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2022-11-06

【2021落選展を読む 2】 11. 小西瞬夏 13. 青島玄武 14. 薮内小鈴 15. 仙保恭子 16. 綱長井ハツオ 19. クズウジュンイチ 20./21 ハードエッジ (&拾遺) ■俳句の外がわ ……上田信治

【2021落選展を読む 2(了)】

11. 小西瞬夏  13. 青島玄武 14. 薮内小鈴 15. 仙保恭子  16. 綱長井ハツオ 19. クズウジュンイチ 20./21 ハードエッジ (&拾遺)
句の「外側」が書かれている

……上田信治 


 ≫2021角川俳句賞「落選展」

 ≫【2021落選展を読む 1】

 

以前「成分表」にこんなことを書きました。

ぺたぺたと地を打つ鱏の尾鰭かな 岡田耿陽〉(昭和4年)この句はすごくよく書けていて、ぺたぺたする「尾鰭」のことしか言っていないことで、かえって本体である「鱏」がただそこに平たくあるというばかばかしさに届いている。俳句は、そこに書いていない何ごとかに届けば、ひとまず「書けた」と言える。 
そこに書かれていない何ごとか、すなわち「外側」があるかどうか──。

俳句の、数ある判断と受容の指標の一つですが「言いおおせて何かある」とはよく言ったモノで、自分は、たとえばそんなことを頼りに俳句を読んでいます。

 

(*)は一次予選通過作


11. 小西瞬夏 鳥慰(*) ≫読む

炎帝やうしろの蛇口あけつぱなし

炎帝」は全空間を支配しているけれど、自分のうしろには、開けっぱなしの蛇口がある(え、まさか「炎帝」の「うしろ」なのだろうか?それはそれでおかしい、鬼コーチみたいで)「炎帝」はその季語じたいが擬人化だから、句を甘く観念的に傾けるけれど「うしろ」という語をもってきたことで、「炎帝」=全空間との位置関係というナンセンスを発生させた。これは、発明と言っていいのでは(そして無意識かも知れないけれど、沢木欣一の〈塩田に百日筋目つけ通し〉が響いている)。

青空は穴石鹸玉しやぼんだま

このような理知や観念にも「外側」はあって、たとえば「青空は穴」というワンアイディアの余白を、季語をリフレインして何も述べずに乗り切って「そう思ってしまった自分(がここにいる)」という景を立ち上げることに成功、理に落ちていない。これもまた一つの発明。

鳥籠のすみずみ冷ゆる真昼かな
白魚のからだからまたからだかな
鳥交る伎芸天女のぼんのくぼ
一語一語泡立つやうに豆の花


13. 青島玄武 紫陽花の門 ≫読む

荒梅雨やときどき壁を作る人

壁を作る」はもちろん心理的な「壁」ととるべきなんだろうけれど「」の一文字があるために、いやおうなくざらっとした壁が想像され、結果、ときどき「荒壁」を塗り上げる困った人が発生する。「親子酒」のマクラを連想する人もいるだろう。

紫陽花の門に二人の巡査かな
十時から十九時までの作り滝

巡査」の紺の制服も「作り滝」の稼働時間も景物となっている。この人の世界はバカバカしく楽しい場所だ。


14.  薮内小鈴 遊覧船 ≫読む

立雛に影さす棕櫚の戦ぎける

棕櫚という異国風の植物と立雛の取り合わせ、モダンな金屏風のような絵柄で、さらに「」の一字があることで、安土桃山?とかそんなことを楽しく連想。

アイディアを押し込むようにして書くことで、内容と形式が摩擦して詩が発生することに賭ける、そういう書き手だと思っていたのだけれど、アイディアの充満振りはそのままに、それを俳句的美意識の範囲に押し込むことに成功しつつあると見受けた。

猫柳しづくは枝を行き渡り
さへづりの向かふ方角崖近し
天井の光りは反射目借時
竹落葉今来し人と入れ違ひ
蟻速し雲はいづこか穴が開き
坂道を芋虫よぎるずれながら
逆さまに八手の花を池の水
万国旗あふぐ冬帽もう一つ
ゆつくりと魚のほかも煮凝りぬ


15. 仙保恭子 感光(*)  ≫読む

これといふ竿を振り出す秋日かな         

何を言い出すのかという切り出し方、もったいぶり方が、ひょういっとはずみをつけて仕掛けを飛ばす、魚釣り竿の運動を思わせ、さらに「秋日」でカメラを引いて、釣り人のシルエットを見せるという、ずいぶんと技の効いた句。万太郎みたい。

新宿のビルの紙めく春の雨〉〈釣銭もやさしく貰ふ帰省かな〉〈落ち着かぬ風に花火の打ち上がり〉のあたり、やや常識的とはいえ、気分のよさはある。

門口のへうたんのこと話したき
秋光やとろけるやうに砂を盛り


しかしこういう、モチーフを「言う」ことにやや失敗しているような「この人は何を言っているんだろう」と思わされる句に、自分は「外側」を、俳句の味な部分を感じる。


16. 綱長井ハツオ 溢るる泥 ≫読む

農具市棒と呼ぶには太きもの
三月の鞄なんでも入りさう
冷房やリモコンに部品の継ぎ目
腰の下まで手を垂れて夏の果


俳句のぶっきらぼうなナンセンスは、創作意識のコントロールの「」に現実がある、ということをメッセージしているから尊い(青島さんの句にも感じたことだ)。

三月の鞄」というポエミーなモチーフに対する感想がそれ? 人間、手を垂れると「腰の下」までくるのはふつう!しかし「それ」を言うことは「意識の果て」とでも呼ぶべき、ぎりぎりの外側につながっているのだ。


19. クズウジュンイチ 泥鰌鍋(*) ≫読む 

荷車に春と箒を載せて曳く

」を「曳く」という修辞はロマンチシズム過剰なのだけれど「荷車」と「」という道具立てで、その感傷を、書く自分ではなく、荷車を曳く人の内面に押し込めた。手ぬぐいでほっかむりもするといいと思う。

たまに来て軽き列車や葛の花

たまに」というのは、1時間に一本くらいか。その列車を待っていたわけではなさそうなので、この人は駅ではなく、野山か里のどこかにいるのだろう。その列車が「軽い」のは、きっとそこに乗客の人影がまばらであることを、この人が知っているからで、つまりその列車のこの世のものとしての存在が軽いのだ。

人を拒む荒廃のイメージのあるという植物に花が咲くことで非現実味が加わる(飯島晴子や永田耕衣、あるいは下村槐太の「葛の花」の句を参照されたい)。からからと軽い音を立ててやってくる鉄道車両の、存在のさびしさとかわゆさが、それに照応している。

海荒れて栄螺の奥がふかみどり
日跨ぎの鍋に火を入る花椿
出来合ひのサラダを提げて花の雨
台風は速く間違ひ電話かな
豆苗の根が張る月の台所
行く秋やしなだれ折れてピザの先
ひさびさに会つて白葱焦げてゐる


昨年の「静かな野球」の俳句の言葉じたいを攻める書きぶり(これも強く外側を意識させること)からすると、だいぶ分かりやすいという気もするけれど、その分、ヒューマンな手ざわりがある。



20.21.  ハードエッジ プランA「御国の宝」≫読む プランB「汗の笑顔」≫読む

ざあざあと夏も近づくマンホール「プランA」
横にして傘をバサバサ梅雨の日々「プランB」

この擬音を交えた二句の「雑さ」に注目。「夏も近づく」の唱歌の歌詞の放り込み、梅雨の「日々」と急に意識の幅を広げる展開という、はっきり読みどころのできている句を、このように早い(速い)文体で書くことには、たぶん可能性がある。

梅雨明けの小学校が乾くなり
焼そばの人と相席掻き氷
捕虫網幼き兄を先頭に
地球儀と西日の部屋の全てかな



以下、拾遺です。選ばせていただきました。ご応募ありがとうございました。


5. 片岡義順 舞うて舞うてなんの微熱や蝶の夢 ≫読む

目刺し手にテレビと喧嘩するおとこ
 

6. 松尾和希 メキメキポッ ≫読む 

春さむし目ぐすりのキャップであそぶ


7. んん田ああ 死後に聴く落語の落ち ≫読む

嚙みあとに続く苺の後半部
ばけもののようでたてもの秋の暮
 

8.  恩田富太 さみどり ≫読む

半月や宿の蛇口の「をん」と鳴り
紫で輪郭を描くざくろの実

9. 伊藤波 ひかる ≫読む

春の長雨オルガンに木のこころ
蜂がきて手紙に蜂をかき添へる

10. 加藤絵里子  ちぎり絵 ≫読む

春の雨卵白ねむる冷蔵庫

12. 川島由紀子 間取り図 ≫読む 

キッチンの窓に星来て木の芽和え
水仙の咲いた日空が好きと母

17. 夜月雨 呼吸器不全 ≫読む 

天才と馬鹿の間で蜆汁
ひとりずつ消えていったら夏の宵
 

18. 垂水文弥 去ル・ド・死ネマ ≫読む

はんざきを見た晴なのに晴だから
こんなにも父は糸瓜を死後のため
石榴打ち落とせば西の見えにけり
綿虫のひいふう数へ切れぬかな

2022-07-24

【2021落選展を読む 1】 1. 杉原祐之 2. 西生ゆかり 3. 斉藤志歩 4. 中矢 温 ……上田信治

 【2021落選展を読む 1】

1.  杉原祐之  2. 西生ゆかり 3. 斉藤志歩 4. 中矢 温
読み手と世界を(パズルのように)関係づける

……上田信治 

 

 ≫2021角川俳句賞「落選展」

1.  杉原祐之 ウィズ・コロナ ≫読む

日盛の外階段を降りにけり
踏み分ける度に蝗の跳ねにけり
臘梅の乾びながらも香るかな


いつもの杉原さんの作品ではあるのですが、ふしぎと今年は、穏当な季題趣味の範疇にある句にひかれました。

子育て周辺の事象をモチーフに詠まれた句が、いくつかあるのですが「虐待の噂も少し秋簾」この「秋簾」は、不穏すぎるのでは。季題をよく知っているだろう作り手の、こういう目配せは怖いですね(北大路さんが書いたらのだったら名句、というような句です)。


2.  西生ゆかり 回り出す ≫読む

材木を斜めに運ぶ蝉時雨

「斜めに運ぶ」ことの実態は確定しがたいけれど、ともかく長いものが「斜め」に運ばれていく。そのとき「蝉時雨」(降るかのように同じ空間を占めるもの)に角度のないことも、また意識せざるを得ない。

七夕や横顔のあるマグカップ

「七夕」といえば相聞であり「横顔」もまたそれにふさわしいのに、マグカップに印刷されたそれは、どこまでもバカバカしく、誰とも恋愛的関係を結びそうにない。

一斉に薔薇満開や歪め合ふ
手に薔薇の涼しさやがてやはらかさ
ソフトクリーム時計回りに山と谷
虫籠の持ち手がたまに立つてゐる
山眠る電子レンジに秒と分
目の幅を目玉が動くチューリップ
エイプリルフール顔いつぱいに顔


この人の句は、ブツがそのブツ性を露わにする瞬間を描くとき、ちょっと見ないタイプのおかしみを醸しだす。高級な一コママンガを文字で描くような、書き手なのかもしれない。

蛍烏賊一人になると夜が来て

「一人になると夜が来て」のフレーズの、かがやかしい当たり前さ、無意味さ、そしてさびしさ。なぜ「蛍烏賊」か? あいつら複数性を絵に描いたようだし、夜っぽいし、眼がいっぱいあるしね。


3.  斉藤志歩 水と茶(*) ≫読む

(*)一次予選通過作

キャベツ食ふ虫その穴をくぐりゆく

たしかに、虫はそうやって、食べつつ自分が作った穴をくぐりつつ、キャベツ世界を移動していくはずだ。じっさいに見られるものかどうかは分からないけれど、見えないところで虫はそうしているはずだという、いわば「キャベツ想望俳句」。おもしろい。

球場は地図に大きく鳥渡る


地図というのは鳥瞰図なので、われわれが地図を見ているとき、鳥もまた(われわれが地図を見るのと同じ画角をもって)われわれを見ている、そのとき意識される空間のすがすがしい大きさ。

ベランダより戻る電話を切りし顔
包まれてティッシュに透くる金魚の死
鳩時計鳩を収めて穴涼し
雪解や瞼の覆ふ目のかたち
蔦若葉ゆく電線を芯として
バス停にバスの沿ひゆく暮春かな


知的な把握が「写生」に加味するちょっとした面白み。それが、読み手と世界を(パズルをはめるように)関係づける。それは、西生ゆかり「回り出す」とも共通する方法だけれど、もちろん、そこにニュアンス、色合いの違いはあって、この作者の方法は、より「なるほど」感が強い。


4.  中矢 温 ほつそりと ≫読む

もう午後の貸ボート皆湖のうへ

そこを空間的に限りあるひろびろとした場所として描いていること、「もう午後の」というフレーズが、限りある遊びの時間はまだたっぷりと残されていることを示し、つまり時間的にもひろびろとしていること。そのくせ、この句の視点となる話者はボートには乗っていないらしいこと。どこをとっても、とても、休日らしくてよい。

これからと分かる芙蓉の盛りかな
美容師は雪の岩手に帰るらし
包丁のすこしの葱を濯ぎけり
日おもてや海豚笑ふと歯がずらり
春眠やミシンを強く勧められ


紅葉狩吾と選びし真つ赤着て」「二人して手ぶらの影に寒鯉来」のような、ふつうにデートっぽい句もあるのだけれど、俳句にすることで、鮮度とか一回性が減ってしまっているような。それよりも「なんで美容師?」「なんでミシン?」という答のない句に、人がこの世界で生きているという感触がある。

(つづく)


2022-05-01

【2020/2021「落選展」を読む3】髙柳克弘『涼しき無』のことも少し 上田信治

  【2020/2021「落選展」を読む3】13.14.ハードエッジ  16.松本てふこ 17.丸田洋渡 19.矢口 晃 20. 薮内小鈴

髙柳克弘『涼しき無』のことも少し
……上田信治

 

13. ハードエッジ プランA「小さき箱」 ≫読む
14. 
ハードエッジ プランB「明日を信じて」 ≫読む

落としても割れぬコップを今朝の冬
(プランA「小さき箱」より)
電柱が出水の町に灯を点す
白玉の熱きを冷ます氷水

(プランB「明日を信じて」)

上記の他にも〈トンネルを抜けて明るし春の雪〉〈波音は波の残骸松の芯〉〈満月やダム湖の中の取水口〉〈割箸の先に毛虫がくねくねと〉などが印象的で、合わせて読むと、作者がモチーフを、事物の関係から生じる面白さに定め、それを俳句的光景において実現していることが見てとれます。

作者は、多くの句で、彼が発見した「面白さ」を、明確に書き示している。このようなロジカルと言っていいアプローチで「面白さ」にフォーカスすることは、内容・意味といったものへの志向を強めます。これは、俳句の現在のトレンドの一つかも知れない(この話、16.松本てふこ「シャンパンタワー」に続きます)。

しかし自分は、書かれた意味に収まりきれないものがあると見える、次の二句に引かれました。

魚屋の雪ふるころの品揃へ
山一つ氷つてゐたる昼の酒



16.  松本てふこ シャンパンタワー(*)≫読む 

(*)一次予選通過作品

 
雨傘をくたりと開き年賀客
太ければたやすく透けて氷柱かな
うつむいてをれば楽なり黄水仙
ふきのたう赤子の握り拳ほど
あをぞらの届かぬ繭と思ひけり
区役所へ行く夢見しと昼寝覚
本棚に少し隙ある月夜かな
 

この50句の「面白さ」あるいは内容は、いわゆる「人間味」の範疇に収まるもので、その意味内容が、季語の措定するものにしっくりと収まっている。巧みです。

そういった「よく分かる」意味内容への志向を、前項で「トレンドかもしれない」と思ったのは、たまたま高柳克弘さんの最新句集『涼しき無』(ふらんす堂)をご恵投いただき、何ページかを読んでいたからで。

通帳と桜貝あり抽斗に〉〈ぶらんこを押してぼんやり父である〉〈忘るるなこの五月この肩車〉〈子にほほゑむ母にすべては涼しき無〉〈駅前に人は濁流秋の暮〉〈パンのみに生くると決めて卒業す〉〈ふるさとに舟虫走る仏間あり(『涼しき無』より)と、これは帯に引かれた句の一部ですが、自分が思うところの「意味内容の句」が並んでいます。

たしかにね……、たとえば飯田龍太と田中裕明の後期をメルクマールにして俳句を考えたとしたら、誰にでも分かるドラマチックな内容と詩的な結晶性の両立が、俳句の理想形だとなるかも知れない。知れないんですが、じゃあ、波多野爽波はどうなるんだとw

そこに、書かれた意味とか人生からはみだしている、透明で抽象的なものが含まれていないと、自分はそれを俳句として物足りなく感じてしまう。

そして、てふこさんにも、それがたっぷりと含まれている句はあるわけです。

からすのゑんどう散歩して遠くまで
この森を欲しがつてゐる時鳥


17. 丸田洋渡 銀の音楽(*) ≫読む

(*)一次予選通過作品

窃盗のかがやきながら鵙の空
鍵ひとつふたつここのつ天の川
あちらから明けてゆく湾鳥渡る
つやつやと眼の曲面や菊花展
冬隣遠くから目が透けている
石蕗の花歯のように建つ新たなビル
分銅を囲んでいたり冬の夜
ちかちかと独楽の負け合うからくりは


これは、意味内容と詩的結晶性に分ければ、結晶性にほぼ全フリしている50句で、抽象的なのですが、同時にきわめて具体的に掴まれた抒情性があって、そこに作者という主体との対話性が生まれている。

俳句の意味とか内容というものは、そんなふうに、書かれた言葉が直接には示していないところに、生まれるものでもあって。

窃盗のかがやきながら鵙の空

意味不明のように見えるかも知れませんが「鵙の空」と天を振り仰いだとき、そこにはもう「鵙」と「窃盗」がひびきあって、ピカレスク的なものへの「あこがれ」(そしてその貧しさへの「かなしみ」)が発生している。

冬隣遠くから目が透けている

「隣は何をする人ぞ」があるので、本人、室内にいると読みたい。二階の居室にいて、木が葉を落とした空が広く窓から見えている。そして彼は、自分が一人でいることを、強く意識している。

天という字の対称に厚氷
書くうちにふと明るくて窓は雪
春のたましいの全体的な腐敗
鳥なら今日は飛んでいた空花かんざし
薇のすさまじい渦人体にも
金盞花卵のような明るさに
一羽ずつ涼しい鳥の汀かな
火と汐の交わっている牡丹かな
プールから鳥見えて空羨まし


2020年の「落選展」には、何作か、これは作者のこの時点での最良の達成だろうと思わせるものがあって、丸田洋渡さんの「銀の音楽」は、その一つでした。ぜひ、50句全体を確認され、ここには「作者」がいる、ということを確かめられたい。


19.  矢口 晃 帰る家(*) ≫読む 

(*)一次予選通過作品

排泄のための筋力鳥渡る
雁渡るビルを林と想ふとき
秋空へ音叉の音の出で行かず
ひらきたる指にかげなき四月かな
春蔭やぐしやつと畳む乳母車
鳥雲に入る炒飯の紅生姜
鼻先に汗しあはせになるための


高柳さんは前掲句集のあとがきで「主題の明確な句が多いのは、私なりの挑戦だ」「生や死にまつわる根源的な主題に、俳人もまた向き合うべきではないか」と自身の考えを明らかにされているのですが、労働、生活、死といったものに向き合った作品を高柳さんも属する「昭和三十年生まれ世代の次の時代を作るべき」世代グループの一人として、先駈けのように書き続けてきたのが、矢口晃さんであることは論を俟たない。

ひらきたる指にかげなき四月かな〉〈鼻先に汗しあはせになるための〉もうワーキングプアの恨み節ではない、働く人生の(微量のアイロニーも含んだ)肯定を受け取って、佳句だと思いました。

バス停のひまはり園児より高し
流星の尾よ野ざらしの大仏よ


バス停があることで生じた背比べの複雑さ、「猿の惑星」のラストにも似た幻想といった遊戯性にも引かれました(もともとじつはユーモアを武器にした書き手なのだと思います)。流星の句、その尾を、大仏がつかみそうではないですかw


20.  薮内小鈴 蜂と切手   ≫読む

水中を藻にまみれたる枯蓮
ゆりかもめ退屈顔の前へくる
万両や夕暮にして晴れ渡り
濡れてゐる漫画雑誌と女郎花


この人も、自身の感じられた面白さを、俳句に落とし込むことを楽しんでいる。それはきっと俳味と言われる領域なのだろう。

立春のホームの先にひらく傘

これは、いいフレーズ、いい情景。
 

 

 

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2022-04-10

【2020/2021「落選展」を読む 2】7. 西生ゆかり 9. 杉原祐之 10. 空谷雨林 11. 高梨 章 12. 中田 剛 あやうきにあそぶ……上田信治

 【2020/2021「落選展」を読む 2】7.  西生ゆかり 9.  杉原祐之 10.  空谷雨林 11.  高梨 章 12.  中田 剛 

あやうきにあそぶ……上田信治

 

7.  西生ゆかり 体と遠足(*) ≫読む

第一次予選通過作品

寄居虫を運ぶピアニストの右手
七月は光る焼肉屋の看板
秋の三階のコンセントの暗さ


オーソドックスな俳句(結社とか近現代俳句の遺産とか)とは違うところから書き始めた書き手は、しばしば、モチーフ=素材に対するフェチ、といって狭ければ「面白がり」をバネにする。この作者にも、そういうところがあるようです。

素材が目立つタイプの書き手がアマチュアっぽく見えるのは「俳句の価値は内容の価値とは別に現れるもの」だからだけれど、初心というわけではないのに「そこ」を離れない書き手は、自分がそう見えることを、自ら引き受けているのでしょう。

素材の面白さのレベルにとどまらないものが、言葉の運動として、内容と緊密に一致して現れるのであれば、それは俳句のまったく正当な書法であり、この人の書くものは、アマチュアっぽさをむしろ美点にしながら、その域に達しているわけです。

寄居虫」と「ピアニスト」というモチーフの「フェチ」あるいは「面白」っぽさ。優美な手がヤドカリを乗せて、という絵と、演奏時の「運指」が移動する節足動物の脚のようであるという絵が二重写しになっていて、そこに「ピアニストの右手」という音のぎくしゃくがダメをおしている。

秋の/三階の/コンセントの」と、とぎれとぎれになりそうな口調をたどっての結語が「暗さ」であるという、それは、さぞ殺風景な三階の空間だったことだろうというガッカリ感。せっかく三階までのぼったのにという内容が口調に結びついて、十七音が、他にどうなりようもなかったという仕方で、充実しています。

海老で作るハートマークや冬の旅
柏餅書けなくなつてからの指
フランスの犬の心配桜の実
蛸の脚二本と本体の一部
珈琲が来てから外すサングラス


まぎれもなく「現代」である生活。これらのモチーフの、微量の馬鹿さとグロテスクさによる趣味性の表現は、詩に充足することを許されない同時代的不全感と、なおもそれを楽しんでしまえる胆力とを、読み手に共有させる。

つまり、この書き手は俳句の中で「ニヤニヤする」ことに成功している。


9.  杉原祐之 空バス ≫読む

七夕の夜の七人の句会かな

この「七人」の「」の無駄さ、無意味さは、ブラヴォーに値すると思うんだけど、たぶん、客席で自分しか立ちあがってないw 

この作者専門の、低佪とただごとは、虚子とホトトギスの系譜を意識しつつ書く人にとって、ひじょうに生産性の高い領域で、若手でも、西村麒麟、抜井諒一、小野あらたと、それを主たる方法とする何人もの書き手の名があがります。

そして、低佪とただごとは、低さに対する初発の驚きを失えば頽落する。ただごとは(本当は)ダメ比べになってしまってはダメなのですが、しかし。

七夕の句の(なんというか)下に突き抜けたどうでもよさには、ただごと俳句を更新するヒントがあるように思います。

もじやもじやの雲を割りたるけふの月

このたび、第二句集『十一月の橋』を上梓された。


10.  空谷雨林 花園 ≫読む

四才のあなたに蝶がとまりしこと

この句の「四才のあなた」は、「卒業の兄と来てゐる堤かな(芝不器男)と同じ言い方で、誰でもありえたはずの「あなた」()を、その日その時、ただ一人の「その人」だった人にしてしまう。

不器男の「兄」の句は、自分にとって俳句の一つの究極なのだけれど、その究極は、同時代の俳句にこうして何度でも見出せる、ありふれた奇跡でもある。

春の波みな包帯にしたまへと


11.  高梨 章 透明水彩(*) ≫読む

 
第一次予選通過作品

この犬をつれてのはらにはるのあめ 
その場所はこれからさらにいぬふぐり
芹をあるくきのふの雨の声がする
とどかないひかりもあつて野の遊び
とつぜんですが鰆を食べにいらつしやい 
永き日やこれから足を組みかへる
ここに住むひとりのひとの皿と薔薇
聞いてゐたつもりが風鈴鳴りにけり
皆さびしいところに住んで土用かな
ばつたの死いちにち靴をはいてゐた
じやがいもをひとつ取つてくれないか
三人のうちのひとりが蒲団敷く


この作者に、好きな詩人は誰かを聞いて、中公文庫の『日本の詩歌』などで探して、ゆっくり読みたい。まちがいなく、この人は、ゆたかな詩体験をバックボーンとして持っているはず。

50句がその詩的なトーンを崩すことなく一貫しているのは、それだけでもたいしたことだと思うのですが、注意してみれば、一句一句に、単なる「詩」っぽさにとどまらない、ヒューマンな内実がモチーフとしてあることに、気がつく。

皆さびしいところに住んで土用かな

皆/さびしいところに住んで」は「皆さびしいところに住んで」でもある。つまり、そこは、多くの人のくらしがあるのに、全員さびしいという、そんな場所なのだ(しかも、それが「土用」)。自分は、川沿いに小住宅が建ち並ぶ光景をイメージしました。私たちは、みんな、そんなさびしいところに住んでいる。

ばつたの死いちにち靴をはいてゐた

いちにち靴をはいてゐた」ものすごく当たり前のことなのに、こう書かれると、それがとてもざんねんなこととして響く。たとえば「セールスマンの死」といった言葉(戯曲のタイトルだけれど)が連想されるわけだけれど、そのときこの「ばった」は、歌って暮らしたかったけれど働いて死んだタマシイのように見えてくる(バッタが靴を履いていたら、それ漫画映画だし)。

この50句が、一次予選を通過し、岸本尚毅さんの推薦を得て本誌に抄録(10句)されたというのは、なかなかの快挙だったのではないでしょうか。


12.  中田 剛 捨てる神(*) ≫読む

第一次予選通過作品

靄きれぎれに冬の田にやすらへる
山裾に雨脚さはるしぐれかな
庭草にきたる枯れいろ粛粛と
冷えきりし肌着に首をとほしけり
霙降るなかを漬物石さがす
蒟蒻の土佐煮いただく翁の忌


1句目から6句目までを、省略せずに引きました。

それぞれに見所があって、破たんがない。立派な句ばかりです。「靄きれぎれに」の、2/5/5/5という、沈み込むような破調。中句を5にした字足らず感が、中句と下句のあいだに、深い切れを生み、そこでほとんど息が尽きるのだけれど、その疲労感と、冬田にひろがる靄の視覚像がぴったりとシンクロしている。「冷えきりし」の句の「」を通すという描写のたしかさ。たしかに、肌着の冷えを受けとめるのは、まず首で、そこにヒヤリとしたものが触れることは、たいへんに不吉な冬の朝である。

息白くいのちはひとつきりなると

それに続く7句目ははっきりと通俗のゾーンに足を踏み入れていて、となると、1〜6句目の「」「山裾」「庭草」「肌着」の各句、心象風景として、あるいは俳句的景としてベタに過ぎると言えなくもない。そのトーンは最後まで継続していて(これはちょっとどうかなあという句もある)それは、この作者が、そういう「あやうきにあそぶ」を楽しんでいるということなのかもしれない。そして、とうぜんのように、見所のある句、立派な句はいくらもある。

元日は湯を沸かしをる音に覚め
虹のいろ空に吸はるる二月かな
御所の夜気春の鳴神わたりゆく
夕空のはたして暮れぬ燕の子
青梅を片手づかみに筵まで
かたつむり高浜虚子の庭に湧く
おぢさんとおばさんだけで溝浚へ


  >> 【2020/2021「落選展」を読む1】

 >> 2020角川俳句賞「落選展」

2022-03-26

【2020/2021「落選展」を読む1】私たちは(伝統回帰の)三代目なのだろう 上田信治

 【2020/2021「落選展」を読む1】1.青島玄武 3. 岡田一実 4. 落合耳目 6. クズウジュンイチ

私たちは(伝統回帰の)三代目なのだろう……上田信治

 

これから2年分の「落選展」応募作を、5月までかけて読んでいく予定です。

角川文化振興財団主催の公募新人賞「角川俳句賞」の、2020年、2021年は、受賞作を見ても予選通過作を見ても、この十何年かの「俳句の変化」が「仕上がった」と言えるような年でした。(*)

その「俳句の変化」を洒落て「ウェーブ」と呼ぶならば、小誌「落選展」は、まあまあ、その「波頭」であり続けたと自負しています。

そして、この2年の「落選展」の作品は、じっさい、たいへんに充実していました。


1.  青島玄武 辛夷の空 ≫読む

休暇果つ畳にこぼすコカ・コーラ

畳にこぼすコカ・コーラ」は、むしろ、夏休みのにふさわしい景。そういう事態が「休暇果つ」すなわち最終日、もしくは、もう学校や職場がはじまっている日に起こっている、休暇が、まだ、ぜんぜん尾を引いているという可笑しさ。これから畳のコーラを拭き取るだろうツルツルとした感触も楽しい。

陸橋の上にも踊り止まぬ人
枯山河その真ん中の遊園地
おにぎりの中から桜吹雪かな
甲板が全般的に蛸となる
緑陰に冬物あまた干されあり


人間的「面白」のモチーフが、こうして景を息づかせていることは、正統的俳句の興趣と言っていいもので、自分はこの書き手のことを、ほとんど荒武者のようなユーモアの人として記憶していたのですが、認識が改まりました。

紫陽花の花びらごとの影日向


3.  岡田一実 文字 ≫読む

※一次予選通過作

熱移る三つ葉の茎や雑煮椀
吾を見て縄跳のまま横へ逸る 
門灯に貌あらはるる雪達磨 
渦潮のうづ巻く前の盛り上がり 
ヒヤシンスその根巻かれて売られあり 
雨は灯に乱れて夏の欅かな 
河骨の花ごと揺るる中の蜂 


先に触れた「俳句の変化」言い換えれば、ここ十何年の俳句のトレンドないしは課題が何だったかといえば、いわゆる「昭和三十年代世代」と呼ばれる作家たちを(とりわけ、小川軽舟言うところの、彼らの形式とのなじみのよさを)どう発展的に、あるいは批判的に継承するか、だったように思います。

それは、もう一世代前の「伝統回帰」「虚子回帰」とくくられる方向性の、昭和三十年代世代による相続の、そのまた次ということになる。

要するに、私たちは(伝統回帰の)三代目なのだろう。

 ──と、これが自分の問題意識です。

さて、この作者は、その数冊の句集において、統語の屈折やイメージの重層を駆使し、マニエリズム的な絢爛さを達成として示しました。それは、まさに、上に挙げた課題に対する回答の一つだった。

しかし今回の50句の力点は、大正から昭和初期の俳句の価値を共有する、上掲のような句群にある。発表のたびに、この人がいかに激しく「昨日の自分に飽きるのか」を見せられて、驚きます。この50句は、2020年のこの人がここにいた、という記録に過ぎないのかもしれません。

そして、これらの過去と並び立つことを志向する句にも「昔の人はそう書かなかっただろう」という逸脱的な言葉の運動は仕掛けられていて。

雨は灯に乱れて夏の欅かな 

夏の欅」という、日差しの中のそれしかイメージしようのない対象を、はげしく暗い雨に、モンタージュ(夜とも昼ともとれます)。写生の言葉が「絵」を作ろうとすることを、かすかに裏切る引っかかりがあって、頭が混乱して、とてもよいです。


4.  落合耳目 LED ≫読む

飼猫のやうに扇風機を運ぶ

この句、いいでしょう? もし「猫歳時記」を企画される方がいたら、ぜひ。いや、普通の歳時記にあってもいいような句だと思います。

台風の怒りを捨ててゐる河口
店閉めて誠に勝手ながら秋


6.  クズウジュンイチ 静かな野球 ≫読む

自分とこの作者とは、ずっと句会をやっていたので、身内に近い関係だということは申し上げておきます。やってることが、わりとよく見えてしまう。

静かな野球たんぽぽがわりとある

主人公が野球をしているともしていないとも取れるのですが、カメラか神のような透明な視点がこの景を見ている、と取るほうが、野球との距離が自在になって面白い。空間に遍満する透明な主体が「たんぽぽがわりとあるなあ」と思っている。「わりと」の措辞が、それを単純なカメラアイとは読ませないわけで、もちろん、主人公は、神様のような暇な失業者でもありうる。滋味掬すべし。

小鳥屋が一人で運ぶ花曇

小鳥屋が運ぶその対象を言い落として「花曇」と入れ替えてある。小鳥屋がそれを「一人で」運ぶ。なぜそれが「一人」と見えたのかという謎が、景全体を「花曇」にふさわしい、もっさりと薄暗いものにしている。

上掲二句「わりと」「一人で」と、言わずもがなのフレーズから発生する「すわりの悪さ」が、不安定な情緒に着地することに、妙味がある。

かははぎの煮汁に顔の剥けてをり
裏山のそとがはにゐるほととぎす
ひつかけの釘に傾く草刈機
炎天のガードレールにひどく粉
十三夜つるりとくぼむ駅の椅子
鱈ちりやきれいに住んでメゾネット
生の火を荷台に積んで焼芋屋
あの器具に鯛焼ひとつひとつ焼く


ここで書き手が提示するのは、現実のさまざまなありようなわけですが、言葉とそれの対応関係にはからいがあって(たぶん、可動域のようなモノが大きく、ぐらぐらするので)そこに読み手を誘い込む運動が発生している。

かははぎの」の「の」は主題を提示する「の」で「の剥けてをり」に係るわけですが、語順的にまず「煮汁」に係ってしまうので「」がほら、ごろんと転がりますでしょう? 「草刈機」の(たぶん持ち手のひもが釘に架かっている)状態のわかりにくさも、そのまま力学的不安定さとパラレルです。

雨粒のこまかく付いて狐かな

この狐、まっすぐこちらを見ているような気がする。光の粒をまとって、現実の狐が、使いか精霊のようにそこにいるという驚きを、言い得ている(作者は地元の野山をフィールドワークするナチュラリストでもある)。

この人の言葉は、対象それ自体の価値(季語やモチーフの具体物としての価値)よりも、言葉それ自体が面白く運動することを志向している。

それは、たとえば、鴇田智哉、佐藤文香以降の(と、くくっていいと思うのだけれど)新しい書き手が多く共有するエートスなのではないか。

 (2につづく)

 

(*)「落選展」のとりまとめを、もうたぶん15、6回やっているので、自分は「角川俳句賞」という新人賞の「定点観測者」を名乗る資格があると思う。そのたぶん誰よりも熱心で親切な「ウォッチャー」としての総括。 

 

 

 >> 【2020/2021「落選展」を読む 2】

 >> 2020角川俳句賞「落選展」

 

2020-11-22

追記(未成年閲覧非推奨) 髙鸞石

追記(未成年閲覧非推奨)


髙鸞石


さて、

落選展に応募したみなさん。松尾さんの作品を読めば読むほど、大人どもの作品の腐臭が鼻につく。
特に5.8.12.19番の作品はコロナウイルスの次に人類にとって害悪であるとすら思う。小学生からやり直してほしい。

まず、こいつ。

5. 片岡義順  舞うて舞うて舞うて川まで枯一葉

うんざりするようなタイトルで、しかも

コロナ禍へ食えぬ趣向や花に雪
撃ったのは向日葵らしいゴッホの死


と中身も面白くない。同じタイトルで何年も応募している方のようだが、いい加減そのつまらないタイトルを捨てることをおすすめする。捨てられないほど良いタイトルでもないだろう。それから、自作掲載ページのコメント欄で長々と〈自句自戒〉しているはうんざりした。精進潔斎して自分を見つめ直してほしい。

7. 西生ゆかり 体と遠足

交はらぬ玩具の線路雪催
百日紅漫画の恋が叶はない
桜餅日記に書かなかつた海
遠足のきちんとずれてゐる手足


上手いことを言っているし、それなりの美しさはあるが、飛び抜けて優れたものは見当たらない。

ぶらんこの下の地面が剥けてゐる
熱帯魚の後ろに海が描いてある


よくわかるが、よくわかるがゆえに、意外さも驚きもない。こういう発見の句はそれほど光っていない。精進潔斎して自分を見つめ直してほしい。

8. 島村福助 春のウイルス


ウイルスの天敵と成れ鯉幟
幻の開会式も暑苦し
春休みクレヨンで描くコロナちやん
春節を福が倒れてゆくニュース


世間のニュースと自分のニュースを俳句にして並べたところで、それは自己満足以外の何物でもない。このような陳腐なものを読ませられる角川俳句の担当者たちには同情を禁じ得ない。精進潔斎せよ。

11. 高梨 章 透明水彩


プラトンの唇にふれたる螢かな
ここに住むひとりのひとの皿と薔薇

これは悪くないが、

じやがいもをひとつ取つてくれないか
月いでて月のひかりに箸二本
三人のうちのひとりが蒲団敷く
夏の海すうつとあがる軽い鳥


といった句からは、表現の仕方にもその材料にも何一つ新鮮なものを感じないのは私だけだろうか。私が角川俳句の編集者ならこの作品の原稿を折り畳んでゲロ袋にする。作者は精進潔斎せよ。

12.中田 剛 捨てる神


豆を撒く得体の知れぬウイルスで


ハァ?

霙降るなかを漬物石さがす
アメリカザリガニ釣るに蛙の足もぎし
亀鳴くや老いてはじめて分かること


と、他の作品も、描きたいことを明確に示すことができているものの凡庸。老いてはじめて分かることもあるだろうが、俳句に関しては手遅れである。精進潔斎する必要すらない。

19. 矢口 晃 帰る家

牛乳の白の賑やか冬の朝
次々と聖夜へ上がるエレベーター
画用紙のたつぷり白し夏始
バス停のひまはり園児より高し
シャワー浴び徹頭徹尾草食系


徹頭徹尾ホームラン級の駄作で構成された連作である。こんなものを書いて、万が一それで受賞できたとて、本人にとっても、俳句界にとっても、何が面白いのかと思う。作品をより洗練させ、個性を獲得するためにも精進潔斎を進める。

16. 松本てふこ シャンパンタワー

旅いつも尿意と共に暮れかぬる
虚子の忌の屁の確かなる臭ひかな 
   

空回りはしていない、が、こういう、小出しにされた下品さは、(まぁ俳句のセンセイ方にはそれなりにウケるのだろうが)本当の意味で「下品」であると思う。

とはいえ、こういう下品なもの以外は

ささやかに果肉蔵せし酢橘かな
初不動弊社の社名長きこと
月光に手相広げて地図のやう


など、大したことがないから困ったものだ。もともと過大評価されてきた人だが、この人の実力はここまでかと思う。作者には1年間の精進潔斎が必要である。


17. 丸田洋渡 銀の音楽

たんぽぽや今もみずみずしい戦禍
一枚の蝶かと思うヨットかな


全体的に無駄は少ないが、自己のイメージに酔っぱらっているから、例えば上の句の「みずみずしい」とか2句目の「かな」が飾りになってしまっている。そういう空虚な飾りを大量に読まされると単純に飽きてしまう。

この人はネットで発表している作品の方が面白い。
たとえば短詩系ブログ「帚」に掲載された連作「儀後」の

光には光語があり長い吐瀉
儀のなかの奇術しかるべきときに鷲


など。こちらの作品のほうが見るべきところがある。もっともこういう作風だと角川俳句賞など受賞できないだろうが。

選考委員のケツにキスしながらほどよくウケる俳句を書き続けるか、それとも自主自律の道を歩むか、はっきりしないから、結局落選作のようなぼんやりしたものしか書けないのだと思う。はやく決断してほしいものだが。精進潔斎して覚悟を決めてほしい。

まとめ

掲載された落選作全体を俯瞰すると、詠む対象が「安逸安穏の世界と、その世界でのゆるやかな、しかし教育程度には知的な生活」に収斂していっているように感じる。そしてなにより、「個」というものが溶けて流れてしまっていて、読ませる力に欠ける。「時代」と切り結ぶ勢いはもちろんない。そういうものしか詠めないのなら、それを詠んで、岸本尚毅あたりを感心させて賞なりなんなりを獲得すればよいと思う。しかしそういう作品に、俳句の世界の外にいる他者を本当に感動させるほど強度はない。絶対に、ない。

松尾和希さんへ 髙鸞石

松尾和希さんへ


髙鸞石


はじめまして。わたくしのなまえは、こうらんせき(髙鸞石)といいます。

まつおさんが、かどかわはいくしょうに、おうぼしたはいくを、よみました。いっぱいはいくをかいて、がんばりましたね。すごいとおもいます。
わたくしは、まつおさんのはいくが、とてもすきです。とてもすきなので、まつおさんのはいくをよんだかんそうを、かきました。

まいにち、がっこうのべんきょうが、たいへんだとおもいますが、ひまなときに、よんでください。

【まつおさんのはいく】

かぶとむしぶんぶんとぶとぶかぶとむし

おもしろいはいくですね。「ぶ」の字がいっぱいで、かぶとむしがいっぱいいるふうけいがわたくしのあたまにうかびました。「かぶとむし」がさいしょとさいごにあるのもいいですね。かぶとむしは、かっこよくぶんぶんととぶからこそ、かぶとむしですよね。

ふゆりんごいるかみたいにジャンプする

りんごをとろうとしてジャンプしたのですか? 「いるかみたいに」がおもしろいとおもいました。背をのけぞらせておもいっきりジャンプしたのでしょうね。

はるのひのくるみみたいなとりがいる

これも「くるみみたいな」かおもしろかったです。とりのからだのもようが、くるみみたいだったのですか? それとも、からだをまるめたとりなのかな?いずれにしても、すばらしいはっけんだとおもいます。

ふくらんだままでねているこいのぼり

すごいはっけんでびっくりしました。こいのぼりなおいてあるのをみて、「ねている」といったところが、まつおさんらしいですね。こいのぼりが、ほんとうのこいみたいに、いきているようにかんじました。

はすのはにみずがたまっておもしろい

きれいなはいくですね。「おもしろい」がよいです。「おもしろい」ことをそのまま「おもしろい」といえるまつおさんのかんかくは、すばらしいとおもいます。

てんめつがはやいのがげんじぼたるだよ

ほたるをよくかんさつしてますね。「だよ」がよいとおもいました。このはいくをよむと、まつおさんにはなしかけられているようなかんじがして、したしみのわくはいくです。

ピザはんぶんきってまだまだピザのこる

おなかいっぱいピザをめしあがったのでしょうね。「まだまだ」ということばから、ピザの、たべてもたべてもなくならないほどの大きさがたしかにつたわってきます。「ピザ」ということばを二かいつかっていることからは、このピザはいつなくなるんだろう、と、ピザを見つめているまつおさんのまなざしがつたわってきます。

サンタからもらったちきゅうぎこわれたよ

どうして、また、どのようにちきゅうぎがこわれたのでしょうか。いろいろなことをかんがえさせてくれる、すごいはいくだとおもいました。「ちきゅうぎがこわれたよ」ということばから、わたしは、いま、せかいでおこっているさまざまなもんだいのことをおもいました。

【さいごに】
まつおさんのはいくをよんで、わたくしは、げんきをいっぱいもらいました。ぜひ、これからも、このせかいの、とりや、むしや、けもの、やま、うみ、かわ、いし、はっぱ、ビルやひこうきなど、いろいろなものをみて、はいくをたくさんかいて、たくさんのひとをげんきにしてあげてください。わたくしもまつおさんにまけないようにがんばりたいとおもいます。

    はいくかいから、ほされたにんげん
        こうらんせき(髙鸞石)より

 

≫追記著者の意向により、未成年の閲覧は非推奨とさせていただきます――小誌運営】

2020-05-31

【2019落選展を読む.5】「私性」と自由 古川朋子「みみづくの散歩」、丸田洋渡「花のゆうべ」、ふけとしこ句集『眠たい羊』を読む 上田信治

【2019落選展を読む.5】

「私性」と自由

古川朋子「みみづくの散歩」、丸田洋渡「花のゆうべ」、ふけとしこ句集『眠たい羊』を読む

上田信治



今回は「8.みみづくの散歩」(古川朋子)と「9.花のゆうべ」(丸田洋渡)の2作品を読み、あわせて、高山れおなさんが2019年のベストにあげていた句集、ふけとしこさんの『眠たい羊』についても書きます。

三つの作品を取りあげるのは、それらが俳句に表現される「私性」の現在地点をよく現しているように、思えたからです。



2. 古川朋子みみづくの散歩 >>読む

古川さんは「蒼海」(堀本裕樹主宰)所属。第6回星野立子新人賞を受賞。角川俳句賞でも2016年(*1)2017年と一次予選を通過した注目の作家です。 

春の川生きて可笑しなことを言ふ

かさぶたはかさぶたのまま牡丹雪

この先の靴跡深し菫草

海に来て山の近さよ氷水

立ちながら眠るペンギン秋の昼

遠目にもわかるおむすび岸は秋

鰡跳ねてけふ日曜のこの感じ

みみづくの散歩はひとの肩の上

室咲やひとりにひとつ長机

初夢に見てにぎやかなお正月

戸を引けば階段のある寒さかな

いちにちは全き青のヒヤシンス

さて。

春の川生きて可笑しなことを言ふ

内容は、人がふつうに生きていて感じるであろう、生への肯定。けれど、この「生きて」は出そうで出ないフレーズで「盆踊人に生まれて手を叩く」(岩淵喜代子)「水無月や地球に生まれ傘をさす」(山本紫黄)のような、人間のどうしようもなさを描いた句を思い出した。つまり、この句は、日常のスケッチのようでとても思弁的で、生のストレートな肯定のようで、かすかに淋しい。

またそれは、単独では成立ぎりぎりの不安定なフレーズなわけだけれど、その不安定さとバランスする「春の川」によって価値が確定している。

鰡跳ねてけふ日曜のこの感じ

けふ日曜の」の調子の良さと「この感じ」の大胆さ。冗語に冗語を重ねることは、日曜日の感じを出すための、認識の引き延ばしであり、また「鯔跳ねて」のあとにしばらくの時間があったことの強調でもある。

ある時間の中の一瞬の偶然が、平板な生の持続に何の影響も与えない(かのように見えて、何かを動かしている)。それは誰もが見たことのある「」がはねるという現象(季語でもある)から析出された、普遍的な何ものかだ。

この季語に対する意識の深さは「春の川」から生命感を浮かび上がらせる繊細な手つきにもあらわれている(擬人法と考えると全く面白くなくなるので、そうは取らない)。

かさぶたはかさぶたのまま牡丹雪

この先の靴跡深し菫草

海に来て山の近さよ氷水

室咲やひとりにひとつ長机

牡丹雪」のやわらかさと終わった季節の名残であることが「かさぶた」に二重写しされること(この取り合わせは、津川絵理子さん的に上手い)。「菫草」の句に、さらりと芭蕉が重ねてあること。海水浴場だろうか、この「山の近」い海が、すでにすばらしく涼しく、それによって「氷水」の価値にさらに繊細なチューニングが加わっていること。「室咲」の句が、習字教室?を思わせつつ暗示にとどめ、物だけを書くことで(季語を場面の一要素に縮小することなく)くっきりとオブジェ化していること。

これらの句、言葉の運用も内容も人を驚かせることが少なくストレートでありながら、複雑なたくらみがしかけられ、立体化がなされている。

そうやって、俳句という小さな詩型のもつインティマシー(親密さ)を大切にしながら、詩として高度なものを作り出していることに、この作者の志向するものが見える。

微量の不自然さを含む語法に見られる新しさへの意志と、季語の扱いに現れる繊細さと複雑性。ここには、いわゆる「平成俳句」の可能性を生きのびさせる方向が現れているのではないかと、わりと本気で思っている。

立ちながら眠るペンギン秋の昼

遠目にもわかるおむすび岸は秋

みみづくの散歩はひとの肩の上

初夢に見てにぎやかなお正月

これらの句に現れた「親しさ」「かわいさ」もまた、俳句がまだ攻め尽くしてはいない可能性だろう。こういったものを「かわいい」と感じることを自分に許すことも、また「私性」の俳句への持ち込みである。(*2)

滝の音すこし歩めば川の音」「しづけさのまま夜に入る野分あと」のような(俳句読者全体との距離を計量するような)常識的な作や「また少し夕日くづれて梨の花」「神さまに輪郭のある涼しさよ」「いきいきとおたまじやくしに蛙の目」のような、面白さはありつつも、ゆるさや強引さを感じる句もある。
 
古川さんには、この際、ご自身が、俳句の最も新しい価値の一部を作りつつあるということに、開き直ってしまわれることを期待したい。



*1 古川さんの2016年作品はこちら 

>>「逃水」

*2 2010年に「ゼロ年代の俳句100句」というミニアンソロジーを作った際「私性=ノーバディな私による「私」語り」という項目を立てたのだけれど、そこには、まだ野口る理さんも福田若之さんも名前がなかったわけです(あれから10年かあ、とこれは個人的つぶやき)。

ここしばらくの、俳壇で話題となった作者・句集を固めて読んでいて気がついたのは、非常に小さな、ささやきやつぶやきのような句の多さです。それらを、ノーバディな=誰でもない、誰でもいい、どこにでもいる(しかしまぎれもなく、どこかにいる)「私」の声、というふうに名付けてみたら、ふに落ちるものがありました。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/06/100_2462.html



9.  丸田洋渡「花のゆうべ」>>読む

丸田さんは、20代前半の若い書き手。平野皓大、柳元佑太、吉川創揮さん達とともに、短詩形ブログ「箒」を創刊。こちらで、定期的に近作が読めます。

http://houkipoetry.com/



春暁の谷を隔てて鳥と鳥

鷲の巣や静かな場所で書き直す

噴水のひよひよとでて巻きもどる

木洩れ日に犬さしかかり五月の犬

芍薬や喜びは球体である

風鈴を繋げるように坂上る

朝曇二つしかない家の鍵

吾亦紅夢に出てくる町の地名

鹿の毛の斑らに光るところあり

鵯や妹にまだ小さな手

寒鯉は手をかえす踊りのように

この人も、俳句を「私的」に書こうとしている。

俳句はともすれば、いわゆる「個性」をいったん棚上げし、共通の価値観によって、作品を律することを好む。とりわけそれは「修練」や「師承」を強調する、結社の主流をなす考え方で、それは、若書きが素朴派的に面白くなってしまうことを、「いったん」抑圧しておくことに大きな意味があるのかもしれない。(*3)

逆に短歌は「一人称」であることが、エートスとして、はじめから分けもたれているらしい。少なくとも入り口段階において、共同性のあり方が、私性をめぐって逆なのだ。

しかし、もしまだジャンルに試し尽くしていないエリアが見えたなら、そこへ突っ込むように試行を重ねることは、あとから来た者の務めだろう。とりわけ、はじめから作家であろうとする自恃のある書き手であれば。

鷲の巣や静かな場所で書き直す

鷲の巣」を見て、それに背をむけて、自分の場所に戻る。見たと思ったらもう自分の場所に帰っている(ここには時制の齟齬があるのだけれど)その性急さに、俳句的な私性のあらわれがある。つまり、自分は、この人が「静かな場所で書き直そう!」と言っていると読んだのだ(「鷲の巣」と「静かな場所」が同じ一つのもののように取れることは、句の結構を弱くしているかもしれない)。

木洩れ日に犬さしかかり五月の犬

芍薬や喜びは球体である

やはり、さいごに「!」を足して読みたくなる性急さを感じる二句。「芍薬」の川柳的な言明もいいけれど、「五月の犬」の、そこまでゆるく進んできて(「さしかかり」は相当ゆるい)下五で急に、そう思ったからそう言った感じ(つまり「五月の犬!」)は楽しい。

春暁の谷を隔てて鳥と鳥

噴水のひよひよとでて巻きもどる

朝曇二つしかない家の鍵

鹿の毛の斑らに光るところあり

こちらは、採点競技的にも、得点がねらえそうな句。

この人は、ウェルメイドな句ものへの志向と、私的なものへの志向を合わせ持っていて、そのバランスを見つけようとしている所なのかもしれない。筆者はそのゆらぎに魅力を感じている。

とりわけ「朝曇」の句の、なにに文句を言ってるんだか分からない(イコール詩的に上質な)淋しさと、色彩に惹かれた。

鵯や妹にまだ小さな手

はじめ「カササギ」と空目して恋の句と思ったのだけれど、「」であれば、現実の記憶。「まだ/小さな」と句切れをはさんで読み進めると、手の中の妹の手がしゅーっと小さくなっていくような、時間が巻きもどって自分も子供にもどってしまうような、魔法的な美しいイメージが手渡される。

「や」と打ちだして、遡行の出発点に眼前性を加えたこともよい。

既視感がないとは言えない内容だけれど、むしろ、普遍的なものに、言葉で微量のマジックを加えているというべきだろう。佳句だと思う。

*3 若い落語家たちの群像劇である映画「のようなもの」(森田芳光)は、そのあたりの事情をうまく点描していた。







ふけとしこ句集『眠たい羊』(ふらんす堂)

ふらんす堂オンラインショップ

ふけとしこさんは、「カリヨン」(市村究一郎)をへて「椋」(石田郷子)「船団」(坪内稔典)に参加。『眠たい羊』が第五句集となるキャリアの長い作者。

ふけさんのような作家の句集と「落選展」の作品を、並べて鑑賞することに、失礼さを感じる方もいらっしゃるかもしれない。

しかし新人賞の応募作には、同時代のもっとも先端の問題意識があらわれている(あるいは、少なくとも「べきだ」)と、自分は思っていて、その同じ課題を、ふけさんの句集は「分けもっている」と感じたのだ。(新人賞の応募作もまた、作家の作品として読まれるべき、ということも思います)

『眠たい羊』は、本当に佳句揃いの句集なので、ランダムに引いていきます。

日が溜まる大根畑の足跡に 

足跡が刻印された瞬間と、そこから経過した時間、そしていま私がそこに視線を向けている時間、と一つのアングルに、いくつかの時間が書きこまれている。それは、そこに痕跡をのこした人が今はいないということだけが、描かれている絵でもある。土の軟らかさと、色彩の対比が心地よい。

鉄橋の三角三角春がくる

淡雪や干菓子焙じ茶いただいて

調子でできているような二句。

なのだけれど「三角四角」といえば字数が合うところを、あえて「三角三角」で中八にしている、この破調、胸にきませんか? 「春が来る」をこう配してのこの「三角三角」は、人をはげます調子であるように思えた。

淡雪」の句。「干菓子焙じ茶いただいて」の助詞を飛び石のように飛ばしていく軽さと、主人公が室内画の一部にでもなったような静かさとの、微量のアンバランスに興趣がある。

自分が「三角三角」や「干菓子焙じ茶いただいて」に句会で出会ったら「わがままな言い方」と評すだろう。もちろんいい意味で。

前回取り上げたクズウさんのような(あるいは、生駒さんや青本さん達のような)言葉に負荷をかけてたわめていくのではなく、もう少しカジュアルに、楽に、言いたいように言葉が使われている。

要するに、自由度が高い。

というと「型や形式を逸脱しない中にも自由はある」という話を出してくる人がいそうだけれど、そういう「不自由」を感じない(感じさせない)から「自由」ということではなく、もっと積極的に、書きたいように書いてはみだしてしまう、むしろはみ出してしまう自分の勝手さを面白がるという、私性と自由を、一つのものとして追求していく書き方がある。

もっとも、自由であろうとすることは、それなりに「家賃の高い」行き方でもあって、それこそ天然ものの「上手さ」と「品の良さ」がないと、目も当てられないことになるのだけれど。

梅花藻の水にタオルを絞りけり

ご無体なようだけれど、雑巾じゃないんだから、きっとこのタオルの水もきれいなんだろう(というような「品の良さ」の話をしている)。

季語・水草の花の本意(*4)は、たぶん「別天地」なので(「河骨に金鈴ふるふ流れかな 茅舎」「水草に白楼ひくき門もてり 多佳子」)、タオルの水をジャーとしぼるのは、あの世とこの世、肉体と抽象の次元のちがいを攪乱し、ひとつながりにしてしまうことだ。

山近く暮らし秋刀魚を焦がしけり

この理屈の通らなさ。というか、あやうく通ってしまいそうになる理屈の、念の入ったナンセンスには、滋味掬すべきものがある。優雅と言えばいいのかな。ほんとうに何の意味もないけれど、なんとなく色合いもキレイだ。

春昼や壁へ広がる湯気の影 

擂粉木をつるりと洗ひ夕長し

風鈴や酢へ放つべく魚を切り

待春やスープの底にひよこ豆 

発想が、生活感情に近い。

偉大なる明治大正時代に生きあるいは生まれた人々(主に男性)とは、どうにも、もともと人間が違う。偉大さや荘厳さが身に沿わないという「私たち」が、この世にいる。

小さくひそやかで親密であることで、その感受性の正当性を訴える。それがいわゆる「石田郷子ライン」(と筆者を含む何人かが一括りに呼んでしまった作家たち)の、分けもった時代精神なのだと思う。

そして「擂粉木」の句の「つるりと」、「風鈴」の句の「放つべく」という言葉の軽さに、この人の固有性がある(もちろん「船団」の流儀でもある)。

雀蛾に小豆の煮えてゐる匂ひ

山の日の丸テーブルを三つ寄せ

義士の日の混み合うてゐる足湯かな

雪の日を眠たい羊眠い山羊 

雀蛾」という、蛾の中に雀がいるような奇体ないきものに赤茶色の小豆の匂いを重ねて混乱させたり、「丸テーブル」を三つ寄せることの落ち着かなさと由来のない祝日「山の日」のよるべなさを寄り添わせたり。「」と「山羊」と「眠たい」と「眠い」の違い(字数でしかない!羊と山羊は違う生きものなのに)などなど。この句集の、オリジナルな面白さを数えていけば切りがない。

とりわけ「義士の日」の句。ごく当たり前の日常風景なようで(忠臣蔵といえば雪の日にざっざっざっと歩いて行くわけですから)四十七士の足だけの幽霊が現れたかのようにも読める、その知的なはからいに大いに喜びました。

製材所の焚火のなんといい匂ひ

そして、この、そりゃそうだろうなあ、っていう、計らいの無さも。



*4 裏本意については、昔こちらに書きました。>>

2020-04-26

【2019落選展を読む.4】「新しい」と「深い」 上田信治

【2019落選展を読む.4】



「新しい」と「深い」

橋本小たか「凄い坂」とクズウジュンイチ「水路」を読む

上田信治


今回の「落選展を読む」は、編集部による一次予選通過作であるクズウジュンイチさんの「水路」と、同じく予選通過作、橋本小たかさんの「凄い坂」(「俳句」2019年11月号掲載)を読みます。

合わせて、俳句の「新しさ」と「深さ」について、考えたことを書けたらと思っています。


橋本小たか「凄い坂」

2019角川俳句賞一次予選通過(本誌に50句掲載)
「俳句」2019年11月号 >> https://amzn.to/2yqQ4dG

「凄い坂」は小澤實さんの◎で、受賞2作に続く評価を得た作品。

橋本さんは「円座」「秋草」所属。「円座」の武藤紀子さんが、新しい感覚をもっていると橋本さんを、「秋草」の山口昭男さんに預ける格好で、二誌所属となったそうだ。橋本さんは『たてがみの掴み方 俳人・武藤紀子に迫る』という武藤さんが俳句人生と作品を語り尽くす、メチャクチャ面白い本の、聞き役まとめ役でもある。

1句目から7句目まで、略さずに引く。

飼つてゐる羊に梅の咲きにけり

南座に今灯のともる田螺かな

夏燕道路標識青と赤

見てゐれば家の人くる幟かな

棕櫚一本花さく家へ凄い坂

大皿の鰹にサランラップかな

門あけてすぐに玄関蝉丸忌

ここまで読んで、この人は「新しい」と思った。「新しい」に「 」(かっこ)をつけたのは、何を新しいとするかは、意見の分かれるところだからだけれど、そのことに同意してもらえるかどうか、一句ずつ検討していきたい。

飼つてゐる羊に梅の咲きにけり

一見ふつうの句に見えるけれど「飼つてゐる」という導入から「咲きにけり」への展開には異様なものがある。通常の構文意識であればこうは続けない。日常の意識のあり方から断絶した、と言って大げさなら、数センチの浮遊。よく見ると地に足が着いていないのが自分の俳句だということを、巻頭の1句めから表明しているのだ。

南座に今灯のともる田螺かな

芭蕉の「田一枚」あるいは、岸本尚毅「手をつけて」と同じ取り合わせの「かな」という型。そのことはいいとして、その場所に田螺がいる? すぐ近くに川はありますけど、鴨川が。田螺が「蛙の女郎買い」のように、夕暮れの田んぼから町の灯を遠望しているのか、あるいは屋根の形からの連想か(だとしたら、ずいぶん豪勢な田螺)。ともかく一見ふつうに見えて、大きくデフォルメされた取り合わせだ。

夏燕道路標識青と赤

虚子の「線と丸電信棒と田植笠」を連想させる、写生の行きすぎた(やりすぎの)純粋主義の再現。「夏燕」の空への広がりがいい。

大皿の鰹にサランラップかな

冗談のような「かな」といい、素材といい、きわめて意識的にモダナイズされている。

見てゐれば」の句には「の人」というずいぶんな口語がすべり込ませてあるし「蝉丸忌」から連想される交通のイメージと「門開けて」の取り合わせも、まったく伝統的ではない。

棕櫚一本花さく家へ凄い坂

凄い」は活用も口語「坂」に接続することも口語的。これが表題句なのだから、ますます作者のスタンスは明らかで、この人は「新しい」ことをやって、賞を獲る気なのだ(その気持ちはすごく分かる)。

下から見上げる人の目に、高く伸びた棕櫚が見えているのだろう。それだけ伸びる時間が経過した家は(自分の生家ではなくても)誰かにとっての懐かしい家だ。そして、そこに到る道がめちゃくちゃな急坂だというw なんで、この家の人はこんなとこに住んじゃったか、という可笑しさ。棕櫚の花は初夏なので、その坂は気持ちよく登れるというものだけれど。

50句通して読んでみて、この人はまず「作り方」を意識して書く人だ、と思った。

1句目の「飼つてゐる」のような、すーっと入る導入(素十がよく使う型だ)の句は、今作に「見てゐれば家の人くる幟かな」「まづひとつ螢袋になってをり」「やってきて芋の葉ほめる漁師かな」「そのなかにアロエの猛る片かげり」「つよく吹く風の鳥籠昼寝覚」がある。

2句目の「田螺かな」のような、取り合わせの「かな」は「青田より帰りてひらく金庫かな」「バスケットシューズのきしむ菖蒲かな」「にはか雨軒に切りこむ牡丹かな」「菜の花の一列咲きし年賀かな」「道ばたに喪服かたまる青葉かな」と並ぶ。

冒頭の何句かのような、いい意味で頭のおかしい句ばかりではないし、特定の型の句が目だって多くなるのは、この人の使える「手」が、まだ、そこまで多くないということかもしれない。

とはいえ、面白い句、心惹かれる句がいくつもある。

玉葱を吊りさげてある脚立かな

取り合わせを現物でやっているような、さっぱりとしたオブジェ感。言葉は歌わず状態の説明につとめているのに、ものが季語だというだけで俳句に見える(「寝かしある庭梯子にもげんげかな」「衝立に子供の水着掛けてあり」という同形同想の句があるのは惜しい)。

農村に近い郊外の風景という俳句に親しい範囲に、道具立ては収めつつ、文体やモチーフがバレない程度に「動かして」ある。人があまりやらないやり方で、俳句を、自分の側に引きつけているのだ。

法然忌脚立の足を包む布

また脚立w 法然といえば、念仏を民衆に広めた人。その忌日がなぜ「脚立の足を包む布」なのかと問うても、説明の言葉が追いつくような取り合わせではない。

緑蔭のバターナイフとフォークかな

緑蔭の洋食器に意外性はないけれど、あの小さなバターナイフと普通のフォークの並びは、バランスをかすかに乱していて可笑しく、その間抜けさが不穏でもある。

ところで。

私たちは、いろいろな書き手がいろいろな価値基準で書いている俳句を読み、やろうとしていること自体が違う作品の、それぞれの価値を考えるわけだけれど、そのとき、芸術作品のプリミティブな実用性(なぐさめとか気晴らしとしての効用)を除いて、共通に使用可能な物差しがあるとすれば、それは「新しさ」と「深さ」ではないかと考えるようになった。

「新しい」というのは、通時的な蓄積の総体(と現時点で見えるそれ)から見て「外れ値」でありながら成立しているということで(だから、昔の人の句も、思い思いに新しい)。「深い」というのは、古い新しいは関係なく、見えないところで成立しているということだ。この「成立」は、単純に心が動くということと、俳句になっているということの両方だ(そして俳句になっていることの定義はむずかしい)。

橋本小たか「凄い坂」50句のいくつかの句は、間違いなくとても「新しい」。俳句にとってまだ例外的な方法を試み、成功していると思う。

その方法は、近年、若手作家を中心に多く試されているものにも連続していて(後半でとりあげるクズウジュンイチさんとも共通する部分がある)、方法自体で突出したオリジナリティや革新性を主張するものではない。

けれど、それらの句が穏当な「ふつう」の俳句としても読めることが、かえって、橋本さんのアプローチの私有性を目立たせている。わずかだけ違っていることが、その人の「わがまま」さの質をよくあらわすのだ、とも言えようか。

50句の半数を超える句は「ふつう」にかつてあった俳句を志向する俳句だけれど(「ライターの火の立つ匂ひ竹落葉」「さかさまに傘干す泰山木の花」「つよく吹く風の鳥籠昼寝覚」など)、自分には「棕櫚一本」のような新しみのある句が、叙景としても興趣深く読めた。

飼つてゐる羊に梅の咲きにけり

羊と梅の取り合わせは(ちょっと意外ではあるけれど)自然に近い暮らしの、日常の範囲内のモチーフだ。しかし、その羊について「(自分が)飼つている羊だ」と認識することと「梅が咲いた」と認識することは、どうにも食い合わせが悪い。

もし上五が「ひとの飼ふ」なら「羊に梅の咲きにけり」で何の問題もない。「飼ひ山羊に」「飼ひ犬に」なら「梅の咲いたる藁家かな」とでも何とでも言える。

だから、たぶん「飼つている」に隠れた「(自分が)」が邪魔なのだ。羊も梅もそれぞれ無関係に世界の側に属していて、「羊」を「飼つてゐる」などと思っている自己意識は、その世界に置きどころがないということに気づかされる。

俳句が書いたことのない、しかも俳句でしか書けないような「深さ」に触れる、驚きがあった。


クズウジュンイチ「水路」

2. クズウジュンイチ「水路」≫読む

クズウジュンイチさんを、橋本小たかさんと合わせて読もうと思ったのは、クズウさんもまた「新しさ」を追求している書き手だ、と思ったからだ。

春泥や次次と来て頭数

ほほじろや橋は架かつてゐる水路

みつばちの外働きの終ひかな

稲刈の機械に親が乗つてゐる

これはという句を、4句引いた。「頭数」。「橋は」の「」。「外働き」。「」という語の、軽い乱暴さに、おどろき呆れつつ、味読してほしい。

たとえば、この「橋は」の「」のような助詞のずらしなどのことを、前半で「近年、若手作家を中心に多く試されているもの」と呼んだ。いまどき、その助詞を「を」にするか「は」にするかなどを意識せずに書く俳人は少数派だと思うけれど、そこを、さらに一歩も二歩も踏み外してみせるというやり方である(見たことあるでしょう?)。

仮に言語の恣意的運用と呼んでおくけれど、それは坪内稔典さんの言う「片言性」を、わざとらしいほどに加速し押し進めたものでもある。

古くは西鶴の阿蘭陀流や芭蕉の漢文調、子規や虚子にもあったけれど、数奇とバサラの滅茶苦茶流みたいなものが現れるのは、俳句形式のどこかに必然性のある、先祖返りなのではないかと思う。

春泥や次次と来て頭数

頭数(になってゆく)」とうしろを省略し、わざと舌っ足らずにしていることが、この句にドラマとして発生している馬鹿馬鹿しさと虚無感によく釣り合っている。次々きては単なる員数にされていく、影のような男たち(だよね)が、春光に包まれた泥人形のようにイメージされる。

ほほじろや橋は架かつてゐる水路

橋は」の「」は、わがままが過ぎる。橋「は」架かっている……じゃあ、この人はなにが不満なんだwと。

頬白が鳴くような郊外を、水路(用水路かもしれない)に沿って歩きながら「橋は架かっている」と思うことは可能だけれど、どうしてそう思ったかは確定しない。渡ろうと思えば渡れると思ったのか、この水路を渡る人などいまい、と思ったのか。感情移入を誘いながら、それを完了させないこの句は、じつは言い終えられていないのだ。

読む人は、その謎とともに、郊外風景のなかをいつまでも歩いて行かされる。これは、読む体験として新しい。

みつばち」の句は「外働き」の語がおもしろいのだけれど「終ひ」と言ってその蜂がつぎつぎと巣に帰ってくる絵を見せるところが上手い。「稲刈の」の句、父とか母というかわりに「」という現代の若者語(いまの50代は若者)を出されて、まんまと驚かされた。この「」の言い方は、あまりに内面語に近いので、まるで、自分の親が、そして親のことを言っている自分が、俳句内に現れたようだったからだ。

この作者は、言葉をああしてみたりこうしてみたり、俳句としてぎりぎりアウトなものを、せっせと持ち込んでくる。

成功しているものも、失敗と思われるものもあるのだけれど、その失敗が返って信頼に足る。新しい何かを自前で開拓することに、価値を置いていることが、分かるからだ。

そして、もう一つ気づいたのは、クズウさんが、自前の現実をつかんでくる人だということだ。

しやわしやわと夜通し食んで夏蚕かな

鳴かずとも振る鈴虫の髭白し

駅前のカンナは錆びて話し声

秋鯖の大きな顔を落としけり

消えぎはの焚火の芯を蹴り出しぬ

横薙ぎの鳥が返してくる枯野

たとえば、動植物の登場する句に顕著だけれど、なにより、はじめに挙げた「春泥」から「稲刈」の4句。それぞれが、感情的実質と、それをはみ出す人のたたずまいのようなものを含んだ叙景になっていることは見逃せない。

その言うに言われぬものは、あらかじめどこかにあったのではなく、言葉が言葉として生まれる時に「俳句として新しいものになれ」という、無理極まる珍妙ともいえる負荷をかけられて、ねじれにねじれた末に現れたものだ。だから新しくあろうとすることこそ詩としての「王道」なのだし、そのような句を作る人は(前言をひるがえすようだけれど)やはり前もって、世界を「深く」感じているのだろうと思う。

春風の抜けて素焼の耳飾り

ひばりごと空の流れてゆきにけり

レモンふふむ大きなバスは遠くまで

小春日にいくらか笑ひ合つてゐる

このような、ひどくやさしい抒情があり、

うぐひすは北にひらけてゐる敷地

夏薊目玉に膜のあるくらし

光沢のシャツがめじろの木の根元

短くて猿のしつぽや山椒の実

このような(ときに失敗もしているけれど)軽口に近い言葉の自由がある。

今回、この50句を予選通過させたのは、編集部のヒットではないでしょうか。

舟底に寒鮒生きてゐて静か

舟底も平ら、鮒も平ら。この句の視点は、真上だろう。鮒も静か、水も静か。すべてを見下ろす神のような視点に移入する私たちも、しーんとした心持ちになる。


落選展を読む.1
https://weekly-haiku.blogspot.com/2020/03/20191.html

落選展を読む.2
https://weekly-haiku.blogspot.com/2020/04/20192.html

落選展を読む.3
https://weekly-haiku.blogspot.com/2020/04/20193.html

>> 2019「角川俳句賞」落選展 
http://weekly-haiku.blogspot.com/2019/11/655-2019-11-10-2019-1.html


2020-04-19

【2019落選展を読む.3】中の人について 上田信治

【2019落選展を読む.3】




中の人について


西村麒麟「玉虫」と中田剛「猫は飼はねど」を読む



上田信治





「2019落選展を読む」今回は、受賞作である西村麒麟さんの「玉虫」50句と、中田剛さんの「猫は飼はねど」50句を読みつつ、あわせて、俳句の中の主体ということについても、考えていきたい。



尊敬する書き手二人の作品なので、力を尽くして読むつもりだ。



西村麒麟「玉虫」

2019角川俳句賞受賞作

https://amzn.to/2yqQ4dG



1句目から引いていく。



平成は静かに貧し涅槃雪



草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」の変奏。シリアスに見える句だけれど、時代が強いた貧しさを多くの人が「喰らって」しまっている現状にあって「涅槃雪」は誰目線のやさしさ?という気がしないでもない。平成哀歌(エレジー)といったところか。



涅槃図の迦陵頻伽が泣き止まず



麒麟さん自身の「夕べからぽろぽろ泣くよ鶯笛」(『鶉』)と比べれば、こちらは、ちょっと泣かせてみましたという、いわば絵空事の泣き。しかし、キモチワルイ人面鳥の迦陵頻伽が、昔風の美人の顔で(無表情で?)泣いているというのはおもしろい。ただ「泣き止まず」の「止まず」は、だいぶ演出が入っている。



「玉虫」の50句は、趣味的でよくコントロールされている、という印象ではじまる。



白魚の上を白魚流れをり

口開けて大黒天や春の山

まだ弱きぼうふらのゐる彼岸寺

田螺より出て来る顔のやうなもの



6句目まで、省略せずに引いた。「白魚」と「田螺」の句、いわゆる写生句のテンプレートを使って書かれているが、白魚が上と下でべつべつに流れるというのは、実際にありうるだろうか、田螺が出す頭部を「顔のやうなもの」と言えるだろうか。これらは、写生句のかたちをした句であって、写生の句ではないように思う。



「玉蟲」の句の多くは、虚子に源流を持つ昭和までの俳句に似て見えて、じつは、すこしフマジメに(と言って悪ければ)メタ的に書かれている。フェイクというか、フォニーというか。



それは、西村麒麟という人が、もともとやっていることでもある。



昼酒が心から好きいぬふぐり 『鶉』

どの部屋に行つても暇や夏休

マンゴーに喜び月に唄ひけり 『鴨』



彼は、こういうノンキナトウサンのような主体を句中に存在させることに、情熱を傾ける。そのように虚構的に生きること自体が、彼の願望でもあるのだろう(*) 



以前、麒麟さんは、すごい俳人になりたくて伊那谷に移住した若き日の話を書いていて、ものすごく面白かった。https://weekly-haiku.blogspot.com/2012/03/blog-post_3551.html



麒麟さんの俳句世界には、ちょっと甘えた弱っちい彼が、周囲の愛情と美の世界に支えられて楽しく生きる日常が描かれている。彼の多くの句は、その呑気なキャラクターが書くにふさわしい、ねじの一本抜けたようなふわふわ感が特徴で、そこにときどき、ふつうに見事な出来の句と、真情を伝える声がまじる。



大好きな春を二人で待つつもり 『鶉』

水浅きところに魚や夕焚火 『鴨』

朝食の西瓜が甘し思ひ出帳



「玉蟲」の50句にも、ふわふわした句と、見事な句がある。



川蟹をばちんばちんと切る鋏

スケートの下手で歩くや父と母

炬燵より出て丁寧なご挨拶



ふわふわした句の無造作さは、下手作りとでも呼ぶべき彼の方法で、日常語に近いふだんの意識から地続きの言葉(「ばちんばちん」「下手で歩く」「父と母」「ご挨拶」)によって、現実との接触を保ちつつ、それを書く「中の人の呑気さ」というメタ的な価値を主張する。



蟇浅瀬を歩き続けをり

星涼し眠らぬ魚を釣り上げて

どの絵にも小さく猫や水の秋



」の句、夜の景だろうか、産卵のために水辺をずささずささと歩いている蟇を、見下ろしているのだろう。景をただ素直に言って、心境的なものを感じさせる。



星涼し」の句、夜釣りで釣り上げる魚を、自分と同じく「眠らぬ魚」なのだと述べる、その甘い抒情を支えているのが「星涼し」という甘い季語、というバランスがいい。



いちいち猫が描かれた「」は、そんなに立派な絵ではなさそうだけれど、彼はそれを親しく感じたのだろう。その低さの肯定と「水の秋」という美的かつ抽象的で水平の広がりを志向する季語とのバランスが、またいい。



いっぽう、この50句では、例の甘えた彼の姿を見かけることが少なかった(「友達の家に大きな甲虫」「待春や金魚ちらちら我を見て」「我もまた春の焚火を欲すもの」あたりは、そうか)。彼も、青年からおじさんへの転換を模索しているのかもしれない(ふつうに賞対策かもしれない)。



しかし、こういった句。



後列の頑張ってゐる燕の子

ほどほどに詰まらぬ話ところてん

その辺にどかと座るや夏祭

唐辛子ばかりの鍋の見えにけり

蘆刈の人がロビーで休みをり

消えさうなほどにおでんの大根煮え



ゆるキャラである「麒麟さん」が書いているという設定が効いていない。ゆるさに対する「中の人」(*)の操作意識が見えないので、伝統俳句の弛緩したマンネリズムの、フェイクをやるはずが「そのもの」になってしまっている。



「中の人」は、作中主体あるいは作品に現れる作者像を、着ぐるみを着るように操作する主体くらいの意味で使う。



前回も書いたけれど、麒麟さんの書法に大きな影響を与えているのが、高浜虚子の、ただごと、低佪趣味、平句性といった部分だ。



川を見るバナナの皮は手より落ち 高浜虚子『五百句』

梅雨傘をさげて丸ビル通り抜け   〃   五百五十句時代



虚子は、自身の本領である練られた声調、蓄積された美意識といったものを、いきなり手放して、価値と見なせるものが何もない、ガランドウのような句を作る。



それは、虚子のライバルたちが誰も持っていなかった独特の領野で、けっきょくその部分が現代俳句に長く深い影響を残した(筆者自身、俳句への主たる関心は、ずっとそこにあった)。



以前「ただごと」の方法について、デュシャンの「泉」以後のオブジェにあらわれる私的なニュアンスになぞらえて、論じたことがある。

オブジェや「ただごと」の「空白」は、「約束」に対する期待とはぐらかしによって「空白」たりうる。基本的に「人が良い」立場を強制される観客は、提示された「空白」に吸引され、何ごとかと耳をすます。
そのとき展示台の上にあるものは、「約束された美」の不在という事態であり、世界から文脈が抜け落ちたあとに残る、捉えどころのないもののいくつか(たとえば質感とか)であり、最終的には、それを選んだ本人の消息のようなものである。(「ただごとについて」2009)
https://weekly-haiku.blogspot.com/2009/06/blog-post_28.html



筑紫磐井さんは、それを「ゼロ化」の手法と呼んでいた。

外部要素をゼロ化(形式化・記号化・無意味化)し、内部要素も極力ゼロ化する(…)このようにしてゼロ化した構文の上に微妙な意味を乗せることにより生まれる成功が、俳句は何かを答えてくれるであろう。(『近代定型の論理』2004)
虚子のガランドウの句には、無意識の底を見せるようにして、放心、孤独、ふてぶてしさなどが露出している。



麒麟さんの方法は、ゼロ化した構文に、キャラ的な自画像を直接間接に描き込むことだった。



それを操作的に意図的にすることで「中の人」の願望を、切実さにおいて読者に共有させるという、一回転したメタ性が、彼の句に作品と呼ぶに足る構造を与えていたのだと思う。



「ただごと」が、パターン化したゆるさを書き手に許すだけなら、何も生まれないのは当たり前のことだ。昭和平成と長らくそのあたりを掘り続けてきたので、ジャンルの現在がそれにだいぶ飽きてしまったというか、陳腐化すれすれのところに来ているのかもしれないということを、今回の受賞両作を読んで感じた。



玉虫のゐるとは聞いてゐたりしが



50句の表題句。けっきょく、玉虫はいたのだろう。しかし「玉虫がいた」ことと「玉虫がいると聞いていて、やっぱりいた」ことには、心持ちの違いがある。その微差は、言葉にするのがむずかしいけれど、言われてみればよく分かる。知っていて、触ったことのない、心の一部分があることに気づかされた。



それを提出する身ぶりには、分かっている者だけに向けた目配せがあって、このような(いわば後藤比奈夫的な)微差の追求とディレッタンティズムは依然として「ただごと」の可能性であり、麒麟さんの今後の方向でもあるのかと、思った。





中田 剛「猫は飼はねど」



6. 中田剛「猫は飼はねど」≫読む



中田剛さんは、先日惜しまれつつ休刊した「白茅」の代表(共同代表)。宇佐美魚目、飴山實に親炙し「晨」「翔臨」「古志」「円座」の創刊に参加した。



審査員諸氏とまったく同格の「俳句史に残る」(そらぞらしい言い方に聞こえるかも知れないが)側の作家だ。



端正で抽象的な句風は、やはり魚目あるいは裕明を連想させる。『セレクション俳人 中田剛集』に収録の評論には、虚子、槐太、耕衣の名もある。



日輪のほとりくらくて浮巣かな「翔臨」

うづくまる兎にはとり露の中

つちくれを握れば秋の湿りあり「白茅」

雪搔の果は氷砕くなり



と、そういう人なので、昨年の角川俳句賞への応募はそれ自体驚きだったし、「落選展」にご応募いただいた作品を一読し、また驚かされた。



女から生まれる男柏餅



1句目。

北大路翼さんの句のようだ。構造が単純で、言っていることの面白さに乗れるかどうかが第一関門になるようなタイプの。



しかし「女から生まれる男」という、意味は分かっても気持ちが確定しない言明と「柏餅」という両性具有的な季語の関係は、イメージを包摂し合って複雑である。



つづけて引いていく。



羽ばたきてばかり歯痒し燕の子

新緑や百葉箱の移されて

はからずもなかぞらに折れ鯉幟

ベランダの方から悲鳴子供の日

まつはれるものをほどきて子供の日

梅雨に入る四阿はうち捨てられて



7句目まで、略さずに引いた。



どの句も、言明すること述べることが前面に出ている(ゆえに、あまり成功していないと思う)。



ベランダ」「四阿」の句には、見逃しようのない崩壊の感覚があり、それはどの句にもうっすらと共通している。



新緑や」の句は、新緑と百葉箱の連想が自然だからだろう、いったん思い浮かべた百葉箱が、目の前で運び去られるような錯覚が生じるのが、面白い。この軽く言い流したような詠みぶりは、氏の「白茅」や「円座」での近詠に現れていた傾向だ。



つづけて引く。



瓜人大先達と梅雨疎みたる

かたつむり其角は酒の肴とす



それぞれ「虫偏の字なども厭ふ梅雨の夜は 瓜人」「かたつぶり酒の肴に這わせけり 其角」の本歌取り。



緑さす歌声喫茶しんかんと

緑さす京都は水の合はぬ地よ



この50句、同じ季語、同ベクトルの句が続きがちであることと、抑制しない詠みぶりとを見ると、比較的短い期間で書き下ろされたのかもしれない。



緑さす」の二句に戻る。『コレクション俳人』の年表によると、中田さんは、十代の頃から京都在住だそうだけれど、水が合わないと思われることもあるのか。



しかしその表出が「緑さす」とともに示されることには、複雑な興趣がある。初夏の季節のよろこびが身体的に入ってくる「緑さす」という季語を置き、しかも山も自慢、水も自慢の京都にありながら「水が合わないんだよな」と独りごつ。この、つぶやきの頑なさ、意識無意識の葛藤の提示はそうとうに面白い。



そして「歌声喫茶」の句、また青春にふさわしい季節がきているのに、この場所は、窓からその外光を入れながら、すっかり老いてしまっている。「しんかん」=「森閑」の皮肉が効いて、歌声喫茶は苔むす森のように静かだ。



以下、これはと思う句を引いていく。



碑をでたらめ読みす爽やかに



」は歴史で死者で「でたらめ読み」は現代人の感性だ。そして、生きて身体のある自分だけが感じる風が吹いている。



俳諧の野卑愛すべし烏瓜



そういうことかと思う。



宇佐美魚目や田中裕明は現代俳句の極北であり、中田剛は彼らと共通する境位で書いてきた作家だと思う。しかし、人間の生は長いようで短く、短いようで長い。中田さんは変化することを選んだのだろう。それは「夾雑物を廃した洗練」(宇多喜代子『戦後生まれの俳人たち』2012)「一句の向こう側に作者が居て、その作者の周りに世界が広がっているというのではない世界のあり方」(山西雅子『セレクション俳人 中田剛集』2003)を、いったん離れるということだ。



かつて中田剛は「私」を主体として句中に書き込むことがほとんどない作家だった。



私は俳句にダイアローグではなくモノローグをもとめたい」(『セレクション俳人』あとがき)といいつつ「見ているものと見られているものの閾がない俳句を作りたいと思う」(同)という、中田自身の言葉をベタにつなげば、「私」が読者に語りかけるのではなく「もの」をしてそのモノローグを語らせる、ということになるだろうか(*)



「見ている」私が句中に書き込まれることが多いと指摘される西村麒麟とは対照的だ。



しかし「俳諧の野卑愛すべし」とは、作句の構えを転換し、自らのナマな感情を描きこむことで、一句の中に「いてやろう」そして「歌ってやろう」という意志の表明ではないか。



結果、この一連においては、「中の人」の存在を想定する必要がない。私性のありようがストレートかつナイーブなのだ。



くたくたの背広で芭蕉忌を修す

生真面目に戯けてみせて年忘

拡げたる翼引きずり初鴉



いずれも、多分に言い過ぎで名吟とまではいかなくても、だからこそ生真面目すぎて哀しく、そして可笑しい。



「人間を書く」といういわゆる「文学」的な主題を、私たちの世代は気恥ずかしいものにしてしまったけれど、人が書いて人を動かすものなのだから、そこに(どんな迂回路を使っているとしても)「人間」は扱われている。



てのひらの僅かな水に蝌蚪うごく

桜咲きほどなく忘れ人の恩

上げし足降ろすの止めて子猫それ

握り飯だらだらと食ひ花疲れ

春のくれ野良猫を撫で蔑まれ



このような句の数が揃っていたら、ふつうに受賞して、そして作者の名を知った審査員を絶句せしめていたと思う。



桜の下で関係のない「人の恩」の話をしている人「子猫」の足の動きを精妙に観察している人(怪我をした烏を見ていたのときっと同じ人だ)、ほどけおちる「握り飯」と散る桜のアナロジーを感じている人。いずれも、ひどく疲れているけれど、そのまま世界と親和してもいる。季語と五七五定型との調和によって(つまり一句の成功によって)人が遡行的に救われているのだ。



花散るや幹を叩かば堰切りて



堰を切ったように、花が、感情があふれ出すのを見たいというのは、人の願望である。はたして、幹を叩くこの人は、花を散らすことができたのか。満開の花の幹を、さあ散れ、あふれ出すところを見せろと、叩く手は痛かろうし「幹を叩かば堰切りて」と詠う心は泣いている。集中随一の一句と思った。





落選展を読む.1

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落選展を読む.2

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2019「角川俳句賞」落選展 

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