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2022-12-11

【連続掲載】作品50句〔3〕 ■青島玄武 万葉まほろば線 50句




 

  万葉まほろば線 青島玄武

木々芽吹く峠峠を越えてなほ

梅散るとそのまま風に融けてゆく

税務署のついでに植木市に寄る

菜の花を本尊とする古刹かな

畑焼や玉突き事故の現場そば

墓石の上で激しき恋の猫

野火守の同じ顔なる老夫婦

あまさかる鄙のほとりの桜餅

深吉野や散り敷きてなほ花盛り

花の山仰臥涅槃の御姿

石屋からカレーの匂ひ花の春

降る花を駆けゆく三本足の犬

卒園の子も両親も鎧ひをり

藤棚の奥へ奥へと杣の道

春暑き住宅街をスーパーカー

常連にトイレの場所を指南され

田水沸くカーブミラーも年古りて

燕子花噂話に暮れにけり

蛍火を見る対岸の煙草の火

滝壺の空を渡せり蜘蛛の糸

洋菓子屋駐車場にも薔薇咲かせ

あぢさゐのまま解体のすすみをり

街があり万緑ぐいとこじ開けて

煙草と汗と時代の臭ふ床屋かな

停電後冷やし中華の運ばるる

一日中蚊に食はれたるやうな空

また同じ服を選べり朝曇り

呼び鈴に犬の吠え出す夏の寺

お百度へ万のつくつく法師かな

牛小屋の裏の温泉涼新た

ガス台の五台が稼ぐ霧の朝

冠に髪を納むる風の秋

稲干して洗濯物を取り込んで

覗きたければまこと焼栗なりにけり

ぬいぐるみ抱いて下校す柿紅葉

影鬼の一人転べば草雲雀

真夜中の金木犀の並木道

コスモスにひとりぼつちのなかりけり

木枯らしや真白きチェロのケース背に

毛糸編む老婆万葉まほろば線

冬の虹雲に届かずじまひなり

塾通ひ大中小の時雨傘

枯葉降る小さき靴も靴箱へ

初夢の自分がすこし痩せてをり

小寒や三味線拭けばきうと鳴き

浮き浮きと重たき鍋を七日粥

錆び釘にまた提げ掛くる初暦

いつまでも冷たき月を法隆寺

なんとなく冬季五輪が点いてゐる

帰宅せり凍れる夜を灯すため

2022-11-06

【2021落選展を読む 2】 11. 小西瞬夏 13. 青島玄武 14. 薮内小鈴 15. 仙保恭子 16. 綱長井ハツオ 19. クズウジュンイチ 20./21 ハードエッジ (&拾遺) ■俳句の外がわ ……上田信治

【2021落選展を読む 2(了)】

11. 小西瞬夏  13. 青島玄武 14. 薮内小鈴 15. 仙保恭子  16. 綱長井ハツオ 19. クズウジュンイチ 20./21 ハードエッジ (&拾遺)
句の「外側」が書かれている

……上田信治 


 ≫2021角川俳句賞「落選展」

 ≫【2021落選展を読む 1】

 

以前「成分表」にこんなことを書きました。

ぺたぺたと地を打つ鱏の尾鰭かな 岡田耿陽〉(昭和4年)この句はすごくよく書けていて、ぺたぺたする「尾鰭」のことしか言っていないことで、かえって本体である「鱏」がただそこに平たくあるというばかばかしさに届いている。俳句は、そこに書いていない何ごとかに届けば、ひとまず「書けた」と言える。 
そこに書かれていない何ごとか、すなわち「外側」があるかどうか──。

俳句の、数ある判断と受容の指標の一つですが「言いおおせて何かある」とはよく言ったモノで、自分は、たとえばそんなことを頼りに俳句を読んでいます。

 

(*)は一次予選通過作


11. 小西瞬夏 鳥慰(*) ≫読む

炎帝やうしろの蛇口あけつぱなし

炎帝」は全空間を支配しているけれど、自分のうしろには、開けっぱなしの蛇口がある(え、まさか「炎帝」の「うしろ」なのだろうか?それはそれでおかしい、鬼コーチみたいで)「炎帝」はその季語じたいが擬人化だから、句を甘く観念的に傾けるけれど「うしろ」という語をもってきたことで、「炎帝」=全空間との位置関係というナンセンスを発生させた。これは、発明と言っていいのでは(そして無意識かも知れないけれど、沢木欣一の〈塩田に百日筋目つけ通し〉が響いている)。

青空は穴石鹸玉しやぼんだま

このような理知や観念にも「外側」はあって、たとえば「青空は穴」というワンアイディアの余白を、季語をリフレインして何も述べずに乗り切って「そう思ってしまった自分(がここにいる)」という景を立ち上げることに成功、理に落ちていない。これもまた一つの発明。

鳥籠のすみずみ冷ゆる真昼かな
白魚のからだからまたからだかな
鳥交る伎芸天女のぼんのくぼ
一語一語泡立つやうに豆の花


13. 青島玄武 紫陽花の門 ≫読む

荒梅雨やときどき壁を作る人

壁を作る」はもちろん心理的な「壁」ととるべきなんだろうけれど「」の一文字があるために、いやおうなくざらっとした壁が想像され、結果、ときどき「荒壁」を塗り上げる困った人が発生する。「親子酒」のマクラを連想する人もいるだろう。

紫陽花の門に二人の巡査かな
十時から十九時までの作り滝

巡査」の紺の制服も「作り滝」の稼働時間も景物となっている。この人の世界はバカバカしく楽しい場所だ。


14.  薮内小鈴 遊覧船 ≫読む

立雛に影さす棕櫚の戦ぎける

棕櫚という異国風の植物と立雛の取り合わせ、モダンな金屏風のような絵柄で、さらに「」の一字があることで、安土桃山?とかそんなことを楽しく連想。

アイディアを押し込むようにして書くことで、内容と形式が摩擦して詩が発生することに賭ける、そういう書き手だと思っていたのだけれど、アイディアの充満振りはそのままに、それを俳句的美意識の範囲に押し込むことに成功しつつあると見受けた。

猫柳しづくは枝を行き渡り
さへづりの向かふ方角崖近し
天井の光りは反射目借時
竹落葉今来し人と入れ違ひ
蟻速し雲はいづこか穴が開き
坂道を芋虫よぎるずれながら
逆さまに八手の花を池の水
万国旗あふぐ冬帽もう一つ
ゆつくりと魚のほかも煮凝りぬ


15. 仙保恭子 感光(*)  ≫読む

これといふ竿を振り出す秋日かな         

何を言い出すのかという切り出し方、もったいぶり方が、ひょういっとはずみをつけて仕掛けを飛ばす、魚釣り竿の運動を思わせ、さらに「秋日」でカメラを引いて、釣り人のシルエットを見せるという、ずいぶんと技の効いた句。万太郎みたい。

新宿のビルの紙めく春の雨〉〈釣銭もやさしく貰ふ帰省かな〉〈落ち着かぬ風に花火の打ち上がり〉のあたり、やや常識的とはいえ、気分のよさはある。

門口のへうたんのこと話したき
秋光やとろけるやうに砂を盛り


しかしこういう、モチーフを「言う」ことにやや失敗しているような「この人は何を言っているんだろう」と思わされる句に、自分は「外側」を、俳句の味な部分を感じる。


16. 綱長井ハツオ 溢るる泥 ≫読む

農具市棒と呼ぶには太きもの
三月の鞄なんでも入りさう
冷房やリモコンに部品の継ぎ目
腰の下まで手を垂れて夏の果


俳句のぶっきらぼうなナンセンスは、創作意識のコントロールの「」に現実がある、ということをメッセージしているから尊い(青島さんの句にも感じたことだ)。

三月の鞄」というポエミーなモチーフに対する感想がそれ? 人間、手を垂れると「腰の下」までくるのはふつう!しかし「それ」を言うことは「意識の果て」とでも呼ぶべき、ぎりぎりの外側につながっているのだ。


19. クズウジュンイチ 泥鰌鍋(*) ≫読む 

荷車に春と箒を載せて曳く

」を「曳く」という修辞はロマンチシズム過剰なのだけれど「荷車」と「」という道具立てで、その感傷を、書く自分ではなく、荷車を曳く人の内面に押し込めた。手ぬぐいでほっかむりもするといいと思う。

たまに来て軽き列車や葛の花

たまに」というのは、1時間に一本くらいか。その列車を待っていたわけではなさそうなので、この人は駅ではなく、野山か里のどこかにいるのだろう。その列車が「軽い」のは、きっとそこに乗客の人影がまばらであることを、この人が知っているからで、つまりその列車のこの世のものとしての存在が軽いのだ。

人を拒む荒廃のイメージのあるという植物に花が咲くことで非現実味が加わる(飯島晴子や永田耕衣、あるいは下村槐太の「葛の花」の句を参照されたい)。からからと軽い音を立ててやってくる鉄道車両の、存在のさびしさとかわゆさが、それに照応している。

海荒れて栄螺の奥がふかみどり
日跨ぎの鍋に火を入る花椿
出来合ひのサラダを提げて花の雨
台風は速く間違ひ電話かな
豆苗の根が張る月の台所
行く秋やしなだれ折れてピザの先
ひさびさに会つて白葱焦げてゐる


昨年の「静かな野球」の俳句の言葉じたいを攻める書きぶり(これも強く外側を意識させること)からすると、だいぶ分かりやすいという気もするけれど、その分、ヒューマンな手ざわりがある。



20.21.  ハードエッジ プランA「御国の宝」≫読む プランB「汗の笑顔」≫読む

ざあざあと夏も近づくマンホール「プランA」
横にして傘をバサバサ梅雨の日々「プランB」

この擬音を交えた二句の「雑さ」に注目。「夏も近づく」の唱歌の歌詞の放り込み、梅雨の「日々」と急に意識の幅を広げる展開という、はっきり読みどころのできている句を、このように早い(速い)文体で書くことには、たぶん可能性がある。

梅雨明けの小学校が乾くなり
焼そばの人と相席掻き氷
捕虫網幼き兄を先頭に
地球儀と西日の部屋の全てかな



以下、拾遺です。選ばせていただきました。ご応募ありがとうございました。


5. 片岡義順 舞うて舞うてなんの微熱や蝶の夢 ≫読む

目刺し手にテレビと喧嘩するおとこ
 

6. 松尾和希 メキメキポッ ≫読む 

春さむし目ぐすりのキャップであそぶ


7. んん田ああ 死後に聴く落語の落ち ≫読む

嚙みあとに続く苺の後半部
ばけもののようでたてもの秋の暮
 

8.  恩田富太 さみどり ≫読む

半月や宿の蛇口の「をん」と鳴り
紫で輪郭を描くざくろの実

9. 伊藤波 ひかる ≫読む

春の長雨オルガンに木のこころ
蜂がきて手紙に蜂をかき添へる

10. 加藤絵里子  ちぎり絵 ≫読む

春の雨卵白ねむる冷蔵庫

12. 川島由紀子 間取り図 ≫読む 

キッチンの窓に星来て木の芽和え
水仙の咲いた日空が好きと母

17. 夜月雨 呼吸器不全 ≫読む 

天才と馬鹿の間で蜆汁
ひとりずつ消えていったら夏の宵
 

18. 垂水文弥 去ル・ド・死ネマ ≫読む

はんざきを見た晴なのに晴だから
こんなにも父は糸瓜を死後のため
石榴打ち落とせば西の見えにけり
綿虫のひいふう数へ切れぬかな

2022-03-26

【2020/2021「落選展」を読む1】私たちは(伝統回帰の)三代目なのだろう 上田信治

 【2020/2021「落選展」を読む1】1.青島玄武 3. 岡田一実 4. 落合耳目 6. クズウジュンイチ

私たちは(伝統回帰の)三代目なのだろう……上田信治

 

これから2年分の「落選展」応募作を、5月までかけて読んでいく予定です。

角川文化振興財団主催の公募新人賞「角川俳句賞」の、2020年、2021年は、受賞作を見ても予選通過作を見ても、この十何年かの「俳句の変化」が「仕上がった」と言えるような年でした。(*)

その「俳句の変化」を洒落て「ウェーブ」と呼ぶならば、小誌「落選展」は、まあまあ、その「波頭」であり続けたと自負しています。

そして、この2年の「落選展」の作品は、じっさい、たいへんに充実していました。


1.  青島玄武 辛夷の空 ≫読む

休暇果つ畳にこぼすコカ・コーラ

畳にこぼすコカ・コーラ」は、むしろ、夏休みのにふさわしい景。そういう事態が「休暇果つ」すなわち最終日、もしくは、もう学校や職場がはじまっている日に起こっている、休暇が、まだ、ぜんぜん尾を引いているという可笑しさ。これから畳のコーラを拭き取るだろうツルツルとした感触も楽しい。

陸橋の上にも踊り止まぬ人
枯山河その真ん中の遊園地
おにぎりの中から桜吹雪かな
甲板が全般的に蛸となる
緑陰に冬物あまた干されあり


人間的「面白」のモチーフが、こうして景を息づかせていることは、正統的俳句の興趣と言っていいもので、自分はこの書き手のことを、ほとんど荒武者のようなユーモアの人として記憶していたのですが、認識が改まりました。

紫陽花の花びらごとの影日向


3.  岡田一実 文字 ≫読む

※一次予選通過作

熱移る三つ葉の茎や雑煮椀
吾を見て縄跳のまま横へ逸る 
門灯に貌あらはるる雪達磨 
渦潮のうづ巻く前の盛り上がり 
ヒヤシンスその根巻かれて売られあり 
雨は灯に乱れて夏の欅かな 
河骨の花ごと揺るる中の蜂 


先に触れた「俳句の変化」言い換えれば、ここ十何年の俳句のトレンドないしは課題が何だったかといえば、いわゆる「昭和三十年代世代」と呼ばれる作家たちを(とりわけ、小川軽舟言うところの、彼らの形式とのなじみのよさを)どう発展的に、あるいは批判的に継承するか、だったように思います。

それは、もう一世代前の「伝統回帰」「虚子回帰」とくくられる方向性の、昭和三十年代世代による相続の、そのまた次ということになる。

要するに、私たちは(伝統回帰の)三代目なのだろう。

 ──と、これが自分の問題意識です。

さて、この作者は、その数冊の句集において、統語の屈折やイメージの重層を駆使し、マニエリズム的な絢爛さを達成として示しました。それは、まさに、上に挙げた課題に対する回答の一つだった。

しかし今回の50句の力点は、大正から昭和初期の俳句の価値を共有する、上掲のような句群にある。発表のたびに、この人がいかに激しく「昨日の自分に飽きるのか」を見せられて、驚きます。この50句は、2020年のこの人がここにいた、という記録に過ぎないのかもしれません。

そして、これらの過去と並び立つことを志向する句にも「昔の人はそう書かなかっただろう」という逸脱的な言葉の運動は仕掛けられていて。

雨は灯に乱れて夏の欅かな 

夏の欅」という、日差しの中のそれしかイメージしようのない対象を、はげしく暗い雨に、モンタージュ(夜とも昼ともとれます)。写生の言葉が「絵」を作ろうとすることを、かすかに裏切る引っかかりがあって、頭が混乱して、とてもよいです。


4.  落合耳目 LED ≫読む

飼猫のやうに扇風機を運ぶ

この句、いいでしょう? もし「猫歳時記」を企画される方がいたら、ぜひ。いや、普通の歳時記にあってもいいような句だと思います。

台風の怒りを捨ててゐる河口
店閉めて誠に勝手ながら秋


6.  クズウジュンイチ 静かな野球 ≫読む

自分とこの作者とは、ずっと句会をやっていたので、身内に近い関係だということは申し上げておきます。やってることが、わりとよく見えてしまう。

静かな野球たんぽぽがわりとある

主人公が野球をしているともしていないとも取れるのですが、カメラか神のような透明な視点がこの景を見ている、と取るほうが、野球との距離が自在になって面白い。空間に遍満する透明な主体が「たんぽぽがわりとあるなあ」と思っている。「わりと」の措辞が、それを単純なカメラアイとは読ませないわけで、もちろん、主人公は、神様のような暇な失業者でもありうる。滋味掬すべし。

小鳥屋が一人で運ぶ花曇

小鳥屋が運ぶその対象を言い落として「花曇」と入れ替えてある。小鳥屋がそれを「一人で」運ぶ。なぜそれが「一人」と見えたのかという謎が、景全体を「花曇」にふさわしい、もっさりと薄暗いものにしている。

上掲二句「わりと」「一人で」と、言わずもがなのフレーズから発生する「すわりの悪さ」が、不安定な情緒に着地することに、妙味がある。

かははぎの煮汁に顔の剥けてをり
裏山のそとがはにゐるほととぎす
ひつかけの釘に傾く草刈機
炎天のガードレールにひどく粉
十三夜つるりとくぼむ駅の椅子
鱈ちりやきれいに住んでメゾネット
生の火を荷台に積んで焼芋屋
あの器具に鯛焼ひとつひとつ焼く


ここで書き手が提示するのは、現実のさまざまなありようなわけですが、言葉とそれの対応関係にはからいがあって(たぶん、可動域のようなモノが大きく、ぐらぐらするので)そこに読み手を誘い込む運動が発生している。

かははぎの」の「の」は主題を提示する「の」で「の剥けてをり」に係るわけですが、語順的にまず「煮汁」に係ってしまうので「」がほら、ごろんと転がりますでしょう? 「草刈機」の(たぶん持ち手のひもが釘に架かっている)状態のわかりにくさも、そのまま力学的不安定さとパラレルです。

雨粒のこまかく付いて狐かな

この狐、まっすぐこちらを見ているような気がする。光の粒をまとって、現実の狐が、使いか精霊のようにそこにいるという驚きを、言い得ている(作者は地元の野山をフィールドワークするナチュラリストでもある)。

この人の言葉は、対象それ自体の価値(季語やモチーフの具体物としての価値)よりも、言葉それ自体が面白く運動することを志向している。

それは、たとえば、鴇田智哉、佐藤文香以降の(と、くくっていいと思うのだけれど)新しい書き手が多く共有するエートスなのではないか。

 (2につづく)

 

(*)「落選展」のとりまとめを、もうたぶん15、6回やっているので、自分は「角川俳句賞」という新人賞の「定点観測者」を名乗る資格があると思う。そのたぶん誰よりも熱心で親切な「ウォッチャー」としての総括。 

 

 

 >> 【2020/2021「落選展」を読む 2】

 >> 2020角川俳句賞「落選展」

 

2021-11-06

13. 紫陽花の門 青島玄武






13. 紫陽花の門 青島玄武


薔薇どもの何処いづくへ帰り支度かな

母の日の母のわがままに付き合ふ

ほうたるの万の吐息を仰ぎ見る

梅雨に入る住宅街の駐屯地

荒梅雨やときどき壁を作る人

紫陽花の門に二人の巡査かな

葬儀屋と喪主の談笑大夕立

祭髪もう泣かぬ子となりてをり

捺印の端より滲む蝉の声

みんみんの坂みんみんを踏み締めて 

雷仰ぐ風俗街の客引きと

豆腐屋の赤子泣くなり雲の峰 

十時から十九時までの作り滝

無著より世親の少し暑さうな

油照黄泉比良坂駐車場

温泉に年寄煮ゆる山の秋 

峠まで海の匂へる良夜かな

月光を歌ふ十指の先までも

阿蘇すべて芒の下に降伏す

磐穴を神と崇むる草の花

とんばうの戸を破らんとしてゐたり

許されて金木犀の裏口へ

昼仕舞ひ秋の風鈴鳴るばかり

たそかれてなほしらしらとそばの花

紅葉散る黒式尉の目の洞へ

師走から逃げて師走の空の下

鯛焼の煮え繰り返る腸を

妹が姉を背負うて落葉道

大晦日絆創膏と過ごしけり

初晴や皺の身体の桜島

野暮用の合間に少し冷めし餅

水鳥を昨日失業した人と

虚空より摑み取つたる嚔かな

霜の朝靴の機嫌を確かめて

大寒や山へと急ぐ救急車

薄氷をやうやく出でし雲の影

他所よそ様の軒先借りて初音かな

たんぽぽやもう顔ぢうがチョコレート

貝母咲く入れぬ場所の真ん中に

世の中にしぶしぶ出づる石鹸玉

十字架の墓の周りの畑を打つ

桃の日や雀に交じる鳶の笛

花の寺虹より高くましませる

傘閉ぢて花の宴に戻りけり

花々の一から十を見てもなほ

微笑みを滴らしをり甘茶仏

藤棚の上を跨ぐや太鼓橋

夕闇に慄く気色藤の花

首のみの仏と春を惜しみけり

蝶死せり百鳥さんざめく朝に


青島玄武(あおしま・はるたけ)熊本市出身、在住。1975年(昭和50年)3月生まれ。2002年(平成14年)作句開始。2003年(平成15年)、『握手』の磯貝碧蹄館に師事。2年後に同人。邑書林刊『新撰21』に選ばれなかったほうの『新撰21』世代。現代俳句協会会員。熊本県現代俳句協会会員。2020年3月に第一句集『優しき樹』を上梓。https://www.amazon.co.jp/%E5%84%AA%E3%81%97%E3%81%8D%E6%A8%B9-%E9%9D%92%E5%B3%B6%E7%8E%84%E6%AD%A6/dp/4864388792/ref=pd_rhf_gw_p_img_3?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=YNPRW4T4F7BFPD835XPK


2020-11-07

1. 青島玄武 辛夷の空

1.  青島玄武 辛夷の空

鼻歌も秋めく頃となりにけり

休暇果つ畳にこぼすコカ・コーラ

風の色古き写真にありありと

良宵や皿を溢るるスパゲティー

爽やかに相合傘は解けたり

小さきに膝を屈むる水の秋

陸橋の上にも踊り止まぬ人

もうひとつ枝豆つまむ赤き爪

騒がしき百寿の通夜や虫の夜

またしばし夜を見つむる菊人形

枯山河その真ん中の遊園地

踏切に対岸のある寒さかな

唇を嘗めて湿すや去年今年

家元が一番下手な能始

それぞれの首を洗へる初湯かな

寒晴れやラジオ体操する背広

日輪の蘂震はせて寒牡丹

節分に少し離れて家の猫

ぶつぶつと野火の呟き止めどなし

花買うて花屋出られぬ春時雨

自転車も椿を踏んで通学す

蝌蚪の水湧くや古墳の底ひより

春灯や一日を終へし指の傷

贋物の九谷の皿の鶴も春

ぶらんこの隣は彼氏とも違ふ

目刺焼くと仏の匂ひしてきたる

まんじゆうも知らぬ顔して雛人形

散りてなほ辛夷の空のありにけり

をさなまで同じ訛や桜餅

プリウスの後部座席の桃の花

ふるさとの川の臭さよ花万朶

おにぎりの中から桜吹雪かな

打球音花の端まで響きけり

ひとひらの落花に浮かむ阿蘇五岳

蘖ゆる合掌の手を開く如

羊羮を春の愁ひを切り分くる

神様を脇に退けたる藤の花

麦秋を縁取るやうに陸上部

海神の耳へ囁く不如帰

甲板が全般的に蛸となる

滴りの下に生れにし社かな

緑陰に冬物あまた干されあり

青空の端まで田植終りけり

大王の棺重なる紅の花

とりどりに傘を傾け大祓

親の滝子の滝孫の滝と落つ

蝿帳へ賞味期限の切れたるも

紫陽花の花びらごとの影日向

軒下に迫り来たれる夏野かな

午後九時で最終列車翌は秋

2019-11-10

■2019角川俳句賞「落選展」■ 11. 青島玄武「失恋」

2019角川俳句賞「落選展」
11.  青島玄武「失恋」








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失恋  青島玄武

上見れば開く瞼や梅の花
恋猫に先輩風を吹かさるる
山火なほ寒々とある夕べかな
鼻噛んで雪解の村のラーメン屋
朧夜や菩薩の顔は罅割れて
涅槃の絵みんな失恋し給へり
日永し従姉妹の家の匂ひかな
大雨の中を戻れば雛の家
適当に五人囃子は飾られて
亀鳴くや青年いまだ反抗期
春の雨袖より舞台観るやうに
フリージア今日は寿司屋に行く日なり
一人ゐて二人の影や潮干潟
バリトンから歌曲始まる桜かな
花の宴ボタンの糸のほつれあり
遠足をくねくね曲げる熊本城
はくれんや迷へるままの花ざかり
春苺抱へスーツの男かな
幾年も阿蘇を育み田は青し
おにぎりの包みが浮かむ池涼し
燕子花踏みつつ夜を帰りけり
鯨幕パイナツプルが振る舞はれ
袋からパスタを放つ白雨かな
山中や川涼みするインド人
水槽の鮴の機嫌を取る主人
茄子が茄子たるを忘るるまでぐつぐつ
南風ビルを建てたり壊したり
万緑に組み込まれたる古刹かな
肥満児のプール開きの後の顔
夜の秋や畦道を往く救急車
白木槿お寺の裏のラブホテル
刺青の虎も酔ふなり虫の夜
絵に描きし南瓜を貰ふ画学生
風響む菊人形の腸に
円卓を醤油が回る星月夜
台風が西郷像とぶつかりぬ
首投げて見下ろしてみん紅葉山
底冷えや一升炊きのお赤飯
足袋脱いでまだ不自由な国にあり
顔見世や包帯のまま大向かふ
年齢と反比例する聖菓かな
枯野行くとは青空を歩むこと
あめつちのみにちゆあなりしもちつき機
行く年やカレーを灯すお漬物
肉体の波濤が玉を競りけり
海そして街を浸せり初茜
駅長が女神の役を里神楽
小さきバス小さきバス停山眠る
日脚伸ぶ轆轤を回し回すたび
冬の雨城は未完に戻りけり


2019-06-23

【週俳5月の俳句を読む】なんとかしましょうよ 青島玄武

【週俳5月の俳句を読む】
なんとかしましょうよ

青島玄武



角川俳句賞に毎年投稿してまして。今年も投稿いたしましたが、本当に毎年思うことがあります。

あの募集要項、何とかなりません?

俳句を知らない方がたまたま読んでいるかもしれないので、ちょっとだけ触れておきますと、この賞は「俳句界の芥川賞」なんぞとも呼ばれている俳人憧れの賞なのでございます。

では、その募集要項をおさらいしておきましょう。

未発表作品50句
●B4判400字詰原稿用紙を使用してください。
●ワープロ原稿の場合は、B4判無罫用紙を20行取りとし、大きめの明朝体を使用してください。
●原稿冒頭に作品の表題(全体を要約するタイトル)と作者名を  明記してください。
●別紙に次の項目を記して同封してください。
(1)表題
(2)俳号・本名・生年月日・年齢・性別
(3)郵便番号・住所・電話番号
(4)略歴(師系・俳歴・受賞歴・所属結社等)
(5)現在の所属結社
(6)職業
●50句中に既発表作品、二重投句があれば無効となります。
(既発表作品には新聞、雑誌、結社誌、同人誌、句会報のほか、ホームページ、ブログ等に掲載された作品も含まれます)
年齢制限がありませんから、パソコンを扱えない世代の方が原稿用紙をお使いになられる。これはわかります。

ただ、その次の
●ワープロ原稿の場合は、B4判無罫用紙を20行取りとし、大きめの明朝体を使用してください。
って、条件厳しすぎやしませんか?

だって家庭用のプリンターって、ほとんどがA4規格で、B4判なんてどうやっても無理。

てゆーか「ワープロ」って、「ワープロ」って! 

(大事なことだから二回言いました)

仕方ないので、50句をパソコンの文書作成ソフトで並べて、それを印刷したのを原稿用紙に書き綴るという原始的な方法をとっていますが、それも決まった形式がないのでどうやって書いていいかわからず、毎回「これでいいのかな?」と首を捻りながら書いてます。

この方法を取ると、どうしても書き終えた段階で数句足りない、なんてことが……。
まー、自分の注意不足が原因ですが、そのために原稿用紙を無駄にしてしまうのが本当に忍びないです。

現代俳句協会の『兜太現代俳句新人賞』は、そのへん緩やかで、
応募要項
句数:雑詠50句。但し、未発表の作品に限る(他への二重投句は不可)。作品には 必ずタイトル(題名)をつけること。
応募用紙:A4版・400字詰め原稿用紙3枚にタイトルと50句を記入。これとは 別に、同じ大きさの原稿用紙1枚に、タイトル、氏名、性別、年齢、住所、電話番号、俳歴を明記し、計4枚使用。
※作品を記入した原稿用紙に氏名を記入しないようにお願いします。
※応募原稿は返却しません。
応募資格:年齢を50歳未満(締切日を基準)とする。
応募料:整理費として2,000円(定額小為替同封または現金書留)
締切日:2019年5月31日(必着)
A4版の400字詰め原稿用紙なら、文書作成ソフトの機能で原稿用紙設定ができるので、50句を確認後、サクッと変換してきれいな原稿用紙の原稿にすることができます。

角川俳句賞の場合は手書きで清書するので、どうしても誤字脱字が出たりします。そのあたりを修正液で何とかしないといけないの、本当に面倒だし、見栄えも最悪に……。

年齢制限はありますが、これなら、別に2000円払ってでも応募したいですね。(応募しました)

「ワープロ世代」の方々には、より若い世代が俳句に親しむようになるためにも、もう少し間口を広げるような募集要項にしてみたらいかがでしょうか?

ということで、そんな若い世代の俳句がスマートフォンで気軽にみられるのが『週刊俳句』さんの良いところ。

川嶋健佑 『鍵垢手垢』5月5日号より

難解な句と平明な句が折り重なって見事な俳句作品群。

椅子のない部屋が灯って鳥雲に

青嵐の椅子のまわりに椅子を置く

椅子に名はなくて皐月という異名

椅子持って葉桜抜けて古都の家

椅子の句が10句中4句収録してありますが、どれも個性的。

1句目は平明かつ寂しい雰囲気。

2句目は「青嵐」で切らずに「青嵐の」としたことでどこか儀式的な不穏な空気が。

3句目はちょっと謎な句? なんで椅子に「皐月」という異名がついたのか、読者に丸投げされた、個人的に「落とし穴俳句」と呼んでいるジャンル。落とし穴に落ちて様々なリアクションを取る芸人を隠しカメラで撮っていて、その映像をにやにやするテレビのドッキリ番組のように、その俳句にどんなリアクションをするのかを作者が楽しんでいる。

4句目は想像するに楽しい俳句。おそらくは奈良県でしょう。大きなお寺の近く、葉桜を抜けて家まで。って、なんで椅子持っているんでしょうか? 持っているとしたらどれほどの椅子? 携帯できる折り畳みのタイプでないとだめですよね。奈良の人の独特のイントネーションの会話が聞こえてきそう。

他の句も「いや、それなに?」と訊きたくなる俳句もあるけど、ちゃんと俳句の歴史を知っている人が作っている俳句で、本当に25歳なの?と思いました。


藤本夕衣 『つややかに』5月12日号

非常に格調の高い作品群。もう少し山奥には山姥もいそうな山村の生活を見るようで、まるで飯田蛇笏や原石鼎のような風格を感じましたが、わたくしと同じ40代の方と聞いて驚いております。

まなかひに炎をみつめ春惜しむ

火の中の椎の若葉もありにけり

白服に煙のにほひまとひ来し

この三句で連作のような格調が。どれも古典を踏まえている方でないとできないと思います。

柴の束ほどき八十八夜かな

茶葉を煎るための柴なのか、はたまた炊事や風呂焚きのための柴なのかはわかりませんが、湿気や重量感といった質感があって俳句の旨味が堪能できる句だと思いました。


うにがわえりも 『食べられないぶどう』5月26日号

軽い調子にくすりとさせてくれる仄かなユーモア。

五月雨を呼び寄せている猫のひげ

紫陽花の話すは雨の言葉かな

フローリングなめらかマイケルジャクソン忌

ちょっと、ベタになりがちなところをあえて衝いてみせて反応をうかがっているようにも感じます。

空中にみどりの海わかばの波

代掻きや足首にくる土の息

たしかな観察眼でたしかな描写力。 平面でありながら野暮にはならない。

この方も20代なんですね。 本当に勉強になります。


川嶋健佑 鍵垢手垢 10句 ≫読む
藤本夕衣 つややかに 10句 ≫読む
うにがわえりも 食べられないぶどう 10句 ≫読む

2018-11-18

2018角川俳句賞 「落選展」を読む(1)  岡田一実

2018角川俳句賞
「落選展」を読む(1) 

岡田一実

「落選展」は毎年楽しみにしている(といったら語弊があるかもしれないが)。

一作品50句という分量の多さにひとりひとりの俳句観の違いがよくわかるからだ。西原天気氏の言う「落選展の意義のひとつは、予備選のかすかなる/朦朧たる可視化」()という面にも頷く。

ひとはなぜ俳句の「賞」に応募するのだろうか。

それは応募者によって様々だろう。一年の(または数年の)成果、自らの俳句観の確認、俳壇の価値観の刷新、功名心、「俳句」そのものへの寄与などなど、どれか一つと言うよりも混ざり合った動機によって作句し選句し構成して連作を編むのだろう。

「賞」というものは誰かが読んで誰かが選ぶという課程の中で生まれるので、「俳句(芸術)の高ささえ目指せば読まれなくてもいい」という考え方の人には無関係かもしれない。

しかし連作を編むことと「読む」こととの相互作用によって得られるものもあるのではないか。そういう希望の下に全作品に目を通した。

前置きが長くなった。一作品ずつ見ていこう。

1. 迎への春 ハードエッジ >>縦書き >>テキスト 

日の永くなりたることを昼休
おのづから時の満ち来る桜かな

ゆったりとした導入。

前句、「日永」を「日の永くなりたること」まで引き延ばして表現上でも「永く」してある。あとに続く「昼休」も非常にのんびりしていてたっぷりとしたのどかさを味わえる。
後句、「時が満ち来る」の方も「おのづから」という観念的発見を導入部に用いたことで「桜」も満ちてくるような時空の余裕を感じる。

半袖の亜米利加人や巴里祭
雷の近づいて来る祭笛

季重なりの句は比較的多く〈塩辛に烏賊や鰹や夏始〉〈蚊遣火の紅一点の涼しさよ〉〈踏切のかんかん照りの終戦日〉〈虫籠は終の棲家や茄子胡瓜〉などがある。いわゆる「季重なりに挑戦!」的な力の入った句はなく、さりげない感じ。

「巴里祭」は 七月十四日のフランスの革命記念日。フランスでは国祭日となっており、バスティーユ広場を中心にフランス全土の広場を中心にフランス全土の広場や通りには一晩中踊の渦がくりひろげられるそうである。それと取り合わせられる「半袖の亜米利加人」は映画などでよく見かけるあの軽装な出で立ちだ(おそらく下はハーフサイズのカーゴパンツだろう)。「亜米利加人」「巴里祭」という漢字表記が日本人からの視点のようで、自らも含めた客体としての異国人が「巴里祭」の賑わいと渾然一体となる。「半袖の」という軽さが祭に涼やかな華やぎ与える。

後句は雷鳴と「祭笛」のダブルサウンド。段々と大きくなってくる「雷」の音と祭を盛り上げるように猛る「祭笛」。雨もぽつぽつ降ってきた。法被姿で脚をむき出しにした群衆がうねる。非常に臨場感があり想像をかきたてる。

ほかにも〈包丁に林檎の種が付いてをる〉のような只事にも魅力を感じたが、〈松が枝に番ひで弾む初雀〉のように順番に説明しまう句と近似の相であり、この方向については、さらに精度を高めることができればと感じた。


2. ペンギンさん 青島玄武 >>縦書き >>テキスト 

人気なき商店街へ盆の僧

この作者は通塗の良さがあり、生活の中で摩滅しがちなささやかな悲哀への共感性が高い。

掲句、「盆」の間は休む間もなく檀家の家々を回る「僧」がふと「人気なき商店街」へ入る。昼だろうか夜だろうか。家と商店が一体化している檀家を参りに行くのか、それともただぶらりと入っただけなのか。詳細は描かれないが、そのがらんとした空間はどこか異界めき、彼岸につながる通路のようだ。残暑の盛りでもあるこの時期の「僧」の黒衣の汗や息づかいがその「人気なさ」によってかえって際立つ生々しい異物として伝わる。

クリスマスイヴの出湯の男たち

「出湯」にあつまる裸体の「男たち」。身体はもう湯に当たって赤らんでいる。かぽーん、ざざざと「出湯」独特の音が響く。この「男たち」はこの後家族や恋人と食事するのだろうか。ひとりでのんびりと過ごすのだろうか。あるいはもうパーティーは終わってからの「出湯」なのかもしれない。遠くにクリスマスソングが聞こえる。湯に浸かり「あ゛―」と唸ったら、もうそんなことはどうでもいいような気になってくる。「人は裸で生まれる」などということは聞き飽きた。贅沢なような孤独なような満ち足りた夜のひとときである。

雪靴のまま地下鉄に乗り込みぬ
とりあへず雛の置かるる冷蔵庫

言われなかったら見過ごす景色。言ったところで「だから何?」と聞かれたら答えるのが難しそうだが、かすかな違和感をセンシティヴに捉えている。

前句、「地下鉄」に乗り込む客は男も女も概ねは通常時と同じ靴を履いている。自分は「雪靴」。表面は地上の雪で濡らされた。少し恥ずかしいような気持ちを抑えて他の人々に紛れる。誰も気にする人はいない。みな他人とは目を合わさないように目的地まで「地下鉄」に揺られる。

後句、この「冷蔵庫」は低い。容量少なめのツードアタイプと見て間違いないだろう。「雛」といってもさほど立派なものではない。紙雛かもしれない。「とりあえず」なのだ。「とりあえず」雛祭の季節だから「置かれ」ている(「飾られ」ではない)。殺風景な部屋に「雛」の彩り。仄かな艶がそれだけに侘しさを募らせる作品となった。

すこし難点だと思ったところは〈草雲雀おかず一品増えてゐし〉など通俗が過ぎるところと〈凌霄花や骨を休むる遊園地〉の「骨を休むる」など出来合の比喩をそのまま独自の工夫なく用いているところなどである。


3. 砂の紋 薮内小鈴 >>縦書き >>テキスト

賑ひの床を枝豆からびゐし
二三歩をともに日向の寒雀

この作者は掲句のように句意が明瞭な句もあるが、意図的に句意をおぼろにしているところが多く、不思議な風合いを醸している。

絵にどれも熱帯林の春の暮
石段を下れば覚めて著莪の花

前句、「絵のどれも熱帯林や春の暮」なら句意に迷うところはない。しかし、「絵に」であり、「熱帯林の」である。助詞を軋ませることで詩的飛躍を試みているのだろう。字義通り読んでいくと「熱帯林」なのに「春」があるのだろうか……などと思ってくるが、「絵に」描かれているのならそういう有り得なさそうなことも回収されるのかもしれない……と思考が回遊する。

後句、「覚めて」とは「目が覚めて」ということだろうか。「石段を下り」始める時点では「覚めて」いないのか……とこちらも想像が周回してしまうが、「著莪の花」の薄紫のちりぢりとした花の雰囲気が「覚める」前と後を包み込むような働きをしていて煙に巻かれるようだ。

陸の鳥海の鳥遭ふころもがへ

この句は「陸の鳥(が)海の鳥(と)遭ふ」という句意だろうが助詞を省略してある。あるいは「陸の鳥(それと)海の鳥(と、客中主体が)遭ふ」かもしれない。舌足らずだなと思わせておいて、ぱっと切れて「ころもがへ」と取り合わせてあり、その感覚には新しみもある。

楽団に海豚の匂ひ穀雨降る

「海豚の匂ひ」とはどんな匂いなのだろう。生臭いのか、海の匂いか、正確にはわからないが、「楽団」の楽しげな様子に不思議さを与える(そもそも「楽団」なのだから音に集中しそうなものだが、ここでは「匂ひ」に集中する)。それに「穀雨降る」。情報が多すぎやしないか。しかしそこが目の粗い粒がいろいろあるような多彩さで魅力的でもある。

枯葎灯りのうちに骨を煮て

「灯りのうちに骨を煮て」は想像しやすい景色である。台所であっても戸外の料理場であっても「灯りのうちに」調理する。てらてらと照る「骨」が見える。

では「枯葎」と取り合わされるとどうか。「葎」とはもともと蔓でからみながら蓬々と茂る雑草の総称で、引いては貧しく荒れはてた家を「葎の宿」などと言う。「枯葎」とは夏に生い茂っていた葎が、冬になりすっかり枯れ果てた様子のことなので、その荒廃ぶりが眼目であろう。とげとげしい自然界の鉄条網のような「枯葎」は「骨」と共に照射される。その裏寂れた景色が浮かび上がると「骨を煮て」という行為が調理かどうかも怪しくなる……というのは読み過ぎか。ただならぬ不穏さが漂う。

春凪ぐや砂紋は江戸へ続くかに

この句は浮世絵のような描線のはっきりした景色である。旅人の気分ではないだろうか。「江戸」という言葉選びが時空を遡るような感覚をいざなう。


4. 睡足 杉原祐之 (一次予選通過作)

この作者は平明な叙情が持ち味である。素直な感覚とややノスタルジックな共感性に惹かれる。

病棟の裏の大きな桜かな

「病棟」とは病院などで、多くの病室のある一棟(ひとむね)の建物。入院施設を思う。病院にもよるが「表」(おもに南)にしか病室がない病棟はまれで、多くは「裏」にも病室があり窓がある。よって入院患者にとっては「裏」は親しみのある場所かもしれない。そこに「表」からは見えない「大きな桜」がある。すぐに行けそうでなかなか行かない「桜」の木。病棟の病室の中からか渡り廊下から見るだけかもしれないが、その「大きな桜」は病みと共にある者への希望のような働きをしている。

建売のモデルハウスの鯉幟

見たことある!と思う。思うが実際にはないかもしれない。「建売のモデルハウス」はぴかぴかでどこか胡散臭い。作られた幸せの形という感じが否めない。そこの「鯉幟」はなお一層にそのように感じる。僅かなイロニー。でも結構立派な、五色とかの「鯉幟」なんだよね、とまた見てきたかのように語りたくなる。

扇風機に当たり客待つ車引き

この景色もみたことあるあると思う。観光地に行くと今でもいますね、「車引き」。黒い制服(?)を着て夏は炎天下にいてさぞ暑かろう。「扇風機」にかかっているくらいなら「車」も頼みやすい。頼めばさっと「扇風機」から離れて来てくれるだろう。「車引き」の日に焼けた顔、涼やかな風に当たった首筋、身軽で機敏な様子、どれを取っても粋である。

どの句も景にブレはないがその分〈薬喰離れの間へと案内され〉の若干の因果、〈肌脱の僧侶バイクに二人乗り〉の類想感などは再考の余地があるように思う。

(2へつづく)

)俳句的日常『俳句賞・予備選の「闇」』 http://sevendays-a-week.blogspot.com/2017/08/blog-post_31.html

2018-11-04

■2018角川俳句賞「落選展」第1室■1. 迎への春 ハードエッジ 2. ペンギンさん 青島玄武 3. 砂の紋 薮内小鈴 4. 睡足 杉原祐之

2018角川俳句賞「落選展」第1室
(*)一次予選通過作品


1.  迎への春 ハードエッジ




2.  ペンギンさん 青島玄武



3.  砂の紋 薮内小鈴



4.  睡足 杉原祐之(*)




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