2021-11-06

5. 舞うて舞うてなんの微熱や蝶の夢 片岡義順





5. 舞うて舞うてなんの微熱や蝶の夢 片岡義順


僧は舞う戯れる扇に蝶ひとつ

蝶舞うて蝶見失う蝶の夢

蝶ひとつ不明となった風の谷


拝殿の裏の古木や春遠し

お地蔵へいそぐ女の春まだき

春寒やためし撃ちした銃砲店

土ぬぐう一円玉や蓬摘む

水温む指の先からフェルメール

とんで跳ねて童の足の草萌えて  

囀りや今朝の食欲ハムエッグ

頬よせる猫のあいさつ春の朝

叔母がきて春ととのえて帰りけり

風入れてたしかな春のわが家かな

淡雪や厨の窓の小半時

コロナ禍や春ナイターの無観客

目刺し手にテレビと喧嘩するおとこ

春ぼこり人は四散の遊園地

健脚をほこる八十路や春堤

くの一と呼ぶ忍者列車や春ダイヤ

ハイウエイのハンドルも知る春睡魔

理髪師のおどる鋏の涅槃西風

祈る神の外科医の賭けや花の雨

夜のあけて不法駐車や花の土手


白魚や箸おく指の小悪魔

だれが知る熊野の宿の藤の花

だれの手といつもの夢を花野道

ほそい指の女の笑みやすみれ咲く

春の嵐や開けぬ抽斗足もとに

街路図に描かない道の春の音

石ころを蹴ってわが身の亀鳴けり

しばらくは背を向けているヒヤシンス

生きる世のひとそれぞれの春キャベツ


酔いの醒めて障子いっぱい春満月

琵琶湖には伝承多し草団子

花疲れ待って夕陽の臨時バス

春愁や深夜に友のやって来る

幼なじみの貌は般若に薪能

駅の名は明治の世から花吹雪

朧月夜ゆるりと列車遠国へ

花の野に誰のにぎわい熊野詣

この道の橋をわたってゆく遍路

蘖や草堂にある達磨像

千年の祈りを天に塔の春   

春の闇に回廊わたる僧の列

一山の老僧逝って蕨萌え

春暮れて頬のゆるみや観世音

西行や言魂やどる桜闇

女人高野の塔白骨やおぼろ月

つかの間の春のなごりを駅ピアノ

葉桜やほの暗がりにあるアンニュイ


片岡義順(かたおか・ぎじゅん)昭和19年(1944年)10月30日 76才 男。
大阪生まれ大阪育ち 子供の頃大阪湾が我が家のプールだった。
師系・・芭蕉をはじめとするすべての俳人。
俳歴 2012年頃から健老大学等で作句始める・・
所属結社 なし
職業 天下の素浪人

2 comments:

義順 さんのコメント...

 タイトル「舞うて舞うてなんの微熱や蝶の夢」
落選者本人(片岡義順)による「自句自戒」・・というより言いわけです(笑)
落選のおかげで全50句「週刊俳句」掲載の光栄を得ました・・角川さんありがとうございます(笑)・・応募は今回で5回目・・春を読んだものばかりです・・
本題の前に・・ご受賞の岡田由季さんおめでとうございます・・
このお人は確か大阪南部にお住まい・・私と同じ空気を吸っておられる・・この地は“文化不毛の地”と言われている・・が今では国際空港がある・・泉州水なすや蝦蛄えび、蛸が旨い(笑)・・それに日本の玉ねぎの栽培発祥の地として田尻町が知られている・・
50句はゆっくり拝読しました・・眼前のものをたんたんとたんたんと・・こだわらず、とらわれず・・天命にある達観者と言うべき「この世は納得」「見るべきものは見た」「無欲無心」「マイペース」「日々是好日」・・端然と生きるその様はまるで“仙女”を彷彿させます・・
氏の「知性と精神性」をたっぷり楽しませていただきました・・ありがとうございます(笑)・・
心に残った句は・・
 船どれも働いてゐる春の海(岡田由季)
 嬉しさの長持ちしたり桜餅(同)
受賞以外の好きな句は・・
 フルネーム呼ばれ枯野に立っている(岡田由季)
マフラーを後ろに結ぶ海の駅(同)
そら豆や楽しく終はるずる休み(同)

ところで、今年の角川賞はバラエティに富み面白かった・・金太郎飴一本から、ようやく“多様性”へ目が開かれたようだ(笑)・・
「殯」は傑出、衝撃だ!・・俳句にも“身の毛のよだつ”“血の滴る”作品があった!あるのだ・・作れば作れるのだ・・私は、おどろおどろのおぞましさに身体が震えた(マジです)・・巷にあふれている“自閉的つぶやき俳句”や“お茶漬け俳句”に辟易している身には晴天の霹靂だった(苦笑)・・
この50句にはかけがえのない、ひとの命への真剣な眼差が注がれている・・そして詠まれている・・その尊厳に作者は沈着冷静、使命感と責任感をもって真正面に向き合っている・・粉飾があるわけでない、私情にもおぼれていない・・抑制の効いた余韻、文語表現、周到な言葉遣いに作者の並々ならぬ心が明確だ・・
私は作者の属性に関心がない・・この50句を成らしめた作者の生きざま=心のあり様=高みにある「知性と精神性」に刮目している・・社会のどこかで何十年にわたる知識と体験の蓄積、研鑽があっての50句である・・類似作品がないにもかかわらず、応募に踏み切った作者の勇気に私は、敬意を表したい・・死刑制度の存続議論の一助にもなり得るのではないか・・

俳句=詩の領域に材のタブーはない・・材は作者固有の生きざま、世界観からくるもの・・評
価されるべきは、その材が詩的に昇華され、俳句化に成功しているか否かである・・
見たこともないリアルな=“ど迫力”に腰が引けたのは分かるとしても、選の場にいきなり“ケンイ”を持ち出されたのでは読者は白ける、興ざめだ・・
角川賞がこの稀有な50句を発掘したのは立派だ・・しかしそれは全国の俳人が支えている句誌のお陰・・句誌は“ケンイ”だけで成り立っていない、全国の読者(俳人)の長年にわたる、かわらぬ支援と信頼があっての事・・肝に銘じていただきたい(微笑)

受賞に至らなかったのは、読者として残念という他はない・・全国の有望新人から募ったと言うのであればもっと在野の俳人(作品)へ“開かれた心”を見せて欲しかった(苦笑)・・
この作品が受賞なら、俳句界のみならず日本社会から大きな反響を呼んだことに間違いない・・「俳句って凄い!」世間の耳目を俳句界に集めるチャンスでもあった・・惜しまれてならない・・
俳句は明日もあらねばならない・・未だに旧弊独善、内向きの論理がくり返されるのでは俳句は滞る・・
さて、前置きが長くなってしまった(苦笑)・・本題の「自句自戒」は、次回からとさせていただきます・・
片岡 義順

義順 さんのコメント...

「舞うて舞うて・・」の前回に続く“自句自戒”です・・
今年の受賞者は大阪泉州の方である・・私も大阪泉州=前回この場を借りて候補作“殯50句の勇気と斬新性”について、そして”賞のあり方”に忌憚なく意見を述べた(お読みいただきありがとうございます)・・
茅渟(チヌ=黒鯛)の海と言われた大阪湾は・・受賞者のような美しい夕陽のときばかりとは限らない・・大時化のときもあるのだ・・
今年の角川賞は、栄えある受賞者と落選常習の私と=大阪泉州人ふたりで盛り上がっている?・・なにはともあれ大阪慶賀!大阪慶賀!です

昨年は「お前の句は分からない」「自戒というより自讃やんか」の評を受けた・・なのでよく分かる表現を意識した・・
ところで・・
私は「知性と精神性」という言葉をよく使う・・その意味を少し述べたい・・俳句に限らず、すぐれた文芸(文学)には次の4点がある・・
①読者の受け取るべき何かがある・・
②作者の顔=生きざまがある・・
③その社会・時代がある・・ 
④歴史と文化と伝統がある・・
これらを五七五の極小の世界に実現するのが、作者の個性たる「知性と精神性」・・これは「俳句の命」=肝心かなめなのである・・饅頭でいえば“あんこ”の部分・・“あんこ”がなければ饅頭とは言わない・・よく評される“五七五のつぶやき”“お茶漬け俳句”あるいは“廃句?”と揶揄されるのは“あんこ”のない饅頭のことである・・あの死刑囚が材の「殯」は、高度な「知性と精神性」があってこそ生まれた作品なのだ・・
さて本題に入ります・・「僧は舞う・・」冒頭の3句は77年生きた真正直な“自戒”=総括である・・3句で77年を詠んだが、蝶の擬人化はなんともいえない“レトロ感”・・博物館にある作品を見る思いがしている・・
「白魚や・・」からの九句はアソビ(テーマはお分かりいただけると思う=“背徳の美学”)・・「・・野守は見ずや君が袖ふる」万葉集を思えば他愛ないもの・・「多様性」が世の流行だ・・鷹揚にお楽しみを・
「酔いの醒めて・・」から最後の「葉桜や・・」までの18句は自分の「知性と精神性」をフル動員したもの・・
自分で気に入ってる作品は・・
西行や言魂やどる桜闇
つかの間の春のなごりを駅ピアノ
葉桜やほの暗がりにあるアンニュイ
それにしてもこの「週刊俳句」のブログは静か過ぎるのでは?・・
あのセンセショーナルな「殯50句」が、このブログで一切話題にならない・・コメント欄も、投稿も一切ない・・これは何故?不思議!・・我関せず!薄気味の悪い沈黙!
そう言えば受賞の岡田さんは、この週刊俳句の編集委員・・ご苦労を共にしている委員の皆さんから祝福の言葉が大々的に掲載されるのが普通ですが・・“知らぬ存ぜぬ無関心”・・これは何故?不思議!・・
あまり多くを語らないでおこう(77年も生きれば大概の事は承知している)・・私自身も老齢に悩んでいる・・あと数年で80才・・独りよがりで俳句を楽しんできたが、最近少々疲れを覚えている・・貧弱な「知性と精神性」を振り回すより句友とわいわいガヤガヤ、お茶漬けサラサラ俳句(廃句?)を作って、後わずかの老いを楽しもうかと思っている・・片岡 義順