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2023-10-01

杉原祐之【澤田和弥の一句】二度ともう会ふ事はなく成人式

【澤田和弥の一句】

二度ともう会ふ事はなく成人式

杉原祐之


二度ともう会ふ事はなく成人式  澤田和弥

『早大俳研』第3号 「二十歳の月」より。

澤田和弥さんは1980年生まれ、私は1979年生まれなので一歳下の関係であった。澤田さんは「早大俳研」、私は「慶大俳句」に所属しておりこの時から「早慶」で俳句会を行っていた。この時はまだ「俳句甲子園」出身者は少なく、私たち「慶大俳句」インターカレッジ的な活動は少なく「早大俳研」メンバーとの交流くらいであった。

そんな中、澤田さんとの一歳の差は非常に大きく先輩面して色々と会話をしてしまった。今になってはなんて恥ずかしいことをしたと思う。

『早大俳研』第3号は2011年4月の発行とのこと。「二十歳の月」には、まさに澤田さんが20歳を迎えたころの俳句24句が3句組×8頁で収録されている。掲句はその中の一句。如何にも地元の高校から東京に進学した文学少年としての心意気というか、冷めた目で見た地元の様子が描かれている。澤田さんは中学のころいじめにあい不登校になったことなどを告白している。高校は進学校として有名な浜松北高校でそこで高柳克弘さんと同窓となっている。澤田さんも高柳さんも俳句と出会ったのは早稲田大学進学後のこと。

「俳句」という新しい表現方法と出会って勉強していた澤田さんの目には、成人式という名の地元の呼び出しはどのように映ったのか、酔っぱらいながらご実家のお寿司屋に友人たちと流れていったのだろうか。この場限りでそれぞれ別の道を行くことを冷めた視点で、淡々と表現しているからこそ「二十歳の若者」の感情が連想される。

30代で命を絶った澤田さんが、40代、50代と年を重なるにつれどのような俳句、評論を残していったのだろうか。同世代で俳句を通じて関わりのあったものとして彼の作品を何とか遺していきたいと思う。


2022-11-20

西原天気【句集を読む】 ダイドーという微妙もしくは機微 杉原祐之『十一月の橋』の一句

【句集を読む】
ダイドーという微妙もしくは機微

杉原祐之十一月の橋』の一句

西原天気


商品名・企業名を詠み込んだ俳句は多くはないが、それほどめずらしくはない。けれども、「ダイドー」となると…。

ダイドーの自販機ありて花アロエ  杉原祐之  

「なるほど」と意表の中間あたり、俳句的と非俳句的の境目、なかなかに微妙な線をついてきたので、この句に一瞬立ち止まってしまった。買う用はないのに、ふと視界に入ってきた駐車場脇の自販機に歩がゆるむかんじ。

ところで、日本中いたるところで目にする缶ボトル清涼飲料の自販機。台数は約200万台だそうだ。ダイドーの自販機は約28万台で業界第3位のシェア。自社サイトのデータとはいえ、第3位とは大したものであるのだが、いわゆる「メジャー」なかんじはない。商品イメージ・企業イメージは個人によって異なるので、「私には」の前置きが要るが、そこはかとないマイナー感をまとっている気がする。よく言えば、身近?

ダイドードリンコという社名(ドリンク+カンパニー?)の音の響きのせいだろうか、ちゃんと見たことはないけど、缶のデザインのせいだろうか、言ってしまえば、ちょっと野暮ったい(じゃあ野暮ったくない缶コーヒーはどれなんだ? という詰問は控えてくださいね)。というか、あの、清涼飲料の自販機自体が、街角の風景をいなたいものにする元凶ともいえるわけだから、ダイドーばかりを責めるわけに行かない。

なんの話かわからなくなってきたので、掲句。

とにかく、〈ありて〉というんだから、あるのであって、私たちみんなが知っているあれが、あるのだ。〈花アロエ〉は冬の季語。自販機には「HOT」という赤い表示が多い季節。

ただ、花のないアロエのほうがおなじみだろう。そして、あの「アロエ」もまた、庭先に、わざわざ植えるようなものでもない。勝手に生えてるはずはないだろうが、美観に寄与しているわけでもなさそうだ。ダイドーとアロエはうまく釣り合う、というと、ダイドーからもアロエからも叱られそうだが、そのあたりの微妙、というのは昨今悪い意味で使われることが多いようなので、機微。なんともいえぬバランスの醸し出す機微が、この句にはある。

だから立ち止まっちゃったんだね。

なお、同句集から、ほかに。

去年今年なくレーダーの回るかな  杉原祐之(以下同)

旅客機の真中の座席まで冬日

夕立やカフェの覆ひをへこませて

など、喉越しのいい句が目立つ。盛り込みすぎず、かといって旧弊な手垢や澱を感じることはほとんどない。生活感はあるが、ちょっと都会的で、それだからこその実感がある。


2022年4月/ふらんす堂 ≫版元ウェブサイト

2022-07-24

【2021落選展を読む 1】 1. 杉原祐之 2. 西生ゆかり 3. 斉藤志歩 4. 中矢 温 ……上田信治

 【2021落選展を読む 1】

1.  杉原祐之  2. 西生ゆかり 3. 斉藤志歩 4. 中矢 温
読み手と世界を(パズルのように)関係づける

……上田信治 

 

 ≫2021角川俳句賞「落選展」

1.  杉原祐之 ウィズ・コロナ ≫読む

日盛の外階段を降りにけり
踏み分ける度に蝗の跳ねにけり
臘梅の乾びながらも香るかな


いつもの杉原さんの作品ではあるのですが、ふしぎと今年は、穏当な季題趣味の範疇にある句にひかれました。

子育て周辺の事象をモチーフに詠まれた句が、いくつかあるのですが「虐待の噂も少し秋簾」この「秋簾」は、不穏すぎるのでは。季題をよく知っているだろう作り手の、こういう目配せは怖いですね(北大路さんが書いたらのだったら名句、というような句です)。


2.  西生ゆかり 回り出す ≫読む

材木を斜めに運ぶ蝉時雨

「斜めに運ぶ」ことの実態は確定しがたいけれど、ともかく長いものが「斜め」に運ばれていく。そのとき「蝉時雨」(降るかのように同じ空間を占めるもの)に角度のないことも、また意識せざるを得ない。

七夕や横顔のあるマグカップ

「七夕」といえば相聞であり「横顔」もまたそれにふさわしいのに、マグカップに印刷されたそれは、どこまでもバカバカしく、誰とも恋愛的関係を結びそうにない。

一斉に薔薇満開や歪め合ふ
手に薔薇の涼しさやがてやはらかさ
ソフトクリーム時計回りに山と谷
虫籠の持ち手がたまに立つてゐる
山眠る電子レンジに秒と分
目の幅を目玉が動くチューリップ
エイプリルフール顔いつぱいに顔


この人の句は、ブツがそのブツ性を露わにする瞬間を描くとき、ちょっと見ないタイプのおかしみを醸しだす。高級な一コママンガを文字で描くような、書き手なのかもしれない。

蛍烏賊一人になると夜が来て

「一人になると夜が来て」のフレーズの、かがやかしい当たり前さ、無意味さ、そしてさびしさ。なぜ「蛍烏賊」か? あいつら複数性を絵に描いたようだし、夜っぽいし、眼がいっぱいあるしね。


3.  斉藤志歩 水と茶(*) ≫読む

(*)一次予選通過作

キャベツ食ふ虫その穴をくぐりゆく

たしかに、虫はそうやって、食べつつ自分が作った穴をくぐりつつ、キャベツ世界を移動していくはずだ。じっさいに見られるものかどうかは分からないけれど、見えないところで虫はそうしているはずだという、いわば「キャベツ想望俳句」。おもしろい。

球場は地図に大きく鳥渡る


地図というのは鳥瞰図なので、われわれが地図を見ているとき、鳥もまた(われわれが地図を見るのと同じ画角をもって)われわれを見ている、そのとき意識される空間のすがすがしい大きさ。

ベランダより戻る電話を切りし顔
包まれてティッシュに透くる金魚の死
鳩時計鳩を収めて穴涼し
雪解や瞼の覆ふ目のかたち
蔦若葉ゆく電線を芯として
バス停にバスの沿ひゆく暮春かな


知的な把握が「写生」に加味するちょっとした面白み。それが、読み手と世界を(パズルをはめるように)関係づける。それは、西生ゆかり「回り出す」とも共通する方法だけれど、もちろん、そこにニュアンス、色合いの違いはあって、この作者の方法は、より「なるほど」感が強い。


4.  中矢 温 ほつそりと ≫読む

もう午後の貸ボート皆湖のうへ

そこを空間的に限りあるひろびろとした場所として描いていること、「もう午後の」というフレーズが、限りある遊びの時間はまだたっぷりと残されていることを示し、つまり時間的にもひろびろとしていること。そのくせ、この句の視点となる話者はボートには乗っていないらしいこと。どこをとっても、とても、休日らしくてよい。

これからと分かる芙蓉の盛りかな
美容師は雪の岩手に帰るらし
包丁のすこしの葱を濯ぎけり
日おもてや海豚笑ふと歯がずらり
春眠やミシンを強く勧められ


紅葉狩吾と選びし真つ赤着て」「二人して手ぶらの影に寒鯉来」のような、ふつうにデートっぽい句もあるのだけれど、俳句にすることで、鮮度とか一回性が減ってしまっているような。それよりも「なんで美容師?」「なんでミシン?」という答のない句に、人がこの世界で生きているという感触がある。

(つづく)


2022-07-17

杉原祐之 マニラ 10句

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マニラ    杉原祐之

渋滞のたうに起りて明易し
蠅の如沸き起こり来るバイクかな
開発に取り残さるる日向水
ジプニーの煤を落とせる日向水
片蔭に死を待つ如しホームレス
破れたる途端の屋根を夕立打つ
スコールの靄街中を覆ひたる
スコールを跳ね上げてバス来りけり
夕凪のホームに人の溢れたる
冷房の強き新興国のビル

2022-04-10

【2020/2021「落選展」を読む 2】7. 西生ゆかり 9. 杉原祐之 10. 空谷雨林 11. 高梨 章 12. 中田 剛 あやうきにあそぶ……上田信治

 【2020/2021「落選展」を読む 2】7.  西生ゆかり 9.  杉原祐之 10.  空谷雨林 11.  高梨 章 12.  中田 剛 

あやうきにあそぶ……上田信治

 

7.  西生ゆかり 体と遠足(*) ≫読む

第一次予選通過作品

寄居虫を運ぶピアニストの右手
七月は光る焼肉屋の看板
秋の三階のコンセントの暗さ


オーソドックスな俳句(結社とか近現代俳句の遺産とか)とは違うところから書き始めた書き手は、しばしば、モチーフ=素材に対するフェチ、といって狭ければ「面白がり」をバネにする。この作者にも、そういうところがあるようです。

素材が目立つタイプの書き手がアマチュアっぽく見えるのは「俳句の価値は内容の価値とは別に現れるもの」だからだけれど、初心というわけではないのに「そこ」を離れない書き手は、自分がそう見えることを、自ら引き受けているのでしょう。

素材の面白さのレベルにとどまらないものが、言葉の運動として、内容と緊密に一致して現れるのであれば、それは俳句のまったく正当な書法であり、この人の書くものは、アマチュアっぽさをむしろ美点にしながら、その域に達しているわけです。

寄居虫」と「ピアニスト」というモチーフの「フェチ」あるいは「面白」っぽさ。優美な手がヤドカリを乗せて、という絵と、演奏時の「運指」が移動する節足動物の脚のようであるという絵が二重写しになっていて、そこに「ピアニストの右手」という音のぎくしゃくがダメをおしている。

秋の/三階の/コンセントの」と、とぎれとぎれになりそうな口調をたどっての結語が「暗さ」であるという、それは、さぞ殺風景な三階の空間だったことだろうというガッカリ感。せっかく三階までのぼったのにという内容が口調に結びついて、十七音が、他にどうなりようもなかったという仕方で、充実しています。

海老で作るハートマークや冬の旅
柏餅書けなくなつてからの指
フランスの犬の心配桜の実
蛸の脚二本と本体の一部
珈琲が来てから外すサングラス


まぎれもなく「現代」である生活。これらのモチーフの、微量の馬鹿さとグロテスクさによる趣味性の表現は、詩に充足することを許されない同時代的不全感と、なおもそれを楽しんでしまえる胆力とを、読み手に共有させる。

つまり、この書き手は俳句の中で「ニヤニヤする」ことに成功している。


9.  杉原祐之 空バス ≫読む

七夕の夜の七人の句会かな

この「七人」の「」の無駄さ、無意味さは、ブラヴォーに値すると思うんだけど、たぶん、客席で自分しか立ちあがってないw 

この作者専門の、低佪とただごとは、虚子とホトトギスの系譜を意識しつつ書く人にとって、ひじょうに生産性の高い領域で、若手でも、西村麒麟、抜井諒一、小野あらたと、それを主たる方法とする何人もの書き手の名があがります。

そして、低佪とただごとは、低さに対する初発の驚きを失えば頽落する。ただごとは(本当は)ダメ比べになってしまってはダメなのですが、しかし。

七夕の句の(なんというか)下に突き抜けたどうでもよさには、ただごと俳句を更新するヒントがあるように思います。

もじやもじやの雲を割りたるけふの月

このたび、第二句集『十一月の橋』を上梓された。


10.  空谷雨林 花園 ≫読む

四才のあなたに蝶がとまりしこと

この句の「四才のあなた」は、「卒業の兄と来てゐる堤かな(芝不器男)と同じ言い方で、誰でもありえたはずの「あなた」()を、その日その時、ただ一人の「その人」だった人にしてしまう。

不器男の「兄」の句は、自分にとって俳句の一つの究極なのだけれど、その究極は、同時代の俳句にこうして何度でも見出せる、ありふれた奇跡でもある。

春の波みな包帯にしたまへと


11.  高梨 章 透明水彩(*) ≫読む

 
第一次予選通過作品

この犬をつれてのはらにはるのあめ 
その場所はこれからさらにいぬふぐり
芹をあるくきのふの雨の声がする
とどかないひかりもあつて野の遊び
とつぜんですが鰆を食べにいらつしやい 
永き日やこれから足を組みかへる
ここに住むひとりのひとの皿と薔薇
聞いてゐたつもりが風鈴鳴りにけり
皆さびしいところに住んで土用かな
ばつたの死いちにち靴をはいてゐた
じやがいもをひとつ取つてくれないか
三人のうちのひとりが蒲団敷く


この作者に、好きな詩人は誰かを聞いて、中公文庫の『日本の詩歌』などで探して、ゆっくり読みたい。まちがいなく、この人は、ゆたかな詩体験をバックボーンとして持っているはず。

50句がその詩的なトーンを崩すことなく一貫しているのは、それだけでもたいしたことだと思うのですが、注意してみれば、一句一句に、単なる「詩」っぽさにとどまらない、ヒューマンな内実がモチーフとしてあることに、気がつく。

皆さびしいところに住んで土用かな

皆/さびしいところに住んで」は「皆さびしいところに住んで」でもある。つまり、そこは、多くの人のくらしがあるのに、全員さびしいという、そんな場所なのだ(しかも、それが「土用」)。自分は、川沿いに小住宅が建ち並ぶ光景をイメージしました。私たちは、みんな、そんなさびしいところに住んでいる。

ばつたの死いちにち靴をはいてゐた

いちにち靴をはいてゐた」ものすごく当たり前のことなのに、こう書かれると、それがとてもざんねんなこととして響く。たとえば「セールスマンの死」といった言葉(戯曲のタイトルだけれど)が連想されるわけだけれど、そのときこの「ばった」は、歌って暮らしたかったけれど働いて死んだタマシイのように見えてくる(バッタが靴を履いていたら、それ漫画映画だし)。

この50句が、一次予選を通過し、岸本尚毅さんの推薦を得て本誌に抄録(10句)されたというのは、なかなかの快挙だったのではないでしょうか。


12.  中田 剛 捨てる神(*) ≫読む

第一次予選通過作品

靄きれぎれに冬の田にやすらへる
山裾に雨脚さはるしぐれかな
庭草にきたる枯れいろ粛粛と
冷えきりし肌着に首をとほしけり
霙降るなかを漬物石さがす
蒟蒻の土佐煮いただく翁の忌


1句目から6句目までを、省略せずに引きました。

それぞれに見所があって、破たんがない。立派な句ばかりです。「靄きれぎれに」の、2/5/5/5という、沈み込むような破調。中句を5にした字足らず感が、中句と下句のあいだに、深い切れを生み、そこでほとんど息が尽きるのだけれど、その疲労感と、冬田にひろがる靄の視覚像がぴったりとシンクロしている。「冷えきりし」の句の「」を通すという描写のたしかさ。たしかに、肌着の冷えを受けとめるのは、まず首で、そこにヒヤリとしたものが触れることは、たいへんに不吉な冬の朝である。

息白くいのちはひとつきりなると

それに続く7句目ははっきりと通俗のゾーンに足を踏み入れていて、となると、1〜6句目の「」「山裾」「庭草」「肌着」の各句、心象風景として、あるいは俳句的景としてベタに過ぎると言えなくもない。そのトーンは最後まで継続していて(これはちょっとどうかなあという句もある)それは、この作者が、そういう「あやうきにあそぶ」を楽しんでいるということなのかもしれない。そして、とうぜんのように、見所のある句、立派な句はいくらもある。

元日は湯を沸かしをる音に覚め
虹のいろ空に吸はるる二月かな
御所の夜気春の鳴神わたりゆく
夕空のはたして暮れぬ燕の子
青梅を片手づかみに筵まで
かたつむり高浜虚子の庭に湧く
おぢさんとおばさんだけで溝浚へ


  >> 【2020/2021「落選展」を読む1】

 >> 2020角川俳句賞「落選展」

2021-11-06

1. 杉原祐之 ウィズ・コロナ




 

1. ウィズ・コロナ 杉原祐之


降り止まぬ雨のなかなる御復活

近衛兵たりし曽祖父昭和の日

関所跡勿忘草の広がれる

柔らかき折り目をつけて萩若葉

鎖されたる峠の茶屋の残花かな

筋トレを兼ねて鍬振り風五月

マスクずらせる祭法被の男どち

観客を入れざる競馬槻若葉

ダービーを外せし同士飲みにゆく

大疫の町に蛍の戻り来る

有耶無耶にせしこと多し梅雨に入る

荒梅雨のなかをUber Eatsゆく

保育園帰りに潜る茅の輪かな

一匹の蚊を追ひ掛けて喰はれもす

目に染みて四万六千日の香

風呂場のみ残つてをりぬ出水痕

日傘傾げて何やらを話し込む

密着のマスクの内の玉の汗

鍬形を肩に載せ来て見せくるる

日盛の外階段を降りにけり

踏み分ける度に蝗の跳ねにけり

虐待の噂も少し秋簾

横たふる稲架の資材に露しとど

雨の降りさうで降らざる秋の暮

敬老の日の晴れ晴れと暮れにけり

十六夜のカレーうどんの香りかな

高原の靄の晴れたる草紅葉

昨夜までの雨の光れる刈田かな

爽やかに土曜保育の声響く

ハロウィンの南瓜もすなるマスクかな

石階の一段づつの虫の声

豊作と云ひ櫨買の値切りくる

公園の遊具の象に時雨れけり

熊手しか売つてをらざる酉の市

峡の日の色に染れる吊るし柿

木枯の最中へバスを降りにけり

懸垂をする子に落葉降りにけり

落葉踏む病児保育の子を連れて

落葉踏む音に蹴る音重なれる

逞しくなりし後輩年忘

歳末のティッシュを配るのも仕事

好晴のままに冬至の暮れにけり

鼻風邪の治らぬままに年暮るる

蝋梅の乾びながらも香るかな

復元の一乗谷の雪起し

寒垢離へ髭を伸ばして来りけり

着ぶくれてゐてスケボーでやつて来る

アルコール消毒の手の悴める

旧正の大特売の台湾茶

広大な寺領の名残麦を踏む


杉原祐之(すぎはら・ゆうし)平成十年「慶大俳句」入会、平成二十二年四月 第一句集『先つぽへ』刊行。師系:高浜虚子、清崎敏郎、所属結社:「山茶花」「夏潮」


2020-11-07

9. 杉原祐之 空バス

 9.  杉原祐之 空バス

営業所行の空バス年の夜

流感の子に付き合うて粥すする

大試験どの子の耳も真つ赤なる

父の忌を少しく過ぎし余寒かな

片栗の花触れ合はず震へ合ひ

ふらここを互ひ違ひに姉妹

安全旗社旗と国旗と彼岸西風

休憩のタクシー並ぶ花の昼

汐入の風に散りゆく桜かな

バスを待つ花見疲れの人の列

舟屋よりぶら下げらるる目刺かな

新婚の部屋に小手毬映えにけり

足場組む為の資材に落花降る

水系のここで岐るる山桜

車椅子バギーを並べ磯遊

しやぼん玉みとめて走り出しにけり

桜蘂降る胸像の男爵に

本丸の跡の駅舎の楠若葉

ダービーの日の一点の曇りなく

青梅の産毛同士の光りあふ  

熱中症注意呼びかけ神輿舁

社員証落ちてをるなる茅の輪かな

園丁の掃きこぼしたる梅雨茸

七夕の夜の七人の句会かな

ドア閉てる音の響ける避暑の宿

ハンモック山の日照雨を浴びながら

谷戸径の更に奥まり竹の秋

買うてみて持て余したるかき氷

ワンボックスカーに夜店の品を積む

浮袋わかしお号の網棚に

砂埃塗れの日傘果実売る

境内の百名分のビヤホール

プレハブの現場事務所の小判草

一口のサイズのビール墓洗ふ

もじやもじやの雲を割りたるけふの月

秋晴の心療内科混み合へる

養護学校生徒の出店里祭

虫送運動場を突切つて

大楠に野分の雨を避け切れず

万灯のやつて来さうでやつて来ず

渋滞を起こし万灯練りゆける

呼掛の遂に揃ひて赤い羽根

稲掛のシート一枚外れたる

脚立より脚立へ移り松手入

熱燗や合はぬ予定を押付け合ひ

ハロウィンを終へてシチューを煮込みたる

白杖の先にひつつく濡落葉

冬の蠅床暖房の上を這ふ

着ぶくれて違法駐輪取り締まる

元日の坂じつくりと踏み登る


2020-04-05

【2019落選展を読む.2】「鷲に朝日」(抜井諒一)も読む 上田信治

 【2019落選展を読む.2】

「鷲に朝日」(抜井諒一)も読む


上田信治




今回は、4番と7番の2作品に加え、角川俳句賞受賞作である「鷲に朝日」(抜井諒一)を、読み合わせてみる。




>> 2019「角川俳句賞」落選展 

http://weekly-haiku.blogspot.com/2019/11/655-2019-11-10-2019-1.html



7. ハードエッジ 会ひに来よ  

https://weekly-haiku.blogspot.com/2019/11/2019-7.html



背が伸びて細き手足や雛祭
梅雨の月花より濡れてゐたりけり
丼は涼しと猫の子が眠る
番号や団地の壁の夕焼けて
冷蔵庫バタンと閉めてまた明日
八月の赤字九月の黒字かな
白桃を夢の高さに積み上げて
下駄箱の中の長靴秋の暮
屋上に駐車場あり今日の月
泣初の赤子の舌の短さよ





「7.会ひに来よ」のハードエッジさんは、twitter専業俳人を名乗られている。



以前の作については、言葉に負担をかけない(伝統的かつ現代的な)書きぶりながら、近代俳句的ではない、つまり写生的ではない発想の自由を感じた。



今作でも「冷蔵庫」「丼は」「八月の」「白桃を」などの句に、俳諧的なとぼけみを感じる。



八月の赤字九月の黒字かな ハードエッジ



二八は客商売がきびしい、ということは常識なのだから、何の発見のもない句のようだけれど、この句、売り上げがひと息ついたということと、天候がすごしやすくなったということがパラレルになっていて、句の中で涼しくなったんだ、という実感があるじゃないですか。それをぬけぬけと言い放っているのが良く、これは宇多喜代子さんの「俳句日めくり」に入れたいような、アンソロジーピース。



背が伸びて」「梅雨の月」「下駄箱の」「屋上に」の句は、取り合わせの方法における季語へのアプローチがすこしずつ新しい。



丼は涼しと猫の子が眠る ハードエッジ



猫の子の季重なりを嫌うむきもあるでしょうが、これは歴然と初秋の句。きもちがよくてかわいらしい。


梅雨の月花より濡れてゐたりけり
 ハードエッジ



「梅雨の月」が、夜桜よりも濡れて見えた、という句意か。だとしたら、これも大胆すぎる季のずらし方だけれど、感覚的な実質はあると思う。さらに考えると、この句「梅雨の月」を詠むふりをして「花」をほめているのではないかしら。だとしたら本当にアクロバティックなアプローチで、相当おもしろい。



背が伸びて」や「泣初」の句には(感覚的な実質は感じつつも)着眼に既視感がある。ただ「背が伸びて」は、雛人形と若い子どものきめ細かい肌感との相似、そして、手足の伸びた姿と雛人形の似ていなさが相まって、かなりグッとくる。



叙法が安定していて、人を驚かす類の発想を好まない書法は、生産性が高い半面「知ってる」範囲に収まりやすい(それは「鷲に朝日」(抜井諒一)にも強く感じることだ)



それでも、数多い作品の中からは、その人の固有性というものがあらわれるものだなということを、ハードエッジさんの50句から感じた。



冷蔵庫バタンと閉めてまた明日 ハードエッジ





4. 杉原祐之 むべなる  

https://weekly-haiku.blogspot.com/2019/11/2019-4.html

梅雨兆す汐入川の匂ひかな
 


ビール売るハイビスカスの花をつけ
 


農協のバケツに稔る稲穂かな  

縁側に座して落葉の濃き香り
 


葬列に踏み倒さるる彼岸花 
 


冷蔵庫また捨ててある師走かな
 


暁け切らぬ島水仙と潮の香と 
 


自転車を押し夜桜を仰ぎたる 
 


祭足袋ATMに忘れられ




「4.むべなる」は、編集部による一次予選通過作。



杉原祐之さんは「鷲に朝日」の抜井さんと同じく「ホトトギス」直系と言っていい書き手だ。



彼の方法は、麒麟さんの受賞作「玉虫」と共通していて、それは、虚子の中にあった低佪趣味を、自身の作句の中心に据えるというやり方だ。



虚子のたとえば〈梅雨傘をさげて丸ビル通り抜け〉〈日課なる昼寝をすませ健康に〉のような句は、措辞も内容も、日常意識からの飛躍が0に近いけれど、逆に、即興的なもの言いと現実の手ざわりをもって、スポンタニティ(自発性)の美を感じさせる。



「俺が俳句だ」と言える立場にあった虚子にしてみれば、これらの句を作ることは、俳句が自らを歳時記に登録済みの概念で固定してしまうことへの自戒のあらわれだったと、見ることもできる(このことは「玉虫」(西村麒麟)について書くときに詳述したい)。



杉原さんの「ビール売る」「農協の」「冷蔵庫」の句には、アイロニーがあり現実感がある。それは、いまの現代の人事句の手ざわりだ。



ビール売るハイビスカスの花をつけ 杉原祐之



野球場で妍を競う、ビールの売り子を詠んだのだろう。季重なりのようだけれど、ビールが季題で、ハイビスカスは造花なのだ。そこに、いわゆる「かわいい娘」が、その可愛さで大量のビールを売り上げる構造に対する批評も感じられる。



そういえば「冷蔵庫」の句は、師走が季題で冷蔵庫は粗大ゴミであり、「農協」の句は、稲穂が稔っているのがバケツの中で、それはおそらく、農家のガチの仕事としての収穫ではない。



この身も蓋もないアイロニーを含む季題へのアプローチは、杉原さんの作家性かもしれない(「祭足袋」の忘れものはたぶん面白すぎだけれど)。



梅雨兆す汐入川の匂ひかな 杉原祐之

暁け切らぬ島水仙と潮の香と



梅雨兆す」の句は「汐入川」の地名がよい。汐入川は全国各地にある川の名だそうだけれど、満潮のとき、上げ潮が入りこんでくることが特徴の川なのだろう。川に潮がさかのぼっていくイメージと、初夏から梅雨へと季節が暗く押し移っていくイメージが二重写しになる。さらに、雨の予感と汐のふたつの水の匂いが同時にそこにある。



暁け切らぬ」の句も、また、夜明けの時間の刻々と変化する空の色があって、水仙と潮のふたつの香りがあって、さらに、夜明け前の青一色の世界から、じょじょに、明るく水仙の黄色が見えてくるという、変化の相を捉える巧みさがある。



杉原さんの50句には、季語以上のことを何も言えていなかったり(〈天井に声の響けるビヤホール〉)、既視感があったり(〈コンセント抜かれ聖樹の静もれる〉)、さすがにこの世に何もつけ加えていなかったり(〈西瓜食べながら子どもの宿題を〉)という句がある。



けれど「ビール売る」「農協の」「梅雨兆す」のような句は、「ただごと」を述べるというポーカーフェースを貫きながら、じつは非常に情報量の多い複雑なものを立ち上げている、と思った。





◎「鷲に朝日」(抜井諒一)を読む



「7.会ひに来よ」「4.むべなる」に見られた既視感・類想感は、抜井さんの受賞作が、小澤、岸本選考委員から指摘されたことでもあった。



チューリップ午後の床屋に子の多し 抜井諒一 

壊すだけこはして石鹸玉に飽き
峡の木々裏返したる青嵐
ひとりづつ減る子や保育園夜寒
そよぐとき影失へる冬の草


その中のひとりを見つめ盆踊



それぞれ「なるほど」という見どころがありよくできているけれど、同じ発想で誰かが既に詠んでいるだろう、と感じてしまうことも確かだ。



もうひとつ「鷲に朝日」の弱点として、小澤、岸本選考委員がともにあげていたのは、説明的ということだった。



春の日のこころの軽くなる匂ひ
留まれる蛇に殺気の満ちてゆく
台風の匂ひが先に来てをりぬ
雑踏の中のしづけさ冬めける
いちまいの汗がまとはりついてをり
泥水の氷に泥の無かりけり




これらの句について、岸本委員は「言葉で言い仰せてしまっている」と否定的であり、小澤委員は、季語やそのものの説明に終わっている、としている。



※近年の俳句の「言い仰せてしまう」傾向について、岸本さんは以前、田中裕明賞の選評でも発言していた。 >> 第10回田中裕明賞



上にあげた句は、じつは「鷲に朝日」を◎で推した仁平、正木両委員の推薦句でもあったので、そこは「好みの違い」(仁平委員)ということになって、今年は、抜井、西村の二人受賞が決まった。



これらの句は、みな発想を中心とした句だけれど、その発想に、季語から予想される範囲を超えるものが少ない。むしろ、そうすることを拒んでいるようにさえ見えるのは、季題の重視、活用を旨とする、伝統俳句協会系の作者の、俳句観の現れかもしれない。



しかし、蛇の殺気や、雑踏の中の静けさ、あるいは〈すべて雑音秋風の音のほか〉〈その中のひとりを見つめ盆踊〉といった句の発想が、常識的で、誰でも思いついきそうであることは、たぶん作者も否定しないだろう。



さらにいえば、そこに発想以上のものがないならば、その句の価値にはそれなりの限界が生じる。俳句の価値は、言葉の一次的内容から生じるのではないからだ。逆に、内容や発想以上のものが十七音をこえて現れるなら、書かれていることは、どんなに平凡でも、ただごとでもかまわない。



春の日のこころの軽くなる匂ひ〉〈いま会つてすぐに仲良し七五三〉のような句を見ると、この人は「ただごと」を「ぬけぬけとみんなが好きそうなことを言うこと」だと解釈しているのかと思う。さいきんの「ホトトギス」の流行なのだろうか。すくなくとも、虚子や爽波の「ただごと」とは、だいぶ違う。



要するに、自分は、今年の角川俳句賞の選考における、仁平、正木両委員の見識を、すこし疑ってしまっているわけだけれど。



ただ、よくないと思う句ばかりをあげることは生産的ではないので、自分なりに面白く読んだ句をあげる。



ひるがへる鷲に朝日のかつと赤 抜井諒一



受賞作を代表する一句。身をひるがえす鷲の腹に朝日が当たる。その運動性によろこびがあるのだけれど、そのよろこびは、藤田哲史の〈海老の素揚にさつとしほ〉を連想させる調子の良さから生まれている。


蜜柑より小さき両手で剥いてをり




選考委員がそろって評価していた句。温州みかんは、子供の手でも、だいたい手の中でむけるのだから「蜜柑より小さき両手」といえば、よほど小さい子なのだと分かる。「両手」も「剥いてをり」も、その懸命さが見えるように働いている。楽しい。



冬の川駅の下へと潜りけり



線路と大きな川が直角にまじわる状態をこうは言わないだろうから、川が線路を斜めにくぐるところに、たまたま駅がかかっているのだろうか。かんたんな言い方で、特殊な景を再現しているのかもしれない。そう思わせることが面白かった。



春の日のこころの軽くなる匂ひ



この句自体は、完全には成功していないと思うのだけれど、このばかばかしいほどの肯定性には、じつは可能性を感じている。この句には「ただごと」句特有の「あるはずのものがない」という感触があることはあるからだ。



京極杞陽や高田風人子(たとえば〈美しく木の芽のごとくつつましく〉〈好日のしづかなるかな花芒〉のような句)が参照されているのかもしれない。



「春の日」「こころの軽くなる」「匂ひ」と空辞に近い言葉ばかりを重ねて、返って読者に「こころの軽くなる」ことと「春の匂ひ」の実体を、探させるようにしむけている……そういう句なのかもしれない。



「あるはずのもの」がないことが、「あえて」ないのか「ただ」ないのか。ここには美学的価値判断において、作者の意図を算入すべきかどうかという問題をふくむ。



自分は、とりわけ俳句においては、作者がなにをしようとしているかは、文脈として重要だと思うのだけれど、「鷲に朝日」の50句からは「冬の川」と「春の日の」の句を、安心して肯定できるだけの意図を読み取れなかったことは確かだ。



(つづく)


2019-11-10

■2019角川俳句賞「落選展」■ 4. 杉原祐之「むべなる」

2019角川俳句賞「落選展」
4.  杉原祐之「むべなる」

(一次予選通過作品)





 
むべなる  杉原祐之

梅雨兆す汐入川の匂ひかな
黒々と欅並木の梅雨に入る
子ども部屋散らばるままに梅雨籠
怪しげな風を受けつつ蛍狩
洗濯のシーツを過る螢かな
掃き清められし廊下のいぼむしり
ビール売るハイビスカスの花をつけ
をちこちに鬼灯市の水溜り
天井に声の響けるビヤホール
ショールーム前に立てられ花氷
中隊の旗も振られて盆踊
坪庭の芝を整へ霊迎
西瓜食べながら子どもの宿題を
遠花火テレビ中継観ながらに
農協のバケツに稔る稲穂かな
野分去り鴉の羽根の散らばれる
大嵐過ぎたる後の松手入
カウベルの音の澄み渡り霧晴るる
もやしつ子ばかりのレース運動会
葬列に踏み倒さるる彼岸花
駐屯地貫く川に鮭遡る
野営地の鉄条網の霜光り
マンションの棟を超え来る朴落葉
縁側に座して落葉の濃き香り
冷蔵庫また捨ててある師走かな
地下街にまで木枯の音響く
箸先を湯豆腐逃げてゆくばかり
着膨れに挟まれながら通勤す
コンセント抜かれ聖樹の静もれる
来ぬ奴のことを肴に年忘
山内の雲水総出餅を搗く
家ぬちの札を剥して除夜詣
武蔵野の空広々と大旦
片目空く達磨の積まれどんど焼
アリーナの中を飛び跳ね寒雀
島ひとつ神社でありし野水仙
暁け切らぬ島水仙と潮の香と
パトカーの撒ける凍結防止剤
根こそぎに蓮を引抜き池普請
禿山もまたその一つ山笑ふ
卒園の子の滑り台幾たびも
手に載せて木五倍子の花の軽さかな
自転車を押し夜桜を仰ぎたる
粗大ごみ出して来りて花仰ぐ
寺町の目抜き通りのさつき咲く
ステーキを頬張りゐたる夏来たる
シャッターを上げて神輿の御渡御待つ
祭足袋ATMに忘れられ
路面電車待つより歩く薄暑かな
蛞蝓の長き腸透けにけり

2018-11-18

2018角川俳句賞 「落選展」を読む(1)  岡田一実

2018角川俳句賞
「落選展」を読む(1) 

岡田一実

「落選展」は毎年楽しみにしている(といったら語弊があるかもしれないが)。

一作品50句という分量の多さにひとりひとりの俳句観の違いがよくわかるからだ。西原天気氏の言う「落選展の意義のひとつは、予備選のかすかなる/朦朧たる可視化」()という面にも頷く。

ひとはなぜ俳句の「賞」に応募するのだろうか。

それは応募者によって様々だろう。一年の(または数年の)成果、自らの俳句観の確認、俳壇の価値観の刷新、功名心、「俳句」そのものへの寄与などなど、どれか一つと言うよりも混ざり合った動機によって作句し選句し構成して連作を編むのだろう。

「賞」というものは誰かが読んで誰かが選ぶという課程の中で生まれるので、「俳句(芸術)の高ささえ目指せば読まれなくてもいい」という考え方の人には無関係かもしれない。

しかし連作を編むことと「読む」こととの相互作用によって得られるものもあるのではないか。そういう希望の下に全作品に目を通した。

前置きが長くなった。一作品ずつ見ていこう。

1. 迎への春 ハードエッジ >>縦書き >>テキスト 

日の永くなりたることを昼休
おのづから時の満ち来る桜かな

ゆったりとした導入。

前句、「日永」を「日の永くなりたること」まで引き延ばして表現上でも「永く」してある。あとに続く「昼休」も非常にのんびりしていてたっぷりとしたのどかさを味わえる。
後句、「時が満ち来る」の方も「おのづから」という観念的発見を導入部に用いたことで「桜」も満ちてくるような時空の余裕を感じる。

半袖の亜米利加人や巴里祭
雷の近づいて来る祭笛

季重なりの句は比較的多く〈塩辛に烏賊や鰹や夏始〉〈蚊遣火の紅一点の涼しさよ〉〈踏切のかんかん照りの終戦日〉〈虫籠は終の棲家や茄子胡瓜〉などがある。いわゆる「季重なりに挑戦!」的な力の入った句はなく、さりげない感じ。

「巴里祭」は 七月十四日のフランスの革命記念日。フランスでは国祭日となっており、バスティーユ広場を中心にフランス全土の広場を中心にフランス全土の広場や通りには一晩中踊の渦がくりひろげられるそうである。それと取り合わせられる「半袖の亜米利加人」は映画などでよく見かけるあの軽装な出で立ちだ(おそらく下はハーフサイズのカーゴパンツだろう)。「亜米利加人」「巴里祭」という漢字表記が日本人からの視点のようで、自らも含めた客体としての異国人が「巴里祭」の賑わいと渾然一体となる。「半袖の」という軽さが祭に涼やかな華やぎ与える。

後句は雷鳴と「祭笛」のダブルサウンド。段々と大きくなってくる「雷」の音と祭を盛り上げるように猛る「祭笛」。雨もぽつぽつ降ってきた。法被姿で脚をむき出しにした群衆がうねる。非常に臨場感があり想像をかきたてる。

ほかにも〈包丁に林檎の種が付いてをる〉のような只事にも魅力を感じたが、〈松が枝に番ひで弾む初雀〉のように順番に説明しまう句と近似の相であり、この方向については、さらに精度を高めることができればと感じた。


2. ペンギンさん 青島玄武 >>縦書き >>テキスト 

人気なき商店街へ盆の僧

この作者は通塗の良さがあり、生活の中で摩滅しがちなささやかな悲哀への共感性が高い。

掲句、「盆」の間は休む間もなく檀家の家々を回る「僧」がふと「人気なき商店街」へ入る。昼だろうか夜だろうか。家と商店が一体化している檀家を参りに行くのか、それともただぶらりと入っただけなのか。詳細は描かれないが、そのがらんとした空間はどこか異界めき、彼岸につながる通路のようだ。残暑の盛りでもあるこの時期の「僧」の黒衣の汗や息づかいがその「人気なさ」によってかえって際立つ生々しい異物として伝わる。

クリスマスイヴの出湯の男たち

「出湯」にあつまる裸体の「男たち」。身体はもう湯に当たって赤らんでいる。かぽーん、ざざざと「出湯」独特の音が響く。この「男たち」はこの後家族や恋人と食事するのだろうか。ひとりでのんびりと過ごすのだろうか。あるいはもうパーティーは終わってからの「出湯」なのかもしれない。遠くにクリスマスソングが聞こえる。湯に浸かり「あ゛―」と唸ったら、もうそんなことはどうでもいいような気になってくる。「人は裸で生まれる」などということは聞き飽きた。贅沢なような孤独なような満ち足りた夜のひとときである。

雪靴のまま地下鉄に乗り込みぬ
とりあへず雛の置かるる冷蔵庫

言われなかったら見過ごす景色。言ったところで「だから何?」と聞かれたら答えるのが難しそうだが、かすかな違和感をセンシティヴに捉えている。

前句、「地下鉄」に乗り込む客は男も女も概ねは通常時と同じ靴を履いている。自分は「雪靴」。表面は地上の雪で濡らされた。少し恥ずかしいような気持ちを抑えて他の人々に紛れる。誰も気にする人はいない。みな他人とは目を合わさないように目的地まで「地下鉄」に揺られる。

後句、この「冷蔵庫」は低い。容量少なめのツードアタイプと見て間違いないだろう。「雛」といってもさほど立派なものではない。紙雛かもしれない。「とりあえず」なのだ。「とりあえず」雛祭の季節だから「置かれ」ている(「飾られ」ではない)。殺風景な部屋に「雛」の彩り。仄かな艶がそれだけに侘しさを募らせる作品となった。

すこし難点だと思ったところは〈草雲雀おかず一品増えてゐし〉など通俗が過ぎるところと〈凌霄花や骨を休むる遊園地〉の「骨を休むる」など出来合の比喩をそのまま独自の工夫なく用いているところなどである。


3. 砂の紋 薮内小鈴 >>縦書き >>テキスト

賑ひの床を枝豆からびゐし
二三歩をともに日向の寒雀

この作者は掲句のように句意が明瞭な句もあるが、意図的に句意をおぼろにしているところが多く、不思議な風合いを醸している。

絵にどれも熱帯林の春の暮
石段を下れば覚めて著莪の花

前句、「絵のどれも熱帯林や春の暮」なら句意に迷うところはない。しかし、「絵に」であり、「熱帯林の」である。助詞を軋ませることで詩的飛躍を試みているのだろう。字義通り読んでいくと「熱帯林」なのに「春」があるのだろうか……などと思ってくるが、「絵に」描かれているのならそういう有り得なさそうなことも回収されるのかもしれない……と思考が回遊する。

後句、「覚めて」とは「目が覚めて」ということだろうか。「石段を下り」始める時点では「覚めて」いないのか……とこちらも想像が周回してしまうが、「著莪の花」の薄紫のちりぢりとした花の雰囲気が「覚める」前と後を包み込むような働きをしていて煙に巻かれるようだ。

陸の鳥海の鳥遭ふころもがへ

この句は「陸の鳥(が)海の鳥(と)遭ふ」という句意だろうが助詞を省略してある。あるいは「陸の鳥(それと)海の鳥(と、客中主体が)遭ふ」かもしれない。舌足らずだなと思わせておいて、ぱっと切れて「ころもがへ」と取り合わせてあり、その感覚には新しみもある。

楽団に海豚の匂ひ穀雨降る

「海豚の匂ひ」とはどんな匂いなのだろう。生臭いのか、海の匂いか、正確にはわからないが、「楽団」の楽しげな様子に不思議さを与える(そもそも「楽団」なのだから音に集中しそうなものだが、ここでは「匂ひ」に集中する)。それに「穀雨降る」。情報が多すぎやしないか。しかしそこが目の粗い粒がいろいろあるような多彩さで魅力的でもある。

枯葎灯りのうちに骨を煮て

「灯りのうちに骨を煮て」は想像しやすい景色である。台所であっても戸外の料理場であっても「灯りのうちに」調理する。てらてらと照る「骨」が見える。

では「枯葎」と取り合わされるとどうか。「葎」とはもともと蔓でからみながら蓬々と茂る雑草の総称で、引いては貧しく荒れはてた家を「葎の宿」などと言う。「枯葎」とは夏に生い茂っていた葎が、冬になりすっかり枯れ果てた様子のことなので、その荒廃ぶりが眼目であろう。とげとげしい自然界の鉄条網のような「枯葎」は「骨」と共に照射される。その裏寂れた景色が浮かび上がると「骨を煮て」という行為が調理かどうかも怪しくなる……というのは読み過ぎか。ただならぬ不穏さが漂う。

春凪ぐや砂紋は江戸へ続くかに

この句は浮世絵のような描線のはっきりした景色である。旅人の気分ではないだろうか。「江戸」という言葉選びが時空を遡るような感覚をいざなう。


4. 睡足 杉原祐之 (一次予選通過作)

この作者は平明な叙情が持ち味である。素直な感覚とややノスタルジックな共感性に惹かれる。

病棟の裏の大きな桜かな

「病棟」とは病院などで、多くの病室のある一棟(ひとむね)の建物。入院施設を思う。病院にもよるが「表」(おもに南)にしか病室がない病棟はまれで、多くは「裏」にも病室があり窓がある。よって入院患者にとっては「裏」は親しみのある場所かもしれない。そこに「表」からは見えない「大きな桜」がある。すぐに行けそうでなかなか行かない「桜」の木。病棟の病室の中からか渡り廊下から見るだけかもしれないが、その「大きな桜」は病みと共にある者への希望のような働きをしている。

建売のモデルハウスの鯉幟

見たことある!と思う。思うが実際にはないかもしれない。「建売のモデルハウス」はぴかぴかでどこか胡散臭い。作られた幸せの形という感じが否めない。そこの「鯉幟」はなお一層にそのように感じる。僅かなイロニー。でも結構立派な、五色とかの「鯉幟」なんだよね、とまた見てきたかのように語りたくなる。

扇風機に当たり客待つ車引き

この景色もみたことあるあると思う。観光地に行くと今でもいますね、「車引き」。黒い制服(?)を着て夏は炎天下にいてさぞ暑かろう。「扇風機」にかかっているくらいなら「車」も頼みやすい。頼めばさっと「扇風機」から離れて来てくれるだろう。「車引き」の日に焼けた顔、涼やかな風に当たった首筋、身軽で機敏な様子、どれを取っても粋である。

どの句も景にブレはないがその分〈薬喰離れの間へと案内され〉の若干の因果、〈肌脱の僧侶バイクに二人乗り〉の類想感などは再考の余地があるように思う。

(2へつづく)

)俳句的日常『俳句賞・予備選の「闇」』 http://sevendays-a-week.blogspot.com/2017/08/blog-post_31.html

2018-11-04

■2018角川俳句賞「落選展」第1室■1. 迎への春 ハードエッジ 2. ペンギンさん 青島玄武 3. 砂の紋 薮内小鈴 4. 睡足 杉原祐之

2018角川俳句賞「落選展」第1室
(*)一次予選通過作品


1.  迎への春 ハードエッジ




2.  ペンギンさん 青島玄武



3.  砂の紋 薮内小鈴



4.  睡足 杉原祐之(*)




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■2018角川俳句賞「落選展」第1室■テキスト

2018角川俳句賞「落選展」第1室■テキスト
(*)一次予選通過作品

1.  迎への春 ハードエッジ

紅白の梅の匂へる神の里
蝶飛んで百花の春となりにけり
雲水の峠を越ゆる蝶々かな
発掘は一つ隣りの春の山
日の永くなりたることを昼休
草餅のほのかに温し子らを待つ
春宵も余生も値千金ぞ
煙突の大きな「ゆ」の字春の闇
おのづから時の満ち来る桜かな
満開の一点つひに花の漏り
引く波の砂にこするる桜貝
蕊だけがひよろりと伸びし躑躅かな
塩辛に烏賊や鰹や夏始
牡丹やどかと置かれしランドセル
飛ぶ虫に這ふ虫も出て梅雨の入り
終列車彼方に消ゆる螢かな
羽田空港四万六千日の晴れ
半袖の亜米利加人や巴里祭
雷の近づいて来る祭笛
裸子の中のひときはちひさな子
夕立後の強き火使ふ夕餉かな
雨だれが石に弾けて金魚玉
壁抜けに間に合はざりし蚊の姥か
仕留めては次の間へ行く蠅叩
蚊遣火の紅一点の涼しさよ
すやすやと赤子ほのかに天花粉
踏切のかんかん照りの終戦日
切株は即ち墓標秋の風
寂しさを埋めて秋草なに咲かそ
天高くなりにけるかも黄金の穂
童謡が「あれ」と歌ふよ虫の声
虫籠は終の棲家や茄子胡瓜
菊の香に神や仏の夜長かな
われの銀河なれの銀河へ重なりぬ
松手入針千本を降らせつつ
古釘に柿の裸を吊しけり
包丁に林檎の種が付いてをる
玄関にブーツを履きて立ち上る
ギター背に枯木の中を帰りけり
緑濃きところは捨てて葱白し
化ける気もなくて海鼠のままでゐる
十二月三十一日来りけり
ゆく年の窓開けてみる直ぐ閉める
国家とは大いなる家初御空
松が枝に番ひで弾む初雀
静かさや猫も寝てゐる寝正月
年号の来年変る炬燵かな
太陽と同じ丸顔雪達磨
紫雲英田に遊んでくれてありがたう
ご機嫌よう迎への春が来たやうだ


2.  ペンギンさん 青島玄武

夕波とともに燕も帰りけり
かなかなや己の髪を嗅ぐ少女
家族してドラマ観てをり花火の夜
人気なき商店街へ盆の僧
大正昭和平成こぞり栗を剥く
また暫し瀬音となれる月の宴
縁の下の猫の喧嘩も豊の秋
その陰のひそひそ話彼岸花
草雲雀おかず一品増えてゐし
団栗を拾ひ十九才の掌に
阿蘇の山げに荒々と装へり
バス停で弁当開くフランス人
小春日や電車を汽車といふ田舎
こすつたらぼやけてしまふ冬景色
クリスマスイヴの出湯の男たち
一昨年を蒸し返へさるる忘年会
ぐずぐずの柚子湯のなかのお父さん
着ぶくれの奥の奥なるチヨコレート
日輪を奪ひ合ふなり玉競り
成人の日の夜のマクドナルドかな
眉根濃き面皰の顔や初神楽
来週に払ふと約すお年玉
妹も白きマフラーしてゐたり
雪靴のまま地下鉄に乗り込みぬ
厚司人風に靡かぬ長き髭
青空が真正面のスキーかな  
盆梅に膝らしきものありにけり
梅の花以外はすべて工事中
とりあへず雛の置かるる冷蔵庫
小手鞠や頬いつぱいにお煎餅
春水を足に浸せりマリア像  
花の人その夜の宿を定めずに
噴煙を巡りて花を巡りけり
花影や煙草くゆらす村の婆
遠足に変身ベルト持参して
鎖場を伝ひて落つる椿かな
奥宮の御狐様と春の海
ちやりんこのおつさんふたり春惜しむ
筆順を間違へてをり蜘蛛の糸
麦の秋海の向かうも麦の秋
巌流島どの紫陽花も赤ばかり
万人を沈めて壇之浦涼し
幼帝の泣くたびに立つ卯波かな
藁帽子脱いで挨拶する宮司
潮風の小島となりし端居かな
長崎や青葉せぬ坂なかりけり
鰻重を食らふや鼻の穴拡げ
凌霄花や骨を休むる遊園地
浴衣着てペンギンさんと呼ばれをり
出航す夏の山より太き船


3.  砂の紋 薮内小鈴

絵にどれも熱帯林の春の暮
ふりあふぎ蜂の巣みとめたる夕
石段を下れば覚めて著莪の花
陸の鳥海の鳥遭ふころもがへ
黒南風に売り子の盆の差出され
一角を十薬占めて幾日か
雷鳴の厨包丁みだれなく
カメラ屋の解体まぢか夏柳
夜の魚湖面に跳ねしテントかな
ゆるゆると橋ゆく電車涼新た
賑ひの床を枝豆からびゐし
鶏頭を毛糸と覚え指の先
佃島月のいづこも後にせむ
川縁やチケットもぎり爽やかに
木の実はや土に埋もれ夜来り
王宮と見ゆる霊園秋夕焼
幾年も着ぬセーターの色眺め
雪吊の風に激しき琴思ふ
冬柏煉瓦蔵へと列をなし
餅搗の目まぐるしさや粉塗れ
二三歩をともに日向の寒雀
やきものに染みか千鳥か冬日和
鰰の麹まぶされゐたるかな
甲高く門扉を閉ざし霾れる
早春や荷にゆはへたる野の布団
雛の日を髪があたりて細眼
故里はここと山茱萸盛りなり
蠅生る張り子つくれる庭の先
楽団に海豚の匂ひ穀雨降る
あつといひ古本市を金亀子
帆立貝開いて家族森にゐる
子燕やエンジン吹かし遠き路
夕立のあとをかがやき鞄かな
橙色に喫茶ともれる祭笛
丸木舟沈み向日葵生ひにけり
遠近の岬の句碑やきりぎりす
秋の虹顔出す子等と虎と銅鑼
杜鵑草鎮もりしより霧の雨
根の野菜売り人見えず水澄める
錆びながら煙突すがし穴惑
枯葎灯りのうちに骨を煮て
竹箒まだ温かに冬の寺
風鈴の揺れつづく家に雪積る
鴉ゐて白鷺もゐて枯木立
三編みを収めてありし頬被
共同墓ガラス屋根にも囀れる
すぐ戻り旅思ひ出す土筆かな
春凪ぐや砂紋は江戸へ続くかに
映写機のまはり始めて蝶の昼
山躑躅水際を駆け上がりしか


4.  睡足 杉原祐之(*)

先生が先頭に立ち踊り込む
両の手の軍手が運ぶ西瓜かな
子供より大人の多き西瓜割
これだけの蓮の戦がぬ秋暑し
燈籠に散り零れたる百日紅
霧襖硫黄の匂ひ立ち込めて
台風一過の空へボールを投げ上ぐる
獅子独活の原野の仮設トイレかな
刑務所の外柵沿ひの彼岸花
ハロウィンの衣装のままに寝る姉妹
袋よりずいぶん小さく千歳飴
事務室にココアの香り冬立ちぬ
嬰児を遊ばせながら落葉掃く
踏切の錆び出しそむる枯薄
一斉に鳴声上ぐる鴨の陣
巻網の傷の血糊の鮪かな
薬喰離れの間へと案内され
底冷の厠へ降りてゆける音
欄干の霜に人差指の跡
クリスマスイブの歩行者拡がれる
数へ日の怒号飛び交ふ漁港かな
大年の漁港に?ただ浮かむ
改札の前に店なく冬ざるる
雪掻を終へ当直を引継げる
雪原の中のハウスや苺狩
水蒸気上り寒天晒さるる
ビール飲み干して追儺の鬼となる
家ぢゆうの家電が喋る四月馬鹿
病棟の裏の大きな桜かな
休業のプールへ桜吹雪かな
建売のモデルハウスの鯉幟
海岸へどの抜道も風光る
テニス部はいつも朗らに風五月
筍を包める市報市議会報
公文式教室の家鉄線花
海賊が祖の王族の薔薇の庭
蛍火や選挙ポスター掠めつつ
国分寺伽藍跡より蛍狩
父の日の父にお世辞を云ふ子かな
衛兵の脇をすり抜け梅雨の蝶
閉館の決まる図書館梅雨寒し
清流を愛でつつ啜る冷し蕎麦
海の日や海より青き空仰ぐ
子供用プールを出せば蜻蛉来る
朝一便飛び立つ先の雲の峰
水郷の家並を照らす西日かな
扇風機に当たり客待つ車引き
レンタルの重機の並び油照
肌脱の僧侶バイクに二人乗り
踝にちくりちくりと芝を刈る


2018-04-01

2017落選展を読む 8.「杉原祐之 上堂は難し」 上田信治

2017落選展を読む 
8.「杉原祐之 上堂は難し

上田信治

杉原祐之 「上堂は難し」  ≫読む


もう、おなじみというか、この路線のベテランというか。

この人の「写生」は、歳時記の中の言葉を、非価値的に、日常意識のなかに配置する。そんなふうにして、季題を(手の中にあるカードを示すようにして)だれか他の人にちらっと見せるという、ささやかな挨拶。

そこに、挨拶をされれば悪い気はしない、というささやかな価値が生まれる。

どぼどぼと溢れてゐたる若井かな
結納の席に獅子舞踊り込む


どうでもいいわけである。うそだと思うし。

ラーメン屋の湯気もうもうと寒に入る

どうでもよすぎて、おどろく。どうして、こう書こうと思ったのだろう。

雛段を支ふるビールケースかな
プールより上り海鮮丼喰らふ


作者が面白がっていることは、句の深さやひろがりにおいてはマイナスだけれど、もうあまり若くはないサラリーマン(という古風なことばが似合いそうな)男性が、いわば「ユーモア」の人であることは、いやなかんじはしない。

炊飯器より豆飯の湯気と音
踏切を待ちゐる山車の囃子急


豆飯の音というものがあるかどうかは知らない。いつもよりしゅぶしゅぶいうのだろうか。交通規則にしたがって止まっている山車の、お囃子がもりあがるところに差し掛かるのは面白い(踏切と書いてしまうところが、作者のユーモアの人たるところだ)。

雉鳴くや足湯に村を見晴らして

この「村」は好きでした。近年どこにでもある「足湯」という施設を使いつつ、観光客気分で言ってるでしょう。その気分の距離感みたいなものが、正確に書かれている。

2017角川俳句賞「落選展」

2017-11-05

2017角川俳句賞「落選展」第2室 

2017角川俳句賞「落選展」第2室

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6. 片岡義順 舞うて舞うて舞うて町まで枯一葉(その1)
















7. 片岡義順 舞うて舞うて舞うて町まで枯一葉(その2)















8. 杉原祐之 上堂は難し  













 

9. 鈴木総史 こゑを探して 















 10. 高梨章 そのあかるさを雨といふ