」 ≫テキスト
4 青本柚紀 「飛び立つ」 ≫テキスト
5 青山青史 「死海」 ≫テキスト