澤田和弥さん追悼
澤田さんありがとう
佐藤文香
1
澤田さんは早大俳研の先輩だ。
1日で100句つくろうと言い出したのはわたしではなかったのだが、たぶんわたしの東中野のマンションで、たしか目白の女子学生会館を出てすぐだったと思うから大学3年生のはじめごろだろう、何人か集まって俳句をつくるということになり、でも誰がいたかはあまり覚えていなくて、ただし澤田さんが来たのは覚えている。
なぜ覚えているかといえば、その夜結局皆家に帰らず、わたしの家でぐだぐだとしていたはずで、ベランダに出る側のカーテンに触れるか触れないかのところに、澤田さんは寝転がっていびきをかいていて、腹が少し見えていて、うわっと言うほど毛深くて、ほかのみんなと笑ったような気がするからだ。
翌朝皆を駅まで送るため全員で家を出て、あれはてっちさんだったか、何も考えずに信号待ちをしているわたしを斜めに誘導したようなおぼえがある。どうしたんですかと問えば、逆の斜めうしろで澤田さんがほぼ吐きそうな風にいて、うわっなるほどと思った、気がする。結局そのとき澤田さんは吐かなかった、それは確かだ。
寝酒して琥珀の網の内にゐる 澤田和弥
2
それから半年後くらいだろうか、些細な苦しさが重なって一定量を超えたらしくだめになってしまったわたしが、その日澤田さんに会うことに決めていたのは今思えば偶然で、澤田さんに会っても泣いていたように思うけれど覚えているのは早稲田の、地下鉄の出口のある交差点、わたしのバイトしていたカフェ華の見えるところの、秋の光の具合。
それは鬱というもので、そのあと躁鬱という症状に変わってわたしは今に至るわけだが、澤田さんが病院に行きなよと言ってくれなければ、もう少しだいぶだめな状態が続いていただろうと思う。
3
地方の県立高校で優等生、指定校推薦で大学に入り、しかし精神的に調子を崩して次の進路がうまくいかず、少しは東京で足掻いたけれども結局実家に帰り、地元の役所につとめるも辞めざるを得なくなり、無職。友達はみんな、結婚してゆく。
というのは澤田さんの人生の一部分であり、また、わたしの人生の一部分である。
誰にでもつゆだくの愛を注いだ澤田さんが、こんなに似てるところの多い5歳下の後輩に親近感を感じて愛してくれたことは言うまでもなく、わたしとしても澤田さんは恩人であったため、仲良くなった。
澤田さんとの大きな違いのひとつは恋人に困っているかどうかで、困っていなかったわたしの方は、実家に戻ったものの結婚するとかなんとか言って2年で東京に帰ることにした。しかしその彼とは上京して1ヶ月で別れたし、松山時代のバイト先のハム屋でつないでもらった東京の店では1ヶ月もたず、具合が良くなく、次に付き合いだした年下の彼の家で昼も寝ていた。その人とも別れ、そのあとも3人くらいと付き合っては別れた。なのでお互い、会うと恋愛がうまくいかない話をしていた。
プールからプールサイドに呼ばれけり 澤田和弥
4
最近は、銀座の小料理屋卯波が閉店するというので、澤田さんがキープして忘れていたボトルの焼酎を飲んでおいて、と連絡をもらったり、浜松の句会にゲストで呼んでくれたり、日本酒の一升瓶を送ってくれたりした。わたしは自分の仲間と飲んで、みんなで澤田さんありがとう写メを送ったり、無駄にかわいい礼状を書いて、「無駄にかわいいのが届きますが残念ながら差出人はわたしです」とメールしたりした。
そしてわたしの第二句集が出て、「天為」に句集評を書いてくれた。
第一句集『海藻標本』上梓後六年間の一六一句に佐藤文香の成長を、
そして成長せずにいつまでも「さとうあやか」でいてくれる部分を見
る思いがする。
「天為」平成二七年二月号 「新刊見聞録」より
澤田さんのPCメールの表示名は「さわだかずや」なので、我々は「さ」と「か」と「や」が共通しているな、とこのとき気づいた。「さ」さいなことで「か」なしくなってしまう「や」さしいわたしたち。なんてね。
蠟梅は面会室を満たしけり 澤田和弥
5
わたしの句集の出版パーティーのメールを送ると、「年末から体調芳しからず、当日よもやのドタキャンの可能性もありますが、万難振り切ってなんとか参加させていただきたく存じます」とのことだったので、体調第一で、ご無理なさらず、と言ってあったが来てくれた。
ちょっと前のエキレビインタビュー(わたしの句集と双極性障害に関して)を読んだこと、澤田さんの一言がそのタイトルになっていることに気づいたことなどを話してくれた。うちの親も澤田さんにお礼を言ったらしい。
「文香ちゃん、それは病院に行きなさい」と言われて。俳人・佐藤文香「そううつ」と診断される 1
http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20141222/E1419182685337.html
パーティーの最後のわたしの挨拶のとき、澤田さんはチャチャをだいぶ入れた。ふつうの人からすれば、調子に乗りすぎ、元気良すぎに見えるだろうが、かなり躁だな、調子わるいんだな、と思った。
終わってから「今日は勝手にピエロになって、ごめんね」とわざわざメールが来た。かわいい絵文字がたくさん使われていた。いつものことだ。心と体に気をつけてお過ごしください、と返事をした。集合写真をプリントしてみたら、澤田さんは一番うしろで『君に目があり見開かれ』にチューしていた。最高のパフォーマンスだった。
6
ゴールデンウィーク、恋人とどこかに遊びに行こうという話になったとき、浜松行って澤田さんに会おうか、という案もあって(結局群馬に行ったのは交通費が安いという理由だ)、実家に置きっぱなしにしていた澤田和弥句集『革命前夜』を恋人に貸すために取り寄せていて、だから澤田さんが亡くなったと聞いたとき、それは目につくところにあった。まだまだ家にたくさんあるから宣伝しといて、と言われていたのを思い出したし、同時に、わたしは寺山修司アレルギーがあって、修司忌のところで読みすすめられなくなっていたことも思い出した。
澤田さんとの大きな違いのふたつ目は、寺山修司が好きかどうかだ。さらに三つ目は、下ネタを俳句に持ち込むかどうかだった。わたしは、しゃべるのは好きだが俳句に入れるのは結構許せなかった。だから澤田さんには読んでもらうばかりで、わたしが澤田さんの作品をとりあげたりすることがなかった。申し訳ないけど、仕方ない。わたしが澤田さんくらいやさしかったらよかったかもしれない、でもここで、わたしは、何が愛なのかわからない。俳句なんてなければよかった、でも俳句があったから澤田さんに会えたんだった。
マフラーは明るく生きるために巻く 澤田和弥
わたしはもう、元気出しなよ、とはあまり言われなくなってきて、それは自分が元気そうに見えることが多いのもあるし、躁鬱のことを知ってくれている人も増えたからなんだけれど、がんばらなくていいんだよ、と言われるたびに、がんばりすぎないようにがんばって調整してこれなんです、と言いたくなるのを、がんばって言わないようにしていたりするんだけど、澤田さんはどうでしたか。わたしは、澤田さんのつらいときの話を、もっと聞きたかった。
結婚もいったん諦めたし、仕事ないし、もともと野望とかもないし(澤田さんは実は野心家でしたよね)、お酒はちょっと制限するようにしてるし、大好きな下ネタを話す相手も減ってきて、どうするのがいいですかねぇ、澤田さん。また時間あるとき聞いてくださいね。
今までありがとうございました、そっちではたくさんのやさしくてナイスバディな奥さんにおしくらまんじゅうされて過ごしてください。で、わたしがダメそうなときは、神の啓示を頼みます。いや、顔的に、仏か。
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2015-05-31
【澤田和弥さん追悼】澤田さんありがとう 佐藤文香
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【澤田和弥さん追悼】わたしの澤田くん 堀田季何
澤田和弥さん追悼
わたしの澤田くん
堀田季何
澤田和弥くんについて追悼文を書けという。
通夜や葬儀でのスピーチやお悔やみ状で使われる、きちんとした類の文章はわたしには書けない。元々駄文しか書けないし、散文が大の苦手だからである(正式な追悼文では「元々」というような重ね言葉は禁句であるらしい)。そのせいもあって原稿もよく落としてしまい、数少ない信用もついでに落としているわたし。
それでもわたしに何でお鉢が回ってきたかと云えば、彼と友だちだったからである。そう、友だちだった。間違いない。天国にいる彼もこの関係性の定義は肯定してくれるだろう。
でも、友だちなんだから何か書かなくちゃ、と思っていても、澤田くんには私よりももっと親しい友だちがたくさんいるし、わたしが面識のない読者も沢山いる「週刊俳句」で澤田くんとのエピソードを大親友面して開陳してもイタいことになってしまうし、半永久的に電脳空間に残る追悼のメッセージなんて到底書けやしないし、そもそも何を書けばいいのかわからない、とずっと思っていて先週は見送った。
その後、松本てふこさん、金子敦さん、上田信治さんの文章を読んで、変な言い方だが、少し気が楽になった。今週は、漠然とながらも、何か書いてみたい、何か書かねばと思った。
彼と何々をした思い出とか私よりも若かった彼を失って自分がいかに取り乱しているかとか、そういったことは不特定多数の読者のまえで語りたくないし、澤田くんも喜ぶとは思えないので、、とりあえず、わたしが俳句関係で澤田くんについて思っていることを断片的に語りたい。
[句材の好み]
句材の好みは、間違いなく似ていた。
二人とも社会や歴史を詠むのが好きだったが、更に好きだったのはタナトスとエロスに関する句材である。彼のこういった嗜好は、句集名『革命前夜』や第1回新鋭評論賞準賞に輝いた『寺山修司「五月の鷹」考補遺』というテーマからもわかるだろう。少女を扱った絵画史についても造詣が深く、「美少女の美術史」展に私が行きたいと云ったら、すでに一回観ていたはずの彼はついてきてくれて、怖ろしいまでの博覧強記ぶりを披露してくれ、わたしを大いに喜ばせてくれた。
そんな感じで、お互い嗜好が合う者同士、お互い同じ句材を扱った句をシンクロニティのごとく作っていた。私が歴史ネタで王の処刑を詠みこんだ句を本郷句会に出すと、有馬先生は(よく欠席投句してくれていた)澤田くんの句としばしば間違えた。澤田くんは同人誌「のいず」に多くのバレ句、社会性のある句、死に関する俳句を出していたが、わたしもそれらの句にある語彙のほとんどで句を作ったことがあったので、お互いそれを知って、二人して驚いたことがある。
いずれにせよ、彼は「のいず」に出した句が「卑猥」「露悪的」と一部の読者から言われていることを少し気にしていたが、その媒体では自由に句を出せることを喜んでいた(一般結社誌では内容的に無理だっただろう)。
彼のメールから二か所引用してみたい。
「そうなんですよ! エロスとタナトスなんですよ!」
「私が詠んでいるものは、そんな高尚なもの(筆者註:エロスとタナトス)ではなく、『エロ』と『死』という、もっと猥雑で露悪的なものかもしれません。私の句を『嫌がらせ』と捉える方もいますし、忌避される方もいます」
両方とも彼らしい文章だ。後者は彼らしい他人への心遣いの現れ。前者こそが本音だろう。彼は、遠慮するタイプの人間であったが、俳句だけでは、他人の意見やトレンドといったものに迎合することはなかった。「エロ」や「死」に接近することを躊躇しなかった(ただ、実生活でも「死」に接近しすぎていて、それが死因になってしまった感がある)。
[俳人として]
正直言えば、天才でなく秀才だった。それも、とびっきしの秀才で努力家で勉強家。作句にそつが無いタイプでなく、当たって砕けろタイプ。天がほほ笑んでくれるタイプではなく、天を無理矢理笑わせるタイプ。しかも、俳句の上では、他者に迎合せずに失敗を怖れない剛の者。
そういう澤田くんの代表句がどの句になるかは、歴史が決めることなので定かではないが、そういった句について他人が意識し始める前に逝ってしまった。実験や観念による失敗を怖れなかったので、残された作品は概ね玉石混淆だと思う。でも、その中には確かに珠玉つまり秀句が色々とあるので、彼の代表句が取りざたされるのは時間の問題かもしれない。
彼は同世代(二、三十代)の俳人の中でも豊かな実力があった。ただし、万人の認めるところ、彼は神童としてすでに俳句史に大きな遺産を置いていったわけではなく、俳人としては大成する前であった。そのかわり、彼の故郷浜松の英雄である家康並みの大器晩成型。大きな器と素質があり、大物の片鱗があった。句会では小粒の伝統的写生詠で高得点句を狙うよりも豪快な観念詠を出して撃沈することを喜ぶようなところもあり、数十年以内に大俳人になった可能性は、わたしの主観を抜きにしても、極めて高いと思う。
わたしは「豈」57号に寄稿した文章「リアルでホットであること」にて、澤田くんが五十歳以下の俳人で現代における戦争や政治を詠める数少ない一人、数人のうちの一人であることを指摘した。そう、そういう素材を積極的に詠んでいる若手を数えてみたら数人しかいないのだ。澤田くんとあと数人。
数十年後になったら、日本語俳句における社会詠、戦争詠、政治詠はわれわれの世代の誰が担っているのだろうか。そのときは誰がまだ生きていて、俳句という短い形式に深い認識を込めつづけているのだろうか。今の俳壇もすでに穏健な日常詠が支配するぬるま湯の世界といった感があるが、澤田くんが離脱してしまった以上、将来はまさに冷めた湯のごときかな。わたし自身、自分がよぼよぼになっている数十年後の俳壇など想像もできないが、澤田くんを失ったことで未来の俳壇がつまらなくなってしまったことは間違いない。
[評論家として]
俳論も開花する寸前だった感がある。
彼は同世代の中では元々(あ、同じ重ね言葉をまたもや使ってしまった!)文章が巧かった。わたしとは雲泥の差。「天為」20周年記念作品コンクールの随想部門で第一席を、俳人協会のコンテストでも第1回新鋭評論賞準賞を獲っているし、太宰治の『女生徒』が大好きなわたしのために、そして「美少女の美術史」展で塚原重義監督による『女生徒』のアニメを一緒に観た記念に、「女生徒」風の文章をフェイスブックに載せてくれたこともあった。
俳論は、愛する寺山修司論や俳句仲間たちの句集評が主だったが、「『ミヤコ ホテル』を読む」
、 「胡散臭い日本の私」といった面白い文章も「週刊俳句」に遺している。ありきたりのコメントだが、もっと読みたかった、それに尽きる。
[句友として]
いきなり死にやがって、ばかやろー
あやまってもゆるさんぞ
今回ばかりは、福助のようにおじぎしてもゆるさんぞ
おまえさんが死にたくなかったのはよくわかる
おまえさんは死が好きだったけど、死を本当におそれていた
もっともっと生きたかった、もっともっと生きていたかった、ぜんぜん死にたくなかった
でも、死がおまえさんのことを好きだったんだ。死がこっそりおまえさんにすり寄ってきて、キスして、放さなかったんだ
死みてえなやつと何でキスしてしまったんだ、こんちきしょー
あいつは巨乳でもないし、そもそもあいつはいつも浮気していてひとの命を盗んでく
洒落のようだけど、死じゃなくて詩なら良かったのに
おまえさんはいい人間でいろんな輩から好かれていた。おまえさんが思っていた以上に
みんなみんな、おまえさんのことが好きだった。おまえさんが思っていた以上に
ああ、おまえさんも死んでみて気付いただろう
自分の人気ぶりに、自分のばかぶりに、自分の他人行儀ぶりに
おまえさんは死を恐れていればよかったのに、人ばかり恐れていた
でも、みんなみんな、おまえさんには帰ってきてほしいと思ってる
とはいっても、いま帰ってくるなよ
そして誰も連れて行くなよ
どうせいつの日かみんなそこに行って句会をするんだ
そしたらゆるしてやるよ
ほんとにばかやろー、だ
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2015-05-24
【リンク集】週俳で読む「澤田和弥」
【リンク集】
週俳で読む「澤田和弥」
澤田和弥 妻がをり 50句 2007-10-28
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/10/blog-post_28.html
澤田和弥 一塊の肉 50句 2008-10-26
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2008/10/blog-post_8267.html
澤田和弥 教養 50句 2009-10-25
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2009/10/2009_1206.html
澤田和弥 艶ばなし 10句 2010-09-26
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2010/09/blog-post_325.html
澤田和弥 還る 50句 2011-10-30
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2011/10/2010_407.html
澤田和弥 草原の映写機 50句 2013-11-03
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/11/20135.html
さわだかずや ふらんど 50句 2014-11-02
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/11/201412_1.html
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澤田和弥:覚悟 陶工・國吉清尚を通して(「天為」2008年5月号より転載) 2008-08-17
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2008/08/blog-post_3164.html
澤田和弥:早大俳研のこと 2009-02-01
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2009/02/blog-post_3219.html
澤田和弥:交差点 石原ユキオ『俳句ホステス』評 2011-04-24
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2011/04/blog-post_24.html
澤田和弥:胡散臭い日本の私 2011-07-10
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2011/07/blog-post_9396.html
澤田和弥:〔句集を読む〕真剣なる遊び 佐山哲郎『娑婆娑婆』を読む 2011-08-21
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2011/08/blog-post_21.html
澤田和弥:「ミヤコ ホテル」を読む 2012-07-29
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/07/blog-post_29.html
澤田和弥:加本さんをご紹介します 2012-09-02
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/09/blog-post_1850.html
澤田和弥:加本さん、お疲れ様でした 2012-10-07
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2012/10/blog-post_7.html
澤田和弥:父還せ 寺山修司「五月の鷹」考 2013-05-12
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/05/blog-post_3812.html
澤田和弥:ワタリウム美術館「寺山修司ノック展」テラヤマonリーディング
寺山修司と関わりし或る日の日記 2013-09-01
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/09/blog-post_289.html
澤田和弥:【週俳1月の俳句を読む】レース 2014-02-02
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/02/1.html
澤田和弥:誤読 金子敦第四句集『乗船券』を読む 2014-02-16
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/02/blog-post_15.html
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澤田和弥:前略 上田信治様 2011-03-27
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2011/03/blog-post_6902.html
上田信治:拝復 澤田和弥様 2011-04-03
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2011/04/blog-post_5038.html
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山田露結:新幹線に乗る直前にとりあえず手軽に買うことの出来る無難な東京土産 澤田和弥句集『革命前夜』の一句 2013-07-14
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/07/blog-post_14.html
西原天気:後衛の魅力 澤田和弥句集『革命前夜』の一句 2013-07-14
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/07/blog-post_5979.html
谷口慎也:爆発寸前の静けさ 澤田和弥句集『革命前夜』 2014-01-19
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/01/blog-post_19.html
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関悦史 水曜日の一句 2013-07-17
正義の味方仮面のみにて裸 澤田和弥
http://hw02.blogspot.jp/2013/07/blog-post_17.html
相子智恵 相子智恵 月曜日の一句 2013-07-22
羽蟻潰すかたち失ひても潰す 澤田和弥
http://hw02.blogspot.jp/2013/07/blog-post_22.html
〔人名さん〕むらかみさん 2013-09-12
村上龍村上春樹馬肥ゆる 澤田和弥
http://hw02.blogspot.jp/2013/09/blog-post_12.html
【俳誌拝読】『あすてりずむ』第4号 2013-12-26
闇汁の半分がまだ生きてゐる 澤田和弥
http://hw02.blogspot.jp/2013/12/420131223.html
相子智恵 月曜日の一句 2013-12-30
闇汁の半分がまだ生きてゐる 澤田和弥
http://hw02.blogspot.jp/2013/12/blog-post_30.html
関悦史 水曜日の一句 2015-05-20
冷蔵庫にいつも梨ゐて父と話す 澤田和弥
http://hw02.blogspot.jp/2015/05/blog-post_20.html
≫ラベル(タグ)澤田和弥
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【澤田和弥さん追悼】 澤田さんのこと 松本てふこ
澤田和弥さん追悼
澤田さんのこと
松本てふこ
澤田さんの作品というか、句集に関して一昨年に文章を書いた。
私が彼の句に対して思っていることはここであらかた書けてしまった気もするので、リンクを貼っておく
小さな革命としての俳句~澤田和弥句集『革命前夜』
https://note.mu/tefcomatsumoto/n/n2fc68a9b5e95
この文章では、ただただぼんやり澤田さんとの思い出を振り返っていこうと思う。
澤田さんと初めて会ったのは、大学一年の頃。俳句研究会の一学年上に、澤田さんがいた。
亡くなる少し前の丸々とした面影は出会った当時は全くなく、ちょっと丸顔かな、というくらいだった。別のサークルが忙しそうで俳句研究会の活動にはそれほど積極的に参加してはいなかった。時々大学周辺で見かけると、くるりの「世田谷線旧型車輌を残そうキャンペーン」ツアーのTシャツを着て颯爽と自転車で走っていたりした。
寺山がとても好きなことは彼自身から聞いていたし、私もくるりと寺山が大好きだったので(小学生の頃に読んだ『スポーツ版裏町人生』で袴田事件を知った)、色々話したらきっと楽しいだろうな、と思いつつそんな機会もさほどないまま、彼は大学院に進学した。
大学院進学後、澤田さんに何か転機が訪れたようで俳句研究会に顔を出すことが多くなった。超結社の句会に顔を出すと、彼がニコニコと手を振っていた、ということが増え、自然と二次会などでも話す機会ができた。
彼は、当時mixiに毎日のようにすごい分量の日記を書いていたけれど、内容がどうこう、というよりは「書きたい」という欲求が活字のかたちで溢れ出ている印象で、社会人になったばかりでひたすらくたびれていた私にはそのエネルギーがまぶしく見えた。
…と、このように書いていくとどうもしゃらくさくなる。
まあその後は、そんなに頻繁に会う訳ではないが、会えば酒を飲み俳句の話をして盛り上がった。彼と飲むとアハハハハハハハ!と威勢良い笑い声が聞けるのが楽しかった。
彼はいつも誰かを心配していた。でも誰かを心配する気持ちと同じくらい強く、その誰かに自分ができることはごく限られていると感じているようでもあった。
綺麗なお店、オシャレなお店で一緒に飲んだ記憶はない。見栄えはそれほどよくないけど、何でも美味しくて気楽なお店がよく似合った。
澤田さんとの思い出は基本的に楽しいものばかりだったが、楽しい、とは少し毛色の違う思い出があるので書いておこうと思う。
ひとつは、彼が故郷である浜松に帰る直前に行われた徹カラだ。
浜松に帰るし失恋もしたから徹カラしてるよ、おいでよ、と連絡がきて仕事帰りに合流した。当時まだ学生だった谷雄介くんや山口優夢くんがいて、賑やかだった。
私は彼がどうして浜松に帰ることにしたのか当時よく知らなかったのと、失恋したからと言って彼らが相手を悪者に仕立てて騒いでいるように見えてちょっとイラっとしてしまい、つらいつらい恋愛の歌を歌ってやろうとチャットモンチーの「恋愛スピリッツ」を入れた。
歌いながらちらっと澤田さんを見たら、心なしか笑顔が固まっていて、あ、悪いことをした、傷口に塩を塗ってしまった、と気付いて反省した。
ふたつめは、2年前のGWに彼が上京して、六本木で「LOVE展:アートにみる愛のかたち」を私たち夫婦と観たときのことだ。
私の家族は澤田さんと彼の句に興味があったようで、自分のHPで句を引用したりしていた。
澤田さんが、是非ふたりと観たい、と言ってくれたので六本木で待ち合わせた。その年のエイプリルフールに入籍したので、結婚祝いのつもりだったのだろうか。
やってきた彼は、病気のため杖をついていたのにものすごい大荷物だった。聞けば、ブックオフで美術関係の資料を買い漁っていたという。ブックオフのビニール袋は破れかけ、カートは重たい、GWのなかなか手強い陽気というか暑さ、そんな中を本調子ではないのにこんな大荷物でやってきたことや、彼の中にあり続ける美術の世界への熱意や欲求を思うと無性に切ない気持ちになった。
もちろん彼はいつも通り明るく、初対面である私の家族ともびっくりするほど普通に、そして和やかに話していた。展覧会を存分に楽しみすぎて新幹線の時間が危うくなり、大慌てで彼をタクシーに押し込んだ後の、しんとした感覚を今も覚えている。
彼の最期の日々を私は知らない。でも、彼が寺山と同じ五月にこの世からいなくなってしまうなんて、あまりにも出来過ぎている。そんなところ、うまく出来ていなくたっていいのに。本当に、本当にさみしい。
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【澤田和弥さん追悼】和弥くんが亡くなった 金子敦
澤田和弥さん追悼
和弥くんが亡くなった
金子敦
澤田和弥さんのことを、僕はいつも、和弥くんと呼んでいた。
初めて知り合ったきっかけは、「週刊俳句」である。それは、2007年10月28日号に掲載された、角川俳句賞の落選展。僕の作品は、「チェシャ猫」というタイトルの50句。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/10/blog-post_3407.html
このコメント欄に登場している、さわDさんが和弥くんである。この拙い句群に対して、「一読して心地よい戦慄が全身に流れました。体内に電流を感じました」と、身に余るようなお褒めの言葉をいただいた。
その後すぐに、和弥くんからメールを頂き、急速に親しくなった。和弥くんはいつも、「敦さんの俳句を読むと、とても心が癒されます」と言ってくれた。
お互いに、精神的疾患を持つ身として、心から通じ合うものがあったのだろう。何が原因だったか。どんなふうに発病したか。病院には通っているか。医師の対応はどうか。どんな薬を飲んでいるか。などなど、事細かく語り合った。健常者相手には、とても出来ない話である。
僕は、「パニック障害」という不安神経症である。
パニック発作を怖れるあまり、様々な症状を引き起こす。その一例として、電車に乗ってドアが閉まる瞬間に、息が詰まって窒息しそうになる。本当に死ぬかと思うくらい苦しいのだ。この症状を健常者に話すと、「何を大袈裟な!」と言って、鼻で笑われるのがオチだった。「そんなのは、単なる気のせいだ!」とか「意気地なし!」とか、何度も言われ、何度も悲しい思いをした。
そういう僕の思いを、和弥くんはきちんと理解して接してくれた。僕は、何もかも包み隠さず話せる友が出来たようで、とても嬉しかった。僕のこれからの人生において、「心の支え」になってくれるような気がした。
2013年7月に、和弥くんの第一句集『革命前夜』が上梓された。
数々の秀句が収められているのは言うまでもないが、僕が一番驚いたのは、寺山修司の忌日俳句だけを纏めて、一つの章して収録していることである。第一句集の場合は、色々と制約が多いので、このような大胆なことはなかなか出来ない。何としてでも、修司忌の章を入れたい為、かなり自己主張を通したのではないかと思われる。そのことだけでも、彼の信念の強さと、ひたすらな純真さが伺える。
この句集のあとがきには、「これが僕です。僕のすべてです。これが澤田和弥です」という一文がある。まさしく、その通りだと思った。僕は、お礼の手紙と共に、僕の第四句集『乗船券』を送った。
すぐさま、和弥くんは『乗船券』の句集評を書いてくれた。それは、「週刊俳句」2014年2月16日号に掲載されている。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/02/blog-post_15.html
この句集評は、和弥くん自身の体験に基づいて書かれた、とても深い鑑賞文だった。ここまで深く踏み込んだ文章を発表するのは、和弥くん自身にとっても、かなり辛かったのではないだろうかと思う。涙が出た。涙が溢れて止まらなかった。
その日の午後、和弥くんから電話がかかってきた。
「少し深入りし過ぎた鑑賞でした。ごめんなさい・・・」
「そんなこと無いって! こんなに深く鑑賞してもらったのは初めてだから、とても嬉しいよ!」
「敦さんの心を、傷つけてしまったのではないかと心配で、電話してしまいました」
「傷つくどころか、むしろ大感激しているよ!本当にどうもありがとう!」
「そうですか。よかったです。それを聞いてほっと安心しました」
和弥くんは、そういう細やかな心配りの出来る、とても優しい人だった。
そんな或る日、「敦さんが、電車に乗ることが怖いようでしたら、僕の方から逢いに行きます!」というメールが届き、わざわざ浜松から大船まで来てくれた。
改札口を出てきた彼の姿を見て、僕は驚いた。なんと、和弥くんは松葉杖を使って歩いて来たのである。精神疾患の影響で、足が痺れたような状態になり、思うように動かすことが出来ないと言っていた。松葉杖を使ってまで、わざわざ逢いに来てくれたことに感激して、僕は思わず涙ぐんでしまった。
その日は、カラオケ店に直行して歌いまくった。
何曲目だっただろうか。突然、和弥くんの顔つきが変わり、何かに挑むような鋭い眼差しになった。その曲は、桑田佳祐の「真夜中のダンディー」である。おそらく、この曲の歌詞のどこかに、琴線に触れるものがあったのだろう。心のこもった、素晴らしい歌唱だった。音程が正確であるとか、そういう問題では無く、本当の「魂の叫び」であるように感じられた。
カラオケ店を出て、僕が「真夜中のダンディー、情感がこもっていて、とてもよかったよ!」と言ったら、少し照れたように笑っていた。
その後、居酒屋で一緒に酒を飲んで、俳句の話で盛り上がった。
和弥くんの、俳句に対する情熱に、僕はただ圧倒されるばかりだった。結社のことについて、色々と話している途中、酔いが醒めたかのように、和弥くんの眼差しが真剣になった。
「今度、『のいず』という俳句同人誌を出します! 敦さんも、参加していただけませんか?」と誘われた。「もちろんOKだよ!」と、即答したのは言うまでもない。
『のいず』の発行について語る和弥くんの眼は、きらきらと輝いていた。それはまるで、何億光年も輝き続ける星が宿っているようだった。
居酒屋を出て、「また一緒にカラオケしましょう!」と言いつつ、固い握手を交わした。
2回目に逢った時、和弥くんは松葉杖無しで普通に歩いていた。病気が好転している証拠である。僕はとても嬉しかった。このまま順調に、病気が回復すると思っていた。その時、僕の第三句集『冬夕焼』をプレゼントした。彼のとても喜んだ顔が、今でも忘れられない。「どうもありがとうございます! 本当に嬉しいです! この次は、この句集評を書かせていただきます!」とまで言ってくれた。
だが、2015年2月頃、「体調が悪いため、しばらくフェイスブックをお休みします」という書き込みがあってから、ぷっつりと音信が途絶えてしまった。
僕はとても心配で、何回か電話をかけたのだが、一回も繋がらなかった。後から聞いた話によると、医師の指示により、インターネットや電話は一切禁止されていたらしい。せめて、一度でも話をすることが出来ていたらと思うと、本当に口惜しい。無念である。
この殺伐とした世の中で、和弥くんのような純真な人間は、どんなにか生きづらかったことだろう。けれども、どんなに辛くても、もっともっと、長生きして欲しかった。『のいず』の発行を、もっともっと続けて欲しかった。和弥くんはこの世を去ってしまったけれど、僕はこの世に生き残って、これからも「癒される俳句」を詠み続けていきたいと思う。それが、和弥くんに対する供養になるような気がしている。
澤田和弥様のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。合掌。
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【澤田和弥さん追悼】 ごめんね 上田信治
澤田和弥さん追悼
ごめんね
上田信治
水泳帽よりちくちくと毛が飛び出す 2007
毛深い人だった。手の甲や二の腕に手強い毛が生えていて、張りのある胸乳やお腹には、それどころではなく黒い毛が渦巻いているという噂だった。眉毛もまつげも濃いのだった。濃いまつげに囲まれた瞳はいつもうるんでいるのだった。
太宰忌やびよんびよんとホッピング 2007
可笑しな人だった。人に笑われがちであることは受け入れ済みですという顔をしているのだった。書くものは自嘲ネタが多かった。××とか、△△とか、すぐそういうことを、mixiの日記などに書くのだが、その日記はあまりに大量で、むく犬が自分の皮を嚙んで狂い回っているようで、愛らしくも暑苦しいのだった。
そして何が何だか分からなくなって吐く言葉に哀しみがあって、それがいちばん美しいのだった。彼には太宰なども、わけが分からなすぎて「びよんびよん」飛んだ果てに地面にばったり倒れる仲間に見えていたに、違いないのだった。
右攻めしラガー左へ駆け抜ける 2008
高校では剣道部だったと聞いた。主将だったと聞いた気がする。体が良く動く人だったのか。何かと優れた人だったと聞いたような気がする。いや、それはよくある伝説の類だったか。
ぼくが会ったころ、澤田さんはもう、澤田さんだった。句会後こっそり今日は澤田さん調子悪かったのかなあと言うと、彼の口の悪い後輩は、澤田さんはいつもあんなですよ、と言うのだった。澤田さんは、ひどく不器用だった。というか、いつもわざと、失敗必須の書き方で書いているように見えた。
男娼の錆びたる毛抜き修司の忌 2007
水番の叔父と女体を語り尽くす 2008
ふつうに書けないからああ書くのだろうかと、失礼なことを思わないではなかったが、むしろたぶん、澤田さんは、無条件にめちゃくちゃに愛されたい人なのだった。まず第一歩としてそうでなければ、はじまらないのだった。人として、そんなむりな望みがあるか。
めちゃくちゃに愛されるために、よくできた俳句など書いていられないのは当然のことだった。澤田さんは、とても愛せないような自分を仮構して、まずそれを愛せと示すことが多いのだけれど、その、愛せなさ加減すらたいしたことなかったりすると、受け取る側は困るのだった。
でも、ときどき、すごく愛せる。
澤田さんが早稲田で百句出しの句会を企画したことがあって、櫂未知子さんとか神野紗希さんが来ていて、百句出しだから流して書いたような句も多かったけど、澤田さんのは、そりゃあもうひどかった。ほとんど下ネタで、片目で見ても澤田さんのって分かる。あんまりひどいんで「あらかじめバツつけて回しましょうか」と言ったら、みんな笑った。
ママ今日の松茸が大きすぎるよ 2010
爽籟や胸の谷間にボンジュール 2010
あははは。
澤田さん、懐かしいね。めっちゃ面白いじゃん。ひどいこと言ってごめんね。
喜びは風船を割ることばかり 2009
澤田さんが、いろんなことをちっともあきらめていなかったことは、みんなよく知っている。
澤田さんはいつもまわりの人のために尽くして、そしてふさわしく愛されたと思う。思うけれど、澤田さんはこの世でもっといい目を見たらよかったのに、と本当は、そう思う。
澤田さんはたいへんだった。本当にたいへんだったですね。
春の夜のカフェオレふうふうされ困る 2011
のどけさのなんとさびしき空の上 2011
春惜しむ振ればカラカラ鳴る缶と 2011
新緑の底に沈みし船のごと 2011
看板のどれもさびしき春なりけり 2013
さびしさの乳首をつまむ春の宵 2013
草原に映写機ひとつ修司の忌 2013
目つむれば風かすかなり花の雨 2014
カーテンよりわづかに春の雲拝む 2014
精神病んで杖つき歩く花ざかり 2014
もっと読みたかったですよ。
心から。
みんな、あなたの句がもっと読みたかったですよ。
ずんべらずんべらと冬の川に板 2008
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引用はすべて週俳で読む「澤田和弥」から。
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2014-11-02
2014-02-16
誤読 金子敦第四句集『乗船券』を読む 澤田和弥
誤読
金子敦第四句集『乗船券』を読む
澤田和弥
最初の10句を引用してみよう。
湘南の匂ひをまとふ初日かな
年賀客ともに渚へ走りけり
風花をいざなふ楽譜開きけり
初蝶がト音記号を乗せてくる
北窓を開けて便箋買ひにゆく
囀りやくるりくるりと試し書き
飴玉のさみどりの線春立ちぬ
春めくや京菓子の蓋開けてより
三月のひかりの色のメロンパン
テディベアに見守られたる雛の部屋
ここにどのような作者像を結ぶだろうか。
明暗で言えば、明らかに明であろう。どのような明か。ここに挙げた句が春の句というせいもあるかもしれないが、春の日差しのような、やわらかな明である。
これは他の季節の句にも言える。
夏の句もぎらぎらしていない。暑くない。あたたかい。秋も冬も。
金子敦(文中敬称略)の師である森岡正作は、栞において「少年のまなざし」と記している。確かにこのあたたかさは、思春期を迎える前の少年の持つあたたかさなのかもしれない。
青春性というよりも、その前も時代。少年時代を我々はこの句集に感じるのかもしれない。
『乗船券』は第四句集である。
第三句集『冬夕焼』は母への追悼の句集だったという。
望の夜や母の遺影を窓に置き
天上の母が落とせし木の実とも
これらの句には痛切な亡き母への思いというよりも、天上の母へのあたたかな思いを感じる。
これを少年性と呼ぶことはできないが、大人の心の中に住む少年ということはできるのではなかろうか。
あたたかや主宰の横に座りゐて
ここまでに素直な主宰への愛を語られたとき、そこには「少年」という言葉によって髣髴とされるまっすぐな視線を読み取りたい。
しかし、この「少年」は何も知らない少年ではない。
「あとがき」には、パニック障害によって、一歩も家を出ることのできなかった過去が記されている。
パニック障害は非常に苦しい。死ぬ訳ではない。しかし、「これは間違いなく死ぬ」という尋常ならざる恐怖感に苛まれる。家の外に一歩も出ることが出来ない、あの苦しさを乗り越えた「少年」なのである。
「春の日差しのような、あたたかな明」と前述したが、正確には「小春日和のような」といった方がいいかもしれない。
いつ冬の寒さに襲われるか分からない、しかし今こんなにもあたたかい、そのあたたかさ、今を充分に幸せに感じ、生きよう。そのような「明」を金子敦の句から感じるのである。
カッターの刃先光れる盆支度
普通の盆支度のワンシーンである。しかし私はここに金子敦のかすかな「恐怖」を感じる。今、ここにある生を揺さぶるような大きな恐怖。この前後の句はやはりあたたかい。唐突にこの句がある。
これを思ったときにふと、先に挙げた句が頭をよぎる。
望の夜や母の遺影を窓に置き
この句の直前に掲載されている二句を挙げたい。
満月の向かう側より呼ばれけり
月の舟の乗船券を渡さるる
たいへん抒情性に富んだ句である。
特に二句目は句集名にもなったと考えられる句である。実は私は作者本人から句集の由来を聞いている。そこから考えて、掲句はそのまま抒情的に読んで間違いない。
しかし私は敢えて「誤読」を試みたい。
満月の夜に窓辺に母の遺影を置く。母は天上の人である。満月の向こう側から作者を呼んだのは母ではないか。亡き母の呼び声を「聞いて」しまったのではないか。
この乗船券は「死」の世界への切符ではあるまいか。
愛する母のもとへ行きたいという思う気持ちを誰が否定できようか。
パニック障害には必ずと言っていいほど、或る病が伴ってくる。うつ病である。うつ病のもっとも恐ろしい症状は「死への誘惑」である。「死の渇望」とも言っていい。
とにかく死にたくなる。
この世という地獄から無の世界へと、ものすごい吸引力で引き込まれる。これは「ああ、これなら死んだ方がマシだ」というレヴェルではない。
「死」以外考えられなくなる。「死」だけが全てになる。
作者がそこまで重い症状を呈したかどうか、私にはわからない。しかし、私自身の経験から言えば、そういう病である。
俳句作者は己の作品の50パーセントしか作りえない。十七音というきわめて小さな詩型はそれしか許さない。残りの50パーセントは読者に委ねるしかない。
つまり俳句という詩型がきわめて特殊である点は、作者と読者の共同作業によって、初めて100パーセントの作品に完成させられるということにある。
私は読者として、金子敦の作品をそのように「誤読」する。彼はその恐怖を、きわめて繊細な抒情性とあたたかさで表現している。
おそらく本人自身気付いていないと思う。しかしこれらの句を眺めたときに、私はそう思わずにいられないのである。
これは少年のまなざしではない。本当の恐怖を知っている者だけが表現しうる静謐な世界である。
大人を超えた、聖者の世界である。
これは「二〇一〇年」の章の冬の句にも顔を出す。
ガードレールに凭れてゐたる焼藷屋
影踏みの子のゐなくなる返り花
とほき日のさらに遠くに冬夕焼
寒波来るアルミホイルの切り口に
(二句略)
文庫本伏せて不在の暦売
熱燗や無かつたことにする話
なんでもないなんでもないと蜜柑むく
これを「少年のまなざし」と言えようか。
先の句に見られるのは「無への回帰」、つまり「自分が不在になること」ではなかろうか。本当にいなくなるのは、影踏みの子でも、暦売でも、話でもない。自分自身ではないのか。
しかし、それを作者は「なんでもないなんでもない」と言い聞かす。そうしてまた、あたたかな少年のまなざしへと戻っていく。
金子敦の視線は確かに「少年のまなざし」である。純心すぎるほどの少年のまなざしである。
この句集は、特に「お菓子俳句」について言及されることが多い。それはその少年性やあたたかさに起因するものだろう。
しかし彼のあたたかさは小春日和のあたたかさだ。
パニック障害という「冴」がすぐそこにある。だからこそ、彼のあたたかさは生ぬるくない。徹底して、あたたかいのである。
よく考えてほしい。本物の少年はそこまで純心であろうか。無垢であろうか。少年のもう一つの特徴が残虐性である。蟻の穴にホースを突っこんで、蛇口を全開に開いたり、美しい金魚を水槽から取り出して、そのまま放置したり。しかし金子敦の中の少年にはそのような残虐性はない。
徹底したあたたかさは、徹底した恐怖体験から生まれている。それがパニック障害なのではなかろうか。家を一歩も出ることのできなかった過去なくしては、この徹底したあたたかさは生まれなかったかもしれない。
繰り返す。
これは私の「誤読」である。
全ての精神疾患患者が、私自身と同じ心情や経験をしている訳ではない。自分にひきつけすぎる読みだ。
しかし私の中の天邪鬼が疼くのだ。
「この句集は『お菓子俳句』じゃない。もっと本質は奥にある」と。
この句集評は金子敦自身を傷つけるかもしれない。
しかし敢えて書いてしまった。
こう読んでしまった。車谷長吉の記すように、書くという行為はまさに「業」である。
以上。
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2014-02-02
【週俳1月の俳句を読む】レース 澤田和弥
【週俳1月の俳句を読む】
レース
澤田和弥
俳句はレースである。
最初から飛ばす先行逃げ切りか。
中盤からじわじわと追い上げるか。
最後尾から、最後に一気に駆け抜けていくか。
光速は人類の憧れである。
ジョギングには、ほのぼのとしたゆとりがある。
私は高校時代、余力を残して、
最後の300メートルで一気に駆け抜けるタイプだった。
長距離は先頭集団にいて、最後に
光速のように一気に駆け抜ける
帝王ゲブレシラシエが好きだった。
帝王は小躯であった。
私もまた小躯である。
十七音を小躯と見るか。それとも大河と見るか。
大馬が颯爽と駆け抜けるレースよりも、
小さな馬が必死になって、先頭に立つレースを
私は好む。
私はマラソンよりも、同じコースをぐるぐる回り続ける
10000m走をより好む。
以上の嗜好が、私を俳句に向かわせる理由なのかもしれない。
「週刊俳句」1月のレースを振り返ってみよう。
変電所正月四日よく晴れて 上田信治
不思議な馬がいる。スタートは馬なりに走り、
先頭集団にいるものの、さほど目立たない。
しかし鞭もいれていないのに、
いつの間にかするする先頭にたって、
楽勝をしてしまう。
なんとも晴れやかな新年詠である。
「変電所」という上五にいささかの戸惑いを受けるものの、
いきなりの大勝負という訳ではない。
「四日」でいいものの「正月四日」という、
いささか音の無駄遣いにも思えてしまう中七の伸びやかさが心地良く、
その快さを下五のあっけらかんとした表現で、
しっかりと受け止めている。
大勝である。しかしレースを仕掛けた様子はいささかも見受けられない。
魅力的な句である。
剃り残し無き顎撫でて初詣 岡本飛び地
先行逃げ切りである。
集団に呑み込まれると、どうしても走りにくい。
最初にハイペースで行く。
周囲はそのハイペースが続くとも思えず、
様子を見る。少しペースが落ちるものの、
追いつけない。そのまま先行逃げ切り。
「剃り残し無き顎」がいかにもめでたい。
気持ちがよい。
「撫でて」でペースが一瞬落ちるが、
下五でしっかりと逃げ切っている。
初雀にまじりて一羽眼白なる 小澤 實
昔、ダンサーズイメージという馬がいた。
レースはいつも最後尾、そして最後の直線で
あざやかに全ての馬を追い抜き、
勝利を手に入れた。
上五、中七は助走である。
そのために下五のあざやかさが見事である。
渋い勝負である。
最後にハナ差で追いこんだ感はある。
しかしそれが俳句という文藝の醍醐味である。
正月の雑踏ブラジャー販売機 木野俊子
こういう句が私は本当に好きである。
「正月の雑踏」には何の驚きもない。
しかし、そこからの飛躍。
「ブラジャー販売機」には何のエロスもいやらしさもない。
この開けっぴろげな明るさ。
最後まで読んだあとに、もう一度頭に戻ると、
「正月の雑踏」がいかにも効いている。
どんなレースもどんな演出がなされるか分からない。
最初の凡走が実は計算されたものであることに気付くのは、
どうしてもレース後のことになっていまう。
しかし俳句はそれを許してくれる。
初日差さっとダビデを羽交いせる 金原まさ子
美しい。美しい肉体は、レースの結果よりも、
その姿を愛でるだけで充分に恍惚とした気分になる。
この句は美しさだけでなく、
レースの結果も伴っている。
美しいことが、そのまま速さに比例した佳句である。
正月の母のうずうずしてゐたり 齋藤朝比古
いかにも手堅い句である。まさに俳句的である。
しかしそこに「うずうず」というオノマトペが入ることで、
このレースはたいへんに面白い。
単なる本命馬ではない。道化師も演じることのできる本命馬。
安心感とともに、レースそのものも非常に楽しい。
レースに例えるのも、いささか疲れてきた。
ここからはオープンレース。
自由に走らせていただく。
ヌ―やいま処女のどよめく月の川 佐々木貴子
上五に惹きつけられる。突然「ヌー」の巨体が現れる。
しかもヌーはいつも群れている。
巨体の大群が突然現れた。そこに間投詞としての「や」が効いている。
「処女の」が多少安易な言葉にも思えるが、
「どよめく」で盛りかえす。
「月の川」でしっかりと締めた。
ヌーの大群が満月の夜の川にひしめいている。
誠に美しい景である。
神秘的ですらある。
この聖性は「処女」だからではない。
やはり「ヌー」に起因するものである。
枡酒の盛り上がりたる淑気かな 清水良郎
めでたい。いかにも「淑気」である。
本命馬の手堅いレースも私の好むところである。
やはりレースに例えてしまった。
先行句を感じない訳ではないが、
この正月のめでたさには、
酒好きとしても、諸手を上げたくなるのである。
木々に雪妻にわれある四方の春 鈴木牛後
なんと幸福な句であろうか。
「われに妻ある」ではない。
「妻にわれある」がとても佳い。
そして四方は春なのである。
木々の雪も日に輝いている。
一点の陰もない。
正月だからこそ、この幸福感を充分に受け止めることができる。
一億のアイヒマン顔(がほ)初詣 関 悦史
「一億」「初詣」から、ここに描かれているのは日本人だろう。
その全てがアイヒマンの顔をしているという。
アイヒマンには「忠実なる下僕」という印象がある。
その忠実さは忠犬ハチ公のようなものではない。
心がないという忠実さ。
それを作者は初詣に浮かれる日本人の顔に見たのである。
この国の現状が如実に表されている。
ところで、「アイヒマン」を変換したら、
「愛肥満」と出てきた。
なんとも皮肉めいている。
初日の出親父がひどくかすれ声 髙井楚良
取り合わせの妙である。
「が」が気になるが、
全体として句の調子を崩すほどではない。
ここでは「初日の出」をともに拝する、
親父のひどいかすれ声の微笑ましさを味わうべきであろう。
初夢や誰かの足を踏んでゐる 高梨 章
上五で大きく切れる訳ではない。
あくまでも初夢の中の話と捉えたい。
足を踏んでいる感覚はある。
誰かはわからない。
目隠しをされているのか。
それとも満員電車の中か。
後者であれば、初夢から満員電車とは、
なんとも現代日本のせちがらさを感じさせる。
しかし全体にたゆたう軽みによって、
この句はしっかりと俳句として愉快である。
神までの裏道とほし初手水 仲 寒蝉
「裏道」と言えば、本道よりも近くて楽だから、通るところである。
しかしそれが遠い。
なにせ「神までの」ですから。
安易に神社という実体とは捉えたくない。
八百万の神へは裏道を通っても、
やはり遠い存在なのである。
その遠い存在へ、現世利益的な、卑近なお願い事をするために、
日本人という生き物は初詣へと向かうのである。
バベルの塔更地に手毬よく弾むよ 福田若之
バベルの塔は神のいかづちによって崩された。
そこを更地にした。
そうしたら手毬がよく弾む土地になった。
「更地に」で切らなければ、
句意はそのようになる。
バベルの塔は現存しない。
勿論実在したかも定かではないが。
塔は更地になり、何もなかったことになった。
そこからの飛躍。いや、飛翔と呼ぶべきか。
「手毬よく弾むよ」というフレーズを
私は愛してやまない。
戦前来何色と問ふ初鴉 渕上信子
虚子の名句をベースにしていることは言うまでもない。
それにしても初蝶ではなく、来たのが
「戦前」である。
それが何色かと問われても、
初鴉も困ってしまうだろう。
しかし初鴉にはそれすらも答えてしまう、
何か飄々としたものを感じる。
その感覚を技巧をこらして、
見事に表現している。
この技術力は圧巻である。
息吸つて止めてまた吐き姫はじめ 松本てふこ
下五でひっくり返った。そう来たか。
見事である。
句意を語るほど野暮ではない。
これ以上の感想を言うのも照れくさい。
とにかく、見事である。
全くいやらしくないいやらしい句とだけ言っておこうか。
乳飲み子の大きなおなら初笑 矢野玲奈
やはり新年詠はめでたくありたい。
この句のめでたさは、或る意味で小市民的だが、
それのどこが悪い。めでたいことはいいことだ。
家族円満、それほどの幸せはない。
読むことに幸せを感じさせてくれる。
俳句とはやはり佳い文藝である。
自己破産させた人から賀状来る 山田きよし
「した」ではない。「させた」のである。
これは尋常ではない。その人から年賀状が届いた。
「今年もよろしく」。本当によろしくしていいのだろうか。
葉牡丹の氏素性など知るか、なあ 山田耕司
この句は下五というよりもラスト「、なあ」に全てがある。
ゴール直前、全ての馬がストップモーションになったなかを、
猛烈なスピードで追い込む一頭。
強烈な追い込みである。
私がもっとも好むレース展開である。
なま白き初日抽斗半びらき 渡戸 舫
まず「なま白き」が気持ち悪い。
そんな初日があって、抽斗が半開きになっている。
嗚呼、ちゃんと閉めたい。初日もちゃんと白くしたい。
もう身悶える。ああ、もう、ああ。
しかし俳句として提示された以上、
この句のなかではいつまでも初日は「なま白」いし、
抽斗は「半びらき」である。
この「半びらき」も「半開き」にしたい。
なんでここでひらがなにするのか。
もう、こう、かちっと漢字にしたい。
ああ、もう、ううううううううう。
これは嫌がらせである。
それもすごく上質で心地の良い嫌がらせである。
私のもっとも好むところである。
冬青空鶏隙間無く積まれ 玉田憲子
鳥インフルエンザを思った。
殺処分である。
あの景色には尋常ならざる寒々としたものを感じる。
殺処分をするのは、動物担当の役人だろう。
獣医師か薬剤師か。
獣医師であれば、動物が好きでなったことだろう。
しかし、仕事として猛烈な数の鶏を殺していく。
そこに「冬青空」は、なんとも悲しい。悲しすぎる。
寺山修司は八頭立てのレースには少なくとも八篇の叙事詩があると書いた。
「週刊俳句」1月のレース、悲喜こもごも、多くの物語が紡ぎだされた。
さてトップは誰か。単勝は大穴か。それとも手堅い本命ガチガチのレースか。
レースはファンの夢の中で描かれる。
実際のレースはその確認作業に過ぎない。
さて、あなたの夢のレースはいかに。
第350号2014年1月5日
■新年詠 2014 ≫読む
第352号2014年1月19日
■佐怒賀正美 去年今年 10句 ≫読む
■川名将義 一枚の氷 10句 ≫読む
■小野あらた 戸袋 10句 ≫読む
第353号2014年1月26日
■玉田憲子 赤の突出 10句 ≫読む
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2014-01-19
爆発寸前の静けさ 澤田和弥句集『革命前夜』 谷口慎也
爆発寸前の静けさ
澤田和弥句集『革命前夜』
谷口慎也
※『連衆』第66号(2013年9月刊)より転載
著者は昭和五十五年、浜松市生。第一句集である。現在『天為』同人で、跋文を有馬朗人が飾る。句集名は〈革命が死語となりゆく修司の忌〉からきているようで、寺山修司のその前衛的な青春性(手法)に、自分の進むべき道を大きく重ね合わせている。
「革命前夜」とは爆発寸前の静けさの中に在るもの。そしてその静けさの中には目に見えぬ何かが確かに動いているもの。彼の青春性の中にあるのは、そのような鬱々としたもの、野生的なもの、そして反抗的なもの等々であり、それが今回多面化された作品として表出されている。
船長の遺品は義眼修司の忌
寒晴や人体模型男前
鳥雲に盤整然としてチェスの駒
S極がS極嫌ふ極暑かな
幽霊とおぼしきものに麦茶出す
プール嫌ひ先生嫌ひみんな嫌ひ
他に〈秋めくやいつもきれいな霊柩車〉〈狐火は泉鏡花も吐きしとか〉〈茄子漬や母が捨てたる男など〉がある。
そして寺山がそうであったように、俳句形式は表現のひとつの舞台として設定されているが、寺山が全体に舞台構成=筋(すじ)に重きを置いたのに対し、澤田は役者=言葉の個性を重視していると言ってよい。
≫邑書林 web shop
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2013-11-03
2013落選展テキスト 5草原の映写機 澤田和弥
5 草原の映写機 澤田和弥
アンテナは何を受けとむ鳥曇
時計塔奏ではじむる春の月
冴返る夜空に眠るやうな蒼
白魚に透けぬ命のありにけり
春浅き空に鉄塔一直線
春めくやカクテル淡きブルーとし
はらはらと散るもの多し仏生会
春愁や絵本の中の王子様
看板のどれもさびしき春なりけり
春風や少女ピアノに伏して泣く
雪虫や病床が今死の床に
春北風や八田木枯亡き後も
針魚食ふ父の激しき咳を背に
梅が香よすでに故人となる未来
春雨や刃先ひとまづパンに向け
雪割や死にたき人がここにもゐる
蒸鰈箸もて殺されし人も
花は常に死につつ生くる西行忌
春寒の股広げれば嬉しがる
彼岸会や二十分から天気予報
海雲渾然一体として人類にはなれず
ふらここや肉親よりも近きは死
白日傘真白きままに遺さるる
花の夜のいとしづかなる死産かな
落つること期待されたる椿かな
さびしさの乳首をつまむ春の宵
亀出でて無能無能とわれに鳴く
ひとつづつ時計を壊す春の月
魔女と書けば鷹女に見ゆる春の雷
卒業や手首の傷を隠しつつ
濃山吹濡れて女の訃報かな
春夕焼骨壺のごと眠りたし
見えぬ目に灯し火かざす修司の忌
修司忌の旅立つ前の鞄かな
どこよりも青き空あり修司の忌
修司忌の眠られぬ夜のオルゴール
修司忌や光の戻る映画館
修司忌の砂丘に落ちてゐる手紙
修司忌の誰もが修司地下酒場
暗転ののち何もなし修司の忌
修司忌を叩き割りたる未亡人
修司忌や時計殺しは月殺し
修司忌や血もて村守る人々よ
くせ強き恋文の文字修司の忌
響きゆく無音のピアノ修司の忌
タロットに首吊る男修司の忌
修司忌の女獄舎に婆数多
修司忌の女裸身のままに吼ゆ
草原に映写機ひとつ修司の忌
革命を捨てし祖国よ花菜雨
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2013-09-01
寺山修司と関わりし或る日の日記 澤田和弥
ワタリウム美術館「寺山修司ノック展」テラヤマonリーディング
寺山修司と関わりし或る日の日記
澤田和弥
平成25年8月24日(土)
曇りがち。時折小雨。
昼、ぷらっとこだまにて上京。
車中にて昼食。柿の葉寿司(たなか)950円。缶ビール350ミリリットル1缶。キリン秋味。ワンドリンクサービスにて無料。水500ミリリットル1つ110円。喫煙車両16号車。14番B席。
ワタリウム美術館「寺山修司ノック展」テラヤマonリーディング@ON SUNDAYS!出演のための上京也。8月20日(火)、メールあり。テレビ制作会社より。この企画に招きたしと。我、可と応ふ。関悦史氏の紹介によるものなり。有難シ。
東京着、14時56分。東京ステーションギャラリーにて大野麥風展鑑賞。900円。佳哉。館員の応対、頗る佳し。満足。
山手線にて渋谷駅。190円。地下鉄銀座線に乗り換え、外苑前駅。160円。徒歩にてワタリウム美術館着は16時30分也。ノック展鑑賞。1,000円。実験写真、実験映画の展示多く、頗る満足。「トマトケチャップ皇帝」を初めて観る。鑑賞中、関氏と会ふ。挨拶とともに御礼を申し上げる。ペア割引有。我の前にカップルあり。割引羨まし。カップル羨まし。我、独身也。恋人、数年来あらず。世の中、さういふもの也。
ミュージアムショップにてテレビ番組制作会社スタッフと合流。関氏、スタッフ4名、我の計6名、近所の蕎麦屋にて夕食。スタッフは若手女性2名。(美し)。壮年の男性1名。あだ名でため口で話されたる若人1名。我、冷したぬきそば大盛を注文す。730円と大盛分150円。スタッフ支払ってくれし。有難シ。蕎麦、なかなか来ず。話、尽く。コップ小さし。水、すぐ尽く。なかなか足さず。されど喫煙可なるは佳きことなり。
企画は20時開始。入場開始は19時50分。まだ1時間30分あり。関氏と近くのカフェに行く。ともにアイスコーヒーショートサイズ300円とす。味濃しを選る。関氏、珈琲を席まで運んでくるる。有難シ。談笑。あっという間に19時45分となる。退店し、会場へ向かふ。されど未だ入場できず。関氏、ミュージアムショップにて森川雅美氏に我を紹介して下さる。有難シ。スタッフに喫煙場所問ふも、無シと云ふ。ビル裏に隠れて吸ふこと2本。勿論吸殻は持ち帰る。時きたりて、やうやく入場す。地下1階也。一人1,500円。我、招待にて無料となる。ワンドリンク付。500ミリリットルペットボトル烏龍茶を頂く。有難シ。
当日配布されし「【配布用】朗読者タイムテーブル」より一部引用。
1 鯨井謙太郒氏&城戸朱理氏
2 一方井亜稀氏
3 石川厚志氏
4 塚越理恵氏
5 長尾早苗氏
6 澤田和弥
7 藤原奈緒氏
8 川島清氏
9 浅野彩香氏
10 佐伯琢治氏
11 斎藤千尋氏
12 村田活彦氏
13 田中智子氏
14 広瀬大志氏
15 三角みづ紀氏
16 暁方ミセイ氏
17 関悦史氏
18 紺野とも氏
19 福田理恵氏
20 黒川武彦氏
21 坂田智愛氏
22 森川雅美氏
23 竹中まりも氏
24 カニエナハ氏
25 渡辺めぐみ氏
26 榎本櫻湖氏
27 生野毅氏
28 及川俊哉氏
外、当日飛入1名有。(名は失念)
鯨井氏、城戸氏、一方井氏、三角氏、関氏、森川氏、及川氏、佳哉。他に佳き人をりしかど、名を失念。壁をノックしつつ、詩を朗読せし眼鏡の若き女性なり。
現代詩が中心也。「寺山氏の作品(部分可)を朗読」とありしかど、自作多し。寺山氏の俳句を朗読せしは関氏と我のみ。
関氏は寺山修司『花粉航海』より20句。自作の新作追悼句1句を朗読。「俳句は声のみにて判ぜらるるものに非ず。朗読に不向きなり」とて、寄席の演目書きのごときものにて、俳句を活字にても紹介。朗朗たる声、頗る佳哉。
我、寺山修司『花粉航海』より
目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹 寺山修司
を朗読せり。他に
五月物憂しなかんづく修司の忌 遠藤若狭男
を朗読。その後、拙句集『革命前夜』を中心に、既発表句20句及び新作1句を朗読。1句を2回読みぬ。一度は淡々と、再た一度は感情を込め。
我、「修司忌」の自作を中心とす。されど関氏は寺山氏の俳句を中心とす。寺山氏の俳句の魅力、皆に伝はりしは、全くもって関氏のお陰也。頗る有難シ。
1人5分の持ち時間を皆超過。22時30分終了予定も、実際は23時32分終了。熱気ある企画也。頗る佳哉。
「ご無理は言いませんが、できるだけ最後までいてください」とて、最後まで鑑賞。その後、ショートインタビュー。時、既に0時に近し。頗る努力せど、途中にて終電尽く。東京のタクシー、頗る高し。不快也。O氏御宅着は1時。非礼を詫ぶ。笑顔もて赦さるる。頗る有難シ。酒呑みつつ、俳句談義盛り上がる。3時終了。服用の後、就寝。頗る佳日也。
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2013-07-14
後衛の魅力 澤田和弥句集『革命前夜』を読む 西原天気
後衛の魅力
澤田和弥句集『革命前夜』を読む
西原天気
いったいなにがあったというのでしょう。
とびおりてしまひたき夜のソーダ水 澤田和弥(以下同)
女性にフラれでもしたのでしょうか。男が飛び降りたくなるのはそんなときくらいですから(暴論)、おそらく図星ですが、かかる状況を決定づけるのが「ソーダ水」です。
ただごとではなく、のっぴきならないこと、飛び降りてしまいたいことは生きているかぎり多々あります。「重いもの」のない暮らしなど、ありえない。だからといって、重くれを重くれのまま、読者に慰撫をもとめるのは、俳句作者が為すべきことではないでしょう。そこに、ちょっとした身のかわしや配慮を効かせる。それが俳句として、そして人としての仁義であり美徳です。
ソーダ水の軽さ、透明感が、作者の配慮であり、読者にとっての救いです。
といって、かなしみを少なくするのではありません。この軽み、透明度がむしろ私たちをかなしくさせるのです。
東京に見捨てられたる日のバナナ
この「バナナ」もまた「ソーダ水」と同様の働きです。かなしいのに、打ちひしがれているのに、なおもソーダ水とかバナナとか、そんな、ある意味、素っ頓狂なものを健気に口にする人には、心を寄り添わせたくなるものです。
新幹線迅し水虫は痒し
東京を追われて(勝手に決めつけ)乗る新幹線。いくら痒くても、靴脱いで靴下脱いで、足の裏ポリポリ掻いたりしちゃダメだよ、隣の人に迷惑だから。……あっ、ダメだよ。ダメだって言ってるのに、あああ、脱いじゃったよ、この人。
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ところで、この句集の作者、澤田和弥氏は、小誌『週刊俳句』にたびたび寄稿いただいているし、以前からお名前は存じ上げている。ただ、直接お会いしたことはない。と思う(もしお会いしたことがあったとしたら、私の失念で失礼なことだから、落ち着いて思い出してみたが、ないと思う)。
句集について書くのに、面識の如何などなんの関係もない。なのに、こんなことを言うのは、どうも、この句集、読んでいると、こちら(読者)のすぐ近くにまで迫ってくるときがあって、「肌寄せてくんじゃねえよ、暑苦しい」と軽口を叩いてしまいそうになる。だから、この記事を書いているときも、よく知っている人のような気になってしまいそうなのだ。
「知り合いのような書き方をしていますが、じつはお会いしたことはないのです」ということを言っておきたい。
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なさけないこと、なんでもないことに、かなしみが滲む。それもこの句集の特徴でしょう。
階段を昇る春灯を仰ぎつつ
風船を割る次を割る次を割る
鉛筆のほのかな甘味寒日和
ここにあるかなしみは、そんなに上等なものではありません。けれども、だからどうした?
あるいは、このような句。
村上龍村上春樹馬肥ゆる
読書の秋、馬肥ゆる秋、という浸透パターンを逆手にとって鮮やかな季語。仮に「燈火親しむ」などとしたら最悪。それを考えれば、「馬肥ゆる」がいかに効果絶大かがわかろうというものです。
シニカルな風味の句は多くはありませんが、いいアクセントになっています。
友の友知らぬ人なり年忘れ
ありますよね。このときの気分の微妙なことといったら、もう。
だからときどき、いたたまれなくなって、はっちゃけます。壊れます。
シンバルのどひやんどひやんと秋行きぬ
太宰忌やびよんびよんとホッピング
「どひゃんどひゃん」とか「びよんびよん」とか、途方もなくプリミチブな擬音に、こちらとしては苦笑するしかないのですが、そのうちやがて、素直に笑ってしまっていることに気づき、自分としては心外だが、ありがとう! という感じ。
繰り返しますが、かなしいことなんて、あたりまえにたくさんあって、重苦しいものなのですよ、この世は。すべてはそれが前提なので、悲しむばかり、重くれるばかりでは、話にも俳句にもならないのです。
マフラーは明るく生きるために巻く
カッコつけるのではなく、明るく生きるためなのだ、と。
とても、いいです。この態度は。
明るく生きることは、きわめて頼りなく細い線の上を、微妙なバランスでよろよろと歩くようなものですね。
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さて、ここまでにしておけば、この句集の魅力の一端を無難に伝えて終わる、ということになるのだろうが、もうすこし話題がある。
句集を褒めるところだけ読みたい人は、あとは読まないでおくことをオススメする。
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澤田和弥氏といえば、俳句世間(のこの界隈)では「エロ」で知られる人です。
エロティシズムなどといったブンガク的なものではありません。セクシャルなモチーフといった傾向・趣向でもない。バレ句と呼べるほどの仕掛けもない。単なる「エロ」。そして器官的というより皮膚的で、日本的に湿潤を伴う。それが澤田氏の「エロ」のイメージです。
さて、これ、ご自身の作に「エロ」が顕著であるだけならよいのですが、しばしば他人の作も「エロ」な読解(誤読)へと牽強付会、この狼藉を問題視する向きもあります。
というわけで、この句集にもさぞかし、と読んでみると、その成分はあまり濃くありません。数えてみると(なに酔狂なことやっているのでしょう、私は)、10句に満たない。それも《恋猫の声に負けざる声を出す》など無難に俳句的な処理をほどこしたものが中心です。
《中年の女を愛す余寒なり》は前半、せっかく不潔なのに、季語でカッコ良がってしまっています(いやむしろ、このカッコつけた季語こそが不潔で素晴らしいという意見もありそうですが)。
余談ですが、集中、カッコ良がるときに「寒さ」「余寒」といった低温度の季語を持ってくるパターンが見えました。ただし、これは澤田氏だけの傾向ではなく、俳句世間一般、「気温を下げる」ことで、気分に格好をつけるという、これはもう習わしのような退屈が繰り返されています(自戒を込めて)。
なお、エロとは少し違って、ほんとうに心底気持ち悪い《接吻しつつ春の雷聞きにけり》という句もあります。
結論的に、エロ関係は出来栄えの点でほぼ全滅。ただ、《正義の味方仮面のみにて裸》のみが成功の部類でしょうか。
澤田和弥といえばエロ、と衆目の一致するところであったこの作者の第一句集です。これが名うてのエロで知られた澤田氏の句集なのかと拍子抜けしそうになりますが、考えてみれば、あまりこれが前面に出ても、こちらとしてはどんな顔をして読めばいいのかわからないので、期待するほうが間違っていたのかもしれません。
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句集のタイトルについても少し書いておきます。
句集について、その書名(句集名)をとやかく言うのは、あまり意味がないのかもしれません。しかしながら、この『革命前夜』というタイトル、そして帯に大きく記された表題作の《革命が死語となりゆく修司の忌》については、この句集の対外的な印象(アピール)のなかで大きな成分になっているだけに、触れておいてよいでしょう。
あらためて言いますが、句集のタイトルは、『革命前夜』です。
どうしたことでしょう。どうしてこんなに、こっちまで恥ずかしくなるような恥ずかしいタイトルになってしまったのでしょう。
「革命」といった政治的な語、それも、ただ政治用語というだけでなく、それなりの歴史を背負う語、ドラマチックに昂揚した附属物をコノテーション(随伴的意味)として豊富にもつ語、さらにはある特定の人々に特別のセンチメントを喚起する語、これを俳句に用いるには、なんらかの工夫が必要です。
「革命」といった語を生半可に俳句にすると、無残に無様なことになります。
掲句《革命が死語と~》は、「革命」という語を俳句に使うときに陥る無様さを免れているとは到底言えません(能書きのように凡庸な把握+忌日)。こういう句が一句、句集に入るのは、まあいいとしても、これを句集名にまで持ってくるとは、いかにも残念すぎます。
《革命が死語と~》の句は、修司忌が添えられることで、もちろんのこと一種の比喩であり、寺山修司の絡みで「革命」という語が定位されています。それはそうであっても、比喩には参照元というものがありますから、「革命」という語の威力から自由になれるわけではありません。例えば「おそうじ革命」「ラーメン革命」くらいまで行けば、参照元の影響力は薄れるのでしょうが、掲句の「革命」、あるいは「俳句革命」程度では、引力の圏内です。
そこで思うのですが、この句集が例えば『ラーメン革命前夜』という書名だったら(ここは冗談・軽口ではありません。99パーセント本気)、その巧みな趣向に唸っていたでしょう。
(このあたり、読む人の趣味・嗜好の問題とも言えます。この句集タイトルを何の抵抗感もなく受け入れる人もいるかもしれません。しかし、そこまではめんどうを見きれません)
(為念。革命という語が俳句に使えないなどと言っているのではありません。使い方の問題です)
さて、そこで、『革命前夜』という句集名を目にしたときに抱くのは、浮き足立って昂った、また時代がかって大仰で、陳腐にヒロイックでロマンチックな感じです。
ところが、(これが大きな問題というか重要事項なのですが)、この句集、読んでみると、ちょっと違うのです。そうした「革命前夜」チックなノリとは程遠い、きちんとおもしろい句もたくさんあるのです。
もちろん作者には作者の思いや意図があって、句集名が決まったはずですが、なぜ、こんなにカッコつけちゃったのでしょうか。
俳句とは怖いもので、結果が裏目に出ることが非常に多い。カッコ良がると、どうしようもなくカッコ悪くなる。この『革命前夜』は、「わざとカッコ悪くしてみました。狙いです」とは言えないたぐいのカッコ悪さです。「これが僕です」(あとがき)と言われても、やっぱり、残念としか言いようがありません。
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おまけに、帯文です。ここには「現代俳句において真の前衛とは何か、真の革命とは如何なるものか(…以下略…)」(有馬朗人)とあって、大仰・大袈裟を増幅しています。
前衛。革命。この句集に、こうした語、こうした属性を関連させてしまっていいのかどうか。
まず、「前衛」に関してですが、この句集に、「前衛」的な要素は見つかりません。前衛という語を文学史の用語としてであれ漠然とであれ(軍事用語としての使用は別として)使うとすれば、「新しさ」とは無縁ではいられないはずですが、この句集には「新しさ」はありません。実験的な要素も見当たりません。
句の組み立てや表現法は私たちが見慣れたものだし、思いをダイレクトに吐露するという部分は、いささか古めかしい感じさえ漂います。句集に流れる気分も、いわゆる「セイムオールド(古くからおなじみ)」なものです。作者や作中人物からは、なつかしいような人物像が伝わります。
(でも、それのどこが悪い?)
ぜんぜん悪いことではありません。セイムオールドというのは、とてもたいせつなことです。新しい必要なんてない。
(それにしても、ある程度若い人が句集を出すとき、「新しさ」は、ツキモノ、みたいなものなのか。ただの謳い文句、つまり、新しく句集出すから「新しさ」でしょ? くらいの意味ならいいのだが、本気で「新しさ」をもとめていたりアピールしたりだとしたら、二重の意味で問題が残る。ひとつは、「新しさ強迫症」という問題。もうひとつは、俳句における「新しさ」はそんなに簡単なものではないこと。ほとんどの俳句作者は、有名無名、作風を問わず、99.99パーセントの旧態依然のつまらなさを抱えつつ、最後の最後で、すこしだけ俳句を更新する、微細な新しさを獲得するものではないのかい?)
だから、「前衛!」とか「革命!」とか気張ることはないのです。むりやり語を宛てれば、「後衛」の魅力こそが、この句集の魅力です。
(それにしても、ある程度若い人、特に男性の句集のタイトルは、 「気張らないとダメ」というルールでもあるのだろうか?)
そして、帯文の「革命」のくだり。有馬氏は、句集冒頭の跋文「俳句の真の前衛たれ」において、「二十句の連作『修司忌』」に触れ、「私はこの中でも第一句の革命の句が好きで大いに褒めたことがある」と書いています。
どんな句を評価するかはもちろん人それぞれですが、エスタブリッシュメントの「中」だか「側」で業績と地位を築いてこられた有馬氏、東京大学総長、参議院議員、文部大臣、科学技術庁長官などを務め、現在、エネルギー・原子力政策懇談会会長の有馬氏の口から「革命」という語を何度も聞くとなると、やはり、そうとうにざらざらとしたものを感じないわけにはいきません。
結論を言えば、この句集、革命でも、前衛でも、革新的でもない。なつかしく、人肌のぬくもりを持った人間のかなしみ、おかしみがある句集ですよ、ということになりましょうか。
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最後に、集中、いちばん好きだった句を挙げておきます。
竹馬の男そのまま家に入る
はっきりとした奇行ではなく、なんとも言えず微妙な奇行。俳句が描くにぴったりな、俳句的成功によってもっともコクの出る景を捉えています。
この句集には「父」の影も、母ほど濃くではないが、たしかに見えます。この句の「男」は父ではありません。ただ、見知らぬ男とも思えません。
私には、これが「伯父さん」のように思えました。
竹馬に乗ったまま家の中へ?
こんなことをするのはジャック・タチ以来、「伯父さん」と相場が決まっています。
父=日常、伯父さん=祝祭。父=仕事、伯父さん=遊戯。父=秩序、伯父さん=反・秩序。
革命というなら、この男こそが革命です。
革命的な存在として、私たちを魅了するのは、前のほうではなく、後ろのほうにいる、なさけなく、おかしく、かなしい男なのです。
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新幹線に乗る直前にとりあえず手軽に買うことの出来る無難な東京土産 澤田和弥句集『革命前夜』の一句 山田露結
新幹線に乗る直前にとりあえず手軽に買うことの出来る無難な東京土産
澤田和弥句集『革命前夜』の一句
山田露結
東京に見捨てられたる日のバナナ 澤田和弥
ちょっと乱暴ですが、この句、つづめると「東京バナナ」になります。「東京バナナ」といえば東京土産の定番です。正式には「東京ばな奈」ですね。スポンジケーキの中にカスタードクリームが入っているこのお菓子、バナナ味のほかにキャラメル味、プリン味、チョコ味などさまざまな種類があり東京の主要駅や空港などで販売されています。東京駅内にはいくつか販売店があるのでうっかりお土産を買い忘れたなんてときにも「新幹線に乗る直前にとりあえず手軽に買うことの出来る無難な東京土産」として便利です。
さて、澤田和弥氏は昭和55年、浜松生まれ。進学のために上京したのでしょうか。句集のプロフィールには「早稲田大学大学院修士課程中途退学」とありますから、もしかすると何かやむにやまれぬ事情があって東京を去らなくてはならなかったのかもしれません。そのあたりの心情が「見捨てられたる日」という言い方に表れていると読むことも出来ます。この句の少しあとには「新幹線迅し水虫は痒し」という句もあります。夢や希望を、あるいは何かしらの野心を持って東京へ出てきた人が志半ばで帰郷するときの気持ちとはどんなものでしょうか。そういう私も進学のために上京し、卒業とともにやむなく東京を出た経験がありますので、この句の心情は他人事のような気がしません。
夢破れ、うなだれて帰郷する者にとっても「東京ばな奈」はやはり「新幹線に乗る直前にとりあえず手軽に買うことの出来る無難な東京土産」として便利なものなのかもしれません。
≫web shop 邑書林 澤田和弥句集『革命前夜』
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2013-05-12
父還せ 寺山修司「五月の鷹」考 澤田和弥
父還せ 寺山修司「五月の鷹」考
澤田和弥
寺山修司第一句集『花粉航海』は昭和五十(一九七五)年一月十五日に深夜叢書社から刊行された。全二三〇句の巻頭を飾る句が
目つむりていても吾(あ)を統(す)ぶ五月の鷹
という、修司の代表句とされる一句である。
夏石番矢は「寺山修司の父恋いの情の一変種が見られる」とし、遠藤若狭男は「この一句の中に幼い日に父を亡くした寺山修司の父恋うる深い思いが貫かれている(中略)父の幻影を見ていたのではなかったか」と記し、高野ムツオは「不安定な心が、自分を受け入れ、そして、導いてくれる父なる存在を求める」と言う。また、葉名尻竜一は次のように記す。
「この場合の『鷹』は、精神分析でいう〈超自我〉のように、禁止の役割を担うことで『吾』を統制するもの。つまり、象徴化された『父』を意味していよう。その『父』の不在のもとで、寺山は『吾』を形成しなければならなかった」
葉名尻の「精神分析でいう」という説明は精神分析論の検討など慎重を期す必要があるものの、いずれもこの句と「父」を結びつけている。
寺山修司と言えば、まず「母」の存在が語られるだろう。では父はこの『花粉航海』や「目つむりて」の句において、どのように扱われているのだろうか。また「五月の鷹」を父の象徴と捉えた場合、この句の解釈の可能性はどのように広がるのであろうか。本小論において、これらの点を考えてみたく思う。
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父・寺山八郎(はちろう)は警察官として勤務ののち、特別高等警察官を勤めた。昭和十六(一九四一)年、修司五歳のときに召集、南方戦線へ出征。昭和二十(一九四五)年九月二日、セレベス島(現在のインドネシア共和国スラウェイ島)にてアメーバ赤痢を発症し、戦病死。遺骨は帰らなかったようで、分骨の際も墓の下の土を骨壺におさめたという。文章が巧く、修司の文才は父親から譲り受けたものと萩原朔美は述べている。
修司は「父は戦病死」としながらも、その死因はアルコール中毒と必ず記す。過去の一切を比喩として、己れの歩んだ道を創作、改作しつづけた修司の「嘘」の一つとも考えられる。しかし必ずと言ってよいほど「アルコール中毒で死んだ」と書いていることから嘘ではなく、修司は本当にそう思い込んでいたのかもしれない。
いずれにしても修司が父と過ごしたのはわずか五歳までであり、九歳のときには戦病死によって、二度と父に会うことはなくなった。葉名尻の記すように修司は父の不在のなか、自己形成をしていかなければならなかった。
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その父は修司の句のなかにどれほど登場するのか。母の句と合わせ、次に見てみたい。
『寺山修司俳句全集・増補改訂版』には990句が収録されている。修司が句作に励んだ昭和二十五(一九五〇)年から昭和三十(一九五五)年の句及び、宗田安正などが指摘しているように、それよりも後年の作とおぼしき作品を中心に構成されている。ここから父、母の登場する句をカウントした。「神父」「母校」など親である父母を指さない場合は除いた。
父の句は990句中35句、全体の約3.5パーセント。母の句は135句、約13.6パーセント。確認されている修司の句の一割以上が母を詠んだものであることがわかる。対して父の句はとても少ない。父と過ごしたのはたった五年間の幼き日々であり、その後の母一人子一人という家族構成から考えて、修司の中心には父ではなく、母一人がいたであろうことは理解できる。また多くの「父」が戦死し、母子家庭が大量に発生した戦後の社会状況を意識していたとも考えられる。修司が自己体験のなかだけではなく、社会状況を踏まえ、社会性という枠組みのなかで作句していたことは、黒瀬珂瀾などが指摘するところである。さらに細かく見てみたい。
昭和二十五年から昭和三十年まで、および昭和三十二年に初出が見られる句数および、そのうち父の句、母の句の数とその割合を示したのが、下の表である。
たとえば、昭和二十五(一九五〇)年から昭和二十六年にかけて初出が見られる句は82句。そのうち父は4句、4.8パーセント。母は8句、9.7パーセントとなる。全体を見て、母の句が占める割合は9.0パーセントから16.7パーセントである。それに対し、父は1.7パーセントから6.6パーセントである。一割にも遠く及ばない。ただし昭和二十七年の1.7パーセントを最低値として、一年ごとに割合が上昇している。昭和二十七年は修司十六歳、昭和三十年は十九歳。思春期からの成長の過程で、同性の親たる父の存在をだんだんと強く意識していったのだろうか。今挙げた句は計843句。父は計20句、2.3パーセント。母は122句、14.4パーセント。母の句は父の句の六倍以上の数がつくられ、全体の約一・五割を占めている。では次にここでは触れなかった147句を含む作品集・句集収録句を見てみたい。
147句は前記までに初出が確認できなかったものである。句集などに収録された句が大半である。これらを含む作品集・句集収録句について、次表をご参照いただきたい。
中井英夫の好意で編まれた第一作品集『われに五月を』(昭和三十二(一九五七)年一月、作品社発行)には91句が収録され、父の句は3句、3.2パーセント。母は14句、15.3パーセント。母の句は父の句の約五倍であり、全体の一・五割強を占める。
『わが金枝篇』(昭和四十八(一九七三)年七月、湯川書房発行)には117句が収録され、父の句は9句、7.6パーセント。母は11句、9.4パーセント。その差は2句、1.8パーセントの差である。これまで見てきたなかでは父と母の差がきわめて小さい。
第一句集『花粉航海』は230句を収録し、父は15句、6.5パーセント。母は20句、8.6パーセント。唯一、父の句が10句を越えているのが、この『花粉航海』である。「別冊新評・寺山修司の世界」(昭和五十五(一九八〇)年四月、新評社発行)所収の自選句集「わが高校時代の犯罪」は29句収録。父は2句、6.8パーセント。母は6句、20.6パーセント。ここで再度父と母の差が大きくなる。
修司が青春時代に作句したもの及び修司二十一歳の書『われに五月を』収録句において、母の存在が圧倒的であり、父の影は薄い。しかし『わが金枝篇』『花粉航海』では母の句を上回りはしないものの、その存在感を濃くしている。
前述のように父の句は35句、母は135句。そのうち昭和三十二年以降、主に句集などを初出とする147句のなかには父と母は、どれだけいるのだろうか。父は15句、母は13句である。父の方が2句多い。ここで注目したいのはこの父15句が35句中の15句であり、その割合は42.8パーセントということである。対して母の句13句は母の句全体の9.6パーセントに過ぎない。
母の句のほとんどは青春時代に詠んだものである。そしてその青春を経て三十歳を過ぎると、今度は父の句を詠みはじめた。また、父の句15句中、12句が『わが金枝篇』以降に初出。対して『わが金枝篇』以降に初出が確認される母の句は10句である。
『わが金枝篇』『花粉航海』の時期は、修司の俳句史上において、もっとも父を意識していた頃と考えることができるのではないだろうか。
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では、次に『花粉航海』に収録された父の句を挙げたい。
父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し
午後二時の玉突き父の悪霊呼び
桃うかぶ暗き桶水父は亡し
癌すすむ父や銅版画の寺院
裏町よりピアノを運ぶ癌の父
冬髪刈るや庭園論の父いずこ
テレビに映る無人飛行機父なき冬
亡き父にとゞく葉書や西行忌
麦の芽に日当るごとく父が欲し
父と呼びたき番人が棲む林檎園
冷蔵庫の悪霊を呼ぶ父なき日
父へ千里水の中なる脱穀機
月光の泡立つ父の生毛かな
法医學・櫻・暗黒・父・自瀆
手で溶けるバターの父の指紋かな
全15句。有季9句(春2句、夏1句、秋3句、冬3句)、無季6句。『わが金枝篇』以前初出の句3句について、「桃うかぶ」は昭和二十九(一九五四)年十月「牧羊神」初出。「麦の芽に」は昭和二十九年二月「牧羊神」初出。「父と呼びたき」は昭和三十年一月「牧羊神」初出。
『花粉航海』のあとがきである「手稿」に「『愚者の船』をのぞく大半が私の高校生時代のもの」とあるので、「愚者の船」という章の「冬髪刈るや」は後年の作と修司自身認めるところである。
これら15句のほとんどが「父の不在」「父の喪失」を詠んでいる。
「父を嗅ぐ」書斎に父はいない。「午後二時の」では、父は死して悪霊。「桃うかぶ」では「父は亡し」。「癌すすむ」と「裏町より」では死病を患う父。「冬髪刈るや」は「父いずこ」により不在。「テレビに」は「父なき冬」。「亡き父に」の不在。「麦の芽に」では「父が欲し」なので、父は不在。「父と呼びたき」は番人であり、本来父と呼ぶべき父の不在を思わせる。「冷蔵庫の」は「父なき日」。「父へ千里」という、身近における父の不在。あの世の父をも想起させる。「手で溶ける」は、指紋という父の実在を証するものが、自らの手の内で溶けてしまう喪失感。「法医學」については解釈の難しいところであるが、「櫻」「自瀆」に喪失を、「暗黒」に不在を読むこともできよう。
つまり15句中14句が父の不在や喪失をテーマとするか、もしくは含んでいる。残り一句については後に触れたく思う。
以上のように『花粉航海』には不在である父の句が意識的に選ばれ、収録されている。これは同書収録の母の句、
母は息もて竃火創るチエホフ忌
暗室より水の音する母の情事
とは大きく異なる。ここに描かれているのは、実在・存在する母だからである。
昭和四十八年刊『わが金枝篇』には父の句が9句収録され、うち8句が『花粉航海』に再録されている。後者において選外となったのは次の一句である。
訛り強き父の高唄ひばりの天
この句には大声で歌い上げる「生きる父」が描かれている。それゆえ「不在の父」を意識した『花粉航海』では選外になったのだろう。ちなみに共通して収録されているのは「父を嗅ぐ」「午後二時の」「桃うかぶ」「癌すすむ」「裏町より」「麦の芽に」「父と呼びたき」「父へ千里」以上八句である。「冬髪刈るや」「テレビに」「亡き父に」「冷蔵庫の」「月光の」「法医學」「手で溶ける」はいずれも『花粉航海』を初出とする。
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『花粉航海』は『旧約聖書』「創世記」の引用からはじまる。
彼は定住の地を見て良しとし、
その国を見て楽園とした。
彼はその肩に下げてにない、
奴隷となって追い使われる。
ロバの木をぶどうの木につなぎ、
その雌ロバの子を良きぶどうの木につなごう。
第一連、第二連、ともに「創世記」四十九章に記される。この章はイスラエル十二部族の祖たちに、その父ヤコブが予言、祝福するという内容だ。第一連はイッカサルへのもので、定住の地を見つけ楽園とし、のちに奴隷になるという。第二連はユダへの予言の一部。「ロバの木」はロバの子の誤りと考えられる。ロバの子を葡萄の木につなぎ、雌ロバの子をよい葡萄の木につなごうという。
「句」集冒頭にあることから、ここに俳句を当てはめて考えたい。
第一連の「定住の地」「楽園」は俳句。その十七音の詩型を「下げてにない」、俳句自体の「奴隷となって追い使われる」。「ロバの子」「その雌ロバの子」は俳人。「ぶどう」は多産の象徴。俳句作品の多産に喜ぶも、所詮はつながれた奴隷の身。これは俳人を揶揄したものではなく、修司自身の率直な感想のように思う。
彼は自著『誰か故郷を想はざる』のなかで、俳句を「亡びゆく詩形式」と呼びながら、その「反近代的で悪霊的な魅力」を認めている。また昭和五十三(一九七八)年刊『黄金時代』のあとがきに「俳句は、おそらく、世界でももっともすぐれた詩型であることが、この頃、あらためて痛感される」と記す。『花粉航海』「手稿」には「齋藤愼爾のすすめを断りきれず」まとめたとあるが、これを機会に俳句を再評価し、のめり込んでいったのか。それがこの冒頭引用部に隠されているように思う。それは修司最晩年の俳句同人誌「雷帝」の構想へとつながっていく。
以上のように『花粉航海』冒頭「創世記」からの引用部分について、一解釈を試みた。この部分について触れているのは管見の限り、夏石番矢のみである。修司と引用は切っても切り離せない関係である。今後より多くの方々の考察を期待したく、記させていただいた。
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目つむりていても吾(あ)を統(す)ぶ五月の鷹
『花粉航海』冒頭に収録されるこの句は、昭和二十九年六月の「暖鳥」初出。その後『われに五月を』『わが金枝篇』「わが高校時代の犯罪」にも収録されている。『われに五月を』では、俳句の章としては第一章目になる「燃ゆる頬」に
ラグビーの頬傷ほてる海見ては
車輪繕う地のたんぽゝに頬つけて
に続く第三句目に収録されている。
『花粉航海』の第一章である「草の昼食」の第一部「十五歳」の第一句目として収録される。「草の昼食」とはマネの作品「草上の昼食」を思い出させるような言葉である。また、晴れた日の広い草原を眼前に浮かび上がらせる。次に「十五歳」。そしてこの句。つまり晴れた草原と十五歳の修司青年を頭の内に描かせたうえで、この句を読ませている。しかし初出時の修司は十八歳。すでにここに修司のイメージ操作による虚構の創作がはじまっている。少なくとも『花粉航海』編集時において、そのような意図があったものと考えられる。
こうして「目つむりて」という句は我々の前に現れる。前述のように、この「五月の鷹」を亡き父の象徴と識者たちは捉えている。その点を考えるにあたり、修司の句に登場する鷹について、次に見てみたい。
鷹が登場する句は全九九〇句中六句。
鷹の前夏痩せの肩あげていしか
鷹哭(な)けば鋼鉄の日に火の匂ひ
鷹舞へり父の偉業を捧ぐるごと
目つむりていても吾(あ)を統(す)ぶ五月の鷹
明日もあれ拾いて光る鷹の羽根
みなしごとなるや数理の鷹とばし
初出の早い順に並べた。「鷹の前」は昭和二十七(一九五二)年十月「麦唱」初出。その後、同年十一月「暖鳥」にもある。「鷹哭けば」は昭和二十七年十一月「暖鳥」初出。「鷹舞へり」は昭和二十八年三月「青い森」、同年同月「青森高校生徒会誌」初出。「目つむりて」は前述のとおり、昭和二十九年六月「暖鳥」初出。「明日もあれ」は昭和二十九年十月「牧羊神」初出。その後、昭和三十年一月「暖鳥」にもある。『われに五月を』では
明日はあり拾ひて光る鷹の羽毛
とあり、「明日も」が「明日は」に、「拾い」が「拾ひ」に、「羽根」が「羽毛」になっている。『わが金枝篇』では
明日はあり拾いて光る鷹の羽根
とあり、上五の三文字目「も」が「は」になっている。「みなしごと」は『花粉航海』初出。
一句目、二句目が載る昭和二十七年十月「麦唱」と同年十一月「暖鳥」には他にも動物の句があり、かつ「檻」が登場するので、動物園での光景と考えられる。「鷹の前」は鷹の前での緊張感を詠む。「鷹哭けば」の「鋼鉄」は檻のことであろう。「鷹舞へり」には亡き父が登場する。鷹が父の象徴になっている訳ではないが、鷹と父を結びつけている点に注目したい。五句目「明日もあれ」は鷹の羽根に明日への希望を託している。ただしそれは羽根であって、鷹そのものは登場しない。六句目「みなしごと」は「みなしご」から親との関係を示唆するが、「数理の鷹」は理論上、または抽象的な鷹であり、具体物としての鷹の登場を避けている。つまり前三句は具体的に鷹が登場するが、後二句は鷹の存在を匂わせるものの、具体物として鷹という動物が句の景色に登場するものではない。
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以上をふまえたうえで「目つむりて」の句を考えてみたい。
「鷹舞へり」において、鷹と父が修司のなかで結びついている。この句の初出は昭和二十八年三月。「目つむりて」は昭和二十九年六月初出。青春時代の修司が「五月の鷹」に亡き父を象徴させたことは充分に考えられる。そして三十歳を過ぎた『花粉航海』編集時においても、そのことを思い出し、同じ理解のもと、この句を捉えていた可能性は高いといえよう。また、「目つむりて」と後二句はともに『花粉航海』に収録されていることから、同書編集時において、修司は「目つむりて」の景色のなかに具体物としての鷹を登場させないイメージで、この句を扱ったのではないかとも考えられる。それはどういうことか。次に考えてみたい。
『花粉航海』を開く。読者は「創世記」からの引用により書物の世界へと導かれる。そして「草の昼食」という言葉に草原をイメージし、次に「十五歳」の修司青年をそこに立たせ、「五月」により薫風を吹かせ、「鷹」が青空を舞う。このような景色をイメージするだろう。それに間違いはない。しかしこの句の本当の景色は異なるように思う。
この句の主人公は「吾」であり、目を瞑っているのも「吾」だとすれば、そこに広がる世界は真っ暗なはずである。勿論視覚を閉ざしても、他の感覚器官により草原や薫風、日のあたたかさは感じられる。しかし目の前は真っ暗なのである。
高柳克弘が記すように「吾」は目を瞑ることで「密室」に入った。その暗闇でも、飯田龍太が書くように一羽の鷹が「胸中を占め」ていたのかもしれない。しかしそこに具体物としての鷹、生きている動物としての鷹は、いない。そこに描かれているのは胸中の鷹だ。鷹、いや。もう、いいだろう。本当のことを言おう。父だ。父はもういない。死んだのだ。
木の葉髪父が遺せし母と住む
単なる母ではない。「父が遺せし」母なのだ。その父は今も私を統べている。草原。太陽。薫風。統べられている。この、恍惚感。父よ。あなたは五月の、鷹なのである。
『花粉航海』には父も鷹も、その不在や喪失を詠んだ句が収録された。また同書は句数の割合などから考えて、父を強く意識したうえで編まれている。それゆえに、父と鷹を結びつけ、かつその不在を言いながらも、今なお「吾」を統べる父という大いなる存在を詠んだ、この句こそが『花粉航海』の第一句目としてまさに相応しいのである。
この句の、統べられている「吾」と、冒頭の「創世記」からの引用部分第一連の「奴隷」との有機的な関連も指摘しておきたい。この関連をふまえれば、岸田理生が記すような、吾を統ぶと同時に吾が統ぶでもあるという解釈は、素直に肯えるものではない。
●
「目つむりて」の句は不在の父の存在を表現している。ここで想像の翼を広げさせていただきたい。修司は『花粉航海』にひとつまみの祈りを加えた。それは不在の父の再生である。
枯野ゆく棺のわれふと目覚めずや
という句に見られるように、死を虚構化することで復活や再生を描くことが修司にはある。『花粉航海』収録の父の句で、まだ触れていない一句がある。
月光の泡立つ父の生毛かな
この句は他の十四句のように父の不在や喪失をそのまま表現したものとは思えない。描かれている父は遺体であり、「亡き父」なのだろうか。いや。思うにこれは遺体ではなく、再び生まれてきた父の姿ではなかろうか。生毛というやわらかなイメージもそうだが、「月光の泡立つ」に再生や、「竹取物語」のような不死を思う。
父の不在を詠み、それでもなお吾を統べる父の存在を詠み、ついにはその再生の姿までも描いた、というのは考えすぎであろうか。しかし修司であれば、そのような壮大なストーリーを十七音の詩型を集めた一句集に隠したとしても、不思議ではないように思う。一つの仮説として挙げたい。
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次に、別の解釈を提案してみたい。「目つむりてい」るのは「吾」だと、どの鑑賞文でも記されている。しかしこの句を素直に読むと瞑っているのは「鷹」ではなかろうか。
黒瀬珂瀾は「いても」の下に切れがあり、瞑っているのは鷹と読むことは「誤読」であると記す。しかしこの句はそこで明確に切れている訳ではない。「いても」の下に切れがあるというのは、単に「そう読める」というだけの話である。それゆえ、切れていない読みも成り立つだろう。成り立つのであれば、やはり目を瞑っているのは鷹と読める。
しかし問題が一つある。鷹が目を瞑っているか否か、はたして分かるものだろうか。勿論飛んでいる鷹ではわからない。
動物園で檻の中の鷹を観察した。檻という限定された空間内でさえ、飛ぶ鷹の目が瞑っているか否かはわからない。では他にどのような場合が想定できるだろうか。檻の中でとまっている鷹の目は観察できた。また鷹匠の腕にとまる鷹の目も観察可能である。
しかし前述のように、この句は「草の昼食」「十五歳」という言葉によって、晴れた草原に修司青年が立っている景色を思い描かせるようになっている。そこに動物園や鷹匠の入る余地はない。今一度思い出したい。この句は不在の父が統べる者として存在していることを表現している。つまり不在の存在である。そして父は「亡き父」である。ここに一つの突破口が現れる。
つまり修司青年の前にいる鷹は、死骸である。
五月の薫風吹く草原に一人立つ修司青年。彼の目の前には目を瞑る一羽の鷹の死骸。まだ蛆もいぬ、きれいな姿のまま。じっと見つめる。鷹に統べられているように目を背けることができない。死との対峙。この鷹のように、父は死んだ今でもなお吾を統べている。死んでもなお存在している。この鷹と同じように。
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寺山修司第一句集『花粉航海』の冒頭句「目つむりていても吾(あ)を統(す)ぶ五月の鷹」の「鷹」は亡き父の象徴であるのか。同書及びこの句において、父、鷹はどのように扱われているのか。これらについて『寺山修司俳句全集・増補改訂版』所収の全九九〇句を概観しつつ考えてみた。
父の句は母の句よりも圧倒的に少ないものの、その約四割強が『花粉航海』に収録されている。かつ収録句のほとんどは青年時代以降、おそらく同書編纂に合わせて作句されたものだろう。また収録句は父の不在、喪失を詠んだものが意識的に選ばれている。想像の域を出ないが、父再生の祈りとも思われる句も一句収録されている。以上の点から「亡き父へのオマージュ」という同書の一面を見出した。
次に『花粉航海』冒頭の『旧約聖書』「創世記」からの引用部分を検討し、それが再び俳句の魅力に囚われそうになっている修司の素朴な感想をシンボライズしたものである可能性を示した。この引用部分はこれまでほとんど触れられてはこなかった箇所であり、より多くの識者による考察を期待したい。
同書第一章「草の昼食」第一部「十五歳」というタイトルが第一句目「目つむりて」の景色をイメージさせる布石になっており、修司の巧みな計算がうかがわれる。
全九九〇句中六句ある、鷹の句を検討した。その結果、「五月の鷹」を亡き父の象徴とすることは充分に考えられることであり、また『花粉航海』収録の他の鷹の句二句から「目つむりて」の句においても、具体物としての、生きている鷹は不在である可能性を挙げた。同書においては父と鷹に「不在」という共通項がある。それらを踏まえてこの句の解釈を試みた。
「誤読」とまで言われた「目を瞑っているのは鷹」という解釈の可能性を「亡き父の象徴である鷹は、すでに死んでいる状態」という点から示唆した。
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最後にこの句に戻りたい。
明日もあれ拾いて光る鷹の羽根
鷹の羽根に明日への希望を見た。この光のなかに、亡き父の再生・復活への祈りを感じずにはいられない。
作品上で何度も母を殺すことで母恋いを表現した修司の父恋いについてはこれまで多くの方々が触れてはいるものの、その詳細な分析についてはいまだなされていなかった。その父恋いのなかに「父の再生・復活への祈り」が含まれていることを、俳句の方面から見出すことができたのではないかと思う。安井浩司が記すように「寺山俳句は自身が自身を救済している」。
全990句の最後、昭和五十六(一九八一)年二月「河」初出の句を挙げたい。
父ありき書物のなかに春を閉ぢ
この修司最晩年に見られる父恋いの思い。そして俳句への再びの意欲。この重なるものは何か。まさか俳句同人誌「雷帝」の雷帝とは父のことではあるまい。ただ俳句回帰願望と同時期に父への回帰願望があったことは事実と考えてもよいのではないだろうか。
『誰が故郷を想はざる』において「父親は克服すべき日本の『近代』の暗い象徴にすぎなかった」という小川太郎の意見は、少なくとも『わが金枝篇』や『花粉航海』には通用しない。
真相を尋ねようにも、修司は『花粉航海』のなかを光よりも速い言葉とともに駆け抜け、巻尾。
月蝕待つみずから遺失物となり
いなくなってしまった。
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参考文献
寺山修司『誰か故郷を想はざる―自叙伝らしくなく』 一九七三年 角川書店(文庫)
寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』 一九七五年 角川書店(文庫)
寺山修司『さかさま博物誌 青蛾館』 一九八〇年 角川書店(文庫)
寺山修司『寺山修司全詩歌句』 一九八六年 思潮社
寺山修司『黄金時代』 一九九三年 河出書房新社(文庫)
寺山修司『海に霧―寺山修司短歌俳句集』 一九九三年 集英社(文庫)
寺山修司『寺山修司俳句全集・増補改訂版』 一九九九年 あんず堂
寺山修司『花粉航海』 二〇〇〇年 角川春樹事務所(文庫)
寺山修司『われに五月を』 二〇〇〇年 角川春樹事務所(文庫)
寺山修司『寺山修司の俳句入門』 二〇〇六年 光文社(文庫)
『寺山修司全仕事展 テラヤマワールド』 一九八六年 新書館
『新文芸読本 寺山修司』 一九九三年 河出書房新社
『新潮日本文学アルバム五十六 寺山修司』 一九九三年 新潮社
『寺山修司ワンダーランド』(新装版) 一九九三年 沖積舎
『没後二〇年 寺山修司の青春時代展』 二〇〇三年 世田谷文学館
『KAWADE夢ムック文藝別冊 [総特集]寺山修司』 二〇〇三年 河出書房新社
「現代詩手帖 一九八三年十一月臨時増刊 寺山修司」 一九八三年十一月 思潮社
「太陽」第二十九巻第九号 一九九一年九月 平凡社
「雷帝」創刊終刊号 一九九三年十二月 深夜叢書社
「ユリイカ臨時増刊」第二十五号十三号 青土社
「江古田文学」第十三巻第二号 一九九四年三月 江古田文学会
「現代詩手帖 四月臨時増刊 寺山修司[一九八三~一九九三]」 二〇〇三年四月 思潮社
「寺山修司研究」創刊号 二〇〇七年五月 文化書房博文社
三浦雅士『寺山修司―鏡のなかの言葉』 一九八七年 新書館
萩原朔美『思い出のなかの寺山修司』 一九九二年 筑摩書房
齋藤愼爾・坪内稔典・夏石番矢・復本一郎編『現代俳句ハンドブック』 一九九五年 雄山閣出版
小川太郎『寺山修司 その知られざる青春―歌の源流をさぐって』 一九九七年 三一書房
俳筋力の会編『無敵の俳句生活』 二〇〇二年 ナナ・コーポレート・コミュニケーション
シュミット村木眞寿美『五月の寺山修司』 二〇〇三年 河出書房新社
仙田洋子『セレクション俳人 九 仙田洋子集』 二〇〇四年 邑書林
藤吉秀彦『寺山修司』 二〇〇四年 砂子屋書房
吉原文音『寺山修司の俳句 マリン・ブルーの青春』 二〇〇五年 北溟社
高取英『寺山修司 過激なる疾走』 二〇〇六年 平凡社(新書)
北川登園『職業、寺山修司。』 二〇〇七年 STUDIO CELLO
髙柳克弘『凛然たる青春―若き俳人たちの肖像』 二〇〇七年 富士見書房
酒井弘司『寺山修司の青春俳句』 二〇〇七年 津軽書房
塚本邦雄『百句燦燦 現代俳諧頌』 二〇〇八年 講談社(文芸文庫)
坂口昌弘『ライバル俳句史 俳句の精神史』(第二版) 二〇一〇年 文學の森
萩原朔美『劇的な人生こそ真実 私が逢った昭和の異才たち』 二〇一〇年 新潮社
松井牧歌『寺山修司の牧羊神時代 青春俳句の日々』 二〇一一年 朝日新聞出版
葉名尻竜一『コレクション日本歌人選四十 寺山修司』 二〇一二年 笠間書院
高野ムツオ『NHK俳句 大人のための俳句鑑賞読本 時代を生きた名句』 二〇一二年 NHK出版
安井浩司「寺山修司」(「俳句研究」第四十七巻第八号 一九八〇年八月)
飯田龍太「龍之介と寺山修司と」(「俳句研究」第五十四巻第一号 一九八七年一月)
夏石番矢「人生を忘却するために―『花粉航海』とは何か」
(「國文學 解釈と教材の研究」第三十九巻第三号 一九九四年二月)
宗田安正「寺山修司『花粉航海』」(「俳壇」第十九巻第十二号 二〇〇二年十一月)
五十嵐秀彦「寺山修司俳句論―私の墓は、私のことば」(「雪華」二〇〇三年十二月号)
五十嵐秀彦「言語の風狂 その後の寺山修司俳句論」(「雪華」二〇〇五年十一月・十二月合併号)
黒瀬珂瀾「寺山修司、一〇代の花」(「ユリイカ」第四三巻第十一号 二〇一一年十月)
遠藤若狭男「さびしい男の影―寺山修司へ」(「俳句界」第一九〇号 二〇一二年五月)
冨田拓也「百句晶々」(「スピカ」ホームページ内 http://spica819.main.jp/100syosyo)
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2012-10-07
加本さん、お疲れ様でした 澤田和弥
加本さん、お疲れ様でした
澤田和弥
拙稿「加本さんをご紹介します」にて加本泰男さんというとても魅力的な俳人をご紹介いたしました。続編である本稿では、加本さんが描いた障害者、闘病について、触れさせていただきたく思います。
加本さんは連作を何篇も遺されました。そのなかに「ぼくらの叫び」と題された20句があります。まずはそちらからご案内させていただきます。
すみませんすみません車椅子の夏
こちら車椅子夏の階段超せぬなり
麻痺したる口の涎や夏木立
風薫る知的障害者の横顔よ
風薫る年金だけで暮らしおり
月涼し動かぬ足を持ち上げて
紫陽花や家族の中の障害者
打水に松葉杖濡れてしまいけり
脊椎の壊れておりて夏の風
恋をして苦しい詩を書きソーダ水
障害のからだ見られしプールかな
動かない足が浮き来るプールかな
家の中はしゃいでおれば夕立かな
孑孑や障害者たちの交流会
孑孑に強い日差しの当たるなり
車椅子夏シャツの腕太かりし
草いきれ転がっている松葉杖
海の家静かに眠る障害者
浮人形死にたくないと浮いて来る
青年や脳性麻痺の夏である
一時期ですが、私も車椅子を利用したことがあります。どうしても人の多いところに出なければならないとき、その気持ちはまさに「すみませんすみません」のエンドレスリピートでした。「こちら車椅子」に冒険家のようなユーモアがありますが、超えられないのはちょっとした「階段」。車椅子で一人では越えられません。それがたとえわずかな段差でも。街は段差ばかりです。車椅子利用者を拒みます。「動かぬ足を持ち上げ」るのはたとえ月の涼しい夜であっても、苦い時間です。毎日、加本さんのお世話をなさったお姉さんのお宅には知的障害の方がお一人いらっしゃると、加本賢一郎氏のあとがきにあります。ここに登場する「知的障害者」はもしかしたらその方かもしれません。または同じ「障害者」として、知り合った方かもしれません。「恋」の句があります。これは連作「夏の恋 二十句」にある
ホルン吹く少女もなぜかソーダ水
と何か関わりがあるのやもしれません。しかしそこに登場するのは「苦しい詩」です。「孑孑」からは自嘲を感じます。苦しみや悲嘆、自嘲のなかでも思うことは最終的には「死にたくない」ということです。私はこの連作に初めて出逢ったとき、強い衝撃を受けました。なかにはこれを「露悪的」ととる方もいらっしゃるかもしれません。ただ、私は「車椅子」という共感を覚える部分もあったせいか、この世界と対峙することにいささか怯えもしました。これは俳句のなかの虚構ではなく、まぎれもない加本さんの「現実」だと思います。
加本さんの第一句集にして遺句集となった『車椅子』(平成22年、文學の森発行)の一番最初の句は
行く春を微熱の夜に見送った
という体調不良の際のものです。しかし句からは或る種のロマンティズムやドラマ性が感じられます。加本さんは「詩人」であります。
鈍行の我が人生や紅葉舞う
病気の進行による歩行困難により、退職を余儀なくされたときの句です。
膝裏を直撃したる寒波かな
障害のある左下肢の膝裏に、寒波は激痛を与えたのでしょうか。
癒え切らぬ傷とガーゼと春の月
「傷とガーゼと春の月」の並列が印象的です。そしてそれらはどれも「癒え切ら」ない。
亀鳴くや失意の床の夕まぐれ
春の夕べ、この「失意」は亀が鳴くようなものなのでしょうか。奥歯を噛み締めるような苦しさを感じます。
ゆるゆると流れし死蛾を浚いけり
死に対して冷静で客観的な描写です。「ゆるゆると」が何か痛々しい。
失いし職思う日よ枇杷の花
職は辞めたものではありません。失ったものです。
両足に電気流され二月尽
両足に流された電気は、回復という春への兆しでしょうか。それとも回復の見られない、まだまだ寒い「失意」でしょうか。
蚊の声す足が疲れておりにけり
加本さんにとって疲れた「足」は「蚊の声」のようなものだったのでしょうか。
ががんぼやだんだん貧しくなる暮らし
「ががんぼ」がユーモラスでもあり、痛々しくもあります。
晩秋の犬の貧しき食事かな
「貧しき食事」しか与えられぬくやしさ。
冴ゆる灯や棒の如きの足痛む
「棒の如き」という比喩に絶句します。
桜湯やどうにも淋しい夜がある
桜湯というめでたいものを口にしても、どうしても淋しくてならない一人の夜。
春の土ゆく自転車のよたよたす
オノマトペがユーモラスでありますが、自転車を漕ぐこともままならぬようになりました。
蟻穴を出て友たちを待っている
加本さんも待っています。
五月闇だれも見ていぬテレビかな
五月闇のなか、テレビだけが淋しく光り、声を漏らしています。
朝電話あってそれから無い盛夏
朝、一本の電話。それからは何もない。うだるような暑さのなか。
行く夏の棒切れのような男かな
ご自身のことを言っているのでしょうか。
電動の車椅子にも秋日和
やすらぎを感じます。
空を見て死んでおりけり冬の蠅
死に対する冷静さと同時に、冬の蠅への悲しみ。「空を見て」をわずかばかりの希望ととるか、死の空虚ととるか。
冷たさや頭を下げることばかり
「ぼくらの叫び」の「すみませんすみません」を思い出します。
墓洗う兄のうしろの車椅子
墓を洗うのは兄です。自分はその後ろで何もできません。
秋晴や猫はどうしているのだろう
入院中でしょうか。猫たちのことが気になります。
車椅子のバッテリー黒く彼岸かな
加本さんにとって、車椅子は体の一部のようなものかもしれません。
病室を出られない日々枇杷の花
失職を思っていた日も枇杷が咲いていました。
雪が降る電動車椅子は赤
赤と白の対比、破調が印象にのこります。
車椅子冬には冬の坂がある
寒い寒い冬の日、車椅子にとっては坂道もまた「厄介な奴」です。
わいわいと枇杷もいでいる手の沢山
「枇杷の花」の頃はさびしい思いでしたが、実がなる頃には周囲もにぎやかになってきました。
夏雨と役に立たない男かな
自嘲、といったところでしょうか。
秋の朝隣のベッドに誰もいない
ふとした朝の目覚めに、強烈に襲ってきた不安。
加本さんはとても明るく、「おもろい」方であることは拙稿「加本さんをご紹介します」に書かせていただきました。彼には他にも明るく楽しい句がたくさんあります。しかし病気と障害と障害者ということに加本さんは生涯戦い、そして疲れ、自らを嘲笑うこともありました。この両面をもってして、加本さんの句はきらきらと輝いています。私は加本さんが大好きです。
加本さんについてはご自身の行動範囲内の地名や生活が滲み出た、それこそ句集を片手に大阪を歩きたくなるような句があります。また、現代仮名遣いと切れ字と口語と古語を巧みに織り紡いだ「カモト語」で句作をされました。それは押韻をとても意識なさっていた形跡からもわかるように、「音」というものに対して、加本さんはとてもこだわっています。これらについて私はまだまだ勉強不足であり、加本さんの魅力をお伝えするには充分ではありません。またの機会とさせていただけましたら幸いに存じます。
最後に加本さんの一句を。
大寒のパソコン画面のフリーズかな
加本さんはパソコンをいつも使われていたそうです。平成17年の頃だとまだまだ今よりもフリーズすることが多かったでしょう。「いやいや。困ったわ」と独言する大寒の部屋。加本さんの最期の一句です。加本さん、お疲れ様でした。
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2012-09-02
加本さんをご紹介します 澤田和弥
加本さんをご紹介します
澤田和弥
加本さんを初めて知ったのは『月刊俳句界』平成21年5月号の「夭折の俳人特集」でした。私が寺山修司の項を担当させていただいたので、嬉しくてまずはその特集から読みました。そこに加本さんはいらっしゃいました。
加本泰男さんは昭和30年6月11日に大阪で生まれ、平成17年2月15日、食道静脈瘤破裂のため、お亡くなりになりました。享年49歳。平成2年に新聞等へ投句をされはじめたとのことですから、約15年の俳句人生でした。加本さんは先天性脊椎披裂という重い障害をお持ちでした。幼少期は病気もまだ軽く、外で元気に遊んでいたそうです。左下肢に機能障害がありましたが、高校ではロックバンドを結成、大学では英文学を専攻し、小説も書かれていたとのことです。その後、就職しますが、平成3年、病気が進行し、歩行困難のため、退職を余儀なくされました。
実家での一人暮らしのなかで、加本さんはお母さんを、兄弟を、小さな命たちを、俳句を愛し続けました。彼は愛する人であると同時に愛される人でもありました。それは第一句集にして遺句集となった『車椅子』(平成22年、文學の森発行)に収められた師・有馬朗人氏の序文、兄・加本賢一郎氏のあとがきから胸痛くなるほどに伝わってきます。加本さんの生涯については福永法弘氏「カモトの小コスモス」に詳しいので、私は『車椅子』を読んでの感想を拙いながら、書かせていただきたく思います。
加本さんとはお会いしたことも連絡をとったことも一度もありません。しかしながら、加本さんの句集に溢れるやさしさや明るさ、ときにはせつなさがじんじんと胸に伝わり、思わず加本「さん」とお呼びしたくなりました。この無礼をお許しください。
加本賢一郎氏が記されているように、句集中もっとも多い句は猫の句です。晩年、猫を2匹飼われて、とても可愛がっていらっしゃったそうです。愛する猫は、まるで同士や親友のように描かれています。
ひらひらと猫のひたいに雪のふる
あの狭い猫の額に雪が舞い落ちる景色をやさしい眼差しで描いています。
猫が来て寒い夜だと言いにけり
なんだか小説でキーワードになるような、印象的な描かれ方です。もしくは近所のおっちゃんのような。
落ちかけた猫ぶらさがる枯木かな
「あっ、あぶない!」と思いつつ、枯木にぶらさがるその姿はなんともキュートです。
冬の月恥ずかしがり屋の猫がいる
寒月に照らされて。寒いでしょ。こっちおいでよ。
炎昼や車の下の猫二匹
おっと。こんなところに隠れてたの。そっか。この暑さじゃねえ。
春浅し高い木に猫登りしまま
なんだかとっても、心配です。
さよならを梅雨の猫から言われし夜
こんな梅雨の夜を。どうして「さよなら」を告げたのでしょうか。物語がはじまります。
春の午後この病院は猫だらけ
気持ちのよい春のおだやかな午後。猫好きには楽園です。でも、そこは病院。
猫走る初めての雪知らせたく
誰に知らせるのでしょうか。そんなに走って。メルヘンチックで心やすらぐ一句です。
猫達と台風の目の中にいる
ものすごい風雨が止まり、青空に。しかし台風の目を過ぎれば、また暴風雨が。ひとときの安心感を共有する猫達はペットではなく、友達であり、同士です。
猫以外にも動物たちが登場します。そのなかでも猫達に向ける加本さんの視線は愛溢れる、やさしくおだやかなものです。
猫の次に登場するのはお母さんです。お母さんは末っ子の加本さんをとても可愛がり、加本さんもお母さんをとても頼りにしていました。しかし或る日、お母さんは脳梗塞で倒れます。一命は取り留めたものの、軽い認知症を患い、徘徊するようになりました。加本さん、ご兄弟が懸命にケアをしました。そして疲れました。心底疲れました。その流れが句にはっきりと表現されています。
偉大なる母が寝ておる秋の夜
秋の夜長、お母さんがすやすや眠っています。子にとって母は常に偉大です。
ころころと着ぶくれ母の戯るる
なんとかわいいお母さんでしょう。
夏の月見あげる小さな母なりき
どうしてでしょう。年を重ねると「母とはこんなにも小さな人であったか」と驚きます。啄木の歌よりも素直で素朴なやさしさがあります。
風呂あがりぺたんと座り母梅酒
「ぺたん」がかわいいです。「梅酒」も効いています。
立冬や母の見舞いに疲れている
冬の風を頬に感じながら。中七下五が思わずぽろりとこぼれてしまった言葉のようです。
冬の日や猫を蛇だと言いし母
事実の描写なのですが、「冬の日」によって、何かあたたかなものを感じます。
節分やとぼとぼ母に逢いにゆく
節分や母の帰らぬ家の中
立冬の「疲れている」から、もう春になります。「とぼとぼ」に疲労感があります。しかし「逢い」にゆくのです。お母さんが家を離れ、加本さんは一人暮らしになりました。
柿紅葉の下ぼろぼろの母がいる
真っ赤な柿紅葉の下に、ぼろぼろの母がいます。母です。お母さんです。
春風や母がやさしくなってゆく
最高の、最愛の時間です。
母のいるホームの方向おぼろ月
美しいおぼろ月を、同じ方向にある老人ホームのお母さんも眺めているかもしれません。
ご家族を、猫達を多く描いた加本さん。加本さんの句はオノマトペが印象的です。そして、なんだかとっても楽しいです。
ぷかぷかとホルンを吹けば五月来る
絵本のワンシーンのようです。「ぷかぷか」に思わず微笑みます。
冬至南瓜を象はかぷりと食らいおり
「食らい」なのに「かぷり」。かわいい。
クーラーがよたよたと動き出している
あります。あります。そういうクーラー。まさに「よたよた」。
くるくると猫が廻っておりし冬
「くるくる」に、生身の猫であると同時に、ブリキのおもちゃのようなかわいらしさがあります。
春装の電車を下りてひらひらす
「ひらひら」はもしかしたら、足元が覚束なかったのかもしれませんが、なんだか蝶のような軽やかさと飄々としたイメージを喚起します。
「大阪人」という一括りにしてはならないとは思うのですが、加本さんは「おもろい」人です。
厄介な奴に出逢えり冬という
確かに「厄介な奴」です。でもそんな冬と「出逢」うのまた季節の移ろいの楽しさです。
この顔に見覚えのある蠅なりけり
うむむ。おぬし、どこぞで会うたことがあるな。
とは言えどやはり兎は月におり
なんだかんだ言っても、やっぱりいるんですかね。いるんですよね。やっぱり。
冬ぬくし浪速の作家作曲家
藤本義一、キダタロー。確かにあの二人は「冬ぬくし」。
辞書繰れば文字を忘れて紙魚を追う
この視線は紙魚をつぶすためのものではありません。あくまでも好奇心です。文字に対する以上の。
要らぬ本置いてゆかれし暮れの春
要らないって。ただでさえ本、多いのに。全くもぉ~。
初雪がなんだかすごくなりし夜
初雪の風情とか言ってたら、おいおいおい。なんだかすごくなってきたよ~。
大阪はジャンジャン降りや菜種梅雨
ジャンジャン横丁が頭をよぎります。
美しいヘルパーさんや終戦日
ヘルパーさん、べっぴんさんです。ラッキーです。終戦日です。
またも象冬至南瓜をぱかと割り
先ほどの冬至南瓜の象です。こんどは南瓜を「ぱか」と割りました。器用なものです。
朝時雨ヘルパーさんがまだ来ない
朝のさっとした雨の中。ヘルパーさんはまだです。不安です。そしてべっぴんです。
加本さんはカタカナの使い方が印象的です。
エキスパンダー兄のかがやく夏は来ぬ
エキスパンダー、一気にびよ~んです。お兄さんの汗がきらきら輝いています。夏の到来です。
虹の出て街にサーカス来しごとし
虹の出現は、無味乾燥な都会にサーカスのような華やぎを与えました。
ショールして伯母さんいつも鯖を読み
「ショール」「鯖を読み」に、典型的な大阪のおばちゃんをイメージしました。
酒場にて牡蠣のフライを食いにけり
揚げたてのじゅわじゅわと鳴っている牡蠣フライです。酒場の親しみやすさ、人情も感じます。句の中央に置かれた「フライ」がリズムを生んでいます。
八月やティンパニー運ぶ大仕事
確かに汗だくだくになりそうです。でも「ティンパニー」という言葉の軽やかさ、そして「大仕事」というディフォルメが句にユーモアを与えています。
春の血の流れてゆきしガーゼかな
闘病を詠んだものでしょう。最後に一枚の「ガーゼ」に集約させたことで印象が鮮やかです。
加本さんは連作を何点か発表なさってます。句集に収録されているのは
○「病院 二十五句」
○「失踪した男について 二十句」
○「夏の恋 二十句」
○「ぼくらの叫び 二十句」
○「夏の駐車場 二十句」
○「守宮 二十五句」
○「入院 十二句」
○「入院 十句」
どれも素晴らしいのですが、そのなかでも私が一番好きなのは「失踪した男について」です。20句全てをご紹介したく思います。
昼間から熱燗を飲んでいたと云う
枯蓮の動物園におりしかな
冬ぬくく漫才作家の通りけり
宵戎煙草一箱拾いけり
焚火して通天閣を燃してしまえ
新年会男は聞いておりしかな
レズだけのストリップなりし冬の朝
綾取をしている日暮れ袋小路
猫が来て寒い夜だと言いにけり
正月のサーカス映画を見ておりし
裏白を千切っては捨て千切っては捨て
ラグビーを見入るでもない男かな
冬の陽を輪ゴムで狙っておりにけり
枇杷の花少し汚れておりにけり
乾鮭をとても大事に抱えていた
通天閣どうやら今日は鳥曇
たくさんのちりめんじゃこが落ちており
たんぽぽやジャンジャン横丁をゆきゆけば
晩春や坂を男がおりてゆく
わらび餅売りをなぐっていた男
私の脳内に描かれるのは「テツ」です。テッちゃんです。「じゃりん子チエ」の主人公チエちゃんのおとんである、あのテツです。幼稚園の頃、病弱であった私に父が買ってきてくれたのは古本屋で購入した「じゃりん子チエ」でした。何度も何度も読みました。小学校の頃、土曜の12時からはCBCテレビで放送されていた吉本新喜劇を必ず観ました。学校から大急ぎで帰ってきて、大笑いしておりました。「ああ、明日からまた学校」というブルーな日曜の夜は「花王名人劇場」が笑いのかなたへ連れて行ってくれました。僕の大阪のイメージはこれらによって形成されています。その頭の中の「大阪」をテツが失踪しています。昼から熱燗飲んでるのはお好み焼き屋のおっちゃんでしょうか。猫は小鉄でしょうか。サーカス映画が目に浮かびます。関西といえばラグビーです。わらび餅売りをなぐっている辺りがまさにテツです。おそらくわらび餅売りは何も悪くありません。
加本さんの連作に「ぼくらの叫び」があります。そこに描かれているのは「障害者」です。そして加本さんの句には病気や障害と戦う姿、それに疲れてしまう姿が描かれています。ただしそれについては次の機会とさせてください。紹介分は長くなれば長くなるほど、誰も読んではくれません。結婚式のスピーチ、校長先生の挨拶などと同じです。もうすでに長く長く書いてしまいました。それくらいに加本さんは魅力的な方です。だから、私は皆さんに、加本さんをご紹介します。
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2012-07-29
「ミヤコ ホテル」を読む 澤田和弥
「ミヤコ ホテル」を読む
澤田和弥
日野草城の連作「ミヤコ ホテル」10句は昭和9(1934)年「俳句研究」4月号に発表され、昭和10年の第三句集『昨日の花』に収録された。「完全なフィクション」であり、「エロチシズム濃厚なテーマ」を詠んだこの作品は高浜虚子の逆鱗に触れ、昭和11年草城36歳のときに「ホトトギス」同人を除名される。草城は明治34(1901)年、東京生まれ。大正13年(1924)京都帝国大学法学部卒業。保険会社の支局長まで勤め、昭和29(1954)年退職。晩年は病臥のなか、句作に専念。戦前は「旗艦」を、戦後は「青玄」を創刊主宰。昭和31(1956)年、56歳にて没。
けふよりの妻と泊(とま)るや宵の春
妻は処女。すくなくとも夫はそう信じている。まだ、手は出していない。宵ですもの。
妻主導型。
夫は女を知らなかった。すなわち童貞。お互いに初体験完了。しかし試合は続く。
薔薇匂ふはじめての夜のしらみつつ
何戦かののち、ついに朝が。
妻の額に春の曙はやかりき
日が昇る。妻の額にはうっすらと光り輝く汗が。
湯あがりの素顔(すがほ)したしも春の昼
以上、読んだ。それでは身も蓋もないので、少しばかり余計なことを申し上げたい。
まず「薔薇」について。俳句をなさっている方は違和感がないだろうか。「宵の春」「春の宵」「春の灯」「春の闇」「薔薇」「春の曙」「うららか」「春の昼」「永き日」「花ぐもり」。試みに電子辞書に収録されている「ホトトギス俳句季題便覧」で調べてみると、「春の闇」「春の昼」はヒットしなかったものの、「宵の春」「春の宵」「春の灯」「春の曙」「うららか」「春の昼」「永き日」「花ぐもり」は「春四月」のものである。対して「薔薇」は「夏五月」のものである。一つだけ季節が違う。初体験の甘い雰囲気に薔薇は、いかにもイメージしやすい花ではあるものの、10句中7句を「春四月」としておきながら、ここで「夏五月」の季題を連作中に使用することに私はどうしても違和感を覚える。復本一郎氏は「完全なフィクション」と『現代俳句ハンドブック』に記しているが、この薔薇に部分的なノンフィクションを感じてしまうのである。草城は自ら述べるように確かに新婚旅行には行っていないだろう。つまりミヤコホテルで新婚初夜を迎えてはいない。しかしこの薔薇の一景は草城と妻の新婚初夜に実際に部屋内にあったのではないだろうか。その事実が「ミヤコ ホテル」というフィクションの中に組み込まれた。それゆえ「春四月」の設定のなかで、ぽかりと浮くような「薔薇」が登場したのではなかろうか。あくまでも想像の域を出ない。しかしそんなことを考えてしまうほど、「薔薇」が浮いているのである。
次に童貞について。「をみなとはかかるものかも」という感想は自分も初体験、つまり童貞であったことを物語る。少なくとも明治以降、「結婚には処女を」という制約とでも呼ぶべき慣習があった。それが2句目の「春の宵なほをとめなる妻と居り」に反映されている。個人的な感想だが、この句は「妻は処女なの、まだ処女なの」という説明がましいところがあって、なんだか鼻につく。特に「なほ」に対しては「で?」と言いたくなる。やっかみではない。妻が処女ということを2句目に述べて、なぜ4句目で「自分もはじめて」ということをアピールするのか。たとえば東北などの一部の農村・漁村部では「よばい」という慣習があった。夜、女性宅に忍び込んで、ことに及ぶというものである。かなり自由な恋愛活動が行われていた。私もしたい。いや、なんでもない。よばいの慣習があったところでは、処女は妻帯者など性経験のある男性によって野外で破瓜が行われた。対して童貞は下足番として「先輩」のよばいに付き従い、土間より先に上がらせてもらうこともなく、その方法を覚えさせられた。また当時は、家族全員が同じ部屋に寝ていたことから、両親の夜の行動を見つつ聞きつつして、覚えたという場合もあった。そのような自由な恋愛空間にありながら、結婚まで処女を守り通したという例もあったようである。この関係において処女は重要視されるが、童貞は竿の先にもかけられない。しかし、童貞が美徳であった時代があるのだ。ここでは、渋谷知美氏の研究を参照させていただきたい。渋谷氏は日本における「童貞」の言説について、詳細な分析を行っている。そのなかにおいて、1920年代の大学生、予科生やそのイデオローグたる知識人の多くが「童貞は新妻に捧げる贈り物」という童貞=美徳論の立場をとっていたという。この研究の基礎となる調査は同志社大学予科、京都府立医科大学予科、京都帝国大学夏期講座、京都帝国大学社会科学研究所、東京帝国大学にて1922~1926年に行われたものである。1924年京都帝国大学を卒業している草城はまさにこの範疇にある。ゆえに草城の認識としては「童貞は新妻に捧げて当然」であっただろう。それがこの4句目「をみなとは」に反映している。ここで注意が必要なのはあくまでも「1920年代の大学生、予科生やそのイデオローグたる知識人の多く」のことであり、社会一般がそうであった訳ではない。たとえばやや時代は下るが、「ミヤコ ホテル」発表の前年、昭和8年1月20日に、東京・四谷の番頭が結婚式場から行方をくらました。理由は「童貞だから恥ずかしい」とのこと。数日後、実兄の説得により無事に式を挙げるという事件があった。また、同年2月28日には熱海のホテルにて新婚初夜を迎えた23歳の新妻が、性的なことを知らずに31歳の夫の行為にショックを受け、失踪。3月4日無事解決ということもあった。こちらは当時の「新妻は処女」という認識を象徴するかのような事件である。以上のように、「1920年代の大学生、予科生やそのイデオローグたる知識人の多く」に属していた草城には「童貞=美徳」「童貞は新妻に捧げるもの」という認識があり、それが自らの童貞を主張する「をとめとは」の句に反映したものと考えられる。これは、草城がインテリ層と呼べる上記の範疇に入っていなければ、「をみなとは」の句は生まれなかったとも言えるかもしれない。
このコードで読んだ場合、10句目の「うしなひしもの」は妻の処女というよりも、自身の童貞のことではなかろうか。そういった感想も持った。
ここでは「ミヤコ・ホテル」論争に言及しない。あくまでも「ミヤコ ホテル」という作品を鑑賞して、思ったことを記した。さらなる考察や、草城におけるエロティシズムの意義については別稿とさせていただきたい。
余談ではあるが、都ホテルの隣のホテルに女性と泊まったことがある。何もなかった。都ホテルに泊まっていれば、何かあったかもしれない。惜しいことをした。
【参考文献】
生出泰一『実話 みちのく よばい物語』(改訂版) 昭和57年 河童仙
齋藤愼爾・坪内稔典・夏石番矢・復本一郎編『現代俳句ハンドブック』 平成7年 雄山閣出版
日野草城『日野草城句集』 平成13年 角川書店
渋谷知美『日本の童貞』 平成15年 文藝春秋
下川耿史編『性風俗史年表 大正・昭和[戦前]編』 平成21年 河出書房新社
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